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mirror.jpg  古代人は、固体や液体の反射する表面には神秘的力があるとした。そこに映る像は霊魂の一部であると考えたからである。人が見つめている水面を乱す行為は重大なタブーとされていた。映像を打ち砕くことは霊魂に危険を加えることを意味したからである。したがって、鏡を割ることも同様のタブーであって、今日でも7年間の不運を招くと言われている。

 ナルキッソス神話は、過剰な自己愛の寓話として一般に誤って考えられているが、本当は水に映った霊魂に与えられる損傷ということをもとにして作られた神話であった。ナルキッソスは妖精エコーの魔法の泉に映った自分の美しい顔から離れることに 耐えられず、こがれて死に、岸辺の花となった。エコーもまた樵悴の余り姿が消えて遂には声しか残らなかった。

 アフリカ人とメラネシア人の間で今も信じられている話によれば、エコーは実は水辺の死の女神であって、水に映った霊魂を捕えようと待ち伏せしているという[1]。ナルキッソスは、生贄となった「春の花の英 雄」の別名であった。この英雄はまた、アンテウス、アドーニス、ヒュアキントス、ディオニューソスなどの名で呼ばれて、クレ夕、ミケーネ、ラケダイモーンで行われる5月の花神祭(May Day Heroantheia)のときに生贄となって死んだ [2]。ペラスギ人のディオニューソス神話では鏡は神の死を意味した。ナルキッソスの霊魂が反射する水の中に捕えられたように、ティタンはデイオニューソスの霊魂を鏡の中に閉じ込めた。それからディオニューソスは生食の儀式において八つ裂きにされた。point.gif Cannibalism。

 数世紀後に、ジプシーは「魅せられた、または呪われた獵師」に姿を変えたデイオニューソスの物語を語っている。?師の霊魂は、ヒンズーの死霊マーラと同じ「魔女」のマーラによって鏡の中に閉じ込められる [3]。スラヴのジブシーの間では、マーラ Mara*あるいはモーラは、夜風に乗り、「人間の血を飲む」破壊力を持つ「運命の女神」であった [4]

 悲劇的死を遂げたナルキッソスはキリスト教聖人名簿に聖人として記され、1世紀にエルサレムの「司教」であったと言われている。(その当時エルサレム司教は実在しなかった。)ナルキッソスという若々しい名のように、若さと美の頂点で死んだのではなく、聖ナルキッソスは116歳まで生きた [5]。彼はキリスト教の実在しない聖人の1人であって、その伝説は、キリスト教の信仰によって長寿が得られることを異教徒に納得させるものであったと想像される。

 鏡は多くのキリスト教の迷信のにおいて死と結びついた。悪魔、狼人間、吸血鬼などの「霊魂を持たない」生物は、鏡に姿が映らなかった。

 多くのヨーロッパ人は今日でも、家の中で死者が出たとき鏡を壁に向ける。鏡が生きている者の霊魂を捕えたり、死出の旅に旅立つ死者の霊魂を引き止めたりする、と信じられているからである [6]。死者の家で 鏡を見ると、自分の顔ではなく、死んだ者の顔が映っているとも言われた [7]

 教皇ヨハネス二十二世(在位1316-34)は鏡に対して常軌を逸した恐怖を持っていて、魔法使いが鏡の中から悪魔を送って攻めて来る、と主張した [8]

 いわゆる魔女の鏡は磨いた石、金属の板、水晶、あるいは墨や水の入った鉢であったと思われる。水は、深淵、すなわち不可解な隠れた霊の棲む世界を表した。したがって、そこに映った影は、未来の出来事があらかじめ投影されたものと解釈された。 妖精物語では、霊魂の国は、しばしば鏡の中の広間として現われた [9]

 カバラ信奉者は、曜日を支配する7惑星の霊の意志を7つの鏡の中に読み取ると告白している。7つの鏡は、それぞれ曜日に適した金属、神、主題から作られていた。 地上の偉大な民族に関する質問は、日曜日に金の鏡に向かって問いかけられた。夢と神秘的啓示は月曜日(月の日)に銀の鏡に現れた。憎悪や訴訟は火曜日に、マルスの鉄の鏡で解決された。水銀のメルクリウスの鏡は水曜日に、金銭関係の相談に用いられた。錫のユピテルの鏡は木曜日に現世の成功を問うのに使われた。恋愛問題は金曜日にヴィーナスの銅の鏡で解決された。 紛失物と秘密は土曜日に、サトゥルヌスの鉛の鏡で見出された [10]

 鏡の秘教的な意味は、はるか以前にプロ テイノス(205?-270?エジプト生まれのロ一マの科学者)によって説明されている。 彼は、物質界の鏡の中に霊的現実の「映像」 を創った創造女神であるヒンズ一教のマー ヤーの概念を、鏡の持つ意味と結びつけて考えた。「物質が鏡として用いられ、その上に『宇宙の霊魂』がその創造物の形象や映像を投射し、こうして感知しうる宇宙の現象を生み出す」のであった [11]

 東洋の神秘主義者の考えは、「宇宙の霊魂」とは本当は個人の霊魂であって、そこでは現実が、鏡の中に映る如くにぼんやりと知覚されている、という結論にまで近づいた。仏教の箴言には「すべての存在は鏡に映る像のように、実体はなく、心の織りなす幻に過ぎない。有限の心の働きによっ て、森羅万象が生じ、有限の心がその働きを止めれば、森羅万象が止む」とある [12]。換 言すれば、生き、知覚する者にとってのみ、 世界は存在するのである。これは西欧の哲学者が果てしなく命題とした観念であり、 押し進めれば、知覚しうる知的存在がない場合、宇宙は全く存在しなくなる、という論理的かつ不合理な観念となるものであった。


[画像出典]
Mirror in the form of a mask
UNKNOWN GOLDSMITH, Flemish
1590s
Turquoise, diamomds, and gilt and enameled silver Museo degli Argenti, Palazzo Pitti, Florence


[1]Frazer, G.B., 223.
[2]Graves, G.M. 1, 113.
[3]Groome, 131-32.
[4]Masters, R. E. L., 118.
[5]Brewster, 467.
[6]Clodd, 33-34.
[7]Cavendish, P. E., 36.
[8]Frazer, 1, 384.
[9]Frazer, L.R., 219.
[10]Frazer, 90.
[11]Shirley, 42.
[12]Bardo Thodol, 227.

Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)