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エポロス断片集

(1/6)






[底本]
TLG 0536
EPHORUS Hist.
4 B.C.
Hist.
Cumaeus

0536 002
Testimonia
Test.
F. Jacoby, Die Fragmente der griechischen Historiker (FGrH) #70, Leiden: Brill, 1923-1958 (repr. 1954-1969): 2A:37-43.

0536 003
Fragmenta
Hist., Rhet.
F. Jacoby, Die Fragmente der griechischen Historiker (FGrH) #70, Leiden: Brill, 1923-1958 (repr. 1954-1969): 2A:43-109.
Breakdown

0536 004
Fragmenta
Hist.
H.J. Mette, "Die `Kleinen' griechischen Historiker heute," Lustrum 21 (1978): 13.
Breakdown




Ephoros:
Testimonia
Volume-Jaco

Testimonia

0536 002 2a, 70,

T1
SUID. 「エピッポス(Epippos)(126 T 1)」の項。
 〔欠落〕キュメ人、デモピロスの息子、そしてアンティオコスの子孫。弁論家イソクラテスの弟子。歴史家。また息子に歴史家デモピロス(T 9)を有す。アテナイの執政官不在年の時期、第93回オリュムピア紀年に存命、またマケドニアのピリッポスの王在位中にも存命したという。著作は、イリオンの破壊つまりトロイア戦争から〔T 8; T 10〕自身の時代まで30巻。『善事と悪事について』24巻。『あらゆる場合の逆説』15巻。『各人の発明した発明品』2巻〔F 2-5〕。その他〔F 1; F 6〕。


T2a
STRABON XIII 3, 6。
 この国〔キュメ〕の出身で言及に値する人物はといえば、異論の余地なくエポロスである。彼は弁論家イソクラテスの知己にして、歴史と、『発明品について』を編纂した人である。


T2b
@8 STEPH. BYZ. 「キュメ(Kyme)」の項。
 ……ここからは歴史家エポロスが出た。


T2c
@8 SOLIN. 40, 6 :
 〔小〕アジアの有名な天才的な……歴史著述家たちは、クサントス、ヘカタイオス、ヘロドトス、これらとともに、エポロスとテオポムポス。


T3a
PHOT. bibl. 176 p.121 a 23
 彼〔テオポムポス 115 T5〕とエポロスとはイソクラテスの学徒だったと言われる。たしかにこのことはいくつかの文献も明らかにしている。……さらにまた歴史的研究対象をもこの師匠は彼らに指示したといわれる。上代の歴史はエポロスに、テオポムポスにはトゥキュディデス以後のヘラス史を、それぞれの自然本性と活動に合わせて〔F 7〕。


T3b
@8 CICERO De or. II 57
 しかしその後、弁論家の製作所ともいうべき輝かしい工房から、二人の傑出した天才――テオポムポスとエポロスとが出、師のイソクラテスに励まされて歴史の分野に身を投じた。


T3c
@8 SENECA De tranq. an. 7, 2:
 イソクラテスはエポロスに、


T4
[PLUTARCH.] Vit. X or. 839A:
 また、キュメ人エポロスが、成業も収めずこの学校を出て行き、父親デモピロスによって二流の授業料で再び送り込まれたとき、〔イソクラテスは〕彼のことを冗談半分にディポロス〔Twice-bringerの意〕と呼んだ。しかしながら、この男について充分に真剣になり、研究対象をまでみずから指示したほどであった〔T 3〕。


T5
MENAND. p. epideikt. III 398, 9 Sp
 そして、エポロス同様、テオポムポスも花冠を受けた。彼らはイソクラテスの学徒であって、多衆に抜きんでていたからである――というのも、イソクラテスは、徳の競争で、弟子たちの最善者たちに、毎月、花冠を授けていたからである――……。


T6
PLUTARCH. De Stoic. rep. 20 p.1043 D
 カッリステネス〔124 T 20-21〕を、一部の人たちは糾弾している。アレクサンドロスのもとに航行したからと言ってである……ところが〔その人たちが〕、エポロスやクセノクラテスやメナンドロスは称讃しているのである。アレクサンドロスに許しを請うたのに。


T7
POLYB. V 33, 2
 エポロスは、一般論を書くことを意図した最初にして唯一の人である。


T8
DIODOR. IV 1, 2
 だからこそ、後継者たる歴史著作者たちのうち、初期の人たちは、思うに、昔の神話は扱い難しとして避け、比較的新しい出来事を書きとめようとした。[3]例えば、キュメ人エポロスは、イソクラテスの学徒であったが、共通の出来事を書くことを志し、昔の神話はやり過ごし、ヘラクレイダイの帰還以降の出来事を著し、これを歴史の初めとした。この人と同様に、カッリステネス〔124 T24〕やテオポムポス〔115 T 12〕も、同じ年代に存命したが、昔の神話をさけた。しかしわたしたちは、これらの人たちとは逆の判断を下して……


T9a
同 XVI 14, 3:
 編纂者たちのうちでは、歴史著作者エポロスの息子デモピロスは、父親から引き継いだ戦争――神聖戦争と名づけられていた――を著した(F 93-96)が、その中では、ポキス人ピロメロスによるデルポイにある神殿の占領と占卜者の逮捕〔前355年〕から始めている。そしてこの戦争は、聖財を分け合った連中の破滅まで、11年間続いた。


T9b
@8 ATHEN. VI 22 p.232 D:
 しかしエポロス、ないし、彼の息子デモピロスは、『歴史』第30巻の中で……〔F 96〕。


T10
同 XVI 76, 5
 編纂者たちの中では、キュメ人エポロスは、著作の中で歴史をペリントスの攻囲で終わらせている。そして彼がこの書に含ませているのは、ヘラクレイダイの帰還から始めて、ヘラス人たちや非ギリシア人の出来事である。期間はほぼ750年間を含ませ、巻数は30巻を書き、各巻には序論をもって前書きとしている。


T11
同 V 1, 4
 エポロスは、言い方ばかりでなく、扱い方も、共通の出来事を書きとめることを目標とした。例えば、各巻は出来事を種類別に含むようにさせた。だから、わたしたちも、この種類の取り扱い方を前面に押し立てて、できるかぎりこの目論見を維持したい。そして、この巻に「島嶼の巻」という副題をつけたのは云々。


T12
STRABON VIII 1,1
 ある人たちは、歴史の一般的な記述の中で、諸大陸の地誌(topographia)は別個に著したが、こういったことをしたのは、エポロスやポリュビオスである。


T13
POLYB. VI 45, 1
 昔の編纂家たちのうち、最も学識があったのは、エポロス、クセノポン、カッリステネス〔124 T 28〕、プラトン……〔F 148〕。


T14a
JOSEPH. c. Ap. I 67
 厳密きわまりないと思われている編纂者たち――エポロスがその一人である……〔F 133〕。


T14b
@8 SENECA Quaest. N. VII 16, 2:
 じっさい、エポロスは、最も確かな信頼性をそなえた人ではない。彼はしばしば欺かれ、しばしば欺こうとする……〔F212〕。


T15
STRABON X 3, 3
 書いていることと言っていることとの矛盾をば……〔F 122〕。


T16
DIODOR. I 39, 13(=AGATHARCHIDES)
 むろん、エポロスの著作の中に、厳密な事柄などどうしても見つけられないであろう。彼が、たいていの場合、真実を軽視しているのを眼にするからである……〔F 65e〕。


?T17
PORPHYR. b. EUSEB. PE X 3 p.464 B
 そして、他の機会に、エポロスに関してある研究がなされたとき……つまり、ある人は彼をテオポムポスさえ凌ぐとし、ある人は……彼を盗人と呼んだ。「というのも、いったい、エポロス自身のものは何があるであろうか、――ダイマコス〔65 T 1〕や、カッリステネス〔124 T 33〕やアナクシメネス〔72 T 28〕の著作から表現そのものを、時には全体で3000行を書き換えているのに」と。……〔465D〕「テオポムポスやエポロスを、盗作の情熱がとらえたとしても、何という怠惰な者どもかと、わたしたちは何ら驚くにおよばない……メナンドロスもどこかで〔〕……リュシマコスには『エポロスの盗作について』2巻があり、悪罵のイアムボス詩と碑銘の作り手アルカイオスは、エポロスの盗作を難じて揶揄している。


T18a
STRABON X 3, 5:
 ポリュビオスの主張では、(XXXIV 1, 3)……ヘラス史に関して美しく〔説明しているのは〕エウドクソス(V)だが、エポロスが最美に説明しているのは、〔都市の〕建設、同族関係、移住、元祖についてであるという。


T18b
POLYB. IX 1, 4:
 聞くことの好きな人物には系譜学の分野が向いており、穿鑿好きで非凡な人には、植民や建設や同族関係に関する分野が〔向いている〕とは、これはエポロスの著作のどこかでも言われていることであるが、また政治的人物には、民族や国家や権力者たちの行為に関する分野が向いているという。


T19
STRABON I 1, 1
 敢えて初めてこれ〔地誌学〕に携わろうとした人たちとは、次のような人たちが最初であった。ホメロスとアナクシマンドロス、……そしてヘカタイオス〔I T 11〕……、これはエラトステネス(V)も主張しているとおりである。さらには、デモクリトスも、エウドクソス(V)も、ディカイオアルコスも、エポロスも、他にも多くの人たちがそうである。さらにまた、これらの人たちの後の人たち、つまり、エラトステネス、ポリュビオス、ポセイドニオス〔87 T 14〕も……。


T20
POLYB. XII 25以下
 何が言われているかは……歴史のある箇所でエポロスに結果していることからして、明らかとなるであろう。すなわち、戦争のことについて、彼は海上の作戦行動についてはかなりの心得があるようにわたしには思われるが、陸上の戦闘についてはまったく無経験者であるように思われるということである。[2]だからして、キュプロス沖の海戦やクニドス沖のそれ――これらは大王の将軍たちがサラミスのエウアゴラスに対して、また今度はラケダイモンたちに対して起こしたものであるが――に目を凝らす人がいれば、この編纂者に対して、その力量の点でも経験の点でも、当然、驚嘆し、似たような状況にとって有用な多くのことを会得できるのである。[3]ところが、テバイ勢とラケダイモン勢とのレウクトラの戦闘や、同一勢力による今度はマンティネイアのそれ――ほかならぬこの戦闘でエパメイノンダスが往生を遂げたのであるが――を彼が描き出す段になると、この場合には、細部に至るまで知悉している人が、隊形や、危難〔=戦闘〕の最中における隊形の変化を見た場合、明らかに滑稽、こういったことに彼がまったく無経験で、見たことがないことがわかるのである。[4]つまり、レウクトラの危難〔戦闘〕が平板なものになり、軍勢の一つひとつの役割がまったく鮮明にならないのは、この編纂者の無経験のせいなのである。またマンティネイアのそれの方は、多彩で戦術的な様相を呈しているにもかかわらず、この編纂者にとっては無根拠で理解しがたいものになっているのである。[5]このことは、現地を前に、彼によって説明されている動きを実測してみれば明白になるであろう。[6]同じことはテオポムポスにも〔115 T 30〕、とりわけティマイオス(III)には最もよく当てはまるのである。


T21
PLUTARCH. praec. rei. publ. ger. 6 p.803 B:
 しかし、エポロスやテオポムポス(115 T 33)やアナクシメネス〔72 T 15〕やの雄弁と循環話法――これを彼らは、遠征隊を完全武装させて戦闘態勢をとらせたうえでやろうとしている――に対しては、「鉄に近づく愚行をするものは誰もいない」と言うことができる。


T22
PHOT. bibl. 176 p.121 a 41:
 ところがサモス人ドゥウリスは、その歴史書の第1巻の中〔76 F 1〕で、次のように主張ししている。「しかるにエポロスとテオポムポス〔115 T 34〕とは、過去の出来事の大部分を書き漏らした。なぜなら、模倣ひとつ〔採用することもなく〕、表現の快適さひとつ採用することもなく、ひたすら書くことのみに意を用いたからである」。


T23
POLYB. XII 28, 10
 なぜならエポロスは、全著作にさいし、表現法においても手際においても、諸仮定の着想においても驚嘆すべき人物であったので、脱線や自作の格言において、また、一般に、どこかに付言を配置する場合に、有能このうえなく……(F111)。


T24a
DIONYS. HAL. De Isaeo 19:
 しかし、詩的な結構――それはつまり、高尚で堂々たる述べ方にかけては、イソクラテスよりもより善い人はひとりもいなかったということに思いを致して、この種のことにおいてあまり成功しているとは見えない人たちは、わざと省略した……
したがって、こういった人たちすべてを、イソクラテスは凌駕していたので、こういった人たちについて、まして、イソクラテスと同時代の人たち――叙述の特徴においても彼を模倣した人たち――のなかのどの一人についても、何ら言及する要はないとわたしは思ったのである。わたしが言っているのは、テオデクテス、テオポムポス〔115 T 20b〕、ナウクラテス、エポロス、および、ピリスコス、ケピソドロス、他にもおびただしい人たちである。この人たちでさえも、イソクラテスの能力に匹敵するほどの重要人物ではないのである。


T24b
@8 同 De comp. verb. 23(II 114, 1 UR)
 そこで、わたしに思われるところでは、この〔洗練された構成という〕特徴の点で最美に制作したのは、叙事詩人たちの中ではヘシオドスである。叙情詩人たちの中では、サッポー、彼女の後にアナクレオンとシモニデスである。悲劇作家の中ではエウリピデスただ一人。編纂者〔散文作家〕たちの中には、はっきりした者は一人もいないが、しかし多数の中で一頭地を抜いているのはエポロスとテオポムポスである。弁論家たちの中ではイソクラテスである。


T25
DIO CHRYS. XVIII 10(II 253, 27 Arn.)
 エポロスは多くの歴史を書き残したのであり、その報告の冗長さと弛緩は、あなたにとって重要なことではない。


T26
HERMOGEN. P. fid. II 12 p.412, 1 Rabe
 テオポムポス(115 T 23)、エポロス、ヘッラニコス〔4 T 15〕、ピリストス(III)、および、これらと同類の人たちについて書くことは、とんでもないことだとわたしには思われたのは、何よりも先ず、ひとは言葉の諸々の方法や、人物について述べられた事柄に関しては、難しく考えないで、彼らを特徴づけることが可能だからであり、これに加えてまた、彼らの言説の種類は、わたしの知るかぎりでは少しも、いやむしろまったく、ヘラス人たちの間では探求や模倣に値しないからでもある。


T27
PHILOSTRAT. Vit. soph. I 17, 4
 この人〔イソクラテス〕の弟子は多いが、最も著名なのは、弁論家ヒュペレイデスである。というのは、テオポムポス〔115 T 24〕や……キュメ人エポロスは、わたしは貶しもしなければ驚嘆もしないからである。


T28a
SUID. 「キュメ人エポロスと、ダマシストラトスの子でキオス人テオポムポス〔115 T 28〕」の項。
 二人ともイソクラテスの学徒であったが、性格と言説とは正反対から出発した。というのは、エポロスは性格は単純であったが、歴史叙述の仕方は冗漫、鈍重、何ひとつ緊張感を持っていなかった。これに反してテオポムポスは、性格は辛辣で性悪(kakoethes)であったが、表現の仕方は豊か、簡潔、才気煥発で、書き物の中で真理愛に満ちていた。だからイソクラテスは、後者には馬勒が、エポロスには突き棒が必要だと言っていた。


T28b
@8 VIT. ISOKRAT. III p.257, 98 W
 テオポムポスとエポロスとについては、彼の次のようなちょっと洒落た話が持ち出される……というのは、テオポムポスは短い主題のごときものを掲げて、これを誇張し、多言を弄して語ること、あたかもそのピリッポス史においてなしたがごとくであるのに反し、エポロスの方は、 主題は長く多言を要するものを掲げ、しかるのちに少言をもって、しかも省略してこれを語るのを眼にしたとして、「わたしは二人のある学徒をもっている、このうち一人は鞭を、もう一人は馬勒を必要とする」というようなことを〔イソクラテスは〕言ったのである。鞭を〔必要とする〕と言ったのは、エポロスについて自然本性が鈍く重々しいからで、馬勒を〔必要とすると言ったのは〕、テオポムポスの弁舌の多さ・放縦さのためである。


T29
CICERO Orat. 191:
 しかしながら、エポロスは、やはり洗練された弁論家にして、最高の教育の成果であり、パイアン調ないしはダクテュロス調を求め、しかしスポンデイオス調〔長長格〕とトロカイオス調〔長短格〕は避ける。


T30a
JOSEPH. c. Ap. I 16 (EUSEB. PE X 7 p.478 D):
 ……あるいは、いかなる意味でか、エポロスはヘッラニコス〔4 T 18〕のことを、たいていの場合に虚言していると指摘し、これに対してエポロスのことはティマイオス(III)が〔指摘している〕。


T30b
@8 POLYB. XII 23, 1:
 エポロスに対してティマイオスは口を極めて非難攻撃していたということ。


T31
DIOG. LAERT. II 110
 〔エリス人アレクシノスは〕歴史記述者エポロスをも攻撃して……書いた。


T32
[SKYMN.} orb. descr. 109
 すでに本書の初めに編纂者たちを挙げておいたが、これは、歴史上の言葉〔=話〕に言及するさいに、わたしが信を置いた人たちである。すなわち、細心の注意を払って地誌を書いた……エラトステネス(V)、わたしが最も納得できるエポロスと、〔植民市〕建設史を5巻本に述べたカルキス人ディオニュシオス(IV)、そしてカラチ人の著述家デメトリオス〔85 T 5〕云々


T33a
PLIN. NH I 4:
 集められている内容は、位置、種族……21. エウボイア……36. 大西洋の島々……典拠とする著作者たち……外国の……エポロス〔第4巻64節;120節=F151; F 129


T33b
@8 I 5:
 ……キオス(Chios)……エポロス〔第5巻136節=F165


T33c
@8 I 6:
 ……36. アイティオピア海の島々……エポロス〔第6巻198節以下=F172〕。


T33d
@8 I 7:
 集められる内容は……49. 特別な長寿について……ダマステス、エポロス〔第7巻154節=F112〕……エポロスの『発明品について』に対する反論を書いたストラトン……


T34
LISTEN D. GRIECH. PROFANSCHRIFTST. tab. C 51 (Rabe Rh. Mus. LXV 339)
 10人の歴史家。トゥキュディデス、ヘロドトス、クセノポン、ピリストス、テオポムポス、エポロス、アナクシメネス、カッリステネス、ヘッラニコス、ポリュビオス。


Fragmenta


1003 2a, 70,

F1
[PLUTARCH.] Vit. Hom. I 2:
 ところで、キュメ人エポロスは、『地方史』という題名の著書の中で、彼〔ホメロス〕がキュメ人であることを立証しようとして、次のように主張している。――アペッレス、マイオン、ディオスは、生まれはキュメ人の兄弟である。このうち、ディオスは、罪を得てボイオティアのアスクラという村に移り住み、その地でピュキメデを娶って、ヘシオドスを生んだ。一方、アペッレスは、祖国キュメで亡くなり、名前をクリテイスという娘を後に残すことになるが、この娘よりも兄弟のマイオンの方を優先させたので、これが上述の娘を犯したとき、この犯行に市民たちから有罪判決の下るを恐れて、結婚させるために彼女を、書字の教師であるスミュルナ人ペミオスに与えた。こうして彼女は洗濯場――メレトスの近くにあった――に通い、河の畔でホメロスを分娩したが、このため〔生まれた子は〕メレシゲネス(Melesigenes)〔メレトス生まれ〕と呼ばれた。しかし、形姿が不具であったため、ホメロス(Homeros)と変名された。というのは、キュメやイオニアの人々は、形姿が不具の者たちのことを、homereuontes〔付き添い人〕――「案内人(hegoumenoi)」の意である――を必要とすることから、そういうふうに呼ぶからである。以上がエポロス〔の主張である〕。


F2
ATHEN. VIII 46 p.352C
 こういった機知に富んだ言葉によって、ストラトニコスは詩人シモニデスの景仰者となったと、エポロスは『発明品について』第2巻の中でそう主張し、キュテラ人ピロクセノスも同じようなことに熱中したと称している。


F3
ATHEN. IV 80 p.18 2C
 このほかにわたしの知っている笛の種類は、悲劇用笛、リュシオドス、そしてキタリステリオスで、これらについて触れているのは、エポロスが『発明品』の中で、ピュタゴラス学派のエウプラノルが『笛について』(IV)の中で、さらにまたアレクシスも、同じく『笛について』の中において。


F4
ATHEN. XIV 40 p.637 B
 このポイニクスという楽器は、エポロス〔の主張では〕、またスカモンもその『発明品について』(III)の中で〔主張しているところでは〕、ポイニキア人たちに発明されたことにちなんでこの呼び名を得ているという。しかし、デロス人セモスは、『デロス史』第1巻(III)の中で、その肋材がデロスのナツメヤシ(phoinix)から作られていることにちなんでいるという。


F5
SCHOL. HOM. Il. I 31 (CRAM. AP III 119, 27. ET. M. 367, 47) : 「機織りに精を出して(histon epoichomenen)」]
 ……昔の女たちが、立ったまま、織機に立ち向かうようにして機を織ったのは、たぶん、織られる布の横幅のせいであったらしい。しかし、アイギュプトスの最初の女――その名はヒュル――は、座って機を織ったと伝えられ、これにちなんで、アイギュプトス人たちも、座ったアテナ像を建造ようになったと、エポロスが『発明品』の中でそう主張している。


F6
THEON Progymn. 2 p.71, 19 Sp:
 容認してよいのは、時として、平板さに等しいあの韻律に人が陥る場合に、例えばイアムボス調になるというようなことである。だからまた、編纂者たちがその種の状態に陥るのは、誰しも心ならずのことなのである。とにかくエポロスは、『表現法について(Peri lexeos)』の中で、律動的なことばづかいをしてはならないという禁句ひとつをすぐさま冒頭の行に述べ、「それではもう一度律動的な〔ことばづかい〕について説明しよう」と言ったのである。


F7
PHOT. bibl. 176 p.121 a 30 : (T 3 a)
 それゆえに、歴史家たちのうち、彼ら〔テオポムポスとエポロス〕の序論が、発想その他の点できわめて相似していること、あたかも、同じ出発点から二人が歴史の走路に駆け出したかのようである。


F8
POLYB. IV 20, 5 (ATHEN. XIV 22 p.626 A)
 芸術(mousike)は、誤魔化しやまやかしのために人間どもによって導入されたと、エポロスが全著作の序論の中でそう主張するのは、自己撞着した言葉を排するためであって、そういうふうに考えるべきではないのである。


F9
HARPOKR. 「古めかしく(archaios)」の項(DERS. 「斬新に(kainos)」の項)
 イソクラテスは『祝祭演説(Panegyrikos)』(V 8)の中で〔次のように述べている〕。「昔の事は斬新に論じ、最近起こった事は古めかしく述べよ」と。ある人たちは、古めかしい仕方で印象づけること、それはすなわち、より古めかしい名称を用いることだ、と主張している。しかしエポロスは、『歴史』第1巻の中で、ある方法について説明し、この方法によって若い人たちは昔の出来事について語るべきだと主張している。「すなわち、われわれの同時代の出来事については」と彼は主張している、「精確無比に語る人たちを、このうえなく信頼に足る人たちだとわれわれはみなすが、昔の事については、そういうふうに論ずる人たちを最も信頼に足りぬ人たちであるとわれわれは信ずる。いかなる行為も、言葉の大多数も、それほどの言葉によって記憶されるはずはないから」と。


F10
HARPOKR. 「ケブレナ(Kebrena)」の項。
 トロアスの都市ケブレン(Kebren)のことで、キュメ人たちの植民市だと、エポロスは第1巻の中で主張している。


F11
ATHEN. III 66 p.105 D
 小海老(karis)については、キオス(Chios)島の近くにカリデス(karides=karisの複数形)という都市もあったとエポロスが記録しており、彼の主張では、この都市を建設したのは、デウカリオンの時代に起こった大洪水の結果、マカロスに率いられて助かった人々で、今に至るもこの地はカリデス〔「叫喚村」の意〕と呼ばれているという。


F12
SCHOL. T PLATON Lach. 187 B 9 (Euthyd. 285 C): 「わたしたちにとってのカリアにおける危険(en toi Kari hymin ho kindynos)」]
 より危うく、そして、他人事で危険を冒すことについていう。というのは、カリア人たちは、傭兵というものになった最初の人たちと思われており、ここから、戦争のときにも彼らを前線に立てた……またホメロスの作品の「カリアの不公平さ(en Karos aisei)」〔Il. IX 378〕という文句に、期せずして〔この意を〕聞き取ろうとする人たちがいる〔呉訳では、「真平御免だ」となっている。〕。この言い回しにふれているのはアルキロコスで、「あまりの激戦に、わたしはカリア人として呼ばれた」〔F 40 Di〕と言っている。エポロスも『歴史書』の第1巻の中で。ピレモンも『結婚』〔II 483, 18 K〕の中で「カリアにおける危険を。わかっております、旦那さま」云々


F13
THEON Progymn. 2 p.67, 8 Sp :
 神話的説明のうち……テスピオスの50人の娘たちについてのものは、エポロスの著作の第1巻の中にあり、彼女たちはみな処女であったが、ヘラクレスと同時に交わったと伝えられている……


F14a
SCHOL. APOLL. RHOD. I 1168
 エポロスはその第1巻の中で、彼〔ヘラクレス〕はオムパレによって留め置かれたと言い伝えてきた。


F14b
@8 ebd. I 1289:
 エポロスはその第5巻の中で、彼はリュディアの女王オムパレのもとにすすんで居残ったのだと主張している。


F15
STEPH. BYZ. 「デュマネス(Dymanes)」の項。
 ドリエウス人たち〔単数Dorieus、複数Dorieis〕の一部族。つまり、〔ドリエウス人たちには〕三部族――ヒュッレイス部族、パムピュロイ部族、デュマネス部族があって、〔いずれも〕ヘラクレスの末裔である(そしてヒュルネティアが付け加えられた)。エポロス第1巻。「すなわち、アイギミオスは、オイテ山麓のドリエウス人たちの王であり、二人の子ども――パムピュロスとデュマスを持っていたが、ヘラクレスの子ヒュッロスをも第三子とした。それは自分が追放されたのをヘラクレスが帰還させてくれたことに対する謝礼としてである」。


F16
SCHOL. PINDAR. P. V 101 b 「アイゲイダイ(Aigeidai)はわが父祖」]
 テバイからスパルテに来着したアイゲイダイは3派、まず最初は、ドリエウスとアリストデモス麾下の部族で、これに言及しているエポロスはその第1巻の中で次のように言っている。「ヒュッロスその他、スパルテ遠征に失敗した者たちは、帰還のためにヘラス人たちのいずれを同盟者としたらよいか、神にお伺いを立てた。神が託宣するに、ヘラクレスに善行を受けし者たちをといい、その中でも最初にアイゲイダイを招請するよう命じた。これを、神の命じたもうたことは道理と(eulogos)解して、先ずはアテナイへと赴いた。アイゲウスの子テセウスが、誰にもましてヘラクレスに特別に善行を施されたのを知っていたからである。[占いは道理と信じて〔欠損〕最初にアイゲウスの子テセウスの子孫に声をかけた。帰還をしくじらないためである]。〔欠損〕@1
次いで第2は、言い伝えでは、アリストデモスがボイオティアの中を進軍していると、ボイオティア人たちの何人かが路傍で供犠しているところに遭遇し、アイゲイダイのために善きことどもを祈願していると伝令官から聞いて、占いの好意を得ることができたという。つまりは、アテナイのアイゲイダイを最初に呼びにやるという過ちを犯したけれども、テバイ出身の同盟者を先に求めるべきだと悟ったからである。かくて幸運にも、この遠征によって、ヘラクレイダイはペロポンネソスを占領したので、占いはテバイのアイゲイダイに関して述べられたものだと考えたのである」。次いで第3は、ティモマコス麾下の部族で、この時にアミュクライのラケダイモン人たちに対する戦争が勃発したのであった。

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