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上田敏の幻の論文

伊曽保物語考





 出典:上田敏(1874-1916)全集刊行会責任編集『定本上田敏全集』(教育出版センター、1985)第9巻
 ・旧漢字は新漢字に改めた。
 ・以下の機種依存文字を改めた。
   カタカナのワ行ワの濁音-->ヴァ
          ヰの濁音-->ヴィ
          ヱの濁音-->ヴェ
 ・その他、ギリシア語、ドイツ語、サンスクリット語等、発音記号などで表記不可能な文字は[ ]で囲んだので、適当に読み替えていただけるとありがたい(^^ゞ
 ・〔 〕が入力者の補足説明。



伊曽保物語考

"So the tales were told ages before AEsop;
and asses under lion' s manes roared in Hebrew;
and sly foxes flattered in Etruscan;
and wolves in sheep' s clothing gnashed their teeth in Sanskrit,
no doubt."
  --Thackeray, The Newcomes.


1

 伊曽保の動物譬喩談に接したのは、幼年の頃、当時の小学読本で「狼来れり」の話に戒められ、鶴と狼の馳走談にほほ笑まされたのが始であつて、やや長じて、英文の喩言集などを繙くに至つて、益々これに対する興味を深く感じたが、其の後、年を経て一日、東京帝国大学の書庫中に、日本学者を以て名ある英国外交家サトウ氏(今のサア・アアネスト)の撰にかかる日本耶蘇会刊行書解題を見出して、文禄2年天草の耶蘇会学林板刻、羅馬字綴、日本俗語訳伊曽保喩言集あるを始めて知り、又殆ど同時に東京高等師範学校の書庫に藏する寛永16年刊本『伊曽保物語』三巻を通読する事あつて以来、伊曽保が喩言集の由来流布等について聊か考證を重ねて見たくたり、先年海外観光の途に上つた時も、実は大英博物館珍藏の文禄本について取調べてみたいといふ下心もあつたのだが、旅中閑を得ず、つい意を果さなかつた。然るに昨43年中、新村博士は、かの文禄本を親しく手写されたものを基として、之を国字に書改め、雑誌「芸文」に訳載し、極めて有益な文献史料を提供された為、忘れるとも無く打棄てて置いた伊曽保の事がまたまた念頭に浮び、そのままこれを以て今日講演の材とする。精細の考證に至つてはもとより他に希臘羅甸古典学者また印度学者を煩はさねばたらぬ、さなくとも又別に一篇の長論文を要するから、今は唯研究の筋道と結論の一端を談るばかりである。


 一体、伊曽保物語の原本は何であるといふ問は手軽に答へられさうで、実はさう容易に済まされない。世界の近世語で、ああも汎く流布してゐる此書の由来はどういふのだらう。これがもしサッフォオの抒情詩、ヴェルギリウスの叙事詩といふのなら、すぐ其原本を指して最古の現存写本までも定められる、或は又『千一夜物語』のやうな書であつても、これが流布本の源であると決定されるが、伊曽保の喩言はさう簡短に原本を定めてしまはれない。AEsop's Fables 伊曽保の譬喩談といふよりは、寧ろ AEsopic Fables 伊曽保ぶりの譬喩談とする方が適当なくらゐで、今日西洋に残つてゐる殆ど凡ての譬喩談は、いづれかの集中に収められて、伊曽保の名の下に隠れたもので、種々の英文伊曽保物語を調べてみると、喩言の数七百種に上るといふ。現に L'Estrange の集のみでも、五百有余の喩言を収めてゐる。尤も伊曽保が希臘人であるといふ所から、中世以来伝はつてゐる希臘散文の喩言集を以て原本であらうと推測する者もあらうが、実際について比較してみると喩言の文も数も大に相異してゐることに気がつかう。そこでまづ近世欧羅巴語で刊行された伊曽保物語を調べて、とりあへず其原本は何だらうと前へ遡つて行くと、1480年 Heinrich Steinh[o]wel の羅甸及び独逸語の集が、近世語伊曽保物語の根元である事を発見する。時宛も印刷術発明の世であつたから、有名なる英人 Caxton は里昂〔リヨン〕の Jules Machault の仏訳を通じてシュタインヘエヴェルの原本を重訳し1484年之を刊行した。後英国で刊行されたレストレンジ等の諸集も皆此カクストン本に拠つたので、唯シュタインヘエヴェルの後に現はれた希臘語喩言集から多少の増補を加へたに過ぎない。独逸でも1480年本が其後の諸集の基礎となつてBrandt, Waldisが之に多少の追加を試み、仏蘭西では後 La Fontaine が之に Bidpai 其他の東洋喩言集から増補したものが汎く行はれ、伊太利亜には1485年の Tuppo 訳、西班牙には1496年の Infante Henrique 訳、和蘭陀には1490年仏訳からの重訳が坊間流布本の源となつてゐる。


 さてかの羅甸及び独逸の原本は下の六部に分れてゐる。

  (一)13世紀東羅馬の学僧 Planudes の著と伝ふる伊曽保伝
  (二)Romulus と号する喩言集
  (三)Fabulae Extravagantes といふ動物喩言
  (四)希臘散文喩言集抜粋
  (五)Avianus 喩言抜粋
  (六)12世紀初葉西班牙在住の猶太人 Petrus Alphonsus編 Disciplina clericalis 及び15世紀伊太利亜人 Poggio Bracciolini 編 Facetiae 以上二書抜粋

而してこの第二の Romulus は全集の重要部を占めてゐる四巻の喩言集であるが、これを研究して行けば近世の集から遡つて、中世の喩言が如何なるものであるかが解る。此事に就いては前世紀の初仏人 Robert がラフォンテエヌ喩言集の序論に.研究を始め、続いて Ed[e]lestand du M[e]ril が Histoire de la fable [e]sopique (1854) になほ考證を進めたが、L[e]opold Hervieux の大著 Les fabulistes latins (1884) が多年に亙つて最も精密た攷究を凝らしてゐる。また独人 Hermann Oesterley--Romulus (1870) が手に入り易く且つ信憑すべき書である。是等の学者が研究した所及び其刊行にかかるロムルスの異本について調ぺてみると、此ロムルス喩言集の写本にはざつと次に挙げる三種の系統がある。

 (一)Romulus 集。喩言八十三、普通之を四巻に別つ。最古の写本は大英博物館藏、10世紀の筆蹟。
 (二)AEsopus ad Rufum 或は略して Rufus 集。喩言八十二。此写本、前は Wisseburg 今は Wolfenb[u]ttelにある。
 (三)Anonymus Nilanti 集。1709年 Nilant 之を刊行した故、此名がある。喩言六十七。後の研究にて11世紀の人 Ademar de Chabannes の編と定まり、Ademar 集ともいふ。

 此他なほ多少の変化ある異本数種はあるが、皆上述三系統のどれかに属してゐる。而して此三者は中世喩言集の根元に対して三段の階梯をなしてゐるので、アドマル集が最も源泉に近く、ルウフス集之に次ぎ、ロムルス集が最も遠ざかつてゐる。而してこの源泉とは何ぞと研究してみると、奚ぞ知らむ、かの有名なる羅旬短長律(ヤムブス) Phaedrus 喩言集ならむとは。要するに中世の散文喩言集はファイドルスの転訛である。随つて今日の所謂伊曽保物語はファイドルスに多少の増補を加へたものである。


 紀元1世紀の希臘人ファイドルスの著は近き数世紀間羅甸語練修の読本として広く行はれてゐるが、ヴェルギリウス、オヴィディウスはたホメエロス等の古典の如く中世を通じて近代迄久しく伝唱されたのでは無い。中世の久しき間其羅甸短長律はいつしか散文の如く取扱はれ、著者の名に至つては4、5世紀の頃から15世紀まで殆ど全く湮滅して了つたのは、学界の一奇事である。現存古写本五種の中、Pithoeanus, Remensis は9世紀、Codex Danielis は11世紀、Perottinus 及び其複本 Vaticanus は15、16世紀の筆写であるが、此書の初刊本は16世紀の末年になつて、やつと公にされたので、実に1596年9月の板である。(L. Hervieux--Les fabulistes latins. t. i.; Robinson Ellis--The Fables of Phaedrus 参照)

 このファイドルス初版刊行本の編者仏国トロアの状師 Pierre Pithou は1595年其弟フランソアから写本を送られて、直に其真価を認め、大に喜んで之を鉛槧に付した。此初板本は今稀覯書である。所謂in--12版70頁の小冊子で其扉にはPhaedri Avg. liberti fabvlarvm AEsopiarvm libri v, Ninc primum in lucem editi. Avgvstobonae Tricassivm excvdebat Io. Odotivs, Typographus Regius, Anno CIC IC XCVI. Cum privilegio. とあつて、第三頁には弟フランソアに対する感謝を表はした小引がある。Cuicui vero ille alapas et libertatem debuerit, tibi certe, frater, jam vitam debet, quam temporum injuria paene sepulto exemplaris a te reperti beneficio restituere conatus sum といふやうな文で、久しく湮滅してゐたこの喩言集が、君の発見した写本の庇蔭で、今再び世に出ることとなり、予はこの珍品に拠つて、之を復活させる事に勉めたとある。其頃羅馬に集つてゐた当時の学者たちは、暫時のほど、あまり立派な大発見であるから、少し疑を挿んでゐたが、終に大喝釆を以て此書の復活を迎へたといふ。ここで直ぐに知りたいのは、此写本の出処であるが、不幸にして確な事が解らない。唯僅にピトゥウ板巻尾の註に uet. ex. Cat.とあるばかり、多分これは Orelli の推測する如く uetus exemplar Catalaunense 即ち Ch[a]lons-sur-Marne 古写本或は Catuacense 即ち Douai 古写本のつもりであつて、S. Benoit-sur-Loire 僧院の藏であつたといふ一派の説は誤である。


 さてかくの如く永い間湮滅してゐたファイドルス喩言集が、どうして中世の散文喩言集の源泉であるかといふに、この二者共通の喩言を比較して見ると解る。まづ最も古さうなアドマル集を調ぺると、喩言六十七種のうち、三十七種は普通行はれるファイドルスに現はれてゐて、而も文章まで殆ど一致してゐる。唯散文に書改める為め少し変更したばかりだ。然るにルウフス集は其変更の程度が稍大きく、ロムルス集も亦頗る変つてゐる。然し後の二者とても、正しくファイドルスの羅甸短長律を散文に書直したのである事は疑無い。一例として各共有してゐる狼と鶴との話を挙げてみる。

(1) Phaedrus --Fab. I. 8 --Lvpvs et Grvis.
Qui pretium meriti ab improbis desiderat,
Bis peccat: primum, quoniam indignos adiuvat,
Impune abire deinde quia iam non potest.

Os devoratum fauce quum haereret lupi,
Magno dolore victus, coepit singulos
Inlicere pretio, ut illud extraherent malum.

******************************************

(Attendre des m[e]chants la r[e]compense d'un bienfait, c'est double faute: d'abord, on a oblig[e] des indignes; ensuite, on risque de ne pas s'en tirer sain et sauf. Un loup avala un qui lui resta dans le gosier. Vaincu par la douleur, il demandait secours, promettant une r[e]compense [a] qui le delivrerait de son mal).

(2) Ademar. --LXIV (Lupus et Gruis)
Qui pretium meriti ab improbo desiderat
plus peccat: primum quia indignos **iuvat
importune, deinde quia ingratus postulat quod implere non possit.
**Lupus, osse devorato fauce inhaeso,
Magno dolore victus coepit singulos
promissionibus et praemio deprecari ut illud extraheret malum.

******************************************

(3) Rufus.--IX. -Qui benefacere uoluerit malis satis peccat.
Ossa lupus cum devoraret, unusm ex illis adhesit in faucibus eiius transuersusm graviter haesit. Inuitat magno pretio Iupus qui extraheriet malum......... .

(4) Romulus.--VIII.-Qui cunque malo vult bene facere satis peccat. De quo simili audi fabulam
 Ossa lupus cum devoraret, unum ex illis adhesit ei in faucibus transuersusm graviter haesit. Inuitauit lupus magno pretio qui eum extraheret malum.

 以上の比較文例第二、第三、第四中、根源ファイドルスと相異する点を明にするため、そこだけ伊太利亜字で印刷したから、一目して中世喩言集の転訛を見ることが出来よう。またアドマル集の文は元来散文体に書写してあるのだが、便利の為め、律語体に行を別けて写した。一体ピトゥウ板の原写本も、実は恰も散文である如く行を別けずに筆写してあつたので、中世の筆耕が或は其羅甸短長律であるのを知らずに転写したのかも知れぬ。とにかく以上の比較に依つて中世の喩言集が実はファイドルスの転訛に過ぎぬ事が首肯される。


 然しここに注意す可きは、中世喩言集中の話で、普通のファイドルス中に出てゐないのがある事である。是等の話は羅甸原本以外の集から竄入したのであるか、それとも又今伝はつてゐるファイドルス本は不完全なものであつて、中世の人は、もつと話の数が多い原本に拠つたのであらうか。此疑問は判然と定めにくいが、まづ後の方の説が正しいやうだ。何となれば、アドマル集中、普通のファイドルスに見えてゐない話もあるが、よく其文体律語等を調べて行くと、確にファイドルスの風があるのみならず、羅甸短長律の痕跡さへ著しく見える。其上またファイドルス古写本の一種例へば Perrottinus 本などには、普通本に無い喩言が32種もあつて、其中「猿と狐」「ユノオ、ヱヌス及び鶏」「エペソの後家」「羊と鳥」等は現にロムルス集中に在る、其上近世の学者が博渉して蒐集した羅甸律語の喩言を加へると、つまり中世散文喩言三大集にある九十六種の話全体は、フアィドルス或はフアィドルスぶりの律語と符合するのである。細い点に及ぷとなほ種々の議論はあるが、大体に於いてロムルスがファイドルスの転訛たることは疑無い。


 羅甸文学は多く希臘に原型を有つてゐる。且つファイドルス白身も希臘の喩言から材料を得たと明言してゐるし、又シュタインヘエヴェル本に関する上記表中第五とした4世紀の人アヴィアヌスの喩言集にも作者が希臘本に拠つたと述べてゐるから(Robinson Ellis--Fables of Avianus. 1887 参照)これより一歩を進めて、ファイドルス、アヴィアヌスの原本を探さう。然るに此穿鑿も一見して頗る容易なるやうで、而も前にも述べた如く困難である。成程、伊曽保の名を冠した希臘喩言集は、15世紀以降19世紀迄 Accursius, Stephanus, Nevelet, Heusinger, Furia, Coraes, Schneider 等7種もあるが叮嚀に研究してゆくと、直に其古書たるに疑を挿むやうになる。之をいち早く看破したのは英人ベントレエの燗眼であつて、かのプラヌデエスの編及ぴネヴェレトゥス編の喩言集を読んで、直に前者には希伯来〔ヘブライ〕語法、中世希臘語の使用を発見し、また後者はやや古いやうだが、それでも旧約書約百記〔?〕(1ノ21)の文章が竄入してあるのを突止めた。しかして二書ともに Babrius 或は Gabrius といふ著書を引用してゐる事が解つて来たから、其後の学者は力を尽して、このバブリウス原本を発見しようとした。

 然るにベントレエ以後2世紀間の穿鑿は終に1840年に至つて成功を見た。仏蘭西文部大臣の嘱託を受けて希臘人 Minoides Menas は故国アトス山上の修道院聖ラウラ寺の庫裡で123種の喩言集バブリウスの名ある古写本を発見して、1844年始めて之を巴里に刊行し、久しく期待された古代の好著を公にした。

 学者これより專心に研究を重ねて、バブリウスの生国、年代等を決定したが、Otto Crusius 次に Rutherford 等の説に拠れば、不思議にも此著者は希臘人でなく3世紀頃の羅馬人であつたらしい。してみると羅甸短長律(ヤムブス)喩言集の撰者ファイドルスが希臘人、希臘律語の喩言集の撰者バブリウスが羅馬人といふ奇観を呈してゐる。


 ファイドルスの律語がロムルスの散文に転訛した如く、バプリウスの律語は中世の希臘散文に変化した。而してファイドルス原本の一部は中世の間久しく影を潜めてやうやく近世に現はれ、バブリウス原本の一部は4世紀の頃羅甸のアヴィアヌス集に現はれ、早く中世以降の喩言集に入つた。それで所謂希臘散文喩言四百有余種中、大凡三百種までは、つまりバブリウスに起源を求められ、余の一百種は中世僧侶の新作、或は Bidpai, Syntipas 等東洋喩言集から来たのである。シュタイソヘエヴェル本中第四希臘散文喩言集抜粋は、実の所直接に希臘語から抜粋したのでは無い、伊太利亜の学者 Ranutio d'Arrezo が、まだ希臘散文喩言集の刊行されぬうち、一写本から百種を選んで羅甸語に翻訳し1476年に刊行した書からして、シュタインヘェヴェルは抜粋したのである。俗に此書を Remicius といふのは、中世の筆写書法では Renutius の nut と mic は頗る紛れ易いから誤写したのである。


 欧洲の喩言集中、完全とまで行かぬとも、まづ原形を存してゐる古い文献は、1世紀ファイドルス、3世紀バブリウスの集より他に無い。これより古く遡れば希臘羅馬諸家の書に散見する一々の喩言を拾はねばならぬ。今希臘盛期の文学から古代希臘の喩言と見る可きものを抜出してみると、ざつと左の如くになる。(Joseph Jacobs 研究に拠る)

1)フィロメェラ鳥--Hesiod (Op. et Dies, 203.)
2)狐と猿--Archilochus (Ammonius, ch. 6)
3)鷲と狐--Archilochus (ap. Furia, p.141)
4)笛吹、漁夫となる--Herodotus (i. 141)
5)鷲と矢--AEschylus (ap. Schol. on Aristoph. Aves, 808)
6)羊と狗--Xenophon (Mem. II. 13)
7)馬と狩人と鹿--Stesichorus (Aristotle, Rhetoric II. xx)
8)狐とハリネズミ[=けもの扁+胃]と扁蝨〔ダニ〕--AEsop (Aristotle, Rhetoric II. xx)
9)鷺と饅--Simonides Amorginus (Athenaeus vii. 299 C.)
10)驢馬の心臓--Solon (Diogenus Laertius i. 51)
11)蛇と驢馬--Ibycus (Schneidewin, Poet. groeci, 176)
12)蛇と鷲--Stesichorus (AElian xvii. 37)
13)狐とハリネズミ[=けもの扁+胃]--Ion (Leutschneider, Paraeom. graeci I. 47)
14)田舎人と蛇--Theognis(579)
15)鼬の変身--Strattis (Meineke, Frag. com. 441)
16)蛇と蟹--Alcaeus (ap. Furia, note on f. 231)
17)犬と影--Democritus (Stobaeus x. 69)
18)北風と太陽--Sophocles (Athenaeus xiii. 604 D)
19)兎と猟犬--Aristophanes (Vesp. 375. Ran. 1191)
20)二つの蟹--Aristophanes (Pax 1083)
21)師子の皮を着た驢馬--Plato (Cratylus. 411 A)

此表中の話を親しく原本について調べればすぐ解る如く、是等の喩言は、独立の話として取扱はれてゐずに、大概、文章の綾、或は警句として、ほのめかされてゐるので、且つ多くは笑話として味はれたやうだ。これらは文字発明以前よりして、人口に膾炙し、雅俗ともに玩んだのだから、一篇の書として古代から伝つたのでは無く、やつと紀元前4世紀の頃になつて結集が出来た。それは有名なる歴山府文庫の建立者 Demetrius Phalerus の撰で、他に希臘諺語集を編んだ如く、蓋し同じ材料からして作上げた Log[o]n Ais[o]pei[o]n Synag[o]gai 即ち『伊曽保物語集』である。これが多分伊曽保の名を冠した希臘喩言集の濫膓であらう。Diogenes Laertius はデメトリウス著作目録中に之を挙げてゐるが、今は伝はつてゐない。

 然しファイドルスは確に此書を前に置いて其喩言集を編輯したらしい。其證拠の一といふのは、第五巻第一の喩言として Demetrius et Menander といふ、.さほど奇抜でも無い逸話を掲げてゐる事である。突然かういふ関係も無い話が此処に出てゐるのは、誰しも訝る所だが、もし、デメトリウスの結集で而も後世の編者が原著者の逸話を書足して置いた一本をファイドルスが参考したと推測すれば、何故此話が入つたかといふ疑は直に氷解しようではないか。

 3世紀希臘律語集バブリウスの原本は何だらう。有名なる Suidas の古書に拠れば、もと此書は十巻より成るといふ。アトス本は完璧で無い。書中の喩言は希臘文字順に列ぺてあつてアルファからオミクロンまでしか無いが、スイダスの言其他の考證と合せ考へると、2世紀の文人 Nicostratos の集めた Decamythia 『喩言十巻』がバブリウスの完全本に基礎をなしてゐるやうだ。而して当時学界の形勢からして、2世紀の文人ニコストラトスが有名なる歴山府朝の『伊曽保物語集』を知らずにゐる筈は無からうから、つまり誰が伊曽保物語を書いたかと問はば、まづ無造作にデメトリウス・ファレルウスと答へても可い。


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 これにて希臘以降西洋に於ける伊曽保物語の由来は大凡の骨組だけ示したことになるが、シュタインヘエヴェル本前後幾多の喩言集冒頭に掲げてある伊曽保伝について一言したい。

 此伝記はわが文禄本にも、また元和、寛永本にも載つてゐて、古くより Maximos Planudes が童蒙教訓の書として作為したと伝へてある。然し希臘の確とした書に典拠があるのでも何でも無く、実はプラヌデエス以前の俗書から出てゐる。これはサロモン伝説の系統に囑する賢者 Akir の物語であつて、もとは希伯来の Achikar 伝に基く。紀元前二、三世紀の頃に出た Tobit 書が此話の文献に現はれた始で、其一部は Strabon. Clemens Alexandrinusに痕跡をとどめ、かくて幾分か古代希臘文学に混入して来たらしい。而して此希伯来伝説がどうしてプラヌデエスの伊曽保伝になつたかといふ逕路はまだ分明しない、これからの研究を待つ可きものである。(Karl Krummbacher--Geschichte der Byzantinischen Literatur 参照)。伊曽保の正伝と覚しいものはHerodotod (ii. 134)に薔薇紅瞼の名ある名妓 Rhod[o]pisが財を捐てて一大金字塔を建立した話を挙げた序、Logopoios(物語の作者)Ais[o]posも此名妓と共に奴隷であつたと書いてある。此処の文に拠ると、伊曽保は Samos の一奴隷民で紀元前550年頃に栄え、恐らくデルフォイの託宣の為、殺害され、後、彼が主人 Iadmon の孫、為に贖殺金を請求したといふ事実だけしか解らない。又伊曽保が不具の醜男であつたといふ事も頗る古い伝ではあるが、後世の造形術を外にして何の證拠も無い。或は aischros(醜)[o]ps(面)の二語で Ais[o]posの語源を説明したものか。さうならば丁度*伊曽保*は*異相*に通ずといふ酒落ぐらゐの価値しかあるまい。


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 これより更に古く伊曽保ぶり喩言の起源を探らうとすれば西洋を離れて、東洋に移らねばならぬ。時代は古くなる、研究はまだ行届いてゐない、加之問題は愈々広大になつて来て、一動物譬喩談の詮議ばかりでは無く、伝説、神話、風俗、信仰の起原伝播等に立入り、所謂俗説学 Folk-lore の根本問題に触れざるを得ない。ここでまづすぺての民話俗説の説明に関する態度を明言して置きたいが、本論の講述者は、此問題の一般説明に就いて Taylor, Lang 等の学説所謂人類学派に与みする者である。随つて動物譬喩談或は単に動物談を説明する時も、同一程度の文化に於ける人心の合一を思ひ、又未開時代或は未開人種たちは人間と同じやうに動物が談話し行動すると信じてゐる事実に基いて、議論を進まして行く。Beast-fables の前に Beast-tales の在る事は、喩言研究者の常に念頭に置く可き所で、つい文明人の心になつて、之を忘却すると、あらぬ方の説明に陥り易くなる。動物の談話する事は、未開人の堅い信条であつて、まだ今日になつても独逸、羅馬尼亜、仏蘭西、瑞西、英吉利等の片田舎では、降誕祭前夜、又新年に動物が談話すると信じてゐる農民が随分ある。(B. Thorpe--Northern Mythology 等参照)。

 然し種々の人類学或は俗説学上の材料が今日の如く豊富で無かつた前世紀の学界では、本論の問題、動物譬喩談に関して古今東西に驚く可き符合一致あるを見た時、人類全体から観察せずに、一時代一人種、一語族だけから説明しようとする傾向の方が多数であつた。即ち伊曽保物語其他の動物警喩談が西洋にも東洋にも数多い一致類似があるにつけ、おほよそ四種の説明が出た。第一は、亜利亜説とでもいはうか、所謂印度欧羅巴語を有する人種が遥かの昔に、同一の地方に集合してゐたと仮定し、従つて同一の俗説を有つてゐたのが、後世になつて、四散したのだといふ説明で、Grimm 兄弟主として之を唱へた。第二は言語疾病説である。隠喩(メタフォル)を事実と思做す人心の一傾向は、はしめ単に一種の修辞であつたのを説明の談話にして了ふのだといふ意見で大概の神話伝説を論じるのである。Kuhn 之を唱出して、Max M[u]ller 之を普及した。第三を通借説と名づける。種々の伝説民話或は殊に動物警喩談が、あのやうに相一致し相酷肖するのは、唯相互に貸借したのであるといふ極めて自然で而も簡単な説明であるが、之を正確に證明しようといふには到底凡才の企て及ぶ所では無い。それには Theodor Benfey の如き該博なる学殖と犀利なる見識とが必要である。実にベンファイは稀世の学識を傾倒して1859年印度の古書 Panchatantra 『五部書』の翻訳に、有名なる長序論を付して、かの通借説を発表した。第四はタイラア、ラング等の流布した前記の人類学派説で、之を活物論(アニミズム)風の説明と呼んでも可い。さて是等の四説中、其敦れを探る可きか。大体論としては、第四の活物説が最も合理に見えること上述の如くであるが、伊曽保物語のやうに、特殊の結構と目的とを有する動物警喩談の起原を尋ねるには、どうしてもペンファイ等の通借説に大助勢を乞はねばたらぬと思ふ。


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 伊曽保物語と東洋の譬喩談とに共通或は類似の話が多くある事は、印度学其他の発達につれ、東邦の知識が殖えるに従つて益々顕著になつて来た。はじめ伊曽保が奴隷民であつたといふ古伝に拠つて、直にこれを外国人と定め、亜刺比亜〔アラビア〕、猶太等の出と推測した学者の説もあるが、何の證拠がある訳では無い。また亜刺比亜、希伯来の語で伝つてゐる幾多の譬喩談があるので、これを伊曽保物語の原本と信じた時代もあつたが、少しよく調べてゆくと、是等の書が却つて伊曽保物語から発してゐる事を発見する。其他埃及或は亜志利亜の譬喩談に連絡を求める人もあるが、ここには関係も類似も極めて薄い。

 然しながら東洋の古文明国印度に行はれた動物讐喩談と希臘喩言伊曽保物語との類似は否定すべからざるものであつて、何等かの関係が二者の間に在ることは疑無い。此二者の類似は、活物論(アニミズム)が生んだ偶然の暗合とのみ聞流されぬ。なるほど妻が夫を欺き、奴僕が主人を詐る話に用ゐられる策略は無関係の二国民間、偶然暗合する事もあらう。同じ程度の文化にある二国民が、各自独立に、似たやうな考を持つことはあり得可く、どこも人情に変りはないから、或る点まで、同型の話を作り出すであらう。然し、いかに古来の活物論が深く通俗の精神に浸染してゐても、わざわざ動物譬喩談といふ形式までも同一な同じ筋の話を、二国民別別に発明しようとは思はれない。而もさういふ話が一つや二つなら、まだしも、数十種まである以上、これは単純な暗合では無いと、まづ仮定せねばならぬ。

 印度喩言集の問題は、伊曽保物語の研究よりも更に広大且つ複雑であるから、ここに細説は出来ない。学者の夙に知る如く、仏教徒間に行はれた j[a]taka 闍多伽(本生経) Avad[a]na阿波陀那(譬喩経、出曜経) 又仏教の書とは言へないが、それに発源した Panchatantra (五部書) Hitopade[c]a (嘉訓)等は或は巴利語或は梵語で、今日伝来してゐる。漢訳藏経に就いて闍多伽、阿波陀那の話を拾ふことも出来る。即ち唐釈道世撰法苑珠林二十巻(高宗總章元年)を見ても解るし、また Stanislas Julien--Les Avad[a]nas, contes et apologues indiens inconnus jusqu'a ce jour. 3 vols. Paris. 1859 の根拠たる明焦コウ[立扁の「紘」]〔明のショウコウ〕撰焦氏類林二十四巻を渉猟するも宜からう。梵本巴利本及び其後流伝した波斯本、亜刺比亜本及び欧羅巴本について Benfey, Richard Schmidt, Fausb[o]ll, Cowell 等の研究が既にあるが、漢訳本其他に就いては更に專門家の考證を待ちたい。(此項 A.A. Macdonell--Sanskrit Literature; A. Baumgartner--Geschichte der Weltliteratur, II 参照)

 是等の印度喩言集を一寸窺いて見たばかりでも、東西洋の喩言に何か関係のある事は誰にも解る。然し、そこで直ぐ伊曽保物語は印度から伝来したものと立言するのは、少し速断であらう。第一今日一般に伊曽保物語と言慣らしてゐる集は前にも述べた如く、ファイドルス喩言集に、其後種々雑多の喩言が附加したので、後者の一部たる所謂希臘散文喩言集中の或話は確に東洋の喩言 Bidpai, Syntipas から来たものである。それゆゑに此ビドパイの部分だけに指を当てて論ずれば、勿論印度喩言集から借受けて来たと言へる。希臘譬喩談の印度起原説を主張する Rhys Davids の如きは、此誤謬に陥つてゐるのであらう。然しながら真に印度希臘の先後を決するには、もつと叮嚀に伊曽保物語を分解して、謂はば地質学で行ふやうに古生元層、中生元層、近生元層と年代の順を追つて区別して後、比較もし、結論もす可きものだ。

 シュタインヘエヴェル本又カクストン本伊曽保物語中一々の話に就いて之に類似する東洋の喩言を求めると其数約70種ある。其中で亜刺比亜本 Loqman 志利亜本 Sophos 波斯亜本 Mesnevi 土耳古本 Tutinameh 等に在る類話は顧るに足らぬ。是等の書は希臘本から発してゐるか、或は中世に出来たものだから、本論には必要で無い。唯最も必要なのは所謂ビドパイ本中の類話で、これに注意を向けねばならぬ。


13

 Bidpai 或は訛つて Pilpay といふ。今はビドパイ物語と称して、一固有名詞と思做されてゐるが、亜刺利亜本に婆羅門の師 Bidbah といふのが顕はれて以来のこと、実は Pehlevi を通じて梵語に遡れば vidy[a]pati(学師)といふ普通名詞になる。要するにピドパイ物語は紀元6世紀の頃既に存在してゐた『五分経(パンチャタントラ)』即ち二頭の豺 Kara[t]aka Damanaka の話に源を発して、古代志利亜本 Kal[i]lagh wa-Damnagh 亜刺比亜本 Kalilah va Dimnah 等種々の名を附せられて西漸し、希臘本 Stephanit[e]s kai ichn[e]lat[e]s 羅甸本Directorium humanae vitae alias parabolae antiquorum sapientum 伊太利亜本 La Maral Filosofia, tratta dagli antichi scrittori 独逸本 Buch der Byspel der alten Weisen 等の転訳に依つて、中世の欧羅巴文学に大影響を与へた。(Krummbacher--Ob. cit., B 表 参照) ベンフアイは喩言類話穿鑿の際、力を尽して此ピドパイ物語を分析した。(Panchatantra, §§19, 58, 77, 112, 118, 160, 220, 222, 227, 229, 230) さて、もしこれが伊曽保物語の本体に影響を及ぼしたとすれば、紀元前300年乃至紀元1000年の間であることはベンファイも既に述べた如くで、便宜の為此年代間に起つた影響や類似の蹤を、上述の三地層に別けてみるのが、さしあたり着手す可き事であらう。

 まづ新しい所から始め、近生元層ともいふ可きは、ピドパイの波斯亜訳其他或は印度本中後世の竄入にのみ在るカクストン本伊曽保物語中の類話である。
 其話はざつと次のやうだ

  1)庭鳥と玉      (Romulus I. i)
  2)鼠と蛙       (Romulus I. iii)
  3)鷲と狐       (Romulus I. xiii)
  4)病める師子王と驢馬 (Romulus I. xvi)
  5)驢馬と犬      (Romulus I. xvii)
  6)燕と諸鳥      (Romulus I. xx)
  7)盗人と犬      (Romulus II. iii)
  8)狐と鶴       (Romulus II. xiii)
  9)狼と髑髏      (Romulus II. xiv)
  10)牛と蛙       (Romulus II. xx)
  11)人間と木      (Romulus II.I. xiv)
  12)腹と四肢六根    (Romulus III. xvi)
  13)孔雀とユノオ    (Romulus IV. iv)
  14)狐と師子王     (Romulus IV. xii)
  15)狐と庭鳥      (Fabulae Extravagantes V. iii)
  16)鷲と烏       (Remicius i)
  17)二人の妻を持つ老人 (Remicius ixv)
  18)駱駝とユピテル   (Avianus vii)
  19)日の神と欲張、羨しがり (Avianus xvii)

 次に中生元層ともいふ可きはビドパイ物語の原始本に在る類話である。  其表下の如し。

  1)犬と影       (Romulus I. v.; Benfey §17)
  2)人間と蛇      (I. x.; B. § 150)
  3)*二疋の狗      (I. ix.; B. § 144)
  4)鷲と烏        (I. xiv.; B. § 84)
  5)乾酪をくわ[口-卸]へた鴉と狐 (I. xv.; B. § 143)
  6)師子と鼠       (I. xviii.; B. § 130)
  7)*王を欲しがる蛙   (II. i.; B. § 164)
  8)山の産        (II. v.; B. § 158)
  9)善人と蛇       (II. x.; B. § 150)
  10)禿頭の人と蝿    (II. xii.; B. § 105)
  11)烏と孔雀      (II. xv.; B. § 29)
  12)*アンドロクレス  (III. i.; B. § 71)
  13)*エペソの後家   (III. ix.; B. § 186)
  14)病める師子王    (III. xx.; B. § 22)
  15)*狐と葡萄     (IV. i.; B. § 45)
  16)猫と鼠      (IV. ii.; B. § 73)
  17)龍と鹿      Fabulae Extravagantes V. iv; B. § 150)
  18)狐と猫       (V. v.; B. § 121)
  19)蛇と農人      (V. viii.; B. § 150)
  20)山羊        (V. x.; B. § 50)
  21)鷲と鼬       (Remicius ii.; B. § 84)
  22)*狐と山羊     (iii.; B. § 143)
  23)*人間と木像    (vi.; B. § 200)
  24)亀と鳥       (Avianus ii.; B. § 84)
  25)師子の皮を被た驢馬 (iv.; B. § 188)
  26)二つの瓶      (ix.; B. § 139)
  27)金の卵子を生む鵞鳥 (xxiv.; B. § 159)

 前表中*印を付けたのは、ベンファィが思ふほどに類似の点が少いのを示したのである。

 さてかうして見れば、古代印度の喩言中に、ざつとまづ伊曽保物語本体中の類話を尋ね当てた訳であるが、これ丈ではまだ希臘古代に行はれた喩言の源へ遡つたとは言はれぬ。何となればビドパイ物語の原始形『五部書(パンチャタントラ)』が古代希臘の喩言集より古いといふ證拠が無いからである。『五部書』の年代は確と解らぬ。波斯の大王 Khosru Anush[i]v[a]n(531-579)が医師 Barz[u][i]に命じてベフレヴィ語に之を訳さしたといふ説が久しく行はれてゐるが、其後の研究に拠ると、此訳は現存梵本『五部書』に拠つたので無く、別の果本に基いたものらしい。『五部書』は6世紀よりずつと以前に存在してゐて、紀元1、2世紀頃求那第耶 Gun[a]dhya 撰プラクリット語の小説集 Brihatkatha に引用されてある。(G. B[u]hler--Detailed Report of a Tour in search of Sanskrit MSS. made in Kashmir, Rajputana and Central India. Bombay. 1877. p.47) そこで『五部書』の年代を紀元1世紀前後としても紀元前4世紀デメトリウスの『伊曽保物語集』はおろか、紀元1世紀ファイドルス結集と甚しい先後は無い。印度が先か、希臘が前か、是では決定されぬ。


14

 然しながらどうも印度起原説の方には強味がある。『五部書』と雖、或は紀元前数世紀の昔に編修し始められたかも知れないと言ひ得るのみならず、かの闍多伽(本生経)といふ仏教文学が其後学者間に知れわたるに従つて、印度説はぐつと優勢になつて来た。畜生、本草等の形に転生した仏陀の前生を種とするこの本生経は紀元前4世紀吠舎釐Ves[a]l[i]〔ベイシャリ=中印度の国名〕宗論の時、既に或形で存在してゐた。又其中の数十種は紀元3世紀の[穴冠+卒]堵波 Stupa (宝塔)に浮彫となつて、今 Bharahat, S[a]nch[i], Amar[a]v[a]t[i] に存してゐる。而も Bharahat の[穴冠+卒]堵波中には、現在、明らかに巴利語で、例へば Bi[d][a]la-J[a]taka (猫の闍多伽) Kukuta-J[a]taka (庭鳥の闍多伽)と話の題までも刻字してあるのもある。(A. Cunningham--The St[u]pa of Bharhut; Rhys Davids--Buddhist Birth Stories 参照。ブハラハツト塔面の闍多伽は Fausb[o]ll 本の番号で、545, 12, 267, 546, 538, 357, 514, 523, 62, 206, 349, 32, 485, 181, 461, 407, 324, 372, 539, 46(268), 42, 400, 174, 352, 383, 9, 488, 547 である。) してみると本生経其ものは確に少くも浮彫の時代即ち紀元3世紀より古くなければならぬ、或は其本生経の一部が紀元前5世紀の釈迦牟尼自身の口に出たかも知れぬ。更に進んで釈迦は前代から印度の民間に行はれた動物譬喩談を借り来り、此寓言の形式で教訓を垂れたとも言へる。是に至つて始めて希臘古代の喩言と印度古代のそれとを真に比較する事が出来よう。所謂古生元層の類話が解つて来て下の表となる。

  1)狼と鶴 Javasaku[n]a-J[a]taka. Fausb[o]ll. 308.
  2)師子の皮を被た驢馬 S[i]hacamma J[a]taka. F. 189.
  3)犬と影 Culladhanuggha J[a]taka. F. 374.
  4)亀と鳥 Kacchapa J[a]taka. F. 215.
  5)狼と羊 D[i]pi J[a]taka. F. 426.
  6)禿頭と蝿 Makasa J[a]taka. F. 44. Rhi[n][i]J[a]taka. F. 45.
  7)狐と烏 Jambukh[a]daka J[a]taka. F. 294. Anta J[a]taka. F. 136.
  8)金の卵を生む鵞鳥 Suva[n][n]aha[m]sa J[a]taka. F. 136.
  9)蟹と烏 Suva[n][n]akakkataka J[a]taka. F. 389.
  10)犢と牛 Mu[n]ika J[a]taka. F. 30.
  11)孔雀とユノオ Nacca J[a]taka. F. 32.
  12)河水を飲まうとする犬 K[a]ka-J[a]taka. F. 146.
  13)師子と共に歩く驢馬 Virocana J[a]taka. F. 143.
  14)狐と庭鳥と犬 Kukku[t]a J[a]taka. F. 383.
  15)人間と蛇 Mah[a]bh[a]rata. (apud Liebrecht).
  16)樫と葦 Mah[a]bh[a]rata xii. 4198.
  17)駱駝とユピテル Mah[a]bh[a]rata xii. 4175.
  18)腹と四肢六根 Mah[a]bh[a]rata xiv. 668.

 上表中第15)より第18)迄は史詩摩訶婆羅多に類話を見出せる。唯第15)のみはリイブレヒトの言を信じての事で、今、其何巻にあるやが知れぬ。第16)の樫と葦に至つては、所謂門の柳かなで、至極有名な話。娑竭羅 S[a]gare (龍王)が大木の根こぎにされ、葦の却つて流れないのを訝つて尋ねる時、恒伽福水 Ganga が答へる条であるが、これに似た話がもう一つ印度にある。[C]almali といふ雪山の大樹、大言して風神 Pavana を罵り、其夜悔いて悉く己が枝を除き幹のみを残したところ、翌朝風神之を見て大に笑ふといふのである。第18)の腹と四肢の話も摩訶婆羅多にあるが、これだけで直ぐ此話の印度起原は定められたい。なるほど、これは Upanishad, Zend Ya[c]na, Panchatantra 等にも在るから、東洋の起原らしくあり、且つは阿波陀那の中、例へば漢訳雑譬喩経[虫扁+也]頭尾共諍喩にさへ類話が出てゐる。然し Maspero の発見した紀元前13世紀の紙葉(パピルス)中にある古代埃及の腹と頭の問答(デバア)あるを如何にせむ。プルウタルヒォスのコリオラヌス伝、リヴィウスの羅馬史にある同一の話も、してみると東洋から伝はつたので無く、独立に発生したとも思へる。類話と言つて直ぐに通借があつたと断定する事の危険はこれで解らう。

 さてここで一歩退いて、上に挙げたビドパイ文学の中生元層に立帰り、類似の最も甚しい話を調べて見よう。『五部書』編修の年代から考へて、これらの類似のみで、印度起原説を唱へる事の不可能は既に説いた如くであるが、既にその前、古くから闍多伽、阿波陀那中に他の類話がある事実から推測すると、中生元層中の或るビドパイ物語も、実は闍多伽と同じやうに古くはあるまいかと、信じられて来る。著るしい類話の数種を前の番号に続けて下に記す。

  19)師子と鼠     (Benfey ii. 208-10)
  20)善人と蛇     (Benfey ii. 244-7)
  21)狐と鹿      (Benfey §181)
  22)二つの瓶     (Benfey ii. 215)
  23)猫に形を変へる娘 (Benfey ii. 262-6)

 以上の考證はベンファイの大著に始つて、幾多の学者に討究せられたのを Joseph Jacobs が一括して見せた決論に基いてゐる。而してかふる前提の出た曉、是等の類話について印度と希臘と執れが原であると定めたいが、学者に依つて説が違ふ。不思議にも A. Wagener (Memoire sur les rapports des apologues de l'Inde et la Gr[e]ce, Bruxelles, 1854) O. Keller (Untersuchungen [u]ber die Geschichte d. griech Fabel, Leipzig, 1862) のやうな希臘学者は印度起原を圭張し、A. Weber (Indische Studien. III. 327-72.)の如き印度学者は希臘起原を固執した。ベンファイも亦多くの場合、希臘説に傾いてゐたが、それはまだ諸種の材料が揃はなかつて、闍多伽の古いことも未だ知れず、而もバブリウス集が、実際よりも古く思はれてゐた当時の知識に拠つた為であつて、若しベンファイが今日居たならば、或は反対に印度説へ傾いたらうと思はれる節もある。

 .文献の年代から推しても、喩言の内容から考へても、上に示した闍多伽、阿波陀那、摩訶婆羅多、五部書、嘉訓等に見える伊曽保喩言集の類話23種ばかりの中、とりわけ殊に闍多伽のみにある14種は、印度から何等かの媒介によつて、希臘へ伝はつたものと推定して、大差はあるまい。然し Rhys Davids の如く殆ど凡ての希臘喩言が印度に発したと結論するのは間違だ。氏は所謂希臘散文喩言集を以て伊曽保物語の本体と誤解してゐたのみならず、伊曽保物語の多数は古代の仏書に遡つて尋ね当てることが出来るから、恐らく印度が此物語の源だらうと漫然、結論してゐるが、よく調べて見ると、真に確かな類話は甚だ少い。多数といつたのは僅に十数種である。然るに希臘羅馬の古代に行はれた喩言の数は、ざつと五百種、(ファイドルスニ百、バブリウス三百)巴利結集の闍多伽にはざつと550種の話がある(Spence Hardy--Eastern Monachism p.170)といふからには、僅か十数種の共通類話があるだけで、一方が他方から、そつくり伝来通借したと断言するのは不合理であらう。それ故本論の講述者はジォゼフ・ジェイコブスの説の如く、少数の喩言が確に印度から希臘へ伝来した事と信じると同時に、希臘も亦独立に多数の喩言を発明したと考へる。


15

 ジェイコブスの炯眼は、東西洋喩言の橋渡しとして他の一方面に頗る興味ある研究の新天地を発見した。Talmud, Midrash 文学の中から幾多の堕喩言を蒐集したのである。此収穫を五部に別つ。

  (一)最古の印度希臘喩言にあるタルムッド喩言
  (二)希臘喩言及び後期印度喩言中のタルムッド喩言
  (三)印度にあつて希臘に無いタルムッド喩言
  (四)希臘にあつて印度に無いタルムッド喩言
  (五)印度にも希臘にも無いタルムッド喩言。

 是等のタルムッド喩言は、印度希臘のそれに比して其数頗る少く、僅に30種ばかり、而も其中6種或は4種を除いて他は皆、印度か希臘か、或は双方に類話を求め得るといふ以上これはまさしく他国より借来つた話である。それでなほ精しく調べると、タルムッド喩言は希臘よりも、寧ろ印度に縁近いさうだ。

 是等の喩言は抑も何時頃から行はれ出したか。タルムッド中最古の喩言は Rabbi Jochanan Saccai に関係して話されてある。師は紀元前1世紀、耶路撒冷〔エルサレム〕攻落の後 Jabne の学舎を設立して、一種の学風を振興した人で、伝に拠れば「其学科より Mishle Shu'alim(野干物語)及び Mishle Kobsim を逸せず」とある。後の書に「紀元2世紀の人 Rabbi meir 野干物語三百種を知る」又「ラビ・メイルに至つて喩言の学者亡ぷ」ともある。

 「ミシュレ・シュハリム」は狐の喩言といふ謂だが、「ミシュレ・コブシム」に至つては何の義とも解らぬ。然しジェイコブスに従ふと、希臘の古伝に一種の喩言集は常に Kybisas, Kybiosios 或は Kibyss[e]s といふ利比亜人の撰だといふ話がある。現にバブリウスも「喩言を始めて唱へたは希臘人で Aisopos 利比亜人で Kibyss[e]s」と二巻の序歌に言つてゐる(Rutherford--Babrius 参照)。しからば Kobsim 或は Kibyss[e]sでは無いか知ら。

 然るに希伯来文字メム[ ]とサメク[ ]とは能く似てゐて、兎角筆写の際誤り易い字である。もしメムをサメクとして見たらどうだらう。即ち元のサメクがメムに誤写されたものと仮定したらどうだらう。あの難解の Mishle Kobsimが Mishle Kobsis になる。而して希伯来には母音を表はす文字が無いのだから、Kobsis を Kubsis と読んでも差支無いので即ち直に Kybises 物語と読めるでは無いか。希臘の古伝もある事であり、かたがた此推定は確められよう。然らば紀元1世紀ヨカナン・ペソ・サッカイ師の世にはキュピセス物語集が既に在つたものと見える。

 然し更に百年を経てメイル師の世、唯三百種の野干物語あるのみで、キュピセス物語の名が見えないのは何故だらうといふに、オットオ・クルウシウスの研究に従へば3世紀のバブリウスは2世紀のニコストラトス『喩言十巻(デカミュチャ)』を律語にしたので、話の数凡そ三百種ある。ここで上記バブリウスニ巻序歌の語を参照してみると、ニコストラトスは、デメトリウスの『伊曽保物語集』と『キュピセス物語』とを合せて編修したものらしく、従つて希臘文学を移植したといふメイル師の知つてゐた所謂野干物語三百種とは、ニコストラトスの『喩言十巻』である事が解る。キュピセス物語は既に其中に含まれてゐるから、自然其名が亡びたのであらう。

 地中海を取囲む古代文明国には、古くより希臘喩言と利比亜喩言との区別を立てる伝説があつて、これはバブリウスのみでは無い、アィスヒュロスもアリストテレスも、幾多の美辞学者も、また皇帝ユリアノスさへも、此二流の喩言を差別してゐる。印ち希臘の古伝には喩言の一種は確に外来のものであるといふ説が絶えずにゐたのだ。さて此漠然たる利比亜よりとは何処からだらう。曰く埃及経由印度と解して可い。

 尤も印度伝来の途に二つある。一つは希臘最古の喩言中にほのみえる印度の影響で、これは仏教以前、即ち闍多伽以前の印度民俗伝説が浸潤したものである。もう一つは Avianus, Babrius 等に現はれた闍多伽の影響で、これは或る一定の期間に東洋から渡来した譬喩談、印ち利比亜喩言キュピセス物語の感化である。前者は民俗伝説の不思議たる伝播或は暗合で、到底其伝来の経路を正確に辿り知ることが出来ないが、後者の渡来した一定の期間は、種々精密たる考證に依りて、略推定する事が出来る。ジェイコプスの説によれば、此渡来は紀元1世紀錫蘭〔セイロン〕の使節が羅馬に朝して皇帝クラウディウスに見えた時の事だといふ。此時闍多伽ぶりの喩言数種を載せた所謂キュピセス物語が伝来したのだらう。

 然し、一体キュビセスといふ名はどうして出来たのか。此疑問はまだ明かに釈けない。Leon Feer (Avad[a]na-[C]ataka. Paris 1891)の説によれば、いつもよく闍多伽中に引合になる覚者(ブッダ)は、釈迦以前二十七仏陀の第二十七者、迦葉波 K[a]syapa であるといふ。然らば希臘喩言が伊曽保といふ人名の下に集つた如く、利比亜喩言も、夙に K[a]syapa といふ覚者の作となつてゐたのではあるまいか。K[a]syapa が転訛して Kybisses となるか、どうか、そこは、勿論、明言できぬが、とにかくこれは一の仮定説、而もどうやら脈のありさうな説だ。ジェイコプスは本生経以前に Itah[a]sa K[a]syapa (Also sprach K[a]syapa)といふやうな喩言集があつたのだらうと想像を逞しうした。今日の所では喩言の古史はここで止まる。余は想像に想像を重ねるのみ。

 論少し岐路に入るが、一時伊曽保物語の源かと疑はれた亜刺比亜本 Loqman 物語其他に就いて一言しよう。要するにロクマソ物語は13世紀の一基督教徒の作、ロクマンは Balaam の複数だといふ事は、夙に Derenbourg (Berlin, 1858)に看破され、Petrus Alphonsus (Disciplina clericalis, ii. 7)に "Balaam qui lingu[a] Arabica vocatur Lucaniam (Lucman)" とあるので證明されてゐる。又 Landsberger (Die Fabeln des Sophos, 1859)が発見した斯利亜喩言67種は、実の所、11世紀頃の作で、希臘の翻訳である。集中51種の喩言は1781年莫斯科写本に拠つて Matthai が出版した Syntipa tou philosophou ek t[o]n paradeigmatik[o]n autou log[o]n 中62種の希臘喩言と同一である由。どの道、ロクマンもソフォスもシュンティパスも、大体に於てバブリウスの焼直に過ぎぬ。

 ここに一つ注意す可きは、馬太〔マタイ=Matthai〕出版 Syntipas 喩言と、同名の書 Syntipas とを混同しない事である。後者は中世以来東羅馬から欧洲全体に流行した有名の書で、東洋本では Sindibad 或は Sandabar 物語、西洋本では七賢人物語、Dolopathos, Erasto 等種々の名で知られてゐる。(Krummbacher--op. cit.; Benfey--M[e]langes asiatiques III. 2. 188-203.; Panchatantra I.; Comparetti--The Book of Sindibad 等参照)。此七賢人物語に就いては別の研究を発表したいから、ここには只馬太の出版と無関係の点を断つて置く。

 これでまづシュタインヘエヴェル本又カクストソ本の解剖から着手して終に喩言の源に遡り、其路すがら所謂 Romulus 四巻がファイドルスの散文化、Remicius, Avianus がつまりバブリウスだと解つて、伊曽保物語本体の変遷を明らかにしたが、いまだ Fabulae Extravagantes といふ部の出処を述べなかつた。中世に於て新に附加した此喩言は、動物譬喩談といふよりも寧ろ動物諷刺談であつて、かの Roman renard (「狐の裁判」)に類似してゐる。而してこれは常に Marie de France の名と関係がある。このマリイ・ド・フランスとは何者ぞ。


16

 中代英文学、那耳曼仏蘭西文学等、英仏の文芸に跨つてゐるこの才媛の著作中、殊に其喩言集に就いては、ヴィュルツブルフ大学羅曼及び英吉利文献学教授 Eduard Mall--Zur Geschichte der aesopischen Fabeldichtung im Mittelalter (Zs. f. rom. Phil. ix. 161-203)の研究があり、其遺業を総いで Karl Warnke--Die Fabeln der Marie de France (Bibliotheca Normannica, hrsg. von Hermann Suchier VI. Halle, 1898)がある。

 まづ第一に決定す可きは今 London, Bruxelles, G[o]ttingen に現存する羅甸喩言集、即ちエルヴィゥは Romulus Anglici cunctis exortae fabulae (Hervieux II. 564-648)と命名しエステルライがロムルス刊行の際、附録として掲げた三写本が、果してマリイ喩言集の原本であるか否かである。マルの精細なる考究で次の結果が出た。是等の三写本は三部から成立つ。

  (一)ロムルス集の一異本10世紀編修 Romulus Nilanti (Anonymus Nilanti アドマル集とは別)から抜粋の喩言45種。
  (二)普通のロムルス集から抜粋の喩言15種。この終に Hactenus Esopus; quod sequitur addidit rex Affrusとあつて、
  (三)追加喩言74種。其内多数はマリイ喩言集に出てゐる。

 一見しては如何にもマリイの写本らしいが、実はさうで無い。マルの研究に拠れば、かの有名なる「猫に変る娘」(或は鼠の夫さがし)の話が、此写本中にも見えてゐるが、話の中に鼠が夫を覓めに歩きまはつた末、終に mulus(驢馬)と結婚するに至る条は、確にマリイ喩言七三、De mure uxorem petenteの中、古代仏蘭西語 Mulet (鼠。近代仏蘭西語 Mulot )の誤訳であるから、羅甸写本の方が却つて後に出来たので、マリイが其原本である。(此説明に関してはヴァルンケに少しく異議があつて、此処の Mulus は英語の Mole 土龍の羅甸化かも知れぬといふ。)

 ヴァルソヶも亦決論に於てマルと同じく、其為種々の證拠を挙げてゐる一に、マリイ喩言六七、De corvo pennas pavonis inveniente の第四行

   Sie esguarda tut envirun;
   plus vil tint que nul oisel

を挙げ、此処ではどうしても Sie esguarda をsi s'esguarda と校訂して読まなければならないのを、羅甸本(Hervieux II. p.603)には Si を其儘 Sie les と解して Versans igitur eas et circumspiciens, honestum putat si eis circumdatus incedere posset と訳してゐる。これだけでも羅甸本の方が翻訳と解る。

 それではマリイの原本は何だらう。喩言の跋第13行に

   Esope apel[e] um cest livre,  
   kil translata e fist escrivre,
   de Griu en Latin le turna.
   Li reis Alvrez, ki mulut l'ama,
   le translata puis en Engleis,
   e jeo l'ai rim[e] en Franceis

とあつて、撰者マリイは確に英吉利本に基いたと明言してゐるが、篇中所々マリイが仏蘭西語に翻訳しにくかつた語 wibet (65, 27 hornet) widecoc(57, 20 huitecox) welke (12, 3; 14, 18 whelk) 等が其儘中代英語で残つてゐるので、愈々此断言は確かめられる。加之、最も有力なる点は Sepande (23, 34, 39; 74, 10; 96,7)といふ難解の語で、意味はヴァルンケの解註に G[o]ttin (der Tiere)とある如く神の義であるが、後世の写字生は其意味を解せなかつた為、多くは justise, deuesse, nature, criere 等の語を代用して置いた。然しマルは此語を直ちに古代英語 Sceppend(e) 中代英語 Schippend 北部及び中部方言 Seppande (M[a]tzner-Goldbeck, Altenglische Sprachproben I, p.57)即ち造物主と看破し、これに拠つて、マリイが英吉利の原本を用ゐたことを證明するのみならず、更に其原本は古代英語の本でも、アルフレッド大王の作でも無く、Sepande に C が欠けてゐる所から、原本は12世紀の初年、多分英国中部方言で書かれたものだらうと推定した。而して Li reis Alvrez とあるはロムルス集が「皇帝」ロムルスの作といふのから類推附會したのである。

 ジェイコブスは更に進んで此アルフレッドを何者かと尋ね、Roger Bacon (Compendium Studii. ed. Brewer. p.471)の挙げた Alfred the Englishman といふ学者だらうと、臆説を築いてゐるが、どうもまだ全く信は措けない。而して論中に希伯来の有韻散文 Mishle Shu'alim「野干物語」(喩言百七種)の作者を挙げたのは後人を益する事頗る多い。Roth, Steinschneider, Warnke も此希伯来喩言を精密に研究した。此作者は Rabbi, Berachyah ben Natronai ha-Nakdan といひ、其喩言集は、マリイ本と同系統に属して、亜刺比亜を通じて、余程、印度の影響を受けてゐる。或は東羅馬から来た東洋種と接触してゐるとも言へる。此点に就いては学者の説がまだ一定しないが、とにかく Fabulae Extravagantes は東洋喩言の伝来転訛と見て差支は無い。


17

 マリイが喩言集以来12世紀の英国は一時実に喩言の本国の如く見えた。現に種々のロムルス集が、此国で筆写され、殊にロムルス集1、2、3巻を羅甸の聯旬に書き改めた写本は Garicius, Garritus, Galfredus, Hildebertus, Ugobardus de Salmone, Waltherus, Salo, Salone, Serlo, Bernard de Chartres, Accius, Alanus 等の名で非常に広く愛読された。N[e]veletが1610年フランクフルトで Mythologia Aesopica に出板した集は即ちこれである。所謂 Anomymus Neveleti であるが、エルヴィウの穿鑿に依つて、今此書の撰者は Gualterus Anglicus (Walter of England)と定まつた。其後、此結集の系統やら、他の支流から種々の喩喩言集が出てゐるが、それはエルヴィウの大著及びA表に譲つて置かう。

 唯ここに興味ある一事実は当時英仏に行はれた伊曽保喩言が有名なる Bayeux の帷帳に出てゐる事だ。これは女王マティルダが親から織り成したと伝へて、英国征伐の顛末が、重なる意匠になつてゐて、ハレイ彗星の図も出てゐる。喩言の意は帷帳の下の縁にあつて、古雅掬す可き味を呈してゐる。其喩言は「狼と鶴」「狐と烏」「鷲と亀」「狼と羊」「狐と師子」「師子王と野獣」「狐と山羊」「燕と諸鳥」、あとは判明しないが、「二頭の犬」「師子の皮を被た驢馬」「エペソの後家」またもう一つ「狐と葡萄」であるらしい。

 喩言集と銘を打たないでも、当時民間に行はれ、僧侶もよく参考した種々の通俗書類、随筆、説教集等に伊曽保物語の断片が散見する。其重なるは13世紀 Odo de Cerintnia の Narrationes、14世紀 John of Sheppey, John of Salisbury, Walter Mapes の書である。而して詩人 Chaucer, Gower, Lydgate が喩言を好んだ事は人の熟知する所だ。

 中世の終と共に喩言流行の中心は独逸に移り、印刷術の発明につれて刊本伊曽保物語は、そこから全欧に流布した。独逸に於ける最初の刊本は Boner の Edelstein 喩言百種である。而してシュタインヘエヴェルの伊曽保物語集が近代欧羅巴、喩言集の元租たることは既に述べた如く、これより英国にカクストソの翻訳出で、17世紀中葉迄は、英吉利本の喩言と言へば殆どこれに限るやうであつたが、其後 John Ogilby, Sir Roger L'Estrange, Rev. S. Croxall 等の新訳が好尚に適ひ今に繙読せられる。19世紀に入つてまたもRev. T. James, Townsend, Caldecott, Crane の新本が出て、皆それぞれの読者を有つてゐる。


18

 15世紀の読逸本英吉利本の伊曽保物語中、最後に位する笑話 Facetiae は希臘喩言には直接の関係無く、ファイドルス其他とは系統を異にするが、広く民俗伝説を研究する者、或は東西喩言の関係を深く知らうとする者には、また格別の興がある。シュタィンヘエヴェルは自家編修の此部分を Fabulae collectae と名づけたが、前に一寸述べた如く、此笑話の一部は12世紀の初年西班牙に居住した猶太人ペトルス・アルフォンスス著の抜粋である。此僧はじめ Moses Sephardi 即ち西班牙の摩西〔モーゼ〕と呼び、1106年国王アルフォンソ2世の保護の下に改宗して名まで変じ、其時猶太人に改宗を勧める為、改宗前の摩西と改宗後の彼得との問答を面白く書き連ねたことがある。然し一生の述作中、かの笑話集の原本となつた Disciplina clericalis ほど一世に持囃されたものは無い。北はイスランドまでも此書が知れ渡つたといふ。実に東洋の笑話を一時多数に欧洲へ知らしたのは、此書が始りで、P[e]re Aunfors の名で、仏蘭西の笑話 Fabliau 伊太利亜の小説 Novelle に大影響を興へた。

 今一つ、独逸本中の笑話に材料を供給したのは、Poggio Bracciolini(1381-1459)の Facetiae である。古典写本の蒐集家として知られた学者で、法王庁の尚書でもあつた此ポッジォオの笑話は、1470年頃の刊行で種々の雑書、又見聞から拾ひ集めたのであるから、敢て喩言とは言はれないが、一度、シュタインヘエヴェル本の一部となつてより以来、普通の伊曽保物語に混入して了つた。例へば日本寛永16年刊行の伊曽保物語三巻中下巻第二九、出家と豕の事、第三〇、人の心の定らぬ事は、共にポッジォオの書に在る。前者はまた Le Sage (Gil Blas V. 1) Cent nouvelles (96)にもあり、後者は、親と子が驢馬を牽いたり、これに乗つたり、終に担いだりする話で La Fontaine (III. i)にも Conde Lucanor といふ西班牙の笑話集にも又シュンティパスの一異本たる土耳古本「四十国老(ヴィジル)物語」中、夫人の述べる第一九話にも類話を見る。

 之に対して寛永本下巻第三〇、鳥、人に、教化する事は、アルフォンソ書中の話である。これは『五部書』(Benfey. i. 381)『菩薩物語』Barlaam kai Joasaph(六条学報明治44年1月 参照)『黄金伝説集』Legenda Aurea. (c. 175)其他にある極めて有名の話で、これについては Gaston Paris (L[e]gendes du moyen [a]ge. Paris 1904 p.225-291)の古今東西に亙る精覈なる考證がある。

 一体、アルフォンソ、ポッジォオニ書の話は古に行はれて今減びて了つたといふ小亜細亜から流行しはじめた Miletos、或は Sybaris 笑話と系統を同じうするもので、なかには全く同一の話もあらう、又其後印度波斯亜から渡来したのもあらう。一般に東西の類話を調べて行くと、伊曽保物語の本体よりも、古代末期或は中世の附加竄入の方は東洋風の分子が多い。これはもとより当然の事で、欧羅巴中世には伊曽保ぶりの喩言集のほか、立派に東洋から渡来した事の明らかであるピドパイ文学、シュンティパス文学、菩薩物語、其他笑話、教訓書の類が澤山あるので、是等の謂はば水脈が絶えず、伊曽保物語に出入してゐて、頗る東洋風殊に印度風の色彩を加へるのである。まして古代印欧の交通開けた比、既にはじめより伊曽保喩言は幾分か印度喩言の浸潤を受けたのだもの、一見して、印度喩言、即希臘喩言と速断する者あるも、あながち無理で無い。而してまだ今日の処では先に述べた如く、希臘喩言が独立に発達した事を否定するだけ多数の類話が充分出て来て居ない。

 此処に於て和漢の書に散見する喩言めいた小話の一部を列記する事は敢て無益であるまい。これは講述者が調査した結果の一小部分に過ぎないので、素より不完全の表であるが、他にも吾にも後日調査の便にならうと思つて列記する。まづ漢訳藏経中、スタニスラス・ジュリヤンの探し出した十一種の書名を挙げる。

  1.Fan-mo-y[u] kin (Comparaisons relatives aux Brahmanes et aux d[e]mons, sutra de 11 folios Ox. 608) 梵魔喩経
  2.Tsien-y[u] (Comparaisons tir[e]es de la fl[e]che, sutra de 4 folios. 585.) 箭喩経
  3.Ki[u]n-nieu-pi (Comparaisons tir[e]es des boeufs. 764) 群牛譬経
  4.Pi-y[u] (Comparaisons. 736) 譬喩経
  5.I-y[u] (Comparaisons tir[e]es de la m[e]dicine. 949) 医喩経
  6.Tsa-pi-y[u] (M[e]lange de comparaisons. 1368) 雑譬喩経
  7.Khieu-tsa-pi-y[u] (M[e]lange de comparaison ancienne. 1359) 旧雑譬喩経
  8.Pe-y[u] (Cent Comparaisons. 1364) 百喩経
  9.Tchon-kin-tsa-pi-y[u] (Comparaisons r[e]dig[e]es d'apr[e]s les sutras. 1366) 衆経撰雑譬喩経
  10.O-y[u]-wang-pi-y[u] (Comparaisons d'A[c]oka 1344) 阿育王譬喩経
  11.Fa-ki[u]-pi-y[u] (Comparaisons tir[e]es des livres bouddhiques 1353.) 発句譬喩経

 此他大集譬喩王経二巻、犢子経、鹹水喩経、鸚鵡経、五陰譬喩経、生経、蟻喩経、賢愚経、雑宝蔵経、阿育王伝、阿育王経、十誦律等は、まだ一々詳しく当つて見ないが、喩言研究家のまづ手を下す可き書である。

 その證拠には例の法苑珠林に就いて探してみると、其一端を挙げても左の如くだ。

 第十九巻、三三に十誦律云……過去世時、近雲山下有三禽獣共佳、一タツ[双+双(上下)+鳥=「えびすすずめ」の意]鳥、二セン[けもの扁+爾]猴、三象……三五に十輪経云、譬如過去有王、名曰福徳、若有犯罪過乃至繋縛、王不欲奪命將付狂象、爾時狂象捉其二足欲撲其地、而見此人著染色衣、故狂象即便安徐置地不敢毀損、共対蹲坐、以鼻舐足而生慈心……は師子を救つて後救はれたアンドロクレスの話に近く、西洋では Gesta Romanorum (104)で名高く、東洋では『五部書』(Benfey. i. 211)『西域記』(Stanislas Julien i. 181; 京都文科大学本三ノ三一)に類話がある。
 第二十三巻五八には提謂経、大荘厳論偈を引いて盲亀浮木に値ふ話。
 第廿七巻八○には智度論からの龍(ナアガ)の皮の話、雑宝蔵経の五百商人の話、八一には僧伽羅刹経の鸚鵡、火林に水を濺ぐ話。
 第三十巻一に生経、狡智一少年の話。七に仏本行経一馬王鶏尸の話。
 第四十一巻七八に、旧雑譬喩経なる狐、ビ[けもの扁+彌=オオザルの意]猴、獺、兎の四獣の話がある。有名なる闍多伽で西洋にも伝はつてゐる。
 第四十四巻九四の法句喩経、狂象に逐はれて井中に隠れる人の話は『ゲスタ・ロマノオルム』『菩薩物語』さてはトルストイの書にまで現はれる高名の物語。
 第四十五巻九八に大魚事経、僧祇律、一〇〇に旧雑譬喩経、智度論を引用して各話がある。
 第四十六巻一〇四、旧雑譬喩経から例の亀と鳥の話、Kacchapa J[a]taka がある。『五部書』にも『嘉訓』にもバブリウス、アヴィアヌスにもバイユウ帷帳の織出にも見える東洋喩言。
 第五十一巻一八仏本行経、二羽の烏と夫婦の話、一九又同経二頭の鳥の話、二〇僧祇律孔雀の話、及び貍に食はれる鶏の話。
 五十三巻三三の十誦律打ブン[民の下に虫2つ=蚊の本字]とあるは Makasa J[a]taka で、ロムルス集中にもあり、後 Straparola (xiii.4)にも伝はつてゐる。賢愚経打蝿も同一話。僧祇律、五百ビ[けもの扁+彌=オオザルの意]猴救月の話、雑譬喩経、妬影の話、又十誦律、分衣の話。三四、百喩経造楼、磨刀売香、賭餅畏婦、エン[て扁+合+升=掩に通ず]米、効ケン[目扁+旬=「めくばせ」の意]、三五ホ[りっしん扁+甫=「おそれる」意]樹の話がある。
 第五四巻三五に雑譬喩経、万物無一可信の話。同経の婆羅門、毒薬を和合する話、三六に智度論、二人の僧、鬼を覓める話、旧雑譬喩経、例の犬と影の話、三七に五分律、狩する師子の話、仏本行経、亀の話の闍多伽、続いて三八に猴の心臓の話、雑宝蔵経、烏梟合戦、六度集経孔雀王の話。
 第六十四巻一一一、雑宝蔵経、王子兄弟二人の話とこれに類似の数話。一一二、大集経、師子ビ[けもの扁+彌=オオザルの意]猴二子を守る話、一二三、善見律、帝釈、鳥の子を践殺さむを恐れる話、一一四、唐奘法師行伝云婆羅ダツ[やまい垂+尼=]斯国内有列士池、池西有三獣塔とあつて兎、火中に入る有名なる闍多伽。(『西域記』京都文科大学本七ノ一四)

 第七十一巻三九に智度論の一角仙人の話、第七十六巻六五に四分律の師子と虎、野干の為に嗾されて戦ふ話。
 第七十七巻六七に大荘嚴論、路傍にある黄金を毒蛇と呼ぶ話があるが、これはビドパイ物語(Benfy 244-7)に見えてゐる。
 第七十八巻七三には赤觜鳥喩経、拘耆といふ鳥と猴とがヘビ[むし扁+也]と争ふ話、雑譬喩経、頭尾相諍ふヘビ[むし扁+也]の話が出てゐるが、後者は Midrash 喩言に全く同一の話があるので、腹と四肢の話と同型のものである。
 第八十七巻二一、大荘嚴論、盗賊ソウ[片扁。窓の別体]中に手を入れる話。
 第九十巻四〇、仏藏経、牛ば鳥、半ば鼠の如き蝙蝠の話。
 第九十一巻四八、百喩経、甘蔗の話。
 第九十二巻五二に同じく百喩経、小児を殺す婆羅門の話、又同経、妻の醜き鼻を治さうとした夫の話がある。

   以上極めて怱卒なる調査ではあるが、如何に仏教文学が世界文学と深い関係があるかの一端は、それだけでも解ると思ふ。而して日本の雑書中、梵漢伝来の分子はかたり多からうと信ずるが、まだよく研究して見ない。唯今昔物語などを通覧すると、天竺の部に勿論幾多の印度民俗伝説、或は仏教文学がある。

 其巻二に仏説耶輸多羅宿業給語、波斯匿王娘金剛醜女語、摩竭提国王燼杭太子語、貧女現身成后語、巻三に舎衙国金天比丘語、舎衛城宝天比丘語、舎衛城金銭比丘語、舎衛城宝手比丘語、巻四に天竺人兄弟持金通山語、仏御弟子値田打翁語、巻五に僧伽羅五百商人共至羅刹国語、国王狩鹿入山娘被取獅子語、一角仙人疲負女人従山来王城語、国王入山狩鹿見鹿母夫人為后語、三獣行菩薩道兎焼身語、獅子哀猿子割肉与鷲語、天竺国王依鼠獲勝合戦語、身色九色鹿佳山出河辺助人語、亀報人恩語、狐自称獣王乗獅子死語、狐借虎威被責発菩提心語、舎衛国鼻欠猿供養帝釈語、亀不信鶴教落地破甲語、亀為猿被謀語、林中盲象為母致孝語、象足踏立株人令抜語、五百商人於大海値摩竭大魚語などが広く民俗伝説、狭く喩言から観察して一顧の債値がある。震旦の部にも巻十にある嫗毎日見卒都婆付血語は面白く、本朝の部には巻二十四、百済川成飛騨工挑語の如き、雑譬喩経中に其出典とも言ふ可きものを所有してゐる。而して希臘の話 Apelles, Zeuxis の事は如何と考へると、伝説の起原通借等が或は容易に解釈し得る如く、或は忽ち疑惑に被はれる如く、そこが研究者に興味を感ぜしめ、熱心を起させる。伊曽保物語の由来を尋ねて、遥々も歩いたものかな。東西古今に亙る考證の大綱はこれでざつと述べ了つたつもり、一々の喩言を比較し解剖する精細の討究は後日を待つ。


19

 これまでの考證は系図様の表に示すのがもつとも便利だから、委細はA表〔省略〕に任せて、ここに骨組だけを一纏にして言はう。

 動物談は民俗伝説の一部で、太古人又未開人の活物説に起原し、世界中いづれの国民間にも発生する。而してもしこれを教訓、諧謔の具に用ゐる時は、動物譬喩談(或は喩言、笑話)が生じる。文化を有する国民中でこの文学上の一形式を十分に彫琢して、人口に膾炙するほど発達させたのは、東に印度と西に希臘とであつた。希臘では紀元前6、7世紀の頃、寓言を以て政論を行ひ、又諧謔に供すること流行して、終に凡べての喩言を一奴隷 Ais[o]pos の作に帰するに至り、紀元前300年の交、歴山府文庫の建立者 Demetrius Phalerus 伊曽保ぶり喩言約二百種を大成して Log[o]n Ais[o]pei[o]n Synag[o]gaiを編修したのが、第一の結集である。紀元1世紀、Phaedrus 之を羅甸の律語に翻訳して第二の結集が出来た。

 印度に於ては夙に豊富たる動物譬喩談があつたのを、紀元前5世紀の頃、釈尊、これを仮りて教化の具とした。之を闍多伽(本生経)或は阿波陀那(譬喩経)といふ。

 然るに紀元前3世紀の頃たるか、闍多伽は、其原始形たる律語の伽陀(偈)と共に錫蘭に.渡り、三百年を経て、紀元1世紀の中葉、其中、約一百種の喩言、錫蘭の使節に齋されて、歴山府で訳されたやうだ。これ古代希臘羅馬に所謂利比亜喩言であらうか、Kybisses の作と伝へられた。後世の伊曽保物語の終にいつも所謂 moral (文禄旧訳の所謂、下心)が添へてあるのは、かの伽陀の蹤かとも思はれる。

 其後、紀元2世紀の人 Nicostratos デメトリウスの結集にキュビセスの利比亜喩言を加へて一団とし第三結集 Decamythia を作つたが、今は伝はらない。3世紀に至つて、此第三結集喩言三百種を希臘の律語に書改めた者は Babrius、更に亦4世紀に此中から重に利比亜喩言の部、四十二種を羅甸の律語に書改めた者は Avianus である。

 中世を通じて伊曽保喩言はファイドルスを散文化した数種の集で伝はつた。而して其喩言総数は近世に及んで発見された律語のファイドルスより遙に多い。アヴィアヌスも亦同じく中世紀は散文化して伝はつた。バブリウスも亦同一の運命に遭遇して希臘の散文に書き更へられ其一部は宛も真に伊曽保の自ら撰した喩言なる如くに今も思はれてゐる。

 バブリウスの一部は、東洋の物語と合体して、其後亜刺比亜、斯利亜に渡つたやうであるが、11、12世紀の頃、再び欧羅巴に渡り来て、英人 Alfred の集となり、つづいて Marie de Franceを介して大陸に流布した。

 印刷術の発明あるや、1480年、独逸人 Heinrich Steinh[o]wel 始めて伊曽保物語集を刊行した。此集の巻頭にはプラヌデエスの伊曽保伝を掲げ、次にロムルス集、次にマリイ集の喩言、次にバブリウス、次にアヴィアヌス終に笑話数十種を収めた。さしもに紛糾錯雑した伊曽保喩言も、ここにひとまづ綜合されて、近世伊曽保物語の源泉となる。喩言の研究者は、まづ此集より遡るを便とする。

 古く古くと遡つて伊曽保物語の起原を尋ねたのは、宛も吉田兼好8歳の時「仏はいかなるものにか候ふらむ」と父に問ひ「第一の仏は、いかなる仏にか候ひける」と終に迫つた語のやうであるが、これは「空よりや降りけむ、土よりや湧きけむ」と反らすには及ばぬ。動物譬喩談は民族説話の一種である、東洋或は西洋の専有物で無く、汎く人間の心理状態から発生したものと断言される。

(完)

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