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back.gif第9巻


歴史叢書

第10巻〔断片〕





断片1

 セルウイオス・テュッリオスは、タルキュニオス〔Tarquinius Superbus〕が謀反を起こしたおり〔前535年? Livy. 1. 47以下、Dionysius Hal. 4. 38.参照〕、評議場に出向いて、自分に対する企みを目の当たりにして、次のように言うのが精一杯であった、「何たる不逞か、タルキュニオスよ」と。すると相手がさえぎって、「おまえこそ」と彼は言った、「何たる不逞か。奴隷から生まれた奴隷でありながら、ローマ人たちを王支配するという不逞をはたらき、〔わたしたちの〕父親の嚮導権は、わたしたちに帰属するにもかかわらず、おまえが襲名するいわれなどひとつもない支配を取り上げたとは」と。こう言うと同時に、飛びかかってテュッリオスの手をひっつかみ、相手を階下に投げ飛ばしたということ。それでも〔相手は〕起きあがり、落下のせいでびっこを引きながらも逃れようとしたけれども、殺害された。[Exc. Vat. p.29.]


断片2

 ローマ人たちの王セルウイオス・テュッリオスは、44年間〔前578-535年〕王支配したが、この間、みずからの徳によって、共同体の少なからざる部分を世直ししてきたということ。


断片3

 [1]アテナイでテリクレスが執政の時、つまり第61回オリュムピア紀年、愛知者のピュタゴラスは、教育においてすでに一頭地を抜いていたので、周知の人物となっていたということ。というのは、教育で閑つぶしした人たちに、他に誰かいたとしても、彼こそ記録に値する人物であったからである。生まれはサモス人であった。もっとも、〔エトルリア〕テュッレノス人だと主張する人たちもいる。[2]彼の言説における説得力と優美さたるや、国のほとんど全体までが彼に心を傾注したほどであって、あたかも一種の神が顕現したかのように、毎日、全都市が傾聴するために蝟集したほどである。[3]さらに、彼が偉大であったのは、語る能力においてのみならず、魂の在りようも沈着冷静、知慮深い生活の模倣の点でも、若者たちにとって驚嘆すべき手本たるの実を示したことで、交わりを結んだ人たちを、贅沢と無駄遣いから転向させたのである。ふつうは誰しも、豊潤になると、身体であれ魂であれ、費消と卑しい堕落の方へとすっかり蕩尽してしまうものであるにもかかわらず。

 [4]ピュタゴラスは、自分の師匠ペレキュデスがデロスで病気になり、完全に危篤状態にあると伝え聞くと、イタリアからデロスへと航行したということ。そして、その地で充分な期間、その人に孝養を尽くし、全身全霊で打ち込んだので、その老人は病気から助かった。しかし、ペレキュデスは老齢と大病に打ち負かされたので、彼を手厚く包み、しきたりどおりに執行すること、あたかもひとりの息子が父親に対するかのごとくにしたのち、再びイタリアへと引き返した。

 [5]結社の人たちに、家産を得損なった人たちがいれば、兄弟に対するがごとくに自分たちの財産を分かちあったということ。それは、日々生活をともにしている知己の人たちに対してのみならず、一般に、こういう主義に加わっている人たちなら誰に対しても、そういう調子だったということ。


断片4

 [1]クレイニアスは、生まれはタラス人で、上述の組織〔ピュタゴラス教団〕の一員であったが、キュレネ人プロロスがある政治的動乱のせいで家産を失い、すっかり破滅したと伝え聞いて、イタリアからキュレネへと、充分な財貨を携えて外遊し、上述の人物に家産を回復させた。その人と一面識も持ったことはなく、ただピュタゴラス派と聞いただけで、ということ。[2]また、他にも多くの人たちが、類似の行為をしたと言及されている。そして、彼らがそういう振る舞いにおよんだのは、ただに財産の追贈においてのみならず、絶体絶命の危機においても、ともに危険を冒したのである。[3]というのも、ディオニュシオス〔1世、シュラクウサイの僭主。在位、前405-367年〕が僭主の時、ピュタゴラス派のピンティアスなる者が、この僭主に謀反を企てたが、今まさに刑を受けかけようとしたとき、先に私事を思い通りに処理するまでの猶予を、ディオニュシオスに願い出た。ついては、友たちの一人を、死刑の保証人に立てよう、と彼は主張したのである。[4]するとその権力者が、お前の代わりにわが身を牢獄に引き渡そうとするような友がいるのかどうか、と驚くので、ピンティアスは知己の一人を呼びだした。名はダモン、ピュタゴラス派の愛知者であったが、彼は遅疑することもなくすぐに死刑の保証人となった。[5]こうして、ある人たちは、友に対する好意のこの法外さを称讃したが、この保証の不適切さや狂気を批判する人たちもいた。そして、定められた刻限になると、民衆はみな馳せ参じて、〔保証人を〕立てた男が信義を守るかどうか見定めようとした。[6]しかし、すでに刻限もすぎ、誰しもがあきらめたところに、ピンティアスは危機一髪のところで駆けながらやって来た。ダモンが刑場に引き出されたときにである。友愛がみなの驚嘆の的となっていたとき、ディオニュシオスは罪人の刑を解き、自分を第三の男としてその友愛の中に加えてくれるよう頼んだのである。
  *The story of the friendship between Damon and Phintias (Pythias is incorrect) was widely known in the ancient world, and in many forms. Diodorus and Cicero De Off. 3.45; Cicero Tusc. Disp. 5.22 (quoting the tyrant: "Utinam ego tertius vobis adscriberer!") give the oldest version, the latter clearly connecting the event with the Elder Dionysius. The fullest account we possess, as given by Iamblichus Vita Pythag. 233 on the authority, as he claims, of Aristoxenus, who is described as receiving the tale directly from the mouth of the tyrant himself at Corinth, makes the occasion of the event a scheme of the court of the Younger Dionysius to put the Pythagorean reputation of friendship to the test. The account by Hyginus Fab. 257 was the source of Schiller's famous Ballade, "Die Burgschaft."
 そして、これをもとに太宰治は『走れメロス』を書いたと言われる。


断片5

 [1]ピュタゴラス派はまた記憶力の最大限の訓練をするために、次のような実践法をみずからに課したということ。つまり、前日、自分たちの身に起こった事柄を、夜明けから始めて、おし まいは夕方に至るまで、お互いに打ち明け合わないうちは、寝台から起きあがらない。そして、回想の時や、もっと閑のあるときには、一昨日のことも、一昨昨日のことも、さらには、それ以前の日々に起こったことをも思い起こそうとするのであった。これの目的は、知識や知慮、さらにはまた、ありとあらゆることや、多くのことを記憶できるといっただけのような経験のため……

 [2]また、彼らは自制心の訓練をも、次のような仕方で実践したということ。目をうばわれるような宴席に、ありとあらゆるご馳走を準備して、自分たちに供されものを長い間じっと見つめるのである。そうして、この観想をとおして、賞味のための自然的欲望を呼び起こした上で、食卓を片づけるよう従僕たちに命じ、供せられたものを味わうことなく、ただちに立ち去るのであった。[Exc. de virt. et vit. p.241-245 V., 553-555 W.]


断片6

 [1]ピュタゴラスは、輪廻転生を信条とし、肉食を忌むべきこととみなし、あらゆる生き物の魂は、死後、別の生き物になると言っていたということ。彼自身も、トロイア時代に、パントスの息子エウポルボスで、メネラオスに亡き者とされた〔『イリアス』第17巻1以下〕のを記憶していると主張した。

 [2]彼がかつてアルゴスに滞在していたとき、トロイア戦争の鹵獲品の楯が釘付けにされているのを見て涙を流したと伝えられているということ。その悲嘆の理由をアルゴス人たちに尋ねられると、自分はエウポルボスであったとき、この楯を持ってトロイアにいたと言ったという。[3]人々が信じず、彼は狂気だと決めつけるので、それがそのとおりだという真のしるしを言おうと彼は主張した。すなわち、その楯は内側の部分に古い文字で「エウポルボスの」と添え書きされているというのである。思いがけないことなので、みながその類似品を引き下ろせと言ったところ、添え書きが見つけられることになった。

 [4]カッリマコスはピュタゴラスについて、幾何学の問題のうち、あるものは発見し、あるものは彼がエジプトからヘラスに最初に導入した人物だと言ったが、その中で、次のように言っているということ――
  発見せるはプリュギア人エウポルボス――人類のために
  不等辺三角形および長さ7の円を
  ……息ある物の肉食を
  断つことを教えし人物。なれど、すぐには
  みな聞き入れることなかりき。


断片7

 [1]〔ピュタゴラスは〕質素さ(litotes)を追求するよう教えたということ。なぜなら、贅沢(polyteleia)は人間どもの家産と同時にまた身体をも堕落させるからというのである。すなわち、病気の大多数は未熟さ(omotes)から生じるのであるが、〔未熟さ〕自体が、贅沢から生じるから、と。[2]そして、火にかけない食物と飲水とで全生涯をすごすようよう、多くの人たちを説得した。真に善きものを追求するためにである。けれども、わたしたちの同時代の人たちの中に、わずか数日でも、快適と思われるものの一つ二つを差し控えるよう勧める人がいたとしたら、ひとびとは愛知をあきらめることであろう。眼に見えるものを見過ごにして、眼に見えない善を追求するのは愚かだと称してである。[3]〔ところが、ピュタゴラス学派ときたら〕俗衆にこびたり、他人事にお節介したりしなければならないときには、閑つぶしをして、何の足枷をかけられることもない。が、教育や、性格の矯正に携わらねばならないときには、〔俗事は〕時宜を得ずと称するのであって、その結果、たっぷり閑のある人々が閑なしになり、閑のない人々が閑をもてあますということになるのである。

 [4]タラス人アルキュタス〔前4世紀初めの哲学者、為政者、将軍、数学者。〕は、ピュタゴラス派であったが、家僕が大きな不正をしたことで激怒したが、激情がもとどおり鎮まると、もしも自分が激怒しなかったら、おまえはこれほどの過ちを犯したのだから、罰なしにはすまなかったであろうよと言ったと伝えられているということ。


断片8

 [1]ピュタゴラス派の人たちは、友たちに対する節操の堅固さに最大限意を用いていたということ。友たちの好意は、人生におけるもののうち、語るに足る最高の善であると彼らは確信していたからである。

 [2]友たちに対する好意の理由こそは、〔ピュタゴラス学派の〕最大事にして、最も驚嘆すべきことと、ひとはみなしてよいであろうということ。というのは、いったい、いかなる習慣があったか、あるいは、いかなる実践方法があったか、あるいは、言葉にいかなる恐るべき力があって、これによって彼らは、生活を共有するに至った人たちに、このような生き方を植え込んだのか? [3]こういったことこそ、多くの部外者が知りたいと欲して、努力に努力を重ねてきたにもかかわらず、未だかつて誰ひとりとして理解することができなかったのである。しかし、そういったことにまつわる教義が墨守された理由は、それを何ひとつ書き付けにせず、記憶によって説教を保持するという原則を、ピュタゴラス派が保持したことにある。


断片9

 [1]ピュタゴラスは、その他の〔説教〕に加えて、次のように弟子たちに説教したということ。――めったに誓いを立ててはならない、しかし、いったん誓約をしたからには、完全に遵守し、どんなことであろうと、ひとが誓いを立てた事柄は最後までやりとげるべきであり、ラコニア人リュサンドロスや、アテナイ人デマデスに類した意見表明をしてはならない。つまり、前者は、子どもは賽子によって、大人は誓約によって騙すのがよいと表明したのであり、また後者は、他の場合と同様、誓約の場合にも最も利得になることを選ぶべきであると断言し、さらに、即座に偽証した者は、誓ったことそのことを手に入れ、これに反して誓いを守った者は、あきらかに自分のものを失うのを眼にすると〔表明した〕のである。すなわち、これら両名は、ピュタゴラスとはまったくちがって、誓約は信義の確実な担保ではなく、むしろ、醜い利得や欺瞞のための餌だという立場を採ったのである。[Exc. Vat. p.29-31.]

 [2]ピュタゴラスは、弟子たちに、めったに誓いを立てることのないよう、しかしいったん誓約したら、完全に遵守するよう説教したということ。

 [3]この同じピュタゴラスが、性愛についても何が得になるか熟慮した上で、夏には女に近づかず、冬には控えめに接するよう説教したということ。というのは、性愛というものは、総体的に有害であると彼は解し、それを持続的につづけるのは、脆弱と堕落のもとと信じていたからである。[Exc. virt. et vit. p.246 V., 555 W.]

 [4]ピュタゴラスは、あるひとに、性愛はいつ用いればよいかと尋ねられて、「自分をあまりわがものとはしたくないときに」と述べたと伝えられているということ。〔プラトン『国家』430e参照〕

 [5]ピュタゴラス派は、人間どもの年齢も4つの部分――少年、青年、壮年、老年という部分――に区分し、これらのそれぞれを、1年の季節の変化に等しいと主張し、春は子どもに、秋は成人に、冬は老年に、夏は青年に割り当てたということ。[Exc. Vat. p.32.]

 [6]この同じピュタゴラスが説教したということ。――供犠しようとする人たちは、贅沢なのではなく、白くて清潔な衣服を着て、同様に、あらゆる不正な行為から身体を清浄に保つのみならず、魂をも純粋にたもって、神々のもとに赴くように、と。[Exc. de virt. et vit. p.246 V., 555 W.]

 [7]この同じ人が表明したということ。――知慮深い人たちは、無知慮な人たちのために善き物事を神々に祈るべきである。なぜなら、愚かな人たちは、人生においていったい何が真に善きものなのかということに、無知だからである、と。

 [8]この同じ人が主張したということ。――祈る際には、善きものごとを端的に祈るべきであって、細々と、例えば、能力、美、富、その他そういったものに類したものを挙げるべきではない。なぜなら、そういったもののはいずれも、それを欲求する人たちを完全に破滅させることしばしばだからである。そしてこのことは、知識のある人なら、エウリピデスの『フェニキアの女たち』の行間〔1364-1375〕から知ることができよう。それは、ポリュネイケス一統が神々に祈る箇所で、その出だしは
  〔ポリュネイケスは〕アルゴスの方に眼をやって
から、結びは
  この腕で〔槍を〕弟の胸に投げさせたまえ
まで。
 すなわち、この者たちは、自分たちにとって最美なものを祈っていると思いながら、真実には呪詛しているのだから、と。[Exc. Vat. p.32.]

 [9]この同じ人が、他にも多くの事柄を、知慮深い人生の探求のために、また、勇気や自制や、さらにはその他の徳のために、対話したので、クロトン人たちのあいだで神々にも等しく尊敬された〔前530年頃〕ということ。[Exc. de virt. et vit. 5 p.246 V., 555 W.]


断片10

 [1]ピュタゴラスは、知恵をではなく、愛知を、自分の選び(hairesis)*と呼んだということ。というのは、彼より前代のいわゆる七賢人を批判して、次のように言っていたからである。――人間は、人間にして知者たる者は一人もおらず、しばしば、自然本性の弱さゆえに、万事を直くするに足る力がないが、知者のやり方や生活を求める者は、知者と名づけられてしかるべきであろう、と。
 *選び(hairesis)……断片21の選択(proairesis)は「先に(前に)選ぶこと(pro+hairesis)」の意味。いかなる生(bios)を選ぶかが、ピュタゴラス派の中心課題であった。

 [2]しかしながら、ピュタゴラスその人、および、彼より後のピュタゴラス派について、これほどの進歩があったにもかかわらず、そしてまた、諸都市にとってこれほど善きことどもの原因となったにもかかわらず、この人たちは、万事美しいことを貶める時間というものを逃れられなかった。というのは、わたしの思うに、人間界の美しいものには、多年のあいだに、これに堕落や解体が何ひとつ生じないようなものは、何ひとつ生起しないからである。[Exc. Vat. p.33.]


断片11

 [1]クロトン人で、名をキュロンという者は、家産の点でも評判の点でも、同市民たちの第一人者であったが、ピュタゴラス派になることを欲したということ。しかし、性格が気難しく暴力的で、なおそのうえに党争的・僭主的であったので、失格にされた。そこで、ピュタゴラス派の組織に辛くあたり、大きな結社を組織し、彼らに対してありとあらゆることを言いもし、為しもして、やむことがなかった。

 [2]ピュタゴラス派リュシスは、ボイオティアのテバイにいってエパミノンダス〔前420-362年頃〕の教師となり、この人物を徳にかけて一人前に完成させ、好意から彼の養父となったということ。エパミノンダスの方は、ピュタゴラス派の愛知によって、自制、質素、その他の諸徳のひらめきを得て、テバイ人たちのみならず、彼と同時代のすべての人々の中で第一人者となった。


断片12

 前世代の人々の人生の記述は、著述家たる者にとっては難物であるが、共同の生活に益することは並々ならぬものがある。なぜなら、直言をもって明らかにするだけで、それぞれの者たちにふさわしい讃辞と非難によって、善き人々は美しく為されたことで飾りたて、邪悪な連中は貶めることになるからである。そして、称讃は、ひとの言うとおり、徳の安上がりな褒賞、非難は劣悪さに対する鞭なき罰となるからである。[2]だから、後世代の人々にとっては、いかなる人生であれ、存命中に選んだ人生は、死後、このような言及を要請されると前提するのが美しい。それは、石造りの記念碑(ただ一所を占め、すぐに駄目になる)の建立ではなく、言葉〔理性?〕やその他の諸徳(口伝えによって至るところに流布する)を〔後世代の人々が〕熱望するようになるためである。たしかに時間は、ありとあらゆるものを摩滅させるが、これら〔諸徳〕は不死のものとして守りとおし、時間が老成すればするほど、それらをますます若々しくするのである。[3]上述されたのは、明らかに、そういう人々のことであった。なぜなら、彼らは昔の人たちでありながら、今存在するかのように、万人によって記憶されているのだから。[Exc. de virt. et vit. p.249 V., 556 W.]


断片13

 ペルシアのキュロスは、バビュロニアとメディアの領土を戦争で勝ち取った〔前550年〕ので、人の住む地をすべて手に入れたとの想いに取りつかれたということ。なぜなら、有力で巨大な民族が戦敗したので、王であれ民衆であれ、自分の権力に臣従しない者は一人もいないと思ったからである。つまりは、絶対的権力をもった者たちの中には、人間の常として、その善運を持続できない者たちがいるものなのである。[Exc. Vat. p.33.]

断片14

 [1]カムビュセスは、性本来が気違いじみており、その知性を違った方向に働かせたのだが、その彼をさらにはるかに残忍で際だった者にしたのは、王権の大きさであったということ。

 [2]ペルシア人カムビュセス〔在位、529-522年〕は、メムピスとペルウシオンとを攻略した〔前525年〕後、人間の常として、その善運を維持しようとせず、昔に〔エジプトを〕王支配していたアマシス〔在位、前569-526年〕の墓をあばいたということ。つまり、柩の中にミイラ化した屍体があるのを見つけると、その死者の身体を辱め、感覚なき者にありとあらゆる暴慢行為(hybris)を浴びせ、あげくのはてにその屍体を焼き捨てるよう命じた。というのは、原地人には、死者の身体を火葬に付すという習慣がなかったので、そういう仕方によっても昔に死んだ者をさらに侮辱できると思いついたからである。

 [3]カムビュセスは、エティオピアに遠征しようとして、軍勢の一部をアムモニア人たちの攻撃に派遣し、嚮導官たちには、神託所を掠奪した上で焼き払うとともに、神域周辺住民全員を奴隷人足に売り払うよう下命したということ。[Exc. de virt. et vit. p.249 V., 557W.]


断片15

 ペルシアの王カムビュセスがアイギュプトス全土を制覇したとき、彼に対してリビュア人たち、キュレネ人たちは、アイギュプトス人たちといっしょに共同出兵したために、贈り物を送り、言いつけられたことは守ると公約したということ。[Exc. de legat. p.314U., 619 W.]


断片16

 [1]サモスの僭主ポリュクラテス〔在位、前540頃-523年〕は、最も要衝の地に三段櫂船を派遣して、航海者たちをかたっぱしから掠奪したが、同盟者たちにだけは獲られた物を返してやるのを常としたということ。馴染みの者たちで非難する者たちに対しては、「友はみな、初めから失わなかったよりも、失った物を返してもらう方が、より多く感謝するだろう」と言っていた。

 [2]通常、不正な行為には、一種の応報(nemesis)が付随し、過ちを犯した者たちにふさわしい罰を帰せるということ。〔ヘロドトス、第3巻125章参照〕

 [3]恩恵(charis)というものはすべて、後顧の憂いなきものであるから、善行を受けた相手からの称讃という美しい果実を有する。というのも、全員でなくとも、少なくとも善くしてもらった人たちの一人は、そのすべてに対する恩恵を返すときがあるから、ということ。[Exc. Vat. p.33.]

 [4]一部のリュディア人たちは、太守オロイタスの権力を逃れ、多大な財産を携えてサモスに入港し、ポリュクラテスの嘆願者となったということ。彼〔ポリュクラテス〕は、初めのうちは彼らを親切に受け容れたが、少し後には全員を殺戮して、その財産をわがものとした。


断片17

 [1]ペイシストラトスの息子テッタロス〔ヘゲシストラトスの添え名。〕は、性本来知者であったので、僭主制を拒否し、平等を求めたので、同市民たちのあいだで大きな声望を得ていた。しかしその他の〔息子〕たち――ヒッパルコス〔前514年暗殺さる〕とヒッピアス〔在位、前527-510年〕――は、横暴で気難しい連中として国を僭主支配したということ。そして、アテナイ人たちに対して多くの違法を働き、また、ヒッパルコスは見目麗しい一人の青年に恋し、これがために危険に遭遇した〔前514年〕……[2]こうして、僭主たちに対する襲撃と祖国の自由に対する共通の熱意とが、上述の男たちに具わった。が、拷問に際しての魂の頑固さと、恐るべきことを受けてもとどまって持ちこたえることは、ひとりアリストゲイトンにのみ帰するものであり、彼はいかに戦慄すべき瞬間にあっても、友たちに対する信義と、敵たちに対する罰という、最大の二つのことを求め通したのであった。[Exc. de virt. et vit. p.250 V., 557 W.]
 〔トゥキュディデス、第6巻54-57参照。また、本9巻 断片1_4〕

 [3]アリストゲイトンは、魂の高貴さは身体の最大の責め苦にさえ打ち勝つということを万人に明らかにしたということ。


断片18

 [1]愛知者の〔エレアの〕ゼノンは、僭主ネアルコスに対する謀反の咎で拷問の責め苦でもって、関与者は誰々かと、ネアルコスに尋問されたとき、「わたしは、舌に対してと同様、身体に対しても主人でいたいものだ」と言ったということ。[Exc. Vat. p.34.]

 [2]祖国がネアルコスによっておぞましい僭主支配を受けたため、〔ゼノンは〕この僭主に対して謀反を組織したということ。しかし露見し、拷問の責め苦で、関与者は誰々かとネアルコスに問い質されたとき、「わたしは、舌の主人であるのと同様、身体の主人でもありたいものだ」と言った。[3]そこで、僭主ははるかに激しく拷問にかけて責め立てると、ゼノンはある程度までは持ちこたえた。その後で、いったん責め苦をゆるめるてもらうことを、と同時に、ネアルコスに罰することを望んで、次のようなことを思いついた。[4]拷問の伸張が最高度に達したとき、激痛に精魂尽き果てたようなふりをして、彼は叫んだ、「緩めてくれ、何もかも真実を話すから」と。そこで彼らが緩めると、彼〔ネアルコス〕に向かって、近寄ってきてひとりで聞くよう要請した。なぜなら、これから言われようとすることの多くは、守秘するのが得になることだからというのである。[5]そこで僭主が喜んで近づき、相手の口もとに聴く耳を寄せると、ゼノンは僭主の耳にかぶりつき、その歯で噛みついた。従僕たちがすぐに駆け寄ってきて、口を開けさせようと、拷問にかけられていた男に、ありとあらゆる折檻を加えたが、相手はますます強く食らいついた。[6]それで、結局、その男の剛毅さ(eupsychia)に勝てず、彼を突き殺してやっとその歯をこじあけたのである。実にこういう技によって、彼は激痛からのがれ、僭主に対しては自分にできる罰を果たしたのであった。[Exc. de virt. et vit. p.253 V., 558W.]

 [幾世代もの後になって、ラケダイモン人ドリエウス〔前510年頃。ヘロドトス、第5巻41-48参照〕が、シケリアにやってきて、この地を取得して、ヘラクレイア市〔シケリアの南岸、セリヌウスとアクラガスの中間〕を建設したということ。たちまちのうちにこの市が発展したため、カルケドン人たちの妬むところとなり、と同時に、カルケドンよりも強力となって、ポイニキア人たちから嚮導権を奪うのではないかと恐れ、強大な軍勢でこの市に出兵し、力攻めで攻略して徹底破壊した。しかし、このことについては、われわれはその時代のところで詳細に書き記すことにしよう。[Diodorus IV 23, 3.]]


断片19

 [1]何らかの事件について、そんなことは決して起こることはなかろうと断言する人たちには、どうやら、人間の弱さを論駁する罰(nemesis)のようなものが付随するらしいということ。

 [2]メガビュゾスは、ゾピュロスともいい、ダレイオス王の友でもあったが、投降者となって、バビュロンをペルシアに売り渡すために、自らを鞭打ち、顔の出っ張り部分〔眼や鼻〕を殺ぎ落としたとき、ダレイオスは心痛し、もしもできることなら、バビュロン10個を意のままにするよりも、メガビュゾスが五体満足になることの方を望むと言ったと伝えられるということ。〔ヘロドトス、第3巻151以下参照〕

 [3]バビュロン人たちは、将軍としてメガビュゾスを選んだが、それは善行を、やがて付随する破滅の餌として彼らにちらつかせることになるとは知らなかったからであるということ。

 [4]この計略の成就は、上述のことが充分な証拠であるということ。

 [5]ダレイオスは、アジアのほとんど全部を制圧した後、ヨーロッパ征服を欲した〔前519年〕ということ。なぜなら、より多くのものをという飽くことを知らぬ欲望をいだき、ペルシアの権力の大きさを頼みに、人の住む地を囲い込もうとしたのである。自分より前に王支配した者たちが、より貧弱な資力しか所有していなかったのに、民族の大部分に戦勝したのに、自分ときたら、自分の前代の〔王たち〕の一人として保有したことのないほどの、それほどの軍勢を保有しながら、語るに足る作戦行動をひとつもやりとげたことがないというのは、恥ずかしいことだと考えたからである。

 [6]テュレニア人たちは、ペルシアに対する恐怖から、レムノスを棄てたのだが、ある神託によってそうしたのだと彼らは主張し、また領地もミルティアデスに引き渡したのだということ。〔ヘロドトス、第6巻140参照〕
 ところで、これをしたのがテュレニア人たちの指導者ヘルモンであったので、こういった恩恵(charis)を、その当時から、「ヘルモンの〔恩恵〕」と呼ばれることになった。[Exc. Vat. p.35.]


断片20

 [1]ローマの王レウキオス・タルキュイニオス〔在位、前535-510年〕の息子セクストスは、〔前510年、アルデア攻囲中。Livy. 1_57以下;Dionysius Hal. 4_64以下;Dio Cassius fr. 10_12以下参照〕コッラティアと呼ばれる都市に出かけ、レウキオス・タルキュイニオス〔・Collatinus〕のところに宿泊した。こちらは王の従兄弟で、ルウクレティアという妻を持ち、彼女は見目は麗しく、性格は慎み深い女性であった。ところが、夫が出征中であったので、この客人は、夜、寝室から起き出し、女部屋で寝んでいた婦人のところに押しかけた。[2]そして、やにわに扉の前に立ちはだかると、両刃剣を抜いて、「しかるべき家僕は、すでに抹殺の手配がすんだ」と言った、「お前もいっしょに屠ってやろう、姦通現場を捕らえられ、配偶者のいちばんの近親者によって相応の罰をくらった女としてだ。そういうわけだから、黙ってわしの欲求に従うことを選ぶがいい。そうすれば、懇ろあい(charis)の褒美として、大きな贈り物も、わしとの同棲も得られようし、女王の権力――私的な竈にかわる嚮導権――をも得られよう」と。[3]ルウクレティアは、あまりに思いがけないことに驚倒し、かつは、真実姦通のとがで亡き者にされたと評判されるのではないかと恐れて、そのときはおとなしくしたがった。しかし、次の日になると、セクストスは立ち去った。そこで彼女は自分の親族を呼び寄せ、客遇と同時に親類に対する冒涜を働いた者を罰せぬまま見過ごしにせぬよう懇願した。そうして自分は、これほどの暴慢(hybris)を被った身は、太陽を仰ぐのはふさわしくないと称して、両刃剣でわが胸を刺し貫いて果てた。[Exc. de virt. et vit. p.253 V., 558 W]


断片21

 [1]ルウクレティアがセクストスに犯され、その〔彼女に加えられた〕過ちゆえに自らを亡き者にしたのだが、その選択(proairesis)の高貴さを、大したことではないとして省略してよいとは、わたしたちは考えないということ。なぜなら、後世代の人たちにとって美しき探求の的となるよう、すすんで生命を棄てた女性は、当然、不死なる令名(euphemia)に値するとわたしたちは考えるからである。身体の純潔さを絶対にけちをつけられないようにすることを選択しようとする女たちが、首尾よくいった実例に自分たちを引き比べてみるためにである。[2]じっさい、他の女たちの場合は、こういったことを幾分かはあからさまにするにしても、何が〔本当に〕出来したかは包み隠して、過ちに基づく罰を用心するものである。これに反して彼女は、為されても気づかれぬことを、周知の事実となしたうえで、自らを屠り、人生の最期に、自分のための最美の弁明を残したのである。[3]また、他の女たちなら、心ならずもの出来事に対しては先に容赦を持ち出すところを、彼女は、力づくの暴慢(hybris)に対して死罪を宣し、誰か中傷したいと欲する者がいても、選択(proairesis)が自発的なものとして(hos hekousios)実行されてしまったために、これを告発する権利を持ち得ないようにしたのである。[4]というのは、人間どもは、自然本性に、称讃よりも悪罵の方を優先するものだから、彼女は粗探し好きな連中の告発の根を絶ったのであるが、それは、誰か他の人たちの中に、法習にしたがって結ばれた夫が存命しているのに、違法にも別の男に誘惑されたと言う者が居たり、あるいはまた、こういったことの行為者に法習は罰として死罪を規定しているのに、こんなことを被りながら、命を惜しんで生きながらえたりするのは、恥ずべきことと信じ、それゆえ、どのみち自然からの負債である死を、わずかに先取りして、恥辱を最大の称讃に転化したのである。[5]だからこそ、自身の徳によって、死すべき生に代えて、不死なる名声に交換したのみならず、同族や同市民たち全員に対し、自身に加えられた違法行為に対して、避けることのできぬ報復を使嗾したのである。


断片22

 王レウキオス・タルキュニオスは、僭主的・暴力的な支配によって、ローマ市民のうち裕福な者たちを亡き者にした。虚偽の罪を着せて、それらの人たちの財産を横取りしようとしたのだということ。そのため、レウキオス・イウウニオスは、孤児であったのと、全ローマ人たちの中で最も富裕でもあったので、このどちらもの理由で、タルキュニオスの強欲(pleonexia)を猜疑していた。そこで、相手〔王〕の甥にあたるため、折にふれて王の会食者となるときには、馬鹿者のふりをして、かつは、有能であるがゆえに嫉妬を受けるようなことをかわそうとし、かつは、何が起こっているのかを、怪しまれることなく観察し、王位簒奪の好機を窺おうとした。


断片23

 シュバリス人たちは、兵30万をもってクロトン人たちの攻撃に出征し、不正な戦争を仕掛けたが完敗し〔前510年。第12巻9-10章に詳述〕、その繁栄をうまく持続することができず、「苦境にあるときよりも、むしろ、自分自身の善運にあるときにこそ、はるかに心を用いるべし」という充分な実例を、自らの破滅によって残したということ。


断片24

 [1]ヘロドトスについて、ディオドロスが次のように言っているということ。「そしてこういった内容でわたしたちが横道にそれたのは、ヘロドトスを批判しようと望んでではなく、むしろそれよりも、ひとを驚かせる言説というものは、真実の言説を圧倒しがちだということを示唆することを望んでである」と。

 [2]徳は、それが女たちのものであれ、尊敬されてしかるべきだということ。

 [3]アテナイ人たちは、〔前506年頃、スパルタに対する〕勝利を巧妙に利用して、ボイオティア人たちとカルキス人たちに勝利した後、この勝利によって、すぐさまカルキスを統治した。ボイオティアからの戦利品の1/10によって、青銅製の戦車をアクロポリスに奉納し、次のエレゲイア詩を刻み込んだ、
  アテナイの子らは 戦争の業によって
  ボイオティアとカルキスの諸族を平らげ、
  か黒き鉄の縛めにかけてその暴慢(hybris)を鎮圧せり。
  ここに〔戦利品の〕1/10にてパラスにこれらの馬を捧げたり。〔ヘロドトス、第5巻77参照〕


断片25

 [1]神殿の焼き討ちは、先に不正した相手に対して同じ暴慢(hybris)を仕返しするために、ヘラス人たちからペルシア人たちが学んだことだということ。〔ヘロドトス、第5巻102参照〕

 [2]カリア人たちは、ペルシア人たちにすっかり疲弊させられたので、ミレトス人たちを同盟者に加えてよいかどうか、同盟に関してお伺いを立てたということ。すると〔神は〕託宣した、
  昔ミレトス人たちは勇敢だったこともある。

 [3]にもかかわらず、さし迫った恐怖は、お互いに対する名誉愛を彼らに忘れさせ、三段櫂船を至急艤装するよう強要した。〔ヘロドトス、第6巻7以下参照〕

 [4]ミレトス人ヘカタイオスは、イオニア人たちによって使節として派遣され〔ヘロドトス、第5巻36、125以下参照〕、いかなる理由でアルタペルネスは自分たちに不実なのかを問い質したということ。すると相手が、彼らが戦敗してひどい目に遭った〔前494年、ラデの海戦〕ことに遺恨を残しているのではないかと言ったので、「しからば」と彼は言った、「ひどい目に遭ったことが不実のもとならば、いい目に遭うことが、むろん、諸都市をペルシアに好意的となすであろう」と。アルタペルネスはこの言辞を受け容れて、法習を諸都市に引き渡し、定めの貢祖もできるかぎり納めた。


断片26

 というのは、市民たちのあいだにある多衆に対する嫉妬が、それまでは包み隠されていたにもかかわらず、好機と見て、一挙に噴き出してきたのである。そして、名誉愛のせいで、奴隷たちを自由にした。家僕たちを自由に与らせることの方を、自由人たちを国政に与らせることよりも望んだからである。〔ヘロドトス、第6巻83参照〕


断片27

 [1]ペルシアの将軍ダティスは、生まれはメディア人であったが、メディア〔王国〕を樹立したメディア人の子孫がアテナイ人たちにあたるという話を先祖から受け継いできたので、アテナイに人を遣って、次のように言わせた。――先祖の支配権を取り戻すべく、軍を帯同して行くであろう。なぜなら、わが先祖のうちメディア人となりし[老ダティス]は、アテナイ人によって王位を奪われ、アジアに来たりてメディアを建設せるがゆえに。[2]されば、余に支配権を返還するならば、〔先祖を追放した〕初めの罪と、サルディス出兵の罪とを赦してつかわそう。されど、これに逆らうならば、エレトリア人たち〔前490年、マラトンの戦いの数日前に、ペルシア軍によって蹂躙された〕よりもはるかに恐るべきことを被るであろう、と。[3]これに対してミルティアデスは、10将軍たちの意見にもとづいて、こう答えた。――古老たちの言によれば、メディア支配権をアテナイ人たちが宰領することの方が、ダティスがアテナイの国を宰領することよりもふさわしい。なぜなら、メディアの王権を樹立したのは、生まれはアテナイの男であるが、アテナイをメディア生まれの男が占領したことは未だかつてないのだから、と。相手はこれを聞くと、闘いの準備をすすめた。[Exc. Vat. p.35-39.]


断片28

 [1]ゲラの僭主ヒッポクラテスが、シュラクウサイ人たちに勝利して〔前491年頃、ヘロロスの戦い〕、ゼウスの神域に宿営したということ。このとき、ほかでもない神官と、シュラクウサイ人たちの数人とが、黄金製の奉納物を引き下ろそうとしているのを、とくにゼウスの長衣(himation)――おびただしい黄金でこしらえられたのを引き剥ごうとしているのを捕まえた。[2]そして、この連中には、神殿荒らしとして鞭打ちにした上で、都市に帰るよう命じたが、自分は奉納物には手を出さなかった。それは、好評を博そうとしたのと、これほどの戦争を引き起こした者は、神的なものに対して何ひとつ過ちをしでかしてならないと思ったからである、と同時に、シュラクウサイの政事指導者たちを、彼らが強欲であって、民主的ではなく、まして平等に支配するのでもないと思われることで、大衆と仲違いさせられると思ったからである。

 [3]アクラガス人テロン〔アクラガスの僭主。在位、前488-472年〕が、生まれの点でも富の点でも、大衆に対する人情味の点でも、同市民はもとより、全シケリア人たちを凌駕していたということ。{Exc. de virt. et vit. p.254 V., 558 W.]


断片29

 シュラクウサイ人ゲロン〔僭主。在位、485-478年〕が、睡眠中に大声を出したのは、夢の中で、光に打たれたと思ったからであるが、犬が、彼がひどく取り乱しているのを知って、彼を目覚めさせるまで吠えやまなかった。この人物を、かつて、狼も死から救ったことがある。というのは、彼がまだ子どものころ、学校の席に着いていたとき、狼が入ってきて、彼の書写版を奪い取った。それで、彼がその狼と書写版とを追って、駆け出したとき、学校は地震のために土台から崩れ落ち、教師もろとも子どもたち全員を死なせた。その子どもたちの数を、歴史編纂者たち――ティマイオス派、ディオニュシオス派、ディオドロス派、ディオン――は、100人以上が亡くなったと放言している。が、正確なところをわたしは知らない。{Tzetz. Hist. 4, 266.]


断片30

 [1]ミルティアデスの息子キモン〔前461年に陶片追放を受けるまで、アテナイの実権を握った〕は、自分の父親が、〔前489年、パロス島侵攻に失敗、50タラントンの罰金を課せられた〕罰金を払いきる力がなかったため、公の監獄で亡くなったとき、父親の遺体を埋葬するため引き取ろうとして、自分が身代わりに監獄に入り、その罰金を肩代わりしたということ。

 [2]キモンは、公事の管理に対して名誉愛が強かったので、後に善き将軍となり、自分の徳によって、有名な業績を達成したということ。[Exc. de virt. et vit. p.254 V., 559W]


断片31

 キモンは、一部の人たちによれば、ミルティアデスの息子になっているが、他の人たちによれば、父親はステサゴラス〔ミルティアデスの弟、したがってキモンの叔父〕との評判であった。彼にはイソディケ〔メガクレスの孫娘〕によってカッリアスが生まれた。

 このキモンが、自分の〔腹違いの〕妹エルピニケを娶ったのは、後にプトレマイオスがベレニケを、彼らよりも前代にはゼウスがヘラを、そして今もペルシア民族がするのと同じである。で、カッリアスは50タラントンの罰金を払って、父親のキモンが兄妹婚(adelphomixia)というその恥ずべき結婚によって、何か恐ろしいことを被らないですむようにした。そして、どれほどの人たちがこのことを記述しているかを述べるのは、わたしにとって長広舌となる。というのは、喜劇作家たちや弁論家たち、ディオドロスその他、このことを記述した人たちの多さは無限であるから。[Tzett. Hist. 1, 582.]


断片32

 ネオクレスの子テミストクレスは、ある富裕者〔メガクレスの息子エウリュプトレモス〕が彼のところにやって来て、富裕な婿の見つけてくれるよう頼んだので、男に欠ける財産ではなく、むしろ、財産に欠ける男を求めるよう彼に勧めたということ。そこで、くだんの人が意見を受け容れたので、娘をキモンと暮らさせるよう彼に忠告した。これこそが、キモンが財産の融通がきき、監獄から釈放され、〔彼を〕投獄した役人たちの執務審査において有罪判決を勝ち取った所以である。[Exc. vat. p.39.]

 [この巻の前の巻――全体の構成の第10巻にあたる――は、クセルクセスのヨーロッパ遠征と、ヘラスとのゲロンの同盟に関して、コリントスにおけるヘラス人たちの共同会議の中で行われた総会演説の前年〔前481年〕までの事件で終わった。Diodor. XI 1, 1.]


断片33

 全ヘラス人たちは、クセルクセスがヨーロッパに遠征してきたとき〔前480年〕、同盟を求めてゲロンのもとにそれぞれ使節団の派遣をしたが〔ヘロドトス、第7巻157以下参照〕、陸上であれ海上であれ、嚮導権を引き渡すならば、同盟ならびに糧秣補給をしようと公約したので、嚮導権欲しさの名誉欲が同盟関係を詐取し、求援の大きさと敵勢に対する恐怖とが、ゲロンをして名声を手に入れるよう駆り立てたということ。


断片34 〔以下は、ペルシアの侵攻に対して、勝目のない戦争をするか、それとも僭主ゲロンに服するかを議論した、ヘラス人の演説かも知れない。〕

 [1]ペルシア人たちの優位は、その欲望を抑えるための贈り物を必要とするが、僭主的強欲は、少しの儲けも見逃さないのである。

 [2]不忠こそが救済の最も確実な防衛手段だからである。

 [3]だから、不正されたら、子どもたちなら父親たちに庇護を求める、諸都市なら植民した〔母市の〕民衆に。

 [4]僭主の強欲は、手持ちのものには満足せず、他人のものを欲して、決して満ち足りることはないのである。

 [5]しかし、彼の権勢と対立するように生まれついている人たちが力をつけることを、彼は機会をとらえて、容認しないであろう。

 [6]諸君は、自分たちの徳を、死後、不死なるものとして、名声(doxa)のうちに留めつづけてきたあの勇士たちの子孫だからである。[7]――というのは、同盟の褒賞として彼が要求するのは、黄金ではない。劣悪このうえない私人でさえ、富裕になったことがあったとき、これを軽蔑するのを、しばしば目撃できるのである。〔彼が要求するのは〕むしろ称讃と名声(doxa)である。人間どものうち善き人々は、これのためなら死ぬことに臆することもない。名声(doxa)は黄金よりも大きな報酬だからである――。[8]すなわちスパルタ人たちが父祖から相続しているのは、自余の人たちとは違って、富ではなく、ひたすら自由のために最期を遂げ、人生におけるありとあらゆる善きことは、名声の二の次にすることだからである。

 [9]われわれは、外国の軍勢を熱望するあまりに、市民軍を放棄することのないようにしよう、そして、眼に見えないものに焦がれるあまりに、眼に見えるものを抑えることのないようにしよう。[10]――わたしは、ペルシア人たちの遠征軍の大きさに打ちのめされたとは認めない。戦争の帰趨を決するのは徳であって、数の多さではないからである――。[11]なぜなら、父祖からわたしたちに引き継がれてきたのは、生きること、そして、祖国に必要が生じたときには、死ぬことである。[12]――なんでわれわれが黄金を恐れることがあろうか、〔その黄金に〕飾り立てられて、女たちが結婚に臨むように、戦闘に押し出すというのに、そうして、その勝利は褒賞として名声ばかりか、富もを獲得するというのに。だから、徳が恐れるのは、鉄〔=武器〕が槍の穂先にかけたものとして掠するのがならわしの黄金ではなく、指揮官たちの用兵術である。[13]――というのは、均整の点で卓越したいかなる軍隊も、たいていの場合それ自体に損なわれる基がある。密集隊が〔命令を〕聞くよりさきに、わたしたちは自分の望むことを先に実行してしまうであろうから。[Exc. Vat. p.39-41.]



10(?)t 1 1
INCERTA〔不確実な断片〕
n1

 [幾世代もの後、最終的に、イタリアからシケリア人たちの民族が全員でシケリアに渡来してきて、シカニア人たちによって放棄された土地に定住した。しかし、シケリア人たちは強欲さによって常に発展をつづけ、近隣を荒らしたので、彼らとシカニア人たちのあいだに何度も戦争が起こり、ついに、条約を結んで、合意した領土の境界を定めた。このことについては、該当する時代に詳しく書き記そう。Diod. 10 V 6, 3.]


断片1

 [1]しかしながらディオドロスは、その書き物の中で、シカニア人たちとシケリア人たちという、この二つの区別を知らなかった。

 [2]つまり、ディオドロスは、第10巻の中のどこかで、シケリア人たちとシカニア人たちとについて述べているが、先にも述べたとおり、シケリア人とシカニア人との区別がわかっていないのである。[Eustath. Od. p.1896, 55; 1962, 25.]


断片2

 しかし、シケリア人ディオドロスとオッピアノスは、ネアポリスはヘラクレスによって建設されたと主張している。[Tzetz. ad Lycophr. v. 717.]


断片3

 さらにまた、アテナのパッラディオンも、長さ3ペキュスで、木造、天から落ちてきたというものが、プリュギアのペシノイにはあったと、伝えられており、この地は、ディオドロスとディオンによれば、ガニュメデスの誘拐が原因で、ガニュメデスの愛者タンタロスと、彼〔ガニュメデス〕の兄弟イリオス(イロス)が戦い合ったとき、会戦するために、大勢の兵がここで激突したことにちなんで、地名がつけられたという。[Eudocia p.322 et Tzetz. ad Lycophr. v. 355.]


断片4

 ディオドロスも、アルプス山脈のとある頂を、全山の頂上と思われて、地元の人たちのあいだでは、天の背骨(ouranou rhachis)と呼ばれていると記録している。[Eustath. Od. p.1390, 21. Conf. Tzetz. exeg. II. p.10, 13.]

(2000.01.31 訳了)

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