title.gifBarbaroi!
back.gif048 トゥティアからつくる銀の製法

ギリシア語錬金術文献集成

TLG4319

ゾーシモス

049
ゾーシモスの〔書〕・「器具と炉」法について・真正な覚え書き・Ω文字について






ゾーシモスの〔書〕 「器具と炉」法について 真正な覚え書き Ω文字について
(Zwsivmou peri; ojrgavnwn kai; kamivnwn gnhvsia uJpomnhvmata peri;tou: w stoiceivou)

(e cod. Venet. Marc. 299, fol. 189r)



2.228."4t"
同じゾーシモスの〔書〕

2.228."t5"
器具と炉について 真正な覚え書き

2.228."6t"
Ω文字について
〔001参照。末尾は057参照〕。

2.228.7

 字母Ωは、円い形をした2つの部分からなり、有体的ことば(e[nswmoV fravsiV)ではクロノス〔土星天〕である第7帯〔層〕に属します。ところが、非体的な〔ことば〕では翻訳不可能な別の或るものです。隠された人ニコテオスのみが〔これを〕知っています。つまり、有体的なことばでは、彼の謂うには、いわゆるオーケアノス(=WkeanovV)があらゆる神々の生成〔起源〕と種子であることは、彼の謂うには、有体的ことばの独り支配論〔唯物論〕であるという。また、いわゆる大いなる驚嘆すべき字母Ωは、神的な水の器具や、技術的[で単純]なあらゆる炉、端的にいって、万象にかかわるロゴスを取り巻いています。

 ゾーシモスはテオセイベイアのために、常に幸あれかしと願っています。時宜を得た染色法(kairikai; katabafaiv)は、おお、女性〔にょしょう〕よ、炉法(kavminoi)に関する書を無駄骨折とみなすものです。なぜなら、多くの人たちが、固有のダイモーンから、時宜を得た〔染色法〕で成功するという好意を得ると、〔染色法とは異なる〕炉と器具に関する書まで、真実にあらずとして、馬鹿にするものなのです。そして、いかなる論証的ロゴスも、真理ありと彼らを説得できないものなのです。〔ただし〕彼らの固有のダイモーンが、みずから〔彼らを〕迎え入れながら、云うことにおいては悪行するけれども、時宜に応じて、彼らの運命(eiJmarmevnh)によって心変わりさせられときは、別ですが。術知も、幸福(eujdaimoniva)〔原義は「善きダイモーン」〕も、そのすべてが妨害されて、同じ言辞が術知によって〔成功・不成功〕それぞれに向かうときは、彼らの運命(eiJmarmevnh)の目に見える証明を基に、かろうじて、あらかじめ思案した〔方法〕にも、何らかの〔価値〕があると同意するものなのです。しかしながら、このような人たちは、神のもとでも哲学者たちのもとでも、受け容れられません。なぜなら、他の時には、星辰が、暫時、美しく形態をとり、ダイモーン的なものも彼らに身体的に好意を示し、他の時には、先ほどの目に見えるあらゆる事象とは別の同意へとこっそり変化し、いわゆる〔染色〕法へも正反対の〔方法〕へも、いついかなる時も運命(eiJmarmevnh)に聴従し、身体的な〔方法〕とは別のものを何も表象しないで、運命(eiJmarmevnh)を〔表象する〕人たちですから。以下のような人間どもを、ヘルメースは『諸々の自然について』の中で、理性なきものら(a[noeV)と呼びならわしていました — 運命の付き人(pomphv)にすぎない者たち、非体の何ひとつも表象できず、自分たちを導くそれ〔運命〕そのものを義しく〔表象することもできず〕、それ〔運命〕の身体的教練(ta; swmatika; paideuthvria)をそしる者たち、そして、それ〔運命〕の〔もたらす〕幸福以外に他のものを表象する者たちを。

 ただし、ヘルメースとゾーロアストレースは、愛知者たちの種族は運命(eiJmarmevnh)を超越していると云いました、その所以は、諸々の快楽を支配しているのですから、それ〔運命〕の〔もたらす〕幸福を喜びもせず、いかなるときも内奧の生(aju&liva)においてすごしますから、それ〔運命〕の〔もたらす〕諸悪に圧倒されることもなく、諸悪の限界を注視するからには、それ〔運命〕からの美しき賜物を歓迎することもないからです……それゆえ、ヘーシオドスも、プロメーテウスをエピメーテウスに命令するものとして導入するのです。人間どもは何を何よりも大いなる幸福とみなすのか。姿よき女と、と彼は謂います、多くの富、と。そして、オリュムポスにましますゼウスからの贈り物を受け取ってはならぬ、送り返せと謂い、ゼウスの〔贈り物〕、それはつまり運命(eiJmarmevnh)の贈り物を送り返すよう、哲学によって自分の弟に教えるのです。

 他方、ゾーロアストレースの方は、上方のあらゆることに対する洞察と、有体の言説というマゴスの教えを誇り、運命(eiJmarmevnh)のすべての悪 — その部分も全体も — は奪い去られると主張するのです。しかしながら、ヘルメースは『内奥の生(aju&liva)について』の中で、マゴスの教説をも非難してこう言います、 — 自己を覚知した霊的人間は、何かが美しいとみなされても、マゴスの教えによってこれを矯正してもならず、必然が強制されてもならず、自然と〔必然の〕決定どおりに、しかしただ自分自身と神を探求することによってのみ進み、神を覚知する者は、無名の三位を支配すべきである、そして、運命(eiJmarmevnh)が何を望もうと、その〔運命の〕泥、つまり体によってそれを制作する〔ようにさせるべきである〕と。じつにこういうふうに、彼が謂うには、理会し〔可考的世界での〕市民生活を送るなら、その者は、万象は敬虔な魂たちのために生まれた神の息子であることを観想するのですが、それは、運命(eiJmarmevnh)の領地からこれ〔運命〕を非体の方へと引き寄せるためなのです。見よ、彼〔神の息子〕が万有として、神として、天使として、受難的人間として生まれることを。すなわち、どんなことでも可能な者として、何でも望むものになり、あらゆる体を貫通して父に聴従するのです。おのおののものの理性(nou:V)を輝かせ、体的なものとして生まれる前にもかつていた幸福の領地へと帰昇する、彼に聴従しつつ、彼に渇望されつつ、あの光へと旅するのものとして。

 ケベースが描いたこの絵馬を視よ、そして三倍偉大なプラトーンも無量に偉大なヘルメースも〔言っていることですが〕、原人(oJ prw:toV a[nqrwpoV)は、聖なる第一の声によって、トーゥトス(QwvuqoV)、あらゆる諸有の翻訳者、あらゆる体的なものらの名付け人(ojnomatopoiovV)と翻訳されるのです。そして、カルダイオイ人、パルティア人、メーディア人、ヘブライオス人は彼〔原人〕のことをアダム(=Adam)と呼ぶのですが、これには、処女-地とか、血のような地とか、火〔色〕-地注7)とか、肉-地という解釈があります。このことは、プトレマイオス朝時代、ヘブライ語をすべてヘッラス語やアイギュプトス語に翻訳した人が、ヒエロソリュマ〔エルサレム〕の祭司長アセナース注8)をヘルメースとして派遣するよう依頼したとき、それぞれの神殿、とりわけサラピス神殿に奉納された図書の中に見出されます。

 とにかく、こういうふうにして、最初の人間はわたしたちのもとではトーゥト、あの人たちのもとではアダムと呼ばれます。天使の声で彼を呼んで、その字母αは上昇つまり大気を意味します。その字母δは下降、重さのせいで下方へと沈む<地を>意味します。<……>。字母μは南中、つまり、これら諸体の中央にある成熟させる火、中央である第四の層に属する〔日天〕を意味します。

 とにかく、こういうふうにして、肉のアダムは、目に見える外見ではトーゥトと呼ばれる。そしてその内なる人間は、霊的で、固有の名と個人名を有します。とはいえ、この固有の〔名〕はしばらくは知られません。なぜなら、見つけられなくなった人ニコテオスのみがこれを知っているからです。しかし、それの個人名の方は、ひと(FwvV)と呼ばれ、このゆえに人間どもはひととも言われると跡づけられています。

 ひと(FwvV)がパラダイスにおいて運命(eiJmarmevnh)に息をかけられたとき、自分たちからつくられたアダム、運命(eiJmarmevnh)から生まれたもの、四つの字母〔元素〕からなるものが潜りこむのは、悪意のない無駄なことだと自分を説得しました。しかし彼は、悪意がないから離反したのではありません。彼らは、自分が奴隷になったことを誇ったのです。

 外側の人間は縛め(desmovV)で、ヘーシオドスが云ったところでは、ゼウスがプロメーテウスを縛ったものだといいます。ついで、この縛めの後に、パンドーラという別の縛めを送りましたが、ヘブライ人はこれをエウアと呼びます。というのは、プロメーテウスとエピメーテウスとは、寓意的ロゴスでは一つの人間、つまり、魂と身体です。そして、プロメーテウスが時には魂の、時には理性(nou:V)の、時には肉の似像を有するのは、プロメーテウス、つまり、固有の<理性の〔声〕>に聞き従おうとしないエピメーテウスの不従順(parakohv)のゆえです。というのは、わたしたちの理性(nou:V)は謂うのです。神の息子は何でもでき、何でも知っている、欲することが、欲するとおりに、各人に現れるからである、と。

 アダムに付きものなのがイエースゥス・クリストス、彼らがひと(fwvV)と呼ばれて、かつて過ごしていたところに引き上げられた者です。彼はまったく無能な人間どものにも、受難を受けねばならぬ者、鞭打たれる者となって現れ、固有のひとたちを何の受難もないかのようにひそかに奪い去り、踏みにじられ放置される死を受けるのです。そして今に至るまで、いや、世界の終わりまでも、自分自身の〔仲間の〕ひとたちをこっそりとまた公然と奪い去り、彼らにこっそりと忠告し、彼らの理性(nou:V)を通して、彼らに苦しめられているアダム — 彼に殺され、盲目にされ、霊的で光る人間にあこがれる — との和解をもつよう説得するものなのです。自分たちのアダムを殺すということです。

 しかし、こう云ったことが起こるのは、反模倣者のダイモーン(oJ ajntivmimoV daivmwn)が登場するまでです — 彼らに慕われ、初めからのように彷徨うことを好み、魂においても身体においても醜いのに、自分は神の息子だと〔虚〕言する者です。だが、知慮深くなった人たちは、本当に神の息子であるものを掴んでいることから、固有のアダムを殺害することを彼に許し、世界ができる前にも自分たちがいた固有の領域<へと>自分たちの光る霊的なものらを救済するのです。ところが、反模倣者、熱心家(zhlwthvV)がそんなことを敢行する前に、先ず、自分の先駆者として、御伽話をしゃべる者、人間どもを運命(eiJmarmevnh)の近くに導く者をペルシアから派遣するのです。その者の名前は、二重母音が保持されれば、運命(eiJmarmevnh)の限界どおり、9つの字母からなります注9)。次いで、多かれ少なかれ7周回の後には、彼〔神の息子〕も自分の自然本性にしたがってやって来るでしょう。

 以上、光り輝く人間、神の息子本人の道案内者、土のアダム、反模倣者本人の道案内者、つまり、自分は神の息子だと惑わせる誹謗を言う者に関説しているのは、ヘブライオイ人と、ヘルメースの聖なる書物です。

 これに対し、ヘッラス人たちは、土のアダムのことをエピメーテウスと呼びます — 〔エピメーテウスは〕自分の理性(nou:V)、つまり、自分の弟に、ゼウスからの賜物を受け取らぬよう忠告されました。にもかかわらず、躓き、後悔し、幸福の領域を求める者であって、聞く耳〔聴聞〕を持つ者たちには、すべてを解釈し、すべてを忠告します。しかし、運命(eiJmarmevnh)に対する身体的な耳〔聴聞〕しかもたぬ者たちは、ほかのことは何ひとつ迎え入れたり同意したりしないのです。

 時宜を得た染色法(kairikai; katabafaiv)で成功した者たちはみな、この術知よりほかのものは何も言わず、炉法(kavminoi)に関する大いなる書を嘲弄し、詩人〔ホメーロス〕が、「しかるに神々は人間どもに、いまだかつて〔すべてを〕同時には与えたまわず云々」〔Od. VIII_167〕と言っていることにも何ら心にとめず、何ら思索もせず、人間どもの生き方に目を向けることもしません、その所以は、人間どもは一つの術知にも異なった仕方で巡り会い、星辰の異なった形が、一つの術知を<異なったもの>となし、ある者は競争者たちの術知者、ある者は術知者のみ、ある者は付随的な者、ある者は進歩のない劣悪者となすのです。???

 これはあらゆる術知において同様であって、異なった道具や方法によって同じ術知に従事する人たちや、異なった仕方で理知や成功を得る者たち、特にまたあらゆる術知をを越えて、医術において、同じことが観察されるのです。いざ、骨折したときを例に云えば、接骨医の神官が見つかれば、ダイモーンに対する固有の敬虔によって加療して、その骨を接合し、骨が互いに結合するとき〔折れた骨の〕こつこつ音をも聞くことができます。これに反し、神官が見つからぬ場合は、人間は死ぬのではないかと恐れることはなく、影さす線をもった線の図解書を有する医者たちが連れてこらる、〔文意不明。原文は、(kai; oJsaidhpotou:n eijsin grammaiv)〕。そして、人間は書によって巧みに包帯され、健康を得てしばらく生きながらえます。人間は、接骨医の神官が見つからないからと、死ぬにまかせるなどということは決してないからです。この者たちがしくじると、飢えで亡くなるのであって、炉法(kavminoi)の接骨術の素描を理会し実践することを評価して、〔その結果〕浄福な者となって、貧しさという不治の病に勝利することをしないからです。以上〔時宜を得た染色法〕の話は、ここまでです。

 そこで、わたしとしては、器具〔と炉〕法についてどうであるかをめざして進んでゆきましょう。というのは、あなたのお書きになった書簡を受け取って、器具〔と炉〕法の著作をもあなたのために著すようあなたが依頼なさっているのを見出したからです。しかし、義務もないことまでわたしから得ようと書いておかれるのは驚きです。それとも、哲学者が<……>と言っているのをお聞きではありませんか。これらのことをわたしが故意に沈黙したのは、わたしの他の著書にも惜しみなくさしはさまれているからです。ところがあなたはわたしからそれを学ぶことを望んでおられる。しかしながら、わたしが著すことが古人たちよりも信じるに足るなどと思ってはなりません。わたしに能力はないだと悟ってください。とはいえ、あの人たちの語ったすべてをもわたしたちが理会するために、とにかくあの人たちの〔語った〕ことをあなたのために追加しておきましょう。内容は以下のとおりです。

 硝子製のビーコス(bi:koV)、長さ1ペーキュスの陶製の管(swlhvn)。長くびフラスコ(lopavV)、ないし、細口の容器 — 前者の中、ないし、後者の小ビーコスの口の太さの管が挿入されている — 。略図が<これ>である。ただし、水の鉢(krathriva)は石製で、容器は海綿で拭わなければならない、昇華蒸気と水銀の場合も同じである。さて、光の中では、つまり、ドラコンのように坐浴を有する等しい器具の中では、古の書き手たちがこれを勧めているが、硫黄の蒸発によって、水銀を凝固させ、これを黄色にすることができる。クロノン〔鉛〕は光には与らない、そしてあなたは、2つの明らかな神秘が隠されているということで、この書に驚くことであろうが、硫黄の昇華蒸気は白化するにもかかわらず、水銀を黄色に提示する — しかし、それが焼かれた時にはそれは起こらない — のはどうしてか、さらにまた自身は、力の点でも活動の点でも、白いのに、白いものによって焼かれ凝固されると、どうして黄色になるのか[ということを]わたしたちは探求しているのではない。

2.235.1
 そういう次第で、若い人たちは、何よりも先にこれらのことを探求しなければならなかった。しかし、わたしが想うに、それが単独で凝固するのみならず、化合物全体と〔凝固することは〕別の神秘なのである。とはいえ、硫黄の第一熔錬からできる水、水銀の凝固、軟化剤の浸透、軟化剤の浸潤が起こる器具は、以上である。

 影のない銅にイオスができ、黄色になって、蒸発され、白い蜂蜜の中に保管されること。
 わたしたちの銅からできる軟化剤も、その代わりに黄化されたものをつくるが、わずかである、これらのすべてはアガトダイモーン〔の書〕にあるということ。
 小さな残滓によってできる軟化剤も、光の中に入れ、辰砂のようになるよう、蒸発された硫黄の蒸気によって凝固させよ。次いで瓶(bou:kloV)ないし油壺(lhvkuqion)の中に入れ、背中に用いるように、ひきのばして用いよ。
 蒸気から出る種類全体をアガトダイモーンが明らかにしたように、例えば孔雀石やエテーシオスや黄金華〔硫酸塩〕や、端的にあらゆるものを銀の浸染に混和したように、彼の後の手順は以下のごとくである。昇華蒸気を入れよ、それは、銀がくもらないため、あるいは、分厚くてより土的な諸体が、火にかけられたり燃やされたりするがままにされ、その実体を失わないためである。

2009.10.26.

forward.GIF050 三本腕の蒸留器と管について
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