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古代ギリシア案内

Athenaiの景観






アテナイ市

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 アテナイ市は、海から最短で4.8Kmぐらいのところに位置し、市壁で囲まれた中に四つの丘がある。
 ほぼ中央にある断崖をなす丘がアクロポリス(「高みにある市」の意。本来は砦である)。その西にアレイオス・パゴス。これの南西にあるのがプニュクス丘。さらにその南にあるのがムウサイオン丘である。

「海賊の横行していた時代を反映して、海岸から少しはなれて、外敵の襲来にあたって逃げこみ、包囲に強いような高所に城壁を築き、これを中心市としてポリス市民団が結集することが多かったようである」(太田秀通『スパルタとアテネ』p.57)

fromPnyx.JPG 左の画像は、裁判所のあったアレイオス・パゴス丘から、アクロポリスの北斜面越しに、市の北東方面を眺めた風景である。
 画像手前(右端)の岩肌が、アレイオス・パゴス丘の一部である。画像の左端に見えるきれいな円錐形をした山が、リュカベーットス山である。アテナ女神が、アクロポリスを補強するため、山を運んでいたところ、悪い知らせをもたらしたものがいて、そのため女神はその山を取り落としたまま、すっかり失念してしまった。リュカベーットス山は、そうやってできたという伝説がある(point.gifアンティゴノス断片集12
 画像ではやや見にくいが、リュカベーットス山の右(東から南にかけて)にはるか遠く連なっているのが、養蜂で有名なヒュメットスの山並みである。

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 アテナイ市の正門は、北西にある。アッティカのデーモス(区)であるkeram.gifトリアThria区に通じるところから、トリア門と呼ばれるが、この門は入口が二重構造になっているところから、ディピュロンDipylon(二重)門と呼びならわされている。この門は、すぐ西側に、エレウシスに通じる聖門(Hiera hodos)が隣接している。
 この一帯は、市壁をはさんで「ケラメイコス区」と呼ばれ、市壁の外(すなわち外ケラメイコス区)には、墓標が集中している。

 ディピュロン門を入ると、大通り("dromos"という)が、アクロポリスに向かってのびているが、その途中に、主要施設の集中したアゴラがある。大通りのこの部分は、とくに「パンアテナイア祭通」と呼ばれる。
 アゴラに隣接してストア・ポイキレ(彩色された柱廊)、ストア・バシレイオス(王の柱廊)が連なっている。
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アレイオス・パゴスから俯瞰したアゴラの遺跡発掘現場。
ちなみに、このページの冒頭の画像は、
アゴラから遠望したアクロポリスの景観である。

dionysos.gif アクロポリスは断崖によって自然の要塞をなし、西端のプロピュライアに通じる道が唯一の入口である。
 アクロポリスの南麓に巨大なディオニュシオス劇場があった(右図)。

 水道は、おそらくイリソス川の上流から市の中心まで引かれていた。

 市民の住居は日干し煉瓦で造られ、アクロポリスの周りに密集していたが、狭くて曲がりくねった通路、道路に面した側には窓はなく、みすぼらしい外観を呈していたと考えられる。その点、公共建造物の壮観・美観に比して、きわめて対照的である。

 本来、ギリシア人たちは村(kome)に分かれて住んでいた(トゥキュディデス『戦史』第1巻1章10節)。「村は多くのばあい城壁をもたず、また多くのばあい公共建造物をもたなかったが、ポリス共同体ができると、……一見して「ポリス共同体ここにあり」ということがわかるようなセットをなした公共建造物ができるようになった」『スパルタとアテネ』p.57)

 市域の西側にケピソス河が流れていた。市域のすぐそばを、南東から南にかけて流れるイリソス川は、通常は干上がっていた。競技場(Stadion)は城壁の外、イリソス川の東岸にあった。

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上の画像は、南東方向からのアクロポリスの威容。
 アクロポリス東壁中央直下に、巨大な洞窟がはっきり見える。
 1980年4月、この洞窟のすぐ前(東側)の発掘で、アグラウロスに仕える女神官を顕彰するアテナイ民会決議を記録した石碑が発見された。



参照
 Indiana大学の Internet Resources for Classical Studies
 とくにAthenaiの景観については、同じサイトのKevin T. Glowacki & Nancy L. KleinによるTHE ANCIENT CITY OF ATHENSが、豊富な写真を用意してくれている。掲載した画像は、そこから拝借した。
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