title.gifBarbaroi!
back.gifアポッローニオス/昼と夜の時間について

ギリシア占星術文書目録0632_004

〈ピュータゴラース〉『占星術断片集』1


[ピュータゴラース天文学教説の概要]
 アリストテレスの伝えるピュタゴラス派の天文学の体系と、学説誌でピロラオスのものとされている体系とに明白な類似があるという事実が指摘されてきている。アリストテレスの証言から、天 文学の問題に関しては、ピュタゴラス派にはいくつか異なる立場があったことがわかる(たとえば銀河については『気象論』345a、彗星については『気象論』342b を参照)。しかしそこから再構成できる基本的な天文学の体系は次のようなものである〔以下おもに『天について』293a ff. を参照〕。最も価値ある場所である宇宙の中心には、やはり最も価値ある(to tîmiôtaton)火があり、これは「ゼウスの衛所」と呼ばれる (Arist. fr. 204 Rose3)。一方、大地は中心の周囲を回転する星々の一つであり、その運動は、太陽に対する相対的な位置によって昼と夜を作り出す。大地と中心火の間には対地星があり、これも大地の後について中心のまわりを回り、つねに大地が間に入るので、見ることはできない。大地の次に月、次いで太陽があり、五つの惑星があ り、最後に恒星の天球がある。それゆえ太陽は、恒星から数えて7 番目の位置を占める。太陽は実際、季節(to kairon)の原因であり、数7 — これは好機(kairos)と呼ばれる数である — と同じ位置を占めるのである〔Arist. fr. 203 Rose3〕。

 アリストテレスが行なった基本的な批判は、ピュタゴラス派がアプリオリなやり方で、現象を理論に適合させたというものである。これは惑星の数 — すでに見たように、10という完全数に合わせて10個と決められて、ここから対地星という仮説も出てくる — にだけあてはまるのではない。火に中心の場所が与えられていることもそうである。これは火が地よりも価値があり、中心(meson)と 端(eschaton)は限界であり、限界(peras)は間にあるもの(metaxy}よりも優れていると考えられていた、という事実によるものである。 アリストテレスはこれに反論して、中心は色々な言い方で言うことが出来、生き物では物理的な中心が生命の中心と一致しないのだから、宇宙においてはなおさらそうである、と述べている。
 この宇宙論がピロラオスに帰されている宇宙体系と対応することは明白である。

ピロラオスは中心をめぐる真ん中に火があるとし、それを万有の「かまど(hestia)でありゼウスの館[……]と呼ぶ。そして最も高いところにもまた別の取り巻く(periechon)火がある。中心が本性上第一のものであって、それをめぐって10個の神的な物体が輪舞している。すなわち天、〔五つの〕惑星、それらの後の太陽、その下に月、その下に大地、その下に対地星、そしてそれら一切の後にかまどの火が中心付近にその位置を占めているのである(Aet. II 7, 7 = Philol. 44A16 DK. 日下部訳)。
人の住む大地が三番目であって、大地は、対地星と向かい合って、それと共に回っているとする。それゆえ対地星上の者はこの地上にいる者によっては見られないのである(Aet. III 11, 3 = Philol。 44A17 DK。日下部訳)。
他の人たちは大地は静止しているとする。だがピュタゴラス派のピロラオスは、(傾いた円〔=黄道〕に従って)太陽や月と同じような仕方で回転すると言う (Aet. III 13, 2 = Philol. 44A21 DK)

 この天文体系で最も目立つのは火が中心の位置を占めていることと対地星の導入であるが、コペルニクスのモデル〔地動説〕への志向が染みついている現代人にとっては、宇宙の中心という「玉座」か ら地球を引きずりおろし、それに火のまわりの回転運動を与えていることが何よりも目につく。このことの故に、一時期はコペルニクス天文学が「ピュタゴラス派の」とか「ピロラオスの」とさえ呼ばれ、一部の人々は、このようなモデルは紀元前5世紀にしてはあまりに進んでいるのでピロラオスのものとするのは不可能であると考えるに至った。一方、学説誌では他の天文学上の主張もピロラオスのものとされているが、それらは地球中心説の仮定を暗に含んでいるので、ここで述べた体系と明らかに一致しないように思われる。 さらに他ならぬアリストテレスの断片を含むいくつかの証言から、 ピュタゴラス派にはこれ以前に地球中心の〔複数の〕理論が存在したと考えられた。
 しかしながら、次のことは証明されたと考えてよい。完成した天文学理論で(個々の現象について一致を見ない種々の説明を別にすれば)、確実に古いピュタゴラス派に、もっとはっきり言えばピロラオスに、帰することのできる唯一のものは上で見た、火が宇宙の中心にある理論である。さらに確実なことは、ここで我々の眼前にあるのは、地球中心仮説〔天動説〕で生じる種々の問題に、地球を一つの惑星とすることによって解決を与えることを意図した高度に発達した理論 ではない、ということである。これは少なくともいくつかの面でアプリオリな基礎に基づく理論であり、〔観測事実の説明とは〕別のタイプの理由から生じた理論なのである。大地が中心的な位置を占めることを認めずに、火を中心に置いたことは、アリストテレスが述べるように、火のほうが重要であると認めたからであるが、それはおそらくピロラオスの動物発生論において、熱が生命の説明の原理 としての中心的な役割を与えられていることによるのであろう。 ここから大地も一つの惑星とされ、他の惑星とともに中心のまわりを回転することになる。アリストテレスが述べるところによれば、取り巻く(periechon)火の説(前述44A16参照)をピロラオスのものとすることも正しいように思われる。最も高い所も中心と同様、中間よりもすぐれているからである。
 ピロラオスの天文学に関してなお議論の余地のある本当の問題はむしろ、それが次の2種類の天文学のどちらであるかということである。すなわち、純粋に空想的、前科学的で主に神話的伝承に帰着されうる天文学なのか、それとも、やはり思弁的であるにせよ、何らかの形で経験と結びつき、現実の科学上の問題に解答を与える必要から生じた天文学で、仮説と現象の調和を模索しつつ進展し、と もかく完成された一貫性のある体系を作り出すようなものなのか、ということである。この後者の態度の一例を、たとえば昼と夜という現象の説明に見ることもできよう。この説明は、火のまわりの大地の運動を考えて大地を中心から追放したために必要になったものである。あるいは季節の変化や、季節によって太陽の高さが異なることを説明するために、おそらく意識的に黄道を導入したこともその例であろう。
(B・チェントローネ『ピュタゴラス派:その生と哲学』p.167-171)


[底本]
TLG 0632
<PYTHAGORAS> Phil.
6-5 B.C.
Soleus

0632.004
Fragmenta astrologica
Astrol.

J. Heeg, Codices Romani [Catalogus Codicum Astrologorum Graecorum 5.3. Brussels: Lamertin, 1910]: 114.



5,3..
(114)

質問が何を明らかにするかということについて、ピュータゴラースは言う。

 数多の力を有する星辰が、その質問によって、月をも、基本地点から落ちるその首座星をも汝が見出したなら、その問題は、砦のものらの逃亡ないし出奔に起因することを知れ。

2017.12.02. 訳了

forward.GIF〈ピュータゴラース〉『占星術断片集』2