『ギリシアとローマの対比物語集(Greek and Roman Parallel Stories)』(しばしば「対比小話集(Parallela Minora)」と呼ばれる)は判じ物である。幾つかの奇妙で非ギリシア語的な形式の使用、既述の内容を受ける普通の代名詞の代わりに、「前述の(proeirhmevnoV)」の使用(もちろん、これはPolybiusの作品の顕著な特徴であるが)、とりわけ、この作品が書かれているひどい文体、これらは、これが常識的にプルータルコスの作品であるとみなされることを不可能にする。尤も、何人かの学者は(幸いにもHartmanには知られなかったが)、この作品を、他の点では欠点のないプルータルコスの若さの過失のひとつとみなしたのだが。
しかしながら、この題名の作品は、Lampriasの総覧の128番目に、DihghvsiV Paravllhloi +Ellhnikai; kai; +Rwmai&kaivという表題のもとに収められ、これらの物語の幾つかは、Joannes Stobaeusによるわれわれの写本文献の中に、語彙まで正確にほとんど完全に引用されているのである。しかし、用語の過度の不合理さは、もしもプルータルコスがこの種の本を本当に書いたことがあるとするなら、われわれの前にあるこの作品が彼のものであるという可能性を完全に排除するのである。
S. Luriaは、「Rheinisches Museum」lxxviii. (1929)p.94の中で、以下のように示唆している。『Parallela』と『De Fluviis』は、ルキアノスの『本当の話』の作風のもじりである。HercherとHartmanが、この両作品が同じ無名の作者によるものである意見表明した主たる所以は、めいめいの作者が正体を暴露するようなそんな愚か者がかつて2人も生きていたとは想像しがたいからである! この作者(独創性ゆたかな?)が持ちこむ混乱、輝かしい誤称の無理な単純化、数々の作者(Hercherが決して実在しなかったことを示そうと試みた)への多くの言及、これらすべては、『Parallela』が『対比列伝』における対比のもじりであることを示唆していると思われてきた。しかし、J. Schlerethは、その「De Plutarchi quae feruntur Parallela Minora」(Freiburg, 1931)というすぐれた学位論文の中で、大いなる学識と洞察力をもって、この命題を論駁しようとした。彼の作品は、『Parallela Minora』の出典、言語、意図に関心のある人なら誰でも、参照されることができる。
Wilhelm Schmid (Philologische Wochenschrift 1932, coll. 625-634)は、Schlerethの労作を慎重に再調査した。SchmidもNachstädtも、他所では知られていない作者からの引用は、真正なものであって、編者の捏造ではないという立場をとった。Nachstädtは、したがってTeubnerの1934年版では、すべてに参照文献を付け、便利な比較のために、Stobaeusu、Lydus、1893年にSternbachによって公刊された『gnomologicum Parisinum』(現存作品テキストと同じ典拠を有しているらしい)から、最も重要な一節を加えもした。(F. C. Babbitt)
"t".1.1
ギリシアの出来事とローマの出来事との対比集成
(Sunagwgh; iJstoriw:n parallhvlwn +Ellhnikw:n kai; +Rwmai<kw:n)
305."A".1
往古の記録は、行為の意想外さゆえに、たいていの人たちは、作り事と神話を含むと考えている。しかしわたしは、現代においても等しいことが生起しているのを見出したので、ローマ時代に起こったことを選び出し、往古のそれぞれの出来事に、等しいより新しい説明を配置した。記録した人たちをも書き記した。
[1]
ペルシア人たちの太守ダティスが、30万の軍勢を率いて、アッティカの平野マラトーンに押し寄せ、陣を布き、土地の者たちに宣戦を布告した。しかしアテーナイ人たちは、非ギリシア勢の多さを見くびり、9000の軍勢を派遣し、将軍に、キュネゲイロス、ポリュゼーロス、カッリマコス、ミルティアデースを任じた。かくて対抗布陣が激突し、ポリュゼーロスは超人的幻影を観て視力を失って、盲目となった。カッリマコスは、多数の槍にからだじゅう刺し貫かれ、死体のまま立っていた。キュネゲイロスは、ペルシアの艦船に手をかけたところを、手を切断された。
王アスドルーバス〔Hannoの息子Hasdrubal〕はシケリアを占領し、ローマ人たちに宣戦を布告した。これに対しメテッロスが元老院によって将軍に挙手採決され、勝利を手にした。この勝利に際し、貴族のレウキオス・グラウコーンは、アスドルーバスの艦船に手をかけて、両手を失った。これは、ミーレートス人アリステイデースが『シケリア誌』第1巻(FHGr. IV 324)の中に記録しているとおりである。シケリア人ディオニューシオスは彼からこの事実を学んだ。
[2]
クセルクセースは500万の軍勢を率いて、アルテミシオンに投錨し、土地の者たちに宣戦を布告した。アテーナイ人たちは狼狽し、テミストクレースの兄弟アゲーシラオスを密偵として遣わした。彼の父ネオクレースが、彼が両手をなくするのを夢に見たにもかかわらずである。さて、ペルシア人の恰好をして非ギリシア人たちのところに着くと、親衛隊の一人マルドニオスを殺害した。クセルクセースだと思い違いしたのである。そのためまわりの者たちに捕らえられ、縛りあげられて、王のもとに連行された。前述の〔王〕は、牛の供犠をしようとしていたので、〔アゲーシラオスは〕太陽の祭壇の上に右手を置き、うめき声も立てずに拷問の責め苦に耐えたうえ、縛めから自由になると、こう云った。
「われらアテーナイ人はみなかくのごとし。信じないならば、左手をも置こう」。
クセルクセースは恐れ、自分が守備されるよう下命したのであった。これこそ、サモス人アガタルキデースが『ペルシア誌』第2巻(FHGr. III 197)の中に記録しているところである。
トゥスコイ〔タスカニー〕人たちの王ポルシナスは、ティベリス河の対岸に出陣し、ローマ人たちに戦争を仕掛け、ローマ人たちの穀物供給路の真ん中を抑えて、上述の者たちを飢餓で責め苛んだ。元老院は狼狽したが、貴顕のひとりムゥキオスは執政官の権限で400人を率い、私人の恰好をして出撃し、河を渡った。そして、僭主の親衛隊のひとりが、将兵たちに必需品を配っているのを見て、ポルシナスだと思って亡き者にした。かくして王のもとに連行されると、火の燃え立つ祭壇に右手を置いて、毅然として苦痛に堪えつつ、微笑してこう云った。
「野蛮人よ、おまえが望むまいと、わたしは自由の身だ。そして知るがよい、おまえに対するわれら400人、この陣中にあって、おまえを亡き者にしようと探しているのだということを」。
相手は恐れて、ローマ人たちと和平を結んだ。これこそ、ミーレートス人アリステイデースが『歴史』の第3巻(FHGr. IV 320)の中に記録しているところである。
[3]
アルゴス人たちとラケダイモーン人たちとが、テュレアティスの地をめぐって戦争したとき、アムピクテュオネイア会議は、双方300人ずつが戦い、その地は勝者のものとなるべし、と決定した。そこで、ラケダイモーン人たちはオトリュアデースを、アルゴス人たちはテルサンドロスを将軍にした。そして戦った結果、アルゴス人たちからはアゲーノールとクロミオスの2人が生き残り、彼らは都市に勝利を報告した。しかし〔戦場が〕無人となったとき、オトリュアデースが息を吹き返し、半分に折れた槍の柄にすがりながら、すべての死体の楯を奪い取った。そして勝利牌を立てて、自分の血で、「勝利牌を奉献さるるゼウスに」と記した。両民衆が相変わらずであったとき、アムピクテュオネイア会議は、視察したうえで、ラケダイモーン人たちを有利と判定した。これこそ、クリュセルモスが『ペロポンネーソス誌』の第3巻(FHGr. IV 361)の中に。
306."B".10
ローマ人たちがサムニタイ〔サムニティウム〕人たちと戦端を開き、将軍としてミヌゥキオス・アウグゥリノス〔Postumius Albinus〕を挙手採決した。この人物は、フォークの歯と呼ばれるカウディネー〔Caudine Forks〕(非常に狭隘な場所である)で待ち伏せをくらい、3個軍団を失い、自分も致命的な傷を受けて倒れた。しかし、深夜、かろうじて息を吹き返し、亡き者となった敵兵から楯を剥ぎ取り、血に手をそめて、勝利牌を立て、「ローマ人たちがサムニタイ人たちとの戦いで、勝利牌を奉献さるるゼウスに」と書き記した。ライマルゴス〔「貪食」の意〕と添え名されるマクシモスが、将軍として派遣され、この場所にさしかかって、この勝利牌を見て、喜んで吉兆として受け取った。そして会戦して勝利し、王を捕虜として捕らえて、ローメーに送り届けた。そう、ミーレートス人アリステイデースが『イタリア誌』の第3巻(FHGr. IV 321)の中に。
[4]
ペルシア人たちが500万の軍勢でギリシアに攻め寄せたとき、レオーニダスはラケダイモーン人たちによって300人とともにテルモピュライへ派遣された。そこで饗宴しているとき、異邦人の軍勢が攻め寄せた。するとレオーニダスは、異邦人の軍勢を見て云った、「ハーデースの館で正餐をとるように、朝食をとりたまえ」。そして異邦人の軍勢に突進し、多数の槍にからだじゅう刺し抜かれながら、クセルクセースめがけて攻め上り、王冠の飾り紐を奪い取った。彼が死んだので、異邦人はその心臓を切り開き、毛が密生しているのを見出した。そう、アリステイデースが『ペルシア誌』の第1巻(FHGr. IV 324)の中に。
306."D".10
ローマ人たちがポイノイ〔カルタゴ〕人たちと戦端を開き、300の軍勢と、将軍としてパビオス・マクシモス〔Fabius Maximus〕を派遣した。会戦して、全軍を失ったが、自分自身は致命傷を負いながらも、突進してアンニバースに迫り、その王冠の飾り紐を奪い取って、ともに死んだと、これこそ、ミーレートス人アリステイデース(FHGr. IV 322)が記録しているところである。
[5]
プリュギアの都市ケライナイで、大水とともに大地の裂け目ができ、数多くの家屋を人間もろとも深みに引きずりこんだ。ミダース王は、最も貴重なものを投げこめば、閉じるだろうという神託を受けた。そこで彼は金や銀を投げこんだが、何の助けにもならなかった。ミダースの息子アンクゥロスは、人生において人間の魂よりも貴重なものは何もないと思量して、生みの親や妻のティモテアと抱擁を交わしたうえ、騎乗したまま裂け目の場所に乗り入れた。こうして裂け目が閉じたので、イダイオス・ゼウスの祭壇を、手で触れて黄金にした。この祭壇は、裂け目ができることになったあの時機ころには石になる。しかし、所定の期限が過ぎると、金に見えるのである。そう、カッリステネースが『変身譚』の第2巻(Scr. rer. Alex. M. ed. M. fr. 45)の中に。
アゴラの中央を貫流するティベリス河が、ゼウス・タルペーイオス〔Jupiter Tarpeius〕の怒りにふれて突然大きな裂け目を出現させ、数多くの家屋を引きこんだ。だが、最も貴重なものを投げこめば、閉じるだろうとの神託が与えられた。そこで人々は金や銀を投げこんだが、貴顕のひとり若きクゥルティオス〔Curtius〕は、神託を思惟し、魂こそより貴重と思量して、騎乗して裂け目の中に身を投じ、親しい者たちを諸々の災悪から救ったのであった。そう、アリステイデースが『イタリア誌』の第40巻(FHGr. IV 321)の中に。
[6]
ポリュネイケス麾下の隊長たちが宴会を開いているとき、鷲が舞い降りてきて、アムピアレオースの槍を高みに運び、放した。槍は地に刺さり、月桂樹になった。翌日、戦っているとき、アムピアレオースは先の場所で戦車もろとも呑みこまれた。そこは今、ハルマ〔「戦車」の意〕と呼ばれる都市のあるところである。そう、テイシマコスが『都市建設論』の第3巻(FHGr. IV 471)の中に。
ローマ人たちがエーペイロス人ピュッロスと戦争したとき、アイミリオス・パウロス〔Aemilius Paulus〕は神託を得た。貴顕のひとりで、戦車もろとも大地の裂け目に隠された者が見えるところに、祭壇を作れば勝利するだろうというものであった。3日後、ウゥアレリオス・トルクゥアトス〔Valerius Conatus〕は、神官の飾りを身につけていることを夢に見て(というのも、彼は占いの経験者だったから)、出征して、数多くの敵勢を殺害したが、地下に呑みこまれた。そこでアイミリオス〔Aemilius〕は祭壇を築いて勝利し、160頭の塔を積んだ像をローマに送り届けた。祭壇が占ったのは、ピュッロスが敗北したまさしくその時であった。そう、クリトラスが『エーペイロス誌』の第3巻(FHGr. IV 372)の中に記録している。
[7]
エウボイア人たちの王ピュライクメースがボイオーティア人たちと戦争した。これにヘーラクレースが、まだ若かったが、勝利した。そして、ピュライクメースを若駒に結びつけて、2つの部分に引き裂き、埋葬せず棄てた。その場所は、「ピュライクメースの若駒たち」と命名された。ヘーラクレイオス河のそばにあり、水を飲む馬たちの嘶き声をあげる。そう、……『河川について』第3巻の中に。
ローマ人たちの王トゥッロス・オスティリオス〔Tullus Hostilius〕は、アルバノス人たち その王はメティオス・プゥペティオス〔Metius Fufetius〕である と戦争したが、決戦を何度も引き延ばした。そこで敵勢は、相手は劣勢とみて、宴会目的の食事をした。酒に酔ったところに攻め寄せて、王を二頭の若駒に軛のようにつないで引き裂いた。そう、アレクサルコスが『イタリア誌』の第4巻(FHGr. IV 298)の中に。
307."D".1
[8]
ピリッポスは、メトーネーとオリュントスを略奪することを望んで、サンダノス河を対岸に渡ることを強行したが、オリュントス人たちの中の、名をアステールという者に片目を射られた。彼〔アステール〕はこう云ったのだ。
「アステールがピリッポスに、必死の矢弾を送る」。
彼は味方のもとに泳ぎ帰って助かったが、片目を失った。そう、カッリステネースが『マケドニア誌』の第3巻(Scr. rer. Alex. M. ed. M. fr. 42)の中に。
トゥスコイ人たちの王ポルシナスは、テュムブリス〔ティベル〕河の対岸に出征し、ローマ人たちと戦争し、穀物供給路をその中央を占領して飢餓で前述の者たちを責め苛んだ。しかしホラティオス・カトロス〔Horatius Cocles〕が将軍として挙手採決され、木製の橋を占拠して、異邦人の大軍をくいとめた。しかし敵勢によって優勢に立たれたので、橋を破壊するよう部下たちに下知し、異邦人の大軍が渡ろうと望んでいたのを阻害した。しかし矢弾に片目を撃たれ、河の中に身を投じて味方のところに泳ぎ渡った。そう、テオティモスが『イタリア誌』の第2巻(FHGr. IV 517)の中に。
[9]
イーカリオス これにディオニューソスが客遇された に関する神話。***そう、エラトステネースが『エーリゴネー』の中で。
クロノスは、農夫 これには美しい娘クレイトリアがいた に客遇されたとき、これを暴行し、イアノス、ヒュムノス、パウストス、ペーリクスという息子たちをもうけた。
さて、葡萄酒を飲むことの仕方と、葡萄の株を〔栽培する〕仕方を〔イーカリオスに〕教えて、隣人たちにも分かち合うよう要請した。それを実行したところ、飲んだ者たちは、いつもと異なり、必要以上に深い眠りに陥った。そこで彼らは毒を盛られたと思い、石打ちによってイーカリオスを殺してしまった。娘の子たちは、落胆して、輪縄でいのちを落とした。しかし疫病がローマ人たちを見舞ったとき、クロノスの怒りと、不法に破滅させられた者たちの霊を宥めるなら、終熄するだろうと、ピュートーに坐すかた〔アポッローン〕が託宣した。そこで、貴顕のひとり、ルゥタティオス・カトロス〔Lutatius Catulus〕がタルペイオス山の近くに横たわる神域を神のために建設し、娘の子どもたちにちなんで、あるいは、1年は四季であるゆえに、四面の祭壇を築き、イアヌゥアリオン〔月〕を定めた。また、クロノスは、彼ら全員を星座とした。そして彼らは「葡萄摘みの先触れをする者たち」と呼ばれるが、イアノスの方は、先に昇るのである。この星は乙女座の足先に現れる。そう、クリトラオスが『天象論』の第4巻(FHGr. IV 372)の中に。
308."B".1
[10]
ペルシア人たちがギリシアを侵略したとき、ラケダイモーン人たちの将軍パウサニアースは、クセルクセースから金500タラントンを受け取り、スパルタを裏切ろうとした。しかし彼の父アゲーシラオスが見破り、アテーナー・カルキオイコス〔銅の家に坐すアテーナー〕の神殿まで追跡して、神殿の扉を日干し煉瓦で塞いで、飢餓で殺した。さらに母親は、葬ることもせず棄てた。そう、クリュセルモスが『歴史』の第2巻(FHGr. IV 361)に。
ローマ人たちがラティノイ人たちと戦争して、将軍としてポプリオス・デキオスを挙手採決した。ところで、貴顕の中に貧しい若者、その名をカッシオス・ブルゥトスという者がいて、規定の報酬目的に、夜間、扉を開けようとした。しかし見破られて、アテーナー・アウクシリアリアの神殿に逃げこんだ。彼の父カッシオス・シグニペル〔Cassius Signifer〕は、閉鎖して、飢餓で破滅させ、埋葬せずに棄てた。そう、クレイトーニュモスが『イタリア誌』の***の中(FHGr. IV 366)に。
[11]
ペルシア人ダレイオスがグラウニコス河畔でアレクサンドロスと戦い、太守7人と、大鎌付き戦車502を失いながらも、次の日、決戦しようとした。しかし息子のアリオバルザネースが、アレクサンドロスに共感していたので、父親を裏切ると約束した。父親は立腹して、首を刎ねた。そう、クニドス人アレータデースが『マケドニア誌』の第3巻(FHGr. IV 316)の中に。
308."D".1
ブルゥトスは、満場一致で執政官に挙手採決され、僭主に成り上がったヒュペレーパノス〔「高慢ちき」の意〕・タルキュニオスを追放した。後者はトゥスコイ人たちのところに行き、ローマ人たちに開戦した。ブルゥトスの息子たちは、父親を裏切ろうとした。だが、手に落ちて、首を刎ねることを****。そう、ミーレートス人アリステイデースが『イタリア誌』(FHGr. IV323)の中に。
[12]
テーバイ人たちの将軍エパメイノーンダスは、ラケダイモーン人たちと戦闘状態にあったが、執政官選挙が行われる時期になったので、祖国に帰ったが、その際、子のステーシムブロトスに、交戦することなきよう下知した。ラケダイモーン人たちはその不在を聞き知って、若者を男らしくないと罵った。彼は憤慨して、父親の言いつけを忘れ、会戦して勝利した。父親は不機嫌になり、花冠をさずけたうえで、首を刎ねた。そう、クテーシポーンが『ボイオーティア誌』の第3巻(FHGr. IV 375)の中に記録している。
ローマ人たちがサムニタイ人たちと開戦し、最高司令官〔Imperiosus〕と添え名されるマッリオスを〔将軍に〕挙手採決した。この人物が、執政官選挙のためにローマに行く際、息子に交戦することなきよう言いつけた。サムニタイ人たちは聞き知って、悪罵で若者を軽蔑した。彼は挑発されて、勝利した。しかしマッリオスは首を刎ねた。これこそ、ミーレートス人アリステイデース(FHGr. IV 323)が記録しているところである。
[13]
ヘーラクレースは、イオレーとの婚姻を得損なったため、オイカリアを略奪した。イオレーは、城壁から身を投げた。しかし、風によって衣裳がふくらんだため、自分は何も蒙らずにすむ結果となった。これこそ、マッロス人ニキアース(FHGr. M IV 463=Iac. I 60 F 1 K. p. 534)が記録しているところである。
ローマ人たちがトゥスコイ族と開戦して、ウゥアレリオス・トルクゥアトス〔Valerius Torquatus〕を〔将軍に〕挙手採決した。この人物は、王の娘 その名はクルゥシア を見て、トゥスコイ王にその娘を要求したが、得られなかったので、都市を掠奪した。クルゥシアは城塔から身を投げた。しかしアプロディーテーの神慮で、衣裳が風をはらんで無事地上に助かった。これを将軍は汚し、これらすべての事情で、ローマ人たち公の判決で、イタリアの前にあるコルシカ島に追放された。そう、テオピロスが『イタリア誌』の第3巻(FHGr. IV 515)の中に。
[14]
ポイノイ〔カルタゴ〕人たちとシケリア人たちとがローマ人たちに対して攻守同盟を締結したとき、将軍メテッロスは、ヘスティアーに対してのみ供犠しなかった。そこでこの女神は、艦隊に順風を吹き送らなかった。占い師のガイオス・イオウゥリオス〔Gaius Julius〕は、娘を供犠に差し出せば、止むだろうと云った。そこで彼は、やむをえず、娘のメテッラを差し出した。するとヘスティアは、憐れんで、若い牝牛を代わりに受け取って、彼女をラヌゥイオスに連れ行き、そこで崇拝されている大蛇の女祭司に任命した。そう、ピュトクレースが『イタリア誌』の第3巻(FHGr. IV 488)の中に。
ボイオーティアのアウリスでは イピゲーネイアに関して同じようなことを、メニュッロスが『ボイオーティア誌』の第1巻(FHGr. IV 452)の中に記録している。
[15]
ガラタイ人たちの王ブレンノスは、アシアを略奪するため、エペソスに攻め入ったが、処女デーモニケーに恋した。すると彼女は、ガラタイ人たちの腕輪や飾りを自分にくれたら、いっしょになることと、エペソスを裏切ることをも約束した。そこで彼は、将兵たちに、持っている金を、黄金好きな女の膝に投げ入れるよう要求した。彼らが実行したとき、多量の黄金にせいで彼女は生きながら埋めつくされてしまった。これこそ、クレイトポーンが『ガラタイ誌』の第1巻(FHGr. IV 367)の中に記録しているところである。
タルペーイアは、器量よしの処女たちのひとりで、カピトーリオンの番人であったが、彼ら〔サビーノイ人たち〕が身につけている首飾りを報酬としてくれるなら、タルペーイオン山への入場を許そうと約束した。そこでサビーノイ人たちが実行したので、生きたまま埋めることになった。そう、アリステイデースが『イタリア誌』(FHGr. IV 323)の中に。
309."C".10
[16]
テゲアタイ人たちとペネアタイ人たちの間に長期間の戦争が続いたとき、3つ子の兄弟を、勝利をかけた決戦に派遣することが決められた。そこで、テゲアタイ人たちはレークシマコスの子どもたちを、ペネアタイ人たちはデーモストラトスの〔子どもたち〕を差し遣わした。かくして戦闘が行われ、レークシマコスの2人が殺されたが、3人目は、その名をクリトラオスといったのだが、戦術によってデーモストラトスの子どもたち圧倒した。すなわち、みせかけの逃走を講じて、追跡者たちをひとりずつ亡き者にしたのである。こうして帰還したとき、他の人たちは喜びをとにしたが、妹デーモディケーだけは喜ばなかった。自分の許嫁デーモディコスを殺してしまったからだ。不当な扱いに憤慨してクリトラオスは、彼女を亡き者にした。だが、母親によって殺人のかどで訴えられたが、その告発からは無罪放免となった。そう、デーマラトスが『アルカディア誌』の第2巻(FHGr. IV 379=FGrHist. Iac. I 42 F 5)の中に。
ローマ人たちとアルバノイ人たちとが戦争して、三つ子を先陣として選び、アルバノイ人たちはクゥリアティオス家の者たちを、ローマ人たちはホーラティオス家の者たちを〔選んだ〕。戦闘が起こり、クゥリアティオス家の者たちは相手方の2人を亡き者にした。しかし生き残った者が、味方の方に逃げるふりをして、追跡者たちをひとりずつ殺した。かくてみなが喜んだ中で、ひとり妹ホーラティアのみは、許嫁クゥリアティスを亡き者にした彼といっしょに喜ぶことをしなかった。そこで彼は妹を殺した。そう、ミーレートス人アリステイデースが『イタリア誌』(FHGr. IV 323)の中で謂っている。
[17]
イーリオーンにあるアテーナーの神殿が炎上したとき、イーロスは駆けこんで、天から降ったパッラディオンをひっつかみ、盲目となった。ひとに見られることが許されていなかったからである。しかし、後に宥めて、視力を回復した。そう、デルキュッロスが『都市建設論』の第1巻(FHGr. IV 587)の中に。
貴顕のひとりメテッロスが町外れへと進軍しているとき、翼ではたいた鴉たちのせいで、〔進軍を〕中断した。そして、この前兆を恐れて、ローマに引き返した。そしてヘスティアの神域が燃えているのを見て、パッラディオンをひっつかみ、盲目となった。しかし後に、宥めることで視力を回復した。そう、ミーレートス人アリステイデースが『イタリア誌』(FHGr. IV 323)の中に。
[18]
トーラキア人たちがアテーナイ人たちと戦争したとき、もしもコドロスに危害を加えなければ、勝利するだろうという神託を受けた。そこで彼は、鎌をとると、貧しい身なりをして敵勢のところに赴き、ひとりを殺し、他の者によって亡き者にされ、かくしてアテーナイ人たちは勝利した。そう、ソークラテースが『トラーキア誌』の第2巻(FHGr. IV 504)の中に。
ローマ人ポプリオス・デキオスはアルバノイ人たちと戦争したとき、もし死ねば、ローマ人たちに力を付与するという夢を見た。そこで真ん中に行き、多数を殺したうえで、亡き者にされた。さらに、彼の息子デキオスも同じく、ガッロイ人たちとの戦争の際にローマ人たちを救った。そう、ミーレートス人アリステイデース(FHGr. IV 323)が。
[19]
生まれはシュラクゥサイ人キュアニッポスは、ディオニューソスに対してのみ供犠しなかった。そこで神は怒って、酒乱に陥らせた、かくて暗いところで娘キュアネーを暴行するに及んだ。しかし彼女は〔相手の〕指輪を奪い取って、乳母に与えた。認知の証拠になるようにとである。さて、疫病が蔓延し、ピュトーに坐す方〔アポッローン〕も、不敬者は厄除けの神々のために喉を掻き切らねばならないと云ったが、他の人たちは神託〔の意味〕がわからなかったが、キュアネーは悟って、〔父親の〕髪の毛をつかんで引っぱり出し、みずからが父親の喉を掻き切り、我が身の喉を掻き切った。これこそ、ドシテオスが『シケリア誌』の第3巻(FHGr. IV 401)の中に。
ローマでディオニューソス祭が挙行されたとき、生来の水呑〔禁酒家〕アルゥンティオスは、この神の力を軽視した。そこで神は酒乱に陥らせたので、人目もわかたぬ夜、娘メドゥッリナを暴行した。しかし彼女は指輪から親子関係を知り、年齢よりも賢明な計画を練り、父親を酩酊させ、花冠を戴かせたうえで、アストラペーの祭壇に連れ行き、涙ながらに、処女に対する卑劣漢亡き者にしたのであった。そう、アリステイデースが『イタリア誌』の第3巻(FHGR. IV 321)の中に。
310."D".1
[20]
エレクテウスがエウモルポスと戦争したとき、娘をあらかじめ供犠すれば勝利することを聞き知って、妻プラクシテアーと意思疎通したうえで、娘ッ子をあらかじめ供犠した。エウリピデースが『エレクテウス』(Nauck 2 p. 464 sqq.)の中に言及している。
マリオス〔Marius〕がキムブロイ人たちと戦争をして、劣勢にあったとき、娘を先に供犠すれば勝利するだろうということを夢に見た。たしかに彼にはハカルプゥルニアがいた。そこで市民たちを自然〔の情〕に優先させて、勝利した。今もなお、ゲルマニアには2つの祭壇があり、これらはまさに〔1年の〕あの時機に、喇叭の響きをたてる。そう、ドーロテオスが『イタリア誌』の第4巻(Script. rer. Alex. ed. M. 156, 3)の中に。
310."E".1
[21]
キュアニッポスは、生まれはテッサリア人、しょっちゅう狩りに出かけるのがならいであった。彼の新妻は、彼がしばしば森の中に泊まるので、他の女たちと馴染みを重ねているのかと猜疑して、キュアニッポスの跡をつけた。そして木立の茂みに身を潜めて、何が起こるか窺った。しかし枝が揺れたので、犬たちは獣だと思って突進し、夫を愛する女を言葉なき生き物のようにずたずたに引き裂いた。キュアニッポスは、思いがけない出来事の目撃者となって、おのれの喉を掻き切った。そう、詩人パルテニオスが。
イタリアの都市シュバリスに、美しさの点で衆目の的たる若者アイミリオスがいたが、彼は狩猟好きであった。しかし新妻は、別の女と同衾していると思って、谷間に踏みこんだ。だが木々が揺れたので、犬たちが跳びかかって、ずたずたに引き裂いた。彼は自害して果てた。そう、クレイトーニュモスが『シュバリス誌』の第2巻(FHGr. IV 366)の中に。
[22]
キニュラースの娘スミュルナーは、アプロディーテーの怒りのせいで、生みの親を恋し、恋情の止みがたさを乳母に打ち明けた。彼女〔乳母〕は策略によって主人を仕向けた。すなわち、隣人の処女が彼に恋し、公然と近づくことを恥ずかしがっていると謂ったのだ。かくして彼は同衾した。しかし、あるとき、恋する女を知りたくなって、明かりを求め、見て、剣を取って、淫奔な女を追いかけた。しかし彼女は、アプロディーテーの神慮により、同名の樹木〔没薬〕に変身した。これは、テオドーロスが『変身譚』(FHGr. IV 513)の中に。
ウゥアレリア・トゥスクラナリア〔Valeria Tusculanaria〕は、アプロディーテーの怒りによって、父親のウゥアレリオスを恋し、乳母に相談した。そこで彼女〔乳母〕は主人を策略にかけ、面と向かって交わることを恥ずかしがっている、しかも隣人の処女なのだと云った。じっさい、酒に酔っていたので、父親は明かりを求めた。しかし乳母は先に起こした。彼女が田舎に行ったのは、妊娠していたからである。時には、崖から身を投げたが、胎児は生きていた。出戻ったが、妊娠は確実となり、時満ちて生んだのが、アイギパーン〔「山羊のパーン」つまりパーンのこと〕、ローマ人たちのことばでシルゥアノス〔シルウァーヌス(Silvanus)〕であった。で、ウゥアレリオスは絶望し、同じ崖から身を投げた。そう、ミーレートス人アリステイデースが『イタリア誌』の第3巻(FHGr. IV 321)の中に。
[23]
イーリオンの略奪の後、ディオメーデースはリビュエー〔の海岸〕に打ち上げられた。そこの王リュコスは、外人を父親アレースに供犠するという仕来りを持っていた。しかし娘カッリッロエーがディオメーデースに恋し、父親を裏切って、ディオメーデースを助けた。縛めを解いたのだ。しかし彼は親切にしてくれた女を見捨てて出航してしまった。どこで彼女は輪縄によって命終した。そう、イオバースが『リュビア誌』の第3巻(FHGr. III 472)の中に。
貴顕階級の1人カルプゥルニコス・クラッソス〔Calpurnius Crassus〕は、レーグゥロス〔Ragulus〕といっしょに出征したが、ガライティオンという名のとても攻略しがたい砦を落とすために、マッシュロイ人たち攻撃に派遣されたのだった。しかし捕虜として捕まり、クロノスに供犠されそうになった。しかし、王の娘ビサルティアが恋に落ち、父親を裏切り、彼の者を勝利者にさせた。だが彼が帰還したとき、乙女は自分の頸を掻き切った。そう、ヘーゲーシアナクスが『リビュア誌』の第3巻(FHGr. III 70)の中に。
[24]
プリアーモスは、〔末子〕ポリュドーロスを、黄金を持たせて、トラーケーの義理の息子ポリュメーストールのもとに送り出した。都市〔イーリオン〕が略奪されことが近かったからである。しかし後者は、〔イーリオン〕陥落後、その子を殺した。黄金を手に入れるためである。しかし〔母親の〕ヘカベーがその場所にたどり着き、知略をめぐらせて黄金を与えるふりをして、女捕虜たちとともに手ずから盲目にさせた。そう、悲劇作家エウリピデースが〔『ヘカベー』の中で〕。
アンニバース〔Hannibal〕がカムパニア人たちを荒らしたとき、ルゥキオス・ウゥムブリオス〔Lucius Tiberis〕は息子のルゥスティコス〔Rustius〕を、財産を持たせて、義理の息子であるウゥアレリオス・ゲスティオス〔Valerius Gestius〕のもとに送り出した。しかし彼〔アンニバース〕が勝利した。するとこのカムパニア人は、金銭愛から、自然の義を踏み外した。その子を殺したのだ。ウゥムブリオスは、田舎を通過していて、わが子の身体に行き合い、宝を示すふりをして、義理の息子を呼びに遣った。やって来たところを盲目にし、十字架にかけた。そう、アリステイデースが『イタリア誌』の第3巻(FHGr. IV 321)の中に。
[25]
ポーコスはアイアコスにとってプサマテーによってもうけた子であり、彼に熱愛されていたが、テラモーンが狩猟に連れて行った。そして猪が現れたとき、憎まれていた〔異母弟〕を狙って槍を放ち、殺した。しかし父親は追放した。そう、ドーロテオスが『変身譚』の第1巻(Script. rer. Alex. ed. M. 156, 4)の中で。
ガイオス・マクシモス〔Gaius Maximus〕は、シミリオスとレーソスという息子たちを持っていた。後者は〔アメリアから婚姻によってもうけた子である〕。このレーソスは、狩りをしているときに、兄弟を殺し、立ち帰って、災禍は運命のせいで、裁判に当たらないと云った。しかし彼〔父親〕は真実を知って、追放した。そう、アリストクレースが『イタリア誌』の第3巻(FHGr. IV 329)の中に。
312."A".1
[26]
アレースはアルタイアと同衾し、メレアグロスをもうけた***そう、エウリピデースが『メレアグロス』の中で。
セプティミオス・マルケッロス〔Septimius Marcellus〕は、シルゥイア〔Silvia〕を娶ったが、たいていは狩猟に没頭していた。そこで新妻を、牧童に身をやつしたアレースが暴行し、妊娠させて、自分が何者かを認め、槍を与えた。生まれてくる子の一世代はこれの中に保管されていると謂ってである。こうして、セプティミオスの子としてトゥスキノスを出産した。さて、マメルコスは善き稔りのために神々に供儀したが、ただデーメーテールのみはないがしろにした。そこで女神は猪を送った。しかしトゥスキノスは多くの者たちを集めて、狩りをし、〔猪を〕亡きものにして、その頭と毛皮を婚約者の女に贈った。しかし母親の兄弟たちのスキュムブラテースとムゥティアスが、その乙女から奪い取った。彼は怒って、親族たちを亡き者にした。そこで母親は、その槍を焼き捨てた。そう、メニュッロスが『イタリア誌』の第3巻(FHGr. IV 452)の中に。
[27]
アイアコスとエンデーイスとの子テラモーンは、エウボイアに赴き、〔アルコトウスの娘エリボイアを暴行し〕夜陰にまぎれて逃亡した。しかし父親は感づいて、市民たちの一人を〔下手人と〕猜疑し、乙女を海に沈めるよう、槍持ちたちの一人に与えた。しかし彼は憐れんで、売り払った。〔彼女の乗った〕舟がサラミスに寄港したとき、テラモーンが買い取った。彼女はアイアクスを生んだ。そう、クニドス人アレータデースが『島民誌』の第2巻(FHGr. IV 316)の中に。
312."C".1
ルゥキオス・トロースキオス〔Lucius Troscius〕は、パトリスによって娘プローレンティア〔Florentia〕をもうけていた。これを、ローマ人カルプゥルニオス〔Calpurnius〕が堕落させた。そこで彼〔父親〕は乙女を海に沈めるよう引き渡した。しかしその槍持ちに憐れまれ、売却された。運命によって、舟がイタリアに寄港したとき、カルプゥルニオスが購入し、彼女からマルコス・トゥスコスをもうけた。そう、***〔欠損〕
[28]
テュッレーニアに住む人たちの王アイオロスは、アムピテアーから6人の娘たちと、同数の息子たちとをもうけた。末っ子のマカレウスは、恋情から、ひとりの妹を堕落させたが、この小娘は妊娠した。そのうえ露見して〔ejmfanei:saと読み替える〕、父親によって剣を送りつけられ、〔みずからを〕不法と判断して、自決して果てた。マカレウスも同様にした。そう、ソークラテースが『テュッレーニア誌』の第2巻(FHGr. IV 504)の中に。
パピリオス・ウゥオルゥケル〔Papirius Tolucer〕はイウゥリア・プゥルクラ〔Julia Pulchra〕を娶り、6人の娘たちと、同数の息子たちをもうけた。その中の長男パピリオス・ローマノスが、妹カヌゥレーイア〔Canulia〕に恋し、妊娠させた。しかし父親の知るところとなり、娘に剣を送った。彼女は自分を亡き者にした。ローマノスも同じ行為に及んだ。そう、クリュシッポスが『イタリア誌』の第1巻(FHGr. IV 362)の中に。
[29] デーモストラトスの息子エペソス人アリストーニュモスは、女を憎んでいたが、牝驢馬とは交わっていた。そのうちその〔牝驢馬〕がこのうえなく器量よしの、名をオノスケリスという乙女を生んだ。そう、アリストクレースが『パラドクサ』の第2巻(FHGr. IV 330)の中に。
プゥルゥイオス・ステッロスは、女を憎み、牝馬と交わっていた。そのうちこの〔牝馬〕が器量よしの乙女を生み、エポナと名づけた。馬たちを保護する女神である。そう、アゲーシラオスが『イタリア誌』の第3巻(FHGr. IV 292)の中に。
[30]
サルディス人たちがスミュルナ人たちと戦争して、市壁のまわりに布陣し、使節たちを通じて、女たちが自分たちと同衾することに同意しないかぎり、撤退することはないと言い送った。そこでスミュルナ人たちが、やむをえず悪い目に遭うことになりそうになったとき、眉目のよい女たちの中に召し使いの一人がいて、彼女が駆け寄って、主人ピラルコスに、自由人の女たちの代わりに女召し使いたちを着飾って、派遣するよう謂った。彼らは実際にそうした。相手方は、女召し使いたちによって腎虚して、攻略された。ここから、今でも、スミュルナ人たちのもとでは、祝祭は自由祭と言われる。このときは、女奴隷たちは自由人の飾りを身につける。そう、ドシテオスが『リュディア誌』の第3巻(FHGr. IV 401)の中に。
ガッロイ人たちの王アテポマロスがローマ人たちと戦争しているとき、女たちとの交合を許さぬかぎり、撤退はないと謂った。しかし相手方は、女召し使いたちの進言によって、女奴隷たちを派遣したので、異邦人たちは絶え間ない性交に腎虚して眠りに落ちた。しかしレータナは(彼女こそこれを進言した女性であった)、野生イチジクをつかんで市壁の上に登り、執政官たちに内通した。そこで彼らが攻め寄せて、勝利した。これにちなんで、女召し使いたちの祝祭とも呼ばれる。そう、ミーレートス人アリステイデースが『イタリア誌』の第1巻の中(FHGr. IV 320)に。
313."B".1
[31]
アテーナイ人たちがエウモルポスと開戦し、食糧補給が充分でなかったとき、公金の管理官ピュランドロスは、度量衡をひそかに切り下げて、倹約に努めた。しかし土地の者たちは、裏切り者のごとくに猜疑して、石打に処した。そう、カッリステネースが『トラーキア誌』の第3巻(Script. rer. Alex. ed. M. 30, 44)の中に。
ローマ人たちがガッロイ人たち相手に戦って、食糧供給が充分でなかったとき、キンナス〔Cinna〕は民衆に対する穀物の量目ひそかに切り下げた。そこで、ローマ人たちは彼を王制主義者として石打に処した。そう、ミーレートス人アリステイデースが『イタリア誌』の第3巻の中(FHGr. IV 322)に。
[32]
ペロポンネーソス戦争の時に、オルコメノス人ペイシストラトスは、生まれのよい者たちは憎み、貧しい者たちは愛した。そこで、評議会の議員たちは、殺そうと諮り、彼をばらばらにして、懐に入れ、大地をこすっておいた。しかし民衆派の群衆が、察知して、評議会に押しかけた。だが、王の若い方の息子トレーシマコスが、申し合わせを知っていて、会議場から群衆を引き下がらせた。父親がピサ山の方に急いで運ばれるのを見た、人間よりも大きな姿をしていた、と云ってである。じつにそういうふうにして群衆は騙された。そう、テオピロスが『ペロポンネーソス戦争』の第2巻(FHGr. IV 515)の中に。
近隣諸都市との戦争のせいで、ローマ人たちの元老院は民衆に対する穀物配給を廃止した。しかし王のロームロスは我慢ならず、民衆に分配した。そして、大人たちの多くを罰した。そこで彼らは、元老院会議場の中で彼を殺害し、ばらばらにして、懐に入れた。しかしローマ人たちが松明をもって、元老院に馳せ参じた。しかし貴顕のひとりアイリオス・プラーオスがこう云った、ロームロスがどんな人間よりも大きな神となったのを見た、と。そこでローマ人たちは、信じて、引き上げた。そう、アリストブゥロスが『イタリア誌』の第3巻の中(FHGr. IV 329. Jac. I 54 F 1 C p. 533)に。
[33]
タンタロスとエウリュアナッサとの子ペロプスは、ヒッポダメイアを娶り、アトレウスとテュエステースとをもうけた。さらに、ニンフのダナイスからはクリューシッポスを〔もうけ〕、これを嫡出の子たちよりも熱愛した。また、テーバイ人ラーイオスは、欲情して、彼を攫った。そしてテュエステースとアトレウスに捕らわれたものの、恋情ゆえと、ペロプスの憐れみを得た。ところがヒッポダメイアは、彼を亡き者にするよう、アトレウスとテュエステースを説得した。〔ペロプスが〕王位の継承者となることを知っていたからだ。しかし彼らが拒んだので、彼女は手を汚した。つまり、深夜、ラーイオスが寝ているとき、その剣を抜いて、クリューシッポスを傷つけ、その剣を刺したままにしておいたのだ。そこでラーイオスは、その剣のせいで怪しんだが、半死半生のクリューシッポスが真実を認めたので、救われた。そこで彼は埋葬し、ヒッポダメイアを放逐した。そう、ドシテオスが『ペロプスの後裔』の中(FHGr. IV 402)に。
313."F".1
ウゥイビオス・ポリアクスはヌゥケリアを娶り、この女から子ども2人をもうけた。しかし、解放奴隷の女からも、美しさの点で衆目の一致するピルモス〔Firmus〕をもうけていて、これを嫡子たちよりも深く愛していた。そこでヌゥケリアは、先に生まれた子に対する敵愾心から、わが子たちを説得して殺害させようとした。しかし彼らは敬虔にも拒否したので、みずから殺人を実行した。つまり、夜間、親衛隊員の剣を抜き、時機を見て、寝ている相手を傷つけ、剣を後に残して置いたのだ。そこで親衛隊員が疑われたが、その子が真実を言った。彼〔ペロプス〕はこれを埋葬し、女を追放刑に処した。そう、ドシテオスが『イタリア誌』の第3巻の中(FHGr. IV 401)に。
[34]
テーセウスは、真実にはポセイドーンの子であり、アマゾーン女人族のヒッポリュテーからは、ヒッポリュトスを得たが、継母として、ミーノースの娘パイドラーと再婚した。この女は、先に生まれた継子に対する欲情に陥り、乳母を言いやった。しかし彼はアテーナイを後にして、トロイゼーンにたどり着き、狩猟に熱中した。かくて、放埒な女は目論見を得損なうや、思慮深い相手に対して偽りの書簡を記し、輪縄に生を吊した。で、テーセウスは〔書簡を〕信じ、ヒッポリュトスを破滅させるよう、ポセイドーンに懇願した。それは、彼〔ポセイドーン〕から得た3つの祈願ひとつであった。そこで彼〔ポセイドーン〕は、戦車に乗って海岸を走っていた彼〔ヒッポリュトス〕に牡牛を送り、馬たちを驚かせた。馬たちはヒッポリュトスを轢き殺した。
ラウレントゥム人コムミニオス・スゥペルステースは、ニンフのエゲリアから息子コムミニオスをもうけ、継母ギンディカと再婚した。この女は、先に生まれた継子に恋し、得損なうや、輪縄で生を終えた。偽りの書簡を残して。そこでコムミニオスは告発状を読み、義憤を信じ、ポセイドーンを呼び出した。そこで彼〔ポセイドーン〕は、その子が戦車に乗っているときに、牡牛を示し、かくて馬たちが若者を引きずって破滅させた。そう、ドシテオスが『イタリア誌』の第3巻(FHGr. IV 400)の中に。
[35]
疫病がラケダイモーンに蔓延したとき、神が、生まれよき処女を毎年供犠すれば、やむだろうと託宣した。しかしあるとき、ヘレネーが籤にあたり、飾り立てられて連れ出されたとき、鷲が舞い降り、剣をひっさらい、牛飼いたちのところに運び、若い牝牛めがけて落とした。ここから、彼らは処女殺しをやめた。そう、アリストデーモスが『神話集成』第3巻(FHGr. M. III 311. FGH Jac. I 22 F 1a K. 498)の中に。
314."D".1
疫病がパレリオイ人たちに蔓延し、破局が生じたとき、処女をヘーラーに年々供犠すれば、恐るべき事態はやむだろうという神託が与えられた。そこで、この迷信がずっと守られていたが、いわゆるウゥアレリア・ルゥペルカ〔Valeria Luperca〕が籤に***剣で喉を掻き切ろうとしたとき、鷲が舞い降りてそれを引っさらい、槌の付いた小さな笏杖を、犠牲の捧げ物の上に置き、剣の方は、神殿の傍に放牧されていた若い牝牛の方に投げた。そこで処女は考えて、牝牛を供犠し、槌は取り上げて家々を巡り歩き、弱った人たちを軽く叩いた。ひとりひとりに、元気になるように言って。ここから、今も、この秘儀は実行されている。そう、アリステイデースが『イタリア誌』の第19巻(FHGr. IV 322)の中に。
[36]
ニュクティモスとアルカディアとの娘ピュロノメーは、アルテミスといっしょに狩りをすることを好んだ。しかし、アレースが牧人に身をやつして、妊娠させた。そして彼女は双子の子を生んだが、父親を恐れて、エリュマントスに棄てた。しかし彼らは、神慮によって、危険なく歩きまわって、洞のある樫の樹のなかに導かれた。すると隠れ住んでいた牝狼が、自分の仔たちは流れの中に棄て、その嬰児たちに乳首をあてがった。だが、牧人のテュリポスの目撃するところとなって、子どもたちを拾い上げ、自分の子として育て、ひとりはリュカストス、もうひとりはパッラシオスと呼び、彼らはアルカディア人たちの王位を継承する者となった。そう、ビュザンティオン人ゾーピュロスが『歴史』の第3巻(FHGr. M. IV 531)の中に。
アムゥリオスは兄弟のノミトールに対して僭主的にふるまい、その息子アイニトスは、狩りにかこつけてこれを亡き者とし、娘シルゥイアあるいはイーリアの方は、ヘーラーの女祭司とした。これをアレースが妊娠させた。かくて彼女は双子を生み、そして僭主に真実を白状した。彼は恐れ、両者を溺死させようとした。つまり、テュムブリス河の堤から投げたのである。しかし彼らは、ある場所に運ばれた。そこは、新生児を産んだ牝狼がひそんでいるところだった。そして、〔牝狼は〕仔どもたちは棄て、嬰児を育てた。ところが牧人のパウストスが目撃するところとなって、子どもたちを育てあげ、ひとりはローモス、もうひとりはロームロスと命名した。ローマの建設者である。そう、ミーレートス人アリステイデースが『イタリア誌』(FHGr. M. IV 323)の中に。
[37]
イーリオンの攻略後、アガメムノーンは、カサンドラもろとも亡き者にされた。しかしオレステースは、ストロピオスのもとで育てあげられ、父親の殺人者たちに報復した。そう、ピュランドロスが『ペロポンネーソス戦争』の第4巻(FHGr. M. IV 486)の中に。
パビオス・パブリキアノスは、大パビオスの同族であるが、サウニタイ人たちの母市トゥクシオンを略奪し、彼らのもとで崇拝されていた勝利をもたらすアプロディーテー〔ニケーポロス・アプロディーテー〕をローマに送った。この人の妻ペトローニアは、[ペトローニオス・]ウゥアレンティノスという名の、眉目よきある若者と姦通し、夫を謀殺した。しかし、〔娘の〕パビアは、まだ幼かった弟パブリキアノスを危難から救い、養育してくれる人のところにひそかに送った。かくて若者が成人し、母親とその姦夫を殺したが、元老院によって無罪放免された。そう、ドシテオスが『イタリア誌』の第3巻の中(FHGr. IV 401)に記録している。
[38]
ブーシーリスは、ポセイドーンと、ネイロスの娘アニッペーとの子、通りがかった者たちを、みせかけの歓待をして、供犠するをならいとしていた。しかし、命終した者たちの義憤(nevmesiV)が彼を来襲した。すなわち、ヘーラクレースが押しかけてきて、棍棒で撲殺したのだ。そう、サモス人アガトーンが(FHGr. IV 291)。
ヘーラクレースが、ゲーリュオーンの牛たちを追い立てながら、イタリアに通りがかり、王パウノスに客遇された。彼〔パウノス〕は、ヘルメースの子で、外人たちを生みの父親に供犠するをならいとしていた人物である。だが、ヘーラクレースに手をかけようとして、亡き者にされた。そう、デルキュッロスが『イタリア誌』の第3巻(FHGr. IV 387)の中に。
[39]
アクラガースの僭主パッラリスは、通りがかった外人たちを、むごたらしく痛めつけ折檻するのがならいだった。そこで、銅細工師の術知をもったペリッロスが、青銅の若い牝牛をこしらえて、王に与えた。外人たちをこれの中で生きながら焼くようにと。しかし、彼はこの時だけは、義人となり、彼を〔この責め具の中に〕投げこんだ。かくて、小牛は唸り声をあげたように思われた。そう、***『因縁譚』の第2巻の中に。
シケリアの都市アイゲステーに残忍な僭主アイミリオス・ケンソーリノスという者がいた。この人物は、より新奇な責め具を収賄していた。さて、アッルゥンティオス・パテルクゥロス〔Arruntius Paterculus〕という1人の男が、青銅の馬を製作して、連中を投げこめるよう、前述の男に贈り物として贈った。しかし、彼はこの時は初めて、法にかなった心変わりをして、贈与者を先に投げこんだ。他人のために作った責め具を、自分が最初に蒙るように。[この男を捕らえて、タルペーイオン山から投げ落とした。]そして、むごたらしく王支配する者たちは、あの者にちなんでアイミリオス派と命名されると思われている。そう、アリステイデースが『イタリア誌』の第4巻(FHGr. IV 322)の中に。
[40]
アレースとステロペーとの子エウエーノスは、オイノマオスの娘アルキッペーを娶って、娘メルペーッサをもうけ、これに処女を守らせた。しかし、アパレウスの子イーダースが見つけて、合唱舞踏の中から引っさらって逃亡した。そこで父親が追跡したが、捕らえられず、リュコマース河に身を投じ、不死となった。そう、ドシテオスが『アイトーリア誌』の第1巻(FHGr. IV 401)の中に。
トゥスコイ人たちの王アニオスは、名をサリアという器量よしの処女を〔処女を守るよう〕監視していた。しかし貴顕階級出身のカテートスが、その処女が遊んでいるところを見て恋に落ち、その恋情を辛抱できず、引っさらって、ローマに連れて行った。そこで父親が追っ手をかけたが捕らえられず、ペレウゥシオン河に駈けこんだ。この河はアイノス河と変名された。他方、カテートスはサリアと同衾して、ラティノスとサリオスをもうけた。これらから、最も生まれよき者たちがその氏族の血を引いている。そう、ミーレートス人アリステイデースと、アレクサンドロス・ポリュイストールが『イタリア誌』の第3巻(FHGr. II 230)の中に。
[41]
エペソスの男ヘーゲーシストラトスは、同族殺人をしでかして、デルポイに逃れ、いずこに住めばよいか神〔アポッローン〕にうかがった。するとアポッローンは、オリーヴの若枝で冠をいただいて合唱舞踏する農夫たちの見ゆるところ、と答えた。そこで、アシアのさるところに着くと、農夫たちが、オリーヴの葉を花冠にかぶって合唱舞踏しているのを観て、自分の都市を建設し、エライオーンと呼んだ。そう、サモス人ピュトクレースが『農夫論』の第3巻の中(FHGr. IV 488)に。
オデュッセウスとキルケーとの子テーレゴノスは、父親探しに遣わされるにあたり、農夫たちが花冠をかぶり、合唱舞踏しているのを目にするところに、都市を建設することを学んだ。かくて、イタリアのとあるところに着くと、田舎者たちが樫(pri:noV)の枝で花冠をいただき、合唱舞踏して愉しんでいるのを見て、都市を建設し、出来事にちなんでプリニストンと名づけたが、〔ローマ人たちは〕これを少し変えて、プライネストンと呼んでいる。そう、アリストクレースが『イタリア誌』の第3巻(FHGr. IV 330)の中に記録している。
2012.02.29. 訳了。