古代ギリシア・ローマの言語と文学の学生兼教師として、数年前、わたしは文化昆虫学の世界に初めて入門したのであるが、そこに通じる扉は、おびただしい数の古典作家たちによって魅惑的に開かれたまま、彼らの作品に光彩を放っていたのは、セミの生活と生態を含む言及、暗示、あるいは、広範といってもよい文学的挿話であった。およそ20年前のことだが、わたしの学生に、物理学に詳しく、コンピュータ応用の(少なくとも、わたしの経験から言えるところでは)草分け的存在で、古代ギリシアにも玄人はだしの強い関心を持った女学生がいて、彼女は音声合成機とコンピュータとの助けを借りて、古代ギリシアの弦楽器であるキタラの音を再現する試みをわたしに語った。わたしの学生は、古代の図版や文学的言及から拾い集められるだけの情報の断片を何でも利用した。シンセサイザーから最終的に出てきた産物は、わたしの耳には音楽どころではなかったが、研究計画は極めて、とりわけ、エウノモスという名前の人物に関していくつか伝存しているギリシア語の記事のひとつを読んだばかりだったので、興味をそそるものであった。エウノモス(すなわち、「よき調べ」氏)は、熟練のキタラ奏者兼歌い手で、競演会で歌いかつ演奏していたとき、彼の楽器の弦のひとつが切れた。この危機に、彼は不思議にもセミの助けを得た。つまり、セミが彼の楽器にとまり、その声で、失われた第五の弦の代わりをつとめ、彼に高名な勝利を獲得する権利を与えたというのである。わたしの心に浮かんだのは、おそらく、この物語が、わたしの物理学の学生の研究計画に適用されるかもしれない若干の情報を含んでいるかもしれないということであった。セミの歌は、楽器の第五弦すなわち最高音の弦と特別の関係があるということは、古代のキタラがどのような音程であったのかについて、我々に何ごとかを語ってくれるのではないか? 彼女との接触を永久に失う前に、わたしはこの疑問をその学生とともに放置した。だから、どのように、あるいは、彼女がそれに答えを出したどうか、また、彼女の進路を文化昆虫学へと導いたかどうか、わたしは知らないが、この疑問はわたしの心の裏で、この20年間、未解答のままうなり続けた。その間、わたしは学者として、ギリシア文化におけるセミと、そのさまざまな表明について学びを重ねることで、わたしの人生の時を過ごしてきた。 わたしにとって、エウノモスとそのキタラは、個人的に好奇心を刺激するのに役立ち、セミと、その博物誌、その音楽的活動、その食餌と、人間文化における、特に文学と民間伝承における地位について、多くの案内を見つけ出すことをわたしに促した。振り返ってみると、この生き物について、わたしは実質的に完全な無知から出発したことを白状しなければならない。彼(たしかに、たいていは彼/雄なのだ)は、わたしが専門性をいささか自認するギリシア・ラテン文学の頁を、しばしば、また際だって中断するという事実にもかかわらずである。古典文学におけるセミや他の「歌う」昆虫たちに関するわたしの遅ればせの教育は、文化昆虫学の世界への2つの導きの光との個人的で親密な知己を確立することで、幸運にも助けられてきた:ひとりは、もとロサンジェルス地方自然博物館のチャールズ・ホゲ、もうひとりは、もとリュマン昆虫博物館およびマクギル大学調査図書館のキース・ケヴァンである。わたしがギリシア文化におけるセミについて、自分自身の研究の一部の調査に着手するほどに、これらの2人の昆虫学の良き指導者の忍耐と寛容に大いに感謝する次第である。 わたし自身の最初の無知は、今では謙遜して言うことができるが、ギリシア・ラテン文学の関連する章節を著したり、それらの節を英語や他の現代語に翻訳する多数の学者たちと共有するものであった。わたしは文化昆虫学者へと部分的に変身したので、それらの同僚古典学者たちに今ではいらだちを表すことができるのだが、彼らはセミ(tettix)をキリギリス(grasshopper)と同一視するのだが、これは、初級ギリシア語や古典神話を教えるために使う教科書の著者たちによって犯された誤りである。ここであまり一般化してはならないが(というのは、L. Bodsonや、Davies & Kathirathambeyや、Beavisといった学者たちは、優れた能力を駆使して、セミ学および関連領域の原著論文を書いているのだから)、このひとつの誤りは、セミに関する知識状態の典型をなし、数多くのギリシア・ラテン学者によって所有されているのである。古代文献の翻訳者たちや注釈者たちが偽りの推測ないし誤伝にもとづいて仕事をしているという事実は、セミについて何事かを知っている昆虫誌家にさえ何らかの結果をもたらした。それは、このような昆虫学者たちがラテン語ないしギリシア語を知らないために、彼/彼女は、これらの言語を知っている人々のなすがままになり、これらの人々を通して、情報ないし誤報はフィルターをかけられるからである。わたしは、昆虫学の文学を読み、昆虫学者たちと相談することを通して、わたし自身の自学自習の努力が、いくつかの点でこの悪循環をうまく断ち切ることができ、ギリシア文学のいくつかの章節が新しく改善された読本を成し遂げられると思う。ここで、以下に続くことにおいて、わたしは昆虫学の事実を、古典文学についての知識に結合させる解釈の結果の若干の例を述べたい。 この分野におけるわたし自身のいくつかの研究の記述に向かう前に、ちょっとした、包括的な概観からは程遠いけれども、古代ギリシアにおけるセミに関する事実と信念の概観を提示したい。地中海の田園地方で、夏のどんな一部でもすごしたことのある者なら誰でも証言することができるように、セミは、たいてい暑い日中、そのひっきりなしの唱歌を通して、周囲への変わりない、至る所にいる貢献者である。もちろん、それは数千年間そうであった;たしかに、世界のその部分に人間がいるかぎり、セミたちも、人間の耳にその音楽をしつこくドラム演奏していた。人間の側では、その音楽の美的な受け取り方は、一様に好意的というわけではなかった。多くの現代の訪問客は、この昆虫の歌の美しさを、古代ギリシア人ほど広範な熱中を共有しない、またローマ人たちの耳も(味ニツイテハ議論スル能ハズ)、ラテン語詩人の語から判断するに、その音楽性よりも、むしろ耳障りで騒々しい音という印象を植えつけられたようである。事実、ギリシア文学の中に、たいていは喜劇の詩人の中であるが、セミのおしゃべりな饒舌さについてのいくつかの言及がある。この音が好きであろうと好きでなかろうと、その経験を避け得た古代ギリシア人は極めて稀であったろう。だから、ギリシア文化――文学であれ、視覚芸術であれ民俗であれ科学的著述であれ、また、以下にわたしが明らかにしたいように、哲学や宗教においてであれ――に、セミがかくも多く多様な仕方で現れることは、驚くに当たらないのである。 古代ギリシア人たちや、他の多くの観察者たちの注意を惹いたのは、セミの歌ばかりではない。数ヶ月から数年をすごす地下からの幼虫の出現、その外皮を脱ぐこと、成虫の段階を始めるときのその羽の展開は、観察者の好奇心と驚嘆を刺激するもうひとつの過程である。一連のこの出来事の全体が、簡潔に、しかし正確に、前4世紀、偉大なギリシアの博物学者アリストテレスによって、その『動物誌(Historia Animalium)』(すなわち、生き物の調査研究)という題名の著作の中に記述されている。アリストテレスによって提供された記述の中には、これに先立つ数世紀の間に、素朴な観察者によって目撃され得なかったようなことは何もない。そして、この種の観察こそ、セミは「地中から生まれる」ということ、あるいは、復活が可能なこと、したがってまた、不死の適切なシンボルであるという、かくも広範な信念を一般化した。これと関連する信念は、その皮を脱ぎ捨て、その新しい白い体に、翼をはやすことで永遠の若さを実現できる、というものであった。もうひとつの民間に流布した信念は、これまた観察にもとづくものだが、セミは露ないし露と空気で完全に生活できるというものであった。彼らが空気を栄養にしているという観念は、彼らの腹部の大きな空隙の検査に由来したかもしれない。彼らの食餌である露に関しては、多数の現代人も同様に見て取ったごとく、観察にもとづいているはだ。昆虫たちがたかる樹の中の、また樹のまわりの、樹液の量によるのであろう。実際、この樹液は、木質部を餌にする昆虫たちによって樹皮にうがたれた穴からにじみ出たり、その一部は、樹にたかって樹液を吸う昆虫たちが産出することのできるおびただしい量の排泄物にもなる。 おそらく、古代ギリシアにおけるセミの最も早い文化的な証拠は、有史以前、すなわち文献のない時代、紀元前2000年紀にさかのぼる。19世紀、ミュケナイの青銅器遺跡、つまり、ギリシア軍をトロイに率いたアガメムノンの伝説上の故郷の都市を発掘していた考古学者たちは、豊かな墓列の中で、羽のない昆虫の多数の模型は発見した。これがセミの幼虫を表しているという彼らの同定が正しいならば、ミュケナイの有史以前の上流階級は、セミのライフ・サイクルについて何ごとかを知っていて、その像を、不死の象徴、あるいは、セミの幼虫が実際に数ヶ月から数年間住む地界からの帰還の象徴とみなしていたと推測することは、わたしたちに任されている。考古学的な記録は、本来無言であるから、この推測を確かめることはできない、しかし、わたしが以下においてはっきりさせたいと望むのは、そのような信念は、ほぼ1000年後に書いた哲学者プラトンの対話編の中に言わず語らずに見られるということである。プラトンは、アテナイで生き、著作した。この都市の伝統は、セミに最高の地位を与え、その像は、都市の鋳造硬貨のいくつかを飾った。一流のギリシアの歴史家のひとりツキュディデスは、プラトンより前の世代のアテナイ人であるが、往時、アテナイ人たちは、黄金製のセミの飾りを髪につけたとわれわれに告げ、後の権威者たちの報告では、セミは、アテナイ人の「土着性(autochthony)」の象徴であったという。この〔「土着性(autochthony)」という〕考えが主張しているのは、アテナイ人たちの最古の祖先は、この土地の土から跳びだしたのであり、したがって、この土地に対する譲渡できない権利を彼らの子孫に遺贈している、ということである。プラトンとツキュディデスに見られる文学的証拠は、ミュケナイ考古学の証拠と結びついて、セミのライフ・サイクルのうち地下の生長段階に気づいていたこと、大地からの最後の出現の観察は、時間の長い範囲を超えて、ギリシア人たちの文化的な昆虫学に貢献したという仮説を促す。この昆虫学は、出生と死と再生について彼らの信念との関係を含んでいた。ミュケナイの先史時代の墓石群の期間と歴史家ツキュディデスとの間の数百年間は、不死の象徴としてセミを示している証拠の少なくとも1つの追加を与える。これは、セミ男ティトノスの神話で、彼はハンサムな青年として、「曙」女神の恋人になった。彼女は、彼の愛をよろこんで、彼に不死の贈り物を与えた。こういった物語すべてにおいて、神的な贈り物が無条件の祝福ではないように、彼の不死も容赦なく進む加齢を伴った。あわれなティトノスは、老いに老いを重ね、だんだん小さくなり、ついに、その金切り声以外彼には何も残らなかった、あるいは、ついに彼はセミになった(非常に多くの英訳にあるキリギリス(grasshopper)ではない)。さて、この物語に対する現存する最初期の権威は、性愛の女神アプロディテ讃歌(年代は紀元前500年以前にさかのぼる)であるが、後の記事が語るようなセミへの変身に明示的には言及していない、しかし、次のことは尤もらしい推測である、――詩人は、詩的な効率の動機から、ギリシア詩人たちによってしばしば使われた自由を行使して、物語の扱いにおいて、聴衆に既によく知られていると確信できる細部は省略したということである。ティトノスの本来の物語においては、セミになるということは、実際、更新できる若さという付加的利益とともに、不死になることと同じことであったということも言わず語らずの内に認められていたであろう。 セミに対する最初期の明示的な言及は、あらゆる西洋文学の最初期の作品のひとつ――ホメロスの『イリアス』(トロイ戦争という枠組みの中に設定された事件の長い叙事詩的な物語)の中に現れる。ある箇所〔『イリアス』III_152〕で、包囲された都市の長老たちが、巨大な城壁の上に立って会話しているところが記述されている。この詩人は老人をセミ――樹にとまって、ギリシア語の形容詞"leirios"によって記述される声で歌っている――に喩える。現在、古代ギリシア語のすべての辞典が、この形容詞が「ユリのごとき」を意味することを我々に告げている。完全に尤もらしくみえる見通しをもって、この形容詞は、「ユリ」を意味する名詞"leirion"から作り上げられたと推定できるからである。(たいていのギリシアの植物の命名法は、過剰と矛盾に満ちているとはいえ、少なくとも、このことは時々起こることである)。そして、実質的に、この詩行に対する『イリアス』のあらゆる翻訳、あらゆる学問的な注釈が、老人が対比されたセミが、「ユリのごとき声」を持つことを我々に告げている。しかし、セミの声について、「ユリのごとき」とは、いったいどういう意味か? この疑問が、この行の読者を大いに悩ませ、そして、多量の紙とインクと、学者の発明の才――しばしば、共通美感的イメージ、これによると、1つの知覚領域にふさわしい記述が、他の知覚領域に、今の場合なら、視覚から聴覚に移される――がこれに答えようとすることに費やされた。文化昆虫学者として、わたしもまた、かなりの量の時間と努力を費やして、この疑問に答えよう、あるいはむしろ、異なった前提でこの問題を解こうとしてきた。わたしの一般的な不満は、セミの声を「ユリのごとき」という語で説明することは、セミの生活と生き方についての私の知識が増えるにつれて、わたしに異なった疑問をいだかせた。もしも、"leirios"が、実際には「ユリのごとき」と違った何かを意味するとしたらどうか? 私は、セミとその声について、種々さまざまな原典から知るにいたったすべてのことを、わたし自身で下稽古した。それらの原典は、ギリシア・ラテン文学のおびただしい詩行を含み、ギリシアの詩人がこの昆虫の声を記述するとしたら、どんな方法を選ぶかという仮定に対する見解を伴っていた。私はいくつかの仮説を吟味し、拒絶して、ついに、セミが露を食餌として生きるという広範な民衆的・詩的な観念に焦点を当てるにいたった。この伝統とともに、露は、蜂蜜のように、これを吸収した人の声に、甘さと雄弁さを添えると古代人たちに想像されていたことを思い出した。したがって、ホメロスのセミの声は、「ユリのごとき」ではなく、「露にぬれた」、「湿った」、「液体」、あるいは、「流れるように」なのか? 一見しての答えは肯定的だった、しかし、提案された意味が支えられることができるかどうか、あるいは、少なくとも、大目に見られることができるかどうか、"leirios"の他の文脈によって見ることで、仮説を吟味することが残った。わたしは、伝存するギリシア文学(半ダースほどにすぎないが)の中に、このような文脈をすべて調べ、そして見つけたことは、各事例の中で、「ユリのごとき」という意味が問題を含んでいることのみならず、いくつかの事例では、文脈から言って、実質的に、「湿った」、「露にぬれた」、「水っぽい」というような意味を要請しており、その意味が適用されるなら、それらの箇所のいずれもが意味がよく通るということであった。結果的に、"leirion"は、花言葉として、水または露を含む植物との何らかの関係のゆえに"leirios"からの逆成語であったかもしれない、と結論づけた。これらの調査結果の全てを、わたしは適当な研究雑誌に、露を飲むセミとの共同作品として正式に発表したが、これは、古代ギリシアの辞書学に対するひとつの貢献であるとわたしは考えている。 ギリシアの文化昆虫学において、記述さるべき次なる冒険は、世界の知的歴史における傑出した人物の一人、哲学者プラトン(前429-347年)を含む。プラトンの作品の大部分は、対話形式――2人ないしそれ以上の対話者たちが、知的ないし道徳的な論点を探究するという哲学的な会話――をとる。このような対話編のひとつが『パイドロス』で、これはその2人の参加者のうちの1人、アテナイの聡明な若者の名をとったものである。この若者は、弁論術――利口な会話制作術で、当時の最も重要な教育的・専門的追求の1つであった――の追求にほとんど病みつきとなっている。もうひとりの参加者はソクラテスである。このとき、かなりの年配で、実生活において、著者プラトンの良き指導者であった。対話に携わっているのは、血肉の通ったこの2人のみであるが、しかし、この対話の場面は、アテナイ市郊外の田舎に設定され、ソクラテスとパイドロスとは、ひんやりした草地の土手の木陰に座し、その樹は、ソクラテスとパイドロスとの会話に音楽の背景を提供するセミの合唱によって占められている。プラトンのセミに関するわたし自身の見方の一般的な信念は、昆虫学のわずかな知識が見ることを助けてくれること――セミは、この対話編の思想と行為において、端役以上に重要な役割を持っている、ということである。 『パイドロス』は複雑な対話で、要約するのが難しいことで有名であるが、事実、複雑すぎて、多くの批判的読者が、統一性と一貫性の明白な欠如を咎めてきたほどである。確かなことは、ソクラテスとパイドロスの注意を占める重要な問題のうちの2つが、エロスと、対話とは反対の関係にある弁論術の長所とである、ということである。ここで、われわれが気づくべきは、プラトンの用語において、エロスとは、生物学的ないし感情的な欲求では決してなく、知的なあこがれ、感覚の彼方に知識を探し求める魂の欲求にほかならない、ということである。同様に、プラトンの見解によれば、対話は知識の方法であり、かくしてまた、感覚においてはエロスの道具である。したがって、エロスと対話とのこの入り組んだ繋がりは、プラトンの文脈においては、ほとんど当たり前のことであるかもしれない。ギリシア人たちの当たり前の信念において、また、彼らの詩的な奇想において、セミが雄弁と恋との両方に強力な関係性を有するということ、そして、セミがまたこの対話の特徴を浮き彫りにしているということは、偶然のことでありそうにない。前者の関係の根拠は、彼らの著しく強力で音楽的な声と明らかに関係している。他方、エロスとの関係は、彼らの交尾(アリストテレスによっても我々のために記述されている)の観察と、おそらく彼らの唱歌が性的な機能を持っているという推論とに由来するに違いない。この種の雄弁とエロスは、もちろん、厳密には感覚的、物理的なレベルにとどまるが、しかし、わたしの思うに、『パイドロス』のセミは、単に血肉の通った存在ではない。この点については、わたしはさらに何節かを使って詳述しなければならない。 この対話編における中枢的な連結部で、パイドロスとソクラテスとが川岸の、セミが頭上でしゃべりまくっているスズカケノの木陰に腰を下ろしたとき、ソクラテスはパイドロスに忠告して、この心地よい場所で眠りに落ちるような間抜けなことをしてはならない、むしろ対話に携わらなければならない、そうすれば、セミたちは芸神たちの使いとして自分たちを観察していて、帰って芸神たちに自分たちことを良く報告してくれるだろうという。パイドロスは、ソクラテスが何を言っているのかわからないと白状すると、ソクラテスはセミに関する伝統的な信念を彼に告げる。その効果的な話は、――昔々、芸神たちが誕生する以前、セミたちは人間であった。けれども、ひとたび音楽が人間に紹介されるや、これらの者たちは、芸神たちの仕事のとりことなって、音楽に完全に没頭し、飲食を忘れ、ついに彼らの身体は消滅する結果になった。芸神たちは、彼らの献身に報いるために、彼らをセミに変えて、彼らに他の人間が芸神たちをいかに尊敬したか報告する任務を課した。『パイドロス』の多くの博識な読者たちは、これを魅力的な小話――おそらく場面にはふさわしいが、この対話のもっと真面目な哲学的部分の間では、基本的に幕間劇ないし間奏曲として役立つ――にすぎないとみなした。しかし、セミが、芸神たちの影響のもとに、その身体が永久に消えて行った人々であると言うことは、彼らの物理的な身体の必要が通常許されているよりも高度な知識の水準を達成したところの、身体から分離した魂であると言っているに等しい。初期のプラトン注釈者たちは、古代後期に、またルネサンス期にも、実際、セミが魂を表すはずであると述べているが、しかし、この対話編の現代の哲学的な読者たちは、概して、それが注意に値しないと見ている。実のところ、私の信じるところでは、セミ人間を、物理的な身体の制約から解放された魂と見ることは、この対話編のほかの箇所で明示的に補強されているのだが、これを認識するには、セミの変態についての若干の知識を必要とする。 我々のプラトンの対話とそれとの関連性を見せるための準備として、何人かの現代の観察者たちの記事から、セミの変態の以下の簡潔な記述を、一種の抜粋綴りとして集めたものを提供しよう。セミの出現と最終的な脱皮とのアリストテレスの記述はかなり簡潔であるが、それは現代の観察者たちのそれとまったくぴったり一致している。このことは、プラトンの時代の一部のギリシア人たちが、アリストテレスやその情報提供者がしたのとおなじく、ここに記述されるのと関連する現象を観察したと我々に話すのに充分である。 数分の間に、しかも、数平方ヤードの区域に、何百何千の昆虫――まだ羽のない、浅黒い、泥だらけの――が地面から現れ、這ってゆき、木の幹や枝のような、彼らが足によってみずからを固定できるものを見つけようとするのが観察されてきた。最終的な抜け替わりすなわち脱皮(ecdysis)がこれに続く。この昆虫は、一連の腹部の収縮を行うが、これには痙攣と動悸、固い外骨格の下を流れる入れ替わりの流体の分泌がともなう。ある昆虫学者がこれを表現するところでは、全身が一時的にひとつの巨大な腺になる。数分たつと、外骨格すなわち表皮は中央で割れ、胸部の頂点と、湿った白い身体の一部が、暗い表皮に開いたところから盛り上がってくる。徐々に、この昆虫は身体の残りの部分を外部に押し出し、ひからびて生命のない表皮は、樹の上のその場所にまだ固定したままにする。最終的に昆虫の羽になるはずのものは、脱皮の過程が始まる前に、表皮の下にすでに認められる。そこに、それらは胴体の頂点の背中の2つの小さな詰め物として現れる。脱皮が続く間に、この果肉の小さな塊は徐々に展開し、窮屈な外皮からひとたび自由となると、流体をむやみに詰めこむ。羽の展開は、昆虫が表皮から完全に分離した後、しばらく完全になることはない。この間、最も顕著で変則的な特徴は、その黒くて突き出た眼であるが、色彩的にはほとんど完全にまだ青ざめている。羽は、更なる動悸と痙攣の中に、その最終的な形とる。何人かの観察者は、完全な展開の後、羽の先端に流体のしずくが残っているのを眼にした。この時点で、この昆虫はその成虫としての人生の短い期間を、エロスと雄弁に捧げる準備ができているのだが、羽は、休めているとき、実質的に頭から身体全体を覆っている。 魂たち、それも、翼を持った魂たちという点で、『パイドロス』におけるプラトンのセミは、セミ人間についての章節には見あたらないけれど、ある種の翼を持った魂と大いに共通点を持っている。とにかく、セミの出現、脱皮、そして羽の伸展についての知識をもつ者なら誰しも、繰り返される顕著で明示的な言及をともなう対話を読んで、対話の他の一部でも、同じ昆虫のほのめかしを見ないことは、難しいに違いない。セミ-魂のライフ・サイクルに対するプラトンの言及だとわたしがみなすものは、エロスと、愛者-哲学者-対話者の魂という長い談話のなかで、広く行き渡った、抒情的、ほとんど音楽的な仕方で提示される。ソクラテスは、ちょうど今、「幕間劇」の前に、セミ-人間の談話をし終わったところである。 とりわけ、ある箇所で、魂の翼が記述されるのは、新たに入信した個人が、美しい人の顔を見つめるときにほかならない〔『パイドロス』251a-c〕。彼は動悸がし、汗をかきだし、恋人からの湿気の流出が、彼の眼に入ってきて、彼に溢れ、翼の芽体を湿らせ、それまで翼を閉じこめてその生長を妨害していた硬い部分を柔らかくして、その結果、今や羽の軸が、その根から生長し、ついに魂の形全体を覆にいたる。歯の生え始めに似たこの過程で、魂全体は、ソクラテスが繰り返すところでは、鼓動と動悸を経て、恋人から溢れるところの柔らかくする湿気を助けとして提供して、翼の生長を許す。同じイメージは何度も繰り返され、少し後でも〔『パイドロス』255c-d〕、恋人から流出する液体が、愛者の上に、また愛者の中に、ふんだんに溢れるとき、彼から溢れ出て、恋人の眼を通して逆流し、その翼の血管を甦らせ、魂の翼を生長させるかのように、これを愛で満たす。愛者の有翼の魂というイメージは、もう一度変奏して繰り返される〔『パイドロス』256a-e〕。そのとき、ソクラテスは言う、――秩序立った生命と哲学への傾向が勝ったそれらの恋人たちは、死の時点で充分に有翼であるが、これに反して、あまり模範的でも端正でもない存在である友人は、身体を後にするとき、まだ無翼の魂を有するであろう。たとえ彼らの魂が有翼となる途上にあるとしても、そして、ひとたび上方への旅を始めるや、地下の暗闇に二度と通過することはないにしてもである。セミ、つまり、わたしが論じているように、人間の魂の模型は、有翼となる途上に現れるということは、地下の暗闇から確かなことである。 以上が、この会話において、セミによって霊感を与えられた昆虫学的イメージのより目立った事例とわたしの考えるところのものであるが、このようなイメージが認められる補足的な箇所がある。例えば、魂の不死に関する彼の議論において〔『パイドロス』245c-246a〕、ソクラテスはこう言う。魂がその翼を失ったとき、何か固いものの上に据えられるまで運ばれ、そこで、実際は、身体の内なる魂がそれを動かせるのだが、自力で動くかのような印象を与えるこの世の身体を想像する〔同、246b-d〕。これは、後に続くソクラテス自身の語から、次のように推測することが我々にゆだねられている。つまり、魂は、大地の下、懲らしめの場所で、長い期間奉仕した後、(無翼のセミがそうするように)再び現れ、(セミが外皮から現れるように)可死的で不活発な身体から自由となって、再びその翼を生やすだろう〔同、249a-c〕。それからまた、ソクラテスは神々の空想的な記述を進めた上で、哲学者の魂といっしょに、超天的実在を観照するための天上への跳躍を超えて、地面の下から他の経験の地平(そこにおいて、それは無翼の状態から有翼の状態へと変身する)に現れるセミの考察を引き出す。 『パイドロス』の読者が、セミの出現、脱皮、羽の展開の詳細に熟知していると、愛者の魂に関するプラトンの豊かな比喩的な記述が、地下の世界から、新しくてより明るい存在へと、現実の異なった地平における有翼の生物としての、セミの出現の観察に基づいていないと想定することは極めて難しい。このことが特に認められるのは、この対話の設定における昆虫の目立った存在と、セミに関するソクラテスの小話である。このセミは、知識を熱望するあまりにその身体を失い、より高次の存在形式へと変身した人間にほかならない。わたしたちが想像できるのは、少なくともプラトンの読者の古代における、あるいは後の時代における何人かは、芸神たちに心酔するセミと、プラトンの哲学的愛者との間の関連を認識するに充分なほど物知りであったろうということである。もしそうならば、彼らの中には、昆虫学の事実に精通しない読者に警告するようなことを著作に残した者は誰もいない。わたしの知るかぎり、この関連は、ここCED(=Cultural Entomology Digest)のこの頁で初めて印刷物となったことになる。とはいえ、同じ議論を、ギリシアの哲学的文学における専門家の消費のために、後に、別のもっと充実した体裁で提示したい。 ギリシアの文化昆虫学における次なる探究は、どうやら、文学的背景に関する若干の事前の案内を必要とするようだ。古代ギリシア人たちによって、特別の頻度でセミが登場する2つの詩的なジャンルがある。その1つは牧歌で、このジャンルにおいては、かなり技巧を凝らした知的・芸術的発露が人工的に表現される。つまり、牧夫、乳しぼりの女とその預かりもの――ヤギ、羊、牛の居住する田園的光景を特徴とする。このように理想化された田舎の設定は、セミとその歌を、夏季の田園地方の特色として、さらにまた、プラトンの『パイドロス』のように、色事ないし恋愛の象徴として、必ず含む。第2の詩形式はエピグラム詩である。これは小詩で、時には2行と短く、12行以上になるのは稀である。この型式の短さは、かなりの訓練と要求を詩人に押しつけ、結果は絶妙な技巧的創作品になることしばしばで、時には、特別な聴覚の効果を含む詩的な奇想と趣向で見事に詳述された。エピグラム詩は、カメオ細工または他の彫られた宝石――エピグラム詩が古代においてあったと同じくらい広く、また同じくらい長期にわたって、もう一つのミニチュア芸術であった――の文学的対応物であった。セミや他の音楽的な昆虫が、エピグラム詩作者と同じくらいよく、宝石細工師にとって題材を提供したのは、偶然ではない。エピグラム詩作家たちの芸術と訓練の部分をなしたのは、しばしば、他のエピグラム詩人たちが開拓した題材を再処理すること、先達の仕事を改善、刷新、あるいは創造的変奏を提供することである。われわれは今でも何千というギリシアのエピグラム詩を所有しているが、これは1500年以上の期間にわたって書かれ、扱っているのは、非常にヴァラエティーに富んだ、政治的、宗教的、芸術的、恋愛的、風刺的、葬送的な題材、主題を含む。詩のいくつかは、石碑(エピグラム詩の本来の物理的媒体)の上に刻まれて保存されてきたが、しかし、大多数は、『ギリシア詞華集』として知られる膨大な集成によって伝存している。この集成は、一連の詞華集編集者の最後の産物で、その何人かは、自分の詩をこの集成に加えた。詞華集成者の1人は、メレアグロスという名の古代シリアのギリシア語話者であった。紀元前100年より少し後のいつか、メレアグロスが、『花冠』と呼ぶ、彼の先達や同時代人たち何十人もによるエピグラム詩の集成を編集した。この、隠喩的な意味でも花束において、彼自身のものの新しいいくつかの創作を含む詩を、主題別に整えられた何百もの詩を編んだ。メレアグロスの詞華集はその本来の形式では現代まで伝存しなかったけれども、それの部分は我々が現在持つ『ギリシア詞華集』の構成要素として生き残った。この作品の成立年代は、メレアグロスの死より1千年以上も後のことである。 セミは、わたしが言ったように、しばしばギリシアのエピグラム詩の我々の膨大な集成にしばしば登場し、そして、詩が様々な主題と内容からなるように、セミの役割もそうである。というのは、この昆虫は、時には牧歌的寄せ集めの一部、時には詩的ないし音楽的妙技の印、時には愛のシンボル、時にはおそらくは復活、再生または不死のシンボルである。ここで特に関心を引くのは、ギリシア詞華集の中に、墓や葬式に関するエピグラム詩が何百もあるのに、数ダースの詩が死んだ動物――犬、ウサギ、小鳥、馬、ヘビ、そしてセミやコオロギさえ――のためにあるということである。これらの詩については多くの疑問がある。疑いもなく、一部の人々は、死んだ詩人のための詩を本当に構想したか、あるいは、委任した。しかし、動物の墓碑のいくつかは、エピグラム詩作者たちが、その主題による優れた変奏によって、自分たちの先達の努力を詩的に「尻取り」ゲームをしているという特徴のある痕跡を示している。動物の墓碑において呼びかけられ、あるいは記念される死去した個人の何人かは、わたしの信じるところ、死去した人間のおそらくは比喩的な表現であろう;たぶん、旋律的な小鳥たちとか昆虫に喩えられるのがふさわしい詩人たち、あるいは、音楽家たちであろう。いずれにせよ、この論考全体の論点に今やわたしたちは接近している。次のメレアグロスによる2つの詩は、ギリシア詞華集の中に、メレアグロスのさまざまな先達たちによって詩的に不死とされるためだけにこの世を去ったセミとコオロギとに関係する動物の墓碑の連続の真ん中に、いっしょに、順番にあらわれる。メレアグロスの詩のわたし自身の調査は、部分的には文化昆虫学の情報に基づいているが、2つの詩の新しく改良した、たしかに異なった読みとわたしが考えるところに導く。その読みは、以下のわたしの翻訳の中に(不完全ながら)反映している。 セミがコオロギに寄せて コオロギがセミに寄せて すでに論じたところであるが、メレアグロスは、『花冠』の中で自分の詩を取り巻く先達たちの努力の尻取りをして、セミとコオロギの詩に転進し、これらの詩に語彙上の地雷を仕掛けている。このことは、この連続したエピグラム詩の全体がギリシア語で読まれれば明白になるのだが、残念ながら、翻訳によってはうまくゆかない。わたしが翻訳において訳出をあきらめざるを得なかったもう一つの特徴は、第1番目の詩の終わりと、第2番目の詩の初めを際だたせている特有の音声的性質である。ここで、詩人は、わかりやすく韻律的に正しいギリシア語で書くと、以下の音声によって接近される音響効果を達成している: kai; drodera;V stovmati scizomevnaV yakavdaV. これらの詩行の際だった歯擦音は、ギリシアの詩にとっては誇張された、尋常ならざるものであり、偶然だとはありそうにないことで、この2つの詩がお互いに連結する地点で、詩人が故意に昆虫の音を模倣しているとの想像にわたしを導くのである。このことは、逆に、これらの音は、昆虫そのものの口をついて出たことを意味している(話者はそれぞれの場合に人間で、おそらくは愛玩動物としての昆虫に話しかけていると仮定する他の読みとは対照的だが)という、さらなる想像にわたしを導く。要するに、以上のことすべてが意味しているのは、2つの詩は、ひとつの詩的存在の部分、2匹の歌う昆虫の間の一種の交唱の交換だということである。第1の詩では、昼間の歌い手にして愛者が、活動を一休みしようとして、夜の歌い手に、自分が去った後を引き継ぐよう依頼している。第2の詩においては、役割は逆になるのである。 これらの詩を調べた他の学者たちが際だたせたのは、詞華集のこの部分における他のエピグラム詩の全てとは異なり、これらの2つの詩は実質的に埋葬に関するものでないということであった。これに対するわたしの答えは、メレアグロスの詩がここにあるのは、埋葬に関する他の詩人たちの詩に対して尻取りをする詩人の応答であるという事実に負っているということである。彼らのいくつかの努力の改作の技巧において、昆虫を、音声的に模倣するように逐語的に模倣したのみならず、これらの昆虫が牧歌の中に持った数々の田園的・恋愛的モチーフの中に持ちこんだ。だから、ある意味で、メレアグロスの昆虫の間の詩的な交換は、エピグラム詩的な動物の墓碑と牧歌的な詩から諸要素を結びつけて、セミまたはコオロギに関して最も初期の詩の一種の要約に帰する。 ここまで、わたしが記述してきたのは、文化昆虫学における冒険――ホメロス(おそらく前8世紀)とともに始まり、キリスト教の登場する前の最後の世紀、メレアグロスにおよぶギリシア文学の期間である。ギリシアの文化昆虫学における最終的な冒険――これを要約するつもりだが――は、キリスト教の初期の数世紀から2つの作品を含む。ここで明らかになるのは、思想と文化の他の領域の多くにおいてもそうだが、初期キリスト教は、伝統的なギリシアの異教の敵であるばかりでなく、それからの借用者でもあったということである。ここでわたしは短い詩の翻訳から始めたい。この詩は、これまでにも何度も、ゲーテ〔1749-1832〕、クーパー〔1731-1800〕、トマス・モア〔1478-1535〕といったかなり著名な近代詩人たちよってもしばしば翻訳されてきたものである。 我ら知る、汝が王者のごとく祝福されたるを この詩が、古代ギリシアの文学的想像力におけるセミの属性のための、一種の標準句(locus classicus)になっているのは、そのわずかな範囲内に、あまりに多くの属性を提示ないし言及しているので、他の文脈中に個々に見つけられるからである。これは、アナクレオン風詩として知られる詩に属する。アナクレオンとは、飲酒や恋愛の活動の詩的儀式に特に与えられた非常に初期のギリシア詩人のことだが、アナクレオン風詩とは、このアナクレオンの仕方による詩、あるいはアナクレオンの伝統による詩の集成のことである。アナクレオン風詩の数ダースの詩は、キリスト教の初期数世紀に達する期間を表している不確定な数の匿名の詩人の作品である。このセミの詩に関しては、言語および韻律上の根拠から、遅くとも5世紀までに成立したと推定されてきた。このことは、この詩をもうひとつ別の、年代的に近接した詩に位置づける。その詩は、(簡潔にはここで、更に詳細には、将来のどこかほかの出版物の中の)議論するつもりだが、かなり共通点を持っている。 わたしは初期キリスト教の説教を引き合いに出そう。これはアステリオスという名前の人物によって復活祭の季節のために書かれたもので、この人は5世紀、シリアで書き説教した人物である。現在に至るまで、彼のギリシア語の説教は、いずれの現代語にも翻訳されていないままである。わたしたちが関心をいだく説教のひとつは、新たに洗礼を受けたキリスト教徒を主題にしたもので、典礼暦の特定の接続の時宜にかなった話題である。この説教が、新たに洗礼を受けたキリスト教徒とセミとを、手の込んだ多面的な対比を枠組みとして構成されていると言うのは、誇張でない。この説教は、表面上は、詩篇第8に基づいているが、詩篇の内容それ自体と関係するところはほとんどない。ところが、「穫りいれの歌」には何度も引き合いに出すのである。詩篇と穫りいれの歌との唯一明瞭な関連は、詩篇に先立つ注意の中に現れ、詩篇の音楽演奏に関して聖歌隊指揮者に指示がなされる。換言すれば、この注意は、この詩篇が「穫りいれの歌」、または、「葡萄絞りに関する」歌の節で歌われることになっていると言っているということである。いずれにせよ、我々の説教家アステリオスは、彼の説教の他の一部の中で穫りいれ歌への言及を散在させることをもくろんでいる。これは、しかし新たに洗礼を受けたキリスト教徒と/あるいはセミとが、何らかの関係を有するということなのか? 多分そうだとわたしは思う。 説教の成り行くままに、アステリオスは、詠唱するセミを、収穫した葡萄を踏み、葡萄を集める人々と対比している(我々は、彼ら自身が歌うのに伴奏しているのだと推測する)。しかし、セミはまた新たに洗礼を受けたキリスト教徒でもあり、彼らは、雄弁で白い羽を持ち、洗礼の水という露に濡れ、セミが露を餌とするように、天上の「世界」に養われる。アナクレオン風詩のセミのように、アステリオスの説教のそれらも、滋養となる露を送る天上を「害することがない」。新たに洗礼を受けた者は、滋養となる天上の「世界」について彼らに教えるところのセミたちを害することがないからである。あたかも、太陽が昇ったときにセミが歌うように、新たに洗礼を受けた者は、「聖霊」の露を大喜びし、太陽すなわちキリスト(アナクレオン風詩のアポッロンに照応する)の中に浴する。キリスト教徒として、新たに洗礼を受けた者は比喩的に十字架にかけられ、これをアステリオスは樹々にとまったセミと対比することができる。キリスト教徒だけでなく、セミに似させられたキリストその人も、「セミのように大地から生まれたゆえに、セミのように誕生をもたらされることをわたしたちに教える」。セミが大地から生まれるという考えは、アステリオスをして、この昆虫とキリストの間のもう一つの類比を考案させる。「というのは、セミは授精なしに生まれた息子であり。父は知らないけれど、母としての大地は知っているように、キリストも母として処女を知っているが、授精する父を知らない」。アステリオスのセミは、アナクレオン風詩のそれのように、かくも実質的に神的である。 以上すべてのことから、わたしのさしあたっての結論は、アステリオスは、説教のための主たるテキストとして、詩篇を採用することからは遠く、彼のテキストとしては周知の「葡萄の穫りいれの歌」を使っていたということである。この歌は、アナクレオン風セミの歌と同一でないまでも、非常によく似ている。アステリオスと彼の説教術の技法について我々に何かを告げているほかに、このセミの詩は、幸せな葡萄の収穫人たちや葡萄酒作りたちによって伝統的に歌われた歌の範疇に属するという可能性を高める。このことがこの詩のアナクレオン風刻印に完全に依存しているのは、わたしが指摘したように、飲酒の儀式は、このような詩の特徴だからである。この結論もまた、将来の出版においてもっと詳細な議論において充分な証拠を示したい。 ここでは報告しなかったが、文化昆虫学における他の研究計画(そのいくつかは完了し、いくつかは進行中である)をわたしは持っているが、わたしの主要な専門的職分は、古代ギリシア・ローマの文化の教師兼通訳者としてとどまることである。望むらくは、昆虫学的情報が、我々の文化的過去を学ぶ学生にとって、価値ある補助的役割を有するということを証明するのに、上述のわたしの仕事の一部の要約が役立つことを。 2005.07.21.訳了 |