[解説]
ヘーラクレースの神話は、ミュケナイ時代までさかのぼりうる[1]。いずれにしろ、彼の功業についての詩編は、700 BC以前に流布していた。ヘーシオドスがそれらに馴染みであったことは、『神統紀』中の一連の示唆(287-294, 313-318, 327-332, 526-532; 215 f., 334 f., 518をも比較せよ)から明らかであり、『イーリアス』や『オデュッセイア』中にも彼への多数の言及がある。ヘーラクレースとヒュドラーとの戦いは、すでに8世紀末ないし7世紀初期のボイオティアの飾り留め金の上に表現されている。膝に負傷したテラコッタのケンタウロスは、かなり早く、エウボイアのLefkandiに見られ、年代は10世紀末にもさかのぼる。これはおそらく、キローンの膝を射るヘーラクレースの物語と結びついているのであろう[2]。
[1] M. A. Nilssosn, The Mycenaean Origin of Greek Mythology (Berkeley, 1932), 187-220を見よ。
[2] Apollodorus 2.5.4; M. R. Popham and L. H. Sackett, Lefkandi i (London, 1980), 168-170, 344 f., pl. 169, and frontispiece.
初期の詩編は、たいていの場合、単独の功業と結びついていた。例えば、ホメーロスないしクレオーピュロスに帰せられる『オイカリアの攻略』、偽ヘーシオドスの『ヘーラクレースの楯』や『ケーユクスの婚礼』におけるように。しかし、一連の仕事を彼に課するエウリュステウスに対するヘーラクレースの従属の神話は、それらすべての仕事の成功する成果が述べられる記述を前提とするが、この神話はすでに『イーリアス』と『オデュッセイア』の中で言及されている[1]。それゆえ、そこには「ヘーラクレースの功業」を覆う詩の1篇ないし数編が(何編か、あるいは、どれだけの功業を含んでいたかは不確かにしても[2])あったに違いない。
[1] Iliad 8.362-365, 15.639 f., 19.95-133; Odyssey 11.617-626.
[2] この数は一様ではない。総計12は、オリュムピアのゼウス神殿のメトープと、たぶんピンダロス(fr。169あ.43)以前の記録にはない。
この主題についての古拙期の唯一の叙事詩は、アレクサンドリアの学者たちによって読むべしとして伝存されたカミロスのペイサンドロスの『ヘーラクレイア』である。(クレメンスは、リンドスの1ペッシノス人に触れ、ペイサンドロスの詩はこの人物からの剽窃されたと申し立てているが、これは、幾つかの写しの中に見出される異文の帰属以上ではなかったろう)。前5世紀の第2四半分に、ハリカルナッソスのパニュアッシス、ヘーロドトスの甥ないしは叔父が、非常に長い『ヘーラクレイア』書いた。これは、コイリロスの『ペルシア誌』同様、古い叙事詩の伝承の最後の産物として数えられるであろう。5世紀末以来、新しい通路の自覚的探究を表現し、アンティマコスの『テーバーイス』はそれ以上であった。ペイサンドロスとパニュアッシスは、5人の主要な叙事詩の詩人の規準に含まれ、プロクロスによって完全な形式の中に最初に証拠づけられたが、おそらく原本はアレクサンドリアのものであろう。[註]
[註]Quintilian 10.1.54 を見よ。規準の他の3人は、ホメーロス、ヘーシオドス、アンティマコスである。エウメーロス、アルクティノス、そして他の叙事詩の環の詩人が欠落していることは、注目にあたいする。
サモスのクレオーピュロスは、プラトーンと、さまざまな後世の著者の中に、ホメーロスの友人で、彼〔ホメーロス〕を客遇し、この詩を賜物として報いられた人物として現れる。この物語の影響は、一般にクレオーピュロスの名前のもとに流布しているが、実際はホメーロスの作品であることの証拠になった[1]。しかしながら、クレオーピュロスは実在の人物ではなく、サモスの吟誦家ギルド、つまり、クレオーピュロスの末裔 その一人がヘルモダマースで、これはピュタゴラースを教えたと言われる の架空の名祖であるらしい[2]。
カッリマコスEpigram 6 Pf. は関係を逆転させて、本当はクレオーピュロスの作だが、ホメーロスの作として知られてきたと言う。
[2] Walter Burkert, Kleine Schriften I: Homerica (Gõttingen, 2001), 141-143; Filippo Càssola, Inni omerici (Milan, 1975), xxxvii.
オイカリアは、エウリュトス王の伝説上の都市であった[註]。その場所は、古代における論争の的で、ある者は(『イーリアス』中のように)これをテッサリアに置き、ある者は(ソポクレースの『トラーキーニアイ』中のように)エウボイアに置き、他の者たちはペロポンネーソス(アルカディアとかメッセネー)に置いた。パウサニアス(断片2の中で)、クレオーピュロスの詩は、エウボイア人の主張に好意を示すと応え、ストラボンは(やはり断片2の中で)、両価的だと述べている。
[註]Iliad 2.596, 730; Odyssey 8.224; [Hesiod] fr. 26.28-33.
ヘーラクレースはオイカリアを訪問し、エウリュトスにもてなされたが、間もなく彼らの間に喧嘩が起こり、ヘーラクレースは追放された。それはおそらく弓競技に勝利した後で、この競技にはエウリュトスの娘イオレーが懸賞となっていたろう。それからヘーラクレースはエウリュトスの馬たちを盗み、これを探しに来た彼の息子イーピトスを殺し、最後はオイカリアを攻撃し、これを略奪し、力ずくでイオレーを手に入れた。物語はおそらく、ソポクレースの演劇のように、ヘーラクレースの妻デーイアネイラが、彼を殺すことになる毒の外套を彼に送る話[註]に続く。
[註]この伝説のさまざまな異文は、Gantz, early Greek Myth, 434-437を見よ。
Strabo 14.1.18
また、サモスの人でクレオーピュロスもいて、この人は、言い伝えでは、かつてホメーロスを客遇の礼で歓迎したので、『オイカリアーの攻略』と呼ばれる詩作品の献呈を贈り物として受け取ったという。しかしカッリマコスは正反対のことを、あるエピグラム詩(Call. Epigr. 6 Pf.)を通して表明していて、詩作したのは前者であって、いわゆる客遇のせいでホメーロス作と言われるのだという。
わたしはサモス人の労作、その人がかつてその屋敷で神的な歌人を
歓迎した。わたしはエウリュトスの受難の数々と、
金髪のイオレーを朗唱する。それなのにホメーロスの書き物と
呼ばれる。これは、親愛なるゼウスよ、クレオーピュロスにとっては大きな名誉。
また、ある人たちは、これ〔クレオーピュロス〕はホメーロスの先生だと謂う。ある人たちは、〔先生は〕これではなく、プロコンネーソス人アリステアースだと〔謂う〕。
Clem. Strom. 6.25.1, 下のパニュアッシスのTESTIMONIAを見よ。
Proclus, Vita Homeri 5
そこで彼らの言うには、彼はイオスに航行し、クレオーピュロスのところで暇つぶしをし、『オイカリアの攻略』を書いて、この人に恵贈したという。それが今は、クレオーピュロスの作として広まっている。
Hesychius Milesius, Vita Homeri 6
また、他にも幾つかの詩作品が彼に帰せられている。『アマゾニア』『小イーリアス』……『オイカリアの攻略』……
Suda κ 2376 (ex Hesychio Melesio)
アステュクレースの子クレオーピュロス、キオスあるいはサモスの人、叙事詩作者。ある人たちが記録しているところでは、ホメーロスの娘に基づく義理の息子、またある人たちは、彼はホメーロスの唯一の友であると言う。また、彼に歓迎されたホメーロスが、彼から『オイカリアの攻略』という詩を受け取ったと。
Cf. schol. Plat. Resp. 600b; Phot. Lex. s.v. KreovfuloV
1 Epimerismi Homerici ο 96 Dyck
われわれはこれを『オイカリアの攻略』の中にも見出すであろう。〔この作品は〕ホメーロスに着せられるもので、詩作したのはクレオーピュロスである。イオレーに向かって言っているのは、ヘーラクレースである。
おお、女性よ、これは<自身の>眼でご覧になれよう。
2 Strabo 9.5.17
エウリュトスの都市オイカリアは、これらの諸地域[註]内のほか、エウボイアにもアルカディアにもあると言われる……これら〔の諸都市〕について彼ら〔史家〕が探究しているのは、とりわけ、ヘーラクレースによって攻略されたのはどれか、また、『オイカリアの攻略』を詩作した人が著したのはどれについてか、ということである。
[註]テッサリアのヘスティアイオーティス地方。
Paus. 4.2.3
さらにテッサリア人たちとエウボイア人たちも発言しており(というのは、ヘッラスにおけることはたいていが論争の的になるからだが)、前者は、エウリュティオン われわれの時代のエイリュティオンは荒れ地にすぎないが 古代都市であり、オイカリアと呼ばれていたという。これに対しエウボイア人たちの言葉には、クレオーピュロスが『ヘーラクレイア』[註]の中で同意する内容を詩作している。
[註]明らかに、『オイカリアの攻略』に対するパウサニアスの呼び名。
3 Schol. Soph. Trach. 266
しかし、エウリュトスの子どもの数は一致していない。すなわち、ヘーシオドスは4人と謂い(fr. 26.27-31)……クレオーピュロスは2人、アリストクラテース(FGrHist 591 F 6)は、トクセウス、クリュティオス、デーイオーンの4人だと。