小イーリアス

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The Procession of the Trojan Horse in Troy(1773)
TIEPOLO, Giovanni Domenico

[解説]
 この詩編は、レスボス島のピュッラないしミュティレーネー出身のレスケースに帰せられているが、アリストテレースによって、叙事詩の環の諸詩の幾つかの挿話的本質的を例証するために、『キュプリア』とともに引用されている。しかしながら、これはプロクロスの要約から明らかなよりも、もっと首尾一貫した構成を有している。これはアカイア勢が直面した危機から始まる。アキッレウスとアイアースともに死に、トロイに対するさらなる前進がいかにして可能か? オデュッセウスがトロイアの預言者ヘレノスを捕まえたことは、彼らが必要とする情報をもらした。彼らは、自分たちが採るべき3つの段階を悟った。彼らはヘーラクレースの弓をトロイアに持ってこなければならなかった。それは、レムノス島からピロクテーテースを呼び寄せ、これがパリスの死を導き、ヘレネーに対するこの男の欲望が、戦争を引き起こし、持続させることを意味している。彼らはネオプトレモスをスキューロス島から連れてきて、アキッレウスの代わりをさせなければならなかった。彼はトロイアの新しい闘士エウリュピュロスを倒し、城外での戦いの能力を終わらせた。また彼らは、この都市を守護している神聖な木像パッラディオンを盗み取なねばならなかった。

 すべてのことが達成されたとき、残るはトロイアの守りに突破口をあけることであった。木馬の建造は、これを遂行する意味をもっていた。叙事詩は略奪の説明で締めくくる。

 『オデュッセイア』の詩人は、『小イーリアス』の題材を広範に、まさしくその詩そのものでないとしても、何か非常によく似たものを知っていたことを示している[註]。『イーリアス』の詩人は、ピロクテーテースの物語(2.716-725)を、もちろんトロイアの略奪の幾つかの異文も知っていた。尤も、アキッレウスの息子ネオプトレモスに触れた詩行(19.326-337, 24.467)は、疑わしい。『小イーリアス』は、7世紀の第三四半期ごろ構成されたであろう。

[註]武具をめぐってのアイアースの敗北(11.543 ff.); ヘレネーの最後の夫としてのデーイポボス(4.276, 8.517と比較せよ);ネオプトレモスとエウリュピュロス(11.506 ff., 519 f.);乞食に身をやつしてのオデュッセウスのトロイ潜入(8.492 ff.)。




小イーリアス(Mikra; =IliavV)

TESTIMONIA

Arist. Poet. 1459a37
 これに対して〔ホメーロス以外の〕他の詩人たちは、1人の人間についてであろうと、一つの時間単位としての期間についてであろうと、あるいは一つの行為についてであろうと、およそ詩を作るに際して、ホメーロスのように一つの部分だけを取り出すのではなく、例えば『キュプリア』の作者や『小イーリアス』の作者がしたように、多くの部分をいろいろと題材にしている。さればこそ、悲劇の題材を『イーリアス』や『オデュッセイア』から取るとしても、それぞれ1篇ないし2編の悲劇作品しか作られはしないけれど、『キュプリア』からは数多くの悲劇作品が作られるし、『小イーリアス』からも8編ないしそれ以上の悲劇作品が取られるのである。例えば『鎧審き』『ピロクテーテース』『ネオプトレモス』『エウリュピュロス』『乞食に身をやつしたオデュッセウス』『ラコーニアの女たち』『イーリオンの略奪』『帰帆』などのほか、まだ『シノーン』『トロイアの女たち』などの悲劇作品[註]を作り出すこともできよう。(今道友信訳)

[註] 何編かは題名表に書きこまれたものとみなされる。これらの多くは、おそらく全部は、実際の悲劇作品から採用されている。ソポクレースの『ラコーニアの女』は、パッラディオンの窃取を扱っている。

Poculum Homericum MB 31 (cf. 32) (p. 97 Sinn)〔前3世紀の作〕
 詩人レスケースに倣って、『小イーリアス』から。イーリオンで、共闘者たちがアカイア勢と会戦する。

IG 14.1284 i 10=Tabula Iliaca A (Capitolina) p. 29 Sadurska
 『小さい』と言われる『イーリアス』、ピュッラー人レスケースに倣って。
 エウリュピュロス、ネオプトレモス、オデュッセウス、ディオメーデース、パッラス、樫の木の馬。トロイアの女たちとプリュゴス人たちが馬を引く。プリアモス、シノーン、カッサンドラ、スカイア門。

Cf. Tabulam Iliacam Ti (Thierry) p. 52 Sadurska =Ilia;V Meikra; kata; ta; Levschn Purrai:on.

Clem. Strom. 1.131.6, v. supra ad Aethiopidem.

Euseb. Chron.
 Ol. 30.3〔658/657〕: アルクマンが有名になる。『小イーリアス』を作ったレスボス人レスケースも。

Hesychius Milesius, Vita Homeri 6
 他にも幾つかの詩作品が彼に帰せられる。『アマゾニア』『小イーリアス』等々。

ARGUMENTUM

Proclus, Chrestomathia, suppleta ex Apollod. epit. 5.6-16
 続いて、ミュティレーネー人レスケースの『小イーリアス』第4巻。内容は以下。

 (1)武具をめぐる審判が行われ、アテーナーのはからいで、オデュッセウスが〔これを〕得る。アイアースの方は狂気となり、アカイア人たちの畜群を害し、みずからを亡き者にする。<アガメムノーンは彼の遺体を火葬することを阻止する。イリオーンで亡くなった者たちのうち、この〔アイアース〕のみが棺の中に横たえられた者である。そして墓はロイテイオンにある。Ap.>

 (2)その後、オデュッセウスはヘレノスを待ち伏せして捕らえる。そして、これの攻略について託宣があったので、ディオメーデースは<オデュッセウスはディオメーデースといっしょに Ap.>レームノス島からピロクテーテースを連れて来る[1]。この者はマカーオーン[2]に治してもらい、一騎打ちでアレクサンドロスを殺す。そして死体がメネラーオスによって切りさいなまれたのを、トロイア人たちが収容して埋葬する。その後、デーイポボスがヘレネーと結婚する[3]。

[1] 預言は、この都市はヘーラクレースの弓でのみ略取されうるというものであった。それはピロクテーテースの所有になっていたのである。
[2] アポッロドーロスの話によれば、マカーオーンはすでにペンテシレイアに殺されていた。ピロクテーテースを治したのはポダレイリオスであったと。
[3]

 (3)ネオプトレモスをもオデュッセウスはスキュロスから連れてきて、その父親の武具を与える。するとアキッレウスが彼に現れる。テーレポスの子エウリュピュロスが、トロイア勢の救援にやって来る<ミュシア人の大軍を率いてAp.>そして勇戦するも、これをネオプトレモスが殺す。そしてトロイア勢は攻囲される。

 (4)そしてエペイオスは、アテーナーの導きで、<イーデー山から材木を伐りだして Ap.>木馬をこしらえる。オデュッセウスはまた身なりをみにくくし、<みすぼらしい衣服をまとって Ap.>偵察のためイーリオンに潜入する。そしてヘレネーに見とがめられるが、都市の攻略について申し合わせ、トロイア人を何人か殺して、船陣にたどりつく。そしてその後、ディオメーデースといっしょにパッラディオンをイーリオンから運び出す。

 (5)次いで、木馬の中に最も善勇の者たちを搭乗させ、ヘッラス勢の残りの者たちは天幕を焼き払うとともに<夜間、自分たちに松明を点けることになっていたシノーンを後に残して Ap.>テネドスに撤退する。トロイア人たちは、諸々の災悪から解放されたと解して、木馬を、囲壁のある一部を壊して、都市内に迎え入れ、ヘッラス勢に勝利したかのように宴楽に耽る。

3-4 cf. P. Rylands 22 (saec. i).


断片集

1 Ps.-Herod. Vita Homeri 16
 テストリデースで過ごしつつ、『小イーリアス』を詩作する。その冒頭は、

われは歌う、イーリオンを、若駒もよろしきダルダニアー、
アレースの僕たち、ダルダーノイ人たちが数々の受難をあじわったあたりを。

Versus ex parte exhibent testae duae in regione Pontica repertae, saec. v a.C.: Jurij G. Vinogradov, Pontische Studien (Mainz, 1997), 385, 419.

2 Schol. Ar. Eq. 1056a
 アイアースとオデュッセウスとが最善のものら〔=アキッレウスの武具〕をめぐって仲違いしたと、『小イーリアス』を詩作した人が謂う。つまり、ネストールがヘッラス人たちに、前述の英雄たちの勇敢さについて盗み聞きするため、トロイア人たちの城壁の下に、自分たちの中から何人かを送るよう勧告した。そこで、送られた者たちが、処女たちがお互いに仲違いしているのを聞いた。すなわち、1人が、アイアースの方がオデュッセウスよりもまさっていると言って、次のように説明する。

なぜって、アイアースの方は、ペーレウスの御子の英雄を取り上げ、戦闘から
運び出したのに、神々しいオデュッセウスはそうしなかったのですもの。

 するともうひとりが、アテーナーのはからいで、

どうして声高に言うのよ。どうしてわきまえのある言い方ができないのよ。

(Ar. Eq. 1056-1057)

 重荷なら、女でも運べます。殿方が背に載せてくれさえすれば。
5 でも〔女に〕戦はできません。[註]

4 cit. Plut. De Alex. fort. 337e
5 cevsaito gavr, ei macevsaito add. Aristophanes: cavsaito ktl. Lesches? (von Blumenthal).
[註] 最後の1行は、アリストパネースのテキストから補足されている。彼は付け加える、「もし戦をすれば糞をもらすであろうから」。これは引用の真正な部分には見えない。cavsaito〔退却する〕の代わりにcevsaito〔糞をもらす〕を代用して、本来の「もし戦をすれば、退却するでしょうから」を洒落たものであるにしても。

3 Porph. (Paralop. fr. 4 Schrader) ap. Eust. 285.34
 『小イーリアス』を書いた人が記録している。アイアースは仕来りと違って火葬されることもなく、王〔アガメムノーン〕の怒り[註]ゆえに、かくのごとく棺の中に安置されたと。

Cf. Apollod. epit. 5.7 (supra in Argumento).
[註]アガメムノーンが怒ったのは、アイアースがアカイアの指揮官たちを殺そうとしたからである。アテーナーが彼を狂気に陥らせたので、彼は代わりに家畜を攻撃した。

4 Schol. (T) Il. 19.326, ”スキューロス島に生い立っている〔息子〕が”
 『小イーリアス』〔の作者〕は〔いう〕、テーレポスから撤退した彼〔アキッレウス〕は、そこに投錨した。

ペーレウスの子アキッレウスをば、スキューロス島へと颶風が運んだ。
そこにおいて、その夜、彼は辛苦して港を築いた。

Cf. schol. (b) et Eust. ad loc.

5 Schol. (T) Il. 16.142, ”ただアキッレウスだけが自由に揮えたという”[1]
 話をこしらえてこう言う人たちがいる。〔アキッレウスの槍は〕ペーレウスがケイローンから〔もらって〕その使い方を習い、アキッレウスがペーレウスから〔もらった〕が、彼は誰にも与えなかったと。『小イーリアス』の詩作者も。

        螻首(けらくび)には
黄金の箍(たが)がきらめき、その先に二叉の穂先[2]。

[1] 話題はアキッレウスの大きなトネリコの樹の槍。
[2] 現在時制が正しいなら、この断片は会話であったに違いない。Quintus of Smyrna, 7.195 ff.と比べよ。

Schol. Pind. Nem. 6.85b, ”忿怒の槍先で”
 つまり、二叉、したがって二つの穂先を有する……アイスキュロス(fr. 152)も……ソポクレース(fr. 152)も……レスケースの『小イーリアス』から歴史を借用している。彼〔レスケース〕はこう言っている。「螻首には……二叉の穂先」。

6 Eur. Tro. 822
 ここでガニュメーデースを……ラーオメドーンの子と〔エウリピデースが〕云ったのは、『小イーリアス』を作詩した人に従ったからである。彼のことを、ある人たちはポーカイア人テストリデースだと謂い、ある人たちは、ラケダイモーン人キナイトーンだと謂い、これはヘッラニコス(fr. 202c Fowler)も同様だが、ある人たちは、エリュトライ人ディオドーロスだと謂う。で、彼は次のように謂っている。

クロノスの御子が、彼〔ラーオメドーン〕のこの代償に与えし葡萄、
それは黄金で、きらめく群葉と房に茂れる。
これはヘーパイストスが鍛錬し、父ゼウスに贈ったもの。
彼〔ゼウス〕は、ガニュメーデースの代わりに、ラオーメドーンに与えた。[註]

Cf. Schol. Eur. Or. 1391; Od. 11.520-522 cum schol. (Acusil. fr. 40c Fowler).
[註]ゼウスは自分自身の目的のためにガニュメーデースを誘拐した。「アプロディーテーの讃歌」202-217を見よ。黄金の葡萄は、プリアモスが相続し、彼はこれをエウリュピュロスの母親に贈った。息子がトロイアへ戦いに行くことに彼女が反対するのを打ち砕くためである。

7 Paus. 3.26.9
 マカーオーンは、テーレポスの子エウリュピュロスによって命終したと、『小イーリアス』を詩作した人が謂っている。

8 Schol. Lyc. 780
 『小イーリアス』を書いた人が謂うには、オデュッセウスはトアースによって負傷したという。彼らがトロイアに上ったときに[註]。

[註]つまり、彼は変装していたので、傷つけられることをみずから容認したということである。この突飛な行為については、Odeyssey 4.242-264を見よ。

9 Schol. Od. 4.248, ”乞食の男に”
 叙事詩の環の作者は、ΔΕΚΤΗΙを人名の意味に取っている。その人物から、オデュッセウスは襤褸を受け取って身にまとったと謂う……だがアリスタルコスは、devkthiejpaivthi〔乞食に〕と取る。

10 Schol. Od. 4.258, ”いろんな情報をいっぱい持ってお帰りだった”
 ホメーロス後の若手作家たちは、frovninleivan〔鹵獲品〕の意と取る[註]。

[註]これは変装したオデュッセウスがトロイアに潜入した同じ文脈である。叙事詩の環の詩の中では、彼は幾つかの鹵獲品を持ってギリシア陣に帰ったと推定される。

11 Hesych. δ 1881
 ディオメーデース的必然(DiomhvdheioV ajnavgkh):慣用句。クレアルコス(fr. 68 Wehrli)が謂うには、……『小イーリアス』〔の作者〕は、パッラディオン窃盗の際に起こったと謂う。

Paus. Att. δ 14
 ディオメーデース的必然。慣用句……世人がいうには、ディオメーデースとオデュッセウスは、夜陰に乗じて、パッラディオンを盗んで、トロイアから立ち帰ったが、その際、後からついてきていたオデュッセウスは、ディオメーデースを殺そうとたくらんだ。しかし、月光の中に剣の影を見たディオメーデースは、振り向いてオデュッセウスを縛りあげ、前を歩かせた。自分の剣で背中を打ちながら。そこでこれは、強制的になにかをさせる人たちに適用される。[註]

Cf. Conon. FGrHist 26 F 1.34.
[註]コノンが告げている物語の異文では、ディオメーデースは、トロイの城壁を越えるとき、オデュッセウスに助けてもらったが、彼を外に置き去りにして、パッラディオンを自力で手に入れる。帰途、オデュッセウスがそれを奪って、それを手に入れた手柄を横取りするのを恐れて、自分が持ち出した神像は贋物だというふりをする。しかしながら、オデュッセウスは、それが怒りに引きつっているのを目にし、それが本物のであることを悟る。そこで彼は、ディオメーデースを殺すという不首尾な試みをする。ディオメーデースが剣を抜いたとき、彼は自制するが、このとき、ディオメーデースの背中を打ちながら駆り立てたのはオデュッセウスであって、あべこべ(vice versa)ではない。

12 Apollod. epit. 5.14
 最善の勇士たち50人に、この中に入るようオデュッセウスは説得する。『小イーリアス』を書いた人は、13人だと謂っているが。[註]

igv Severyns: triscilivouV (sc.ig) libri.
[註]「13人」は古文書学的にありそうな校訂。「三千人」は信じられないが、諸写本によって与えられている。

13 Schol. Od. 4.285
 アンティロコスは、叙事詩の環に出る。[註]

[註]『オデュッセウス』の1節に。アリスタルコスが疑ったというのは本当ではない。アンティクロスは木馬に搭乗した勇士の一人である。オデュッセウスは、ヘレネーが勇士たちの名を呼び、その妻たちの声をまねて木馬の周りをまわったとき、オデュッセウスは、彼が応答しようとするのを止めねばならなかった(4.271-289)。

14 Schol. Eur. Hec. 910
 カッリステネースは、『ヘッラス史』第2巻の中で(FGrHist 124 F 10a)に次のように書いている。「トロイアが陥落したのは、タルゲーリオーン月の、歴史家たちの一部によれば、初旬の第12日〔12日〕、『小イーリアス』の作者によれば、下旬の第8日〔23日〕。なぜなら、彼はみずから陥落〔の日〕を決定しているからである。攻略が結果したのは、まさしくこの時であると謂って、

夜は夜半、輝く月が昇ったとき。

夜半に〔月が〕昇るのは下旬の第8日〔23日〕のみであって、他の時ではない」。[註]

Cf. Clem. Storm. 1.104.1, ubi vu;x me;n e[hn mesavta, lampra; d= ejpevtelle selavna;Tzetz. in Lyc. 344 Sivnwn, wJV h\n aujtw:i sunteqeimevnon, frukto;n uJpodeivxaV toi:V $Ellhsin, wJV oJ LevschV fhsivn, hJnivka "〔シノーンは、自分との申し合わせがあったので、ヘッラス勢のために松明で合図したと、レスケースは謂う。その時こそ、「夜は……月が昇ったとき」〕nu;x - selhvnh." Cf. eund. Posthom. 719-721; 773.
[註]この日付はシゲオンのダマステース(fr. 7 Fowler)とエポロス(FGrHist 70 F 226)にさかのぼる。

15-27 Paus. 10.25.5-27.2[1]
 (15)エレノスの近くにメゲースがいる。メゲースが腕を負傷しているのは、ピュッラー人アイスキュリノスの子レスケオースも『イーリオンの略奪』の中で詩作したとおりである。負傷したのは、夜間、トロイア勢が戦った戦闘のせいで、アウゲイアースの子アドメートスによってという。(16)メゲースのそばには、クレオーンの子リュコメーデースも描かれている。手首に負傷している。レスケオースは、彼はアゲーノールによって負傷したとそう謂っている。もしもポリュグノートスがレスケオースの詩を読んでいなかったら、明らかに、彼らの傷をまったく違ったふうに描いて、こういうふうには描かなかったことであろう……(17)さらにレスケオースはアイトラー[2]を扱って詩作した。イーリオンが陥落したとき、ひそかに脱出した彼女はヘッラス勢の軍陣にたどりつき、テーセウスの子どもたちに認知された。そして、アガメムノーンにデーモポーンが彼女を要請していると。〔アガメムノーンは〕彼には懇ろにするつもりだが、ヘレネーを説得するまではそうするつもりはないと謂った。そこで伝令使を派遣した彼に、ヘレネーは願いを聞き入れてやった……(18)アンドロマケーが描かれていて、その側に子どもが立っている。胸乳を握っている。レスケオースが言うのには、この子が塔から投げ捨てられてその最期が結果したのは、決してヘッラス人たちの決定ではなくて、ネオプトレモスが私的に手にかけようとしたのだと(cf. fr. 29)……(19)レスケオースは、『キュプリア』という叙事詩においても、エウリュディケーをアイネイアースの妻に配している。(20)これらの女たちの向こうの泉のほとりに、デーイノメーとメーティオケー、ペイシス、クレイオディケーが描かれている。このうち、いわゆる『小イーリアス』の中に名前があるのはデーイノメーだけである……(21)アステュノオスは、レスケオースもむろんその記憶を詩作しているが、膝を折り、ネオプトレモスが剣で突き刺している……(22)またレスケオースが謂うには、ヘリカーオーン[3]は、夜戦で負傷したのをオデュッセウスに見つけられ、戦闘の場から生きながら連れ出されたという……(23)諸々の死体、ひとつは裸で、名はペーリス、仰向けに投げ出され、ペーリスの下方には、エーイオネウスとアドメートスがなお胴鎧をつけたまま横たわっている。レスケオースは、彼らのうちエーイオネウスはネオプトレモスによって、もうひとりのアドメートスはピロクテーテースによって殺されたと謂う……(24)カッサンドラとの結婚のために到着したのはコロイボス。死んだのは、大方の言葉〔伝承〕では、ネオプトレモスによってというが、レスケオースはディオメーデースによってと詩作している。(25)さらにコロイボスの上方にも、プリアモス、アクシオーン、アゲーノールがいる。プリアモスは、レスケオースが謂っているところでは、内庭に坐す神のその上で殺された<のではなく>、祭壇から引き離されて、館の扉のそばの通路で、ネオプトレモスによって片づけられたという[4]……(26)プリアモスの子アクシオーンは、エウアイモーンの子エウリュピュロスによって殺されたとレスケオースは謂う。(27)アゲーノールを手にかけたのは、同じこの詩人によると、ネオプトレモスであるという[5]。

25 cf. Pocula Homerica MB 27-29(~30) (pp. 94-96 Sinn)
 詩人レスケースによって、『小イーリアス』から。プリアモスは内庭に坐すゼウスの祭壇に庇護を求めたが、ネオプトレモスはその祭壇から引き離して、館のそばで殺戮した。
27 cf. IG 14.1285 ii=Tabula Veronensis II p. 57 Sadurska
 ネオプトレモスはプリアモスとアゲーノールを殺し、ポリュポイテースはエケイオスを、トラシュメーデースはニカイネトスを、ピロクテーテースはディオペイテースを、ディオメーデースは……
[1] この節において、パウサニアスは、クニドスのレスケースに デルポイにポリュグノートスによって描かれた大壁画の説明をし、叙事詩の出典との関係について注釈している。ホーメロスとレスケース(彼はレスケオースと呼んでいる)以外には、ステーシコロスの『イーリオンの略奪』に言及しているが、この説明は、レスケースの詩を『小イーリアス』の代わりに『イーリオンの略奪』と呼ぶ言い間違いをしている。
[2] テーセウスの母親。彼女はヘレネーの召し使いとしてトロイにいた(Iliad 3.144)。『イーリオンの略奪』fr. 6を見よ。
[3] アンテノールの息子の1人。彼はオデュッセウスとメネラーオスとを死からを救った。『キュプリア』のARGUMENTを見よ。
[4] ホメーロス詩を題材とする陶器絵の杯の一群は、レスケースの『小イーリアス』が出典として名指されている。そのキャプション、「プリアモスが炉のゼウスの祭壇に逃れたとき、ネオプトレモスは祭壇から彼を引き離し、彼の館の外で彼を殺害した」。
[5] Augustan plaquesの1つのキャプション、「ネオプトレモスは、プリアモスとアゲーノールを、ポリュポイテースはエキオスを殺す、トラシュメーデースはニカイネーテースを、ピロクテーテースはディオペイテースを、ディオメーデースは……」。しかし、この芸術家がここで『小イーリアス』に従っているかどうかは不確かである。

28 Schol. Ar. Lys. 155, ”たしかメネラーオスは裸のヘレネーのお乳を/ちらっと目にしたとたん、剣を取り落としたということでした”
 この歴史はイービュコスにあるPMGF 296)。同じ話をピュッラー人レスケースも『小イーリアス』の中で。

29-30 Tzetz. in Lyc. 1268 (cf. 1232)
 『小イーリアス』を詩作したレスケースが謂うには、アンドロマケーとアイネイアースは捕虜として、アキッレウスの子ネオプトレモスに与えられたという。そして、彼とともに、アキッレウスの祖国パルサリアへ連れ行かれたという。彼は次のように謂っている。

されど、意気盛んなアキッレウスの誉れ高き息子は
ヘクトールの奥方を、虚ろな船へと連れもどり、
幼児を、結髪もみごとな乳母の懐から
足ひっつかんで櫓から投げつけた。落下するこの児を
とらえたは、深紅の死と、仮借のない運命。  ……………………
(30)
彼は〔戦利品の〕中からアンドロマケー、ヘクトールの帯よろしき妃
を選び、これを、全アカイア勢中最も善勇の男たちが彼に
与えた。戦士にふさわしい褒賞として返礼して。
また、馬の馴らし手アンキーセースの生子、その名も高いアイネイアース
その人は、海原行く船に乗りこませた。
全ダナオイ人たちのうち、衆にすぐれた格別の褒賞として得るために。[註]

Cf. 30 Simiae Gorgoni trib. schol. Eur. Andr. 14.
[註]Tzetzesは、この叙事詩の中で連続していない2つの節を引用している。最初の節は、この都市の略奪の最中のネオプトレモスの行動について。二番目の節は、その次に起こる、アカイア勢の宿営地での、戦利品の分配に言及している。

Schol. (A) Il. 24.735a (Aristonici)
 〔難点は〕ここ(Iliad 24.735)に動かされて、ホメーロス後の若手詩人たちが、ヘッラス勢によって城壁から投げつけられるアステュアナクスを導入したことである。

31 Ath. 73e
 胡瓜(sikuovV)……レスケースも。

あたかも土の柔らかい畑に胡瓜が育つときのように。

32* Aeschin. 1.128
 諸君は見出すであろう、われわれの都市も先祖たちも、ペーメー〔噂〕を最も偉大な神として、その祭壇を築き、ホメーロスは『イーリアス』の中で、何かが起こる前に、しばしば〔次のように〕言っている、ということを。

ペーメーが陣地にやって来た。[註]

[註]この半行は『イーリアス』あるいは『オデュッセイア』の中には出て来ない。アイスキネースは多分『小イーリアス』を念頭に置いていたのであろう。


forward.GIFイーリオンの略奪