『12の宝石について』(断片1)
魔法と科学の間
エピプァニオス
『12の宝石について』(3/3)
(De xii gemmis)
|
[底本]
TLG 2021 006
De xii gemmis (fragmenta alia ap. Anastasium Sinaïtam,
Quaestiones et responsiones), MPG 89: 596-597.
(Q: 216: Eccl., Exeget., Med., Nat. Hist.)
『12の宝石について(De xii gemmis)』(断片2)
89.596."47t"
エピプァニオスの、ディオドーロス宛て〔書簡〕より。
89.596.48
さて、その山とその界隈がソモローン〔サマリア〕と呼ばれたのは、カナイナイオイ〔カナン〕人のひとり息子セメールに由来する。アブラアムがこの地上に登場する以前のことである。そして守り人たちがやって来たとき、彼らはサマリア人(Samarei:tai)、すなわち、守り人と呼ばれた。彼らは大地の守り人であるばかりでなく、律法の守り人でもあった。すなわち、彼らは「五書」(PentavteucoV)〔旧約聖書の最初の5書〕のみを守ったのであるが、これは、アブラアムの種子がこれによって判別されるために、エスドラス〔エズラ〕王を介して受け取ったものであった。しかし、彼らはその律法を完全に守ったわけではなかった。それゆえ『聖書』は謂う。「『神』の律法を行いながら、偶像に跪拝しつづけた」〔Esdras ii, 19_3_3〕。偶像は跪拝されてはならぬと律法が命じているのに、なお成就されたのはどうしてか。こういう理由が想像できる。すなわち、4つの族民〔?〕の穢れた神官たちは、『神』の律法どおりに偶像を嫌悪するエスドラスが住んでいることを知って、ある辺境のガリゼー〔ゲリジム〕山に偶像を急いで隠し、山に向かって祈るよう、サマリア人の心を方向転換させた。ここから、どこであれ彼らがいるところから、山に向かって祈るのである、日の出の方角にいる者らは日没の方角に向き直り、日没の方角からは日の出の方角に、また北風の方角からは南中の方角に、〔あるいは〕熊座の方角に〔向き直って〕山に向かって跪拝して祈る。それは『聖書』がこう言っていることが成就されるためである。「『神』の律法を行いながら、自分たちの偶像に跪拝しつづけた」。そこに偶像が置かれていることを、たとえ自分たちは知らなかったにしても、しかし神的な『聖書』を欺くことはできないのである。
2006.06.23. 訳了。 |