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古代ギリシア案内

古代ギリシアの詩と音楽

古代ギリシアの音楽





 BGMは、「ホメロスの讃歌
 イタリアの作曲家ベネデット・マルチェロ(1686-1739)が、その詩篇曲集『詩想・楽想(Estro poeticoharmonicos)』第3巻(1724)で、「ホメロスのデーメーテールの讃歌に付けられたギリシャの歌の一部」という名のもとに挙げているものである。
 歌詞は、デーメーテール(豊饒の女神)と、その娘ペルセポネーへの呼びかけである。(ANF-191 解説書より)。





 文学の起源は詩にあり、詩は歌うことを別にしては存在しなかったことを考えれば、ここで詩と音楽をいっしょに取り上げることはただしいであろう。とりわけ、古代ギリシアにおいては、音楽のリズムは詩(歌詞)の脚韻(pous)と同一の名称で呼ばれていたこと、また、音階には7種類(ミクソリュディア旋法、リュディア旋法、プリュギア旋法、ドリア旋法、ヒュポリュディア旋法、ヒュポプリュギア旋法、ヒュポドリア旋法)があったが、これらはいずれも歌い下げる音階として理解されていたことなど、古代ギリシアの音楽が叙事詩的な朗唱の旋律型から出発したことを物語っている。したがってまた、歌詞や動作(舞踏)から離れて、音楽そのものを鑑賞するということもほとんどなく、器楽も未発達であった。

 いってみれば、古代ギリシアの音楽は、詩とともに、総合芸術ともいうべき悲劇や喜劇の構成要素であって、これらはみな市民的な祭事・祭典の行事として、ポリスの管理のもとに行われたのである。特に多数の都市国家が参加するオリュンピア、ピュティア(デルポイ)、ネメア、イストミア(コリントス)などの競技には、体技とともに、必ず音楽の競演(agon)が行われ、その賞を得るのは高い名誉であった。

 こういう性格を有するものであってみれば、音楽には人の道徳的な性格におよぼす深い影響力(ethos)があると考えられ、青年の教育の不可欠な一部とされていたのもうなずける。その結果、ギリシアの市民は、一般に音楽に対する優れた理解力を持ち、とりわけ音程とリズムに対する感覚は、きわめて繊細であった。また、哲学者たちもこぞって音楽について論じ、現代にいたる音楽理論の基本的な問題はほとんどすべてが、すでにこの時代に論じつくされているといわれる。

 しかし、10世紀以降の西洋音楽の特色である和声や対位法の観念はなく、すべて単旋律であった。したがって、harmonyの語源をなす、harmoniaとは、古代ギリシアにあっては、複数の音の同時的な響きにあるのではなく、継時的な音(音節)と音(音節)との取り合わせを意味するものであった。

 しかしながら、伝存作品はきわめて乏しく、比較的完全な形で保存されたものは、次の三つにすぎない。

1)デルポイで発見された二つのアポロンの讃歌。
 1892年、WeilとReinachが、アポロンの聖地デルポイにあるアテナイ人の宝庫跡で発見した大理石に刻まれていた。
 デルポイでは、オリュンピア祭に次いで重要なピュティア祭が開かれ、アポロンを讃える歌が競演されたが、これらの曲はそこで賞を得たものらしい。
 第1の讃歌(apollo.aiff.sit.816K)は、前138年ころの作。

 第2の讃歌は、アテナイ人リメニオスが前128年ころ作曲し、ピュティア祭で歌われたもの。現存する40行は、定型にしたがい、まず、アポロンのことを歌うようムーサ神に呼びかけ、大蛇射殺などのアポロンの事績を叙述し、最後に、アポロン、その妹アルテミス、その母ラトナにローマの支配権の永続を祈って終わる。

2)Seikilosの歌(seikilos.aiff.sit.187K)。
 1883年、Ramseyが小アジアのレストランの石柱に刻まれているのを発見した最も魅力のある小品で、推定年代は前2世紀または前1世紀といわれる。
 もとは墓碑で、前書きからエウテルペーの息子のセイキロスという人物が、親族のためにこの墓碑をたてたことがわかる。
譜面

 歌詞を直訳すると、次のようになる。
歌詞
生あるかぎり 輝いてあれ
君よただただ 苦悩をやめよ。
人生は束の間、
時の取り立てが待っている。
Lyra.JPG
 最後の行の"telos"は語意の幅がきわめて広い語で、「終わり」「完成」の意味もあれば、「債務」といった意味もある。そして、"apaitein"が「返還請求する」という意味であってみれば、あまり抒情的な気分にばかりは浸っていられないが……。古代ギリシア人の現実主義をうかがわせて興味深い。
 ここで使用されている楽器はリュラLyra(右図)である。

3)太陽神への讃歌。
 クレタの楽人Mesomedesが紀元後130年ころに作曲したものと伝えられている。ビザンティオンのいくつかの写本で伝えられていたものを、1581年、ヴィンツェツォ・ガリレイ(ガリレオの父)が公にした。
 この曲は25行から成り、前の6行はアポロンへの呼びかけであり、音符はつけられていない。音符をともなう後の19行は、太陽神が太陽の戦車を駆って大空をめぐり、星々のコロスがオリュンポスで舞い、月が四季を導くと歌っている。

 このほかに断片をあわせても、伝存するのは30編ぐらいにすぎない(ここ”Ancient Greek Music”に蒐集されている)。失われたものの膨大さに、一種呆然たる想いをいだかないではいられない。古音楽の復元に取り組んでいるグレゴリオ・パニアグアは言う。「(このレコードは)取りかえしのつかない喪失という確たる現実を前にして起こる無念の感情の、個人的表現にほかならない」と。

 そういうパニアグアの作品の中から、ここでは、わたしの好きな「テクメッサの嘆き」を鑑賞したい。


Tekmessaの嘆き




Tekmessa

 小アジアの内陸部に、広大な地域を領有する王国Phrygiaがあった。Tekmessaは、ここの王Teleutasの王女であった。なかば伝説にうもれたToroia戦争の時代のことである。

 アカイアの軍勢は10年にわたってToroiaを攻囲したが、その間、当然のことながら、周辺諸都市を荒らしまわった。

 とくに、Achilleusと並び称される闘将Aiasは、牛皮7枚を重ねた大盾を自由に扱うような巨漢で、つねにギリシア勢の先頭にあって戦い、敵将Hektorと渡り合うこともしばしば。Achilleusの不参加によってギリシア勢が危機に瀕し、自分の船も焼かれようとした折にも、一歩も退かず、阿修羅のごとく戦った。

 戦争においてこのようなめざましい働きをする猛将であってみれば、ほかの点でも働きはめざましい。Toroia攻撃の最初の9年間、彼はToroia周辺と奥地の諸都市を攻め、ThrakiaのChersonesosの王Polymestorの領土を侵し、Ide山のToroia人の家畜を荒らし、Phrygiaの王女Tekmessaを掠奪して女奴隷とし、軍陣の自分の寝所に侍らせた。

 さて、Achilleusが戦死し、この英雄の有名な(Hephaistos神が製作したと伝えられる)武具一式が、最上の勇者に賞として出されたとき、これをOdysseusと競ったが、武具一式はOdysseusに与えられることになった。憤りのあまり、Aiasは、Odyusseusとその味方をした者たちに復讐せんとする。ところが、(ソポクレスによれば、それと察知したAthena女神によって)発狂させられ、牛羊の群を仇と信じて殺戮した。

 やがて狂気より覚めたAiasは、おのれの行為を深く恥じ、Tekmessaとの間に生まれた息子(Eurysakes)に別れを告げ、異母弟のTeukrosに後事を託する言伝をしたあと、禍をなした剣を埋めると称して海辺に出、Hektorから贈られた剣に伏して死ぬ。

 Aiasが自殺したとき、その血からアイリスの花が生じ、それで花弁にはこの英雄の名(Aias-aiai「アイアス、ああ!」)がしるされているという。


音楽(tekmessa.aiff.sit.255K)

 出典:Papyrus Berlin 6870(後2〜3世紀の作者不詳の悲劇断片)
 指揮:Gregorio Paniagua
 演奏:Atrium Musicae
  歌:Beatriz Amo(?)
 使用楽器:
 シュリンクス(syrinx)――長さの異なる閉管の縦笛を高さの順に並べたもの。いわゆる「パンの笛(牧笛)」。
 フォティンクス――エジプトに起源をもつ木製の横笛。
 パンドゥーラ(pandoura or pandouris)――3本の弦をもつ長柄のリュート。トリコルドン・リュラ(trichordon lyra「三本弦のリュラ」の意)とも呼ばれる。

 歌詞は、「アイアースがアキレウスの鎧をオデュッセウスと争って敗れ、自殺に追い込まれたことを、愛人テクメッサが嘆くもの」だそうですが、原詩のコピーを提供してくださる方がいらっしゃったら、感激です。
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