[底本]
TLG 0007
PLUTARCHUS Biogr. et Phil.
(A.D. 1-2: Chaeronensis)
145 1
0007 145
Fragmenta, ed. F.H. Sandbach, Plutarchi moralia, vol. 7. Leipzig:
Teubner, 1967: 13-138.
(Cod: 23,639: Biogr., Epist., Myth., Nat. Hist., Phil., Rhet., Theol.)
"1-2"."t"
エパメイノーンダスとスキーピオーン
1.1
Plut. Vit. Agesilai, c. 28.
『エパメイノーンダスについて』の中に書かれているとおり、数々の不吉な前兆が起こり、ラコーン人プロトオスもこの出征に反対したが、アゲーシラーオスは断念することなく、戦争を遂行した。
2.1
Plut. Vit. Pyrrhi, c. 8.
しかしアンニバース〔ハンニバル〕が、あらゆる将軍たちの中で、経験と技倆からみて、第1はピュッロス、第2はスキーピオーン、第3は自分だと表明したことは、『スキーピオーンについて』の中で書かれているとおりである。
"3-4"."t"
スキーピオーン・アープリカーノス〔小スキーピオー〕
3.1
Plut. Vit Ti. Gracchi, c. 21.
ローマ人たちが、彼以上に義しい人はいないと思い、彼以上に愛した者はいなかったスキーピオーン・アープリカーノスでさえ、もう少しのところで追放されて、民衆の好意を失うところであった。というのは、スキーピオーンが先ずぬマンティアでティベリウスの最期を聞いて、ホメーロスの詩句〔I, 47〕を引いて、
他の人でもああいう事を行った者は殺されるがいい
次に、ガーユスやフルウィウスの取り巻きたちが民会で、ティベリウスの最期についてどう考えるかと彼に尋ねたとき、3.10 あの人〔ティベリウス〕によって行事られた事に不満の答えをしたからである。それ以来、実際、民衆は、それ以前にはそんなことはしたことがなかったのだが、発言する彼を野次り倒し、彼自身も民衆を悪く言う羽目に陥った。このことについては、『スキーピオーンの生涯』の中にいちいち詳しく書かれている。
4.1
Plut. Vit. C. Gracchi, c. 10.
これより先〔前129年〕スキーピオーン・アープリカーノスが明白な原因もないのに命終し、その屍体一面に打撲と暴力の痕跡があると思われたことは、あの人の伝記に記したとおりであるが、フルウィウスはその政敵であったばかりでなく、その当日演壇の上でスキーピオーンを誹謗したために、これに非難の大部分が集まり、ガーユスにも嫌疑が向けられた。
"post 4"."t"
ティベリオス
"post 4".1
(v. fr. 182)
5."t"
ネローン伝
5.1
Plut. Vit. Galbae, c. 2.
すでに述べられたように、ティゲッリーヌスとともにアウレーの隊員となっていたとき、ニュムピディオス・サビーノスは……
ガーユス・オフォーニウス・ティゲッリーヌス。卑賎の生まれで、紀元39年皇帝カリグラの妹アグリッピーナと通じたために追放されたが、ネローの寵遇を得て親衛隊長となり、62年プラエフェクトゥス・プラエトーリオーに進み、68年ガルバの時に職を免ぜられ、オトーの時に自殺を遂げた。
ガーユス・ニュムフィデウス・サビーヌス。宮廷にいた女解放奴隷の息子で、カリグラ帝の胤といわれた。65年プラエフェクトゥス・プラエトーリオーの職に就き、68年ガルバに忠誠を誓ったのに、この皇帝に対して陰謀を企て、ティゲッリーヌスの辞職を強いて終身単独の隊長になろうとしたが、親衛兵に殺された。
"6-8"."t"
ヘーラクレース伝
6.1
Plut. Vit. Thesei, c. 29.
もっとも、ヘーラクレースが敵勢に屍体を引き渡した最初の人だということは、『ヘーラクレースについて』の中に書かれている。
7.1
Aulus Gellius, 1.1.
〔未訳〕
8.1
Arnobius, contra Gentes, 4. p. 144.
〔未訳〕
9."t"
ピンダロス伝
9.1
Eustathius, Prooem. Comm. Pindaricorum, c. 25.