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back.gifエポロス断片集(5/6)



エポロス断片集

(6/6)





F166
STEPH. BYZ. 「アナイア(Anaia)」の項。

 ……カリアの「サモスの対岸」にある。ここに埋葬されたアマゾン女人族のアナイアにちなむ、とエポロス。


F167
同 「ビュバッソス(Bybassos)」の項。

 カリアの都市。ビュバッソスから〔流れてきた〕〔船の〕肋材が、〔海に〕転落したポダレイリオス〔アスクレピオスの子、マカオンの兄弟、名医とされる。〕を、海と嵐から、カリアに救い渡したので。民族名はビュバッソス人(Bybassios)。しかしエポロスは(Bybastos)とか(Bybastios)だと主張している。


F168
同 「シミュロス(Simyros)」の項。

 シュリア人たちの都市。エポロスはこの都市を中性名詞でシミュラ(Simyra)だと主張している。民族名はシミュロス人(Simyrios)。〔都市名が〕中性名詞〔Simyra〕なら〔民族名は〕(Simyreus)〔ほんまかいな?〕。


F169
同 「デルタ(Delta)」の項。

 ミュリア近郊の都市で、アイギュプトスの島、とエポロス。アイギュプトス人たちの間では、形が似ていることから、プティムリス(Ptimyris)〔貝殻いっぱい?〕と呼ばれている。

F170
同 「アブロトノン(Abrotonon)」の項。

 レギオン人リュコス(III)は堡塁だと思っているが、ストラボンはその第17巻(3, 18)の中で、都市だと主張しており、他の人たちもそうである。つまり、リビュポイニキア人たちの都市である。ネアポリスとも呼ばれている、とエポロス。


F171
同 「カラテ(Kalathe)」の項。

 ヘラクレスの柱からほど遠からぬところにある都市。ヘカタイオス『エウロペ』(1 F 39)。しかしポロスはカラトゥサ(Kalathousa)がそれだと主張している。


F172
PLIN. NH VI 198:
 東方の海〔紅海〕におびただしい島々があると、エポロスも、そしてまたエウドクソス(V)もティモステネス(V)も伝えている……ペルシア湾の向かい、アイティオピアの沖に横たわっているのはケルネという名で、その大きさも、本土からの距離も確かめられていない。アイティオピア種族のみが住んでいると報告されている。[199]エポロスの述べるところでは、紅海からこの島に接近しようとする船は、暑熱のためにコルムナス――ある小さな島の名――から先には進むことができないという。ポリュビオス(XXXIV)は、ケルネ島はマウレタニアのはて、海岸から8スタディオンのところに、アトラス山に向かい合っていると報告している。コルネリウス・ネポスは、カルタゴの……

F173
SCHOL. PINDAR. P I 120 b:
 一部の人たちが、ヒュッリス〔ドリス3部族のひとつヒュレイス族(始祖はヒュロス)の領地の意。〕の法規(Hyllidos stathmai)と言うのは、次のこと、すなわち、リュクウルゴスの立法のことである。この人がヘラクレスの11代目だからだと、エポロスが記している。


F174
CLEM. ALEX. Strom. I 170, 3 p.106, 1 Stah:

 ミノスもゼウスから9年間かかって法習を手に入れるために、人々の記しているところでは、ゼウスの洞窟に通ったというし、さらにまたリュクウルゴスも、デルポイに行って、アポッロンのもとにとどまりつづけて、立法の教育を受けたと、プラトンも(Legg. I 624 A; 632 D)アリストテレスも(IV)エポロスも書いている。

F175
AELIAN. VH XIII 23:

 ラケダイモン人にしてエウノモスの子リュクウルゴスは、ラケダイモン人たちを義人の実あらしめたいと望んだが、そのためにじつに美しくない報酬をつかまされることになった。というのは、アルカンドロスに――ある人たちの主張では、たくらみによって石を命中させられたために、しかし、流布している別の話では、棍棒でこんな災難に遭って――自分の片目をえぐりとられるという目に遭ったのである。この話は、別のことを望みながら、〔望みとは〕別のことを被った人たちについて言われている。エポロスの言うところでは、彼は亡命中、飢えに打ち勝ち通したすえ死んだという。


F176
STRABON VIII 6, 16:
 エポロスによれば、アイギナで銀子が最初に鋳造されたのはペイドンによってであると主張する。というのは、交易が起こったのは、この地の不毛さゆえに、人々が海上交易に従事したためで、ここから金ぴか物のことをアイギナ商品と言われるのだ、と。


F177
THEON Progymn. 2 p.69, 27 Sp:

 昔の〔著作〕者たちが言い換えさえをもなおざりにしなかったということは明らかである……しかし、彼らよりも別の〔著作〕者たちの作品の中で扱われているものも多いのである。じっさい、キュロンの呪いは、ヘロドトス(V 71)やエポロスよりもむしろ、トゥキュディデス(I 126)によって扱われているのである。


F178
DOG. LAERT. I 96:

 じっさいまたエポロスも記しているところによると、彼〔ペイサンドロス〕は、オリュムピア祭において四頭立て戦車競技で勝利できたら、黄金の人像を奉納しようと祈願したという。ところが、勝利したものの、黄金が足りず、地方のとある祝祭で女たちが着飾っているのを目にして、その装身具をすべて剥ぎ取って、奉納物として納めたのである。


F179
同 I 98

 この人物〔ペイサンドロス〕は、槍持ちたちを保有して支配を僭主制へと変えた最初の人である。そして、〔誰でも〕希望する者たちが市域で暮らせるということ認めなかったとは、エポロスとアリストテレス〔Ath. p. 16〕が主張しているところである。


F180
ATHEN. XII 11 p..515 D:

 リュディア人クサントス(III)、あるいは、この人に帰せられる歴史記録を編纂した人|それはスキュトブラキオン人ディオニュシオス(32 T 6)であるが、カッサンドリア人アルテモンが『書物の蒐集について』の中で主張しているように、彼は編纂者エポロスが彼〔クサントス〕のことを、もっと昔の人であり、ヘロドトスに資料を提供した人物であると言及していることを知らないのである。


F181
DIOG. LAERT. I 40:

 また、シュラクウサイ人アルケティモス(VI)は、キュプセロスでの彼ら〔七賢人〕の会合を書きとめていて、これに自分も陪席したと主張している。しかしエポロスによれば、〔その会合は〕クロイソスのもとで、タレスはいなかったという。


F182
同 I 41

 さらには、彼ら〔七賢人〕の人数についても争われており……エポロスはミュソンの代わりにアナカルシス〔入れている〕。


F183
ATHEN. XII 26 p.523 E:

 しかしミレトス人たちは、贅沢にならないうちは、エポロスが主張しているように、スキュティア人たちに勝利していたし、ヘレスポントス沿岸に諸都市を建設するとともに、エウクセノス・ポントス〔黒海〕に入植して輝かしい諸都市をつくり、だれしもが競ってミレトスの配下に入ろうとした。ところが、快楽と贅沢に堕するや、国の男らしいところは廃れたと、アリストテレス(IV)が主張している、かくて彼らについて、「昔はミレトス人たちは勇ましかったこともある」という諺のようなものまでできたのである。


F184
SCHOL. APOLL. RHOD. I 974:

 クレイテは、生まれはペルコテ人の〔王にして〕占卜家メロプスの娘であるが、これをキュジコスが娶ったと、デイオコス(III)とエポロスが記している。


F185
STRABON XII 3, 10:

 また、キュトロンは、かつてはシノペ人たちの取引所で、プリクソスの子キュトロスにちなんで名づけられたと、エポロスは主張している。


F186
SCHOL. PINDAR. P I 146 b: 「    」]

 一部の人たちはシケリアをヘラスと聞き、ある人たちはアッティケをヘラスと〔聞く〕。しかし、ピンダロスはエポロスの歴史書に出会ったので、この人が彼に追従するのは尤もなことである。というのは、エポロスは次のように記しているのである。――クセルクセスがヘラス遠征隊を準備しているとき、使節団が僭主のゲロンのもとにやって来て、ヘラス人たちの結集に参加するよう嘆願した。他方、ペルシアとポイニキアからカルケドン人たちのもとへの使節団も、最大部隊でシケリアに渡り、ヘラスのことに心を寄せている連中を覆滅して、ペロポンネソスに航行するよう要請した。どちらもがこの言葉を受け容れ、ヒエロンの方はヘラスと共闘することに熱心となったが、カルケドン人たちの方は、クセルクセスと作戦行動を共にすることに乗り気となったので、ゲロンは艦船200艘、騎兵2000、陸兵無量数を整え、カルケドンの部隊がシケリアに上陸したと聞くや、戦い抜いて、シケリア人たちのみならず、全ヘラスを自由にした、と。どうやら、ピンダロスはこの歴史に出会ったらしいのである。


F187
PLUTARCH. De Herod. mal. 36 p.869 A:

 というのは、ナクソス人たちは非ヘラス人たちに対する同盟者として、三段櫂船3艘を派遣したが、三段櫂船指揮官の一人デモクリトスが、ヘラス陣営を選ぶよう他の者たちを説得したのである(Herod. VIII 46)……これに反証しているのが、年長者のうちではヘッラニコス(4 F 183)、若手のうちではエポロスで、前者は6艘で、後者は5艘で、ナクソス人たち自身がヘラス救援に赴いたと記している。


F188
SCHOL. PINDAR. I V 63:

 サラミス沖でのヘラス軍の海戦が示唆されている。この海戦で最善賞を獲得したのがアイギナ軍で、これはヘロドトス(VIII 93)ならびにエポロスが主張しているとおりである。


F189
PLUTARCH. De Herod. mal. 5 p.855 F:

 テミストクレスについてエポロスは、パウサニアスの裏切りと大王の将軍たちに対して為されたこととを彼〔テミストクレス〕は知っていたと言い、「しかし説得されなかった」と主張する、「〔パウサニアスが〕共有したり、同じ希望に自分を誘惑しても、受け入れさえしなかった」と。しかしトゥキュディデス(I 135)は、この言葉を間違いとしてまったく無視した。


F190
同 Them. 27: Youku (I 137, 3)

 とにかく、トゥキュディデス(I 137, 3)と、ラムプサコス人カロン(III)とが記しているところによれば、クセルクセスはすでに亡くなっていた〔前465年〕ので、テミストクレスに会見が生じたのは、彼〔クセルクセス〕の息子〔アルタクセルクセス〕とだったという。しかし、エポロスとデイノン(III)とクレイタルコス(137 F 33)とヘラクレイデス(III)と、他にもなお多くの人たちは、クセルクセス本人と謁見したという。年代の問題からして――これ自体もしっかり確定しているわけではないにしても――トゥキュディデスの方がより適合的なように思われる。


F191
Pap. OXYRH. XIII 1610 frag.1:
 〔解読不能〕テミストクレスのことが書かれている。おそらくはサラミスの海戦から、ペルシアとの疑惑、キモンとの確執、ペルシアへの亡命と、そこでの厚遇などが記されている模様。


F192
PLUTARCH. Kim. 12:

 ところで、エポロスの主張によれば、大王の艦船を指揮したのはティトラウステス、陸軍〔を指揮したの〕はペレンダテスという。これに対してカッリステネスによれば(124 F 15)、ゴブリュオスの子アリオマンデスが軍の最高将帥となり、エウリュメドン河のほとりに艦隊で停泊していたが、ヘラス勢と闘うだけの元気がなく、ポイニキアの艦船80艘がキュプロスから増援に来航するのを待っていた。キモンはこれに先制することを望み、相手が海戦を望まぬなら、それを強要すべく、戦備を整えて乗りだした。これに対して相手は、初めのうちは、強要されないよう河の中へと停泊所を移した。しかし、アテナイ勢が襲いかかってきたので、反撃に撃って出た。パノデモス(III)の記録するところでは60艘で、しかしエポロスによれば300と50艘で。


F193
SCHOL. ARISTOPH. Nub. 859:

 ペリクレスは、アクロポリスに多大な財貨があったので、その大部分を戦争に消費した。噂では、会計検査官たちをも20タラントンで買収し、必要なだけ消費するようにとだけ言ったという。しかしエポロスの主張では、その後、ラケダイモン人たちがクレアンドリデスを財産没収にし、プレイストアナクタを15タラントンの罰金に処したのを〔アテナイ人たちは〕知って、アテナイの残りの領地を切り離すことで、「ラケダイモンの王たちに必要なものを与えた」ということを露骨に言うのを〔ペリクレスが〕拒んだので、ペリクレス派の人たちによって、あの連中が買収されたからだと理解したという。


F194
PLUTARCH. Perikl. 27:

 エポロスによれば、ペリクレスは〔攻城〕兵器をも使用し、新しさの点で驚嘆すべき人物であって、そのさいには、技師のアルテモンが立ち会っていたが、この人物は跛足であったため、急を要する作業現場には籠で運ばれたので、「運ばれ屋(periphoretos)」と名づけられていたという。しかし、これには、ポントス人ヘラクレイデス(IV)が、アナクレオンの詩句をもとに反駁している。「運ばれ屋アルテモン」と名づけられた者が、サモスをめぐる戦争よりも何代も前に、この詩句の中に出てくるのである。


F195
同 28

 かくて9ヶ月めにサモス人たちが降伏したので、ペリクレスは城壁を破壊し、艦船を取り上げ、多大の罰金を科し、サモス人たちはその一部はすぐに支払ったが、残りは定めの期間内の負債として人質を差し出した。サモス人ドゥウリス(76 F 67)は、この事件のもつ多大な残酷さを悲劇化し、アテナイ人たちとペリクレスとを告発しているが、それ〔残酷さ〕はトゥキュディデス(I 117)もエポロスもアリストテレス(IV)も記してはいないのである。


F196
DIODOR. XII 38:

 アテナイ人たちとラケダイモン人たちとの間に戦争、いわゆるペロポンネソス戦争――記録された諸々の戦争の中で最も長い――が勃発した。そこで、この戦争原因を前置きとするのが必然であり、目下の歴史記述にもふさわしい。[2]アテナイ人たちは、海上覇権に固執し、デロス島に〔同盟〕共同で集められた資金――ほぼ8000タラントン――を、アテナイに移して、ペリクレスに守護をまかせた〔前454年〕。この人物は、生まれのよさでも名声でも言葉の恐るべき有能さでも、同市民をはるかに凌駕していた。しかし、しばらくたってから、そこからたっぷり多量の資金を私的に費消し、言葉〔釈明〕を求められて病気になった。信託された資金の会計報告を返すことができなかったのである。[3]それで彼がそのことで当惑しているとき、甥のアルキビアデス――孤児で、彼のもとで養われていた――が、年齢的にはまだ子どもであったにもかかわらず、資金に関する弁明の手だてを彼に編み出させた。というのは、この伯父が苦悩しているのを眼にして、苦悩の理由を問い質したのである。そこでペリクレスが、「資金に関する弁明を求められて、どうしたら市民たちに言葉を返すことができるか、方法を探しているのだ」と言ったとき、アルキビアデスが言った、「伯父さんが探さねばならないのは、どうやって言葉を返すかではなく、どうやって返さないかでしょ」。[4]こういう次第で、ペリクレスはこの子の言うことを尤もだと思い、アテナイ人たちを大戦に巻き込むことのできる方法を探求した。なぜなら、そういうふうにすれば、混乱や、国家の動揺と恐怖によって、資金のはっきりした言い開きからいちばんうまく免れると解したからである。だから、その手だてを求めて、こういった原因で、彼によって、しかも偶然に引き起こされたのである。[39_1]アテナ女神の像をこしらえたのはペイディアスであったが、クサンティッポスの子ペリクレスは、その管理人に任ぜられていた。ところが、ペイディアスの仕事仲間の数人が、ペリクレスの政敵に教唆されて、<十二>神の祭壇に〔嘆願者として〕すがった。意外にも召喚されたので、彼らは主張した――聖財の多くをペイディアスが私物化していることを示そう、これには管理人のペリクレスが関知し、共犯である、と。[2]こういう次第で、この件に関して民会が開かれたとき、ペリクレスの政敵たちはペイディアスを逮捕するよう民衆を説得し、ペリクレス当人をも神殿荒らしの廉で告発した。かてて加えて、ソフィストのアナクサゴラス――ペリクレスの教師であった――を、神々に不敬を働いたとして誣告した。かくて、彼らは告発と中傷の中にペリクレスを絡めつけたのであるが、それは嫉妬心から、この人物の高位と名声を貶すことに懸命だったからである。[3]対してペリクレスは、民衆というものが、軍事行動においては、火急の有用性ゆえに、善勇の士を讃歎するが、平和時においては、暇と嫉妬心ゆえに、その同じ人物を誣告するものだということを知っていたので、国を大戦に巻き込むのが自分にとって有利だ、そうすれば、〔国は〕ペリクレスの徳と将軍術との有用性を必要とし、自分に対する中傷を受け容れず、まして、資金に関する言葉〔釈明〕をはっきりとは尋問することはない、と判断した。
 [4]ところで、アテナイ人たちのもとでは、メガラ人たちを市場と港湾から閉め出すという決議が成ったので、メガラ人たちはスパルタ人たちに庇護を求めた。そこでラケダイモン人たちは、メガラ人たちに説得されて、〔ペロポンネソス同盟〕共同の公会議(synedrion)の意見に基づいて使節団を公公然と急派し、メガラ人たちに対する決議を撤廃するようアテナイ人たちに求め、彼らが聴従しないなら、同盟諸国ともども彼らと戦争すると脅迫した。[5]かくてこの件に関して民会が開催されたとき、ペリクレスは、言葉の恐るべき有能さにかけては、全市民の誰よりもはるかに抜きん出ていたので、決議を廃棄すべからずとアテナイ人たちを説得し、こう言った――利に反してラケダイモン人たちの要求に服するは、隷従の始めである、と。そうして、地方にあるものを都市に運び込み、制海権を握ってスパルタ人たちと戦い抜くよう忠告した。[40_1]戦争については、弁明の後のこととて、彼は慎重に、自国にとっての同盟者たちの多さや、海軍力の優位さや、かてて加えて、デロスからアテナイに移し替えられた資金の多さ――〔デロス同盟〕共同体のために諸都市に対する貢祖として徴集されることになっていた――を数え上げた。[2]〔この資金は〕1万タラントンが〔同盟〕共同体のものとなっていたが、プロピュライア〔アテナイのアクロポリスの総門〕建造とポテイダイアの攻囲とのために4000タラントンが費消された。そして毎年、同盟諸国からの貢祖として460タラントンが納入された。さらに、これとは別に、祭器(pompeia skeue)ならびにメディアの鹵獲品が、1万タラントンに相当することが明らかにされた。[3]さらにまた彼〔ペリクレス〕が指摘したのは、神殿にある奉納物の多さばかりか、アテナ像が有する黄金――飾りの周りの造作は取り外せるからといって――50タラントンであった。これらも、どうしても必要となったら、神々のところから持ち出して使ったうえで、平和なときに、再びもとにもどしておけばよい、と〔指摘した〕。[4]こういった資金のほかに、自国のための将兵として彼が指摘したのは、同盟者たちや、守備にあたっている者たちのほかに、重装歩兵は1万と2000人、守備についている者たちと寄留民とが17000人以上、現有三段櫂船も300艘あるということであった。[5]これに反し、ラケダイモン人たちは、資金にも事欠くばかりか、海軍力にいたっては、はるかにアテナイ人たちに後れをとっていると彼は指摘した。こういったことを詳述し、市民たちを戦争へと駆り立てて、ラケダイモン人たちに心を傾けてはならぬと民衆を説得した。そして、彼がこれは易々とやってのけたのは、言葉の恐るべき有能さによるのであって、彼がオリュムポスの人と名づけられるのは、そのせいなのである。[6]このことには、古代の喜劇詩人アリストパネスも言及している。〔この人は〕ペリクレスの同時代の生まれである。
  「おお、寄る辺なき百姓たちよ、わが言うことを悟るがよい
  かの女神がいかにして滅びしか聞くを望むなら。
  すなわち、かの女神に悪さをなせしは、先ず初めにペイディアス、
  次いでペリクレスなり――不運に陥りはすまいかと恐れて、
  メガラの件で議決ありしとき 小さき火花を投げ入れて
  これほどの戦争に火をつけたので その煙に
  ヘラス人たちはみな涙ぽろぽろ あっちの人もこっちの人も」〔『平和』603以下の模倣〕
 また他の箇所でも今度は[詩人エウポリスが]、「オリュムポスの人ペリクレスは、稲光りし、雷鳴とどろかせ、ヘラスを沸き返らせた」〔アリストパネス『アカルナイの人々』531-532〕。〔欠損〕[ペイト〔「説得」の意〕女神らしきもの、両唇の上に座せり。かくて弁論家の一人、魅了して、聴衆に棘させり」〔I 281, 94 Kock)〕]。
 [41_1]ペロポンネソス戦争は、何かこういったことが原因で始まったと、エポロスは書きとめている。


F197
HARPOKR. 「アルキダモス戦争(Archidameios polemos)」の項。

 リュシアス「アンドロティオンに対して」(F 9 Fuhr)とデイナルコス「ピュテアスの客遇に対して」。ペロポンネソス戦争の初めの10(|)年間がアルキダモス戦争と呼ばれたが、その所以は、どうやら、アルキダモスがアッティカに侵攻したことによるらしく、トゥキュディデス(II 10)もエポロスもアナクシメネス(72 F 23)も同じように主張している。


F198
STEPH. BYZ. 「ブウドロン(Boudoron)」の項。

 サラミスに近い海角(akroterion)。トゥキュディデス第3巻(51, 2)。しかしエポロスはBoudaronを要塞だと言った。民族名はブウドロン人(Boudorios)。


F199
DIODOR. XIII 41:

 [1]ラケダイモン勢の艦隊指揮官ミンダロスは、敗北を喫してアビュドスに逃走、傷んだ艦船を補修するとともに、エウボイアにある三段櫂船のもとに、スパルタ人エピクレスを急派、できるかぎり速く引率するよう下命した。[2]彼〔エピクレス〕はエウボイアに入港すると、艦船――50艘あった――を集め、急いで船出した。しかし、これらの三段櫂船がアトスに到着したとき、猛烈な嵐が起こり、ために、艦船は全艦が破滅し、人員も助かったのは12人にすぎなかった。[3]これに関することは、コロネイアの近くの神殿にある奉納物に、監督官が言っているとおりで、その碑文は以下のとおりである。
  50艘の艦船から死をまぬがれ
  アトスの断崖のたもと 身を岸辺に寄せしは
  12人、他は海の大いなる深淵に滅す。
  船もろとも いまわしき風に見舞われて。


F200
PLUTARCH. Alkib. 32:

 ところでアルキビアデスは、もはや家郷の様子を見たくてたまらなくなるとともに、なおそのうえに、むしろ敵勢にかくもしばしば勝利してきた自分を市民たちに見てもらいたくなって〔前408年春、サモスから〕船出した。アッティカの三段櫂船を、数多くの楯や鹵獲品でぐるりと飾り立て、数多くの捕虜を引き連れ、なおそのうえに、自分によって壊滅され征服された艦船のもっと多くの船首を運搬して。というのは、その〔船首の〕数が全部で200を下らなかったからである。しかし、ドゥウリス(76 F 70)は……このことに追加していることは……、テオポムポス(115 F 324)も、エポロスも、クセノポン(Hell. I 4)も書いておらず、亡命とあれほどの災禍の後に帰還した身で、アテナイ人たちを前にそれほど贅を尽くしたとは尤もなことでもなかったのである。


F201
DIODR. XIII 54, 5

 さて、アンニバスの総勢は、エポロスの記しているとこでは、陸兵20万、騎兵4000騎。しかしティマイオス(III)の主張では、10万を越えることそれほど多くないという。


F202
同 XIII 60, 5

 こうして彼ら〔ヒメラ人たち〕の戦闘ぶりが華々しかったので、非ヘラス人たちは……敗走に転じた。しかし彼らは何の秩序もなく、……敗走したので、彼ら〔ヒメラ勢〕は、一人も生け捕りにせぬよう互いに声を掛け合いながら追跡し、ティマイオス(III)によれば、6000人以上を殲滅した。しかしエポロスの主張では、20000人以上を。


F203
同 XIII 80, 5

 かくして、最終的に軍勢がカルケドンに集結してみると、騎兵をあわせて全部で、ティマイオス(III)によれば、12万を大きくは超えない数が彼らによって動員された。しかしエポロスによれば、30万が。


F204
同 XIII 54, 4

 カルケドン人たちは、ディオニュシオスの軍勢の大きさを聞き知って、戦備の点で相手の方がはるかに優勢であると判断した。[5]そこで、法習にしたがってイミルコンを、全リビュエの将軍に任じ、なおそのうえに、イベリアからも軍勢を集結させようと、あるものは同盟諸国から呼び寄せ、あるものは雇い入れた。こうして最終的に集めたのは、陸兵は30万以上、騎兵は4000――ただし、戦車は別である|戦車の方は400台|、艦船は、長船が400艘、他は穀物や兵器やその他の補助具の輸送船が600艘以上であった。以上は、エポロスの主張したことである。[6]というのは、ティマイオス(III)によれば、リビュエから渡海してきた軍勢は、10万を大きくは出ないと主張している。そして、これに加えて他に3万は、シケリアで兵籍登録された者たちであると彼は言明しているのである。


F205
PLUTARCH. Lysand. 17

 ……スパルタ人たちの中で最も思慮のある人たちは、このことからも、貨幣の威力を徹頭徹尾恐れ……リュサンドロスを悪罵するとともに、すべての銀貨・金貨を、あたかも輸入された死神のように祓うよう監督官たちに進言した。そこで彼ら〔監督官たち〕は動議を提起した。そして、テオポムポスの主張ではスキラピダスが、エポロス〔の主張で〕はプロギダスが、金貨・銀貨を国内に受け容れるべからず、父祖伝来の貨幣を用ゆべしとの提案者となったという。  これに対してリュサンドロスの友たちが反対したが……公用としては前者の貨幣が導入されることが決定され、私的に所有していて逮捕された場合は、罰は死刑と定めたのである。


F206
同 25

 ところで、エポロスの主張では、彼〔リュサンドロス〕は、ピュティア〔デルポイのアポロンの巫女〕買収を企て、さらにはペレクレス(|)を介してドドネたち〔エペイロスにある神託所の巫女〕を説き伏せようとして、アムモンの神殿〔リビュエのオアシスにあった〕に参詣して莫大な金を与えて預言者たちと相談したが、いずれもしくじった。そして腹を立てた者たちが、リュサンドロス告発に、スパルタに人を遣った。しかし、無罪放免されたので、リビュエ人たちは立ち去るときに言ったという。「少なくともわれわれなら、もっとより善く、おお、スパルタ人たちよ、裁くことであろうよ――あなたがたがリビュエに住むために来着した場合には」と。ラケダイモン人たちはリビュエに定住するという昔のある託宣に引っかけて。|Plut. Lys. 20〔リュサンドロスのアムモン詣でのいきさつが書かれている。〕。


F207
同 30

 さて、リュサンドロスにこのような最期が出来したので〔前395年〕、当座はスパルタ人たちは腹立たしさのあまり、王〔パウサニアス〕に死刑裁判の召喚状を送付した……というのも、最期を遂げたリュサンドロスの貧しさが露わとなり、その徳をより明らかなものとしたからである。しかし、後になって、エポロスの主張では、スパルタにおいて同盟国からある異義申し立てが起こったとき、リュサンドロスが自宅に保存していた文書をも調査する必要が生じ、アゲシラオスが邸宅に赴いたという。そして、彼が見つけたのは、国制に関する言葉が書き記されていた書類で、そこには、エウリュポン家とアギス家から王位を剥奪して、衆人の中に置き、最善者の中から選出すべしとあったので、この言葉を市民たちの前に持ちだし、リュサンドロスがいかなる正体の市民であることが気づかれないできたかを暴露したい衝動に駆られたが、ラクラティデス――思慮深い人物で、当時、監督官たちの筆頭であった――が、アゲシラオスを引き留めて、言ったという。リュサンドロスを掘り起こしてはならない、むしろ、その言葉をも、かくも説得的・入念にこしらえられているがゆえに、彼といっしょに埋めるのがよい、と。


F208
DIODR. XIV 22:

 [1]対して、大王アルタクセルクセスは、キュロスが自分に向けてひそかに出征軍を集結させているということは、かねてよりパルナバゾスから聞き及んでいたが、この時には彼の攻め上りを聞き及んで、至るところから軍勢をメディアのエクバタに呼び寄せた。[2]しかし、インドス人たちやその他の民族からの軍勢は、地域が遠く離れていたために、遅れたので、動員された征討軍のみを帯同して、キュロスを迎え撃つために進発した。将兵たちは騎兵隊を含めて全部で40万を下らなかったと、これはエポロスの主張しているところである。


F209
SCHOL. DEMOSTH. XX 52 (IX 475, 23 DINDF.):「ラケダイモン人たちとの大戦つまりコリントス戦争が出来したとき」]  この戦争について、ヒュペレイデスは『ディオンダス〔アテナイのピリッポス派、デモステネスの対立者。〕に対して』(F 96)の中で述べている。また、エポロスやアンドロティオン(III)の著作の中でも記されている、――アテナイ人たちにラケダイモン人たちは大勝した、と。


F210
PLUTARCH. Pelop. 17

 軍団(mora)〔の員数〕とは、エポロスは500人だと主張し、カッリステネス〔124 F 18〕は700人、他の何人かは――この中にポリュビオスが含まれるが――900人と〔主張する〕。


F211
SCHOL. ARISTEID. p.294, 13 Ddf.:

 僭主ディオニュシオス〔1世。在位、前405-367年〕の息子ディオニュシオス〔2世。在位、前367-343/2年〕は、祖国の完成後、ペルシアの大王と条約を締結し、表向きは、アテナイ人たちに対するラケダイモン人たちの救援に向かいながら、まことは、包囲して全ヘラスをペルシア人と分け合おうとしたと、エポロスが記録している(ACBD)。|そして、このために、わずかな間に、シケリアの艦船をすべて結集して出陣し、ラケダイモン勢の艦隊と合流しようとした。落ち合って、これらの艦隊で、アテナイ勢がこれほどの戦備に対抗できないうちに打ち負かすためである。ところがアテナイ勢は、ディオニュシオスとラケダイモン勢とがお互いに合流する前に、将軍を――ひとりは名を〔欠損〕といい、最多の艦船を帯同してディオニュシオスの三段櫂船群へ、もうひとりは名を〔欠損〕といい、ラケダイモン勢へ――派遣して、ディオニュシオスの全艦隊は殲滅し、ラケダイモン勢にはレウカス(C)で戦勝した。


F212
SENECA Quaest. nat. VII 16, 2:

 しかしながら、エポロスは、最も確かな信頼性をそなえた人であるというわけではない。彼はしばしば欺かれ、しばしば欺こうとする〔T14〕。例えば、彗星のように、これが万人によって注意深く観察されるのは、これの発生がヘリケやブウラ〔いずれも都市の名。大洪水で沈没したらしい。〕をもろともに沈没させる原因になったほど、いちじるしく重要な事件を引き起こすからであるが、これを彼は二つの星への分裂などと、彼より以前の人たちが誰ひとり伝えていないようなことを主張するのである。


F213
PLUTARCH. De garr. 22 p.514 C:

 然り、われわれの同時代の人の中には、たまさかエポロスの巻本の二つか三つを読んだからというので、レウクトラの戦いとその結末とを説明しては、その場の人々をみな辟易させる……人がいるものである。ここから、〔その人は〕エパメイノンダスという添え名はもらうことになるのである。


F214
DIODOR. XV 60, 5

 第3はペライ人イアソン――テッサリアの嚮導者に選出され、臣従者たちを支配するにふさわしいと思われたが、エポロスの書いたところでは、名声目的に同志となった数人[5人]の若者たちによって、しかし何人かの人たちの書いたところでは、自分の兄弟のポリュドロスによって、暗殺された。


F215
STEPH. BYZ. 「エパリタイ(Eparitai)」の項。

 アルカディアの民族。彼らの都市はエパリス(Eparis)として知られている、が、発見されていない。この民族については、クセノポン〔Hell. VI 4?〕、エポロス、アンドロティオン(III)が伝えている。


F216
STRABON VI 3, 3

 ところでエポロスは、この〔タラスの〕建設について次のように言っている。――ラケダイモン人たちがメッセニア人たちと戦争をしようとしたのは、〔スパルタの〕王テレクロスが、供犠目的でメッセニアに到着したところを〔メッセニア人たちが〕殺害したからで、〔スパルタ人たちは〕メッセニアを攻略するか、あるいは、全員皆殺しにするかしないうちは、家郷へはもどって来るまいとの誓いを立てた。そして、国の守りには、市民たちのうちの最若年層と最年長層とを後に残して出征したのである。しかしその後、戦争の10年目に、ラケダイモンの女たちが寄り合って、自分たちの中から何人かを男たちのもとに派遣した。〔男たちを〕なじるためである。――メッセニア人たちとの戦争は平等ではない。|なぜなら、相手はとどまって子づくりをしているのに、こなたは女たちを独り身のままほったらかしにして、戦地で宿営しているのだから。|祖国は男日照りになる危険さえある、と。そこで男たちは、かつは、誓いを守ると同時に、かつは、女たちの言葉にも心をとめて、出生軍の中で最も強壮であると同時に最も若いのを――この者たちは、年齢的にまだ子どものときにいっしょに出陣したので、誓いには与っていないのがわかっていた――〔国元に〕派遣した。そのさい、この男たち全員が処女全員と交わるよう言いつけたのであるが、それは、より多くの子づくりができると考えたからである。さて、このことがそのとおり実行されて、〔生まれた〕子どもたちは「処女っ子たち(Partheniai)」と名づけられた。そしてメッセニアが陥落したのは、19年間にわたる戦闘の後であったと、これはテュルタイオス(F 4 Diehl)も主張しているところである。
  この町をめぐって 19年間 戦いたり、
  倦まずたゆまず 毅き意気を持ちつづけて
  槍の戦士たち、すなわち われらが父のそのまた父たちは。
  かくして20年目に 相手は肥えた畑地を後に
  イトメなる大いなる山地から逃げたり。
 こうして〔ラケダイモン勢は〕メッセニアを分配した。そして家郷へ引き上げたが、処女っ子たちを、その他の〔市民〕たちと同じようには資格を与えなかった。結婚によって生まれたのではないからである。そこで彼ら〔処女っ子たち〕は隷属民(heilotai)と結託し、ラケダイモン人たちに対して陰謀を企て、申し合わせとして、市場の中でラコン風フェルト帽を合図に掲げるや、事を起こすことにした。ところが、隷属民の中に通報する者がいたのであるが、〔市民たちは〕反撃は難しいと悟った。というのも、〔相手は〕数も多く、全員が心を一にしていたからである。お互いに兄弟だと信じていたのである。そこで、合図を掲げることになっている者たちに、市場から退去するように命じた。彼らは、すでに密告されたのを察知して、作戦行動を中止した。対して彼ら〔市民たち〕の方は、父親たちを介して植民に出かけるよう相手を説得した。そして、気に入った地を占領したなら、そこにとどまるよう、さもなければ、引き上げてきた者たちにはメッセニアの5番目の分割地を分配するということにした。こうして派遣された者たちは、アカイア人たちが非ヘラス人たちと戦っているところに遭遇し、この危難に助力して建設したのが、タラスである。


F217
TERTULLIAN. De an. 46:

 〔未訳。内容は、アレクサンドルスの誕生にまつわる逸話。〕


F218
POLYB. XII 4 a 3:

 またもや彼〔ティマイオス〕はエポロスの無知をでっちあげて、彼〔エポロス〕がこう言っていると主張するのである。――老ディオニュシオス〔1世〕は23歳の時に支配を引き継ぎ、42年間権力の座にあって、63年間生きながらえて往生を遂げた、と。[4]編纂者の誤謬はしかし原作者のそれ〔誤謬〕であると一致承認されているなどとは、むろん、誰も言えないであろう。


F219
PLUTARCH. Dion 35:

 また海上でもある種の善運が起こり、なおいっそう彼ら〔シュラクウサイ軍〕を高ぶらせた。これでピリスコスに勝利した彼らは、彼を残忍・野蛮に扱った。それで、エポロスの主張では、艦船が拿捕されたとき、彼は自ら果てたという。これに対してティモニデス(III)は……スペウシッポスに関説して……生け捕りにされたと記している……


F220
同 Dion 36

 しかるにティマイオス(III)は……彼〔ピリストス〕に対する誹謗中傷に満たされ……むろんエポロスも冷静ではないにしても、ピリスコスを褒めて……


F221a
同 Timoleon 4:

 親族の中からはアイスキュロス――ティパネスの妻の兄弟である――を、友たちの中からは占卜者――テオポムポス(115 F 334)によればサテュロス、エポロスとティマイオス(III)によればオルタゴラスという名の――を連れて……


F221b
@8 CLEM. ALEX. Strom. I 135, 1:

 また、テオポムポスとエポロスとティマイオスとは、オルタゴラスなる者を占卜者と書きとめている。


F222
ARNOB. adv. gent III 37:

 そこでエポロスは、彼女たち〔詩歌女神(Mousai)〕は3人であるという数をあげている。ムナセアス(V)は……4人。ミュルティロス(III)は7人を提起。クラテスは8人と断言。最終的にヘシオドス(Th. 76以下)が9人を、その名とともに闡明している。


F223
CLEM. ALEX. Strom. I 139, 3:

 トロイアの陥落からヘライクレダイの帰還に至る120年ないし[100+]80年間。[4]この時からエウアイネトスが執政官の年――この年にアレクサンドロスがアシアに侵攻したと語り伝えられている――まで、パニアス(IV)によれば715年間。エポロスによれば735年間。ティマイオス(III)とクレイタルコス(137 F 7)によれば820年間。エラトステネス(241 F 1)によれば774年間。ドゥウリス(76 F 41)によれば、トロイアの陥落からアレクサンドロスのアシア侵攻まで1000年間。


F224
EPIM. HOM. Cram. AO I 340, 13

 背(notos)。たしかにこれ〔男性名詞〕の用例がある。中性名詞(to noton)も多い。また男性名詞は既出。〔男性名詞としての用例は〕クセノポン〔P. hipp. 3, 3〕やエポロスの著作中に記されている。


F225
HESYCH. 「タナグラの海獣(Tanagraion phyen)」の項。

 (ketos)〔「海豚だとか海犬だとかまたは何かもっと大きな海獣(ketos)でも捕れはすまいかと」Od. XII 97〕に似たもの。エポロスは、タナグラにいる最も巨大なものといっているが、これはケテウス(Keteus)〔?〕と言われていたものである。


F226
PLUTARCH. Camill. 19:

 月末の第7日目――[タルゲリオン月の]この日のころ、イリンも陥落したと思われていると、エポロス、カッリステネス〔124 F 10〕、ダマステス〔5 F 7〕、ピュラルコス〔81 F 73〕が記してきた。


F227
SCHOL. ET HOM. Od. VI 244 「ほんにまあ、あんなお方がわたしの旦那様ならよいのに」

 この言葉は乙女には不適切で埒もないことのように思われる。またその身の程からも逸脱している。なぜなら、パイアケス人たちというのは華美で、まったく優雅な暮らしぶりの人たちと想定されているからである。しかしながら、エポロスは逆に、この言葉は徳の点で生まれつきのよい魂から発するものとして称讃している。


F228
SCHOL. THEOKRIT. VII 103 a

 ホモレ(Homole)とは、テッタリアの山だと、エポロス、またテバイ人アリストデモス(III)も、ホモロイオイ人たちの祭礼に関して記している書物の中で、またピンダロスも『舞踏歌集(Hyporchemata)』(F 113)の中で。


F229
STEPH. BYZ. 「アクライピア(Akraiphia)」の項。

 ボイオティアの都市。アクライピオン(Akraiphion)という人たちもいる。パウサニアス(IX 23, 5)はアクライプニオン(Akraiphnion)というが、いずれも違う……民族名はAkraiphiaiosとかAkraiphiosとも……しかしエポロスは、AkraiphnioiともAkraiphneotaiとも〔いう〕。テオポムポス(115 F 362)は、Akraiphnia、民族名もAkraiphnieusと主張する。


F230
同 「バリス(Baris)」の項。

 都市。民族名はバリス人(Barites)。バリスとは住居の意味で言われると、ポセイディッポス。集合住居(synoikia)も〔バリスと言われるの〕だと、エポロス。


F231
同 「ボイオン(Boion)」の項。

 ホメロス〔Il. II 712〕がボイベのことだと思った都市。しかしドリス系の都市でもないし、また女性名詞でもない。クレテの都市もボイアイ(Boiai)である。市民はBoiatesとか……Boiaiosとも言われると、エポロス。しかしヘロディアノス(II 863, 17)は、Boiitesと主張する……


F232
同 「ヒスティアイア(Histiaia)」の項。

 エウボイアの都市……市民はヒスティアイア人(Histiaieus)。しかしエポロスは、民族名を(Hestiaios)と主張する。


F233
同 「ナルマリス(Narmalis)」の項。

 ピシディアの都市……市民はナルマリス人たちNarmaleis(Kableisのように)と、エポロスが主張している。


F234
同 「ノスティア(Nostia)」の項。

 アルカディアの村。テオポムポス『ピリッポス記』32巻〔115 F 175〕。エポロスは民族名をNestaniosと主張した、そのため彼においてはNestaniaと言われる。前者に同じ都市であることは、他のことからして明らかだから。


F235
同 「パッサ(Passa)」の項。

 トラキアの都市。民族名はパッサ人(Passaios)……AdramyttionとKistheneいう都市のそばには、Passanda堡塁もある。民族名は、土地の印象からパッサンデウス人(Passandeus)〔?"passo"には「散在」の意があるが〕。エポロス「わずか数名がPassandeus人たちの堡塁に逃げ込んだ」。


F236
STRABON XIII 3, 6

 また、エポロスも嘲笑をかった。他の所行を数え上げるさいに、祖国の業績を申し立てることができなかったが、もちろん、祖国が言及に値しないと認めることも潔しとせず、次のように〔祖国の名を〕呼び出したからである。「同じ時機に、キュメ人たちは平穏にしていた」と。


F237
CLEM. ALEX. Strom. I 142, 1

 しかしエポロスや、他にも歴史家たちの多くが、モーゼの声音(『創世記』第46章27)が発せられるのを聞いていたのは、民族・方言ともに75種であったと言っている。「ヤコブを祖としてアイギュプトスに赴いた員数は全部で75である」。[2]道理から言っても、わたしたちの文字が継承されているとおり、72の民族語があったのは明らかである〔残りの3つはどないなったんや?〕。


F238
JOSEPH. AJ I 108:

 ヘシオドス〔F 256〕、ヘカタイオス〔I F 35〕、ヘッラニコス〔4 F 202〕、アクウシラオス〔2 F 46〕、以上に加えてエポロスとニコラオス〔90 F 141〕は、1000年間生きながらえた往古の人たちのことを記している。

//End 2000.02.

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