[オルペウスの諸神讃歌]訳註
- 「ムーサイオス」
アリストパネースの『蛙』1033の古註は云う セレネーとエウモルポスとの子であること、ソポクレースによれば、彼は託宣者(xrhsmolvgoV)であること、『赦免(paraluvseiV)』『秘儀(teletavi)』『浄化(kaqarmoiv)』を書いた、と。これらの作品は不幸にして失われたが、『赦免』は、私人も都市も、宗教的儀式によって、犯した罪に伴う罰から解放されることを教えている。『秘儀』は、プラトーン〔『国家』364E-365A〕、ルーキアーノス、その他に言及されている。『浄化』は、罪から浄められる意を含んでいる。(Taylor)
- 「供犠」Sacrifice.
Sacrifice.
- 「 」
- 「アドレーステイア」
「アドラステイア」のイオニア語表記。「遁れ得べからざる女」の意。
この神格は、讃歌の中には登場しないが、オルペウス神学におけるその重要性は、ヘルミアース『プラトーンのパイドロス註解』に明らかである。
「アドラステイアは、これもニュクス〔夜〕の裡にとどまる1神格で、メリッソスとアマルテイアとの子である。それゆえメリッソスは、二次的〔自然〕に摂理によって伴う力と想定されるが、アマルテイアの方は、不偏にして気丈さにおいて考えられねばならない。されば、アドラステイアは、不偏の摂理から生まれ、イーデーの姉妹である。
姿よきイーデーの、父を同じうするアドレーステイア。
〔それゆえアドラステイアは〕現世的かつ超越的なすべての法、運命のそれもゼウスのそれも(というのは、ゼウスの法も、クロノスの法も、神的なのも超越的なのも、現世的なのもあるから)、つまり、それらすべての尺度をいっしょくたに包摂し、内包しているのである。この女神がアドラステイアと呼ばれている所以は、彼女によって定められ、立法された事柄は、遁れることができないからである。だからまた、ニュクスの洞穴の前でこだまさせていると言われる。
手には青銅のシンバルを
アドレーステイアに与えた。
つまり、ニュクスの洞穴の入口で、シンバルの音を響かせて、万物が彼女の法の聴従者となるよう、こだまさせていると言われる。つまり、ニュクスの奥処の内には、パネースが坐し、中ほどにはニュクスが神々に預言し、アドラステイアは入口で、神々しい神法を万物に立法しているのである。しかしながら、立法者としては、裁判に携わるあのディケーとは異なり、あのディケーの方は、あのノモス〔法習〕とエウセベイア〔敬虔〕との娘であると言われるが、当のアドラステイアの方は、メリッソスとアマルテイアとの血をひき、やはりノモスにも含まれる。だからこそ、これらはニュクスの洞穴の中でゼウスが育てたと言われるのであり、このことは、プラトーンも彼〔ゼウス〕について謂っていると、この神学者〔オルペウス〕が直截に言っているのである。というのも、〔プラトーンは〕彼〔ゼウス〕を「造物者」にして「立法せし者」〔Tim. 42d〕となしているからである。
だが神法は、アドラステイアによって神々に授けられる(なぜなら、そこに内在する配置(tavciV)は、この女神に由来するのであるから)が、神々の随伴者たちにも、全員にも各個にも、共通して授けられるのである」(Section 2, page 168-169)。
- 「ヘカテー・エイノディア」
eijnovdiaないしejnovdiaは「道中の守り神(女神)」の意。三叉路ないし四つ辻に立像を有する神霊の添え名。したがってヘカテー、ペルセポネーの添え名に使われる(男性にすればヘルメースのこと)。「デーメーテールの御娘、夜討ちを掌るエノディアよ」(エウリピデース『イオーン』1048)。
Joannes Galenus『Allegoriae in Hesiodi theogonium』(page 330, 27.)は、この詩行を引用し、ここと、讃歌LXXXI. 3.を考察する、「オルペウスは、テュケーをもアルテミスと呼称し、しかのみならずセレネーをもヘカテーと呼称しているのをわたしは見出す」(Joannes Galenus, Allegoriae in Hesiodi theogonium, Page 330)と。(Taylor)
- 「ペルセースの娘御」
ヘーシオドス『神統記』407以下。ポイベーの娘がアステリア、「この娘をペルセースがある日/自分の大きな館に連れて行き、彼の愛しい妻と呼ばれるようにした。/さてアステリアは身重となりヘカテーを生んだ」。
また、シケリアのディオドーロスIV.45.2.によれば、太陽神ヘーリオスに二人の子あり、アイエーテースとペルセース。後者の娘がヘカテーで、ペルシア人たちには非常に崇拝されていた。
ヘカテーの超絶した権力については『神統記』。彼女は「大地と天、海における権能さえも保持したもう」(427)。
- 「タウロポロス」
アルテミスの添え名。語義については「タウリスで崇拝される」「牡牛の軛に牽かれた」(Taylorはこの意味に解して訳している)「牡牛を狩る」など、さまざま解釈されている。
- 「牛飼い」
オルペウスの聖なる教説によれば、彼は野蛮で獰猛な人類を飼い馴らしたという。これは、彼が竪琴の律動によって樹々や野獣を自分に惹きつけたという寓話の本当の意味のように思われる。この事情の類比によって、ここと、クゥレーテースたち讃歌の中で、彼は自分を牛飼いと呼ぶのだが、それは、俗なる側面、つまり、人間の群に授ける益を述べているのである。(Taylor)
- 「 」
- 「プロテュライアー」
家々の門口とともに、人生の門口すなわち出産を守る女神=アルテミスの添え名。
プロクロスの讃歌(6)では、ヘカテーをプロテュライアーと呼んでいる。
ご機嫌よろしゅう、ヘカテーよ、プロテュライアーよ、万能者よ、……
- 「万物の生みの親」
ニュクス〔夜〕の第一実在は、カルデア人たちによって主張される神的秩序の頂点に存する。これはnohto;V kai; noerovV、つまり、直知対象にして同時に直知的な秩序である。この秩序は、プラトーン『パイドロス編』の中で「超天の場」、真理の野が位置しているとプラトーンが言うところ、ヘルミアースが『In Platonis Phaedrum scholia』(Section 2, page 153.) の中で漠然と、ニュクスの一連の全秩序と呼ぶところのものである。後にヘルミアースがこの主題に付け加えたところは、省略するにはあまりに重要で、それは以下のように続く。「同様に、神学者たちは真理を特に超天的場に確立する」。というのは、オルペウスはニュクスについて言うとき、「彼女〔ニュクス〕は神々の<真理>を所有する、と」。そして、
彼女によって、預言はその全真理性が与えられる。
彼女〔ニュクス〕はまた神々にとっての預言者とも言われる。ホメロースもまた、この女神について述べている。というのは、ゼウスについて述べる際に、ピュプノス〔眠り〕は言う、
もしあの、神々や人間どもを屈げ従わせるニュクスが助けてくれなかったら
あのかたのもとに逃げて行って、救いを求めたのです、
迅い†ニュクスの気に入らぬ所業は憚られたので、
(Il. xiv, 259 ff.)
〔† ニュクスは、その直知対象にして同時に直知的な秩序の頂点に実在することからして、可考界に吸収されるから、ホメーロスはニュクスを神的に迅いと呼ぶ。というのは、カルデア人の神託は直知対象となる神々を迅いと呼んでいるからである。〕
しかし、プラトーンが言うには、彼がこれについて敢えて云おうとしている所以は、それについて何事かを肯定的に主張としようとするからである。しかしながら、このような教義的関心事においては、われわれは何らかの不適当な厄介に導かれるのではないかという危惧がある。彼もまた、超天の場について発言する箇所で、事象の第一原理について『パルメニデース編』[の第一前提]の中で主張するところと一致している。というのは、そこにおいて彼はこの原理を否定によって表す。ただし、第一原理の万事を絶対的に否定する場合は別である。しかし超天の場については、何事かを否定し、何事かを肯定する。というのは、ニュクス神は或る種の秩序に対しては上位にあるが、その他〔の秩序〕に対しては下位にあるからであり、事物の第一原理は超有的であるからして、ニュクスは超天的である[つまり、ウゥラノスと命名されたあの直知的秩序を超えている]。それでは、諸々の魂がウゥラノスを見るとは言われず、その中に位置することになると言われ、それと結びつきはするが、ウゥラノスを超えて諸自然と結びつくことはないと言われるのはなぜか? これに対する答えとしては、或る種の事物に対するかぎり、接触する必要がある、と言えるかもしれない。それでは、それに対するかぎりはなぜなのか? どちらの神々もゼウスの下にはなく、パネースと合致しているからである。しかしこれはゼウスについてのみ主張されることであって、彼は中間としてのニュクスを介して合致していると言われるのである。
しかし、超天の場には色彩がないとプラトーンが言うのはどういうことか? 自然と魂とは無色であるとわれわれが言うのと同じ意味か? しかし、この言表における驚くべき点とは何か? われわれがこれを認めるとして、超天の場における超越とはどういうことか、同じものが自然と魂との両方に占められているのだから。プラトーンは、ここに主張されている事柄において、先行する神学者たち[つまり、ホメーロス、オルペウス、ヘーシオドス、ムゥサイオス]に大いに追随し、彼らと整合するように言う傾向があるのか? というのは、ニュクスたちの秩序の後、神々の3つの秩序、つまり、ウゥラノスのそれと、キュクロープスのそれと、ヘカトンケイル[つまり、百手巨人]たちのそれとがあるが、超天の場の固有名をプラトーンは否定している。というのは、パネースの内に住む神々のうち、ウゥラノスは、彼によって可視的となる最初のものである。というのは、ウゥラノスとゲーとが、パネースから進発する最初のものであり、ウゥラノスはパネースの神的な光によって最初に照らされ、オルペウスは、ニュクスは彼〔ウゥラノス〕と合一だと言っているからである。
ひとり、聖なるニュクス以外に眼なし、
プロートゴノスよ、見そなわせ。何となれば、自余のものらはみな
光のぞめぬ驚異の内に失われ、
不死なるパネースの皮膚を通して輝くゆえ。
(オルペウス断片?)
しかし、可視的にして照らされるものとは色彩である、色彩は一種の照明だからである。ゆえに、ニュクスや、あらゆる超天的場は、可死的であるウゥラノスの彼方にあるのであるから、それらは色彩なしと言われて当然である。というのは、夜は昼の反対であり、照らされて色彩があるのは後者だからである。実際、色の欠如を通してプラトーンが主張しているのは、ニュクスたちの場は、ウゥラノスの王国の彼方にあるが、形相の剥奪を通して、それはキュクロープスの秩序の彼方にある、ということである。というのは、神観は言う 形相はその中で最初に展開したものであり、神格つまりキュクロープスたちは、どこにでも実在する諸原理であり、諸形相の原因である、と。ゆえに神観は言う 彼らは手業の術知者たちである、と。というのは、この三幅対〔キュクロープスの三相、つまり、ブロンテース(雷鳴の神)、ステロペース(雷光の神)、アルゲース(閃光の神)〕は、諸形相の完成である。
まるい一つ目が彼らの額についていた。
(Hesiod. Theog. 145)
同様に、『パルメニデース編』の中でプラトーンが、直線、円、[これら両方から]混合されたものについて話すとき、この秩序を曖昧にほのめかしている。しかしこのキュクロープスは、諸形相の第一原因であるから、アテーナーとヘーパイストスに諸形相の様々な種類を教えた。
これら最初の術知者たちは、
パッラースとヘーパイストスにすべてを教えた。
(オルペウス断片?)
[とオルペウスは言う]。それゆえ、ヘーパイストスとアテーナーが諸形相の原因であると聞いても、驚くにあたらない。なぜなら、ヘーパイストスは身体的諸形相の原因であり、あらゆる地上的形相の原因だからであり、アテーナーは、物理的・知性的形相の〔原因〕だからであり、キュクロープスは、神的にして、どこにでも遍在する形相の〔原因〕だからである。だから、超天の場が、キュクロープスの秩序を超えて在ることは明らかである。
しかし、接触の剥奪によってプラトーンが主張しているのは、この場はヘカトンケイルを超えている、それは、事物の創造すべてとのいわば接触に最初に到来したものだから、ということである。ゆえに、神観が彼らを百手と呼称したのは、手を通してわれわれは触れ、造り、万物を区別するからである。父はとどまり、接触は身体全体を通して広がる。それゆえ、神観はこれらを象徴的に、事物の創造全体に触れ、その原因として、百手と呼ぶのである。しかしながら、ヘカトンケイルのこの〔コットス、ギュゲース、ブリアレオースから成る〕三相は、保護者的自然を有する。しかしプラトーンは、神学者によって確実に崇拝されているのを彼が見出したことを、否定的に引証する。それは、オルペウスがニュクスと呼んだものを、プラトーンは無色と称しているということである。そして、前者が否定的に言っていることに嘘偽りなく。
預言は、嘘偽りなく、万物の
ニュクスに与えられた[とオルペウスは言う]
(オルペウス断片?)
それについて真の学知の種族を有するものとして、そして真に実在する有性であるとして後者が崇拝している、ということである。またプラトーンは、この超天の場を、3つの否定によって崇拝したうえ、それらの3つを有から唱導して、3つの確言を提出する。というのは、この秩序は三相一であるから、プラトーンは否定と肯定と両方の結論の中で、きわめて当然にも三相を維持する。あるいは、それは一にして有であり、その各々にしたがって三相であるから、超有的一にしたがって否定的結論を述べるが、有にしたがえば肯定である。同様にここに、最初の数が光の中に展開する。
次の箇所で、ヘルミアースは「真理」の3種類を次のように列挙する;
「より超越的なものらは、より虚ろなものらを、真理の光で照らす。そこで、以下の4つを直知しよう。第一原理たる一者、直知対象たる神々の限界であるが、直知する神々の原理が吊りさがっている(なぜなら、ニュクスたちは原理が協和する諸原理だから)パネース、そして、超世界の王であるが、独自に直知対象たる神々の限界たるゼウス、そして可感界の王であるヘーリオス、〔以上4つが〕これである。これらの〔4つの〕おのおのこそ、自身の下にあるものらを光で照らす、つまり、超越して存する配置から得た真理をである。あたかも、ヘーリオスが超世界的光で可感的なものらを照らすようにである(その有性も、超世界的なものらから生じると言われるゆえに)。さらにゼウスは、超世界的なものらを直知的光で照らす。さらにパネースは、直知対象たる神々を直知的光で照らす。しかし全体の原理は、直知対象たる神々をも全体をも、おのれから発出する神的な光で照らすのである」(Section 2, page 159.)。(Taylor)
- 「これをわれわれはキュプリスとも呼ぶ」
Hermannはこの1行は書き込みだと言うが、その推測にいかなる根拠もない。なぜなら、アプロディーテーは、その讃歌において、nuktevriaにしてfilopanu;xe semnhと呼ばれているのだから。(Taylor)
- 「万物の初めにして万物の終わり」
ダマスキオスは「In Parmenidem」(page125.l.24.)に言う。「オルペウスのウゥラノスは、万物の境界(ou\ros)にして守護者(fuvlac)と考えられている」。
- 「天的にして地的」
デーモクリトス/ボーロスによって定式化された「自然は自然を喜び、自然は自然を支配し、自然は自然に打ち勝つ」という学説は、本来、エジプト人のものだが、プロクロスは、オルペウスのものでもあるとして、パネース、ニュクス、ウゥラノス、クロノス、ゼウス、バッコスにかんするオルペウス的伝統を列挙する。
「というのも、ゲーの内にウゥラノスが在り、ウゥラノスの内にゲーが在る。前者においては、ウゥラノスは地上的であるが、後者においては、ゲーは天的である。というのも、オルペウスはセレネーを天的にして地的と云っているからである」(Proclus, In Platonis Timaeum commentaria, Volume 3, page 172.)。(Taylor)
- 「プロートゴノス」
オルペウスによれば、シュリアーノスが『アリストテレース形而上学註解』(Page 182.)で関連づけているとおり、万物の第一原理は「一」ないし「善そのもの」であり、ここから、ピュタゴラスの学説に似て、「アイテール」と「カオス」という2つの原理が超越的に存在する。このうち第1の原理「アイテール」は「限」に、第2の原理「カオス」は「無限」に相当する。さらに進んで、シュリアーノスは云う、神々の第1の隠秘的誕生が存在し、この中で最初に現れる神が宇宙の王にして父であり、最初の可視的神格であるゆえ、パネースと命名されている。神々のこの最初の隠秘的誕生全体は、カルデア神学者たちによって直知的三相一体と呼ばれるもので、オルペウスによっては卵の象徴のもとに表現され、これ以外は、ニュクス女神によってパネース神が登場するが、これがプロートゴノスと命名されるものである。
- 「牡牛の唸り声をあげる」
パネースつまりプロートゴノスは、直知対象となる三相一体の極致に存在するから、直知対象-直知(nou;V nohtovV)であり、世界の範型であり、プラトーン『ティマイオス』の中で"aujtozw/:on"つまりあらゆる生き物の生命の原初の原因と命名されたものであり(ただし、この用語はプロクロスの用いたもの)、オルペウスが象徴的に、羊・牡牛・蛇・ライオンの頭部で表現したところのものである。しかし、ゼウスつまり宇宙の造物者は、理性界において、パネースが神々の直知対象たる秩序においてあるところのものである。だから、それは彼の創世に先立って吸収されたパネースを有すると、オルペウスによって言われているのであり、パネースの内に実在する事物の本来的系列的な原因すべてに対する彼のこの参与によると神学者たちが述べているところである。それゆえ、Porphyriusは『De antro nymphaerum』Section 24.という論文においてわれわれに告げているように、「ペルシアの神格ミトラスは、牡牛と同様、造物主であり、生成の主人である」、プロートゴノスがこの讃歌において牡牛の唸り声と呼ばれている理由は明らかで、唸り声は、世界の配置に対する諸形相の進行を意味しているのである。そしてこのことは、カルデア人の神託において諸形相に関して主張されているところと相似である。すなわち、
父の理性は、びゅっと音を立てて噴出した、盛時のはからいによって
あらゆる形をもった形相を思惟しつつ。
(カルデア人の神託37)
なぜなら、びゅっという音は、プロートゴノスの唸り声と同じものを指しているからである。(Taylor)
- 「両の眼から蔭暗き霧を晴らすかた」
Proclus『In Platonis Parmenidem』Page 1175.は、明らかに、とわたしには見えるのだが、この詩句に言及している。というのは、プロートゴノスが実在する極致に、直知対象たる単子、つまり、直知対象たる秩序の頂点について述べるところで彼はこう言う。「この直知対象たる単子が、直知対象たる五元素全体、つまり、有、動、静、同、異を、分割されることなく、深遠な仕方で含んでいるとしても、何ら驚くべきことではない。神学者が謂うように、事物はすべて区別なく、蔭暗き霧において存在するからである」。この行において、最後の2語が上のオルペウスの詩行に由来する。
しかし、プロートゴノス、つまり、パネースが、視覚の蔭暗き霧を浄化すると言われる所以は、言語を絶した合一の内に彼に先んじて実在するものらの初源的原因、全体の中に在る全体は、彼によって初めて直知対象たる光の中に展開するからである。(Taylor)
- 「眼煌めく」
直知対象-直知であるプロートゴノスは、きわめて適切にも「眼煌めく〔Taylorは"darked-eyed splendour"と訳す〕」と呼ばれる。直知対象は、その隠秘的在りようから、暗さによって記述されるが、その眼と煌めきゆえに理性的でもある。というのは、「見て光の中へと披ける」ことは、理性の本分だからである。(Taylor)
- 「天上のものにして地上のものたち」
讃歌IVにおいて、ウゥラノスが「天的にして地的」と言われ、その理由を註において説明したように、天的である星辰が、ここで天上のものにして地上のものと言われる理由は明らかである。(Taylor)
- 「踊りながら」
プロクロスは、太陽に寄せるその最も優雅な讃歌の中で、この神格について歌う:
災悪除けの御身のバッコスの狂宴によって、喜ばしい賜物を授けつつ、
パイエーオーンを芽生えさせ、その健康を配置せり、
いささかの障りもなき調和で、広き世界を満たしつつ。
- 「右手……左手」
手は力の象徴である。だからプロクロスは、『プラトーンの神観』の中で言う、神的な事柄に熟練した人たちは、両手はヘーリオスのものとみなす。一方を右手、他方を左手と称して(Theologia Platonica, Volume 6. 64.)、と。(Taylor)
- 「不死なるゼウス」
全天球は、連続する超越的な神格で充満し、その連続はこの天球の指導的神格の衛星であるから、太陽がゼウスと呼ばれ、太陽神ゼウスがその付き添いの一人である理由は明らかである。しかし、この呼称には別の理由もある。というのは、ゼウスが理性界にあるように、太陽は事物の感覚的秩序界にあるからである。だからProclus『Theologia Platonica』Volume 5, page 74.は、太陽を「万物の王」と呼ぶのである。(Taylor)
- 「信実の守り手」
Proclus『In Platonis Timaeum commentaria』Volume 3(227)は、オルペウスの言葉をわれわれに伝えている、「造物主は太陽を全宇宙の上に置き、これを番人として授け、万物を主宰するよう命じた」〔断片79〕。(Taylor)
- 「セレーネー〔月〕」
この讃歌の中で月はセレーネーとメーネーとも呼ばれる、前者は神々の言葉で月を意味し、後者は人間によって彼女に与えられる呼称であることは、以下のオルペウスの断片から明らかである。
しかし彼〔ゼウス〕はもうひとつの際限なき大地をこしらえた、これを不死なるものたちは
セレーネーと呼び、地上の者らはメーネーと呼ぶ。
それは数多の山々、数多の町々、数多の宮居を有する。
名称のこの違いは、神的知と人間的知との違いから起こる。というのは、
- 「牡牛の角もつ」
Porphyry『De antro nympharum』Section 18.によってわれわれは告げられる、デーメーテールの古の祭司たちは、生成の女王、つまり、月下界の女王である月を、牡牛と呼んでいた、と。彼は付言する、「そしてタウロス〔牡牛〕とは月の登位である」。またOlympiodorus『In Platonis Gorgiam commentaria』Chapter 47(4) は言う、月は、古の神学者たちによれば、2頭の牡牛に牽かれている。2頭によってとは、その満ちと闕けのためである。しかし牡牛によってとは、これらが土地を耕すように、月は大地を囲むすべての部分を支配するからである。(Taylor)
- 「男性にして女性」
フィチーノ〔1433-99〕『Theologia Platonica』(1474)は、以下の注目すべき一節を有している。おそらくは、プロクロスか、後期プラトン主義者たちの誰かからの引用であろうが、不孝なことに、出典を記していない。「オルペウス神観の専門家たちは、魂の中に、また天球の中に、2つの力を考える。ひとつは知を構成し、ひとつは、その力と結合して活性的で支配的な球を構成する。かくして、地球において、グノーシス的力はプルートー、他方はペルセポネーと呼ばれる。水の中では、前者の力はオーケアノスを、後者はテーテュスと命名される。大気中では、前者は雷鳴轟くゼウス、後者はレアー。火中では、前者はパネース、後者はエーオース。月球の魂の中では、グノーシス的力はバッコス・リクニテース、もう一方はThaliaと呼ばれる。水星球の中では、前者はバッコス・シレーノス、後者はエウテルペー。ウェヌスの宮の中では、前者はバッコス・リュシオス、後者はエラトー。太陽宮の中では、前者はバッコス・トリエーテリコス、後者はメルポメーネー。マルス宮の中では、前者はバッコス・バッサレウス、後者はクリオー。木星球では、前者はサバジオス、後者はテルプシコラー。土星球では、アムピエートス、後者はポリュームニアー。第八球では、前者はペリキオニオス、後者はウゥラニアーである。しかし、世界霊魂の中では、グノーシス的力をバッコス・エリブロモス、しかし生命を与える力をカッリオペーと呼ぶ。オルペウス教の神学者たちが示唆する名号のすべてから、バッコスの特別な名号は、ムーサたちのそれに対比される、その目的は、ムーサたちの力は、いわば、神的な知の神酒に酩酊しているとわれわれに告げるためである。そして、9人のムーサ、つまり、9人のバッコスたちが一人のアポッローンのまわりを回転していると考える、それがひとつの可視的太陽の光輝のまわりである」。この偉大な1節は、Gyraldusの『Syntagma de Musis』と、Natales Comesの『Mythology』によって伝えられたが、原著者への言及を欠いている。それゆえ、それぞれの天球において、支配的神格の魂は女性的であり、知性は男性的性格を有するように、この讃歌においてセレーネーが「男性にして女性」と言われても、決して面妖なことではないのである。(Taylor)
- 「完成をもたらすもの」
Proclus『Theologia Platonica』Volume 6, page 98. は、セレーネーに関して、それは地上的諸神格の中では月であると告げている。「彼女〔月〕が、あらゆる物理的な所産である諸々の力と形を活動へと喚起すること、そして不完全なものに完全性を与える、ということである。だから、神学者たちやソークラテースは、『テアイテートス』の中で、物理的進行と生成を監視する保護者として彼女のことをロキア〔アルテミス-月〕とも呼ぶのである」。(Taylor)
- 「星辰の女王」
原語は"ajstravrxh"、また"ajstroavrxh"とも。この呼称は、初め、フェニキア人によって月に与えられた、とヘーロディアーヌス『Ab excessu divi Marci』(5.6.4.)。これはまた「アフリカのウーラニアー」とも呼ばれた。(Taylor)
- 「ピュシス〔自然〕」
ピュシス〔自然〕は、Proclus『In Platonis Timaeum commentaria』によって啓発されるごとく、この感覚界の造化的原因の最後であり、具体的本質の大きさの限界であり、生産的力と形相に満たされている。そして彼女は、神化された有の結果として、確かに女神である。しかし彼女は神格の実在性を直接には持たない。というのは、彼〔プロクロス〕が言うには、われわれが神的身体を神々と呼ぶのは、神々の立像だからである。彼は付言する、「しかし彼女が全世界を自身の力で道案内するのは、天をも自身の頂点に内包し、生成[つまり月下界]の方は、天を通して操舵し、ありとあらゆるところで〔自然の〕諸部分を、全体ともども織りなしているからである。ところが、このようなものであるとはいえ、彼女は生命を与える女神〔レアー〕から進発したのである。というのは、[カルデア人の神託 54 によれば]『女神の背には、両側に、限りなきピュシスが吊り下がっている』のであり、そこ〔自然〕からあらゆる生命が進発し、それは知的であるとともに、統治の対象から切り離せない。で、そこに依存し、吊り下がって、障りなく全体に通じ、万物を活性させる。〔その結果〕最も生気なきものらも彼女を通じて一種の魂を分有し、腐敗したものらも、彼女の内なる諸形相の原因に包摂されて、世界内に永久に留まるのである」(Volume 1, page 11.)。
それゆえ、ピュシスは、この讃歌において、「無音の足跡で骰子のように急旋回したもう」と表現される。というのは、造化的原因の最後であるから、彼女の施術が足跡で象徴されるのは適切なのである。しかし、「いとも術知に長けた」、「術知者」、「統べる」、「全知にして、万物を与える」……といった名号 これは彼女がアテーナーと一致することを明示する がピュシスに与えられる所以は、上記の引用においてプロクロスが啓発するごとく、彼女はあらゆるところで個々の自然と全体とをともに織りなしているからである。だから、オルペウスの神観によれば、これまたプロクロスに学んだごとく、アテーナーは、自分が統べる知恵と徳から、ピュシスの多様な覆衣をこしらえる。それゆえ、ピュシスは、結びつけ一致させる力と、影響力の大きな創造的力とによって、アテーナーとの明白な符合を有する。その神的な諸術知は、オルペウスの神観によれば、世界内の不協和と相違を、一致と認可へと引き戻すのである。
さらに、Simplicius『In Aristotelis physicorum libros commentaria』の考察はすぐれている、「ピュシスについてわれわれが形成する概念のひとつは、それが万物の性格であり、その結果、われわれは万物にこの名称を使うのであり、魂のピュシスとか、知性のそれとか言うことを拒まず、神性そのもののピュシスとまで言うのである」(Volume 9, page 289.)。それゆえ、ピュシスとは、神性の性格とか u{parciVを述べているのであるから、父なしである、と同時に彼女自身の有の父であると言われても、オルペウスの象徴的神学には完全に適合している。というのは、あらゆる神々は、この神観によれば、言うに言われぬ ejkfavnsiV によって光の中に進発しながら、しかも同時に自己完結(aujtotelhvV)・自己産出した本質(uJpovstasiV)だからである。そして、この讃歌の中でピュシスが「おのれ独りは非共有なかた」と言われるとき、これは、万物の第一原理の性格を述べていると考えられるべきである。というのは、万物の原理であるかぎり、それは非共有であり、万物の1原理以上になることは不可能だからである。(Taylor)
- 「終わりなき終わり」
ピロラオスは、ディオゲネース・ラーエルティオス『哲学者列伝』第8巻7章の告げるところでは、『自然について』という論文を公刊した。これの書き出しは、「宇宙の本性は、無限定なものと限定するものとから調合されているのであって、宇宙全体も、宇宙のなかにあるすべてのものもそうなのだ」。だからソークラテースはプラトーンの『ピレーボス』の中で言う、「万有は限定と無限定とから成り、これら2つの知的原理は、至高の神によって万物の初めとして創造された」。プロクロスは『In Platonis Timaeum commentaria』(Volume 1, page 84.) に、ピロラオスの上述の1節を引用している。(Taylor)
- 「変転きわまりなき」
世界は、拡張的・合成的本質を有し、そのため、継続的に自身から分離しているので、一種不可視の力(これに与るのは神性によってである)によってのみ結合されうる。さらに、善に向かって秩序正しい仕方で不断に動かされるのは自然な食欲によってであるので、このような食欲と運動の自然は、神的な知性と善性に発源しなければならない。しかるに、その物質的不完全性から、神的無限の全体を受け容れることはできるのは一時にではなく、その現世的自然にふさわしい仕方によってであるから、それを引き出すのができるのは、唯一徐々に、部分的に、いわば一滴ずつ、束の間の成功によってである。そういう次第で、身体的世界は流出する持続的状態と形成の裡にあるが、けっして現実的有性を所有することはなく、急流の中に見える高貴な樹木の表象のように、それは現実性なき樹木の外観を呈するのである。また、同一性を不断に持ちこたえているように見え、しかも、流れの持続的革新によって持続的に刷新されているのである。(Taylor)
- 「パーン」
パーンは、ダマスキウスの啓発するごとく、直知対象たる秩序の極致における第一実在であり、目出度いプロートゴノス、つまり、パネース以外のものはそこに存在しない。しあkし、その地上的実在によって、彼はあらゆる地方的な神々やダイモーンたちの単子、つまり、頂点である。彼の彫像では、その上半身は人間のそれに似るが、下半身は畜生[つまり、山羊]のそれであり、これによって示唆するところは、宇宙では、理性が非理性に対する主宰権を有する、ということである。それゆえ、その最初の実在性どおり、彼は宇宙の主位の範型である。この讃歌において、彼が万物によって崇拝される理由は明らかである。(Taylor)
- 「洞窟を悦び」
洞窟は、Porphyrius『De antro nympharum』によって啓発されるごとく、物質界の適切なシンボルである。形相の分有の故に、その最初の入口と一致するが、最も深奥の朦朧の中では、その基盤を見分けようとする知的な眼に関係する。だから、洞窟のように、その外面的・表層的部分は悦ばしいが、内部は朦朧としている。そしてその底は暗黒そのものである。(Taylor)
- 「真の角もつゼウス」
パーンは、すでに考察したように、知的秩序の極致に最初に実在し、プロートゴノス、つまり、パネースと同じである。これは原因であるので、知的秩序の中では、造化神ゼウスと相似であり、オルペウスによれば、パネースはこれに吸収される。だから、ゼウスは万物の混成者とオルペウスによって言われるように、Joannes Galenus『Allegoriae in Hesiodi theologiam』Page 364, 14. からわかるとおり、「角」は世界の造化者の混成の力の隠秘的シンボルである。というのは、この讃歌の中で用いられている kerasthvV という語の文字どおりの意味は、ツノヘビのことであり、プロートゴノスの頭のひとつは、蛇のそれである。そして kerasthvV という語は、Gesner の考察では、動詞 keravnnumi〔混ぜ合わせる〕を語源とする。(Taylor)
- 「最も軽い火」
「底面の最も少ない形〔火=正四面体〕は、最も動きやすく、一番軽いのが必然です」(Pl. Tim., 56B)。
- 「大地の最もすぐれた若枝」
オルペウスに従えば、感覚界の原因たる知性界があり、前者が二次的・感覚的に把握するが、後者は原理・原因という在り方を内容としている。だから、後者の内容は、知的天と大地であって、場の内に存在する物質のようではなく、時間の循環と親交するが、永遠の確実な本質の内に直接的に実在する。この神的世界にある別の太陽と月と星辰は、知的な光で光り輝く。というのは、そこではあらゆるものが完全に流動的であり、光と混ざって持続的に光り輝いているからである。知的パネースを主宰するこの天と地から、プロクロス『In Platonis Timaeum commentaria,』(Volume 3, page 184.)によれば、オルペウスは、神々の月下界の秩序を導き出し、それらの間に、知的大地の以下の子孫を列挙するのである。「彼女〔ゲー〕は、7人の器量よき乙女たちと、/7人の御男神の子たちを〔産みたまえり〕。/御娘たちとは、テミスと好機嫌のテーテュス、/美豆良も豊かなムネーモシュネーと浄福なテイアー、産みたもうたのは、すぐれた容姿の持ち主たるディーネー」ほか、「ポイベーに、御男神ゼウスの生みの親たるレイアー」、さらに、この輝かしい大地が産んだ天界の息子たちは、星輝くウゥラノスに償いをさせた(tivnw→teivsasqai)がゆえに、ティーターンという名号をもつ〔Cf. Hes. Th. 207-209.〕「コイオスと、クレイオスと、頑強なポリュクスと、クロノスと、オーケアノスと、ヒュペリーオーンと、ゼウスである」(frg. 95)。さて、この讃歌においてヘーラクレースは太陽として崇拝され、太陽はヒュペリーオーンと同じであるから、ヘーラクレースが「大地の最もすぐれた若枝」と呼ばれる理由は明らかである。そして、続く讃歌XIIIの中では、クロノスが「ガイアの……若枝」と呼ばれているのを見出すであろう、テミスは讃歌LXXIXで「ガイアの若枝」、ティーターンたちは讃歌XXXVIIで「ガイアとウゥラノスとの輝ける生子たち」と。
さらに、
パネースは、アテーナゴラス〔『キリスト教徒のための嘆願』18〕に啓発されるごとく、オルペウスによって「ヘーラクレース」と「時間(クロノス)」と名づけられている。ここに、この讃歌の中でヘーラクレースが「プロートゴノスたちに矢弾を投げ返す」と言われる理由を見出す。それは、彼が直知対象-直知界におけるプロートゴノス、感覚界における太陽にほかならないからである。あるいは、……太陽の衛星のひとつとして、太陽の名号を以て崇拝されると言えるかもしれない。(Taylor)
- 「矢弾を」
Gesner と Hermannの校訂では、この箇所は bolivsin〔矢弾を〕。Eschenbach では folivsi〔甲鱗で〕。しかし本当の読みは、わたしは疑わぬのだが、訳「with primogenial fires」に近似した flovgisi〔炎で〕。Scaligerも自分の版において"Ignibu' primigenis florens"。(Taylor)
- 「ティーターン」
クロノスは、ヘーラークレース讃歌(XXXIV)で明らかなとおり、知的ガイアによって産出されたティーターン神族の一人である。
- 「レアー」
レアーは、オルペウス的・プラトーン的神観によれば、宇宙の生命を与える活動的原理の1つであり、父系的秩序の間 すなわち、頂点に実在するクロノスと、地的秩序の極致に実在するゼウスとの間 に母系的位格を有する。それゆえ、彼女はクロノスに潜在する諸々の原因を呼び出し、神々の類をすべて明確に展開する。その結果、彼女は、クロノスから知的で多産な力に満たされ、これは宇宙の造化主ゼウスに分与し、その有性を活動的な豊穣で満たすのである。それで、この女神は、クロノスとゼウスという、宇宙の知的な二人の父 前者は知的な多を一に集め、後者はそれを散らし、区別する の間に存在する ここからして、とプロクロスは『プラトーンの神観』の中で言う、この女神は、宇宙の造化的諸原因を自身の中で産出するが、その拡散的な力を二次的な諸自然に惜しみなく分与する。このゆえにプラトーンは、彼女の多産的豊穣さを、水の流れに譬えた。この「流れる」という語によって、依って以て彼女が超越的な一の中に、生命の可視的な河を内包するところの源泉的力以外は何も含意しないためである(Volume 5, page 36-37)。プロクロスは、同じ作品の Volume 5, p. 39 においても同様にわれわれを啓発している、この女神は、オルペウスによれば、その有性の最も高貴な部分によってクロノスと一致すると考えられた時は、レアーと呼ばれる。しかし、産出的ゼウスとして、神々の全体的かつ部分的秩序を展開するゼウスとともに考えられたときは、デーメーテールと呼ばれる、と。(Taylor)
- 「プロートゴノス」
パネースつまりプロートゴノスは、Ploclus『In Platonis Timaeum commentaria』(Volume 3, page 271) において啓発されるごとく、可考界においてのみならず、知的神々の間、つまり、造化的秩序や、超天的・地上的神々の間においても、実在する。さらに、ニュクスとウゥラノスも同様である。というのは、これらの特徴は、あらゆる中間的秩序を通して受け取られるからである。ゆえに、すでに考察したところであるが、レアーが、パネースを支配する知的ゲーの子孫の一人であるように、この讃歌においてプロートゴノスの娘と言われる理由は明らかである。しかしながら、レアーがそこから進発するところのパネースとゲーは、カルデア神学者たちによって nohtoV kai noeroV〔直知対象であると同時に直知そのもの〕と呼称され、プラトーン『パイドロス』の中でウゥラノスの呼称のもとに崇拝されたところの、神的秩序の内に実在する。この秩序は、直知対象たる秩序と知性的秩序との間に実在するから、前者に参与し、直接性と類似性との点で後者と kata; sxevsin〔関係する〕。だから、それは本来の知性的である。(Taylor)
- 「青銅打ち叩く」
レアーがここで「太鼓を打ち鳴らし……青銅打ち叩く〔かた〕」と呼ばれる所以は、彼女が原因たる神来状態的活力の結果である。ゆえに、Porphyrius「Epistula ad Anebonem」(chapter 2, section 2c) は言う。
「狂乱した人たちの或る者たちは、アウロス笛とかシンバルとか太鼓とかある種の旋律を聞いて、神来状態となる、例えば、コリュバース祭儀に与る者たちとか、サバジオスに憑かれた者たちとか、神々の母神に憑かれた者たちがそれである」。
この1節で、Iamblichos『De mysteriis』は次のように美しく考察している。
「音楽が、動因的にして情動的であり、アウロス笛のそれが、逸脱した〔魂の〕情動をうえつけたり癒やしたりし、また、音楽が諸々の身体の体質や状態を酩酊させるが、他の律動によっては、バッコス的熱狂に駆り立てるが、他〔の律動〕によってはバッコス的熱狂を鎮めるということ、また、これらの違いが、どうして魂のそれぞれの状態と調和するか、また、不安定で定まりのない律動が、脱魂状態に適合すること、オリュムポス調とはどのようなものであり、どれほどのものらがそう言われるのか、そのすべてが神来状態をもたらす〔律動〕と言われるのは、わたしには異様に思われる。なぜなら、それらは自然的かつ人間的であり、われわれの術知の働きであって、何であれ、それらに神的なものとは見えないからである」(Chapter 3, section 9.)。
さらに10章においても考察している。
「だから、これをわれわれはむしろこう言おう、音響と律動は、銘々の神々に親らのものとして捧げられており、彼らに同族的なものとしてふさわしく割り当てられているのは、銘々にとって親らの持ち場、力、当の全体の中における運動、その運動に根ざす調和ある音声にしたがってである。まさに、律動と神々とのこの親和性によって、(妨げるものは何もないのだから)彼ら〔神々〕の臨在が生まれ、その結果、彼らとの間に親和性を偶有するものがただちに彼らを分有し、憑依、よりすぐれた有性と力の完成と充満がただちに起こる」(Chapter 3, section 9.)。
Chapter 10. においても彼は考察する。
「コリュバースたちの力は、ある意味で、守護者的であり、目的達成的であるが、サバージオスの〔力〕は、バッコス的熱狂と魂たちの浄化、昔の遺恨の解消に親和性をもたらす、だからこそ、それらの霊感もどれとも異なっているのである。だが、神々の母に関しては、……主として母神に憑かれるのは女であり、男はごく少数で、しかも軟弱な連中である。しかし、この神来状態にある者も活性的にして元気回復的力をもっており、その点で他のいかなる狂気とも異なっているのである」(Section 10.)。
この抜粋において、神々の母による神来状態が、活性的力を有しているとイアムブリコスが言う所以は、彼女が命を与える女神、つまり、万物にとって生命の源であり、レアーと同一だからである。(Taylor)
- 「救済者」
ゼウスが生まれたとき(と、神話は言う)、その母レアーは、クロノスを瞞すため、襁褓にくるんだ石を、ゼウスの代わりにこれに与え、同時に、彼女が彼に与えたものが自分の子だとクロノスに告げた。クロノスはすぐにその石を呑んだ。そしてゼウスはひそかに教育され、ついに世界の支配を手に入れた。神話は、Phurnutus の述べるところでは、以上のとおりである(Phurnutus『Opusula mythologica, ethica et physica』参照)。また、Phurnutus によれば、この神話は世界の創造を示唆している。彼は言う、「というのは、そのとき、ピュシス[すなわち、彼によればゼウス]は世界内でそのときに養われ、ついに勝利した。しかし、クロノスに呑みこまれた石は大地であり、それが中間の場をしっかり占めていることを示唆している。というのは、有るものらは、それを保持する礎のようなものなくしては、永続しないからである。万物はこのものから創造され、その固有の状態を手に入れる」(Chapter 3, section 9.)。Phurnutus(彼はストア派哲学者であった)によるこの神話の説明は、その真の意味からはほど遠い。しかしストア派は、倫理面では非常にすぐれていたが、神観に欠如していた。それゆえ、この神話の真の解決は、オルペウスの教説と同じプラトーンのそれからのみ導き出される。そしてこれにふさわしいのは、この神話の以下のごとき展開である。 レアーとは、あらゆる生命の原因であり、彼女は、クロノス、レアー、ゼウスを構成する知性的三性の中間的神格である。しかるに、活性的秩序の特性は、(Proclus『In Platonis Parmenidem』が立証するごとく)運動と恒常性であり、前者は生命の源を光の中に展開し、後者は、この生命を、その固有の川から免じてしっかりと固定する。同じことが、彼の『Theologica Platonica』(lib. v.) においても立証されている。また、ダマスキオスも原理について考察し、「オグドアース、つまり、数字の8は、レアーに関与する、〔彼女の有性の〕区別によって万物に動かされ、かつ、にもかかわらずしっかりとどまって球状に確立するからである」(Damascius『In Parmenidem』Page 133.)。ダマスキオスが球状という語を使うのは、8が立方体の数だからである。それゆえ、レアーは、自分の子ゼウスを、進発しない一に内在するクロノスの内にしっかりと確立し、神話的には、ゼウスの代わりに石をクロノスに与え、その石はクロノスの内にゼウスがしっかり確立したと言われのである。というのは、あらゆる神的な子孫は、同時に、それが進発したもとのものであり、その原因の内に住むからである。そして、ゼウスのひそかな教育とは、直知対象的秩序のうちで彼が養われたことを述べている。というのは、この秩序は古代の神学者たちによって隠秘術と名づけられているからである。(Taylor)
- 「ゼウス」
- 「頭を通して」
原文はdia; sh;n kafalhvn、わたしには明らかだと思えるのだが、頭は、これを容器とする心のことが述べられているのであろう。(Taylor)
アテーナーがゼウスの額からおどりでたというこの物語について、J. E. ハリソンは「アテーナーの神話からその女家長制的な条件をとりのぞこうとして苦しまぎれに考えだした方便だ」と正しい解釈を下している。これまで、いつも女神だけが聡明なものとみなされてきたのに、これは知慧が男性のもつ特権だとする独断的な主張でもある。現にへーシオドスは、彼の物語のなかにふくまれる、たがいに矛盾する次の三つの見解をなんとか統一しようと努めている。
1 アテーナイ市の守護神アテーナーは、週の四日目と水星にゆかりのあるティー夕ーニスである不死のメーティスの処女受胎によって生れた娘で、あらゆる智慧と知識とをつかさどっていた。
2 ゼウスはメーティスを呑みこんでしまったが、それにもかかわらず智慧を失うことにはならなかった(すなわち、 アカイア人たちはティーターン信仰を抑圧し、彼らの主神ゼウスこそ、あらゆる智慧の持主であるとした)。
3 アテーナーはゼウスの娘である(ということは、アテーナイの市民たちは、ゼウスの家父長制的な支配権を認めなければいけないと、アカイア人たちが主張したということである)。(グレイヴズ)
- 「万物の初めにして、万物の終わり」
ゼウスは、宇宙において、造化神であるかぎりにおいて、万物の初め=原理であるが、最終原因であるかぎりにおいて、万物の終わりである。したがってまた、ゼウスは、宇宙の初め=原理として、それを内包している。というのは、万物はそれらの原理から流れ出るからである。これと相似して、以下のオルペウスの詩が、Proclus『In Platonis Timaeum commentaria』(Volume 1, page 313.) に引用されている。
ゆえに、ゼウスが全体とともに内包するは、
広大な大気、天の輝く高み、
不毛のわたつみと、誉れも高き大地の礎、
大いなるオーケアノスと、大地の底たるタルタロス、
河川と、他にも限りなきわたつみのすべて、
不死なる浄福なる男神と女神のすべて、
過ぎ去ったかぎりのすべて、後に来たらんとするかぎりのすべて、
ゼウスの胃袋の中にあるかぎりの事ども。
この詩句の最後にあるゼウスの胃袋とは、それ〔胃袋〕は身体の中間部に存在するのだから、この宇宙の中間に実在することの叙述である。だから、この詩人〔オルペウス〕は、万物がゼウスの胃袋の中に含まれると主張することによって、この神格は初めにして終わりであるばかりか、自身の内に中間を含んでいるのであるから、万物の中間でもあることを、われわれに隠秘的に表明しているのである。或る現代人は、ゼウスの胃袋によってこのギリシアの神学者が何を意味しているかを少しも理解せず、その浩瀚な神話論のどこかで、上記のオルペウスの詩行の後半を、宇宙の創造者の大いなる表象を含んでいると正しく理解した人に応えて、「ゼウスが巨大な胃袋をもっているという以外の観念を喚起するものではない」と言う。
同じ箇所(Volume 1, page 313.) で、プロクロスはまたオルペウスの別の詩を引用しているが、これはまたアリストテレースに帰せられる『宇宙論』(401b) の中にも見出せるものである。これに先立って、彼は、神学者オルペウスが言うように、造化神は諸々の形相に満たされ、自身の内なるこれらすべてのものを通して理解される考察する。そこの詩句と、ステパノス、Eschenbach、Gesner の順序に適合する詩句とを、次のように結合してみた。
稲妻の王ゼウスは初めの者にして、最後の者、
中間にして頭、万物はゼウスから跳び出した。
ゼウスの中に男と女の形が結びついている、
なぜなら、ゼウスは男にして、しかも神的な女だから。
ゼウスは含は、大地の力強き礎と、
星きらめく平野の深き輝き。
ゼウスは万物の気息、ゼウスの不可思議の体格は、絶えざる炎の猛威の中に生きる。
ゼウスはわたつみの強き根、太陽の光、
ゼウスは月、夜の素晴らしき摂政。
ゼウスは王、制約に縛られることはない。
そして万物はゼウスの豊かな心から流れ出る。
一は神的な力、万物に知られ、
一のみが絶対的な支配者。
なぜなら、ゼウスの高貴な身体の中に、万物は横たわる、
火も、夜と昼も、大地も、水も、空も。
最初の所有者はエロースと心を喜ぶ。
これらをゼウスはその力強き身体の内に閉じこめた。
見よ、彼の美しき頭と輝かしい容貌が、
いかに天を照らし、際限なき光を拡散させるかを!
彼の胸飾りが、黄金の巻き毛を光らせるまわりを、
神々しき光をたたえる星の光線からでき、
両側に2本の光輝ある角を持ち、
牡牛のそれのごとく鋭く、きらめく黄金に輝く。
東と西は互いに反対側に横たわり、
高みにはあらゆる神々の露繁き通い路。
太陽と月なる彼の眼は、放たれた光線をもち、
彼の心は真理、衰えを知らず、
高貴にして、霊妙。そして彼の耳が響かせるは、
あらゆる声と、あらゆる種類の音
。
かくのごとく、彼の頭と心は不死の輝き、
彼の身体は際限なく、確乎とし、光に満ちている。
彼の四肢は強く、力みなぎり、
手なづける力をもつが、服従すること断じてない。
取り囲む大気の広がる領域は、
彼の広き両肩、背、素晴らしき胸を形づくる。
そして世界を通して、大空の支配者は、
生来の迅き風切り羽を支えに飛翔する。
彼の聖なる胃袋は肥沃な平野を埋蔵し、
雲にもとどく山々を内包する。
彼の中帯は、広がる深き海、
そのどよもす浪は固き陸地を囲む。
遠きタルタロスの領国はおぼろに、
その内に、大地の根と、彼の聖なる脚を秘蔵する。
というのは、これら、大地の究極の縛りは、ゼウスのもので、
彼の永遠にして強き礎を形づくるゆえに。
かくして万物を、ゼウスはその胸の中に秘し、
そこから美しき光の中へと披くのである。
それゆえ、ゼウス、つまり、造化神は、オルペウスによれば、感覚的世界が含む万事の諸原因を、その有の測りがたい深みに含んでいるものとして万物であり、これらの諸原因は、それが産出する影響を確実に超越している。だから、原因的先験性によって、かれは、感覚界に含まれる万物である。シュロスのペレキュデースも、ゼウスについてこの教説と一致して言っているところは、Kircher〔1652-1655〕『Oedipus Aegyptiaeus』(ii. p. 89) からわれわれが学ぶとおりである。
神は円である、四角形である、三角形である、
空であり、字母であり、中心であり、万物に先立つ万物である。
このように、事物の言うに言われぬ原理は、全体に先立つ全体と言われ、それは自身の内にあらゆる無数のものを含んでいるからではなく、そこから万物が言うに言われぬ仕方で光の中に展開するからなのである。(Taylor)
- 「ヘーラー」
ヘーラーは、プロクロスによって伝えられているように、オルペウス教神学者たちによって、zwogono;V qeav「生命を生む女神」と呼ばれている。名号は、この讃歌において彼女に帰せられる属性と完全に一致している。プロクロスは『Theologica Platonica』Volume 6, page 54, line 8.においても、「ヘーラーは魂の子づくりの源である」と言っている。(Taylor)
- 「ポセイドーン」
Proclus『In Platinis Cratylum commentaria』に展開されるこの神格の自然本性を見よ。(Taylor)
- 「ゼウス・クトニオス」
プロクロスは『In Platonis Theologia』Volume 6,page 35. に言う、プルートーがゼウス・カタクトニオス(oJ kataxqovnioV ZeuvV)と呼ばれる所以は、大地とこれが含むすべてを、その神意によって支配するからである、と。(Taylor)
- 「大地の鍵」
Proclus『In Platonis Cratylum commentaria』Section 56. は、密儀入信者たちは、感覚と神々とが共感するために、分離の徴として杼(kerkivV)、活力の徴として混酒器(krath:r)、支配の徴として笏(skhvptroV)、そして大地の力の徴として鍵(kleivV)を使う、と告げている。だから、プルートーは、大地の守り手であるから、大地の鍵の保持者とここで言われる。(Taylor)
- 「テーテュース」
ホメーロスの神話はペラスゴイ人の創成神話の一変形である。というのは、エイリュノメーに代わってテーテュースが海洋を支配し、オピーオーンに代わってオーケアノスが宇宙を取り囲んでいるからである。(グレイヴズ)
Proclus『In Platinis Cratylum commentaria』に展開されるこの神格の自然本性を見よ。(Taylor)
- 「プローテウス」
Proclus『In Platonis publicum commentaria』Volume 1, page 112.は言う、プローテウスは、主だった神々に劣るけれども、不死である。そして、神格ではないけれども、ポセイドーンの秩序の一種天使的な賢者であり、宇宙に生起する事象の形式すべてを自身のうちに内包している、と。(Taylor)
- 「ゲー」
オルペウス教神学によれば、ゲーは、ウゥラノスを父とするあらゆるものの母である。(Taylor)
- 「極星の笏」
「神々の母」はレアーに同じ。プロクロスは『In primum Euclidis elementarum librum commentarii』Page 90.で言う、宇宙の極点は、ピュタゴラス派によって、レアーの捺印と呼ばれている、と。(Taylor)
- 「ヘルメース」
Proclus『In Platonis Alcibiadem i』Section 187-188.がヘルメースについて告げる以下の主張は、この讃歌の幾つかの部分の解明に大いに寄与するであろう。「ヘルメースは発明の源である。だから彼はマイアの息子と言われる。マイアに含意される探究は、発明を光の中に導くからである。彼はまた父ゼウスの意思を展開することで、魂たちに学知を授ける。そして彼はこれをゼウスの御使いつまり伝令師として達成する。同様に彼は体育教練を見張る保護者である。だからヘルマ、つまりヘルメースの彫像は、格闘場に安置される。音楽に関しては、彼は天界の星座である琴座として尊敬されている。教練に関しては、彼は幾何学の発明によって、論法と言語はこの神に帰せられている。それゆえ、彼はあらゆる学識を主宰し、われわれをこの可死的住居から知的本質へと導き、魂の異なった群を司り、魂が圧迫される眠りと蒙昧を散らす。同様に、彼は記憶神的な自然の真正なる知的理解の目的の供給者である」。(Taylor)
- 「ひとり娘」
プロクロスは『In Platonis Timaeum commentaria』Volume 1, page 457(117)に言う、「この神学者[オルペウス]は、ペルセポネーを”ひとり娘(mounogevneia)”と呼びならわしている」。
- 「秋には」
サッルスト『De deiis et Mundo』Chapter 4, section 11 は言う、「コレーの誘拐は秋分の頃に起こったと物語れているが、これこそは魂たちの下降の頃である」。
リュドス『De Mensibus』によれば、ペルセポネーの祭儀は、10月上旬の6日に執り行われたという。ここから、この讃歌において、ペルセポネーが秋に祀られたと言われる理由は明らかである。(Taylor)
- 「万物を養い育て、かつ、殺される」
プロクロス『Theologia Platonica』Volume 6, page 55 は伝えている、エレウシスの密儀によれば、ペルセポネーはプルートーンとともに、地上の出来事と大地の奥所とを支配し、世界の局所を生命で満たし、彼女の力で枯れたり死んだりしたものを魂に与らせる、と。(Taylor)
- 「ディオニューソス」
Proclus『In Platinis Cratylum commentaria』を見よ。(Taylor)
- 「エウ・ホイの神」
Eu[ioVはバッコスの名号。バッコス信者たちの歓声eujai{、eujoi{から呼ばれる。
- 「クーレースたち」
超天界におけるコリュバースたち(複数:コリュバンテス)は、可考界におけるクーレースたち(複数:クーレーテス)に等しい。コリュバースたちは、プロクロスによれば、「コレー=ペルセポネーを先導し、いかなるところであれ彼女を守る」(Theologia Platonica, Volune 6, Page 66)。讃歌xxxviiiにおいても、クーレースたちはコリュバースたちとして崇拝されている。以上2つの主張から、両者は守り神的性格を有し、お互いに深い同一性を有している。(Taylor)
- 「アテーナー」
註55に見たように、超俗的活動的三性は発生的に3つの単子から成る。それらはつまりセレーネーとペルセポネーとアテーナーである。「そしてこれらの最高つまり第1はu{parciV[すなわち有性の頂点]に従って配置される。第2は力(dunavmiV)に従って〔配置され〕、これは人生を定める。第3は活動的理性に従って〔配置される〕。また、神学者たちは第1のものをコレー・セレーネー、第2のものをペルセポネー、第3のものをコレー・アテーナーと呼びならわす。わたしが謂うのは、彼女たちは、ギリシアの神観の古代の指導者たちによってこのように命名されているということである。というのは、非ギリシア人たちによって、[カルデア人の神学者たち]同様、同じ事柄が別の名称で明示されているからである。例えば、彼らは第1単子をヘカテー、中間の単子をプシュケー、第3の単子を徳(ajrethv)と呼んでいるのである。これと歩を合わせて、Psellusは『Opuscula psychologica, theologica, daemonologica』の中で言う、「生命を生む初源の中で、頂点はヘカテーと呼ばれる。中間は支配的魂と〔呼ばれ〕、極限は支配的徳と〔呼ばれる〕、と」(page 147)。超俗的秩序がプロクロスによって「支配的」とも言われているのは、それが構成する諸神格は、原理であり且つ支配者だからである。
それゆえ、この讃歌においてアテーナーが洞穴、山の背、森、鬱蒼たる山々に威名鳴り響かせる理由は明らかである。というのは、これは彼女とセレーネーとの一致から生起しているからである。だから、これらの名号は誤りだと主張したRunkeniusは間違っているわけである。同様に、10行目で彼女が月と同様「男性にして女性」と呼ばれている理由を理解できる。また、セレーネー讃歌において彼女が「全知の乙女」と呼ばれる理由も。(Taylor)
- 「雌ドラコーン」
神的智慧と摂理の擬人化であるアテーネーとドラコーンとの一致を受け取るのは容易である。Phurnutusによれば、ドラコーンは用心深い守護的自然に属する。(Taylor)
- 「プレグライの野のギガースたち」
巨人族の物語はよく知られているが、その本当の意味を知っている者はごくわずかであるので、神々との戦いについての以下の説明が、Proclus『In Platonis rem publicam commentarii』(Volume 1, page 88-90.) から挿入される。
「万有の分割された進発と、その本質的分解は、創造的第一原因の分割[つまり、限と無限](これはまったく不可知である)にはじまり、総体を超越して広がる諸原理にしたがって実在するが、相互に異なっている。或るものらは、同一化の単子である限にぶら下がって、そのまわりに自分たちの実在性を限定するが、或るものらは総体の生成である無限定から、尽きることなき力を受けとり、多と進発の多産の原因となり、そのまわりに親らの本質(uJparciV)を確立する。されば、あたかも諸有の第一原理が互いに分解するかのように、あらゆる神的な生成と真の諸有も、秩序ただしい進発にしたがって、相互に分割される。かくて、その或るものらは、第二次的な諸自然との合一の指導者となるが、或るものらは分解の力に与る。また或るものらは、転回の原因となって、固有の諸原理に多数の進発を内包するが、或るものらは、諸々の進発と、諸原理からの下位の生成を限定する。さらにまた、或るものらは、より劣った諸自然に生産的豊かさを提供するが、或るものらは、変わらず、汚されざる清浄さを授ける。また、或るものらは、遠ざかった諸善の原因を自身に結びつけるが、或るものらは、諸有と共在し、これを受け取る善の〔原因となる〕。有のあらゆる諸秩序において、種族の対立はかくも多様である。それゆえ、おのれの内に諸有を確立する持続性は、生命と運動に満ちた活動的諸力とは反対なのである。だからまた、同等性の種族は不等性に、類似性の種族は相異性に、同じ推理によって反対の配置を抽籤しているのである。……だから、神話作家たちが、神々そのものと、諸有における第一のものらとのこのような対立を考察して、戦争になぞらえて、自分の育て子たちにほのめかしたからとて、どうして驚くことがあろう、神的種族は相互に常に合一し、同時に万物の合一と分解との諸原因を自身の内に内包しているのだから。(Volume 1, 88 - 89.)。
されば、神々そのものと、諸有における第一世代とのこのような対立を、神話作家たちが熟考して、自分たちの育て子たちにこれ〔対立〕を戦争によって暗示したからとて、いったいどうしてそれほど驚くことがあろうか。神的種族はいつも互いに一致しているが、同時に、自分たちの間のその一致とまぎれもない分解とにふけっているのだから。
しかしながら、別の仕方でこう言うことができるようにわたしは思う。 神々そのものは部分的に相互と同時誕生し、一様に相互に実在するということ、しかし、宇宙へのそれらの進発、つまり、それらの交通は、分有の内に分離していて、可視的となり、かくて反対者に満たされているということ、そして、それらの摂理による拡張の諸対象は、まぎれなき仕方でそこから進発する諸力、その多数の幻想を混乱することなく受け取ることができない。同様にわれわれは言うことができよう 神的な諸自然にぶらさがっている最後の諸秩序は、第一原因から隔たって生まれているから、そして、それらの支配の対象にとって究極であるから、それはものの内に含まれ、あらゆる種類の反対と分離を自ら分有し、物質的諸自然を部分的に支配し、それらの最初の創造的諸原因を一様に、かつ、部分的に先在する諸力を最少に分割する、と。されば、神学者たちの密儀的お告げが、戦闘を神々そのものにまで淵源させるやり方は、このようなものであり、これほど多いなかで、自余の詩人たちや、神的事象の説明に関して、神的種族さえ諸有の諸々の第一原理にしたがって剥奪されるあの既述の仕方によって神来状態となる人たちは、諸々の闘いや諍いを神々のうちに想定しがちなのである。なぜなら、〔原因を〕惹き起こすものらは、有へと運ぶものら〔=生成の諸原因〕に、結合するものらは分解するものらに、同一化するものらは、諸有の進発を多数化するものらに、総体的〔生成〕は、部分的に造化するものらに、単純さに超越するものらは、諸部分の指導に対立し、いわば争い戦い合うと、神話は真理を隠して言うのである。まさにこういう次第で、思うに、ティーターンたちがディオニューソスに対して、またゼウスに対してはギガースたちが対戦したと彼らは謂うのであろう。なぜなら、彼らには、この世界に先立つ造化者たちとして、同一化、不可分的創造、諸部分に先行する総体性がふさわしいが、これらは、造化的諸力を多へと先導し、全体の内なる諸〔有〕を監督し、質料的事物の最も近い父たちだからである」(Volume 1, 89 - 90.)。
プロクロスは優雅な「アテーナー讃歌」(讃歌VII)の中で、ギガースたちに対するアテーナーのこの勝利について言う。
知恵の敬神的な城門を開いて、
神の闘いは、大地生まれのギガースたちの部族を打ち負かせり。
〔総体は三重の実在性を有する。というのは、それは諸部分に先立つ、つまり、それが内包する諸部分の原因である。あるいは、それは諸部分の集合である。あるいは、それは部分の内に実在する。〕
(Taylor)
- 「グリュネイオンに坐す」
グリュネイオンは小アジア本土に位置し、レスボス島の東南方、カイコス河口の少し南〔ヘーロドトス巻1・149参照〕。アポッローンの神域は古くからの神託所で、立派な神殿があった。パウサニアス、第1巻・21-7。
- 「ピュートー殺し」
Damascius『In Phaedonem (versio 2)』Section 142.でオリュムピオドーロスは言う、「テューポーン、エキドナ、ピュートーンは、タルタロスと、ウゥラノスと結ばれたガイアとの子孫で、いわば、カルデアの一種の三位一体を形成し、無秩序な物語[つまり、事物の最後の物語の]全体を監視する番人である」。さらに、同じ註釈の別の箇所(versio 1, Section 539.)で彼は言う、「テューポーンは、あらゆる種類の地下の風や水、他の要素の猛烈な動きの原因である。しかしエキドナは、理性的・非理性的な魂たちに報い罰する原因である。だから、その上半身は処女、下半身は蛇である。またピュートーンは、預言的進発全体の守護者である。もっと言えば、それはこの種の事物に関する無秩序と邪魔の原因である。だからまた、アポッローンは、それが[預言的活力に]対立する故に、ピュートーンを殺したのである」。(Taylor)
- 「〔夜の〕薄明を通して」
ここで、「薄明」 これの彼方にアポッローンがその根を据えると言われる とは、恒星天であり、天界を直接的に構成する領域であるが、カルデア人たちによれば、これは3つである。というのは、彼らの主張では、7つの身体的世界があり、ひとつは最高天で、これが第一、これに続いて3つの天的世界があり、それから3つの物質的世界があり、これらが連続的に通常の空間、つまり、7惑星界にして、月下界を構成している。しかし、オルペウスの神観によれば、恒星天の彼方に霊気界があることは、ニュクスの神託に関する以下の密儀的特徴から明らかであり、これはProclusの驚嘆すべき『In Platonis Timaeum commentaria』(Volume 1, page 207. と Volume 3, page 179.) によって伝承されている。彼は言う、「宇宙の考案者は、その造作全体に先立って、ニュクスの神託に訴え、そこで、神的な概念に充満され、造作の諸原理を受けとり、こういうことが許されるなら、そのすべての疑念を解消した。ニュクスはまた、宇宙の造作を引き受けるよう、父神ゼウスに呼びかけ、ゼウスもまた、そのように指名されたニュクスであったと、この神学者[オルペウス]によって言われている:
神々の至高のマイア、不死なるニュクスよ、御身はこれをいかに謂いたもうや?
不死なるかたがたの雄々しき初めをいかに定めるべきか?
また、万物は一なくして各々いかにあるのか?
(Orph. frg. 117, 118.)
この問いに、女神は答える:
万物をして、言うに言われぬ霊気に遍満せしめよ。中間には
ウゥラノスと、際限なきガイアと、海と、
これらすべてをして天を冠せよ。
また、Psellus からも、カルデア人たちによれば、2つの太陽界があり、1つは霊圏の深みに追従し、他は、7惑星圏の層である(カルデア人の教説の簡潔な抜粋を見よ)、ということを啓発される。また、Proclus『In Platonis Timaeum commentaria』もわれわれを啓発する、「最も密儀的なロゴスによれば、太陽は総体として超俗的秩序の中にある。なぜなら、そこにはその〔太陽の〕秩序があり、光全体もある、とカルデア人たちの神託(Oracul 325) が言っているからである」(Volume 3, page 83.)。この霊圏は、神々の超俗的秩序を分有し、そこには太陽の総体が実在する。しかし、この総体(oJlothvV)によってプロクロスが意味しているのは、そこに太陽という可視的球が据えられ、総体と呼ばれている球体である、というのは、それは永久の実在性を有し、原因をなす多数者すべてを内に包摂しているからである。このことと適合して、Flavius Claudius Julianus は言う、「太陽という球体は、この通常の球体をはるかに超えて、星なきところを回転している。それゆえ、それがあるのは惑星の間ではなく、3つの世界[つまり、3つの霊圏]である」(「王なる太陽に寄せて。サルゥシオス宛」Section 28.)。それゆえ、以上すべてからして、この讃歌においてアポッローンが、薄明の彼方にその根を据えると言われる所以が明らかとなる。というのは、これが意味しているのは、神々は彼によって霊界に組みこまれている。根〔複数〕とは、頂点(ajkrovthteV)〔複数〕のことであり、これこそ、オルペウスやカルデア人の神観によれば、神々にほかならない、ということだからである。だから、プロクロスは美しく考察している、「例えば、樹木が、おのれの頭頂によって大地に根ざして、それ〔頭頂〕にかかわるものらも大地的であるように、同じ仕方で、神的なものらも、おのれの頂点によって一に根ざし、一そのものとの混乱しない合致を通して、一である」『In Platonis Parmenidem』(Page 1050.)。(Taylor)
- 「多音の竪琴に調和させたもう」
Gesner は、この讃歌の註のなかでうまく考察している、 音楽的要素と天体的要素の相似と連結は、最も古いもので、それはオルペウスやピュタゴラスからプラトーンへと引き継がれた。しかしながら、アポッローンのリュラは、宇宙の階調(その源がこの神格である)の叙述であるのみならず、オルペウスやピュタゴラスの教説によって、とりわけ天界の階調とか、天体の革新によって惹き起こされる律動とかを予示している。この球界の階調は、アリストテレースの『天体論』第2巻に対するシンプリキオスの註釈(Simplicius『In Aristotelis quattuor libros de caelo commentaria』の中で、以下のようにみごとに展開されている。
「ピュタゴラス派は言った 階調は、天体の運動によって生み出される、と。彼らはこれを、彼らの間隙の類推から科学的に集めた。太陽と月、金星と水星という間隙の比率のみならず、その他の星辰〔の比率〕からも、彼らによって発見された」(Volume 7, page 468.)。
シンプリキスは付け加える。
「ピュタゴラス派のこの主張に対するアリストテレースの提題は、この派の哲学によって、以下のように解くことができよう 万物は相互に同等ではなく、月下界においてさえ、あらゆる感覚的なものはあらゆるものとも同等ではない。このことは、人間によっては嗅ぐことのできない動物を、非常に隔たったところから嗅ぐ犬たちから明らかである。まして、不正と正、天と地ほども遠く隔たった事物においては、いうまでもなく、神的身体の音は地上的な聴覚によっては聞こえない、というのが真実である。しかし、もし人あって、この可死的身体さえ剥ぎ取られ、おのれの自形相と天的乗り物と、その中に浄化された諸感覚とを、善運のおかげでか、善生活のおかげか、それとも、それらに加えて神聖な勤行のおかげで、もつならば、自余の人たちには見えないものが見え、自余の人たちには聞こえないことが聞こえるだろう、ちょうどピュタゴラスが報告しているように。しかしながら、神的・非質料的身体の音のようなものが生じた場合には、それは打撃的でも疲労させるものでもなく、生成へともたらす音響の諸力を目覚めさせ、感覚の対等性を達成するものである。これは、可死的身体の運動と同座の音との一種の比率を有するが、われわれの許なる音は、空気の一種音響的自然の活動であるから、あのものらの運動の一種欺瞞的活動である。されば、彼処で空気が情動的ではないとすれば、明らかに、音でさえないであろう。しかしながら、ピュタゴラスは、どうやら、数による調和的比率を直知し、そこにおける調和の可聴的なものを聞いたと言ったにせよ、あの調和を聞いたと言ったらしい。
しかしながら、星辰そのものはわれわれの可視的感覚で見えるのに、それら〔星辰〕の音響は、われわれの聴覚で聞こえないのはなぜかと、尤もなことながら行き詰まる人がいよう。こう答えらるべきである 星辰そのものをわれわれは見ているわけではない。なぜなら、それの大きさも、形も、超絶した美しさも〔われわれが見ることは〕なく、まして音を起こす運動も〔見ることは〕なく、われわれが目にするのは、地球をめぐる太陽の光のように、それら〔星辰〕のいわば発光のようなものであって、太陽そのものが見られているわけではない、と。視的感覚は、より非質料的であり、情動によりもより静的な、自余の諸天の輝きや発光をはるかに超える活動にしたがうから価値があるが、その他の諸感覚はそれらほどには重要ではないということは、おそらくは驚くべきことではあるまい」(Volume 7, page 470.)。(Taylor)
- 「低音には……高音には……」

Nicomachus『Harmoniam enchiridion(音楽教程)』からの以下の引用は、アポッローンのリュラにおいて、最高〔長〕絃(uJpath; xordhv)と最低〔短〕絃(neavth xordhv)の意味を解説してくれる。彼は言う、「惑星のうち最も遠く離れているクロノスの動きから、最低音つまり uJpath; xordhv が生じるが、すべての中で最低〔絃〕である月の動きから生じるのは、neavth xordhv と呼ばれる最も高い音である」(chapter 3, 1.)。しかしGesner の観察では、もっと古代の、いわば原型的名称は、古代三角形リュラに由来するもので、これの模型は、最近、ヘルキュラネウムの廃墟から発掘された絵画の中に見出せる。そこでは、最高絃は演奏者の顎のそば近くにあって最長であり、その結果、音は最も低音である。Gesner は考察を続ける、1年の3つの季節は音程と対比された結果、最高〔長〕絃は冬を、最低〔短〕絃(は夏を意味し、ドーリス階調は中間の季節、つまり、春と秋を表す、と。ところで、ドーリス韻律が春を意味した所以は、その階調が全体的に平均律で穏やかであり、これはPlutarchus『De Musica』からわれわれの知るところである。ゆえに、春に内属する大いなる豊穣さから、冬と夏の間に位置づけられたと考えられる。一方は猛烈な暑さを、他方は厳しい寒さを大いに中和するからである。(Taylor)
最高〔長〕絃からは最低音が、最低〔短〕絃からは最高音が得られる。高-低の組み合わせが紛らわしいが、図を見れば一目瞭然である。
- 「風の葦笛吹き送るかた」
ピュタゴラス派とプラトーン派との教説は、オルペウスのそれと完全に一致するが、それによれば、アポッローンが超俗界においてあるところは、ゼウスが知性界においてあるところと等しい。なぜなら、前者が超越的光で地上的自然を照らすように、後者は、知性的光で超俗界を照らすからである。実際、これら2つの神格には霊妙な一致があるので、キュプリスの祭司たちは、ユリアヌス帝が、救済者太陽に寄せる最もすぐれた弁論の中で述べているように、ゼウスと太陽に共通の祭壇が築かれるのである。それゆえ、オルペウスが他の箇所でゼウスについて主張したその同じことが、ここでアポッローンについて主張されても不思議がることはないのである。Joannes Galenus『Allegoriae in Hesiodi theogoniam』Page 361, line 14-15.は次のオルペウス詩を引用している。
ゼウスは万物の神、万物の混成者、
風と、大気に混成された音声によって葦笛吹くところの。(Taylor)
- 「全宇宙の印章の指輪」
前註において、アポッローンとゼウスの間に存する深遠な一致に言及した。それゆえ、ゼウスは造物主と考えられ、あらゆる感覚的形式の原型的形相を自身の中に包含し、これらの形式が造物主の裡では知性的であるように、アポッローンの中では超俗的性格を有する。それゆえ、後者の神性は前者と同様であり、印形 あらゆる可視的種はその印像にほかならない を所有していると言えるのである。(Taylor)
- 「レートー」
アポッローンの神格を形づくる要素のなかには、偉大な女神の神殿で神託をきくのにつかわれたあの鼠があったようである。彼のもっとも古い称号のなかに、アポッローン?スミ ンテウス(「鼠のアポッローン」)というのがある。アッポローンが、なぜ太陽の光がけっしてあたらない場所、つまり地下で生れたかということは、おそらくここから説明がつくであろう。鼠というものは、病気とその治療がともに連想される動物であるから、古代のへレーネスはアポッローンを医術と予言の神としてあがめたのであり、またあとになってからは、アポッローンが山の北側に茂るオリーヴの木とナツメヤシの木の下で生れたのだと言いつたえるようになったのである。ヘレーネスはアポッローンを出産の女神であるアルテミスの双生の兄弟だと言い、その母のレートー -これはティーターン族のボイべー(「月」)とコイオス(「知性」)の娘で、エジプトやパレスティナではラトという名であらわれるが をナツメヤシとオリーヴの豊饒の女神だとみなしていた。彼女が南風に運ばれてギリシアへ移ってきたというのは、そのためである。イタリアでは、レートーはラトーナ(「女王ラト」)という名前になる。レートーとへーラーが争ったというのは、パレスティナから海を渡ってきた初期の移民たちと別の大地母神を信仰する原住民との間に紛争が生じたことを示しているのであろう。レートーがギリシアにもたらしたと思われる鼠にかんする信仰は、パレスティナでは深く根をおろしていた(『サムエル前書』第6章・4および『イザヤ書』第66章?17)。ピュートーンがアポッローンを追いもとめたという話は、ギリシアやローマの家庭で鼠を駆除するために蛇を飼いならしていたという慣習を思いださせる。しかしアポッローンはまた、林檎を食ベた聖王の精霊でもあった。アポッローンということばは、ふつうにはapollunai「破壊する」ということばから出ているとされているが、むしろabol「林檎」という語根から出ているのであろう。(グレイヴズ)
Proclus『In Platinis Cratylum commentaria』を見よ。(Taylor)
- 「速やかな安産の」
原語は wjkulovxeia。プロクロス『Theologia Platonica』Volume 6, page98 でこう言う。この添え名が神学者たちによってアルテミスに与えられるのは、この女神が自然の進行と誕生とを見守っているからだ、と。(Taylor)
これは、『テアイテートス』149B以下の議論を踏まえた講評。
- 「タルタロス」
Damascius『In Phaedonem』(verio 1)537.は言う、「タルタロスが、世界の極地を監視する守護者たる神格であることは、あたかもポントス[海]が中間の、オリュムポスが宇宙の頂点の守護者たる神格であるがごとし。そしてこれら3神格は、感覚界のみならず、創造的知性界においても、宇宙的秩序界たる天界においても見出される」と。(Taylor)
- 「地上に棲む者らの初めにして源」
この讃歌において、ティーターンたちが人類の初めにして源であると言われる所以は、以下の隠秘的叙述に基づく。……ディオニューソス、つまり、バッコスは、まだ少年のころ、ヘーラーの策略で、人生の一時期猛烈に魅了される種々の体育競技にティーターンたちに引きこまれた。その休憩中、自分の姿を写す鏡にうっとり見とれていた。これに驚嘆している間に、ティーターンたちによって無惨に引き裂かれた。この暴虐に飽き足らず、彼らはその四肢を先ずは水で煮、次には火で焙った。このように下拵えしたその肉を味わっているとき、ゼウスはその湯気にいきりたち、かつはその蛮行を知って、雷霆をティーターンたちに見舞った。しかし四肢をふさわしく埋葬するよう、バッコスの兄弟アポッローンに托した。これが執り行われている間に、ディオニューソス(その心臓は、引き裂かれている間に、アテーナーによって奪い去られ、保存されていた)は、新たな誕生によって、再生し、新品の無傷の状態に修復され、最後には神々の一員に加えられた。ところで、しばらくして、ティーターンたちの燃えつきた身体の灰から成る蒸気から、人類が産出された。……オルペウスのこの讃歌においては、(オリュムピオドーロスが『パイドーン註解』の中で美しく考察しているとおり)、断片から構成されるところを言えばさしあたって十分である。すなわち、生成、つまり、月下界に転落したことで、われわれの生は、最も遠い究極の分離の中に、しかしティーターン的断片から進発した、しかしティーターンたちは事物の究極的技巧であり、彼らの物語に最も近いからである。これらティーターンたち、バッコス、あるいは地上的知性に属するのが単子であり、直接的には産出的原因をまぬがれているのである。(Taylor)
- 「クーレースたち」
クーレースたちの第一の属性は、可考界における、純粋さによって人格化された三者一対であり、その秩序の守り手であった(讃歌xxxi)。しかし超天界においては、彼らはコリュバースたちとなる。それゆえ、彼らはクーレースたちと同じくコリュバースたちとして崇拝される。この讃歌において、彼らは風神として崇拝されるように、月下界における純粋な自然のごとき風の神格である。(Taylor)
- 「天界の双子」
クーレースたちとコリュバースたちとが同一のものとして崇拝されるのは、両者の間に存する深遠な合一性のゆえである。これらの2者が天界に展開されると、双子〔座〕と呼ばれる星座を形成する。(Taylor)
- 「コリュバース」
この讃歌において、コリュバース(単数)はクーレースたち(複数)の一人として崇拝されている。だからクーレースと単数で呼びかけられているのである。それゆえ、おそらく、彼はクーレース3者一対の最後の一人であり、変換的自然であるあらゆる神的秩序の極致であるが、自分の兄弟たちに殺されたという。殺害は、神々の世界に適用されると、二義性と、究極的自然への変換とを意味する。ここから、コリュバースの殺害者たちとは、すなわち、兄弟たちを神々の超越的秩序へと変換させる。(Taylor)
- 「富を授ける女神」
ディオドロス・シケロスが『歴史叢書』第1巻12に引証するオルペウス詩は、この詩行と完全に一致する。
「万物の母ゲー、富を授けるデーメーテールよ」。
オルペウス神学によれば、デーメーテールは活力の女神にして、直知対象たる三相一体の中央たるレアーと同一である。(Taylor)
- 「テスモポロス」
「立法者」の意。
- 「イアッコス」
イアッコスはバッコスの秘祭の呼称であり、したがってミセーはバッコスであることはよく知られている。だからまたミセーは男にして女という両性であるといわれるのは、この神格が内包する確乎とした種子的力と同一性とは、男性的性格を有し、生命の基準と多産的力が、女性的特性を有するからである。男性と女性が一つに混成して同じ神格であることは、オルペウス神学では異常ではない。(Taylor)
エレウシースの秘教会においてその行列を導いた神。ボエドロミオーンBoedromion (9月-10月)の月の19日に彼の像はエレウシスからアテーナイに運ばれ、行列とともにエレウシースにふたたび運ばれた。この時のかけ声が《イアッコーイアッケ》i[akxj w\ i[akxeであって、これが神格化されてイアッコスなる神が生れたらしい。彼はデーメーテール、ベルセポネー、あるいはディオニューソスの子とされ、ときにデーメーテールの夫とも考えられている。デーメーテールの子としての彼は、女神とペルセポネー探索の旅をともにし、バウボーの滑稽な身振りを笑って、女神の悲しみを解かした。ぜウスとベルセポネーの子としての彼は、ザグレウスと同じで、へーラーの命によってティーターンたちは彼を八つ裂にしたが、アポローンとアテーナーがゼウスの命によって彼を蘇生させ、イアッコスなる名となった。ディオニューソスの子としての彼は、プリュギアのニンフのアウラーの子とされている。彼女は双生児を生んだが、気が狂って一人を呑みこんだ。イアッコスは他のディオニューソスの愛人のニンフに助けられ、エレウシースの酒神の従者たちに育てられた。アウラーはサンガリオス河に投身して泉となり、アテーナーが赤児に乳を与えた。
イアッコスは、ディオニューソスの名の中のバッコスと似ているところから、酒神としばしば同一視されている。イタリアにおいてもリーベルとの同一視が行われた。ペルシア戦争中、サラミスSalamisの海戦(前480年)の直前、巨大な塵煙I!がエレウシースの方よりサラミースにむかって走り、イアッコスの名がそのなかから聞かれた。これは神がギリシア軍に味方した徴と解せられた。イアッコスは炬火を手にして、秘教会参加の会衆の行列を導く子供として表されている。(『ギリシア・ローマ神話辞典』)
- 「エレウシスの神殿」
Dhmhvtra =Eleusivnia)の神殿。
- 「ミセー」
ヘーロンダースの『擬曲(Mimiambi)』Mine 1. line 56 に初出の女神。「お嬢さまをミセー様のお降りのお祭りで見て、心の臓を刺され、五臓六腑は恋心で沸き立つ始末」(高津春繁訳)。
- 「ホーラーたち」
Proclus『In Platonis Timaeum commentaria』(Volume 3, page 89. )は言う、「聖なる唱名(fhmhv)は、可視的な時間の原因である[一なる最初の時つまり]不可視の時間を大事にして、夜と日〔昼〕という神的な名称を引き継ぎ、暦月と暦年から呼称も示現も、結実させる。ゆえに、それらが通覧されるのは表面的にではなく、神的本質においてであり、聖なる制度やアポッローンの諸々の神託が、神像や供犠を以てこれを崇拝し栄化するよう命じることは、諸々の歴史がわれわれに教えるとおりである。また、これらが報いられるとき、人類もまたホーラーたち〔四季〕や、似た仕方で、自余の諸神格の期間に起こる利益を供給される。しかし、地上に起こる万物の異常事態は、これらの崇拝を無視した結果なのである。同様に、プラトーンは、『法律』の中で宣言する、これら 四季、暦年、暦月 はみな、星辰や太陽と同様、神である。われわれの注意を、可視的な力に向ける前に、これらの不可視な力に向けるのがふさわしいと考えて、何か新しいことを唱導することはしない、と (X 899B) 」。
ここで言っていることにふさわしく、プロクロスは言いなおす、「地上における万物の異常事態は、これらの力が軽んじられた結果である」。エジプトのパテロスの住人は、預言者エレミアに言った。「まことにわれわれは、われわれの口から出た言葉を皆、必ず行う。われわれも、われわれの父祖たちも、われわれの王たちも、われわれの高官たちも、ユダの町々やエルサレムの巷間で行っていたように、天后に生ける贄を焼き、彼女に注ぎの葡萄酒を注ぎたい。われわれは、パンに飽き足り、幸せであり、災いに会うこともなかったのだ。われわれが天后に生贄を焼き、彼女に注ぎの葡萄酒を注ぐのをやめたときから、われわれはなにごとにも乏しくなり、剣と飢饉に滅ぼされた」(Jeremiah, chap. 44, v. 17, 18.)。(Taylor)
- 「トリエテーリコス」
古代ギリシアのさまざまな祭は、何年かの間隔を置いて繰り返された。オリュムピア祭は四年ごと(ペンテテーリス)、デルポイの聖年は八年ごと(エンネエテーリス)。バッコス祭は3年周期で、つまり2年置きに開催されたことから、この名称がある。ディオドーロスIV-3参照。
語義どおりには3年周期の祭を意味するが、ギリシアの数え方の関係で実際には2年ごとになる。「何年かの間隔を置いて開かれるこれらの祭りに見られる幾つかの特徴からは、これらの目的の一つが青年男女の新たな年齢階層への移行をしるしづける通過儀礼の盛大な実施にあったとする見方が導き出される」(アンリ・ジャンメール『ディオニューソス』p.305-6)。
- 「リクニテース(唐箕神)」
livknonは唐箕〔穀物から粃(しいな)・籾などを吹き分ける道具〕を意味する。唐箕神と、以下のバッコスについては、註25の月についてを見よ。(Taylor)
- 「御身、かつて、舞踏する足取りで森の中で跳びはね/狂気に歓喜するニュムペーたちとともに駆け抜け」
『ホメーロスの諸神讃歌』XXVI。
さて、女神たちがあまたの讃歌(ほめうた)捧げられる
ディオニューソスを育て上げるや、
御神は常春藤と月桂樹とを身にまとわれて、
鬱蒼と木々繁る谷めぐってさまよい歩かれた。
ニンフたちはその御供をして従いゆき、
御神は先立ちて女神らを引きゆきたまえば、
果しなく広がる森は鳴り響動(とよ)んだ。
- 「ペリキーオニオス」
perikiovnioV(「列柱に取り囲まれた」の意)。テーバイにおけるディニューソスの添え名。
- 「サバージオス」
「多くの人たちは、今もなお、バッコス信者たちをサボスたち(Savboi)と呼び、この神[バッコス]の狂宴を執り行うときには、この言葉を唱える」(Plutarchus, Quaestiones convivales, Page 671. section F)。「しかし、サバージオスの力は、バッコスの熱狂、魂の浄化、古の神々の怒りの宥恕を本来的に備えている」(Iamblichus, De mysteriis, Chapter 3, section10)。(Taylor)
- 「ヒプタ」
プリュギアの大地母神で、これが$Hbhの本来の姿である、とグレイヴズは言う。
「ディオニューソスは彼女にひき渡されて保護をうけたのであった。プロクロスは(『ティマイオス註解』2・124c)、彼女が箕にいれた彼を頭のうえにのせて運んだと言っている。当時、リューディア・プリュギア人の部族が住んでいたマイオニアから出土したごく初期の二つの刻銘では、ヒプタはゼウス・サバージオスと結びつけられている。クレッチマー教授は彼女が、ボアズケイから出土した、あきらかにトラーキアからマイオニアへもたらされたテクストに記されているミタンニの女神へーパ、へピット、またはへーベーと同一であるとしている。もしへーラクレースがこのへーベーと結婚したのなら、この神話は、プリュギアや、ミューシアや、リューディアでかずかずの偉大な行為をおこなったへーラクレースと関係があり、彼をゼウス・サバージオスと同一視してもいいであろう。
ヒプタは、中東ではあまねく知られていた。リュカオーニアのハットゥサにある岩山の彫刻は、彼女がヒッタイトの嵐の神との神聖な結婚をまさに祝おうとして、ライオンにまたがっている姿を描いている。彼女はそこでへパトゥと呼ばれているが、これはフルリア語だという。そしてB・フロズニイ教授(『ヒッタイト文明とスパレア人たち』第15章)は、彼女が『創世記』第2章にエヴァとしてあらわれる「生きとし生けるものの母」ハゥワーとおなじだとみている。フロズニイ教授は、イエルサレムのカナーン人の王子アブディへパ、そしてエヴァと結婚したアダムは、イエルサレムを守護する英雄だったと書いている(ヒエロニムス『エペソ書釈義』5・15)」(グレイヴズ『ギリシア神話』p.787)。
「$Hippaは万物の魂であり、神学者〔オルペウス〕によってそう呼ばれるのは、おそらくは、最盛期にある運動においても、彼女の知性が有性化するからであり、またおそらくは、万物の最速の生成(forav) 彼女はその原因である においても、そうであるからであろう。彼女は唐箕を頭の上に載せ、無花果の枝でこしらえられたこれを大蛇で巻きつけて、ディオニューソス〔バッコス〕を受け取る。というのは、おのれの最も神的な部分によって理性的有性の容器となり、世俗的理性を受け取り、それはゼウスの太腿から彼女の中に入る。というのは、そこはゼウスと同一だからであるが、そこから進んで、彼女のおかげで受け取りやすいものとなって、彼女を知性的なもの、彼女の自然の本源へと上昇させる。というのは、彼女は神々の母のもとに、イーダ山に[つまり、イデア界、つまり、直知対象たる自然界]一連の魂たちがすべてもたらされるところへと急ぐのである。だから、ヒプタは、ディオニューソスがゼウスから生まれた時、これを受け取ったと言われるのである」(Proclus,『In Platonis Timaeum commentaria』Volume 1, page 407-408)。(Taylor)
- 「ニュムペーたち」
Hermias『In Platonis Phaedrum scholia』は言う、「ニュムペーたちは、再生を司る女神たちであり、セメレーの裔バッコスに仕える。だから彼女たちは水の畔に住む、すなわち、生成に[つまり月下界に]上陸したのである。しかし、[彼女たちがその裔である]このバッコスは、感覚的世界全体の再生をもたらす」。彼は付け加える、「彼女たちの或るものは非理性的自然を刺激し、或るものたちは自然そのものを、また或るものたちは諸々の身体を司る」(Section 1, page 34.) と。(Taylor)
- 「トリエーテリコス」
註25に引用した、フィチーノによって伝存する断片によれば、バッコス・トリエーテリコスはグノーシス主義的な力、ないし、ヘーリオス〔太陽〕の知性である。だから、ヘーリオスが感覚的秩序に属するように、プロートゴノスつまりパネースは知的秩序に属する。後者はその秩序を知性的な光で照らし、前者は感覚的世界を超俗的な光で照らす。この対比によって、この讃歌においてトリエーテリコスがエーリケパイオス、つまり、プロートゴノスと呼ばれる理由が明らかである。そしてまた、それが神々の父にして裔と言われる所以も。というのは、プロートゴノスは直知対象-直知(nous nohtoV)であり、神々の父だからである。また、トリエーテリコス、つまり、太陽的知性は、因果論的にはプロートゴノスに内属し、これと神々の父より先在するからである。それゆえ、因果的にプロートゴノスに内属することから、それは神々の父である。が、神々に先行するから、それは神々の裔である。(Taylor)
- 「狂える」
これや、これに類した語は、彼らの深遠な意味によれば、霊感を吹きこまれた活力を指すと考えられている。(Taylor)
- 「山を渉猟するかた」
Taylor はこの箇所を「Love, mountain-wand'ring」と英訳し、この讃歌でバッコス・トリエーテリコスが"Love"と呼ばれる所以を、パネース、つまり、プロートゴノス、ゼウス、バッコスの間に存する同一性に求めて言う。「というのは、"Love" の第一実在性は、オルペウスの神観によれば、パネースの内にあり、パネースは直知対象-直知(intelligible intellect)だからである。しかし、パネースが属する直知対象たる秩序は、超有界に吸収されているから、因果関係として直知を内に含み、結果として有的直知と直知的視覚を超えている。それゆえ "Love" は、その第一実在性によって、超知性的活力を有しているとして、盲目と言われる。これが前提であるので、トリエーテリコスが "Love" と呼ばれるからとて、驚くことではない、と。Proclus『In Platonis Timaeum commentaria』(Volume 1, page 336.)は言う。「というのは、この神学者[オルペウス(frg. 71)]は、古に、パネースの内に造化的原因を鑽仰した。それは、本人も謂ったように、
偉大なるブロミオス、つまり、万物見そなわすゼウスが
存在したのであり、先在したからであり、また、ゼウスの内に範型的〔原因〕[つまりパネース]を〔鑽仰した〕からである。これもまたメーティスだと彼〔オルペウス〕は謂う、
メーティスも第一の生みの父にして、豊穣なエロースである。
彼〔ゼウス〕はまた次々とディオニューソスともパネースともヘーリケパイオス(+Hrikepai:oV)とも名づけられる。したがって、原因はすべてお互いを分有し、お互いの内にある」。(Taylor)
- 「黄金の槍もつパイアーン」
オルペウス教神学によれば、トリエーテリコスは知性的太陽のことであり、この神格は、この讃歌の中で、黄金の光放つアポッローン(Paian xrusegxhvV)として盛大に尊崇されている。しかし、〔校訂者〕Hermannは、オルペウス神学においてトリエーテリコスが何者か知らなかったので、xrusegxhvVをqursegxhvV〔茴香の杖持つ〕に代えた。云々。(Taylor)
- 「万神の秘儀へ」
- 「アプロディーテー」
アプロディーテーは、その第一実在性によって、超天的な諸神格に列する。しかし、彼女は宇宙におけるあらゆる調和と類似性、形相と物質との合一の原因であって、ありとある地上的要素の力を結合し内包する。(Taylor)
- 「めぐる美しき季節にともない、消え、また現れる」
プロクロスは、ヘーリオスに寄せる優雅な讃歌の中で、太陽をアドーニスとしてしばしば讃えている。このことは、この詩句や前述の詩句、またこの讃歌の他の部分の多くとも一致する。(Taylor)
例えば、プロクロスの讃歌I, 26。オルペウスの諸神讃歌VIII, 15。
- 「大地から諸々の果実を連れて」
プラトーンの『パイドロス』古註においてヘルミアースは言う、「アドーニスは、地上に生長し枯れる万物の主人に任じられている」と(Section 3, page 273, 24-25.)。(Taylor)
- 「エロース」
エロース神の自然本性に関する以下の展開は、驚くべき注釈書、Proclus『In Platonis Alcibiadem i』から、この神に関するオルペウス的教説の実例として抜粋されるものである。
「エロースは、有るものらの初めにも終わりにも位置づけられない。初めにない所以は、エロースの対象はエロースを超越しているからである。終わりにもない所以は、愛者は恋を分有しているからである。それゆえ、恋は、恋の対象と愛者との間に成り立ち、美には後れるが、恋を授けるあらゆる自然には先行することが必須である。それでは、最初に実在するのはどこか? いかにしてみずから宇宙を貫通し、いかなる単子とともに跳び出すのか?
直知対象にして隠秘的神々の間には3つの位格がある。しかり、第1位格は、善によって特徴づけられる(善そのものを直知し、父的単子が住するところに具わっている、と[カルデア人の]神託(Oracul 11) は謂う。しかし第2位格は、知恵によって特徴づけられ、第1位格の直知が花咲くところに〔具わっている〕。そして第3位格は美によって〔特徴づけられ〕、ティマイオスが言うには、最も美しい直知対象が住するところに〔具わっている〕。しかし、これら3つの直知対象たる原因に応じて3つの単子があり、可考界の原因に従って一様に実在し、神々の言語に絶した秩序界に[つまり、直知対象にして同時に直知と呼ばれているあの秩序の頂点に]みずからを光の中に進発する、わたしが言うのは信念(pivstiV)、真理(ajlhvqeia)、エロース(e[rwV)のことである。信念は、実際、万物を善の中に確立する。しかし真理は、あらゆる有るものらのうちの覚知を発光させる。そして最後にエロースは、万物を転回させて、美の自然へと集める。したがって、この三相一体は、神々の全秩序を通じて進発し、その光によって、万物に、直知対象そのものとの一致を分与する。それはまた、別の諸秩序においては、その〔同一性の?〕諸々の力を、神々の諸特性と組み合わせて、違ったふうに発現させる。例えば、われわれが云ったように、或る場合には、言うに言われず、不可知的、単一的に実在し、或る場合には、概括と結合の原因として実在し、或る場合には、完成と形成の力を与えるものとして実在する。さらに、或る場合には、直知的、父的に実在し、或る場合には、動的、生命付与的、創造的に実在する。また、或る場合は、嚮導的、同化的に実在し、或る場合には、開放的、汚れない仕方で、或る場合には、増加的と減少的に実在する。それゆえ、エロースが上方の直知対象から世界内にあるものらにまで通ってくるのは、万物を神的な美に転回させるためであり、真理もまた、総体を覚知で照らすためであり、信念もまた、あるものらの各々を善のうちに据えるためである。「というのは、万物はこれら三性のうちに舵とられ、存在するのである」と[カルデア人の]神託(Oracul 48) が謂っているからである。それゆえにこそ、神々は神働術者たちにも、この三性によって自分たちを神と結びつけるよう勧めている。たしかに、直知対象〔そのもの〕が性愛的中介を必要としないのは、言語に絶した合一性のゆえである。しかし、有るものらの合一と区別があるところ、そこにはまたエロースも発現する。なぜなら、それは離れているものらの結合者、自身の後なるものらと自身の先なるものらを集合させるもの、二次的なものらを最初のものらへと立ち帰らせるもの、不完全なものらを完全にするものだからである。(Section 51-53.)
この神[エロース]こそ、[カルデア人の]神託が「万有を結びつけ、のしかかる者」(Oracul 44.) と呼んだものである。だから、これはわれわれをもダイモーンたちの支配に結びつける。さらにまた、ディオティマが謂うように、エロースそのものも偉大なダイモーンであって、その所以は、どこであろうと、恋されるものらと、これに懸命なものらとの間を、エロースによって充満させるからにほかならない。実際、恋されるものは第1の持ち場を有し、これを恋するものは第3〔の持ち場〕を、両者の間のものは、これをエロースが集めて、欲するものと、これに欲されるものとを相互に結合して、満たすのである。より劣ったものを、よりすぐれたもので満たして、しかし、直知対象にして隠秘的な神々においては、〔エロースは〕直知よりもすぐれた一種の生によって、第1の隠秘的美に、直知的知性を合一させて。(だから、ギリシアのこの神学者[オルペウス]も、この〔直知対象-直知たる〕エロースを盲目と呼ぶのである。
心に、盲目の迅きエロースを飼いつつ
しかし、直知対象外の結合においては、自力で完成したものらにとって分解不可能性は幻想である。というのも、結合は合一性であるが、より多くの分解性を伴い、それゆえ、[カルデア人の]神託はこのエロースの火を結び合わせるものとも呼びならわした。
それ[エロース]は火をまとって、直知から真っ先に
跳び出させた、結び合わせる火を。〔Oracul 42〕
つまり、直知的直知から進発して、あらゆる二次的なものらを、相互にも前者にも結びつけるのである。かくて、あらゆる神々をも直知対象たる美に、ダイモーンたちを神々に、われわれをもダイモーンたちと神々に、結びつけるのであるが、神々の中では第1の位格であるが、ダイモーンたちの中では二次的位格であり、部分的な魂においては、始原からの一種の第3の進発による位格にほかならない。さらに、神々の間では超有的に(というのは、神々の全種族はそういうものだから)、ダイモーンたちの間では有性にしたがって、魂たちの間では幻想的な〔位格であった〕。そしてこの3つの持ち場は、知性の3つの力に似ていた。というのも知性は、ひとつは非分有的であって、部分的種族の全体を奪われているが、ひとつは分有的であり、神々の魂たちも、よりすぐれたこれを分有している、もうひとつは、これから魂たちに生じるもので、これこそは魂たちそのものの完成である」(Section 64-65.)。(Taylor)
- 「天界の湖」
Gesnerは、この詩人が「天界の湖」で意味するところがわからぬと告白している。同様に、オルペウスがモイラたちを置いた暗い洞穴の意味も。見たところ、たしかに、全体は曖昧でわからぬように見える。しかし、この讃歌をモイラたちにささげられた讃歌LXIXと対照させてみれば、この詩人が彼女たちを印象的にモイラと呼び、ステュクスの聖なる水の畔に彼女たちを置いたことがわかる。ここから明らかなことは、「天界の湖」はステュクスの溜池と同じであり、「天界の」と呼ばれている所以は、おそらくはこれで神々が誓約する故だとわかる。その水が白いと言われることも不思議ではない。ヘーシオドスは、『神統記』790-791で、ステュクスの水は「白銀の渦を巻く九つの流れとなって……内海へと流れこむ」と歌っているからである。この形象をさらに強めているのは、モイラたちはプルートーとともに住んでいるとFabius Claudius Gordianus(=Fulgentius)〔北アフリカのルスペの主教(468-532/33)〕が主張していることである。(Taylor)
- 「カリスたち」
バッコスがゼウスに内属し、アスクレーピオスがアポッローンに内属するのと同じ仕方で、カリスたちはアプロディーテーに内属すると、哲学者サッルスティウス〔Catius Sallustius Crispus (86-34 B.C.)〕が、その著『神々と世界』の中で伝えている。(Taylor)
- 「ゼウス御神の聖なる玉座にさえ坐し、/天上より、数多の氏族よりなる死すべき身の者らの生を見下ろし」
この部分は、デーモステネース第25弁論「アリスゲイトン弾劾(第1演説)」11 に引用されている。「容赦ない尊いディケー……は、われわれのため最も神聖な秘儀を創始してくれたオルペウスの言葉を借りれば、ゼウスの玉座の傍らに座り、人事一般を見張っているのです。ですから、そのように自分にも女神の眼は向けられていると各人が自覚した上で、女神の栄誉を汚すことのないよう注意を払い、用心して、投票しなければなりません」杉田晃太郎訳)。
- 「アレース」
アレースは、プロクロスが『In Platonis rem publicum commentaria』(Volume 1, page 141.) で述べているように、分離と運動の源であり、宇宙の不一致を分離し、これ〔不一致〕をまた絶えず喚起し、保ち、世界が完全であり、あらゆる種類の形に満たされるようにする。だからまた、彼は戦争を支配するのである。しかし、正反対で不協和な事物に秩序と調和を挿入するには、アプロディーテーの助けを必要とするのである。(Taylor)
- 「殺人の血汐」
アレースに帰せられる「殺人は、急転調による質料からの離脱、つまり、質料からの開放を、もはや自然的にではなく、理知的に活動することを意味する。……なぜなら、人殺しが神々にあてはめられると、それは第二の自然からの分離である、あたかも、此岸における人殺しが、この生命の剥奪を意味するように」(Hermias, In Platonis Phaedrum, Section 3, page 198)。(Taylor)
- 「ヘーパイストス」
ヘーパイストスは、宇宙が内包する種子的・自然的な創造的力を主宰する神的な力である。というのは、ピュシス〔自然〕が諸身体へと傾くことで何を完成するにせよ、それは、ヘーパイストスが自身に固有の制作の際に、ピュシスを動かせ、これを道具として用いることで、神的にして免除された仕方で、働きかけることである。例えば、自然の熱は、ヘーパイストスの擬人化を有し、物体的自然を見せる目的でヘーパイストスによって創造されたものである。それゆえ、ヘーパイストスは、諸身体の変動する自然を不断に主宰する力である。だからまた、オリュムピオドーロスは言うのである、諸々の自然の中におけるその操作を隠秘的に意味する鞴〔ふいご〕を操作する、と(In Platonis Gorgiam commentaria, 47. 5. 31.)。この神性はまた、プロクロスが『In Platonis rem publicum commentaria』(Volume 1, page 141.) で考察しているとおり、アレースと同様、アプロディーテーの援助を必要とする。感覚的な作用に美を付与し、そうして世界に見映えを惹き起こすためである。(Taylor)
- 「アスクレーピオス」
この神格は、アポッローンに内属する。プロクロスは、太陽に寄せるのその優雅な讃歌の中で、アスクレーピオスは、太陽のありきたりの舞踏から、光の中に跳び出すという。
災悪除けの御身のバッコスの狂宴によって、喜ばしい賜物を授けつつ、
パイエーオーンを芽生えさせ、その健康を配置せり、
いささかの障りもなき調和で、広き世界を満たしつつ。
(Taylor)
- 「病める人間どもの惨めな激痛に呪文をかけ」
アポッローン讃歌・オルペウス讃歌に見られるように、あるいは、密儀に与る者たちのためにこれらの讃歌を書いているように、入信式を執り行う祭司たちは、あらゆる人類の安寧を祈る。だから、アスクレーピオスがアポッローンに内属するように、この詩人は、まさしく人類の健康を守るよう、つまり全人類の健康を、癒しの神に請い願うのである。(Taylor)
- 「エリーニュスたち」
讃歌LIXの註を見よ。カルデア人の託宣は言う、
報いは人間どもの絞り弁(161)
Psellus『Opuscula psychologica, theologica, daemonologica』(Page 139.) はこれを説明して言う、有罪の魂たちを罰する力は、これらを物質的な情動に結びつけ、そうすることによって、これらをいわば締めつける。このような加罰が、結局は、浄化の意味である。これらの力は、悪人を苦しめるだけでなく、彼ら自身を物質的な本質へと変換させさえする。なぜなら、それらは物質と結びついているにもかかわらず、この種の浄化を必要とするからである。この讃歌の17行目と、続く3行で言われていることが、その例証である。(Taylor)
- 「何となれば、太陽の敏速な炎も、月や」
Ruhnkeniusは、この行と以下6行は、ここから讃歌LXに移すべきだと考えた。Hermannはこの見解を採用して、讃歌LXに移した。しかしわたしには、これは当然エリーニュスたち讃歌に属するように思われる。(Taylor)
- 「もつれる蛇の髪した」
パウサニアスは『Graeciae descriptio』第1巻28章(6)に言う、「この神の頭髪に巨蛇が混じっている、と歌ったのは、アイスキュロスが最初だ」と。
Taylorは、それが事実誤認であることを、長々と説明している。
- 「メーリノエー」
物語は曖昧であるが、おそらく、ペルセポネーはハーデースの花嫁であった。ゼウスは変身した。オルペウス神学では、ペルセポネーによってディオニューソスの父親となるとき、ゼウスは蛇の形姿を採った。ディオニューソスは同じ血を引くから(讃歌XXX.6-7)、この行状はメーリノエーをも生んだと、秘儀に与る者たちに理解されたことはあり得る。地界の力の象徴である蛇は、黄泉国の被造物を誕生させるにふさわしく、しかも、ディオニューソスもメーリノエーも、狂気と結びついた。『オデュッセイア』xi.633-635を参照せよ。そこでは、死者の国にとどまっている間に、ペルセポネーが亡霊ないし妖怪を送りこむのではないかと恐れているのである。(Athanassakis and Wolkow)
- 「アルテミス」
テュケーとは、オルペウス的神観に等しいプラトーン的神観によれば、相互に異なる事物、期待とは逆に起こる事物を、有益な目的へと配列するところのあの神的な力である。あるいは、あらゆる事物に、その有性の状態によってそれへと指定された分け前を満たす原因となる神的配分と定義できるかもしれない。この神性はまた、あらゆる月下的諸原因を集め、その自然や利点がことのほかふさわしい独有の善を、月下の結果に可能にする。Simplicius『In Aristotelis physicorum libros commentaria』は言う、「というのも、テュケーの覇権は、全体のとりわけ月下界の割り当てそこには可能的なものの自然も含まれ、〔自然は〕それ自身においては無秩序であるが、テュケーが、自余の始原的諸原因と結びついて、方向づけ、配置し、操舵するところのを整序する。それゆえ、彼女が舵を支配することが許される所以も、生成の海[つまり、月下界]を航行するものらを操舵するからであり、舵を地球上に固定するのも、生成の不確実さを方向づけるからである。また、両手の片方に、果実に満たされたアマルテイアの角をもっている所以は、〔彼女が〕あらゆる神的な果実を手に入れる原因だからである。そういう次第で、われわれが国々、家々、各個人のテュケーを尊崇する所以は、われわれが神的な合一性からはるか遠くに隔たっていて、適切な分有を得損なう危険に瀕しているからである。そこでわれわれは、女神テュケーと、すぐれた生成において同じ固有性を有するものらとを得る必要があるのである。実際、運(テュケー)はどれも善である。というのも、獲得はどれも何らかの善に属する。何か悪しきものが神のもとにあるはずはないからである。しかし、善きものらのうち、或るものらは卓越したものらであるが、或るものらは懲罰的であり報復的であり、後者は悪しきものとわれわれは言いならわしている。それゆえ運(テュケー)をも、卓越した善きものらを得る原因をわれわれは善運と名づけ、また、われわれが懲罰とか報いを得ることを用意する〔運(テュケー)〕を、悪運と〔名づけるのである〕」(Volume 9, page 360-361)。
この美しい1節から、テュケーが、この讃歌の中で、どうしてアルテミスと呼ばれるのかは明らかである。というのは、これらの諸神格はおのおの月下界を支配するからである。(Taylor)
- 「ダイモーン」
エジプト人たちによれば、マクロビウスが『Saturnalia』lib. i. cap. 19. で伝えるところでは、「誕生の時に人間を支配する神々は、ダイモーン、運、愛、必然の4柱である」という。さらに彼は付け加える。「 前2者は太陽と月を意味する。太陽は、霊、熱、光の源であり、人間の生命を生み出す者にして守り手である。だから、ダイモーン、つまり、生まれ出る者の神である。しかし彼らが運命によって月を指すのは、さまざまな偶然の出来事に投げこまれる身体を支配するのが月だからである」。これに応じて、プロクロスは、その優雅な太陽讃歌の中で、浄福なダイモーンとしてこの神格を勧請する。
いざ、神々のうち最善の方よ、火を戴く、多幸にして栄えあるダイモーンよ。
(讃歌第1、line 33)
(Taylor)
- 「レウコテア/パライモーン」
アタマースが狂って自分の子どもらを殺そうとした時、イーノーはメリケルテースを抱いて海に投身したが、ポセイドーンによって海の神に変えられ、イーノーはレウコテアー、メリケルテースはパライモーン(ローマのポルトゥーヌス)となった。
イストミア祭競技はメリケルテース・パライモーンのために行われた。その縁起には次のごとき話が行われていた。イーノーはメガラとコリントスとの中間で投身し、イルカがその死骸を運んで来た。アタマースの兄弟でコリントス王シーシュポスは死骸を発見して埋葬し、ネーレウスの娘の命により、彼をパライモーンとして祭り、葬礼競技としてイストミア祭競技を創始したといわれる。(ギリシア・ローマ神話辞典)。
- 「ムゥサ〔芸神〕たち」
プロクロスは言う、「Mou:saiは、学究する(zhtei:sqai)を意味するmw:sqai←maivomai)に由来して命名されと言われる。というのは、彼女たちは教養paideivaiをもたらすからである。……ムーサたちの父親はゼウス、母親はムネーモシュネーと言われる所以は、教育されんとする者は理性的であり、かつ、強記でなければならないからである。このうち、記憶の働きはムネーモシュネーが、理性の働きはゼウスが授ける」(Scholia in Hesiodum, page-verse 1.)。
- 「あらゆる理性を、はかなき者らの魂たちといっしょに同居させる」
「記憶は、とプロティノスは謂う、記憶の対象へと導く、と」(Proclus, In Platonis Cratulum commentaria, Section 178.)。しかし、魂にとって記憶の対象は理性であり、形式や形相は、魂が想起を通して傾くところのものを含む。それゆえ、記憶の女神は、魂と理性とを結合するに極めてふさわしい、とオルペウスによって言われている。(Taylor)
- 「ガイアの裔」
テミスは、パネースに宿る理性的ガイアの子孫の一人である。讃歌XIIの註34を見よ。(Taylor)
- 「ボレアース〔北風〕」
シンプリキオスは『In Aristotelis libros de anima commentaria』に言う、「どうやら、オルペウスは、生命に対する諸身体の要件を呼吸(ajnapnohv)、あらゆる能動的原因(これなくしては個々の〔原因〕が諸々の適切な身体を決して有魂化できないところの)を風(ajnevmoi)と呼んだらしい」(Volume 11, page72.)。(Taylor)
「北風」以下、「西風」「南風」と讃歌は続くが、「東風」がない。ヘーシオドス以来、「この三柱の風はその出自を神々に由来し、死すべき身のものどもにたいそう有益である。/ところが他の風どもは陣風で海の上を吹き渡る。/これらは縹渺とした海原へと吹き降りて、/死すべき身の者どものの大いなる禍いの因となり、酷い嵐となって荒れ狂うのだ」(Th. 871-874)。「他の風」とは、南東から暑さと乾燥をもたらすエウロス、7月末から吹き始める北寄りのエテシア、冬から春にかけて北から吹き、渡り鳥の渡来をつげる鳥風とも呼ばれるオルニシアスその他である(岩片磯雄『古代ギリシアの農業と経済』)。
- 「オーケアノス」
オーケアノスは、ヘーラクレース讃歌(XII)の註において、その第一の実在性に基づいて考察したとおり、第1の理性的大地の子孫の一人である。Proclus『In Platonis Timaeum commentaria』は言う、「そして7柱のティーターン神族のうち2柱〔オーケアノスとテーテュース〕は先在して、自身を父親[ウゥラノス]に自身を合致させたまま、その王国から離れることがない。これに対しその他の〔ティーターンたち〕は、先行を喜び、ゲーの企みを達成した一方、その〔父の〕王国から別の秩序へとみずからを引き離して、父に策謀したと言われる。いやむしろ、あらゆる天的種族のうち、とどまったのが一部のものらだけであることは、最初の三位一体の2つと同様である」。「というのは、オルペウスの謂うには、ウゥラノスは彼ら〔ティーターンたち〕が
無慈悲な心をもち、
無法な自然をもっているのを知り、
タルタロスの中、大地の深みに投げこんだ。
と」。かくして、彼は彼らを、力の超絶性によって、冥府に隠した。しかし他方のものらはとどまり、進発したのである、あたかもオーケアノスとテーテュスのように。というのは、自余のティーターンたちが、父親に対する策謀に及んだとき、オーケアノスは、その行為を猜疑し、その母親のいいつけに従うことを禁じるのである(Volume 3, page 185.) 。
〔ここでプロクロスはオルペウスを引用する〕「このとき当のオーケアノスは、館にとどまり、決心をどこに定めるべきか、あれこれ思案しつづけた、愛する母親に口説かれた、クロノスやその他の兄弟たちとともに、父親の力を奪って、これを不当に虐待すべきか、それとも、彼らのことは捨て置いて、内にじっとしているべきか、と。そしてあれこれ考えたあげく、館でおとなしくしていた、母親に憤慨し、同腹の兄弟たちにはもっと憤慨して」。かくして彼はとどまると同時に、テーテュスとともに進発した。というのは、彼女は第一世代によって彼と軛に繋がれていたからである。これに対し自余のティーターンたちは、区別と進発へと駆り立てられ、彼らの中で最も偉大なのがクロノスだと、この神学者〔オルペウス〕は謂う。たしかに、クロノスはオーケアノスを凌駕すると、この神学者は明言したが、さらには、当のクロノスの方は天界のオリュムポスを掌握し、そこにおいて王座についてティーターンたちを王支配するが、オーケアノスの方は、中間の割り当てすべてを〔掌握する〕、とも言っている。つまり、彼が言うのは、「オーケアノスは、オリュムポスに後続する神法にかなう流れの畔に住み、そこにあるウゥラノスを取り巻いているが、至高者ではなく、神話が謂うように、オリュムポスから脱落して、そこに配置されたものである、ということである」(Volume 3, page 186.) 。
さらにプロクロスは、プラトーンが『ティマイオス』において、月下界の割り当てに従って言及した9柱の神格について述べている。それらは原文では知的秩序から進発するのであるが、彼は言う、「あらゆる生成をば、ウゥラノスは終わらせ、ゲーは力づけ、動かせるのはオーケアノスであるが、テーテュースはおのおのを固有の動きの上に据える、理性の働きには思考の対象を、魂の働きには中間のものらを、自然的な働きには、身体的なものらを。オーケアノスが全体を総体的に動かせるときに。しかし、知的に区別するのはひとりクロノスのみで、レアーは生命を与える、ポルキュスは種的言葉で飾り、ゼウスは見えざるものから見えるものを完成し、ヘーレーは、顕現したものらのあらゆる種類の変化に従って展開する」(Volume 3, page 192.)。(Taylor)
- 「ヘスティアー」
Proclus『In Platonis Cratylum commentaria』139-140. は言う、「クロノスはレアーといっしょになって、造化的原因と等位のヘスティアーとヘーラーとを産出した。というのは、ヘスティアーは、自分から偏りなき永続性と、自分たちの間における座と、不動の有性を授け、ヘーラーの方は、進発と、第二段階の増殖を授け、言葉の命を授ける源であり、産み成しの力の母である。このゆえに彼女はまた、造化主ゼウスとともに進行すると言われ、この共働を通して、ゼウスが父として〔産出〕するかぎりのことを、母として産出する。これに対してヘスティアーは、おのれ自身にとどまる。けがれなき処女性を持し、万物にとって同一性の原因だからである。しかしながら、〔これらの神格の〕おのおのは、おのれに固有の完全性をもつとともに、分有の理によって対話術〔?〕の力を所有しており、それゆえにこそ、或る派の人たちが、ヘスティアーは ejssiva‴にちなんで呼ばれると謂うのは、その親らの u{parciV〔実質〕に注目するからである。
〔† 写本はestiaV。しかし非常に学識豊かなBoissonade 博士のこの作品の校訂は essiaV。しかしながら本当の読みは疑いなく oujsivaV。〕
これに対して他の人たちは、ヘーラーから彼女に内在することになった生命を与える動的力に注目して、推進の原因として、そのように〔呼ばれたと謂う〕。なぜなら、万物にはあらゆる神的な〔自然〕が内在し、とりわけ同等性を互いに分有し、お互いのうちに超越的に存在しているからである。それゆえ、造化的にして生命付与的秩序のそれぞれは、ヘスティアーから与えられる有そのものを分有するのであり、天にあって惑動するものらの軌道も、その同様性を彼女から得ており、極点も中心も、常なる静止を彼女から得ているのである。つまり、ヘスティアーが明示するのは有性ではなく、有性の唯一性と、おのれの内なる確実な定位であるということであり、それゆえまた、大いなるクロノスの後に、この女神は進発した。というのは、クロノスに先行する諸々の〔神格〕は、自身の内にも他の〔神格の〕内にも〔有性〕を有さず、それはクロノスから始まる。しかしヘスティアーの固有性は、一方は自身の内に、他方はヘーラーの内にある、ということである」。
ヘスティアーの自然本性に関するプロクロスの上記の驚くべき展開に加えて、この女神が、その地上における割り当てによって、大地の女神であることを加えておく必要がある。そういうものとして、この讃歌において崇拝されているのである。だからPhilolaus は、ストバイオスの『Anthologium』(Book 1, chapter 22(1d) に伝存する断片の中で謂う、
「真ん中の中心に火がある、これこそ万物の炉、ゼウスの家、神々の母、祭壇であり、持続であり、自然の尺度であると呼ぶところのものである」。だから、ピュタゴラス派は、中心の火によって太陽を意味していると解釈する人たちは大いに間違っていることは明らかである。このことは、Simplicius『In Aristotelis quattuor libros de caelo commentaria』が言っていることからして明らかである。ここで彼は考察している、「十を完全な数であると考えるピュタゴラス派の人たちは、円環運動する諸身体の数をも十の中に集めようとした。こうして彼らは、惑動しない1惑星と7惑星、この地球を据えて、対地球に十を充当した、と〔アリストテレースは〕謂う。まさしくこのように、彼〔アリストテレース〕本人は理解したのである」。
それから彼〔シンプリキオス〕は付け加える、
「しかし、もっと真正に彼ら〔の学説〕に参与した人たちは、真ん中の火は造化的力であり、真ん中から全地を生かし、その冷えた部分を暖めなおすものだ、と言う。それゆえ、〔アリストテレース〕本人が『ピュタゴラス派』の中で述べているように、或る人々はそれをゼウスの塔と呼び、或る人々は、この書〔アリストテレース『天体論』〕におけるように、ゼウスの見張り番と〔呼び〕、また或る人々は、他の人たちが謂うところでは、ゼウスの王座と〔呼んでいる〕。ところで、大地を星と彼らが言ったのは、それも時間の道具だからである。なぜなら、それは日々と夜々の原因だからである」(Volume 7, page 512.)。……
シンプリキオスによって与えられたこの説明から、ピュタゴラス学派の上述の十は、7惑星、地球、そして地球の中心にある火という、整合的空間から成ることは明らかである。(Taylor)
- 「微笑する」
Proclus『In Platonis rem publicam commentarit』(Volume 1, page 127 ff.) は言う、「神々の笑いは、宇宙における有り余る活力であり、地上の諸自然全体の喜びの原因と規定されるべきである。しかし、このような摂理は理解しがたく、神々からのあらゆる善の交通が失敗することはないので、ホメーロスはきわめて適切にも、彼らの笑いを区別なく呼ぶのである」。彼は付言する、「しかし、神話は、神々はいつも泣くと主張することはなく、とめどなく笑うと主張する。というのは、涙は可死的にして脆弱な関心事 時に生じ、時に滅びる における彼らの摂理のシンボルであるが、笑いは彼らの活力と、宇宙のなかで逸脱することなき同一性によってたえず動くあの完全な諸自然の徴である。この故に、思うに、われわれが造物主の産物を神々と人間どもに分かつとき、われわれは神々の世代には笑いを、人間どもと動物たちの隊陣には涙を帰属させるのである。されば、或る詩人は、太陽に寄せるその讃歌で言う、
労多き人間どもの種こそ御身の涙、
神々の聖なる種は、笑いつつ、芽生えさせたもうた。
(オルペウス断片354)
同じ仕方で、天的事物と月下の事物とに区別を持ちこむなら、笑いを前者、涙を後者に割り当てなければならない。そして、月下界の諸自然そのものの世代と堕落に関して考えるときには、笑いを前者に、涙を神々に帰せなければならない。だから、秘儀においても、聖なる集会を主宰する人々は、きまりの時に、どちらも祝われるよう命じるのである」。(Taylor)
- 「タナトス〔死〕」
以上のオルペウス教秘儀のHermannの校訂は、ホメーロスに帰せられる諸神讃歌に見出せるアレース讃歌で終わっている。彼とRuhnkeniusは、ホメーロス的よりもオルペウス的だという考えである。しかしわたしとしては、オルペウスによってよりも誰か他の者によって書かれたと言いたい。ただし、オルペウスなら祈ったろうと推測することは、わずかに可能である。
心凍る闘いの道へと駆り立てる、
我が心の激しき怒りをば抑え、鎮めることを得さしめたまえ。
(ホメーロスの諸神讃歌VIII「アレース讃歌」)
(Taylor)
- 「御身の〔もたらす〕眠りは、身体に対する魂の執心(oJlkovV)をも打ち砕くのですから、/ 自然の堅持する結合を解き、生き物たちに長き眠り、永遠の眠りをもたらす時に」
ここの2行の意味はポリュプリオスがうまく説明している。すなわち、「自然が結びつけたものは、これを自然が解き、魂が結びつけたものは、これを魂が解く。ところで、自然は身体を魂に結びつけ、魂はみずからを身体に結びつけたのである。したがって、自然は身体を魂から解き、魂は自身を身体から解放する」。
さらに続けて
「死は二重である。つまり、ひとつは、周知のとおり、魂からの身体の解放、もうひとつは哲学者たちのもので、身体からの魂の解放、である。一方が他方に完全に追随するということはない」(Sententiae ad intelligiblia ducentes, § 8-9)。
言うところはこうである:身体は、一般的に知られている死によって、魂から解放されるかもしれないが、魂の内には物質的な情動や愛着が依然としてあるので、他の身体に傾きつづけ、この傾向性が存続するかぎり、身体と結びつきつづける。しかし、理性的自然の優位によって、魂が物質的愛着から離別すれば、身体から真に自由になるであろう。同時に、その支援の直接的な原因によって、身体は魂に傾き、すがるのであるが。(Taylor)
2017.01.19. 了。