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Dionysios
of
Halicarnassos



Lysias

(1/7)

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[1]
 ケパロスの子リュシアスは、シュラクウサイ人の両親の子として生まれたが、生まれたのは、父親の寄留先アテナイで、アテナイ人たちの最高の貴顕たちといっしょに教育を受けた。そして、15歳の時、二人の兄弟といっしょにトゥーリオイに渡航し、植民活動〔443年〕に共働した。これは、ペロポンネソス戦争の始まる12年前に、アテナイ人たちやその他のヘラスが着手したものであったが、そこでは大いに裕福な市民生活を送り、ティシアスやニキアスのもとで教育を受けていたが、国難がシケリアのアテナイ人たちを見舞うに至った。そして、この受難の後、〔トゥーリオイの〕民主制が党争に陥り、アッティカ贔屓の咎を受けて、他の3000人とともに追放された。そこで、カリアスが執政の時〔412/411年〕に再びアテナイにもどり、人の想像するところでは、このとき47歳になっていたらしいが、そのとき以後、アテナイで身過ぎ世過ぎをして生涯を終えた。きわめて多くの弁論を書いたが、それらは法廷や評議会や民会向けに適合したものであるばかりか、それらに加えて、祝祭向けのもの、恋情に関するもの、書簡体のものなど、その地の過去の弁論家たちや、同時期に盛りをむかえた弁論家たちの評判をかすませるほどの出来映えであり、後進たちの多くの者たちに対してばかりか、あらゆる形の弁論において――神かけて、最もつまらぬそれにおいてさえも――、〔彼を〕凌駕する余地を残さなかったのである。では、彼が用いた弁論の特徴はいかなるものであり、いかなる卓越性をもたらし、彼と同時代に盛りをむかえた人たちよりも、いかなる点で勝れ、いずこに欠けるところがあり、彼から受け継ぐべきは何か、今これから論じてみよう。

[2]
 彼は表現(hermeneia)においてきわめて純粋であり、アッティカ語――プラトンやトゥキュディデスが用いた古いそれではないが、その当時流布していたそれ――の最善の規準であることは、アンドキデスの弁論やクリティアスのそれ、そのほかおびただしい弁論によって証拠づけられているとおりである。この部分においてこそ、――これこそ弁論における第一の、最も重要な点である――、つまり、私が言うのは、修辞を純粋にするということであるが――、後進の中には彼を凌駕する者は誰もおらず、多くの者たちは模倣する能力さえ持ってはいなかったのである。ただし、ひとりイソクラテスのみは別である。というのは、リュシアス以後の他の人たちの中で、名辞の点で最も純粋であったのは、この人物だと私には思われるからである。それゆえ、この卓越性を一つ、この弁論家の賜として、羨望と模倣に値するものであることを私は見出し、純粋な書き方や修辞法をものにしたいと望む人たちは、この人物をその卓越性の例証とするよう勧めたい。

[3]
 さらにもうひとつ、それにまさるとも劣らぬ卓越性――これをその当時盛りをむかえた人たちの多くは羨望しながら、誰ひとり〔リュシアスほどには〕確実にものにしえなかった――卓越性がある。それは何か? 標準的(kyrios)、一般的(koinos)、日常会話に介在する名辞による想念の表現法ということである。すなわち、ひとはリュシアスが比喩的な言いまわしを用いるのを決して見出しえないであろう。しかも、彼が賞賛に値するのはそのためだけではない。むしろ、事柄を際だった、並みすぐれた、大きなものに見えるようにさせながら、最も一般的な名辞を用い、詩的な道具だてには頼っていないこともそうである。先人たちにこの評判はないのであって、彼らは弁論に何か飾りを付け加えたいと望む場合には、普通の言葉を捨て去って、詩的な言いまわしの中に助けを求め、多くの暗喩や誇張表現や、その他の比喩的な表現形式を用い、晦渋な名辞や外来の名辞の使用、馴染みのない表現形態、その他の新奇な手法で素人を驚倒させるのが常であった。その顕著な例がレオンティノイ人ゴルギアスで、きわめて多くの弁論において、道具だてを低俗で大仰なものとし、「ディテュランボス詩とあまり違わぬ」発声をなすことしばしばであったが、彼の弟子たちのうち、リキュムニオスやポロスの取り巻きたちもそうであった。また、アテナイの弁論家たちにも、この詩的で比喩的な言いまわしが影響を与えたことは、ティマイオスが述べているとおり、ゴルギアスがアテナイに使節として赴いて、民会演説によって聴衆を驚倒させたとき〔427〕が初めであるというが、真実には、それ以前からも〔そういう言いまわしは〕常に驚嘆の的だったものである。例えば、歴史編纂者のたちの中の霊妙このうえないトゥキュディデスは、埋葬演説においても民会演説においても、詩的な道具だてを用い、多くの弁論において、名辞の中でも馴染みのない名辞でもって、表現を大仰であると同時に飾ったものに改めたのである。これに反してリュシアスは、少なくとも真面目に書いた法廷用の弁論や評議会用の弁論の中では、そういうことをする訓練は何もしなかったのだが、祝祭用弁論の場合はいささか例外である。というのは、彼の書簡体の弁論や艶事的弁論やその他の弁論については、これを彼は遊びで書いたのだから、私は何も言う必要はないからである。いずれにせよ、素人っぽい言葉で話しているように思われながら、たいていは素人の言葉を超越しているのであり、彼は弁論の最も勝れた作り手であり、韻律からはすっかり解放された修辞法の、一種独特の調和の発見者であった。これによって彼は名辞を――大仰さを持たず、低俗さも持っていないのに――飾り、かつ快適となしているのである。これを第二の卓越性として、この弁論家から受け継ぐようにと私は命じたい、――彼と同じ仕方で話したいと願う人たちならば。とにかく、歴史編纂者たちにしろ弁論家たちにしろ、多くの人たちがこの流儀の羨望者となったが、リュシアス以後これに最も近く迫りえたのは、年長者たちの中では盛りをむかえた若きイソクラテスであったが、この二人より前を見ても、他の弁論家たちで、標準的で一般的な名辞を使ってこれほどの力強さと能力とを示しえたと言うことのできる人はいないであろう。

[4]
 この人物の第三の卓越性として、明解さ(sapheneia)――名辞においてのみならず、事柄においてもの――を私は指摘したい。事柄の明解さというようなものは、あまり多くの人たちに知られてはいないからである。つまり、私が証拠立てたいのは、トゥキュディデスやデモステネスの修辞法についていえば、彼らは事柄の言表において最も恐るべき〔=堪能な〕人たちであったが、その多くはわれわれにとって難解・不明解で、解説者を必要とするものである。ところがリュシアスの修辞法はすべて、明白(phanera)にして明解(saphes)であって、政治的な弁論にはまったく無縁のように見える人にとってもそうなのである。しかし、もしも、その明解さが能力のなさに起因するものなら、これを尊敬するにはあたらないが、実際は、彼の標準的名辞の有り余るほどの豊かさが、この卓越性を立証しているのである。それゆえに、彼のこの明解さもまた羨望に値するのである。実際のところ、想念を短く、しかも明解さを失わずに、表出するということ、――つまりは、これら二つの要素を結合し、程よく融合させるということは、本来的に困難な事柄であるが、この点でリュシアスは他の誰にも決して劣らぬことを立証し、この人物〔の作品〕を手にする人たちに、不適格な言い回しや不明解な表現をしてはならないと思わせるのである。そしてその原因は、彼においては名辞に事柄が隷従するのではなく、むしろ事柄に名辞が追随し、またその飾りは、素人くさい修辞法を避けることによってではなく、むしろ模倣することによって、手に入れているのである。

[5]
 彼がかくのごとくあるのは、表現のためにすぎず、事柄においてはかなり時を得ず、冗長である、などということはなく、他の誰よりも想念を圧縮し、簡潔にしているのであって、何か不必要な事柄を言うことに彼がいかほど無縁かといえば、いささか役に立ちそうなことの多くをも言い漏らしているように思われほどであり、神かけて、創意のなさによってそうしているのではなく、制限時間内に弁論が終わらなければならなかった――その時間の制約によるものであった。確かに時間は短かった、――事柄を明らかにしたい素人にとっては充分であったかも知れないが、有り余る能力を演示することを求める弁論家にとっては不充分なくらいに。こういうわけで、リュシアスの短さもまた模倣すべきなのである。他の弁論家からは彼以上の程よさを見出しえまいから。
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