テーバーイス

[解説]
 開始の行(fr. 1)が伝存していて、この戦争が、(アイスキュロスの『テーバイに向かう七将』のように)テーバイ人からよりは、むしろアルゴス人の観点から見られたことが示唆されている。悲惨な失敗の物語はこうであって、破滅からの救いのそれではない。

 ポリュネイケースとエテオクレースは、父親が彼らにかけた呪いによって、自分たちの運命的な争いを運命づけられていた。この詩の諸断片は、〔オイディプースの〕怒りの2つの機会と、呪いの2つの異文(frs. 2 and 3)を記述している。第1に、兄弟は永遠に喧嘩しなければならないこと、第2に、もっと特殊で、彼らはお互いの手にかかって死なねばならないということであった。後の作家たちによれば、初めのうち、各々は1年交替にテーバイを支配し、その間他方の者は立ち去るという有効的な取り決めを実行していたという。しかし、エテオクレースが権力を譲ることを拒否したか、あるいは、ポリュネイケースが都市に帰ることを許さなかった。

 ポリュネイケースは、アドラストスが王支配しているアルゴスに行った。テューデウスと同時に到着した。彼〔テューデウス〕は内輪の殺人後、亡命中という狂暴なアイトリア人である。この2人が口喧嘩になった。そうすると、彼〔アドラストス〕は、預言者が婿養子にするよう彼に予言していたイノシシとライオンを〔2人の楯から〕認めた。そこで彼は2人の娘を彼らに与えた。彼はポリュネイケースに、テーバイの王位継承権を取りもどす手助けをすることに同意し、遠征の準備がなされた。

 この詩の中で、7人の指揮官がテーバイの伝説的な7つの門にすでに対応していたことは、まったく確かではないが、ありそうなことであった。ありそうな名簿は、アドラストス、ポリュネイケース、テューデウス、カパネウス、パルテノパイオス、メーキステウス、そしてアムピアラトスである。この最後の英雄は、賢明な預言者であると同時に勇猛な戦士であった(fr. 6)、占いによって、この事業が失敗すると定められていることを知り、兵籍名簿に入ることを避けようとした。しかし彼はアドラストスの妹エリピューレーと結婚していた。アドラストスは喧嘩の和解をする際に、彼女を彼に与え、両者の間に何らかの不和が生じた場合には、彼女の仲裁が最終決定となることが同意されていた(fr. 7)。これに乗じて、父祖伝来の測り知れないほど高価な宝、カドモスからハルモニアーに与えられた首飾りをポリュネイケースに買収されて、彼女は、アムピアラオスは戦争に行くべしと決定した。出征の準備をしているとき、彼は生きて帰れぬことを知り、息子であるアルクメオーンとアムピロコスに、自分亡き後にはいかにふるまうべきか、忠告した(fr. 8)。彼は、アルクマイオーンに、エリピューレー復讐の義務を課することができた。

 出征の大部分については、われわれは他の作者たちを参照しなければならない。彼らは、『テーバーイス』の正確な記述を与えたり与えなかったりする[1]。ネメアに到着したとき、少年オペルテース — アルケモロスとも呼ばれ、毒ヘビに咬まれて死んだ — に葬礼競技(これがネメア競技の神話的起源である)の栄誉を与えるため出征は中断した。この挿話が『テーバーイス』に現れるなら、この詩はネメア競技[2]が実際に始まった前573年以後に成立したことになる。

[1] 特に、Iliad 4.372-398, 5.801-808, 10.285-290; Pindar, Ol. 6.13-17, Nem. 9.13-27; Bacchylides 9.10-20; Diodorus 4.65.5-9; Apollodorus 3.6.3-8; Pausanias 9.5.12, 8.7-9.3; Hyginus, Fabulae 68; Gantz, Early Greek Myth, 510-519を参照せよ。
[2] Bacchylides 9.10-24; Euripides, Hypsipyle; Hypotheses to Pindar's Nemeans; Apollodorus 3.6.4; Hyginus, Fabulae 74, 273.6. イストミア競技の英雄的起源に関する並行する神話については、下のエウメロスの『コリントス史』を参照せよ。

 テーバイから数マイルのアーソーポス河で軍勢は止まり、最後通牒を伝えるためにテューデウスが先に派遣された。『イーリアス』の詩人に知られている異文では、エテオクレースの館で宴会のもてなしを受け、その後で、カドモスの裔に運動競技の試合を挑み、彼ら全員を簡単に倒した。彼が帰るとき、50人の男が彼を待ち伏せしたが、彼は全員を圧倒し、これを物語るために1人のみを生かしておいた。

 それからアルゴス勢の攻撃が始まった。囲壁の外の激戦後、テーバイ勢は市内に逃げもどった。カパネウスは梯子で囲壁を登り、何者も彼を止め得ないように思われたとき、ついにゼウスが雷霆で彼を撃った。これが防御側に新たな勇気を与え、結果は振り出しにもどった。エテオクレースとポリュネイケースは、どちらが王位に就くか決闘すべきだということが同意されたが、両方が相討ちで死ぬという結果に終わった。戦闘が再開された。次々とアルゴス遠征軍が殺されていった。テューデウスは最期に獰猛な本性を示したが(fr. 9*)。善良なアムピアラオスは、この醜行からは救われた。彼が戦車に乗って逃げているとき、大地が口を開け、彼を呑みこんだ。彼は地下で、自分の神託所で予言を発するために、生き続けている。アドラストスのみが、妻とともに逃げのびたのは、驚異の馬アリーオーンのおかげである(fr. 11)。

 前6世紀中ごろのエレゲイア詩人カッリノスは、この主題を「ホメーロス」も関連づけ、二者択一的作者の名が挙げられたことはない。ヘーロドトスは、「ホメーロスの」詩について、シキュオーンのクレイステネースは、アルゴスとアルゴス人たちの祭儀ゆえに禁止したと話すとき(5.67.1)、確かに『テーバーイス』を念頭に置いている。彼は続けて、クレイステネースはアドラストスがシキュオーンで維持されていた栄典を縮小させ、テーバイ戦争でメーキステウスとテューデウスを殺したメラニッポスの祭式を導入したと告げている。

 偽ヘーロドトスは『ホメーロス伝』の中で、このようなホメーロスの作詩として『テーバーイス』に言及していないが、ネオンテイコス(彼の生涯における初期の舞台)の靴屋での朗吟として「『アムピアラオスのテーバイ遠征』と、神々に寄せてつくった讃歌」を、この詩人を再演している。これらの状況が含意するのは、『遠征』は比較的短い詩であって、充分な長さの叙事詩ではなく、それゆえ完全な『テーバーイス』ではなかった、おそらくエリピューレーの企みと預言者の息子たちへの教えを覆う部分的物語であるということである。Betheの考えとは違って、これが『テーバーイス』と別個の詩として存在したと考えるべきではない。若きホーメロスが、自分が従事している『テーバーイス』の見本を試してみたのだと筆者は想像する[註]。

Carl Robert, Oidipus, i.219.




テーバーイス(Qhbai<V)

TESTIMONIA

IG 14.1292 ii 11
〔上記参照〕

Paus. 9.9.5
 叙事詩『テーバーイス』もこの戦争について詩作された。この叙事詩は、カッリノスがこれに言及して、作者はホメーロスだと謂った。カッリノスには、多くの、言うにあたいする人たちが同じことを認めた。わたしとしては、この詩を『イーリアス』、叙事詩『オデュッセイア』に次ぐものとしてとくに称賛する。

Ps.-Herod. Vita Homeri 9
 〔ホメーロスは〕靴屋の中に坐って、他の人たちも居合わせたなかで、彼らのために詩を演示するのが常であった。それは『アムピアラトスのテーバイ攻め』と、彼によって神々に寄せて詩作された讃歌とである。


断片集

1 Certamen Homeri et Hesiodi 15
 ホメーロスは、勝利を得損なうと、巡歴して詩作品を語るを常とした。先ず第一に、7000行の叙事詩『テーバーイス』を。これの初め。

語れ、女神よ、渇きのひどいアルゴス、領主たちの出どころを。

2 Ath. 465e
 オイディプースは、盃の件で息子たちに呪いをかけた。叙事詩圏の1つ『テーバーイス』を詩作した人が謂っているところでは、彼〔オイディプース〕が禁じている盃を彼の前に置いたからという。次のように言う。

しかし神のごとき英雄、金髪のポリュネイケースは、
まずオイディプースの前に、神聖のカドモスの
銀の食卓をば置く。また次いで、
みごとなる金の杯に、うま酒を満たした。
しかしオイディプース、おのれの父の貴き遺品を見るからに、
胸に激しき咎めの心湧き起こって、
たちまち、2人の息子らに、禍を呼ぶ呪いをかけた。
(これまた、復讐の女神もそれと知りたもうところ)
すなわち、彼らが父のもとを、たがいにいつくしみ合いつつ
分け合うことなく、久しくあい戦い、あい争いますように、と。

3 Schol. Oed. Col. 1375
 エテオクレースとポリュネイケースとに関する〔話〕。彼らは、父親オイディプースに、各々お犠牲獣から肩肉の部分を送ることを習いとしていたが、あるとき、気安さ故であれ、何らかの理由からであれ、うっかりして臀部を彼に送った。彼は、さもしくもまったくいやしくも、しかし彼らに対して等し並みに呪いをかけた。軽んじられていると思ったからである。このことを、叙事詩圏の1つ『テーバーイス』を詩作した人は次のように述べている。

臀肉だと気づくや、地面に投げ捨てて話をせり。
「ああ、なさけなや。わが子らが無礼にも送って寄越すとは……」

彼は王たるゼウスと、他の不死なるものらに祈れり。
お互いの手にて、アイデースの〔館〕に下向するようにと。

4*
蜜のように流暢なアドラトス

Plat. Phaedr. 269a
 ではどうだ。あの蜜のように流暢なアドラトスか、あるいはまたペリクレスが、今しがたわたしたちの列挙した完美な技法を聞くならば、云々

5 Apollod. Bibl. 1.8.4
 アルタイアーの死後、オイネウスは、ヒッポノオスの娘ペリボイアを娶った。『テーバーイス』を書いた者は、オーレノスが陥落したときに、オイネウスが彼女を戦利品として獲たと言い、またヘーシオドス(fr. 12 M.-W.)は……この女とオイネウスとの間にテューデウスが生まれた。

6
 〔アムピアラオスは〕善き占い師でもあり、槍もて戦うに善勇の士でもある。

Pind. Ol. 6.15
7つの薪山が死体のために築かれ終わると、タラオスの子〔アドラストス〕は
テーバイでこのように言ったのだ、「わが軍の眼がわたしには恋しい、
預言にも槍で戦うにも優れていたあの男が」。(内田次信訳)
Schol. ad loc.
 〔ピンダロスは〕これを『テーバーイス』叙事詩圏から採ったとアスクレーピアデースは謂う。

Versum heroicum restituit Leutsch; item CEG 519.2 (Attica, s. iv).

7* Schol. Pind. Nem. 9.30b
 アムピアラーオスとアドラストスの一統に諍いが起こり、その挙げ句、〔アドラストスの父〕タラオスがアムピアラーオスに殺され、アドラストスはシキュオーンに逃れた。……しかしながら、後に再び仲直りし、その条件に、アムピアラーオスは〔アドラストスの姉妹〕エリピューレーと結婚することになった。それは、もし何か、

大いなる諍いが両人に起こったならば

彼女が仲裁するために。

8*

〔話し手はアムピアラオス〕
わしのためにどうかタコの心をいだきて、わが子よ、英雄アムピロコスよ、
誰とでも調子を合わせよ、町を訪れたら、そこの人たちに
時により別人と成り変わり、色を変えて。

1-2 Ath. 317a
 クレアルコスも、『諺について』第2巻(fr. 75 Werli)の中で、次のような詩句を引用して同様に述べているが、誰の作品かは明かしていない。「わたしのために……そこの人たちに」。
Antig. Caryst. Mirab. 25
 ここからして詩人〔おそらくホメーロス〕も、明らかに言い古されたことを書いたのである。「わたしのために……調子を合わせよ」。
3 Zenob. vulg. 1.24
 「時により……変えて」。いかなる場所にいても、各人は自分をその場に等しくするのがふさわしい。蛸の隠喩に由来する。Item fere Diogenian. 1.23.

9* Schol. (D) Il. 5.126
 オイネウスの子テューデウスは、テーバイ戦争の際に、アスタコスの子メニッポスによって傷を受けたが、アムピアラオスはメラニッポスを殺害し、その首を持ち帰った。テューデウスはこれを割って、怒りのあまりその脳をすすった。アテーナーは、テューデウスに不死を授けるつもりだったが、この穢れを見て、彼を離れた。テューデウスはそれとさとって、せめて自分の子〔ディオメーデース〕に不死を授けるよう女神に懇願した。

Similiter schol. (AbT), ubi additur iJstorei: FerekuvdhV (3 F 97): hJ iJstoriva para; toi:V kuklikoi:V G m. rec. suo Marte ut videtur.

10 Paus. 9.18.6
 このアスポディコスは、アルゴス人たちとの戦いで、タラオスの子パルテノパイオスを殺したと、テーバイ人たちが言っている。ただし、『テーバーイス』の中で、パルテノパイオスの最期を扱った詩句では、殺したのはペリキュメノスだと謂う。

11 Schol. (D) Il. 23.346
 ポセイドーンはエリーニュスに恋をし、自分の自然を馬に変えて、ボイオティアのテルプーサの泉のほとりで交わった。彼女は妊娠して馬を産んだ。この馬は強力だったのでアリーオーンと呼ばれた[1]。ボイオティアの都市ハリアルトスを王支配していたコプレウスは、贈り物としてこれをポセイドーンから受け取った。この者は、ヘーラクレースが自分のもとにいたとき、彼にこれを恵贈した。ヘーラクレースは、アレースの息子キュクノスとこれによって競い合い、トロイゼーンの近く[2]、パガサイのアポッローン神域での戦車競技で勝利した。次いで、その後、ヘーラクレースは今度はアドラストスに子馬を授けた。これのおかげで、アドラストスひとりが、他の者たちは滅んだのに、テーバイ戦争から助かったのである。この歴史は叙事詩の環作家たちの作品にある。

[1] a[ristoV〔最善のもの〕を示唆する名前。
[2] 多分トラキスの間違い。ヘーラクレースがキュクノスとの戦いでアリーオーンを使ったことは、偽ヘーシオドス『ヘーラクレースの楯』120にある。アドラストスの乗馬用馬、俊足の通り言葉として言及されている。Il. 23.346.
Cf. schol. (T) 347; Apollod. Bibl. 3.6.8.

Paus. 8.25.7-8
 デーメーテールはポセイドーンによって娘と……神馬アリーオーンを生んだと謂われている……。この言葉の証言は、『イーリアス』や『テーバーイス』から詩句が引かれる。『イーリアス』(23.346-347)の中では、当のアリーオーンにまつわって詩作されている。……『テーバーイス』の中では、アドラストスがテーバイから亡命し、

見るも哀れな衣服をまとい[1]、黒いたてがみのアリーオーンを連れて

だから、この詩句は、ポセイドーンがアリーオーンの父親だと暗示しようとしているのだ[2]。

[1] あるいは、Beckの校訂(Mus. Helb. 58 (2001), 137-139〔ei{matashvmataと読む〕に従い、「悲しい徴をまとい」、すなわち、七将が、もし死んだら自分たちの跡継ぎに残す形見として、出陣前にアドラストスの戦車に付けておいた徴である。アイスキュロス『テーバイに向かう七将』49-51を見よ。
[2] 「黒いたてがみの」は、ポセイドーンの添え名だからである。後世の詩人たちは、ネメアでのアルケモロスのための葬礼競演において、預言者的演説をする〔詩人〕アリーオーンを(Propertius 2.34.37)、あるいは、アドラストスがテーバイでの戦争から逃走する時を、暗示した(Statius, Thebaid 11.442)。彼らの出典はアンティマコスだったかも知れないが、モティーフが環の叙事詩に現れていたことは可能である。『イーリアス』(19.404 ff.)に出るアキッレウスの馬クサントスの話を対照させよ。


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