前557頃生468/7没 抒情詩人,エピグラム詩人。
ケオス島出身。アナクレオーンと同様、ギリシア各地を広く旅しながら、自作の詩を売り出せる土地に逗留。伝承によると、アテーナイのヒッパルコスの宮廷からテッサリアを支配する一門のもとに身を寄せた後、ペルシア戦争の頃に再びアテーナイに戻り、最後にはシュラクーサイのヒエロン1世の宮廷に赴く。抒情合唱歌の方面では、その名は、主として葬送歌(深い哀しみがこもっていることで有名)および祝勝歌(ピンダロスおよびパッキュリデスがこの型の詩を受け継ぎ伝えている)などで記憶されている。またディテュランボス歌やパイアン歌や他の種類の抒情詩も手がけたと伝えられる。その作風は平明かつ優美だったらしい。テルモピュライで戦死したレオニダスとその配下のスパルタ兵を称えたー断片、漂流するダナエーとベルセウス母子を柔和な筆致で描いた断片もある。プラトーンの『プロタゴラス』では,「人間は真に高貴にはなれない」と訴えたシモーニデース作の詩をめぐって議論がかわされている。
エピグラム詩のすべてではないがほとんどは、墓碑銘その他の記念碑文として作成されたものである。ペルシア戦争の事跡を記念した詩数篇を含め、多数の作品が彼の名のもとに伝存しているが、その大半は真作かどうかある程度疑われている。また長いエレゲイオン調詩も書いたらしい。
【参考文献】
Lesky, Greek Literature :Lyra Graeca(Loeb)ii: Bowra, Lyric Poetry. (ダイアナ・バウダー『古代ギリシア人名事典』)
"1a, 8,F".1.1
ET. M. p. 479, 47 (TZETZ. Lyk. 355):
アテーナーがテッサリア人たちのところでイトーニスとかイトーニアとして語られるのは、イトーンという都市に由来する。系譜学者シモーニデースの謂うところでは、イトーノスには2人の娘、アテーナーとイオダマーとがおり、お互いに重装備の戦闘術を稽古していて、イオダマーはアテーナーに亡き者にされたという。
"1a, 8,F".2.1
SCHOL. APOLL. RHOD. II 866:「アンカイオスに……これをイムブライオイの流れのほとりで、アステュパライアがポセイドーンに産んだ」
ポセイドーンとポイニクスの子アステュパライアとの子がサモス人アンカイオスであり、これはティーピュス亡き後、船〔アルゴー号〕を操舵した。系譜学者シモーニデースも、アポッローニオスと同様に系譜づけている。
"1a, 8,F".3.1
SCHOL. APOLL. RHOD. I 763:「ミニュアースの裔プリクソス」
イオールコス人はミニュアースの裔である。なぜなら、ミニュアース人〔複数=Minuvai〕はイオールコスに居住していたから、とシモーニデースが『シュムミクトイ』の中で謂っている。また、オルコメノスの代わりにも〔いうことが〕できる。なぜなら、アタマースはオルコメノスに住んだと多くの人たちが謂っているからである。
"1a, 8, F".5.1:
PLUTARCH. Lykurg. I, 8 (Schol. PLAT. Resp. 599 D):
**詩人シモーニデースも(F 217 Bgk)、リュクールゴスは父親エウノモスの子ではなく、リュクールゴスもエウノモスもプリュタニスの子であると言っているが、ほとんど大多数の人たちはそういうふうに系譜づけることなく云々。
"1a, 8,F".6.1
GNOMOL. VAT. GR. 1144 (=Hesiod. T 18d Jac):
シモーニデースは、ヘーシオドスを園丁、しかしホメーロスを花冠を編む者と言った。前者は、神々と英雄たちについて神話を植え、後者は、それらから『イーリアス』と『オデュッセイア』という花冠を編み上げたからと。