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back.gif『12の宝石について』

魔法と科学の間

大祭司の胸当て


(De xii gemmis)




『出エジプト記』28章15-30章

 次に、金、青、紫、緋色の毛糸、および亜麻のより糸を使ってエフォドと同じように、意匠家の描いた模様の、裁きの胸当てを織りなさい。それは、縦横それぞれ1ゼレトの真四角なものとし、二重にする。それに宝石を四列に並べて付ける。

第一列 ルビー   トパーズ   エメラルド
第二列 ざくろ石  サファイア  ジャスパー
第三列 オパール  めのう    紫水晶
第四列 藍玉    ラピス・ラズリ 碧玉

 これらの並べたものを金で縁取りする。これらの宝石はイスラエルの子らの名を表して十二個あり、それぞれの宝石には、十二部族に従ってそれぞれの名が印章に彫るように彫りつけられている。

 次に、組みひも状にねじった純金の鎖を作り、胸当てに付ける。更に、金環二個を作っておのおのを胸当ての上の端に付ける。そして、二本の金の鎖を胸当ての端の二個の金環にそれぞれ通して、二本の鎖の両端を金の縁取り細工に結び付け、エフォドの肩ひもの外側に取り付ける。また別の二個の金環を作って、おのおのを胸当ての下の端、つまりエフォドと接するあたりの裏側に取り付ける。更に、別の二個の金環を作り、それを二本のエフォドの肩ひもの下、すなわちエフォドの付け帯のすぐ上、そのつなぎ目のあたりの外側に取り付ける。胸当ては、その環とエフォドの環を青いねじりひもで結び、それがエフォドの付け帯の上に来るようにし、胸当てがエフォドから外れないようにする。このようにして、アロンは聖所に入るとき、裁きの胸当てにあるイスラエルの子らの名を胸に帯び、常に主の御前に記念とするのである。

 裁きの胸当てにはウリムとトンミムを入れる。それらは、アロンが主の御前に出るときに、その胸に帯びる。アロンはこうして、イスラエルの人々の裁きを、主の御前に常に胸に帯びるのである。(『新共同訳聖書』より訳文引用)





ジョージ・フレデリック・クンツ/鏡リュウジ監訳『図説・宝石と鉱物の文化誌:伝説・迷信・象徴』(原書房、2011.2.)

I.オデム
 この言葉の語源的な意味から明らかなように、これは赤い石を指し、おそらくカーネリアンである可能性が高い。よく知られているとおり、古代エジプトのヒエログリフで書かれた『死者の書』の1節がこの石で作られたお守りに刻まれ、古代バビロニアの円筒印象にもカーネリアンが用いられていた。上質なカーネリ アンはアラビアで採掘された。ヨセフスの『ユダヤ戦記』(V.五、七)や聖エビファニウスはもちろん、ギリシア語訳の七〇人訳聖書やラテン語ウルガタ聖書でも、オデムをカーネリアンの古代の名称であるsardiusと翻訳している。しかしヨセフスは『ユダヤ古代誌』ではodemを「サードオニクス」と訳している。エジプト語のchenemは赤い石を意味し、カーネリアンだけでなく、赤いジャスパーや赤いフェルドスパーにも区別なく使われていたようだ。実際、古代エジプトの細工品にはカーネリアンよりも赤いジャスパーの方がふんだんに用いられていた。したがって、モーセの時代にはodemは赤いジャスパーを指していたが、紀元前五世紀には「カーネリアン」の方が適切な翻訳だっただろう。
 sardiusを表す現代の言葉「カーネリアン」は「肉の色」を意味し、十世紀の著述家ルカ・ベン・コスタによる論文のラテン語訳で最初に用いられた。odemにはルベン族の名前が刻まれていたと言われ、この石は胸当ての一番目に取りつけられた。

II.ピトダー
 この石が、古代の著述家が書いたtopaziusであることはほとんど疑いがないようだ。これは通常クリソライト、あるいはペリドットのことで、私たちの知っているトパーズではない。というのは、プリニウスとその弟子たちはtopaziusを緑がかった色合いの石と表現しているからだ。プリニウスが語った伝説によれば、 tppaziusの原産地は紅海に浮かぶ島で、この島はなかなか見つけられなかったために、「憶測する」という意味のtopazeinからトパゾスという名がついた。しかし、ヘブライ語のpitdahは、サンスクリット語で黄色を意味するpitaから生まれた言葉のようで、本来は黄色い石、たぶん現在のトパーズを意味していた。考古学者のW・M・フリンダース・ピートリーは、おそらくこのサンスクリット語の語源に影響を受けて、ピトダーを古代エジプトで用いられていた黄色いサーペンチンだと考えている。しかし、もし淡い緑色の石がモーセの胸当ての二番目に置かれていたと認めるならば、それはたぶん淡い緑色のサーペンチンだったのだろう。
 この石はエジプトでmehと呼ばれ、しばしばお守りに使われていた。のちの時代の胸当てにはペリドットが使われたかもしれない。この二番目の石にはシメオン族の名前が刻まれた。

III.バーレケト
 この石については、七〇人訳聖書、ヨセフス、そしてウルガタ聖書はそろって、エメラルドを意味するラテン語のsmaragdusと翻訳している。紀元前、ヌビア地方のザバラ山にはエメラルド鉱山があって、エジプトではエメラルドが知られ、使われていたことが分かっているので、一般に翻訳されている「エメラルド」という言葉を使っていけない理由はないだろう。しかし、smaragdusはしばしばエメラルド以外の緑の石を意味する場合があるという点には注意しなければならない。
  虹がsmaragdusにたとえられているヨハネの黙示録四章三節の文章は、これを書いた人物がロック・クリスタルの意味でこの名前を使っていることを示しているという主張が(マイヤーズとピートリーによって)なされた。しかしこの推 測はとうてい満足のいくものではない。なぜならその推測は、クリスタルを通り抜けた光のプリズム効果とクリスタル自体を混同した結果生まれたものだからだ。虹のたとえとして使われるのはロック・クリスタルのような無色の石ではなく、まず間違いなくエメラルドのように鮮やかな色を持つ石であろう。モーセの胸当てがすでにエメラルドを用いていたかどうかはまた別の問題で、古代エジプトで、uatと呼ばれるお守りとして頻繁に使われていた緑色のフェルドスパーが最初の胸当ての第三の石だったという可能性はかなり高いと思われる。1611年にイギリスで完成した欽定訳聖書では、「カーバンクル」を四番目ではなく三番目の石としている。berekethにはレビ族の名前が彫られた。

IV・ノーフェク
 この名前は七〇人訳聖書やヨセフスの書物ではa[nqraxと訳され、ウルガタ聖書では「カルブンクルス」となっている。この名前は「燃える石炭」を意味し、ルビーやある種の上質なガーネットのように、とりわけ鮮やかな赤い色を持つ特定の石を指す言葉として使われていた。ヨセフスの見た胸当てに東洋産のルビーが使われていた可能性はかなり高いが、モーセの時代の最初の胸当てにルビーが入っていなかったことはほぼ確実だ。なぜなら、ルビーが古代エジプトで知られていたという証拠はまったくないからである。
 こういうわけで、紀元前十三世紀には、nophekという名前はアルマンディン・ガーネットか、同じような色の別種のガーネットを意味していたと思われる。欽定訳聖書では、三番目ではなく四番目の石として「エメラルド」が使われている。この四番目の石にはユダ族の名前が刻まれた。

V.サフィール
 あらゆる古い聖書では、この名前はsapphirusと訳されている。この石は私たちの知っているサファイアではない。というのはテオフラストスとプリニウスの両方が、sapphirusは金色の斑点がある石だと書いているからだ。だとすれば、二人の書いている石はラピス・ラズリだろう。
 ラピス・ラズリに見られる金色の斑点は、きらきらした黄鉄鉱の粒が散らばってできたものだ。この石はエジプトではchesbetと呼ばれ、非常に珍重されていた。ラピス・ラズリはエジプトに対する貢物や、バビロニアからエジプトの国王に対する贈り物にたくさん含まれており、世界でもっとも古い鉱山で採取することができた。それらの鉱山は紀元前四〇〇〇年には採掘がおこなわれており、現在でも同じように採掘されている。
 この素材を使ってお守りや像が作られ、それらの多くは現在でも残っている。そしてエジプトの大神宮はラピス・ラズリでできた真実の女神マアトの像を首からさげていたと言われている。この名前はラテン語で「石」という意味のラピスと、ペルシアでこの石を表すlajuwardという言葉から来ている。このlajuwardという言葉からは、空色を意味する「アジュール」という言葉も生まれた。
 古代には、ラピス・ラズリはその美しい色合いと、それを原料に作られる貴重 な群青色の染料のために、青色の石の中でもっとも珍重された。プリニウスは 『博物誌』(第37巻39)の中で、この石は彫刻を施すには柔らかすぎると述べているが、だからと言ってこの石が胸当てに使われなかったとは言えない。胸当てにはめ込まれた石は印章として使われるわけではなく、磨耗の心配はなかったからだ。しかしこの点からすると、ヘブライ語のsappirという言葉が、文字を彫りこむのに特に適した石を指しているように見えるのは少しおかしい。
 ラピス・ラズリは古代エジプトで非常に尊ばれており、ギリシア・ローマ時代にも装飾用の石としてよく使われていたという事実からすると、ラピス・ラズリが最初の胸当てばかりでなく、のちの時代のものにもはめ込まれたという可能性は高い。この五番目の石にはイッサカル族の名前が刻まれた。

VI・ヤハローム
 七〇人訳聖書とヨセフスの書物に登場する六番目の石はijaspivVで、これはたぶん緑色のジャスパーかジェードだと思われる。そしてこのことは、最初のヘブライ語のテクストでは六番目の石がyahalomではなくyashphehだったことを示すものと考えられている。ギシリア語聖書では、12番目の石はojnuvcionすなわちオニクスで、これがヘブライ語のyahalomと同じものである可能性が高い。しかしヘブライ語の文献の中にはそれを「ダイヤモンド」としているものがあり、欽定訳聖書と同様に、ルターが翻訳したドイツ語聖書の中でもこの石はダイヤモンドと訳されている。この訳はyahalomという言葉の語源が「打つ」という意味の動詞であることに基づいている。したがってこの石の名前は「打つもの」という意味になり、その抜群の硬さによって他のすべての石をカットする、言いかえれば「打つ」能力があるダイヤモンドに似つかわしい名前だと言える。
 しかし、石のカットという目的にはエメリー・コランダム、あるいはゼカリヤ書に書かれた、のみのように尖らせたshamirがもっともよく使われていた。紀元前五世紀にはダイヤモンドが彫刻に使われた可能性があるが、ごく古い時期には、ダイヤモンドがこうした目的で使用されていなかったことは確かだ。
 このように考えると、yahalomの伝統的な解釈を受け入れて、「オニクス」と訳すのが妥当だと思える。この場合、「打つもの」という言葉は、彫刻されたオニクスが印章として使用されていたことを示すものだと考えれば説明がつく。というのは、彫刻された形や文字が柔らかい素材の上に打ちつけられることによって刻印されるからだ。
 yahalomにはゼブルン族の名前が刻まれた。

VII・レシュム
 胸当てに用いられた石の中で、もっとも正体がわからないのがこの石だ。七〇人訳聖書やヨセフス、そしてウルガタ聖書はすべてliguriusという訳語を当てはめている。これはしばしばアンバーを指す名称であり、他の彫刻された石とともに胸当てに用いるにはまったくふさわしくない石だ。たぶんliguriusの元来の意味はアンバーだろう。
 北イタリアのリグリアが、ギリシアやオリエント地方にとってアンバーの主要な供給地だったためにこの名前が使われた。バルト海沿岸で採集されたアンバーは、商人によってリグリアに運ばれ、そこから他の土地に届けられた。しかしギリシア人はアンバーを指すとき、エレクトルムというもう一つの名前も使っていたため、後になってアンバーに色がやや似ている種類のヒヤシンスの名称として、さらにヒヤシンスのさまざまな種類を指す名前としてligurionが使われるようになったようだ。
 この名称のもともとの形はligurionで、これがのちにlyncurionに変化し、当時はオオヤマネコの尿(ギリシア語のluvgxou\ronすなわち尿)を意味する言葉として説明されていた。この風変わりな語源から、ligurio、あるいはlyncuriusはオオヤマネコの尿が結晶となったものだという説が生まれた。
 lyncurionという言葉は、テオフラストスの用法ではヒヤシンスとともにサファイアも含んでいた可能性がある。というのは、テオフラストスはこの石の冷たさを特に強調しているからで、これはサファイアと、さらに密度の高いヒヤシンスの特徴である。
 こういうわけで、liguriusという名前にさえ、hyacinthusという訳語をあててもそれほど的外れではない。ヨハネの黙示録21章20節に描かれたエルサレムの城壁の土台石の描写や、コンスタンシア司教聖エビファニウスが四〇〇年頃に書き記した著書で は、そのように訳されている。
 hyacinthusはサファイアとヒヤシンスの両方を指す言葉として使われていたらしいので、この言葉の訳を二つのうちどちらにするべきかは簡単には決められない。
 hyacinthusは、ヤクート語を話すアラビア人にとってはあらゆる種類のコランダムを指す言葉となった。サファイアはギリシア・ローマ時代には彫刻に用いられており、エルサレムの第二神殿のleshem石はたぶんサファイアだと考えられる。モーセの胸当てに使われた石は、古代エジプトで知られていた石でなければならないが、きわめて古い時代にはエジプトにサファイアはまだ知られていなかった。
 エジプト語のneshemという石にはすばらしい魔力があると言われているが、これがヘブライ語のleshemと同じであるというブルクシュの説を信じるなら、茶色のアゲートが最初の胸当ての七番目の石だったと考えられる。ウェンデルはneshemを茶色のアゲートと訳すにあたって、かなり信頼性のある理由を挙げている。色の名称はエジプト語では非常に自由な使われ方をしているので、赤みがかった、あるいは黄色がかった茶色のアゲートが用いられていたかもしれない。
 leshemにはヨセフ族の名前が刻まれた。

VIII・シェボー
 この言葉は古代に訳された聖書でもヨセフスの文献でも、一様にアゲートと訳されている。アゲートはきわめて古い時代には大変尊ばれていた複合石で、胸当ての石の一つに選ばれる価値がある。もっと後の時代になると、プリニウスが指摘するとおり(37章54節)アゲートはありふれた石になり、ほとんど尊ばれなくなった。それでもなお、さまざまな種類のアゲートに護符として、あるいは健康のお守りとして多くの力があると信じられてきたという事実と、これらの石に見られる多彩な色、そしてアゲートの多くに現れるふしぎな形や印によってアゲートは人気があった。
 sheboという言葉の語源から判断すると、この名称は特に縞模様のアゲートを指し、最初の胸当てに飾られた石は、エジプトの細工品によく使われる白と黒の縞のある石だったと考えられる。この石と、胸当ての七番目の石と思われる赤あるいは黄色がかった茶色の単色のアゲートは好対照をなしていたはずだ。のちの 時代の胸当てには、さまざまな種類のバンデッド・アゲートの中からどれか一つが使われた可能性がある。
 この石にはベニヤミン族の名前が刻まれた。

IX・アヒアマー
 この石についても権威あるすべての文献は一致していて、ahlamahに「アメジスト」の訳をあてている。しかしこれはコランダムの一種であるオリエンタルアメジストではなく、クォーツの濃い青色または紫色変種である。アメジストはアラビアとシリアの両方で産出される。ヘブライ語の名称は、この石が幻や夢(halomは「夢」という意味)を見せる力があると信じられていたことを示している。
 一方、よく知られていることだが、ギリシア語の名称は、この石が酔いを防ぐ効果があると考えられていたことに由来する。アメジストは古代エジプトでも知られており、たぶんhemagという名前で呼ばれていた。『死者の書』 にはhemagで作られた心臓についての記述があり、プラーク博物館[現在はカイロ博物館となっている]には心臓の形をしたアメジストの護符が二点保存されている。
 ギリシア・ローマ時代を通じてアメジストが美と力を表す石として大事にされてきたという点から、この石が最初と二番目の胸当ての両方に飾られていたと考えて間違いないだろう。
 ahlamahにはダン族の名前が刻まれた。

X.タルシシュ
 胸当ての描写にこの石が用いられているところでは、ヨセフスと七〇人訳聖書はともに「クリソライト」と訳している。欽定訳聖書では「ペリル」となっている。
 すでに述べたように、古代の文献に登場するトパーズは一般的に現在のクリソライト、あるいはペリドットを指し、「クリソライト」という名前は現在のトパーズを表す言葉として使われていた。これは、クリソライトが文字通り「黄金の石」を意味する言葉であるという点に表れている。
 tarshishの名前は、フェニキアの重要な商業の中継地であるスペインの都市タルテサスに由来している。この土地から運ばれてきた石はもちろん、コランダムの一種である現在のオリエンタルトパーズとは違うし、本物のトパーズでもない。また、tarshishという名称が、少なくとも本来は、真のトパーズを表していた可能性もほとんどない。おそらくそれはスペインで産出するクォーツの一種を示していたと思われる。これは本来黒い石であるが、熱されると退色して濃い茶色になり、さらに熱を加え続けるとどんどん色が薄くなって、最後には完全に透明になる。古代の人々はこの性質をよく知っていた。
 古代エジプトの記録には、thehenと呼ばれる石が護符の素材として頻繁に登場する。このエジプト語の名称は主に「黄色い石」を表し、トパーズか黄色いジャスパーを示すものと考えられる。ジャスパーはエジプトでは非常に古くから知られ、用いられていた。エジプトでトパーズが知られるようになったのは、たぶん紀元前五〇〇年か六〇〇年よりも後のことである。こういうわけで、地名に由来するtarshishという名前によってこの石がスペイン産に限定されてしまうという難題はあるが、アロンの胸当ての十番目の石は黄色いジャスパーである可能性が高い。
 昔のエルサレムの栄光を取り戻すために奮闘した人々によって、熱烈な信仰を傾けて作られたもう一つの胸当てにはトパーズが、たぶん本物の上質なトパーズが使われただろう。なぜなら、トパーズがユダヤ人に知られるようになったのはバビロニアにいる間か、彼らがパレスチナに帰還したあとのことだが、もともとタルテサスから持ち込まれた黄色い石がどういうものだったにせよ、本物のトパーズを知ったユダヤ人がそれをtarshishという名前で呼んだということは十分考えられるからである。
 tarshishにはナフタリ族の名前が刻まれた。

XI.ショーハム
 七〇人訳聖書では「ペリル」と訳されているが、欽定訳聖書と、ローマ・カトリックが使用する聖書、いわゆるドゥエー聖書では、一貫して「オニクス」となっている。ペリルという名前を最初に用いた古代の著述家は、紀元前1世紀のディオドロス・シクルスとディオニュシオス・ペリエゲテスだった。この名前はテオフラストスの論文には出てこないが、彼がsmaragdiと呼んだ石の中にべリルが明らかに含まれている。実際、本物のエメラルドはペリルの一種で、あの美しい色は少量含まれたクロムによる。インド産のペリルがもっとも質がよいとされている。胸当てに飾られた石のほかに、大祭司は十二部族の名前を六つずつ彫りつけた二つのshoham石を両肩につけた。証拠を慎重に吟味した結果、第二神殿の大祭司が身につけた石はアクアマリン(ペリルの一種)だと考えられる。
 モーセの時代に用いられたshoham石については、その正体を探る努力がなされているが、決め手となる明確な情報に欠けている。全体として、それはマラカイトであるというJ・L・マイヤーズの説に分があるようだ。
 マラカイトは古代エジプト人に知られ、しばしば護符の材料として使われていたらしいからである。他の緑の石と同様に、マラカイトのエジプト名はmafekであり、エジプト語の文献にはmafekの指輪について善かれている。もっと後になると、エジプトでは確実にmafekもペリルを指していた可能性がある。シナイ半島にはマクドナルドによって再発見されたターコイズの鉱山があって、ターコイズがかなり昔から確実にエジプト人に知られていたという事実を考慮すると、shoham石はターコイズだという結論を出したくなる。
 隣に並んだジェードとのコントラストを考えると、シナイ半島で見つかるターコイズの明るい青や青みがかった緑色は、マラカイトの鮮やかな緑色よりも効果的だろう。
 胸当てに飾られたshohamには、ガド族の名前が刻まれた。

XII.ヤーシュフェー
 最初のヘブライ語の聖書では、この名前の石がもともと六番目に置かれていたことはほぼ間違いないようだ。だとすれば、あらゆる古代の聖書は一致してこの石を「ジャスパー」と訳している。出エジプトからまだ間もない頃に楔形文字で記されたテル・アル・アマルナ書簡に見られるように、アッシリア語ではこの名前はyashpuと善かれた。いわゆるジャスパーの中でもっとも価値が高いのは緑の石だ。「緑色のジャスパー」が護符として、そして病を癒すお守りとして持っている力について、古代の著述家はたびたび記録を残しており、2世紀の医学者ガレノスによれば、エジプトの医学関係の著者は治療目的で緑色のジャスパーの使用を勧めている。
 1820年に著書を著した偉大なフランスの東洋学者アペル・レミュザは、ヘブライ人のyashphehと、ギリシア・ローマの人々の緑色のジャスパーは、中国語のyu石、すなわちジェード(ネフライトトジェダイト)であると指摘した最初の人物である。これらの鉱物は旧世界と新世界の両方で利用され、どの場所でもすばらしい力があると信じられていた。
 ジェードの特徴であると考えられた力が、のちにジャスパーに当てはめられたということは十分ありえるが、本物のジェードのほうがその代用品であるジャスパーよりも常に高く評価されていたのはほぼ間違いない。なぜならジェードははるかに産出量が少なく、半透明であることから、似たような色合いのジャスパーとは容易に区別がつくからだ。
 ごく最近まで、トルキスタン、ビルマ、ニュージーランドだけがジェードを産出し、それ以外の土地で用いられるジェードは有史以前の遺物か、私たちが知らない産地から出たものだった。アロンの胸当てを飾った yashphehは、ネフライトかジュダイトだった可能性が高い。後の時代の胸当てには、たぶん緑色のジャスパーが用いられたかもしれない。
 この石にはアシェル族の名前が刻まれた。


 次の表は最初と後の時代の胸当てを飾った宝石と準宝石を示したものだ。この表によって、ヘブライ語の文献から生じた大祭司の胸当てに関する謎が最終的に解けたと主張するつもりはない。しかしモーセの胸当てと、それから人世紀の間をへだてて作られた第二神殿の胸当てとの違いをここではっきりさせることによって、この問題を考えるときの難しさを少しは解消できればいいと願っている。


  ヘブライ語 七〇人訳聖書
前250年頃
ヨセフス
90年頃
ウルガタ聖書
400年頃
欽定訳聖書
1611年
新共同訳聖書
1987年
I オデム savrdion sardonuvx sardius sardius 紅玉髄
II ピトダー topavzion tovpazoV topazius topaz 貴かんらん石
III バーレケト smavragdoV smavragdoV smaragdus carbuncle エメラルド
IV ノーフェク a[nqrax a[nqrax carbunculus emerald ざくろ石
V サピール sapfeivroV i[aspiV sapphirus sapphire 瑠璃
VI ヤハローム i[aspiV sapfeivroV iaspis diamond 赤縞瑪瑙
VII レシェム liguvrion ligurovV ligurius ligure 黄水晶
VIII シェボー ajcavthV ajmevqusoV achates agate 瑪瑙
IX アヒアマー ajmevqustoV ajcavthV amethystus amethyst 紫水晶
X タルシシュ crusolivqoV crusolivqoV chrysolithos beryl 藍玉
XI ショーハム bhruvllion o[nux onychinus onyx ラピス・ラズリ
XII ヤーシュフェー ojnuvcion bhvrulloV berillus jasper 碧玉

『ヨハネの黙示録』21章9-21節

 さて、最後の七つの災いの満ちた七つの鉢を持つ七人の天使がいたが、その中の一人が来て、わたしに語りかけてこう言った。「ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう。」この天使が、“霊”に満たされたわたしを大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下って来るのを見せた。都は神の栄光に輝いていた。その輝きは、最高の宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。都には、高い大きな城壁と十二の門があり、それらの門には十二人の天使がいて、名が刻みつけてあった。イスラエルの子らの十二部族の名であった。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。都の城壁には十二の土台があって、それには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった。

 わたしに語りかけた天使は、都とその門と城壁とを測るために、金の物差しを持っていた。この都は四角い形で、長さと幅が同じであった。天使が物差しで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。また、城壁を測ると、百四十四ペキスであった。これは人間の物差しによって測ったもので、天使が用いたものもこれである。都の城壁は碧玉で築かれ、都は透き通ったガラスのような純金であった。都の城壁の土台石は、あらゆる宝石で飾られていた。

第一の土台石は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、
第四はエメラルド、第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、
第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、
第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。

また、十二の門は十二の真珠であって、どの門もそれぞれ一個の真珠でできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。[『新共同訳聖書』より訳文引用]


 この描写の中では、列挙された石と十二部族の関係が、十二使徒に置き換えられているのが容易に見て取れる。また、ここに登場した十二人の天使は、のちに十二の月と黄道宮に結びつけられた。

 十二の土台石について、ヨハネの黙示録ははっきりと、 「それには子羊の十二使徒の十二の名が刻見つけてあった」と述べている。のちに、共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカによる福音書で列挙される使徒の名前の順に従って、使徒一人ひとりにそれぞれの石が割り当てられた。
 三つの福音書では、使徒の名前の順序が少しずつ違っている。たとえばアンデレはマタイとルカの福音書では二番目に位置するが、マルコによる福音書では四番目になっている。
 そして一人の使徒に同じ石が割り当てられているとは限らない。使徒パウロは実際には十三人目の使徒であるが、しばしば彼が加わることによって使徒の順序は入れ替わる。その場合、パウロは通常聖ペテロのすぐ後に並べられ、「雷の子ら」と呼ばれるヤコブとヨハネの兄弟には一つの石が割り当てられる。
 のちの時代の割り当てでは、聖パウロは聖マティアに続いて最後に置かれている。聖マティアはイスカリオテのユダに代わって選ばれた使徒で、使徒言行録ではじめて使徒として名前が挙がっている。

(2011.03.11.)

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