第8巻
断片1 [1]さらにまた、ソロン〔伝承では、前594年に執政官に選出される。〕は父エクセケスティデスの子で、生まれはアッティカのサラミス人であるが、知恵と教育にかけては同時代の誰をも凌駕していた。また、徳の点でも余人をはるかに抜きん出、徳を称讃されることを羨望していた。というのは、久しきにわたって、あらゆる学問にいそしみ、あらゆる徳の競争者(athletes)となったからである。[2]例えば、子どもの年ごろには、最善の教師たちに師事し、成人して後には、愛知にかけて最大の評判を有する人たちとともに過ごした。だからこそ、こういう人たちと交わり、ともに過ごしたおかげで、七賢人のひとりと呼ばれたのはもちろん、そういった人士の間だけではなく、驚嘆されるすべての人たちの間においても、学識の第一位を獲得したのである。 [3]この同じソロンが、立法において大きな名声を博し、個人的な交わりや〔質問されての〕答えにさいし、さらには忠告にさいしても、驚嘆すべき人となったのは、まさしく学びにおける上達のゆえであったということ。 [4]この同じソロンが、都市〔アテナイ〕がイオニア式のあらゆる生活様式を有するようになり、贅沢と安逸さのために人々が惰弱になったとき、徳となじませ、男らしい所行に対する羨望になじませることで、改めさせたということ。だから、この人の立法によって魂を武装されたおかげで、ハルモニデスとアリスゲイトンはペイシストラトス〔在位、前560頃-527年〕一族の支配を解体したのである。[Exc. de virt. p.233 V., 551W.] 断片2 [1]リュディアの王クロイソス〔在位、前560-546年。〕は、大軍を所有し、多くの銀・金をことさらに蓄え、ヘラス人たちのうちの最高の賢者たちを呼び寄せ、彼らといっしょに過ごしたうえ、多くの贈り物をつけて送り返し、みずからも徳の上で多く益されたということ。ある時、彼〔ソロン〕を呼び寄せ、軍勢をも富をも見せびらかしたうえで、もっと浄福な者が他に誰かいるとそなたに思われるかと質問した。[2]するとソロンは、愛知者たちにとってはおきまりの率直さ(parresia)で言った、「生者に浄福なる者ひとりだに存せず。何となれば、幸福を恃む者、すなわち、運命をわが擁護者なりと思いなす者は、自分とともに最期までとどまり続けるや否やを知らず。されば」と彼は言った、「人生の最後を見届くべし。その時にいたって、なお善運たりし者をば、まことの浄福者というがよろし」と。[3]後年、クロイソスがキュロス〔キュロス2世。在位、前559-529年〕の捕虜となり、大きな積み薪の上にて今まさに焼き殺されんとするとき〔前546年〕、ソロンの箴言を思い出した。それゆえ、火がすでに燃え広がったとき、ソロンの名を続けざまに叫んだ。[4]そこでキュロスは人を遣って、ソロンの名の連呼は何ゆえかを問いたださせ、真実を知って、その言葉に心変わりし、ソロンの答えを真なりと信じて、慢心はやめて、積み薪の火を消し、クロイソスを助けて、以降、友のひとりに算入したのである。(断片34参照) [5]ソロンの考えでは、拳闘者や徒競走者やその他の競技者たちを、国家の救済にとって語るに足るほど役に立つ者とはみなさず、思慮や徳の点で抜きんでた者たちのみが、祖国の危難に際して守護できるというのであったこと。 断片3 [1]黄金の鼎をめぐって論争が生じたとき、ピュティアは次のように託宣したということ。 [2]ミレトスに生まれし子よ、鼎についてポイボスに尋ぬるや? [3]ミレトス人たちはこの神託に従うことを望み、ミレトス人タレスに最善賞を与えようとした。ところが彼は、万人中最知の者にあらずと言って、別のもっと賢人に送るよう忠告した。こういうふうにして、他の7賢人たちが譲り合って、鼎はソロンに与えられた。知恵と学識にかけて万人を凌駕していると思われたからである。しかし、彼はこれをアポロンに奉納するよう忠告した。アポロンこそ誰よりも賢明なのだから、と。(断片13[2]参照) 断片4 [1]この同じソロンが、人生の終局近く、ペイシストラトスが大衆の気に入るよう民衆演説をして、僭主制に駆り立てているのを眼にして、その企てを、初めは言葉で阻止しようと手がけた。しかし相手が意に介さなかったので、完全武装して市場に赴いた。もうまったくの老齢であったにもかかわらずである。[2]思いがけないことで、大衆が自分のところに駆け寄ってくると、武器を執ってただちに僭主制を解体するよう市民たちに呼びかけた。しかし、誰ひとり彼に意を払う者はなく、みなが彼のことを気違い沙汰と判断し、彼を耄碌したと表明する者たちもいたとき、ペイシストラトスはすぐに槍持ちたちを数人引き連れて、ソロンに近寄り、何を恃んで自分の僭主制を解体せんと望むのかと問いただしたところ、老齢を恃んでと言ったので、その知慮に驚嘆し、彼に対して何も不正しなかったということ。(断片20[4]参照) 断片5 違法行為や不正行為に手を染める者を知者だとみなすのはふさわしくないということ。 断片6 言い伝えでは、スキュティア人アナカルシスは、知恵にかけて尊大となり、ピュトに赴いて、ヘラス人たちの中に自分より知恵ある者が誰かいるか、お伺いを立てたということ。すると〔神が〕言ったという、 断片7 ミュソンという人はマリス人であって、この人はケナイと呼ばれる村に住み、生涯田舎で過ごして、多くの人たちには知られることがなかった。コリントス人ペリアンドロスに代えて、この人を七賢人に代入したのは、〔ペリアンドロスが〕残酷な僭主になったからである、ということ。[Exc. de virt. et vit. p.234 V., 552 W.] 断片8 ソロンはミュソンが暮らした地を尋ね求め、彼が打穀場で鋤に柄をつけているところをつかまえ、試しにその男に言った、「今は鋤を使う季節ではない、おお、ミュソンよ」。すると相手が、「使うのではない」と言った、「用意をしているのだ」ということ。[Exc. Vat. p.17.] 断片9 キロンは、その人生が言葉と一致していたということ、こんなことは滅多にないのを人は発見できようが……。なぜなら、わたしたちの同時代の愛知者たちのうち、大部分は、口では最美なことを言っているが、実践するのは最悪のことであり、 彼らの言説の威厳と賢しらさは、試練を通して反駁されるのを目にすることができるからである。ところが、キロンは、その生涯において、あらゆる行為における徳のほかに、言及に値する多くのことを思索し、かつ、口にしたのである。[Exc. de virt. et vit. p.234 V., 552 W.] 断片10 [1]キロンは、デルポイに赴き、自分の学識のいわば初穂をその神に捧げようと、円柱に次の三つの格言を刻んだということ。それは、「汝自身を知れ」、「過度をつつしめ」、そして第三は「保証は、破滅のもと」というものである。これらの一つひとつが、短くてラコニアふうの言い回しであるが、大いに深長な意味をたたえていた。[2]まず、「汝自身を知れ」は、教育を受けて知慮深い者になることを勧めている。そういうふうにしてのみ、人は自身を知ることができるからである。あるいは、教育の分け前に与らず、したがって道理をわきまえぬ人たちは、たいてい、自分を最も学識ある者と思いなしているが、プラトンによれば、それこそが無学の最たるものであるということ、あるいは、〔そういう連中は〕邪悪な者たちを適正な人たち、しかし有為の人士をば逆に劣悪な連中と考えるということである。けだし、ひとが自分を知り、また他者をも知ることができるのは、こういうふうに、教育と学識とにたっぷりと浸ることによってのみなのだからである。[3]次に、「過度をつつしめ」とは、万事において程をまもり、人間的な所行のどれ一つをも、エピダムノス人たちのようには、完全に決めてかかるということをしないということである。というのは、この連中は、アドリア海のほとりに住していたが、お互いに仲違いし、灼熱の鉄塊を海の真ん中に投げ込んで、これが熱いまま引き揚げられないかぎり、お互いに対する敵意をやめぬと誓いを立てたのである。ところが、こういうふうに厳しく誓って、「過度をつつしめ」を顧慮しなかったけれど、後に諸般の事情によってやむをえずその敵意を解いた。鉄塊を海底で冷たいままにしてである。[4]次に、「保証(engya)は、破滅のもと」を、結婚を禁じたのだと解する人たちがいる。結婚の申し合わせは、ヘラス人たちの大多数の間では、保証〔婚約engye〕と名づけられ、人生における最多・最大の災禍は女たちによって起こるという一般的な人生がその確証であるというのである。しかし、一部の人たちの主張では、結婚が廃止になれば生活は持続不可能であるから、〔その解釈は〕キロンにふさわしくないとして、ここの破滅を、契約のための保証や、その他、金銭に関することのための合意によるものと解釈している。エウリピデスも、 [5]また、一部の人たちの主張では、こういうふうな必要性のある場合に、友たちを誰も援助しないというのは、キロンの考えではなく、まして市民らしい考えでもなく、そうではなくて、禁じているのは、人間的な事柄についてあまりに強い確言や、後先見ずに保証人になること、限定することだ。あたかも、ヘラス人たちがクセルクセスを打ち負かしたときになしたように、という。すなわち、彼らはプラタイアイで誓った〔前479年〕、――ペルシア人たちに対する敵意を子どもたちの子どもたちに引き継がん、河川が海に流れ、人間という種族が存在し、大地が実りをもたらすかぎりは、と。ところが、しばらく後には、運命のこの上ない変わり易さに強要されて、クセルクセスの息子アルタクセルクセスに友好と同盟に関する使節派遣をしたのである。 [6]キロンの言葉は短いが、最善の生に向かう前提をすべて含んでいること、あたかも、デルポイの奉納物の中でもこれらの名言は最善のものであるということ。というのは、クロイソスの黄金製の延べ板〔ヘロドトス第1巻50〕その他の調度は消失し、この神域に不敬を働くことを選ぼうとする連中に大きな教訓をもたらしたけれども、箴言の方は、教育を受けた者たちの魂の中に永遠にたくわえられ、これにはポキス人たちも〔前356-346年〕、ガラティア人たちも〔前279年〕手をかける気にはならなかった、そういう最美なたくわえとして保たれ続けたからである。[Exc. Vat. p.17-19.] 断片11 [1]ミテュレネ人ピッタコスは、知恵において驚嘆すべき人物であったばかりでなく、この島が二人と生むことのできず、今後も――もっと多量のもっと甘い葡萄酒を産するまでは――生むことができないと思われるような、そういう市民であったということ。というのは、彼は善き立法者であったと同時に、個々人の間では市民たちに対して砕けた、愛想のよい人物で、また、祖国を三つの最大の災禍、つまり、僭主と党争と戦争から解放したのである。 [2]ピッタコスは重厚、温和、そしてみずから卑下する心を自分の内に有していたということ。だからこそ、あらゆる徳に関して完璧な人物であると万人に一致承認されていた。すなわち、立法に際しては政治的で思慮深い人物たることを、信義においては義人たることを、武装しての任にあっては勇者たることを、利得に対する雅量においては無欲恬淡とした人物たることを証したのである。[Exc. de virt. et vit. p.237 V., 552W] 断片12 [1]ミテュレネ人たちがピッタコスに領地――これのために彼が一騎打ちした――の半分を与えようとしたとき、これを受け取らず、各人均等に抽選するよう取り決め、「等分はより多いものよりもより多い」と言い添えた、ということ。つまり、「より多い」の尺度は適正さであって、利得ではないと、彼は賢明にも判断した。というのは、等分に付き随うのは好評や安全さであるが、強欲〔=より多く取ること〕には誹謗や恐怖――これらのせいで人は自分の贈り物を奪い去られる――だからである。 [2]彼がクロイソスに対しても、クロイソスが金庫から金品を好きなだけ取ることを認めたときに、上と合致した行為をしたということ。というのも、そのとき、その贈り物を受け取ることをせず、今も欲しい量の2倍を持っていると言ったと言い伝えられている。そこでクロイソスがその無欲さに驚いて、その答えについて問いただしたところ、自分の兄弟が子のないまま亡くなったため、自分の持っているのと等倍の家産を、嬉しくもないのに追加相続してしまったと言ったという。 [3]また詩人のアルカイオス――自分の最大の敵となり、詩を通して最も辛辣な批判者となっていた――をさえ、好き勝手にできたにもかかわらず、放免し、報復よりも容赦が選ばれなければならないと言い添えたということ。[Exc. Vat. p.19.] 断片13 [1]プリエネ人たちの言い伝えでは、ビアスはメッセニアの名のある生まれの乙女たちを掠奪者たちから身請けして、自分の娘として大事にしたということ。そして、しばらく後に、親族たちが探しまわってやって来ると、彼女たちを返してやったが、養育費も身代金も受け取らず、それどころか逆に、自分のもののの中から多くを贈り物としたのである。だから、いっしょに暮らしたことと善行の大きさゆえに、彼に対して処女たちは父親に対するような好意を持ち、自分の親族といっしょに祖国に帰った後も、異郷での親切を忘れることはなかった。 [2]メッセニアの漁師たちが投網で、他には何もなかったが、たったひとつ、「最高の知者へ」という印刻を持った青銅の鼎だけを引き上げたということ。そして、この調度品は引き上げられた後、ビアスに与えられたという。(断片3参照) [3]ビアスは言論において最も恐るべき、同時代の人たちの第一人者であったということ。しかし、話すことの力を、多くの人たちとは異なった仕方で用いた。すなわち、賃労のためでなく、まして収益のためではなくて、不正された人たちの救済のためにとっておいたのである。これはきわめて稀にしかお目にかかれないことであろう。[Exc. de virt. et vit. p.237 V., 552 W.] 断片14 [1]大事なのは、いかなるものであれ、権力(dynamis)を有することではなく、これをしかるべく用いることであるということ。というのは、クロトン人ミロンにとって、体力(te peri to soma rhome)の大きさにいかなる益があったであろうか? [2]テッタリア人ポリュダマスは巌に砕かれて、力(ischys)は大きくても理性(nous)が小さければ危ういということを万人に明らかにしたということ。[Exc. Vat. p.20.] 断片15 このポリュダマスは、都市スコトゥサの出身で、素手ではライオンを、あたかも眠れるがごとくにひねりつぶし、翼ある脚では疾走する戦車を追い越し、片手では落ちかかったある洞窟を支えようとした。シケリア人ディオドロスがその歴史に書いている。[Tzetz. Hist. 2, 555.] 断片16 キッラ人たちが、〔デルポイの〕神託所掠奪に手を染めたために、すでに久しきにわたって攻囲されたとき、ヘラス人たちのある者たちは祖国に引き揚げ、ある者たちはピュティアにお伺いを立て、次のような神託を得たということ。 断片17 知るべきは、ソロンが存命したのはペルシア戦争の前、アテナイの僭主たちの時代であり、ドラコンはそれよりも40と7年前であったということ、ディオドロスが主張しているとおりである。[Ulpian. ad Demosthen. Timocr. p.243, B.] 断片18 彫塑家ペリラオスは、僭主パラリス〔アクラガスの僭主。在位、前570頃-554年頃〕のために、同輩の処罰用に青銅製の牡牛をこしらえたが、自分がその処刑具の威力を最初に体験することになったということ。一般的に言って、そもそも、他者に対して何かつまらぬことを画策する連中は、自分の欲望に絡め取られるものである。[Exc. Vat. p.20.] 断片19 パラリスは、かのアッティカの青銅制作者ペリラオスをば、青銅の牡牛の中で焼き殺した人物である。というのは、この〔ペリラオスという〕男は、牡牛の装置を青銅で制作して、牛の二つの鼻孔に小笛を細工し、牡牛の横腹には戸口まで開けた。そうして、この牡牛をパラリスへの贈り物として引っ張って行く。そこでパラリスはこの人物を贈り物でもてなし、その装置は神々に献納するよう命じる。すると、かの青銅制作者、くだんの横腹を開けるや、悪巧みに満ちし裏切者に、人非人よろしく言ってのけた、「もしもあなたさまが、パラリスよ、人間どものどいつかを処罰したいとお望みなら、この牡牛の中に閉じこめて、下に火を敷き詰めなさいまし。すれば、この牡牛、そやつの呻き声にて唸るがごとくして、さらにはあなたさまは、両鼻の穴の笛によって、その呻き声に快感を覚えられましょう」。これを知ってパラリスは、かの男がおぞましく、「いざや」と彼は言った、「ペリラオスよ、そなたが最初に手本を見せてくれ、そして笛吹きたちの真似をして、そなたの腕のほどを見せてくれ」。得たりや応と、笛の真似をするために這いずり込むや、牡牛をパラリスは閉め、火を焚き付ける。しかし、死んでその青銅製品を汚すことなきよう、半死半生のところを引きずり出して、断崖から突き落とした。この牡牛については、シリア人ルキアノスが書き〔Phalaris 1, 1.〕、ディオドロス、ピンダロス〔P. 1.95.〕、このほかにも無量の人たちが〔書いている〕。[Tzetz. Hist. 1, 646.] 断片20 [1]立法者ソロンが、民会に出席して、アテナイ人たちに、僭主が完全に強力となる前にこれを解体するよう呼びかけたということ。しかし、彼に意を払う者が誰ひとりいなかったので、老齢にもかかわらず完全武装して市場に出かけ、神々を証人に呼ばわったうえで、言葉によっても行動によっても、自分の役割として、祖国の危難に救援してきたと主張した。それでも、群衆はペイシストラトスの策謀に気づかなかったので、ソロンが真実を言っているにもかかわらず、無視してしまった。[2]さらには、ソロンはエレゲイア詩を通じて、来るべき僭主制をアテナイ人たちに予告さえしていたと言われている。 [4]ペイシストラトスがソロンに、おとなしくするよう、そして、僭主制の善きことどもをいっしょに享受するよう呼びかけたということ。しかし、いかなる手を講じても彼の目論見を変えさせることができず、むしろ、ますます〔人々を〕目覚めさせ、断固として罰を加えようとしているのを目にして、何に信を置いて自分の策謀に反対するのかと彼に尋ねた。すると彼〔ソロン〕は、老齢に、と応えたと言い伝えられている。[Exc. Vat. p.21.] (断片4参照) [ヘロドトスは、時代的にはクセルクセスの御代の人であったが、次のように主張している、――アッシリア人たちは初め500年間アジアを支配したのち、メディア人たちに解体された。その後、全領土の継承権を主張する王は何世代にもわたって一人として出ず、諸都市は各自が分け合って民主的に統治した。しかし最後には、多年の後に、正義の点で衆に抜きんでた王がメディア人たちの間から選ばれた。名はキュアクサレス。この王が、隣国への出兵に手を染めた最初の王となり、全領土の嚮導の元祖となった。その後、その子孫たちは国境を接する領地の多くを獲得し続け、アステュアゲス――キュロスとペルシア人たちとによって打ち負かされた〔前549年〕――の代まで王制を拡張した。ここにわたしたちが要点をあらかじめ述べた事柄に関しては、後に、それぞれの時代にさしかかったときに、詳細を正確に書き上げよう。ところで、メディア人たちによってキュアクサレスが王に選ばれたのは、ヘロドトスによれば第17回オリュムピア年〔前711/10年〕の第2年である。Diod. II 32, 2.] [メディアの王アスティバルが老齢のために亡くなったとき、支配を継承したのは息子のアスパンダス――ヘラス人たちによってはアステュアゲスと呼ばれる――であった。しかし、この人物がペルシア人キュロスに打ち負かされたので、王位をペルシアに引き渡したが、これに関して詳細はその本来の時代に正確に書き上げよう。Diod. II 34, 6.] 断片21 キュロスがペルシアの王となったこの年に、第55回オリュムピア年〔前560/59年〕が始まったと、ディオドロスの『叢書』、タッロスやカストルの歴史書、さらにはポリュビオスや、プレゴンばかりか、オリュムピア祭に留意した他の人たちの書にも見出すことができる。その年代は全員一致してるのである。{Africanus in Euseb. praep. ev. X 10, 4.] 断片22 キュロス――カムビュセスとマンダネ(メディアの王アステュアゲスの娘)との息子――は、男らしさ、学識、その他の諸徳の点で、同時代人たちの第一人者であったということ。なぜなら、父親は彼を王者らしく教育して指導し、最も勝ったものどもに対する羨望を植えつけたからである。かくて、明らかに、年ごろ以上に徳性を発揮して、実り豊かな事業に従事したのである。 断片23 メディアの王アステュアゲスが、打ち負かされて敗走し、将兵たちに対して怒り心頭に発した。そこで、嚮導の任に配属されていた者たちを全員辞任させ、そのかわりに別人を任命し、敗走の因をなした者たち全員を選び出して殺戮した。この連中を罰することで、これ以外の者たちは危難に際して善勇の士とならざるを得ないと信じた。残忍で自然本性に無慈悲であったからであるということ。しかるに、大衆は彼の重圧に打ちひしがれるどころか、むしろ各人がその暴力と行為の違法性を憎み、変革に憧れた。そのため、彼に対する報復を目的に、大多数がお互いに声を掛け合って、旅団ごとに徒党と物騒な相談とが生じたのである。 断片24 キュロスは、伝えられるところでは、戦争の際に男らしかったばかりでなく、配下の連中に対して寛大で人情味もあったということ。そのため、彼のことをペルシア人たちは父と添え名していた。[Exc. de virt. et vit. p.238 V ., 553 W.] 断片25 [1]クロイソスが長船を建造して、言い伝えでは、島嶼に出兵しようとした〔前560/59年頃〕ということ。ビアスが[島嶼に]逗留していて、建造を眼にしたところ、王に質問された――最近、ヘラス人たちの間で起こっていることを何か耳にしたことはないか、と。そこで彼が、島人たちがみなして騎馬を動員して、リュディア出兵の心づもりをしていると述べると、クロイソスは言ったと言われている、「まさか、騎兵でもってリュディアに対して攻撃態勢をとるよう説得した者がいようとはなぁ」と。[2]すると[ピッタコスないしは]ビアスがさえぎって主張する、「されば、一方ではリュディア人たちが、内陸に居住して、島嶼の人士を陸上で取得することに熱くなっていること明らか、対して島に居住している者たちは、リュディア人たちを海上で取得できますようにと神々に祈っているとあなたは思うのではないか? 内陸〔小アジア〕のヘラス人たちに結果した災禍のために、同族を奴隷化した相手に対して海洋で自衛するために」と。するとクロイソスはこの言葉に驚いて、即座に心変わりして、建造を中止した。というのは、リュディア人たちは騎乗の仕方を熟知しているので、彼らを陸上で凌駕できると信じたからである。 断片26 [1]クロイソスは、知恵にかけての第一人者たちをヘラスから呼び寄せ、自分の幸福の大きさを見せびらかし、自分の善運を讃美する者たちには、大きな贈り物をもって讃えるを常としていたということ。そこでソロンをも呼び寄せ、愛知にかけて最大の評判を有する他の人たちと同様、こういう人たちの証言によって、自分の幸福を認証してもらいたいと望んだのである。[2]さて、彼のもとにスキュティア人のアナカルシスとビアスとソロンとピッタコスがやってきたことがあり、これを宴会と公儀のさいに最高の敬意を表したが、彼らに自分の富と権勢の大きさとを見せびらかしたのである。[3]ところで、教育を受けた人たちの間では、当時、短言法がもてはやされていたので、クロイソスが王国の幸福と征服された民族の多さとを諸士に見せびらかしたうえで、アナカルシスに――知者たちの中で年長者であったので――、存在するものの中で誰が最も男らしいと思うかと尋ねた。すると彼は、生き物の中では最も野性的な動物が、と答えた。なぜなら、ひとり彼らのみが自由のために喜んで死ぬのだから、と。[4]そこでクロイソスは、この男は間違っていると思って、二度目には自分の気に入る答えをしてくれるだろうと思いなおして尋ねた、――存在するものの中で誰が最も義しいと判断するか、と。すると彼はまたもや、動物たちの中で最も野性的なものが、と表明した。なぜなら、ひとり彼らのみが自然にしたがって生き、法習にしたがって〔生きる〕のではない。自然は神の作品であるが、法は人間の決まりにすぎず、神の〔発明品〕を用いる方が、人間どもの発明品を用いるよりも、より義しいのだから、と。[5]そこで彼はアナカルシスを笑い者にしたいと望んで、動物たちは最高の知者でもあるのかどうか、と尋ねた。すると彼〔アナカルシス〕は同意したうえで教示した、――自然の真理を法の決まりよりも尊重することこそ、知恵の最高の本質的属性である、と。そこで彼〔クロイソス〕は、彼〔アナカルシス〕のこれらの答えを、スキュティア地方の出身と動物的な暮らしぶりとの結果として、嘲笑した。 断片27 また彼〔クロイソス〕がソロンに、存在するものの中で最も幸福なものを誰か見たことがあるか、と尋ねたのも、とにもかくにも、これだけは自分に割り当ててくれると思ったからである。すると彼が、――誰をも義しくは言い当てることができない。存在するもののうち誰ひとりその生の終わりを見たことがないからだ。これなくしては、何人といえども浄福と見なされるのはふさわしくない。なぜなら、それまでの全生涯幸福と思われている人々が、まさに人生の終局に際して、最大の災禍に陥ることしばしばだからである――と言ったので、[2]王が、「いったい、わしが最高の富者だということもわからんのか」と言った。するとソロンは同じ答えを繰り返したうえで教示した、――最も多くのものを所有している人たちをではなく、知慮を最高の価値ありとみなす人たちをこそ、最高の富者と見なすべきである。けだし、知慮は、自余の何ものにも遜色ないゆえに、これを尊重する人々のみを最大にして最も確実な富を有するとなすのである、と。[3]〔クロイソスは〕ビアスにも、ソロンが言った答えは正しいのか、それとも、誤っているのか、どちらなのか、と尋ねた。すると彼が、「正しい」と前置きしたうえで言った。――なぜなら、彼〔ソロン〕はあなたの内にある善きものどもを観察したうえで判断することを望んだにもかかわらず、彼が今まで目にしたのは、あなたのまわりにあるものどものみだからである。けだし、人間どもが幸福であるのは、後者によってよりはむしろ前者によってなのである、と。そこで王が、「なるほど、金品の富を」と言った、「そなたが重視せぬにしても、友の多さにかけては、他の誰にも劣らぬほど持っているのを眼にしようぞ」と。すると彼が、その数の多さは善運ゆえであって不確かである、と表明した。[4]さらにピッタコスにも言ったと伝えられている、「最も勝れた支配としていかなるものを見たことがあるか」と。すると彼が、法習のことを特徴づけて、「彩色した材木の支配を」と答えたという。 断片28 アイソポスは七賢人たちと同時代に盛年であったが、次のように言ったということ。すなわち、彼ら〔七賢人〕は独裁者との交わり方を知らない。というのも、こういった連中とは、できるかぎり共存しないか、できるかぎり快適に共存するかすべきであるから、と。[Exc. Vat. p.22-24.] 断片29 プリュギア人アドラストスなる者が、リュディアの王クロイソスの息子でアテュスと呼ばれる子を、狩りをしていて、猪を狙って放った投げ槍で、心ならずも命中させて殺害したということ。そこで彼は、まったくの心ならずもの殺害であったにもかかわらず、自分はもはや生きながらえる価値なしと主張した。だからこそ、王に逡巡することなく、速やかに死者の墓の上で殺戮するよう求めた。[2]クロイソスも、初めは生子の殺害の廉でアドラストスに対して激怒したので、生きながらにして焼き殺そうとした。しかし、彼が覚悟を決め、死者の報いに命を捧げようとしているのを眼にして、やがて怒りもおさまり、殺害者に対する報復を止めた。〔アドラストスの〕目論見〔のせいにするの〕ではなく、自らの運命のせいにしてである。しかしアドラストスは、それにもかかわらず自分でアテュスの墓に行き、自害して果てた。[Exc. de virt. et vit. p.238 V., 553 W.] 断片30 パラリスは、多くの鳩が一羽の鷹に追いかけられているのを目にして、言ったということ。「見えるか、おお、諸君、これほど多くのものが、怯懦のゆえに、たった一羽に追いかけられているのが。いやはや、思い切って向き直りさえすれば、追いかけているものから生き残れるものを」と。(しかし彼の言ったのは空言である。なぜなら、勝利が結果するのは徳によってこそであって、劣悪者たちの数の多さによってではないからである)。そしてこの言葉によって独裁を失ったとは、『王たちの後継について』の中に記されているとおりである。 断片31 [1]クロイソスは、ペルシアのキュロスに向けて出征せんとして〔前547年〕、占いを尋ねた。託宣は―― [2]久しく権勢を保有しうるかどうかと、再びお伺いを立てたということ。すると、〔巫女は〕次のような詩句を述べた、 [3]ペルシア人たちの王キュロスは、全軍を帯同してカッパドキアの地峡に到着すると、クロイソスのもとに伝令使たちを急派した。その権勢を探るとともに、次のことを明らかにするためであった。つまり、キュロスは、クロイソスの既往の過ちを容赦し、リュディアの太守に任ずるということを。ただし、他の者たちと同様に〔拝謁を求めて〕門前に通い、奴隷たることに同意すればだが。この伝令使たちに対してクロイソスは答えた、――キュロスならびにペルシア人たちこそクロイソスに隷従するのがふさわしかろう。彼らは往時メディア人たちに隷従して過ごしてきたが、自分は未だかつて他人から命令されような真似をしたことがないのだから、と。[Exc. Vat. p.25.] 断片32 リュディアの王クロイソスは、デルポイに人を遣るふりをして、ペロポンネソスにエペソス人エウリュバトスを派遣し、そのさい、これに黄金を与えて、できるかぎり多数のヘラス人たちを外国兵として徴募しようとしたということ。ところが、派遣されたこの男は、ペルシアのキュロスのもとに立ち去って、仔細を打ち明けた。このため、エウリュバトスの邪悪さはヘラス人たちの間でも有名となり、今に至るも、邪さを悪罵したいと望む者は、相手をエウリュバトスと呼ぶのである。[Exc. de virt. et vit. p.241 V., 553W.] 断片33 [1]邪悪者たちが不正された者たちからさしあたっては報復をかわすことができたとしても、少なくとも誹謗は永遠に持続し、彼らが亡くなった後でさえも可能なかぎりつきまとうということ。 [2]言い伝えでは、クロイソスは、対キュロス戦争の前に祭使たちをデルポイに派遣して、いかにすれば自分の息子が声を出すことができるか、お伺いを立てさせた。するとピュティアは述べたという。 [3]善運はほどほどにすごし、人間的な羽振りの良さ――小さな傾きで大変動を来す――に聴従してはならないということ。 [4]クロイソスが捕虜となり、すでに火が消された後、都市が略奪され、その他に加えて、多数の銀や金が運び去られているのを眼にして、将兵たちは何をしているのかと、キュロスに尋ねた。キュロスが笑いながら、「そなたの財を略奪しているのだ」と答えると、「ゼウスにかけてとんでもない」と彼は言った、「貴殿のものをです。キュロスのものはもはや何もないのですから」と。キュロスはこの言葉に驚いて、すぐに気をかえ、将兵たちに略奪を禁止し、サルディス人たちの所有物を王のものに回収したということ。[Exc. Vat. p.26.] 断片34 キュロスは、豪雨が突発し、炎が消えたことから〔ヘロドトス第1巻87参照〕、クロイソスは敬虔な人物だと信じ、また、ソロンの答えを記憶にとどめ、クロイソスに敬意を払って自分のそばに連れ回ったということ。さらには彼を公儀にも参加させたのは、教育も知恵もある多くの諸士といっしょに生活してきたのだから、学識があると解したからである。[Exc. de virt. et vit. p.241 V., 553 W.](断片2[4]参照) 断片35 ハルパゴスはペルシアのキュロスによって海上の将軍に任命され、〔小〕アジアのヘラス人たちが友好条約を締結しようと、キュロスのもとに使節派遣したとき〔前545年〕、彼らに向かって、かつて自分に帰結したことと似たようなことをしていると言ったということ。というのも、かつて彼が結婚を望み、処女の父親に申し入れた。ところがその父親は、初めはこの結婚は不相応と判断して、もっと権勢ある者に嫁がせようとしたが、その後になって、彼が王に重用されるのを見て、娘を与えようとした。しかし彼は答えたという、――彼女をもはや妻としてはもつことができないが、側妻としてならもらうことに同意しようと〔とハルパゴスは言った〕。つまり、こういった話によって彼がヘラス人たちに明らかにしたのは、ペルシア人たちの友邦になるようキュロスが以前要請したときには拒んでおきながら、今、情勢の変化によって彼らが友好を取り結ぶことに熱心になっても、同盟者に対するようには同意を与えることはできないが、奴隷としてペルシア人たちに対する忠誠に身を委ねるなら受け容れるだろうということである。 断片36 [1]ラケダイモン人たちは、〔小〕アジアのヘラス人たちが危難にあると伝え聞いて、キュロスのもとに、ラケダイモン人たちは〔小〕アジアのヘラス人たちと同族であるゆえ、ヘラス諸都市を汝に隷従させることを禁ずるとの使いを遣ったということ〔前545年〕。キュロスはこの言葉に驚いて言った、わが奴隷どもの一人をヘラスの臣従者として派遣すれば、彼らの勇徳のほどがわかろう、と。 [2]ラケダイモン人たちがアルカディアを臣従させようとしたとき〔前560年頃〕、〔次のような〕神託を得たということ〔ヘロドトス第1巻66参照〕、 [3]ラケダイモン人たちはデルポイに人を遣って、アガメムノンの子オレステスの遺骨について、いかなる地にそれがあるかを伺ったということ。すると次のように託宣された〔ヘロドトス第1巻67-68参照〕、 [4]すなわち、生きて自分たちが同族たちともども死に値することを為す目に遭うよりは、死んだ方が勝っているからと。〔どこに続くのか?〕 断片37 [1]あるとき、ペイシストラトスの娘が聖籠運びとなったとき、美しさの点で抜きん出ていると評判になったが、若者たちの一人が近寄って、横柄にもこの乙女に親愛の情を示した〔接吻した〕ということ。しかし、この処女の兄弟たちがその横暴に腹を立てて、その若者を父親のもとに引っ張っていって、償いをさせるよう要求した。するとペイシストラトスは笑って、「いったい、わしらを憎んでいる連中を」と言った、「どうしたものか。親愛の情を示してくれる連中に罰をきせるとした?」と。 [2]同人が、あるとき、地方を通っていて、ヒュメットス山の麓で、極端に石の多い荒蕪地を耕している者がいるのに気づいたということ。その愛労精神に驚いて、こんな土地を耕して何が穫れるのかと、質問者たちをやった。[3]彼らがすぐさま言いつけられたとおりにしたところ、その農夫は言った、「この土地から悪い苦労は穫れこそすれ、自分のもとには何も残らない。その10/1はペイシストラトスに差し出すからだ」と。この独裁者はその言葉を聞いて、笑ってその土地を非課税地とした。ここから「痙攣さえ非課税のもと」*という諺ができたのである。[Exc. Vat. p.27-29.] |