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Persecution of Jews(ユダヤ人迫害)

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 キリスト教徒は、ユダヤ人を「キリストの殺害者」と呼んでユダヤ人迫害を正当化したが、これは筋の通らぬ話だった。なぜなら、ほかならぬキリスト教の神学自体が、キリストの死は神によって予定されていたと述べており、そうであれば、ユダヤ人は神の意志に従ったにすぎなかったからである。教会がローマで権力の座に就いてから福音書の文句が改竄され、ピラトは、「聖都」の代表者であったことから、その罪を赦された。しかし、ユダヤ人の方は、福音書に借用された古代の祈祷文の一節によって有罪を宣告された。この文句は、神の血の豊饒をもたらす力に祈りを捧げたものだったが、のちに殺人の罪を認める言葉と解釈された。「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」(『マタイによる福音書』27: 23-25)。

 キリスト教の発展を企図したこの文書改竄が、その後何世紀にもわたるユダヤ人迫害の根拠になった。迫害は20世紀になってその頂点に達し、ナチ政権の下で何百万人ものユダヤ人が殺された。これは、 2000年にも及ぶ組織的大虐殺の歴史の中で、最も新しい事例である。

 14世紀の中葉までの自由都市ケルンは、教会の支配に抗して、ユダヤ人の貿易商人、織工ギルド、各種商業にとって安全な避難所になっていた。その後、ケルンにはカトリック教会の勢力が浸透し、ユダヤ人の商人たちは、それぞれ家の中で妻や子供らとともに火あぶりにされ、生贄を免れた者たちも市から追放された。彼らの財産は教会側の手中に帰し、そのうちの半分は勝利を収めた大司教のものになった[1]

 14世紀におけるペストの大流行は、通常、ユダヤ人の所業とされた。ユダヤ人は、教会から盗み出した聖餐式のパンにユダヤ人の女たちの経血を塗り、そのパンで井戸や川を汚染して、疫病を発生させたと言われた。ペストが流行するたびに、ユダヤ入社会に対する虐殺が行われた。 1382年、暴徒たちはパリのユダヤ人街で略奪と破壊を行った[2]。1391年には、セビリヤの助祭長が「ユダヤ人に対する聖戦」を煽動した。暴徒はユダヤ人街に押し寄せ、シナゴーグを破壊し、およそ4万1000人のユダヤ人を殺害した[3]。バイエルンでは、黒死病の時代に、 1万2000人のユダヤ人が殺された。ストラスプールでは、 2000人のユダヤ人が、1348年のペスト流行を引き起こしたかどで火刑に処せられた。シノンでは、巨大な溝が掘られ、その中に山と積まれた薪の燃えさかる火によって、 1日に160人ものユダヤ人が焼かれた[4]

 教会はユダヤ人迫害の後押しをしたが、その狙いは、 14世紀末までにヨーロッパの人口のほぼ半数を奪ったあの恐るべき疫病が、悪意に満ちた神の仕業であるという、当時一般に広まりつつあった見方から人々の注意をそらすためだった。教皇自身が、大勅書の中で、「神は今キリスト教徒をペストで苦しめている」と言っていたし、他方、ペストの脅威のために、「邪悪なるエホヴァ」というグノーシス流の考え方が復活していた。当時のある大学教授は、「神の敵意は人間の敵意よりも甚だしい」と述べた[5]

 ペストの真の原因は、キリスト教徒が「聖地」と交易を行ったからである。十字軍の船が何百万匹という東方の黒いネズミをノミと一緒に運んできた。このネズミについていたノミこそ、ペスト菌の真の媒介者だった[6]。この事実に気づかなかったから、キリスト教会筋はネズミ退治に精を出さず、その代わりにユダヤ人を根絶しようとしたのだった。また、ユダヤ人殺害は、この疫病の時代に芳しくない行動をとった聖職者に対する民衆の怒りの、その部分的はけ口の役を果たしていたものと思われる。ほとんどの聖職者は、さっさと信者の群れを見捨ててペストが蔓延している地域から離れてしまった。聖職者たちは、一般に、「臆病と怠慢」のかどで人々から非難された[7]

 ユダヤ人迫害を助長したのは、迫害を目的として作り出された、数々の根拠のない話だった。スペインでは、一般に流布されていた人身御供の話と、疫病招来魔術の話とが結びつけられた。 1490年、初代異端審問所長トルケマーダは、この作り話を口実にしてスペインからユダヤ人を追放し、教会を富ませるためにユダヤ人の財産を没収した。何人かのユダヤ人が逮捕されて拷問にかけられ、その結果彼らは、自分たちが聖餐式のパンを盗み、 4歳になるサント・ニーニョ(「聖なる御子」)という男の子を教会の入口から誘拐したと自白した。彼らはこの子を鞭で5000回たたき、イバラの冠をかぶせ、反キリスト教的な魔術を行うためにその心臓を摘出した。彼らの自白によると、黒魔術によってキリスト教徒を滅ぼそうとしたこの陰謀には、ユダヤ人全員が加担していた。ユダヤ人は、キリスト教徒の子供たちを誘拐し、その子供らの心臓の血または遺体から呪物を作り、この呪物を川や井戸に投げこんで、キリスト教徒全員を病気にする計画だったという。

 伝えられるところによると、サント・ニーニョはこの苦しみにも静かに耐え、自分の心臓の摘出に際しては、ユダヤ人たちに指示さえも与えたという。盲目だったその子の母親は、彼が命を失ったその瞬間に目が見えるようになった(これはおそらくキリストの死によってユダヤ教が啓示を受けたことを示す意図から、新たに書き加えられた比喩だったと思われる)。死後、「聖なる御子」はまっすぐ天国に昇ったのであり、したがって、当局は、ユダヤ人らが子供を埋めたというその場所に、彼の遺骸を発見することができなかった[8]

 このような作り話をごた混ぜにした代物を根拠にして、何千人ものユダヤ人のスペインからの追放と、キリスト教徒によるユダヤ人資産の没収とが開始された。 1260年、トレドのユダヤ人たちは、大量に虐殺され、このシナゴーグはキリスト教のものになった。その教会には、今では、サンタ・マリア・ラ・ブランカという名がついている[9]。当時の神学者たちによると、迫害と財産没収はカトリック勢力の正当な行為だった。彼らの説では、「教会の命令によって殺されたユダヤ人・非キリスト教徒・異端者たちには、いかなる暴力を加えても不当ではなかった。彼らには侵害される権利など初めからなかった」のである[10]

 サント・ニーニョの伝説にしても、スペインの異端審問所が最初に発明したものではなかった。同じ伝説が、すでに2世紀も前に、ラインラントのユダヤ人迫害を助長するために使われていた。このときのドイツ人の子供-殉教者の名はヴェルナーだった。彼は誘拐され、拷問にかけられ、ユダヤ人たちの神へ生贄として捧げられた。手足を切断された彼の死体が川で発見され、バッハラッハの彼の墓の上には教会が建てられた[11]。 1322年には。 18人のシュヴァーベンのユダヤ人が、教会から聖餐式のパンを盗んだかどで殺された。のちに、これらのユダヤ人は無実であることが判明した。真犯人はキリスト教徒の女性だったのである。彼女の方は、結局、魔術を使うという罪で火刑に処せられた[12]

 中世の生活に災厄が起こった場合、他人の身代わりにその罪を負わされる者としては、ユダヤ人と女性がほぼ同等に役立つた。しかし、 1350年のオルヴィエートの布告によると、女性の方がユダヤ人よりも嫌われていた。この法令では、男女が道ならぬ恋愛事件を起こし、一方がキリスト教徒で他方がユダヤ教徒の場合、女性は、宗教の如何にかかわらず、首をはねるかまたは火あぶりにすべしというものだった[13]

 ユダヤ人排斥が激化した結果、キリスト教会筋としては、自分たちの宗教がユダヤ的母体から生まれたことを再三にわたって否定したほどだった。ユダヤ系の人物が教皇の位に就くことに反対して、聖ペルナルドゥスは、ユダヤ人の子孫がぺテロの座を占めるならば、キリストを侮辱することになる」と述べた[14]。このとき、ベルナルドゥスは、ペテロ自身が他の使徒やイエスと同じくユダヤ人であったという教会の教えをすっかり失念してしまっていたようである。ユダヤ人の側としては、キリストやペテロが元来はユダヤ人であったと言ってみたところで、当時の政治的状況が好転することもなかったから、その点を更に追及することはなかった。

 ユダヤ人排斥は、今世紀におけるアドルフ・ヒトラーの政権下で、 1つの頂点に達した。ヒトラーは、中世の異端者がそうさせられたのと同じように、ユダヤ人たちに黄色のバッジをつけさせた。 1937年、ドイツのあるキリスト教団体は、「ヒトラーの言葉は神の旋掟に等しい」と宣言した[15]。ヒトラーの言葉とは次のようなものだった。

 「自分自身のキリスト教徒としての感情から、余は、戦士としての我が主キリストに注目する。かつて、数人の弟子に固まれていただけという孤独の中で、ユダヤ人の真の姿を見抜いて、人々にユダヤ人と戦うよう勧告した人物、そして苦悩者というよりは、まさに戦士として最も偉大だった人物に、余の目は注がれる。主が、ついに力強く立ち上がり、手に鞭を持って、神殿から毒へピの如き輩を追放するにいたった経緯を述べた文章を、余は、キリスト教徒として、また1人の人間として、限りない愛情を込めて読み耽った。ユダヤ人の害毒から世界を守るためのこの戦いは、血沸き肉躍るものがあった」[16]

 ヒトラーがそれほどの読書家でなかったことは明らかである。彼には、イエスが「シオンの花婿」と名づけられるに至った役割までは理解できず、また、神殿が誰に捧げられていたのかもわからなかった。


[1]Agrippa, 19.
[2]Tuchman, 380.
[3]Coulton, 288.
[4]White 2, 73.
[5]Tuchman, 104, 109.
[6]de Camp, S.S.S., 47.
[7]Coulton, 202.
[8]Plaidy, 171 et seq.
[9]Pepper & Wilcock, 120.
[10]J. B. Russell, 148.
[11]Guerber, L. R., 206-7.
[12]J. B. Russell, 167.
[13]Tuchman, 118.
[14]Encyc. Brit., "Bernard."
[15]Langer, 63.
[16]Langer, 39.

Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)



[画像出典]
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