アイティオピス

[解説]
 『イーリアス』の詩人は、ヘクトールを殺した後、アキッレウスはトロイア勢の残存勢をスカイア門から都市のなかに撃退するが、そこでテティスの警告(18.96)どおり、自分の運命に遭遇するという構想を持って歌い始めた。しかし彼は、アキッレウスの死を、この詩の終わり後、不特定の瞬間まで延期することに変え、アキッレウスの葬礼競技になるはずのところを、パトロクロスに与えたのである。アキッレウスの死を物語りたいと思ったその後の詩人は、彼〔アキッレウス〕が闘士〔ヘクトール〕を殺し、敵の軍勢を市内に追撃する別の状況を創作しなければならなかった。 『アーリアス』の言い方をすれば、トロイア勢はヘクトール亡き後、適当な闘士を持たなかった。しかし若手詩人たちは、思いがけず外地からトロイア勢の加勢に来た新しい英雄たちの跡継ぎを持つことで、物語を紡ぎ出した。『イーリアス』の挿入された第10巻にはトラキアのレーソスがいた。『アイティオピス』には、アマゾーン女人族のペンテシレイアとメムノーンがいた。『小イーリアス』には、テーレポスの子エウリュピュロスがいた。おのれの死がアキッレウスのそれに速やかに導く英雄、それがメムノーンであった。

 アキッレウスの死が、『アイティオピス』の山場であることは、ヘクトールの死が『イーリアス』の山場であるがごとくである。これは彼の名誉をたたえる葬礼競技に続く。最も勇敢な戦士への彼の武具の授与が競技に付随する。それゆえ、アルクティノス(もしもこれがこの詩人の名であればだが)にとっては、この競い合いでアイアースに対するオデュッセウスの勝利と、少なくとも簡潔な結果として、アイアースの自殺を告げることは自然なことであった。

 彼は、アキッレウスの死、これをいたむネーレイスたちの哀悼、そして葬礼競技の現存する説明、『イーリアス』の詩人に知られている非常によく似た説明を用いた。しかし「白い島」への英雄の移送は、アマゾーン女人族やアイティオプス人の介入同様、『イーリアス』後のものである。『オデュッセイア』の詩人は、メムノーン(4.188, 11.522)、アキッレウスの死体をめぐる戦闘、ネーレイスたちとムーサたちの哀悼、葬礼競技(24.36-94)を知っていたが、ペンテシレイアの挿話に気づいている様子はない。これはおそらくこの組み立ての最後の付け足しであったろう。彼女が最初に芸術的表現の中に現れるのは、前600年ころである。

 ヘーシュキアスの『ホメーロス伝』中に、『小イーリアス』『ノストイ』の前に一覧に挙げられている『アマゾーニア』は、おそらく『アイティオピス』と同じものであって、別個の作品ではあるまい。




アイティオピス(AijqiopivV)

TESTIMONIA

IG 14.1284 i 10=Tabula Iliaca A (Captiolina) p. 29 Sadurska
 ミレートス人アルクティノスによる『アイティオピス』

Hesychius Milesius, Vita Homeri 6
 他にも幾つかの詩作品が彼に帰せられる。『アマゾニア』『小イーリアス』等

Clem. Strom. 1.131.6
 パニアース(fr. 33 Wehrli)[註]は、テルパンドロスの前に、レスボス人レスケースを置き、アルキロコスよりもテルパンドロスを若いとするが、レスケースはアルクティノスと競い合い、勝利したと〔いう〕。

[註] 逍遙学派のパニアースか、エレソスのパイニアース。

Euseb. Chron.
 Ol. 1.2〔775/774〕:ミレートスの詩人アルクティノスの盛年。  Ol. 5.1〔760/759〕:詩人エウメロス……と、『アイティオピア』『イーリオンの陥落』を著したアルクティノスが認められる。

Cf. Cyrill. Contra Iulian. 1.12 (Patrol. Gr. lxxvi. 520D).

Suda α 3960
 アルクティノスは、ナウテースの末裔テーレアースの子、ミレートス人、叙事詩人、ホメーロスの学徒だと、カラゾメナイのアルテオーンが『ホメーロスについて』(FGrHist 443 F 2)の中で言っている。第9オリュムピア紀年〔744/741〕ころ盛年、トロイア戦争の410年後である。

ARGUMENTUM

Proclus, Chrestomathia, suppleta ex Apollod. epit. 5.1-6
 {この巻の前の巻で}先に述べられた事柄[1]に続くのが、ホメーロスの『イーリアス』である。この後に、ミレートス人アルクティノスの『アイティオピス』5巻が続く。その内容は以下のごとし。

 (1)アマゾーン女人族のペンテシレイアが、共闘するのためトロイアに到着する。アレースの娘であるが、生まれはトラキア女である。<彼女は心ならずもヒッポリュテーを殺し、プリアモスによって浄められたからである。戦いが起こったとき、多数を殺し、その中にマカオーンも含まれている。Ap.>そして善勇の彼女を殺したのがアキッレウスである。トロイア人たちは彼女を埋葬する。またアキッレウスは、テルシーテースを亡き者にする。彼から悪口され、いわゆるペンテシレイア〔の死体〕への恋を悪罵されたからである。このことから、テルシーテースの殺害についてアカイア人たちの間に内乱が起こる。その後、アキッレウスはレスボスに出帆し、アポッローン、アルテミス、レートーへの供犠した後、殺人の穢れをオデュッセウスに浄めてもらう。

 (2)<ティトーノスと Ap.>エーオース〔暁の女神〕の息子メムノーンは、ヘーパイストス製作の完全武装をして、<アイティオプス人の大軍勢を率いて Ap.>トロイア勢の救援にやって来る。テティスはわが子〔アキッレウス〕に、メムノーンとの対戦を予言する。そして会戦が行われたとき、アンティロコスはメムノーンによって亡き者にされ、次いでアキッレウスがメムノーンを殺す。これには、エーオースが嘆願してゼウスから不死を授ける。

 (3)さらにアキッレウスはトロイア勢を敗走させ、都市のなかに突撃しようとして、パリスとアポッローンによって亡き者にされる。<スカイア門のところで、アレクサンドロスとアポッローンによって踵を射られたのである。Ap.>そして倒れた者〔の死体〕をめぐって激戦が起こり、アイアースが<グラウコスを亡き者にし、〔アキッレウスの〕武具を船陣に運ぶよう与える。死体の方は、Ap.>取り上げて船陣に運ぶ。その間、オデュッセウスがトロイア勢を撃退する。

 (4)次いで、アンティロコスを埋葬し、アキッレウスの死体を安置する。テティスが、ムーサたちと姉妹たちとともどもやって来て、わが子を哀悼する[2]。そしてその後、火の中からテティスはわが子を取り上げて、白い島[3]へと運び渡す。アカイア人たちは塚をこしらえ、葬礼競技を催す。<ここにおいて、エウメーロスは戦車競技に、ディオメーデースは徒競走に、アイアースは円盤競技に、テウクロスは弓射競技に勝利する。アキッレウスの武具は、最も善勇の者の優勝賞品に賭けられる。Ap.>そしてアキッレウスの武具をめぐって、オデュッセウスとアイアースの間に諍いが勃発する。

[1] 『キュプリア』の内容。
[2] テティスの姉妹はネーレイスたち。アキッレウスはおそらくブリーセーイスによっても哀悼されたであろう(『イーリアス』19.282-302におけるパトロクロスのように); Propertius 2.9.9-14を見よ。
[3] 黒海にあるダニューブ河口の対岸、現在のOsttov Zmeinyy。


断片集

1 Schol. (T) Il. 24.804a
 一部の人たちが書いている。

 かようにして、彼らはヘクトールの葬いを営んでいた。このとき、アマゾーンがやって来た。
誇らかな気象の、戦士殺しアレースの娘が[註]。

2行目 =OtrhvrhV qugavthr eujeidh;V Penqesevleia P. Lit. Lond. 6 xxii 43.
[註] パピルス原本は異文を伝えている。「オトレーレーの娘、性格よきペンテシレイアが」。この詩句はおそらく『アイティオピス』の部分ではないが、『イーリアス』に続けさせる工夫がなされている。

2 P. Oxy. 1611 fr. 4 ii 145[註]

「御身は何者にして、いずこより至れるか、女性よ。何者のお子とおおせられるか」

云々、そしてアルキノスがいかにして彼女の死全体を説明するか。

[註] テキストは研究者的注釈か、それに類したものである。筆者や内容は知られていない。引用された詩句は、おそらく、プリアモスかアキッレウスによってペンテシレイアに向かって言われたものであろう。

3 Schol. (A. Aristonici) Il. 17.719
 〔難点は〕ここ〔Iliad 17.719〕から、ホメーロス以後の詩人たちによって、アイアースに運ばれるアキッレウス、掩護するオデュッセウスが引用されているからである。もしもホメーロスがアキッレウスの死を詩作したとするなら、若手作家たちと違って、アイアースによって運ばれる死体を詩作することはなかったろう。

Cf. schol. Od. 11.547.

4* Schol. (D) Il. 23.660
 ポルバースは、当時の人々の中で最も男らしい男であったが、傲岸不遜で、拳闘を修練し、通りがかった人たちに競い合いを強制し、亡き者にしていた。傲岸不遜のあまりに、神々とさえそのような態度をとることを望んだ。そこでアポッローンがやって来て、彼と構え、彼を殺してしまった。ここから、それ以来、この神は拳闘の守護者ともみなされるようになった。この歴史は、叙事詩の環作家たちの作品にある[註]。

[註] アキッレウスのための葬礼競技の拳闘競技がありうるテキストである。

5 Diomedes, Gramm. Lat. i.477.9
 他の人たちが関連づけているところでは、イアムボスはマルスの子で、狂暴な首領で、彼は常時戦いに行き、叫び声とともに槍を投じたことにちなんで(ajpo; tou: iJei:n kai; boa:n)イアムボスと名づけられた。イアムボス詩が短音と長音とから成るのは、短い歩幅で進み、次いで長い歩幅投げ槍を投じると、投擲に重みが加わり、より強い力を与えられるからである。この投擲方法の権威は、ギリシア人アルクティノスの次の詩句にあると言われる。

短き歩幅で離れ、一歩は前に、そうすれば、彼の肢は
張り、力の強き姿さえもつ[註]。

[註] 詩句が示唆しているのは、槍を投げる人ではなくて、徒競走か、あるいはおそらくレスリングの準備を整えている人であろう。それゆえ、本来の文脈は、アキッレウスのための葬礼競技であったかも知れない。

6 Schol. Pind. Isth. 4.58b
 というのは、『アイティオピス』を書いた人が、アイアースは夜明けころ自殺したと謂っているからである。


forward.GIF小イーリアス