古代ギリシアの詩
[出典] 本書はハリカルナッソス出身のへロドトスが、ホメロスの出自、またその生い立ちと生涯とを、できる限り正確に記述することを期して書き著したものである。 アイオリス系の古都キュメが建設された時、へラス(ギリシア)各地からさまざまな部族がこの町に集ってきたが、マグネシアから来往した者たちもおり、クレトンの子イタゲネスの息子、メラノポスなる者もその一人であったが、さしたる資産には恵まれず、乏しい暮しを立てていた。さて、このメラノポスはキュメの町で、オミュレスなる者の娘を娶り、この女から生れた女児を、クレテイスと名付けた。やがてこのメラノポスもその妻も世を去ったが、メラノポスは予てから懇意にしていた、アルゴス出身のクレアナクスなる男に、娘の後見を依頼していた。 時が移り、娘はさる男と秘かに情を通じ、身重になってしまった。始めのうちは誰にも知られずにいたが、やがてクレアナクスがそれに気付くと、この不祥事に心を痛め、町の住人たちにも顔向けならぬことと思い、クレテイスを人目に付かぬ場所に呼んで、散々に叱りつけた。そして娘について次のような処置をとることにした。その頃たまたまキュメ人たちは、ヘルモス湾の奥の一角に、新しい町作りをしていたが、町ができるとテセウスがその町にスミュルナという名を付けた。テセウスはそれによって、自分の妻の名を後世に残したいと思ったからで、彼の妻の名がすなわちスミュルナだったのである。このテセウスはキュメの創建に携わった一人で、その家系はアドメトスの子エウメロスの血統につながり、テッサリアでは上流に位する名士で家も頗る裕福であった。クレアナタスは秘かにクレテイスを、この新しい町へ遺り、ボイオティア人イスメニアスに託した。イスメニアスというのは、この新しい町へ移り住む籤に当った男で、クレアナクスとは極めて昵懇の間柄にあったのである。 いくばくかの時が過ぎ、クレテイスは祭見物のため、他の女たちと連れ立って、メレスという名の河の近くに出かけたが、既に臨月の身であった女は、ここでホメロスを出産した。ただしホメロスはこの時はまだ盲目ではなく目が見えたのであるが、母親は赤子の名を河名にちなんで、メレシゲネス(「メレス生れ」)と付けた。クレテイスは暫くの間イスメニアスの許に留まった後、やがて思い切って彼の許を去り、手仕事で子供と自分の身を養うことになった。あちこちから仕事を貰い、力の及ぶ限りのことをして子供を教育した。 当時スミュルナに、ペミオスという者がおり、子供たちに読み書きを始め教養万般を教えていた。独り身であったペミオスは、クレテイスを傭い、子供たちから謝礼として受け取る羊毛で糸を紡ぐ仕事をさせた。クレテイスの働きぶりは申し分なく、身持ちもよかったので、ペミオスにすっかり気に入られた。そしてとうとう、自分の妻になってくれぬかと話を持ちかけ、なんとか女を説得しようとした。女の喜びそうなことをいろいろといったのであるが、中でもその子供については自分の息子にしてもよい、自分が育てて教育すれば、やがて名のある者になるであろうといった。これは子供が利発で良い素質のあることを見てとったからであるが、こうしてとうとう女を承諾させた。 子供には生れながらに優れた素質が具わっており、これに訓練と学習とが加わると、たちまち他の子供たちをみな遥かに引き離してしまった。やがて成人すると、人を教えることでもぺミオスに少しも劣らぬほどになった。このようにしてペミオスは、すべてを子供に残して世を去ったが、その後ほどもなくクレテイスも死んで、メレシゲネスは学塾の教師におさまった。今や一人立ちした彼は、以前にも増して人々の注目を浴びるようになり、土地の者ばかりか、他国からこの町を訪れる者たちも彼の讃仰者となった。それはスミュルナが商取引の中心地で、近郷からここへ運ばれてくる莫大な量の穀物が、ここから他国へ出荷されるからである。他国の者たちは仕事を終えると、メレシゲネスの家に坐り込み、余暇を送っていたのである。 その頃こういう連中の中に、レウカス附近から来たメンテスなる船主がいた。自分の持ち船で穀物を仕入れに来たのであるが、当時としては教養もあり知識も広い男であった。この男がメレシゲネスに、塾を閉めて自分と一緒に船旅に出るよう、しきりにすすめた。給料も払うし、必要なものはみな提供するといったのである。それにまた、若いうちにあちこちの国や町を見学するのも為になる、ともいった。そしてどうやらそのことが一番彼の心を動かしたようである。思うに彼はこの頃既に、詩作に専念する積りであったからである。そこで学塾を閉じメンテスと共に船の旅に出発したが、到るところでその土地の風物をつぶさに見学し、さまざまに問い質しては知識を貯えた。彼はそれらをすべて覚え書きに記していたものと思われる。 テュルセニア(エトルリア)とイペリアからの帰途、イタケに着いた。この時メレシゲネスは眼を患い、病状が容易ならぬものになった。メンテスはレウカスに向かう予定を立てていたので、メレシゲネスに治療を受けさせるため、特に懇意な友人であった、アルキモスの子メントルなるイタケ人に、彼の世話を懇々と頼み、帰航したら彼を引き取るからといって、メレシゲネスを彼の許に残して発って行った。メントルは心を尽して病人の看護に当ったが、もともと彼の家は裕福でもあり、また人柄が正直で人の面倒見のよいことでは、イタケの住民の間で格段に評判の高い男だったのである。この地でメレシゲネスは、オデュッセウスに関わるさまざまな伝承を聞き知ることができた。イタケ人の話では、メレシゲネスはこの地で視力を失ったというが、実は私のいうように、彼はこの時は一旦恢復し、その後コロポンで失明したのである。この点につレては、コロポン人たちも私と同意見である。 メンテスはレウカスからの帰路にイタケに立ち寄り、メレシゲネスを引き取った。メレシゲネスはメンテスと共に長期にわたって船旅を続けたが、コロポンに着いた時、眼疾が再発し今度は病魔の手を免れることができず、この地で盲目になった。明を失った彼まコロポンからスミュルナへ帰り、詩作に専念することになった。 時が移り、スミュルナでは生活の資が得られぬため、キュメへ移る決心をした。ヘルモス平野を旅して、キュメの植民都市、ネオン・テイコス(「新城」)へ着いた。この地へ植民が行われたのは、キュメ創設から八年後のことである。彼はこの町でさる靴屋の店先に立っと、自分の最初の作詩を朗唱したという。 施しもなく住む家にも事欠く男を憐れみ給え、 サイデネというのは、ヘルモス河とネオン・テイコスの上に聳える山の名である。靴屋は名をテュキオスといったが、メレシゲネスの唱した歌を聞いてこの男を家へ迎えてやる決心をした。盲目の身で物乞いしているのを憐れんだからである。そこで彼に自分の仕事場へ入ってそこにあるものを好きに取ってよいといった。メレシゲネスは中へ入り、他の人々もいる仕事場に坐ると、『アンピアラオスのテパイ遠征』や自作の神々への讃歌などの詩を一同に披露し、さらにその場にいる者たちが話題にしている事柄について警抜な意見を述べ、それを聞いた一同を、これは並々ならぬ人物であると感服させた。 メレシゲネスは暫くの間、詩によって暮しを立てながら、ネオン・テイコスの辺りに逗留していた。私の時代になっても、ネオン・テイコスの住民たちは、メレシゲネスがいつも坐って詩を朗唱していた場所を見せてくれたし、その場所を非常に大切にしていた。そこにはポプラの木が生えているが、土地の人の話では、メレシゲネスがこの地へ来た時代からのものだという。 しかし、暫くして再び暮しが苦しく、身を養うことができぬようになったので、キュメへ行くことにした──少しは楽な暮しができるかと考えたのである。出立しようとして次の詩句を口ずさんだ。 足よ、急いでわたしを心正しい人々の住む町へ運んでくれ、 ネオン・テイコスを発ち、ラリッサを通ってキュメに着いた。彼にはこの道筋が一番都合がよかったのである。キュメ人の話によれば、ゴルディアスの息子でプリュギアの王であったミダスの娘婿の依頼を受けて、彼はミダスのために次のような墓碑銘を作ったという。この碑銘は〔ゴルディアスの〕墓の石柱に刻まれて今もなお残っており、四行から成る。 水の流れて熄まず、大樹の葉茂りて栄ゆる限り、 メレシゲネスが、キュメの町で年寄りたちが集って歓談する場所に坐り込んでは、自作の詩を聴かせたり、彼等と会話を交わして楽しませたりするうちに、一同はその芸に感服して彼をひいきするようになった。自分の詩がキュメ人たちに受けたことを知り、聴衆と親密にもなったメレシゲネスは、彼等にこんな提言をしてみた。もし自分を町の公費で養ってくれる積りがあるなら、彼等の町の名を大いに挙げてやろうというのである。聴衆一同にはその提言が気に入って、町の評議会に出頭して評議員たちに請願するのがよかろうとすすめ、自分たちもそれに手を貸そうといった。メレシゲネスはそのすすめに従い、評議会が召集された時議事堂へ行き、議員職に就いている男に、自分を議場へ連れて行ってくれと頼んだ。その男は承諾し、然るべき時を見計らって連れて行った。メレシゲネスは議員たちの前に立っと、集会場で話していた、公費による扶養の件について陳情し、話し終ると会場の外に出て、腰をおろして待った。 評議会は、この男にどう答えるべきかを協議した。彼を議場へ連れて来た男や、議員の中でも以前集会場で彼の詩や話を聴いたことのある者たちはみな賛成の意見であったが、王の一人がその請願に反対したという。彼の挙げた理由はいろいろあったが、主たる理由は、もし盲人たちの扶養を議会が決定すれば、役に立たぬ者を多数抱えることになる、というものであった。この事があってから、この男の名はメレシゲネスよりも、ホメロスの方が通りがよくなった。キュメの方言では盲人のことをホメロスというからで、その結果、以前はメレシゲネスと呼ばれていた男の名がホメロスとなった。さらに他国のどこでも、彼のことを話す時は、この名をいうことになったのである。 協議の結果、ホメロスの扶養はせぬという行政者の意見が勝ち、他の評議員たちもほぼこれに同意した。そこで議長がホメロスの傍らへ行ってその横に坐ると、彼の請願に反対した議論について説明し、議会の決議を伝えた。ホメロスはそれを聞くと、わが身の不運を歎き、次のような詩を詠じた。 父神ゼウスは、わしをなんたる定めの餌食になされたのであろう、 それからキュメ人に対して、今後キュメ人の名を輝かす如き高名の詩人は一人だに、この国には生れぬようにと呪いをかけ、キュメを発ってポカイアへ向かった。ポカイアへ着くと、以前したと同じように、人の集まる場所に坐を構えて、自作の詩を朗読しながら生計を立てていた。当時ポカイアにはテストリデスなる者が住んでいて、子供たちに読み書きを教えていたが、実直な男ではなかった。この男はホメロスの作る詩に目をつけると、彼にこんな話を持ちかけた──もしホメロスがこれまで作った詩を自分に筆写させ、またこれから作る詩も、そのたびに必ず自分に見せる積りがあるのなら、彼を家へ引き取り面倒を見て飯も食わせてやる、というのである。 それを聞いたホメロスは、彼のいう通りにするほかはないと考えた。彼には暮しに必要なものは何一つないし、また身の回りの世話もして貰わねばならなかったからである。テストリデスの家に寄寓して『小イリアス』を作ったが、その冒頭の句は、 わが歌うはイリオスと、駿馬を養うダルダニエの園、 『ポカイアの歌(ポカイス)』という叙事詩も作ったが、ポカイア人たちは、この詩はホメロスがこの町で作ったものであるといっている。テストリデスは、『ポカイス』始めその他のホメロスの作詩をそっくり書写すると、ホメロスの詩を自作として触れ込もうという魂胆から、ポカイアを退散する腹をきめた。そしてもはや以前のようにはホメロスの世話をせぬようになった。その時ホメロスは、彼に次のような詩句を詠んだ。 人の世に思いもよらぬことは数あるが、 さて、テストリデスはポカイアを去ってキオスへ行き、ここで学塾を開いた。そしてホメロスの詩を自作と称して披露し、大評判となって大儲けをした。ホメロスの方は再び以前のように、詩で暮しを立てながら、ポカイアに住んでいた。 その後しばらくして、キオスの商人たちがポカイアへ来たが、ホメロスの朗読する歌を聞くと、それが以前キオスで度々テストリデスのロから聞いたものであったから、キオスではさる読み書きの師匠が同じ詩を妓露して大変な評判になっていることを、ホメロスに話して聞かせた。ホメロスはその男がテストリデスであろうと感づき、何とでもしてキオスへ行きたいと願った。港へ降りて行ったところ、キオス行きの便船は得られなかったが、たまたま幾人かの男が材木の仕入れにエリュトライへ出航する準備をしているのに出会った。エリュトライを経由する船旅はホメロスにとって好都合であったから、彼は船員たちに近づき、自分の頼みを聴いてくれそうな尤もらしい事情をいろいろと話して、同船させてくれと頼んだ。船乗りたちも彼を乗船させる気になり、船に乗れといった。ホメロスは彼等の好意を深く謝して乗船し、腰をおろすと次の詩を詠じた。 聞し召せ、ポセイダオン、力強く大地を揺さぶり、 一行が恙なく海を渡ってエリュトライに着くと、ホメロスはその夜は船上で過した。翌る日船乗りの誰かに町まで連れて行って貰いたいと願むと、彼等は男を一人付けてくれた。ホメロスは歩きながら、エリュトライが険しい山地であるのに気づくと、次の詩を詠じた。 ものみなを授け、甘きこと蜜の如き幸を賜う尊き女神ゲー(大地)よ、 エリュトライの町へ着くと、キオスへの便船について問い合せたが、この時ポカイアで彼に会ったことのあるさる男が近づいてきて挨拶した。そこでホメロスはこの男に、キオスへ渡るための便船を一緒に探してくれと頼んだ。 ところが港から出る船が一隻もなかったので、男が彼を、漁夫たちが小舟を泊めている場所へ連れて行ったところ、たまたまキオスへ渡ろうとしている連中に出会った。連れの男はその漁夫たちに、ホメロスを乗せてやってくれと頼んだが、この者たちはその依頼に一顧も与えず船出してしまった。この時ホメロスは次の詩を朗誦した。 海渡る舟人たち、忌わしきさだめによって ところが船が出た後、思いがけなく逆風が起り、漁夫たちは止むなく元の場へ引き返し、まだ波打際に坐っていたホメロスを乗船させることになった。ホメロスは漁夫たちが帰って来たのを知ると彼等に向かっていうには、 「他国の人々よ、おぬしらは逆風に捕まったのだな。今からでもよい、わしを乗せなさい、さすればおぬしらも船を遺ることができるぞ。」 漁夫たちは、始めに彼を乗せてやらなかったことを悔やみ、同行を望むなら今度は置き去りにはせぬといいながら、乗船をすすめた。こうしてホメロスを乗せた船は出航し、やがて(キオスの)海岸に停泊した。 漁夫たちは自分たちの仕事にかかったが、ホメロスはその夜海辺に留まり、翌る日になってそこを発ち、あちこちさまよった末、ピテュス(「松の木」)の名で呼ばれている場所に着いた。その夜ここで眠っている時、松の実が体に落ちて来た。松の実のことをストロピーロス(「独楽」)という人もあり、コーノス(「松毬」)という人もある。この時ホメロスは次のような詩を詠んだ。 山襞多く風強きイデの峰には、おぬしより良い実をつける松がある、 当時キュメ人は、イデ山の附近にケブレニアなる町を建てる準備をしており、この地は多量の鉄鉱を産出したのである。 ホメロスはこの場を離れると、草を食んでいる山羊の声を目当てにして歩いて行った。彼を見て番犬が吠え立て、彼は大声をあげた。山羊を飼っていた、名をグラウコスという男が、その声を聞いて駈けつけ、直ぐに犬を呼び返すと、怒鳴りつけてホメロスの側から追い払ってくれた。目の見えぬ男がたったひとり、どうやってこんな場所へ来たのか、また何用あってのことであろうかと、しばらくの間呆気にとられていたが、やがて側に寄って、何者であるか、人も住まず道もない場所へどのようにして来たのか、また何が入用なのかと訊ねた。ホメロスは自分のこれまでの苦労を一つ一つ残らず語って、グラウコスの涙をそそった。どうやらこのグラウコスという男は心ない人間ではなかったらしく、手を取って家畜小屋へ連れてゆくと、火をおこし食事を作ってやり、膳ごしらえをしてすすめてくれた。 ところで二人が食事をしていると、犬どもがいつものように側へ来て吠え立てた。するとホメロスはグラウコスに向かって、次のような詩句を詠んだ。 家畜を守るグラウコスよ、一言おぬしの胸に入れて貰おう、 グラウコスはそれを聞くと彼の忠告を嬉しく思うとともに、大した男じゃと感服した。食事が済むと、今度は物語の馳走を楽しんだが、ホメロスが自分の漂泊した模様や、訪れた町々の話をすると、グラウコスはそれを聞いてすっかり感心してしまった。やがて床に入る時刻となり、二人は眠りに就いた。 翌日グラウコスは、ホメロスのことを話すために、自分の主人の許へ行こうと考えた。山羊の世話を朋輩に託し、ホメロスには直に帰ってくるからといって、家に残していった。ピテュスからほど遠からぬ所にある、ボリッソスという村に降りて主人に会うと、ホメロスが来た時の模様を、今なお驚きが醒めやらぬ面持で、ありのままに話し、彼をどうしてやったらよいかと訊ねた。主人は話にあまり関心を示さず、不具の者を家に入れて養うとはお前も愚かな男だなとはいったが、それでもその他国人を自分の所へ連れて来いといってくれた。 グラウコスは待っているホメロスの許へ帰ると、一部始終を話し、自分の主人の所へゆこう、そうすればきっと良い目に遇えるから、といってすすめた。ホメロスもその気になり、グラウコスはホメロスを連れて、主人の家へ行った。そのキオス人は、ホメロスと語る間に、彼が賢明で経験も豊かな男であることが判り、自分の許に逗留して、子供たちの世話をしてくれぬかといった。このキオス人には育ち盛りの子供が幾人かおり、その教育をホメロスに託したのである。ホメロスは頼まれた仕事を果していたが、『ケルコペス』『蛙鼠合戦』『椋鳥合戦』『へプタパクティケ』『エピキクリデス』(「つぐみの歌」?)その他ホメロス作とされる戯詩はみな、ボリッソスのキオス人の許に寄寓していた間に作ったものである。こうしてホメロスはこの町でも、その詩で広く知られるようになったが、例のテストリデスは、ホメロスがこの町に来ているのを知るや早速、キオスから船で逐電してしまった。 しばらくしてホメロスは、キオス人の主人に頼んでキオスの町へ連れて行って貰い、町へ着くと、塾を開いて子供たちに詩を教えた。キオスでは大層な賢人であるとの評判が立ち、多数の讃仰者ができた。十分な貯えもできたので妻を迎え、二女を儲けた。一人は嫁ぐことなく世を去ったが、もう一人は父親がさるキオスの男に嫁入らせた。 ホメロスは詩によって人々から受けた恩に報じようと考え、先ず『オデュッセイア』の中で、イタケ人メントルに恩を返した。イタケで眼を患っていた自分を懇ろに看護してくれたからで、さればこそ彼の名を『オデュッセイア』の中へ組み入れ、彼をオデュッセウスの友であるといい、オデュッセウスがトロイアに出航する際には、イタケにおいて最も心正しく最も優れた人物であると見込んで、メントルに世帯の一切を委託した、としているのである。またそのほか詩の各所で、アテナが(人間の)誰かと言葉を交わす時に、メントルの姿をとるようにさせているのも、メントルに敬意を払つてのことである。また自分の師匠であるペミオスに対しては、『オデュッセイア』の中でその養育と教導の恩に報いているが、特に次の句がそうである。 伝令は、歌においては万人を遥かに凌ぐぺミオスの手に、 さらにはまた、 彼(ぺミオス)は琴を鳴らし、美わしく歌い始めた。(『オデュッセイア』第1歌155) また彼が同行して海を渡り、多くの町、国を見てきた、その名をメンテスという船長のことも、次の詩句で追憶している。 わたしは英明の誉れも高きアンキアロスが一子、 さらにまた、彼がネオン・テイコスで靴屋の店に行った時、彼を迎え入れてくれた靴屋のテュキオスにも『イリアス』中の次の句に彼の名を組み入れて謝意を示している。 アイアスは、七枚の牛皮を重ねて青銅を張った、 こうした詩作によって、ホメロスの名はイオニア全土にあまねく知れわたり、今や彼の評判はへラス(ギリシア本土)にも拡がった。キオスに住んで文名の高かった彼の許へは、訪ねてくる者が多かったが、ホメロスに会った者たちは、ぜひ本土へ行けとすすめた。すすめられてホメロスもその気になり、本土への旅に熱意を燃やした。 ところでホメロスは、これまでアルゴスに対しては、たびたび立派な讃美の詩を作っているのに、アテナイに対してはまだそれをしていないことに気づき、『大イリアス』の「軍船の表」の中へ、エレクテウスを讃える次の詩句を挿入した。 五穀を実らす大地が産み、ゼウスの娘アテネが また、ァテナイ勢を指揮するメネステウスを、歩兵隊ならびに騎兵隊の用兵にかけては、天下に並ぶ者がないと称えて、次のようにいう。 さて、この軍勢を率いるのは、ぺテオスが一子メネステウス、 さらにまた、「軍船の表」の中で次の如く歌って、テラモンの子アイアスと、サラミス勢とを、アテナイ勢の傍らに置いている。 サラミスからはアイアスが十二隻を率いて参戦し、 また『オデュッセイア』では、アテナがオデュッセウスと語り合った後、アテナイ人の町へ行ったとしているが、これはアテナがアテナイを他のどの町よりも重んじていたからだというわけである。 女神はマラトン、ついで大路の走るアテナイへ着くと、
自作の詩にこれらの詩句を作り足し、用意万端ととのえると、へラスへ行こうとして、先ず船でサモスへ向かった。サモスではこの時たまたま土地の者たちが「アパトゥリア」の祭を祝っているところであったが、以前キオスでホメロスに会ったことのあるサモス人が、町に着いた彼の姿を見ると、同族の者たちのところへ行ってそのことを告げ、彼のことを賞めそやした。同族の者たちが彼を連れて来いというので、その男はホメロスに会っていうには、 若き男の子を護り給う女神よ、わが祈りを聴き給え、 やがて同行の男の氏族団の中へ入り、一同が食事をしている家の閾に立っと、次の詩句を吟じた──この時、家の中に火が燃えていたからという説もあるし、ホメロスがこの詩を吟じたので、火を起したのだという説もあるが──。 子らは親の冠、国の袋、 家に入って宴席に就き、その氏族の者たちと食事を共にしたが、一同は彼の詩才に感服し大切にもてなした。そしてホメロスはここで一泊した。 翌朝出立しようとしていると丁度その時、精巧な陶器をかまで焼いていた何人かの陶工が彼を見ると、声を掛けて一寸来てくれといった。彼が歌の名人であると聞いていたからで、陶器であれ自分たちの持ち物の何であれ、欲しいものをやるから、自分たちのために詩を作ってくれと頼んだ。そこでホメロスは、彼等のために次の詩を詠んでやったが、これが「かまの歌(「カミノス」)」と呼ばれている詩である。 おぬしらが、陶工たちよ、本当に歌の謝礼を呉れるのであれば、 その冬はサモスに逗留し、新月の日には物持ちの家を廻り、次のような歌をうたって、なにがしかの施しを得ていた。その歌は「エイレシオネ」の名で呼ばれるものであるが、土地の子供のいく人かが、必ず彼に随いて道案内をした。 お大尽の家へ行こうよ、とても偉いお人で、 サモスではこの歌が、長い間子供たちによって歌われたものであった。アポロンの祭礼の折、子供たちが施しを貰いに町を廻る時に歌うのである。 春になって、ホメロスはサモスからアテナイへ渡ろうと考え、土地の者数人と共に乗船して先ずイオス島に着いたが、船は町へは着けず、海岸に泊めた。たまたまホメロスは乗船中に気分が悪くなり始めていた。体が弱っているので、船を降り渚で眠っていた。風向きが悪く船が幾日も泊まっている間に、絶えず町から人が来てホメロスの所に坐り込み、彼の話や歌を聞いて大いに感心した。
さて、水夫たちや町の者たちがホメロスの傍らに坐っている時、魚とりに出かけた子供たちがその場所へ船を着け、小舟からあがるとホメロスたちの所へ来てこういった。 捕えたるは捨て置きたり、捕えざりしはここに持つ。 その場にいた者たちに、その意味が解けぬと見ると、子供たちが説き明かしていうには、漁に出たが魚は一尾もとれなかった。そこで陸に上って坐り、虱捕りをしたのだが、っかまえた虱はそこへ捨て、とり損ったものはみんな家へ持ち帰ったわけだと。それを聞いたホメロスが次の詩句を詠んだ。 きればおぬしらは、かかる父親の血をひいて生れたわけじゃな、 ホメロスはこの時患った病いのためにイオスで死んだのであって、一部の者が考えているように、子供たちの言葉が解けなかったためではなく、死因はやはり病いであった。 ホメロスはその死後、同船の者たち、および彼と語り合っていた市民たちによって、イオスのこの海岸に埋葬された。ずっと後になって、イオス人たちは次のような碑銘を墓石に刻んだが、これは彼の詩が各地に広まり、万人から歎賞されるようになったからで、碑銘はホメロスの作ではない。 ここに大地の蔽えるは聖なる頭、 ホメロスがアイオリス系の生れであって、イオニア系でも、ドリス系でもないことは、以上わたしが述べたところによって明らかである。そのことは次の事実によっても証明することができる。ホメロスほどの詩人であれば、世界各地で行われている風習の中で、彼が実に良風であると考えたものとか、あるいは自分の祖国の慣習などを詩に詠み入れるのは当然のことである。次の詩句を聞けば、読者も自らそのことを判断できるであろう。彼は犠牲式について、自分が最大の良風と見たもの、あるいは自分の生国の様式を適切なものとして、詠じているのである。 まず牛の首をもたげて反らし、咽喉を切り皮を剥ぐ。 この詩句では、ふつう犠牲式で用いる腰肉には何も触れていない。ギリシア人の中で、腰肉を焼かぬのはアイオリス族のみである。また次の詩行からも、アイオリス人である彼がこのような慣習を守っていて当然であることが判る。 老祭司がこれらを薪の上にかざして焼き、輝く葡萄酒をそれに注げば、 臓物を焼くのに五叉の串を用いるのは、アイオリス人のみで、他のギリシア人は三叉のものを用いる。また「五(ぺンテ)」のことをペンペというのもアイオリス人である。 以上、ホメロスの出自、その死、その生涯について述べたのであるが、ホメロスの年代については、次の資料を勘案すれば、精密かつ正確に計算できるであろう。アガメムノンとメネラオスとが、兵を集めて試みたイリオス遠征から130年後に、レスボスに植民が行われ、幾つかの町が造られた。それまでレスポスには町が一つもなかったのである。レスボス植民後20年経って、プリコニスの異名のある、アイオリスの町キュメが建てられた。キュメから十八年遅れて、スミュルナがキュメ人によって建てられたが、ホメロスが生れたのはこの頃である。ホメロスが生れた年から、クセルクセスの渡海作戦に至るまで、622年が経っている──渡海作戦というのは、クセルクセスがギリシア攻撃の兵を起し、へレスポントスに架橋して、アジアからヨーロッパへ渡ったことをいうのである。この時点以後は、アテナイの執政官就任年代表を参照すれば、誰にでも年代を算出することが容易である。ホメロスの生れたのは、トロイエ戦争から168年後のことであった。 |