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Dionysios
of
Halicarnassos



Lysias

(2/7)




[6]
 以上の諸々の卓越性とともに、私はリュシアスにきわめて驚くべき卓越性を見出す。この卓越性を最初に示したのはトラシュマコスだと言われているが、私はリュシアスだと考えている。というのも、私に思われるところでは、当時、後者は前者に先んじていた(私が言っているのは、両者ともに人生の盛りをむかえていたとしても、ということである)、が、これが認められないにしても、少なくとも後者は真実の争いには前者よりもより長く従事していたのである。とはいえ、この卓越性を初めに示したのがどちらが先かについて、今は固執するつもりはなく、この卓越性の点でリュシアスの方が秀でていたということ、このことを確信を持って私は言明したい。では、私が言うその卓越性とは何か? 想念を圧縮・研磨して表出する修辞法――一法廷弁論やあらゆる真実の争いに特有・必要な修辞法――である。この卓越性を模倣し得る人はほとんどなく、わずかにデモステネスが凌駕しているにすぎない、とはいえ、リュシアスがこれを用いたほどには明晰ではなく、平明でもなく、手の込んだ聞きづらいものである。私は私に見えるとおりを言っていると考えていただきたい。これについてはしかるべき時に話したい。

[7]
 さらにまた、迫真性(enargeia)をも大いに有しているのがリュシアスの修辞法である。そしてこれは、ひとつは言われている内容を〔聴衆の〕諸感覚に訴える一種の能力であり、ひとつは状況細部の把握に由来するものである。リュシアスの弁論に心を傾注する人は、理性の左巻きの、ひねくれた、鈍感な人でないかぎりは、説明されている事柄が生じたのを目の当たりにするかのように、また、この弁論家が行き会った人たちがその場にいて、これと顔つきあわせて交際するように感じられるほどである。また、実際に当事者が行為し、感じ、考え、話しているかのように、それ以上〔の説明〕は何も求めないですむのである。じつに、人間たちの自然本性をつぶさに観察し、各人にふさわしい感じや人柄や行動を割り当てることにかけて、彼はあらゆる弁論家中最も優れた人物であった。

[8]
 そういうわけで、私は彼に最もぴったりの卓越性――つまり、多くの人たちによって人柄づくり(ethopoiia)と呼ばれている卓越性――をも割り当てたい。なぜなら、この弁論家の作品中に、人柄づくりなき登場人物も、生彩なき登場人物も見出すことはただのひとつも不可能だからである。また、この卓越性の成立要素、ないし、関係要素は三つ――思想(dianoia)、修辞法(lexis)、第三に構成(synthesis)――であるが、これらのすべてにおいて、彼は成功をおさめていると私は言明したい。すなわち、発言者たちの思想内容は有用・善良(epieikes)・程よい(metoria)との前提に立ち、その結果、その弁論は〔発言者の〕人柄の反映であるかのように思われるばかりか、修辞法も、それぞれの人柄に固有な――それが彼らの最も優れた点であることを明らかにすることを本質とした修辞法、つまり、明解・標準的・一般的・万人にとって最も馴染み深い――修辞法を割り当てている。なぜなら、大仰な、外国ふうの、修練に由来するものはすべて、人柄づくりに欠けるところがあるからである。さらに、構成の点でも、きわめて平明(aphelos)で単純(haplos)であるが、それは周期性(periodos)律動(rhythmos)の中にではなく、くだけた修辞法の中にこそ人柄は表れるということを彼は眼にしていたからである。全体的に見て、この卓越性についても言えば、同じように言葉の道具立てを用いる弁論家たちの中で、彼ほど快適、説得的に構成し得た者を、他に誰も私は知らないのである。つまり、いわば無作為的で無技巧的なように思われるのが彼の調和(harmonia)の特徴であって、だから、私は驚かないのである――素人たちはみな、いや、愛言家(philologos)たちといえども少なからざる人たちは、弁論研究に長らく従事したことのないかぎりの者が、次のごとき一種の思いをいだいたとしても。つまり、〔彼の弁論の特徴が〕無修練で、技巧的でなく、ほとんど独学にして、偶然の結果にすぎない、と。ところが、それはいかなる技巧的作品よりも、こしらえあげたものなのである。なぜなら、無作為そのものが彼によって作為されたものであり、伸びやかさこそが束縛されたものであり、恐ろしいほどに拵え上げられているようには思われないということの中にこそ、恐るべき〔有能さ〕を彼は有しているのでだからである。それゆえ、修練によってであれ、自然本性によってであれ、真理の模倣者たることを望む人なら、リュシアスの構成法を用いれば間違いないはずである。なぜなら、これ以外により真実なのは見出し得ないであろうから。

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 さらにまた、リュシアスの修辞法は、昔の弁論家たちの誰にも劣らず、相応しさ(to prepon)――あらゆる卓越性の中で最も重要な、究極的な卓越性――をも有していると私は思うが、それは、話し手、聴衆、事柄(これらの中にこそ、あるいは、これらとの関係においてこそ、相応しさは存するのである)それぞれに関して、これをたっぷりと調和させているのを目にするからである。というのも、年齢、出自、教育、生業、生き方、その他もろもろ――これらの点で登場人物の面々は異なっているのであるが、彼は〔それぞれの話し手に〕固有の声調を割り当て、聞き手に対しても、話の内容を親しみのあるように調子を合わせ、法廷なり、民会なり、祝祭における群衆相手なり、同じ方法で話すということはなかったのである。また、内容の種類に応じても違った方法を採るのが彼の修辞法である。すなわち、話し始めでは、確定的で倫理的であり、陳述部では、説得的にして手が込んで(perieigos)おり、論証部では、研磨されてきびきびしており、増幅させ熱弁を振るうときには、印象的で真実であり、要約部では、のびのびして簡潔である。かくて、修辞法の相応しさ(to prepon)もリュシアスから受けつがるべきなのである。

[10]
 たしかに、〔リュシアスの修辞法が〕自然さと、この種の〔修辞法〕がもたらす利点をすべて大いに発揮していて、説得的で得心のゆくものだということを、よく知っている人たちには、おそらく何も言う必要はあるまい。なぜなら、そのことはすでに人口に膾炙しており、経験でなり聞いてなりして学んだ人で、誰ひとり、彼があらゆる弁論家たちの中で最も説得的であったということに同意しないような人はいないからである。したがって、この卓越性もまた、この弁論家から受けつがるべきなのである。

 リュシアスの修辞法――これを採用・模倣すれば、人は表現の仕方の点でより善くなりうるのだが――に関して、多くの美しいことを論ずることが出来るが、しかし時間のことを考えて、他の点は放置することにして、この弁論家の卓越性でもう一つ指摘したいのは、最美にして最も重要で、その他の諸々の卓越性の中でも特にこれを一つリュシアスの特徴として断言できるもの、――これを後代の人たちは誰ひとり凌駕し得ず、多くの人たちが模倣し、まさにそのおかげで、それ以外の能力においては何らぬきんでていなくても、他の人たちよりも優秀と思われた所以の卓越性である。(この人たちのことについては、機会があれば、その場で話すことにする)。ところで、その卓越性とは何か? あらゆる名辞において等しく咲き誇る魅力(charis)――どんな言葉よりも重要で驚嘆すべき対象――である。なぜなら、眼に見ることはすることは容易至極なことであり、素人であれ専門家であれ、誰にでも等しく明白なことであるが、しかし、言葉で明らかにすることは至難の業であり、最も優れたことを述べることの可能な人たちにとってさえも、たやすいことではないからである。
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