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上田敏の幻の論文

菩薩物語由来





 出典:上田敏(1874-1916)全集刊行会責任編集『定本上田敏全集』(教育出版センター、1985)第9巻
 ・旧漢字は新漢字に改めた。
 ・以下の機種依存文字を改めた。
   カタカナのワ行ワの濁音-->ヴァ
          ヰの濁音-->ヴィ
          ヱの濁音-->ヴェ
 ・その他、ギリシア語、ドイツ語、サンスクリット語等、発音記号などで表記不可能な文字は[ ]で囲んだので、適当に読み替えていただけるとありがたい(^^ゞ
 ・〔 〕が入力者の補足説明。



菩薩物語由来


 欧羅巴中世の文學中旋律、楽譜と共に多く散佚して了つた抒情詩と、古代や近世のやうに完備した形式が、まだ整はなかつた劇詩を除いて、あとの一般文芸はざつとまづ(一)物語、(二)小説、(三)史伝、(四)宗致書、(五)教訓書の五種に区別することが出來る。

 第一の物語は.佛蘭西12世紀の詩人ジァン・ボデルの句に從つて、通例(一)佛蘭西物語(例へぱシャンソン・ドゥ・ロオランの如くカルル大王を中心とした武士道の物語)(二)不列顛物語(即ちアアサア王を中心とした、これも武士道の物語)(三)大羅馬物語(ここに羅馬とは極めて漠然たる言葉で、中世人の習とてすべて古代の希臘羅馬、或は東洋の事までも含んでゐる。トロイ戦争の物語、テェバイ城の物語、歴山大帝東征の物語等。)

 第二の小説には(一)東洋より伝來した諸の話、十字軍の前後多くは東羅馬帝國の道を通して伝はつた。(二)笑話とは、それより前多くは自然、欧羅巴に発したらしいもので、佛蘭西に多く残つてゐる。(三)信心談、多くは聖母に関する奇蹟を伝へてゐる。(四)譬喩談とは鳥獣譬喩談の事で、古來の伊曾保物語をはじめとし、「狐の裁判」のやうな動物叙事詩、または種々の鳥獣に關する宗致風の譬喩である。(五)にまた、「集」といふものがある。中世の習慣で、一の書に一切合切の智識を総括することが流行したから.小説集もいろいろ出来た。

 第三の史伝は、年代記と政治に関する詩歌或は諷刺である。第四の宗教書は(一)聖書註釈教外書所見の説話、(二)説教書、(三)聖者伝、(四)夢物語、(五)訓戒書。第五の教訓書とは廣い意味での智識を与へる書類で、(一)諺語集、(二)問答、(三)訓蒙書類等である。

 これ等の豊富な文學について、一々説明するのは、頗る興味ある事だが、今日は述べす、唯本論の「菩薩物語」が上記第四宗教書中の(三)聖者伝に属することを言ひ、此物語の中世文學に於ける位置を示して置く。中世に於て文芸と關係した者は、重に學者と僧侶と楽人とで、物語類は學者が担当し、小説類には楽人が關係し、余はおほむね僧侶の手になつたのである。「菩薩物語」はもとより寺院から出た。


 此物語の原名は、希臘語で Barlaam Kai Iôsaph. 近代語例へぱ英語で Barlaam and Joasaph (Josaphat) といふ。バルラアムもヨアサフも共に基督教の聖者で、西方教会即ち天主公致では、11月27日に二聖を祭り、東方教会即ち希臘正教では8月26日にヨアサフを祭る。尤も二聖ともまだ眞の聖人と推尊せられてゐない、即ち聖列加入式を経てはゐないが、既に教会暦の中には戴つてゐる、二聖がかくの如く尊崇されるのは、10世紀以後の事で全く此「聖者伝」が非常に廣く愛読された結果であらう。有名なJacobus de Voragine の「黄金伝説集」Legenda Aurea 中にもちやんと記載がある。

 伊太利亜パレルモの一教会にジォサファット寺といふのがあつて、二聖の一人を祭つてあることは、マルコポオロの族行記を註釈して有名であるサア・ヘンリィ・ユウルが親しく参詣したので解る。其後1895年の春に「基督教国に於ける科學神学論争史」の著ホワイトも実見して來た。予は堂内に祭つた聖ジォサファット全身像の写真を見たが、さすがに印度の王子らしく経巻を手にし、宝冠を頭にした容貌端正の貴公子にしてある。近世の始になつても此聖者を尊敬する風習が盛であつたと見え、1571年威尼知亜のドオジェ・ルイジ・モチェニゴが聖ジォサファット遺骨の一部を、葡萄牙王セバスチャンに送り、それが転々してアントヱルペンの聖サルヴァトル寺に納まつてゐるといふ。今でも在るのだらう。

 さてこの二聖の事蹟を書いた物語の梗概を述ぺよう。印度の一國王アベンネルは、基督教の敵であつて、始終其信徒を迫害したが其他は頗る慈悲に富んだ賢王であつた。唯久しく王子の無いのを苦にして、日夜其事のみを思ひつづけてゐた時、ふと后は霊夢に感じて懐胎し、月滴ちて玉のやうな王子を生んだ。王は早速國中の賢者五人を招いで、ヨアサフと名づけた此王子の相を観させたところ、其内の一人は之を観て大に感歎し、この幼き君には萬民の主たるべき相が見える、但し生長の後は基督教を信仰するだらうといつたから、それより王は力を尽して.王子の帰依を妨げようと、老病死などすべて現世の苦より遠ざからしめ、あらゆる世間の歓楽を具へて、其心を楽しませたが、終に基督教の隠者バルラアムの説法に依つて、王子ヨアサフは神の道に入り、とうとう國王をはじめ全國の民を信徒たらしめて、みづからは師バルラアムと共に遁世して沙漢の隠者となるを以て物語の終とする。

 なほ精しく書中の顛末を話すと益々驚く可き発見があるが、前に述べた極の荒筋だけでも、東洋の読者は頗る不思議の感を抱くだらう。バルラアム、ヨアサフの物語は、全く仏教の創立者悉達太子の伝ではないか。巴利語のLalita Vistara 漢訳の『神童遊戯経』或は『大荘嚴経』などを研究せずとも、日本人が幼年の時に自から知る、釈迦八相の一端だに味はつた人は、直に此符節を合すが如き一致に喫驚するだらう。

 欧羅巴人で最初に此一致を発見した人は、葡萄牙の史家ディオゴ・デ・コウトで、1612年の著書中に基督教の聖者ヨアサフ伝と仏陀伝との符合を不思議に思つてゐる。然し真に學問上の研究から此一致に目を着けたのは、仏蘭西の学者ラブレエが1859年の論文、独逸の学者リイブレヒトが其翌年に出した研究である。いろいろ精密な穿鑿は其後諸国の学界に現はれたが仏蘭西のゾオタンペエルが一番委しい調査を出した。

 第一この物語の著者は誰だ。古伝に從へぱダマスコの僧、約翰の作といふが確でない。此物語の写本中年代の古いのには皆シナイ山の聖サバス寺僧、約翰が印度から耶路撒列武に伝へた物語とあつて、8世紀の高僧ダマスコの約翰作とはしては無い。どうも第一、文体から言つても其希臘語が純正である点がダマスコの約翰の作である事を否定してゐるし、第二には書中の基督教神学説が相異してゐる。紀元620年乃至38年の交には、基督が二つの意志を有つてるとするDyotheletism と、いや、一の意志しかないといふMonotheletism との論争があつて、終に633年歴山府の僧キュロスの説で、一意説が勝を制した。それでダマスコの約翰も此一意説を奉じたが、物語中の神学論は全く二意説に傾いてゐる。

 そこで自然此物語の出づ可き最古の年代と最近の年代とが解かる訳だ。即ちどんなに古くとも此物語は聖サバス寺の建立より古くは無い、またどんなに新しくとも一意説決定の時より新しくは無い、即ち紀元491年から633年までの間に出來たものだらう。

 また其後學者の研究によつて、2世紀の書「アリスチデス護法論」をはじめとし、「聖ペルペツァ受難記」「彼得黙示録」等の書から、そつくり抜粋転載した文章が此物語中に発見され、終に此物語の年代は紀元600年の前後数年のところと定まつた。

 そこでこの物語の希臘原本は7世紀初年の作で、当時流行した基督教俗文學の一種である。其後羅甸に訳せられて、これから欧洲各國の語に移され翻訳の種類殆ど60ぐらゐあるなかに、中世の有名な、「集」であるVitae sanctorum. 或はサン・ヴァンサン・ド・ボオヴェの「史鑑」、つぎにかの「黄金伝説集」に出たり、又文芸の方ではロペ・デ・ヴェガの戯曲「バルラン・イ・ホサファ」、カルデロンの傑作「この世は夢」の材料となつてゐるのも面白いが、はるか東洋の比律賓までも伝はつて西班牙亜語から土地のタゴル語に訳されて18世紀の始に馬尼刺で出板された事や、此物語中の一話が、トルストイの「告白」に載つてゐるのは頗る興味ある事実だ。

 話たち戻つて、殆ど凡べての欧洲語本の源である此希臘原本の他に此物語を伝へた本があるだらうかと尋ねると、亜刺比亜語で「バラウハル、プウダアサフの書」、ジォルジャ語で「バラヴァルの智慧」、希伯来語で「王子と隠者」といふ本があることを発見する。而して漸々源へ遡つて行くと終に波斯のペフレヴィ語の本がどうも希臘原本其他東洋語の本の根元らしく思はれるので、なほ一歩進んで印度へ入り、一々精紬に此物語の筋と佛陀伝とを比較して、企く同一の話であると断定が出来る。一々の考証はこの一場の談話で済ませることが出来ない、よし出來ても煩はしいから略すことにするが只一例として書中人名の由來を言つて見よう。

 王子の名は希臘原本で Iôasaph としてあるが、Iosaphat ともなつてる。これは全く旧約聖書中のEhoshaphatとの混同で、もとはやはりヨアサフである。この希臘名 Ioasaph は亜刺比亜名 Yodasaph から來てゐる。多分ΙΩΔΑΣΑΦの第三字Δが誤写されてΑとなりΙΩΑΑΣΑΦになつたのだらうか。尚一歩進んで考へると、亜刺比亜語でYとBとが、僅一点の符号で区別されるので、往々混同しやすい。それ故亜刺比亜語ではYodasaph (Yudasaph)或は Bodasaph (Budasaph)といふ名で仏陀を呼んでゐる。ボダサフは正しく菩提薩捶Bodhisattuaだ。即ちヨアサフは菩薩である。而して菩提薩捶がボタサフになりさうな道は-asaph或は -asp の語尾を有つ波斯語でなくて、どこにあらう。

 王子が外出して始めて老病死相を観た時、之に供奉した師の名を希臘本でZardam、ジォルジャ本でZandamといふ。これかの悉達太子が29歳の年の12月8日、中夜人定まれる時刻、私に宮を出た時、白馬[牛扁+建]渉を牽かしめた車匿Chanua、北印度語のChandakaではないか。而してここに、u がr に転じてゐるが、それはペフレヴィ文字にありやすき誤写であらう。又希臘語ジォルジヤ語にDがあるところを見ると、此物語は南印度でなく北印度から來たことも推定せられる。

 バルラアムといふ名も多分印度から來たのだらう。併しどういふ原名だか、確とは分明しない。恐らくかういふ事ではあるまいか。旧約聖書にBalaamといふ名がある、又聖バジル聖クリュストモス等の引証する4世紀初年にゐたアンチオケの名僧にBarlaahar といふのがある。亜刺比亜本から、此物語のBalauarが斯利亜に翻訳される時、つひ類似の名に紛れたのだらう。さてバラウハルはベフレヴィ語の Balauvar から來てゐる、而して其文字ではとかくgと l と、又、n とrとが混じやすいからBalauvarの本が Bagauvan かもしれない。即ち後世のバルラアムは 薄伽梵 Bhagavan だらう。

 そこで此物語の印度原本があるとすれぱ「薄伽梵、菩薩物語」とでも云つたらうか。略してここに「菩薩物語」といふこの話の由來はかうだらう。仏教のやや衰へた基督紀元の初年印度婆羅門の徒が仏教徒の好んで致訓に用ゐた譬喩の法を假りて、多くの教訓談を鳥獣譬喩談の枠に入れて後世の欧洲で所謂ビドパイ譬喩談を作つたと同様に、佛教徒は始租佛陀の伝を、甚しく婆羅門の徒の感触を害さないやうな形式に語つて、之を飾るに在來の仏教に用ゐた譬喩を以てした。これがわが薄伽梵と仏陀との物語である。「ビドパイ譬喩談」も、この「菩薩物語」も、ともに紀元6世紀の頃コスロエス王の代に、ペフレヴィ語に訳せられ仏教徒、回教徒及び景教徒の等しく歓迎する所となつて、間もなく亜刺比亜、斯利亜語に翻訳され、斯利亜本より欧洲に廣く移された。而して「菩薩物語」の骨子は頗る基督教の宣伝に都合いい仕組であるから、佛致といふ所に基督教といふ語を一寸置替へてすぐ中世の宗教書中の聖者伝にして了つた訳である。

 由來既に斯の如くであるから、束洋の仏教有縁の人にとつては、この西洋の一聖者伝が頗る興味ある本だ。一々精紬の点に亙つて、Lalita Viataraなり、「神童遊戯経」なりと比較研究をしてみたくなる。然しこの物語の面白味は只普通の佛陀伝といふ事ばかりでなく、或は寧ろ書中に散見する幾多の譬喩にあるのだらう。さうなると問題はまた一層廣がつて來て、佛教に於ける譬喩楡談即ち[門構+者]多伽Jataka(本生経)廣く印度に行はれたPanchatantra(五部書)Hitopadeça(嘉訓)、随つて、上記のビドパイ譬喩談又飛んで欧洲古代の伊曾保物語との関係、なほ根本に遡つて、人類一般に行はれる民俗伝説(フォオクロオア)の起原を説かねばならぬ。事柄が愈々面白くなつて來て、研究益々困難になつて來る。

 一体「菩薩物語」現存の古本即ち亜刺比亜ジォルジャ、希伯來、希臘の書について調べると殆ど三十五六ばかりの譬喩談があるが、其内二三を挙げて後の研究を待たう。

 第一には井戸に落ちた人の話。ある人、荒れ狂ふ一角歎に逐はれて、井戸の中へ落ちた時、其途端幸にして井中の木の枝につかまつた。然るによく見ると其木の根を白と黒との鼠が頻に噛つてゐる。下を覗くと、火焔を吐く龍が、口を開いて、此人の墜ちて來るのを待つてゐる。一角獣はまだ井戸の縁から、こちらを覗ゐてゐるではないか。進退維れ谷つた時、ふと木の枝から甘い蜜が滴つて、口に入つた。其甘味何とも譬へ難く快いので、人は周囲の危難を忘じ果ててひたすら此蜜を味ふ。茲に一角獣とは死、井戸はこの世、白黒の鼠は昼夜の事で、人の寿命の木の根を噛じる。又龍とは地獄だ。しかも人は歓楽の蜜を嗜み味つて、命の尽きるを知らぬといふ話である。

 此話はビドパイ譬喩談即ち印度から出た Kalilah wa Dimnah 物語第四章にも見え、世界各國の文學に廣まつたもので、ベンファイの「五部書(パンチアタントラ)」序論に漢訳阿波陀那から二種の類話を引証してある。クラウストンは雑誌「アセニイヤム」にて「マハブハラタ」第十一編に類話のある事を公言してゐる。欧洲文學中の類話を列挙すれば容易に百種以上を数ふることが出來るが、今の日本人に最も面白いのは前に述べた如く、露西亜の大文豪トルストイの「告白」中に此話のあることだらう。

 第二は鳥、人に教化する話だ。鳥が人に捕まつた時、良い事を教へて上げるからどうぞ放してくれろと頼む。「出來ない事をしようと思ふな。濟んで了つた事を悔むな。ありさうもない事を信じるな」と鳥が教へてくれるから、そこで人が放してやると、鳥は木の枝から、せせら笑つて、実に愚かな人ではある。大さうな損をしたのを知らないか。此私の腹の中には鷲の卵ほどの真珠があるのだと言ふから、さきの人は大いに悔しがつて帰つてくれろと頼む。さうすると鳥のまたいふには、折角の教訓をすぐに忘れる方かな。済んで了つた事を悔むなと、今教へた口の下からすぐと残念がつてゐなさる。出來ない事をしようと思ふなと言つたのに、今更私に帰れと勧めなさる。又ありさうも無い事を信ぜよとは、教へなかつた。それをあなたはこの腹の中に真珠があると思つてゐなさる。どうして躰より大きい卵を呑んでゐられようぞ。

 仏蘭西の文献學者に其人ありと知られた故ガストン・パリは此話について、委しい研究を公にした。独逸では前の井戸に落ちた人の話をリュッケルトが詩に歌ひこの鳥の教化話をヴィイランドが作に入れた。英吉利ではリドゲイトの歌で名高い。猶太教から改宗した12世紀の人ペトルス・アルフォンススの書 Disciplina clericalis は、菩薩物語と並んで欧洲に於ける此話の源泉だが、此話のもとはやはり印度の五部書に見え、実はずつと古い譬喩談だらう。中世の頃から伊曾保物語中に入つて、現に寛文年間に和訳された「伊曾保物語」第三巻に此話は載つてゐる。

 此他「女人を見たことの無い若い人」の話は、遠く「マハブハラタ」「ラマヤナ」に源を発して、ボッカチオの十日物語(デカメロオネ)に現はれ、「四の函」の話は、阿育王伝説から発して印度の小説集Kathâ-sarit-sagâra にも出で、終に沙翁の威尼斯亜商人に及んでゐる。

 かう述べて來ると佛教の譬喩談が此菩薩物語其他二三の路を通して、欧洲の文芸に伝はり、中世以後の大詩人の作品に影響を及ぼしてゐることが略わかつて、仏教文學が世界文明に与へた偉大な感化には今更ながら驚かざるを得ない。印度の王子悉達多が好んで用ゐた譬喩談が、「曠原(ステッピ)にさまよふ隠者聖ヴァルラム」の民謡を通して露西亜の人トルストイの書に現はれたのは、佛教の始租が基督教の聖者と奉ぜられて、伊太利亜の質撲な信者に今も拝されてゐるのと、同じやうな奇談である。大宗教や大思想には國境が無い、人種の別も無い。随つてまた思想上の事には、殊に熱信のあまり動もすれぱ他を排さうとする傾の起りやすい宗教界ではつとめて寛容の美徳を思念せねぱならぬとは、菩薩物語由來を尋ねて得るところの教訓である。

(完)

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