補説(2)

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ブリス・カーマン『サッポー:抒情詩百篇(Sappho: One Hundred Lyrics)』(2)

海表集

 日夏耿之介の『海表集』は、昭和十二(1937)年5月、東西の訳詩62篇を収めて、野田書房から発行された。この中に、ブリス・カーマンの「サッポー:抒情詩百篇」からの訳詩が12篇、サッポーの詩として入っているわけである。それは以下のごとき諸篇である。

「海表集」通し番号・表題 「抒情詩百篇」通し番号・第1行 Bergk通し番号[LOEB通し番号]
56 レスボスの島乙女 LI Is the day long  
57 緑銀の月かげ XXII Once you lay upon my bosom Bergk52[168B]
58 銀笛 LXII Play up, play up thy silber flute Bergk64[54]
59 後園 XVI In the apple boughs the coolness Berk4[2]
60 枸杞の樹 XIX There is a medlar-tree  
61 美童 LXIII A beautiful child is mine Bergk85[132]
62 金髪 LXXXIV Soft was the mind in the beech-trees  
63 憂鉢羅の葉 XVII Pale rose leaves have fallen  
64 愛の伊吹 LXV Softly the wind moves though the radiant morning
65 人の世をゆく XLVI I seek and desire Bergk23[36]
66 幸あるひと XV In the grey olive-grave a small brown bird  
67 死と恋と LXXIV If death be god Bergk137[201]

 このうち、沓掛良彦が、「サッフォーの原詩すら突きとめることができない」として選んだ(そして間違った)のは、58「銀笛」、63「憂鉢羅の葉」、66「幸あるひと」の3篇であるが、このうち「銀笛」がBergk64[54]を引いていることは、先に述べた。

 カーマンが作詩した100篇のうち、何らかの形でサッポーの詩句を用いていることを指摘しがたいものは、わたしの調査では、およそ46篇である。「およそ」というのは、断定に自信が持てないところがあるためである。そして上の12篇を眺めてみると、「原詩を突きとめられる詩篇」と「突きとめられない詩篇」との割合は、全体とほぼ同じであることがわかる。

 サッポーの研究で名の通った沓掛良彦をしてさえ、両者の区別がつかなかったということは、カーマンの「抒情詩百編(One Hundred Lyrics)」が、どの程度の出来映えであったかを示しているように思う。
 ここでは、「サッフォーの原詩すら突きとめることができない」ものを中心に、その発想の手掛かりをみてゆきたい。

「灰色のオリーブ〔樹〕」

XV In the grey olive-grave a small brown bird〔既出〕
海表集66 幸あるひと〔既出〕

 「glauka; ejlaiva」がギリシア悲劇の好みの表現であり、カーマンの時代の人々はこれを“grey-olive”と誤訳し、どうしたわけか詩人たちはことのほかこの表現が好きだったことは先に述べた。おそらくは、これこそがギリシア的と思われたことが、採用された所以であろう。
 この詩篇は、—

Bergk039[136]

春の布令役、妙なる声の夜啼き鶯

[Whartonの訳]

Spring's messenger, the sweet-voiced nightingale.

を反映しているようにも思われるが、よくはわからない。

 また、カーマンが”grey”という語が好きらしいことも先に述べたが、この語を使っている6篇の詩(XV、XVI、XXXI、LXVII、LXX、LXXVI)のうちじつに5篇(XV、XXXI、LXVII、LXX、LXXVI)が、原詩が突きとめられないことも、カーマンは、自分がギリシア的と思う要素を組みこんだにすぎない、というわたしの推測を有利に裏づけているように思う。

薔薇

XVII Pale rose leaves have fallen〔既出〕
63 憂鉢羅の葉〔既出〕

 ベルク校訂本のサッポーの詩句中、薔薇(rJovdon)が出て来るのは、比喩としてだけである。

Bergk65[53]

薔薇の腕した聖なるカリスたち、ゼウスの娘ごたちよ、いざ来ませ。

Bergk068[55]
貴女はピーエリアの薔薇に縁なき身

 ピーエリアとは、オリュムポス山北麓、マケドニアの南東隅の細長い土地。ムーサ崇拝はここから起こったといわれ、そのためムーサたちはピーエリデスPierivdeV〔「ピーエリアに坐す女神(PierivV)」の意の複数〕とも言われる。したがって、「ピーエリアの薔薇」とは、ムーサたちの司る文芸(つまりは「教養」)を意味する。

 「薔薇の腕した(rJodovphcuV〔アイオリス語ではrJodovpacuV〕)」という形容は、しかし、サッポーの発明ではなく、伝統的な詩語であった。

  「薔薇の腕したエーオース」(ホメーロス讃歌XXXI)
 「薔薇の腕したエウニケー」(ヘーシオドス『神統記』246)
  「薔薇の腕したヒッポノエー」(同上251)

 暁の女神(エーオース)の添え名に使われたせいであろう、日本の翻訳者はみな「薔薇色の腕した」と訳しているが、これは間違いである。薔薇色という色は別に存在するのであり、ここで意味しているのは「薔薇色の」腕ではなく、白大理石で造られた彫像のそれのように「白皙の」を意味するはずだからである。呉茂一のみは(必ずというわけではないが)「薔薇の」と訳しているが、「赤みをさした」(『ぎりしあの詩人たち』p.203)と解釈しているのはいただけない。
 この伝統的な詩語を、サッポーは典雅女神カリスに応用した(このこと自体、「薔薇の」が「薔薇色」でないことの証拠とも言える)。Bergk校訂本にはないが、サッポーの断片96には、「薔薇の指さす月(brododavktuloV selavnna)」という用法もある(上の呉茂一の評言は、これに対するもの)。

 Bergk146は、「サッポーは薔薇を愛し、美しい処女をこれに譬えて、称讃の気持ちをこめてこれを花冠とした」というピロストラトスの証言(Epist.71)を採録している(しかし、現代の校訂本は、これを採用していない)。
 ベルクが述べたのはここまでであるが、Bergk校訂本を英訳したウォートンは、これが基になって、ヘレニズム期のアキレウス・タティオスの恋愛小説『レウキッペとクレイトポン』の冒頭に引かれている歌詞が、サッポーの作であるという伝説が生じたとし、しかし、この伝説には何の根拠もないとしながらも、先の歌詞を英詩になおしたブラウニング夫人の訳と、シモンズの訳とを併載している。
ブローニング夫人の訳は次のとおりである。

SONG OF THE ROSE.

If Zeus chose us a king of the flowers in his mirth,
 He would call to the Rose and would royally crown it,
For the Rose, ho, the Rose, is the grace of the earth,
 Is the light of the plants that are growing upon it.
For the Rose, ho, the Rose, is the eye of the flowers,
 Is the blush of the meadows that feel them- selves fair
Is the lightning of beauty that strikes through the bowers
 On pale lovers who sit in the glow unaware.
Ho, the Rose breathes of love ! Ho, the Rose lifts the cup
 To the red lips of Cypris invoked for a guest !
Ho, the Rose, having curled its sweet leaves for the world,
 Takes delight in the motion its petals keep up,
As they laugh to the wind as it laughs from the west !

[尾関岩二の訳]

薔薇の歌

もしツォイス、宴(うたげ)の花の
王(きみ)を選ばば
薔薇を召して
おごそかにかざし給はん

薔薇は、薔薇は
地上の恵み
その上に生ふる千草の
光なれば

薔薇は、薔薇は
花のまなざし
みづからを美しと見る
牧場の恥ろひなれば

恐れなき烈情の下に座する
蒼白き戀人には
胸をついて
ほとばしる電光

薔薇は戀を見つぎ
薔薇は
客のため祈るシプリスの朱唇に
盞を捧ぐ

薔薇は美しくしてその葉を?
世界のためにまき
西より笑ふ風に
萼(うてな)の笑へば
その萼の絶えぬ
ゆるぎをよろこぶ
     (法月歌客『女詩人サッフォ』より)

 「シプリス」とは「キュプリス」の英語読み、つまり、アプロディーテーのこと。

 シモンズの英訳(1883)は次のとおりである。

THE PRAISE OF ROSES.

If Zeus had willed it so
 That o'er the flowers one flower should reigna queen,
I know, ah well I know
 The rose, the rose, that royal flower had been !
She is of earth the gem,
Of flowers the diadem ;
And with her flush
The meadows blush;
Nay, she is beauty's self that brightens
In Summer, when the warm air lightens !
Her breath 's the breath of Love,
Wherewith he lures the dove
Of the fair Cyprian queen ;
Her petals are a screen
Of pink and quivering green,
For Cupid when he sleeps,
Or for mild Zephyrus, who laughs and weeps.

 これらの薔薇の詩も、cygnus_odile という人物が訳出している(「サッフォー拾遺」)。
 ここの2篇の余計な詩を掲載したのは、「薔薇は赤いもの」という先入観の強さを知ってもらうためである。しかしブリス・カーマンは、サッポーの薔薇は白いことを知っていた(XXXII "this white, / white Rose of love")し、月も白かった(LXXXIII "the moon-white butterflies / Float across the liquid air")。

 ウォートンのこのはしゃぎぶりをみれば、ブリス・カーマンならずとも、薔薇の詩を採録しなければならないと思ったことであろうし、また、それが時代の雰囲気というものであった。
 「抒情詩百篇(Sappho: One Hundred Lyrics)」には、じつに10箇所(XVII,* XXVI, XXVIII, XXXII,* XLII, XLIX*, LIX, LXXXIII, LXXXV, XC*)に薔薇が登場するが、(わたしの調査では)約半数は原詩が突きとめられないのである(*印を付した篇)。

 ウォートンが大はしゃぎしている箇所がもうひとつある。
 彼の訳本は、冒頭に長いサッポー伝を載せていることはすでに述べたが、その中で、レスボスの情景を次のように述べている。

 レスボスの温暖な気候と豊かな谷間がもたらしえた人生の贅沢さと優雅さを、彼らはすべてほしいままにできた:みごとな庭園、そこには rose と hyacinth が芳香を放ち、河床には oleander と野生の pomegranate が燃え立つ;olive の森といくつもの泉、そこには、乙女のふわふわした髪を飾る cyclamen と violet ;松の蔭さす入江、そこでは潮の満ち引きのない海で彼らは水浴できた。南の海と海風だけが実らせるような果実;大理石のような断崖、星月夜、春には jonquil と anemone が咲き、来る月来る月、myrtle、lentisk、samphire、野生の rosemary が芳香を放つ;五月に歌う nightingale、神殿はくすんだ黄金に薄暗く、象牙に輝く;半神の姿の彫像とフレスコ画。このような情景のなかで、レスボスの詩人たちは生き、エロースを想ったのである。(p.14)

 ここに、わたしたちは、ブリス・カーマンが「oleander(夾竹桃)」を導入した根拠を見出すのであるが、そうと断定するには、「それでは、なぜ、その他の美しい花々を、カーマンは採りいれなかったのか?」を説明しなければならない。しかし、わたしはその理由を思いつかないのである(ウォートンが挙げた花の中で、カーマンの詩に採りいれられていないのは、cyclamen, jonquil, myrtle, lentisk, samphire, rosemary などである)。

サッポーが歌わなかったもの

 伝存するサッポーの詩句に登場しないもので、ブリス・カーマンが取り入れたもののひとつとして、第1部では「夾竹桃」と「灰色のオリーブ」をとりあげたが、他にもかなりの数にのぼる。それを列挙すると、先ず、植物から──

medlar-tree.jpg
西洋花梨
西洋花梨(medlar-tree)
XIX

There is a medlar-tree
Growing in front of my lover's house,
And there all day
The wind makes a pleasant sound.

And when the evening comes,
We sit there together in the dusk,
And watch the stars
Appear in the quiet blue.

  わたしの恋しいひとの家の前に
  一本の西洋花梨の木が育っている、
   そこでは ひねもす
  風が楽しい音を奏でている。

  そして夕暮れになると、
  夕闇の中、わたしたちはそこにいっしょに座って、
   そして見守っている、星たちが
  静かな青空にあらわれるのを。

 medlarはバラ科の果樹(学名はMespilus germanica)。学名にみられるとおり、原産地はヨーロッパ中部からアジア西南部にわたる地域。ギリシア語ではmespivlhというが、サッポーが知っていたかどうか。Dsc.I-170. Cf. Dsc.I-169(こちらはバラ科サンザシ属)。

 日夏耿之介は「枸杞の樹」と訳した。こちらはナス科の低木(学名Lycium chimemse)で、まったく異なる。日夏の訳詩は以下の通り。

海表集60 枸杞の樹

枸杞(くこ)の樹(き)あり
よいひとの家の簷端(のきば)に生(は)えそめ、
ここもとに 日は日ねもす
風はいと快(よ)き音(ね)つづりつ。

白宵(ゆふべ)となれば
薄明(うすらあかり)を居ならびて
幽寂(いうじやく)の緑の中に現はるる星屑(ほしくづ)など
うち眺めうち眺(なが)むるこの身なりけり。
オークの樹(ilex)
XX

I behold Arcturus going westward
Down the crowded slope of night-dark azure,
While the Scorpion with red Antares
Trails along the sea-line to the southward.

From the ilex grove there comes soft laughter,--
My companions at their glad love-making,--
While that curly-headed boy from Naxos
With his jade flute marks the purple quiet.

  わたしは見つめている 熊の番人星(アルクトゥロス)が西に移り
  薄暗い夜の蒼穹の 混み合った斜面を降ってゆき、
  一方、「蟹」がアンタレースをともなって
  水平線に沿って南へと進んでゆくのを。

  オークの森からしめやかな笑い声 —
  わたしの女友だちの 喜ばしい睦みあいのとき —
  ナクソスからやって来た縮れ毛頭の童僕が
  翡翠の笛で紫色の静寂を刻んでいる。

 "ilex"は、うばめがし(holm oak)、もち属の木(Ilex)、セイヨウヒイラギ(holly)など、区別が曖昧なため同定は難しい。日本では樫の樹、ないし、オークの樹と言った方が通りがよいであろう。オークの樹(ギリシア語ではdru:V)はゼウスの聖木として崇拝され、神域の杜をなしていた。この樹の代表はQuercus Aegilops(ブナ科コナラ属fhgovV)とQuercus Ilex(セイヨウヒイラギpri:noV)である。

 「翡翠の笛」だが、Bergk124[195]には、サッポーは詩を美しくするため、「恋や春や翡翠」を詩に織りこむという証言がある。
トネリコの樹(ash-tree)、アメリカつが(hemlock)
XXXI

Love, let the wind cry
On the dark mountain,
Bending the ash-trees
And the tall hemlocks,
With the great voice of
Thunderous legions,
How I adore thee.

Let the hoarse torrent
In the blue canyon,
Murmuring mightily
Out of the grey mist
Of primal chaos,
Cease not proclaiming
How I adore thee.

Let the long rhythm
Of crunching rollers,
Breaking and bellowing
On the white seaboard,
Titan and tireless,
Tell, while the world stands,
How I adore thee.

Love, let the clear call
Of the tree-cricket,
Frailest of creatures,
Green as the young grass,
Mark with his trilling
Resonant bell-note,
How I adore thee.

Let the glad lark-song
Over the meadow,
That melting lyric
Of molten silver,
Be for a signal
To listening mortals,
How I adore thee.

But more than all sounds,
Surer, serener,
Fuller with passion
And exultation,
Let the hushed whisper
In thine own heart say,
How I adore thee.

  「恋」よ、風をして叫ばせしめよ。
  暗い山の上、
  秦皮の樹も丈高き
  栂の樹も撓ませる風に
  とどろく軍団の
  大音声で、
  わたしがいかに御身を崇めているかを。

  青い谿谷のなか、
  しわがれ声の奔流、
  原初の混沌の
  灰色の霧の中より出づる
  力強い呟きをして
  宣言をやめさせることなかれ、
  わたしがいかに御身を崇めているかを。

  白い海辺、
  ざくざくと地均しする
  巨大な疲れをしらぬ機械の
  長い律動をして、
  この世界が続くかぎり、告げさせしめよ、
  わたしがいかに御身を崇めているかを。

  「恋」よ、最もかよわい被造物、
  若草のごとき緑の
  木-蟋蟀の
  澄んだ呼び声、
  そのすだく声、
  朗々たる鈴の音をして喚起させしめよ、
  わたしがいかに御身を崇めているかを。

  草原の上、
  鋳造された銀の熔解した歌、
  喜ばしい雲雀の歌声をして
  耳傾ける死すべき者に
  合図たらしめよ、
  わたしがいかに御身を崇めているかを。

  されど いかなる音よりも
  より確乎とし、より穏やか、
  情熱と歓喜に
  より満たされた音、
  薄いわが胸の内なる
  小声のささやきをして言わしめよ、
  わたしがいかに御身を崇めているかを。

 もちろん、「アメリカつが(学名Tsuga canadensis)」がレスボスにあったとは考えにくいが。
桃(peach), 山毛欅の木(beech)
LXXIII

The sun on the tide, the peach on the bough,
The blue smoke over the hill,
And the shadows trailing the valley-side,
Make up the autumn day.

Fagus_sylvatica.jpg
学名 Fagus sylvatica
Ah, no, not half! Thou art not here
Under the bronze beech-leaves,
And thy lover's soul like a lonely child
Roams through an empty room.

  潮海の上に太陽、枝に桃、
  丘を覆う青霞、
  谿谷の斜面を伝う影、
  みな秋の日を彩る。

  ああ、否、それは半分だけ! ここ、
  青銅色の山毛欅の葉の下に あなたがいない。
  そしてあなたの恋人の魂は ひとりぼっちの子どものように
  空虚な部屋をくまなく歩きまわる。

 "peach"は、英和辞典には学名Prunus persica とあるが、テオプラストスの『植物誌』にも、ディオスコーリデスの『薬物誌』にも出て来ない。
 この詩では、季節は秋とあるから、野生の柘榴(Punica granatum)のことかも知れない。これなら収穫は秋である。ギリシア語では、柘榴の樹はrJova、花はkuvtinoV、樹皮はsivdionである(Dsc.I-151~153)。古代ギリシア人にとってどれほど重要な植物であったかがわかろうというものである。
 山毛欅の木の同定も難しいが、テオプラストスの『植物誌』を参照するかぎりでは、Fagus silvatica(ojxuvaないしojxuvh)であろう(右上図)。


LXXXIV

Soft was the wind in the beech-trees;
Low was the surf on the shore;
In the blue dusk one planet
Like a great sea-pharos shone.

But nothing to me were the sea-sounds,
The wind and the yellow star,
When over my breast the banner
Of your golden hair was spread.

海表集62 金髪

椈(ぶな)の樹立(こだち)の風しづかに
岸うつ浪もひくかりし、
みどりなすこの昏夕(たそがれ)を
熒惑星(ひなつぼし) 高燈臺(たかとうだい)とかがやきぬる。

されども爰にあだなりき この潮騒(しほざゐ)も吹く風も
黄金(こがね)いろなす行星(かうせい)も
わが胸の上
きみが金髪(みぐし)の旗手(はたて)なすひろごりつれば。

 「熒惑星(ひなつぼし)」とは火星のこと。カーマンは"planet"と曖昧に言ったところを、日夏が特定した根拠は、次の"yellow star"に拠るか。火星は赤いというのが通念ではあるが。
 どうして火星を持ちだしたのか、よくわからないが、火星はギリシア名は"!ArhV"。Bergk91[111]およびBergk66[Alc.349b]にアレースの名は見える。
 この原詩も突きとめがたいが、「over my breast the banner / Of your golden hair was spread」は、Bergk83[126]「優しい女友達の胸に抱かれて貴女の眠るとき」を連想させる。
月桂樹(laurel)
XCIV

Cold is the wind where Daphne sleeps,
That was so tender and so warm
With loving,--with a loveliness
Than her own laurel lovelier.

Now pipes the bitter wind for her,
And the snow sifts about her door,
While far below her frosty hill
The racing billows plunge and boom.

  ダプネーの眠るところ 風は冷たい、
  かつてはあんなにやさしく、あんなにあたたかく
  愛情がこもっていたのに —
  自身の月桂樹よりも愛らしい愛情が。

  今は彼女にとってつらい風がひゅうひゅう唸り、
  雪が彼女の戸口にはらはらと降る。
  彼女のいる凍えた丘の下はるか
  打ち寄せる大波が突進し 轟いている。

 言わずと知れた月桂樹(学名Laurus nobilis)。
 "a loveliness / Than her own laurel lovelier"は、Berk122+123[156]の誇張表現の応用であろう。

 以上、ここに挙げられる植物が、すべて樹木であるのはなぜだろうか?— わからぬ。
 強いてわたしの推測を述べれば、──
 Bergk42[47]は、あらがいがたいエロースが心を揺さぶるさまを、オークの樹を揺さぶる「颪」に譬えた詩句を書きとめている。

Bergk42[47]
エロースが、わが心をゆるがせた、
 山颪が、樫の樹並みを吹きくだるように。

[Whartonの訳]

Now Eros shakes my soul, a wind on the
mountain falling on the oaks.

 そうとすると、カーマンがとりこんだ樹木はすべて、Bergk42[47]のオーク樹の変奏にすぎないとも考えられる(オークを意味するdru:Vは、樹木一般を指す言葉でもある)。つまり、風と樹木(あるいは風が吹き抜ける枝)との関係は、エロースと、それに翻弄される恋する人間との比喩的関係にあり、カーマンの詩においては、すべてここに収斂してゆくということである。
 以上に挙げた詩篇がすべて、原詩を突きとめがたいものであることも、注目にあたいする。

 XXXVには"mallow"が出るが、無視した。ウスベニアオイ(Malva sylvestris)であろう。ギリシア語は"malavch"(Dsc.II-144)。cygnus_odile さんは「立葵」と訳したが、そうとすると"mala;ch khpaiva"〔「菜園のマラケー」の意〕。栽培種である(Dsc.II-144)が、テオプラストス『植物誌』は樹木の中に入れている。野生の"malavch ajgria"は、別名"ajlqaiva"(ウスベニタチアオイ。Dsc.III-163)である。

 ほかには、XLIに"plum"、西洋スモモ(Orunus domestica)、ギリシア語ではkokkumhleva(Dsc.I-174)。Cに西洋ナシ(pear-tree)、ギリシア語では"a[pioV"(Pyrus communis)(Dsc.I-167)などが出る。後者の詩篇は第3部に取り上げる。

昆虫もまた

 ブリス・カーマンがとりいれた(しかしサッポーは歌っていない)昆虫にも、ある共通点がある。

LXVI

What the west wind whispers
At the end of summer,
When the barley harvest
Ripens to the sickle,
Who can tell?

What means the fine music
Of the dry cicada,
Through the long noon hours
Of the autumn stillness,
Who can say?

How the grape ungathered
With its bloom of blueness
Greatens on the trellis
Of the brick-walled garden,
Who can know?

Yet I, too, am greatened,
Keep the note of gladness,
Travel by the wind's road,
Through this autumn leisure,--
By thy love.

 "cicada"は、古来、tevttixのラテン語として、ふつうに用いられてきた。しかし、ラテン語が西洋諸国の共通語として用いられるとともに、tevttixをよく知らない人々の間で、この昆虫の概念も曖昧になったらしい。希英辞典L&Sでさえ、旧版では"cicada"と説明していたが、新版(L&S&L)では、何と!(イタリア語の)"cicala"とし、学名を挙げている始末。tevttixをよく知っているイタリア語なら、間違いないというわけである。

 "dry cicada"とは何であろうか? 「抒情詩百篇」を全訳した cygnus_odile さんは「(脱皮して)羽根の乾いた蝉」と訳したが、考えすぎであろう。LXVIII には、"Ask how your brave cicada on the bough / Keeps the long sweet insistence of his cry;"とある。"dry"は、この"brave"と(意味も)響き合っているのだと思う。

 ホメーロスには、ただ1箇所tevttixが登場する。弁舌のさわやかなこと、森のしげみの樹上にとまって、嚠喨たる声を放つところの蝉のごとし、と(Il.3.151)。呉茂一が「嚠喨たる」と訳した原語"leioveiV"を「嚠喨と」と訳してよいか問題はあるが、これがムーサたちの声の形容にも使われている(Hes. Th. 41)ことは注目される。ギリシア詩文に登場する「歌い手」とは、つねにtevttixであり、これ以外に鳴く虫が歌われた例を寡聞にして知らぬ。

 さらに、LXII〔既出〕には、"The crickets all are brave;"とあった。この"cricket"こそ、"cicada"に対応する英語として(つまり翻訳語として)用いられてきたものであるが、日夏耿之介も「蟋蟀」と訳している〔既出〕。蟋蟀が"brave"というのも奇妙だが、全体的に見てブリス・カーマンは昆虫をよく言い分けていることと、季節が"the red autumnal earth"で表されていることから、LXIIの"cricket"は正真正銘の蟋蟀と考えてよかろう。

XXXI Love, let the wind cry〔第4聯のみ〕

Love, let the clear call
Of the tree-cricket,
Frailest of creatures,
Green as the young grass,
Mark with his trilling
Resonant bell-note,
How I adore thee.
tree-cricket.jpg
tree-cricket

 この"tree-cricket"も、tevttixに充てられることの多かった訳語である(この正体を明らかにするため、わたしたちはどれほど議論を重ねたことか!)。
 しかし、この虫は、近年、日本に帰化し、夏の夜など、鈴掛の街路樹の葉裏で突然大きな声で鳴きだし、わたしたちを驚かせることがある。
 蝉の鳴き声によく似ている。わたしも初めは蝉かと思ったほどである。
 しかし、ブリス・カーマンはこの昆虫をよく知っていたらしい。”Green as the young grass”がそれを証する。

 これらの昆虫に共通している特徴は、鳴く虫だということであるが、鳴く虫の導入が、カーマンにとってはなぜ必要だったのだろう。
 うまい理由を思いつかないが、先に(第1部で)、「抒情詩百篇」には笛(アウロス笛にしろ牧笛にしろ)が頻出することを述べた。あまりのくどさに、すこし変化をつけようとしたのかも知れない。
 昆虫の出る詩篇は、LXIIを除いて、他の詩篇は原詩を突きとめられないのも、示唆的である。

抒情詩百篇を解く鍵語"desire"

Bergk23[36]

kai; poqhvsw kai; mavomai

[Whartonの訳]
I yearn and seek ...

 ブリス・カーマンは、この1句にサッポーの情念の核心を見たらしい。──

XLVI

I seek and desire,
Even as the wind
That travels the plain
And stirs in the bloom
Of the apple-tree.

I wander through life,
With the searching mind
That is never at rest,
Till I reach the shade
Of my lover's door.

海表集65 人の世をゆく

われ覓(もと)められ冀(こひねが)ふ
小野(をぬ)をさわたる
かぜのごと
林檎(りんご)花(はな)さく樹(こ)ばやしに
揺(ゆら)めきさやぐ風のごとく。

こひびとの
簷頭(のきば)にたどりつかむまで、
斷えずまも
心もとめて、
人(ひと)の世を彷徨(ゆ)く。

 ブリス・カーマンは、ウォートンの訳語には飽き足らなかったものとみえる。"seek and desire"という表現はまだウォートンに譲ったのであろうが、カーマンみずからは"longing and desire"の方を好み(LXXXV, XXIII)、時に"love and desire"(II)の組み合わせに変形、さらには、両方を混合した形"love and desire and longing"をも採用している(XLVIII)。
 どの形を採るにしても、中心は"desire"である。
 この語が単独に用いられている場合を含めると、"desire"はじつに「抒情詩百篇」中、14箇所 — II, XII(2箇所), XXIII〔既出〕, XXV〔既出〕, XLIII, XLVI, XLVIII, LV, LVI, LXXXV, XCII, XCVI, C — に登場するのである。この事実は、カーマンがこの語に与えた重要性を示唆していよう。
 しかし、問題は、これをどう訳すか、である。恋情には違いないが、いかなる内実のものなのか。

 maivomai(アイオリス語ではmavomaiとも)の語義は難物である。ホメーロスでは、「妻を娶るためにこれを探し求める」意で使われていた。

それこそもし神々が私を護りたもうて、故郷に帰り着けたら、
そしたらきっとペーレウスが 自分でもっとよい妻を探してくれよう、
ヘラス中、プティエー中には アカイア女が多勢いる、
国城や、とりでを領する 立派な国主の娘たちが。(Il. 9.393-396)
           (呉茂一訳)

 しかしL&Sは、サッポーの問題の詩句を引用して、"desire"の意を充てている。で、その内実は……?

 ここに、わたしたちは願ったり叶ったりのテキストを所有している。恋について対話したプラトーンの『パイドロス篇』である。

 ……かくて彼は恋する。しかし誰をであるかを知らない。また何を体験しているかを知ってもいず示すこともできない。むしろ、あたかも他人から眼病を感染したときのようにその原因を言うことができず、ちょうど鏡のなかに見るように恋している者のなかに自分自身を見ながらそれに気付かずにいる。そうしてかのひとが傍に居る場合には、かのひとと同様に、痛みが止むけれども、離れている場合には、同様に焦がれまた焦がれられる(poqei: kai; poqei:tai)。恋の影像である返し恋(アンテロース)を抱きつつ。しかし彼はそれを恋ではなく友愛(ピリア)と呼びまたそう想っている。彼はかのひとと似た仕方で、程度は稍々弱いにしても、見、触れ、接吻し、共臥することを欲し(ejpiqumei:.....oJra:n, a{ptesqai, filei:n, sugkatakei:sqai)、そうしておそらくその後直ちにこれらのことを行う(poiei:n)であろう。(255d-e)
          (三井 浩訳)

 このように、poqevwejpiqumevw(これが英語の"desire"に該当する)との違いを明らかにしてくれているのである。
 われわれは、エンデュミオーンに対する月女神セレーネーの恋を想起すればよいかも知れない。月女神セレーネーが恋し、ラトモス山に拉致し去って、不老不死の永遠の眠りを与え、女神は夜な夜な天上より降り来たって、眠れる恋人と夜をともにするという……、そういう恋情である(セレーネーとエンデュミオーンの言及は、Bergk134[199]にあり、カーマンもXCI "Why have the gods in derision"に歌いこんでいる)。
 しかし、この恋情を十全に言い表す日本語となると難しい。
  日本人は、恋すると、心がからだを離れて、うつけになるらしいのである(例えば、古語の「あくがる」)。


forward.gif参考:ブリス・カーマン『サッポー:抒情詩百編』(3)
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