メラムプース/月暦
[人物] [底本] (3) Diogenes Laertius I 8: しかし、アリストテレースは『哲学について』第1巻の中で〔断片6〕、〔マゴス僧たちは〕アイギュプトス〔の哲学者〕たちよりも時代的に先立つし、また彼らによると、善きダイモーンと悪しきダイモーンという2つの原理があって、前者の名はゼウスとホーロマスデース、後者のはアイデースとアレイマニオスだという。そしてこのことは、ヘルミッポスも、マゴス僧たちに関する書物の第1巻において、またエウドクソスは『世界周遊記』の中で、さらにテオポムポスは『ピリッポス論』第8巻の中で謂っていることである。 (5) Oxyrhynchus Papyri 1367 fr. 2: サラピオーンのヘーラクレイドスの、立法者たちと7賢人とピュタゴラースとに関するヘルミッポスの〔書〕の要約。 (6) Diogenes Laertius I 42: ところでヘルミッポスは『賢者論』の中で17人〔を挙げ〕、〔その17人が〕別々に7人を選んでいると謂う。そこで〔その17人とは〕ソローン、タレース、ピッタコス、ビアース、ケイローン、<ミュソーン>、クレオブゥロス、ペリアンドロス、アナカルシス、アクゥシラオス、エピメニデース、レオーパントス、ペレキュデース、アリストデーモス、ピュタゴラース、ラーソス(カルマンティデースあるいはシシュムブリノスの子、あるいはアリストクセノス〔fr. 86 W〕によればカルブリノスの子にして、ヘルミオネー人)、アナクサゴラースである。 (7) Plutarchus Solon II: 実際ソローンは、父が人間愛や恩恵といったもののために財産を減らしたとき、ヘルミッポスの謂うところでは、援助を希望する人々に事欠かなかったが、他者を扶けることを習慣とした家柄に生まれついていたため、他者からものをもらうことを恥として、まだ若い頃に交易に出かけたという。 (8) Plutarchus Solon XI: というのは、件の人(sc. ソローン)に説得されて、アムピクテュオネスが敵(sc. キッルラー)に進発したことは、他の多くの人たちとともにアリストテレースもピュティア祭の名簿の中に、その決議がソローンによって上呈されたと証言している。しかしながらヘルミッポスが謂うには、この戦争の将軍に任じられたのではないと、サモス人エウアンテースが言っているという。たしかに弁論家アイスキネースもこのことを述べていないし、デルポイにある覚え書きでも、アテーナイ人たちの将軍に記載されたのはアルクマイオーンであって、ソローンではないのである。 (9) Diogenes Laertius I 101: ソーシクラテースが言うには、彼(sc. アナカルシス)はエウクラテースが執政官のとき、第47回オリンピック大会期〔前592-589年〕の頃、アテーナイにやって来たという。ヘルミッポスが〔言うには〕、彼〔アナカルシス〕はソローンの家に着くと、従僕たちのひとりに、アナカルシスが彼〔ソローン〕のもとに来ていること、客として彼に面会し、できうれば、〔客扱い〕されることを望んでいると伝えるよう命じたという。そこで従僕が報告したところ、〔客に〕するのは自分の母国の者にかぎっているからと相手に云うようソローンに命じられた。すると、アナカルシスは〔従僕を〕つかまえて、今自分は〔あなたの〕母国にいるから、相手に客にしてもらう権利があると謂った。そこで〔ソローン〕はその機知に驚倒して、相手を招き入れて最大の友となったのであった。 (10) Plutarchus Solon VI: (11) Plutarchus Solon I 33: ところでヘルミッポスは『哲学者伝』の中で、ソークラテースについて一部の人たちによって言われていることをこの人(sc. タレース)に帰している。すなわち、〔ヘルミッポスが〕謂うには、以下の3つのことのために運に感謝していると謂ったというのである:第1は獣としてではなく人間として生まれたこと:次に女でなく男であること:第3に異邦人でなくヘッラス人であること、と。 (12) Plutarchus Solon I 72: そしてヘルミッポスが謂うところでは、彼(sc. キローン)はピサで命終したが、オリンピック大会の拳闘で優勝した息子を祝っての後だった。こんな目に遭ったのは、喜びすぎと、高齢で弱っていたからだと。 (13) Athenaeus 442f.: 第50巻では、メーテュムナ人たちについてこう言っている(FGrHist 115F227)、つまり、彼らは必需品は横になって飲むことを重要視して振る舞い、その浪費に見合うだけの仕事は何もしない、そこで僭主クレオメネースは、彼らにそういったことをやめさせたばかりか、すこぶる名の通った遊女たち3、4人<ばかりか>、自由人の女たちの売春斡旋をしなれていた女たちを、袋の中に押しこめて、海に沈めるよう或る者たちに命じた者である。 (14) Diogenes Laertius I 106: ミュソーンはストリュモーンの子で、ソーシクラテースがヘルミッポスを引用して謂っているところでは、オイテー地域の,あるいはラコーニア地方の或る村のケーン族出身で、7賢人の一人に数えられている……アナカルシスなる者が、自分より賢い者が誰かいるかと神託を伺ったのに対し、『タレースの生涯』の中でキローンについて前述された内容をピュティアが云ったという。つまり、 (15a) Proclus in Hesiod Opera et Dies 41 (Scholia in Hesiodum ed. Gaisford, Oxonii 1820): というのは、ヘルミッポスは『七賢人の書』の中で、アリモス〔という食事法〕について言っている(しかし、アリモスに言及しているのは、ヘーロドーロスも『ヘーラクレースに対する論』第5巻の中で、プラトーンも『法律』第3巻の中で):エピメニデースは、と彼は謂っている、ほんの少しの副食をあてがわれ、かくしてまる1日を過ごす、と。ところで〔それは〕アスポデロス〔Dsc.II-199〕やマラケー〔Dsc.II-144〕によって行われ、これによってアリモスとかアディプソス〔絶食〕を行ったのである。 (15b) Athenaeus 58f.: カッリマコスの弟子ヘルミッポスも、アリモス(a{limoV)とかアディプソス(a{diyoV)とかいう所謂食事療法には,最も有用な材料としてアオイ(malavch)〔Dsc.II-144〕を処方すると謂う。 (16) Diogenes Laertius VIII 88: いやそればかりか、彼(sc. エウドクソス)がヘッラス人たちの間できわめて著名な者となったのは、ヘルミッポスが『7圏人について』第4巻の中で謂っているように、占星術のことや幾何学のことや、他にも語るに値する事柄を同胞市民たちのために書いたからである。 (17) Diogenes Laertius I 117: ヘルミッポスが謂っているところでは、エペソス人たちとマグネーシア人たちとの間に戦争が勃発したとき、彼(sc. ペレキュデース)はエペソス人たちが勝利することを望んでいたのだが、通りかかった或る人に「どこから来たのか?」と尋ね、相手が「エペソスから」と云うと、「それなら、わしの脚を引きずっていって」と彼は謂った、「マグネーシア人たちの土地に置いてくれ、そうして、勝利の後に、そこに埋葬するよう、おまえの同市民たちに告げてくれ。これこそがペレキュデースの頼んだことだ、と」。<そこで>その人は告げたのだが、人々は1日後に攻めてマグネーシア人たちを征服したが、幽明境を異にしたペレキュデースをその場に埋葬して、手厚く弔ったという。 (19) Diogenes Laertius VIII 1: 印章彫り師ムネーサルコスの子ピュタゴラースは、ヘルミッポスの謂うところでは、サモス人、あるいは、アリストクセノス(fr. 11 a W)によればテュッレーノス人で、アテーナイ人たちがテュッレーノス人たちを追放し占領した島々のひとつ〔レームノス島〕出身という。 (20) Diogenes Laertius : さらにヘルミッポスが謂うには、アクラガス人たちとシュラクゥサイ人たちとが戦争したとき、ピュタゴラースは知己たちとともに打って出て、アクラガス勢の先頭に立った。しかし退却することになり、彼は豆畑迂回しているところをシュラクゥサイ勢によって亡き者にされ、残りの者たちも、約35人いたのだが、指導層の反対政党を樹立しようとして、タラースで火刑に処せられたという。他にもピュタゴラースについてヘルミッポスの謂うことがある:すなわち、イタリアにやって来ると、地下に小屋をつくり、母親に、出来事の日時を板に書きつけ、上がってくるまで自分に下ろしてくれるよう頼んだ。これを母親は実行した。しばらく経って、ピュタゴラースが痩せ衰え骸骨のようになって上がってきて、民会に赴いて、冥府からやって来たと謂い、起こった事柄を彼らに話して聞かせた。言われた内容に動揺した人々は、落涙し嘆きの声をあげ、ピュタゴラースは神のようなものだと信じた結果、妻たちを彼に預けた、彼のことをいくらかでも学ぶようにとである。彼女らはピュタゴラース教信者と呼ばれた、と。以上がヘルミッポスの謂っている事柄である。 (21) Athenaeus 213f. (Poseidonium secutus) : そして多日を経ずして、この哲学者(sc. アテニオン)は自分を僭主として宣明し、陰謀に関するピュタゴラース派の教説、つまり、美しきピュタゴラースが唱導した哲学(れこそ、テオポムポスが『ピリッポス一代記』第8巻で、またカッリマコスの〔弟子〕ヘルミッポスも記録したものである)を、望むはずもない人々に掲げ、自身も、同市民たちのうち善く知慮する人たちを、アリストテレースやテオプラストスの教説に反して 「子どもに刃物を持たすな」と言われる諺の何と真実であることか ただちに排除し、市門には番兵たちを置いた、アテーナイ人たちのうち、将来を懸念した多くの者たちが、夜陰に紛れて、縄を使って城壁を降りて逃亡したからである。 (22) Josephus Adv. Apionem I 22(163): 彼(sc. ピュタゴラース)の著書で真正と認められるものは何もないが、多くの人たちが彼に関することを記録してきており、それらの中で最も有名なのがヘルミッポスで、これはあらゆる歴史に関して慎重な人であった。例えば、ピュタゴラースに関する書物の第1巻の中で彼は言う、ピュタゴラースは、自分の弟子たちのうち、クロトーン生まれの名をカッリポーンなる者が命終した時、その者の魂は夜も昼も自分とともに過ごしている、と言った。また、驢馬が伏せている場所は通らないように、喉の渇く水は避けるよう、また、いかなる悪婆も避けるように忠告した、とも。さらにその後でこうも付言する:「これらの事柄を彼が実行し言ったのは、ユダヤ人たちやトラキア人たちの思念を模倣し、我がものに身につけようとしてであった」。たしかに、この人物はユダヤ人たちの法習の多くを、自分の哲学に真に採り入れていると言われている。 (23) Diogenes Laertius VIII 10: 彼ら(sc. ピュタゴラース派)がレバノン杉の棺をも避けたのは、これからゼウスの王笏がつくられているからであるとは、ヘルミッポスがピュタゴラースに関する第2巻で謂うとろこである。 (24) Athenaeus 163e: このディオドーロスなる者は、生まれはアスペンドス人、思想はピュタゴラース派ということになっているが、生き方は君たち犬儒派のもので、長髪、垢まみれ、跣足だった。だからして、ディオドーロスから推して、長髪はピュタゴラース派の流儀だとさえ思っている者がいたと、そうヘルミッポスが謂っている。 (25) Diogenes Laertius VIII 51: エムペドクレースは、ヒッポボトスの謂うには、〔祖父〕エムペドクレースの子メトーンの子で、アクラガス人であった。同じことをティマイオスも『シケリア史』第15巻の中で<言っており、付言して>この詩人の祖父エムペドクレースは著名人であったと〔言っている〕。いや、ヘルミッポスもこの人と同じことを謂っている。 (26) Diogenes Laertius VIII 56: ヘルミッポスによれば、彼〔sc. エムペドクレース〕が信奉したのはパルメニデースに対してではなく、クセノパネースに対してであり、後者といっしょに過ごしさえした、と。また、作詩法を模倣したが、後にピュタゴラース派に出会った、と。 (27) Diogenes Laertius VIII 69: ヘルミッポスが謂うには、医者たちに絶望視されていたアクラガス女のパンテイアなる女を治療してやったのは彼(sc. エムペドクレース)であり、それ故また犠牲式を執り行った。で、呼ばれた者らはおよそ80人だった、と。 (28) Diogenes Laertius IX 26: ゼーノーンこそは、僭主ネアルコス(一部の人たち〔のいうに〕はディオメドーン)を打倒せんとして、ともに逮捕されたとは、ヘーラクレイデースが『サテュロスの〔『哲学者伝』〕摘要の中で謂っているとおりである。 アンティステネースが『諸々の後継』の中〔で謂うところ〕では 最後に舌を噛み切って、相手(sc. 僭主)に吐きかけた、そこで市民たちは奮起して、ただちに僭主を撃ち殺した、という。これはたいていの者たちが言っていることである。しかしヘルミッポスが謂うには、彼〔ゼーノーン〕は石臼の中に投げこまれて細切れにされたという。そこでわたしたちは、彼に寄せて次のように云おう: (29) Diogenes Laertius IX 4: ヘルミッポスが謂うには、彼(sc.ヘーラクレイトス)は医者たちに、誰か内臓を空にして、水分を排出させられる者がいるかどうかと言った:しかし〔医者たちが〕否定したので、彼は自分を太陽の下に置き、僕童たちに命じて、牛糞を塗布させた。じつにこういうふうにして寝そべっていたが、次の日に命終し、アゴラに埋葬された、と。 (30) Diogenes Laertius II 13: ヘルミッポスが『哲学者伝』の中で謂うところでは、彼(sc. アナクサゴラース)は死刑に処さるべく牢獄に拘禁された。しかしペリクレースが進み出て、自分の生涯において(sc. アテーナイ人たちが)告発すべき点が何かあるか、と云った。しかし何もないと云うと:「わたしこそは」と謂った、「あのひとの弟子である。されば、讒言に駆りたてられて、あのひとを死刑にすることなく、わたしのいうことを聴いて釈放してくれ」。そこで釈放された:しかし横暴に耐えかねて、自殺した。彼のために〔つくったエピグラムは〕われわれのもある。 (31) Diogenes Laertius IX 43: デーモクリトスが命終したのは、とヘルミッポスは謂う、次の次第であった、と。すでに高齢になっていたので、死期も近かった。そこで妹は、テスモポリア祭の期間に亡くなると、自分は女神に務めを果たせなくなるのではと悩んでいた。しかし彼は元気を出すようと云い、毎日温かいパンを自分に持ってくるよういいつけた。そうしてこれを鼻にあてがい、祭りの期間おのれを生かしつづけた。そして、祭(3日間であった)がすむと、苦しむことなく往生した、と、ヒッパルコスが謂うには、享年109歳ぐらいであったと。 (32) Diogenes Laertius II 38: そこで(sc. ソークラテースに対する)公訴を提起したのはメレートス、訴状を朗読したのはポリュエウクトスと、そうパボーリノスが『歴史研究雑録集』の中で謂っている:ただし訴状を起草したのはソフィストのポリュクラテースだとはヘルミッポスが謂い、あるいは一部の人たちによればアニュトスだと:しかし万事お膳立てしたのは民衆煽動者のリュコーンであった。 (33) Papyrus Herculanensis ed. W. Crönert, Rh. M. 57, 1902, 286. ed. id. Kolotes und Menedemos 133, Leipaig 1906: 〔わずかにソークラテース、その妻クサンティッペー,家、人間、子ども、家、ヘルミッポス曰く、アイスキネースは見た、などの単語が読み取れるのみ。〕 (34) Diogenes Laertius VI 2: ヘルミッポスが謂っているところでは、彼(sc. アンティステネース)はイストミア大祭で、アテーナイ人たち・テーバイ人たち・ラケダイモーン人たちの批判と称賛とをするつもりだった:ところが、多くの人たちがそれらの都市からやって来ているのを目にしたので断ったという。その後、ソークラテースに接近して、云々。 (35) Diogenes Laertius II 120: 彼(sc. スティルポーン)は高齢で命終した、とヘルミッポスが謂っているが、それは早く死ぬよう葡萄酒を扱ったからだという。 (36) Diogenes Laertius II 109: 彼(sc. アレクシノス)についてヘルミッポスが謂っているのはこうである、つまり、エーリスを去ってオリュムピアに赴き、そこで哲学した。で、彼の弟子たちが、何故ここに住むことにしたのかと尋ねると、オリュムピア派と呼ばれる学派が設立されることを望んでだと謂ったと。しかし彼ら〔弟子たち〕は、生活の資にも困窮し、その地も病的なのを知って立ち去ってしまい、アレクシノスはたったひとりの家僕と余生を孤独のうちに送った:しかしその後アルペイオス河で泳いでいる時に葦に突き刺され、かくして命終したという。 (37) Suda F 359: アイギナ人ピリスコスは、メケドニア人アレクサンドロスに文法を教えた人であった。しかし自身は犬儒派ディオゲネースの弟子であった。スティルポーン人ヘルミッポスによればだが。 (38) Diogenes Laertius II 142: まさにこういった事柄や、他にも彼(sc. エレトリアのアンティゴノス・ゴナタ)との友愛ゆえに、彼〔アンティゴノス〕に都市を売り渡そうとしていると(sc. メネデーモスは)猜疑され、アリストデーモスの離間によって退去し、オーローポスのアムピアラオスの神域内で過ごした。そこにあった黄金製の酒盃が紛失したため、ヘルミッポスの謂うところでは、ボイオーティア人たちの共同決議によって移動するよう命ぜられた。 そこから失意のうちに祖国に潜入し、妻と娘たちを伴ってアンティゴノスのもとに赴き、失意のうちに生涯を閉じた。 (39) Diogenes Laertius VI 99: ヘルミッポスが謂うには、彼(sc. メニッポス)は「日歩で貸す人」となり、また〔そう〕呼ばれもしていた:というのも、船を担保に金を貸して、その担保を取得し、莫大な財貨を貯えたという:しかし最後は、策謀されてすべてを奪われ、失意のあまり生涯を終えたという。 (40) Diogenes Laertius VIII 85: ところで彼(sc. ピロラオス)は1書を書いたが、ヘルミッポスが謂うには、哲学者のプラトーンは、シケリアのディオニュシオスのもとに滞在していたおり、ピロラオスの親族から〔この書を〕アレクサンドロス銀貨40ムナで購入し、ここから『ティマイオス』を書き写したのだと、ある著作者が言っている、と。 (41) Diogenes Laertius III 2: 彼(sc. プラトーン)が命終したのは、ヘルミッポスの謂うには、婚礼の宴に就いていたときで、第108回オリンピック大会期の第1年、齢80と1歳のときであるという。 (42) Diogenes Laertius V 91: ヘルミッポスの謂うとことでは、飢饉がこの地方を占領したとき、ヘーラクレイア人たちはピュティアの助けを懇願したと。しかしヘーラクレイデースは、信託伺いの使者たちとその預言をも金銭で買収し、エウテュプローンの子ヘーラクレイデース存命中に、自分たちから黄金の冠を戴かせ、死後は半神として栄化されるなら、この悪から解放されよう、と託宣させた。本当にこの神託が持ち帰られたが、これを捏造した者たちは何ら益されることがなかった、というのは、ヘーラクレイデースは劇場で戴冠するやすぐに卒中で倒れたし、使者たちは石打の刑に処されて滅びたからである。いやそれどころか、ピュティアは同じ刻限、内陣に降って着座したところ、蛇の一匹に咬まれてたちどころに窒息死した。そして彼の死に関することは、これだけである。 (43) Diogenes Laertius IV 44: 彼(sc. アルケシラーオス)が命終したのは、ヘルミッポスの謂うところでは、生の葡萄酒をたっぷり飲んで昏倒したのであり、すでに75歳になっており、アテーナイ人たちから余人にないほど尊敬されていた。 (44) Diogenes Laertius V 1: アリストテレースは、ニコマコスとパイスティスとの子にして、スタゲイロス人である。このニコマコスは、アスクレーピオスの子マカオーンの子ニコマコス血を引く者だとは、ヘルミッポスが『アリストテレースに関する伝記』の中で謂っているとおりである。 (45) Diogenes Laertius V 2: しかしヘルミッポスが『哲学者伝』の中で謂っているところでは、彼(sc. アリストテレース)がアテーナイのためにピリッポスのもとに使節となっている時に、クセノクラテースがアカデーメイアにある学園の学頭になった。そこで彼は帰国して、学園が他人の下にあるのを見て、リュケイオンにある遊歩場を選び、行きつ戻りつしながら塗油〔の刻限〕まで弟子たちと哲学を論じた、ここから「逍遙派」と呼称されるに至ったのである(だがある人たちによれば、病気から〔回復して〕逍遙するアレクサンドロスの供をしながら、あれこれ対話したことによる、という)。しかし、〔弟子たちが〕多数になってからは、もはや坐っても〔講義したが〕こう云って。 (46) Athenaeus 589c: スタゲイラ人アリストテレースは、遊女ヘルピュッリスとの間にニコマコスという子をもうけ、死ぬまで彼女と同棲したではないか、とヘルミッポスが『アリストテレースについて』第1巻の中で謂っているが、必要な世話は、この哲学者の遺言状によって得ていたと謂っている。 (47a) PSI Nr. 1093 ed. Nora Vitelli. cf. B. Snell, Gesammelte Schriften 115f., Göttingen 1965: ヘルミッポスが『アリストテレースについて』第1巻の中で謂っているところでは、これ(sc. 汝自身を知れ)を云ったのはデルポイの閹人で、ピュートー神殿の堂守である[ラビュス]である、と。 (47b) I. Bekker, Anekdote Graeca I 233. cf. Clemens Stromateis I cap. XIV 60, 3 (Chamaileon fr. 2 W): 汝自身を知れ:警句、一部の人たちはケイローンの言葉だと。しかしヘルミッポスは、閹人のデルポスは自身を知り、神殿に書き付けた、と謂う。 (47c) Schol. Platon. Phileb. 48c: 汝自身を知れ:能力以上に辛労する人たちに寄せて。しかし言い伝えでは、キローンの警句だと、閹人の堂守ラビュスなる者のだと。 (48) Athenaeus 696a: ひとしきりこういう歌が歌われるとデモクリトスが言った、「博学並びなきアリストテレスが、アタルネウスのへルメイアスに宛てて書いた詩は、デモピロスが言うような、パイアンなんかではないと申し上けよう。デモピロスはエウリュメドンに買収され、アリストテレスが共同食事の席で、アポロンを讃える歌であるパイアンを、不敬にも、連日、ヘルメイアスを礼讃するために歌った、と言っている。ところがこの詩には、パイアンの特徴がないだけではなく、酒席の歌の一例なのだ。この詩の言葉遣いの点から、そのことを諸君のために明らかにしておこう。 この詩に、とくにパイアンの特徴とされるものが見て取れるかどうか、ぼくは知らない。しかしこれを書い た人は、『そなたの愛らLい姿ゆえに、アタルネウスのへルメイアスは日の光を空しうした』と歌うことによって、ヘルメイアスが死んだことを、はっきり認めているわけだ。それからこの詩には、パイアン独特の、 句の繰り返しがない。例えばスパルタのリュサンドロスのために書かれた、本当のパイアンを見たまえ──ドゥリスの『サモス戦記』によると、この詩はサモスでは実際に歌われていたそうだ。あるいはまた、カリ マコスの弟子のへルミッボスの『アリストテレスについて』の第1巻に出てくるんだが、論証家のアレクシ ノスが、マケドニア人クラテロスのために書いた詩というのもパイアンだ。この詩もデルボイでは歌われていて、男の子が竪琴で伴奏した。また、コリントス人が、アルキュオネの父親であるアゲモンのために歌った歌というのにも、いかにもパイアンらしい繰り返しがある。この歌は、地誌記録者のボレモンが、「アラ ンティオス宛書簡』の中で引用している。それから、エジプトの王になった最初のプトレマイオスのために、 ロドスの人々が歌ったというのもパイアンだ。ゴルゴンが『ロドスの祭祀について』で言っているように、この詩には『イエ・パイアン』という句が繰り返し出てくる。ピロコロスによれば、アテナイ人はアンティゴノスとピロコロスのために、キュジコスのへルモクレスが作ったパイアンを歌ったそうだ。すべてのパイアン作者の競技が行なわれて、ヘルモクレスはそこで、他にまさっていると判定されたのだという。ところでアリストテレス本人だが、彼は『不敬に関する弁明』(あの弁論が偽作でなければ、だが)の中でこう言っている、『もしへルメイアスを神と崇めて犠牲を供えるつもりであるならは、彼のために記念碑など建てはしなかったろう。記念碑とは人間のためのものだから。また彼を、神の本性を持った者だと考えるならば、 葬儀を執り行なって、彼の肉体に名誉を与えはしなかったろう』」。(柳沼重剛訳) (49) Didymus in Demosth. Phil. X col. 6, 51 p. 27 Diels Schubart: もちろん彼(sc. アタルネウスの僭主ヘルミアース)の逮捕と死についてもやはり彼らは和解している。つまり、ヘルミッポスは『アリストテレースについて』第2巻の中で、彼は牢獄で命終したと謂い、一部の人たちは,王によって拷問されたうえで、十字架にかけられたと。 (50) Plutarchus Alexander LIII: 或る時大勢のものが大王の食卓に招かれたが、盃が廻って來たらマケドニア人を賞讃するやうに命ぜられてゐたカルリステネースは、その趣旨の下に雄辯を揮ったので、人々は立上って拍手 しカルリステネースに花環を投げつけた。するとアレクサンドロスは『うまい主題を捉へたものには雄辯も大した仕事でない』といふ工ウリービデースの文句〔『バッカイ』266-7〕を引いてから、『一つマケドニア人が自分たちの缺點を教へられて優れたものとなるやうな非難の演説を試みて、君の力を示してくれ』と云つた。カルリステネースは調子をー變していろいろとマケドニア人に對して露骨な攻撃を始め、ギリシャ人相互の分裂がフィリッポスの勢力の増した原因であることを明らかにし、『内亂の時には極悪人が尊敬を受ける』〔『ニーキアース論』11節、『リューサンドロスとスッラとの比較』1節〕と云つたので、マケドニア人の心に激しい深い僧みを起させ、アレクサンドロスもカルリステネースがマケドニア人に雄辯の證據でなく悪意の證據を示したことになると云つたさ うである。 (51) Athenaeus 21 a: ヘルミッポスが謂うには、テオプラストスは艶々して着飾って定刻にペリパトスに現れ、次いで着座して、動きも恰好のひとつも何ひとつ差し控えることなく講義した。ある時など、美食家を真似て、舌を突き出して唇を舐めてみせたという。 (52) Diogenes Laertius II 55: アリストテレースが謂うには、グリュッロスに寄せる讃歌や墓碑銘は無量の人々が著したが、その一部は父親をも喜ばせるものであったという。いやそればかりかヘルミッポスも、『テオプラストス伝』の中で、イソクラテースさえグリュッロスの讃歌を書いたという。 (53) Diogenes Laertius V 41: パボーリノスが謂うには、彼(sc. テオプラストス)は年老いてからは輿で運ばれていたという:そしてこれはヘルミッポスが言っている、ピタネー人アルケシラオスがキュレーネー人ラキュデースに謂ったことの中から引用して記録している、と。 (54) Subscription in Theophrasti Metaphysic p. 38 RossFobes: この書のことを、アンドロニコスとヘルミッポスが知らなかったのは、テオプラストスの書の引用の中にこれへの言及がまったくなされていなかったからだが、ニコラオスは『アリストテレースの自然学研究』の中でこれに言及し、テオプラストスの〔書〕だと言っている。 (55) Theophrastus Historia plantarum VII Subscriptio cod. Urbina. (cf. Moraux 211, 3): 植物に間するテオプラストスの研究8巻。ヘルミッポスは低木類や草本類について、アンドロニコスは植物についての研究を。 (56) Athenaeus 252c: ペルガモンのアッタロス王の追従者にして教師になっていたのがリュシマコスで、カッリマコスは彼をテオドーロスの弟子にしているが、ヘルミッポスはテオプラストスの弟子のうちに数えている。この男はアッタロスの教育について本をものにしているが、中味はあらゆる追従を露わにしている。 (57) Diogenes Laertius V 67: 彼(sc. リュコーン)はまた服装においても大変小綺麗で、ゆきすぎることのない柔らかな上衣を着用していたと、ヘルミッポスが謂っている。 (58) Diogenes Laertius V 78: 彼(sc. デーメートリオス)のことをヘルミッポスが謂っているところでは、カッサンドロの死後、アンティゴノスを怖れて、プトレマイオス・ソーテールのもとに赴いたという。そこでたっぷりの期間を過ごしつつ、他の事柄に加えて、エウリュディケーからもうけた子どもたちに王位を譲るようにということも、勧告した。しかし聞き入れず、ベレニケーからもうけた〔子〕に頭巾を引き渡したのは、彼〔プトレマイオス〕の死後、彼〔デーメートリオス〕について何らかの決定をくだすまで、この地で監視下に置くのがよいと思われたのだ。そのためこの地で失意のうちに過ごした:そして、どういうわけか、眠っているうちにコブラに腕を咬まれて、命終し、ディオスポリス近くのブゥシリス・ノモスに埋葬されたのである。 (59) Diogenes Laertius VII 184: この人(sc. クリュシッポス)のことは、ヘルミッポスが謂っている、音楽堂で講義しているとき、弟子たちから犠牲祭に呼ばれた:そこで生の甘い葡萄酒を振る舞われ、目まいがして5日経って人の世から逝去した、享年73歳、第143回オリンピック大会期の間だと、アポッロドーロスが『年代記』の中で謂っているところである。 (60) Diogenes Laertius X 2: ヘルミッポスの謂うところでは、彼(エピクゥロス)は文法教師だったか、しかしながらデーモクリトスの書物に巡りあい、哲学に没頭することになったと。それ故ティモーンも彼について謂っている: (61) Diogenes Laertius X 15: 彼(sc. エピクゥロス)が命終したのは、尿道が石で塞がれたためだと、ヘルマルコスも手紙(fr. 47 Krohn)のなかで謂っているように、14日間病んだ後だった。ヘルミッポスも謂っているが、このとき彼は熱い湯の満ちた青銅製の浴槽に入り、生の葡萄酒を要望し、友人たちには諸々の教説を憶えておくよう言い残して、かくて命終したという。 (62) Marcellinus Vita Thucydidis 18: ヘルミッポスが言うには、彼(sc. トゥーキューディデース)はペイシストラトス一族の出でもあり、僭主の血を引いている、それゆえ彼はその著作の中で、ハルモディオスとアリスとゲイトーンにまつわる事件を妬んだのだ、と謂い、彼らは僭主殺しとなったのではない、と言う:なぜなら、彼らが殺害したのは僭主ではなく、僭主の弟ヒッパルコスだったのだから、と。 (63) Athenaeus 505d: ヘルミッポスは『ゴルギアスについて』の中で:ゴルギアスがアテーナイに赴いたのは、と謂っている、デルポイに自分の黄金の似像を奉納した後だったが、このとき彼を見て、プラトーンが云った:「美しき黄金のゴルギアスがわれわれのもとにやって来た」。ゴルギアスが謂った、「アテーナイがこの若きアルキロコスをもたらしたとは、げに美しきかな」。 (64) Hypothesis Socrates II ad Nicoclem: ?? (65) Athenaeus 592d: ヘルミッポスが『イソクラテースについて』の中で、イソクラテースは高齢になってから遊女のラギスカを身請けして家に置き、この女から自分に娘子をもうけさえした、と。この女に言及しているのは、ストラッティスが次の詩句(I p. 712 Kock)の中で (66) Hypothesis Isocrates V Philippus: イソクラテースは、年老いて、自身とピリッポスの命終少し前にロゴスを書いた、そうヘルミッポスが謂っている。 (67) Harpocration EujqivaV? ヒュペレイデースがプリュネーのために。誣告で離間させられた中にエウテュイアスがいた。しかしながら、彼のために対プリュネー論をこしらえたのがアナクシメネースだと、ヘルミッポスが謂っている。 (68a1) Athenaeus 590c: 弁論家のヒュペレイデースは、父祖伝来の家から息子グラウキッポスを追い出し、最も高価な遊女ミュッリネーを揚げて、これを街に囲い、ペイライエウスにはアリスタゴラを、エレウシスにはピラを囲った、この女のためには莫大な金銭を使って自由にし、後にはこれを主婦にまでしたと、イドメネウスが記録している(FGrHist 338 F 14)。『プリュネー弁護』の中ではヒュペレイデースがこの女に恋したことを認め、上述のミュッレネーを家に引きこんだ後も、恋情をやめなかった。ところで、このプリュネーはテスピアイの出であった。死刑に値する罪でエウティアスに告発されたが放免された。そのため憤慨したエウティアスは、もはや他の裁判に関わることはなかったと、ヘルミッポスが謂っている。ヒュペレイデースの方は、プリュネーのために弁護したが、何ら言説の効なく、裁判官たちが有罪判決を下しそうになるや、彼女を法廷に連れ出し、その下着を引き裂いて胸をはだけさせ、彼女に目をやっては、声涙ともに下るような長広舌をふるったので、人々の胸に迷信的な恐怖心を起こさせ、裁判官は哀れみの情にほだされて、このアプロディテに仕えまつる巫女に死を与えぬことにしたのであった。しかしその後、彼女が放免されてから、決議が布告された、弁護をする者はなんぴとも嘆き悲しむべからず、また、被告たる男ないし女を衆人環視の中で裁くべからず、と。 (68a, 2) Athenaeus 342c: さらにヘルミッポスも、『イソクラテースの弟子たちについて』第3巻の中で、ヒュペレイデースはいつも魚市場を逍遙するのが習いであった、と謂っている。 (68b) Ps. Plutarchus De vitis decem oratorium 849a: (69) Dionysius Hails. De Isato 1: (70) Harpocratio Isaues: (71) Plutarchus Demosthenes V: ヘルミッポスが謂うには、入手した筆者不明の記録の中に、デーモステネースはプラトーンとともに学問して、弁論において大いに益された、とするが、クテーシビオスの言を引用し、デーモステネースはシュラクゥサイ人カッリアースやその他の人々からイソクラテースやアルキダマースの技術書をひそかに取得して習得した、という。 (73) Plutarchus Demosthenes XXX: アリストーンは、この毒薬は、述べられたごとく、彼〔デーモステネース〕が筆から採ったと謂っているが、パッポスという人(ヘルミッポスはこの人の記録を採りあげたのだが)の謂うには、彼〔デーモステネース〕が祭壇の側で倒れた時、書きかけの手紙の初めに見出されたのは、「デーモステネースよりアンティパトロスへ」だけで、他には何もなかった。で、死の速やかさが驚きを引き起こしていると、扉のそばにいたトラキア人たちが説明するには、布切れのようなものから取り出して唇に押し当てて毒を飲んだのだが:飲まれたのはじつに黄金だと自分たちは思う:片や召し使いの小女は、アルキアース一統の尋問に対して、ずっと以前からその頸巻きをデーモステネースは護符として身につけていた、と謂った。 (74) Plutarchus Demosthenes XI: アシシオーンは、ヘルミッポスが謂うには、昔の弁論家たちと彼の時代の〔弁論家たち〕について質問された時に云ったという、ひとが驚嘆したのは、前者においては聴いて,端正にして堂々と民衆と対話すること、デーモクリトスの弁舌は読まれて、結構と力の点で秀抜であることだ、と。 (75) Suda s. v. DhmosqevnhV 454: (76) Plutarchus Demosthenes XXVIII: (77) Athenaeus 451e: パセリス人テオデクテースのことは、ヘルミッポスが『イソクラテースの弟子たちについて』の中で、謎解きの名手で、自分でも人に巧妙な謎、例えば影に関するそれを出した、と謂っている。すなわち、一種の自然本性において生まれる時となくなる時に最大となり、盛りの時に最小となるのは何かというものだ。で、次のように言う: (78) Athenaeus 21c: ヘルミッポスが謂うには、キオス人テオクリトスは、アナクシメネースの着物の着方は、無教育な者に似ている、と。 (79) Vita Aeschinis, Aeschinis orations ed. Schultz p. 5, Martinde Budé I p. 7: (81) Origenes Contra Celsum I 15 p. 67 Koetschau: 言われるところでは、ヘルミッポスも『立法者たちについて』第1巻の中で、ピュタゴラースはおのれの哲学をイウゥダイオイ人たちからヘッラス人たちのもとに唱導したと記録している、と。 (82) Oxyrhynchus Papyri 1367 fr. 1 col. I: 〔未訳〕。 (83) Athenaeus 154d: ヘルミッポスは『立法者たちについて』第1巻の中で、剣闘技はデーモナクスなる者の進言によってマンティネイアで発明され、その植民市たるリビュアのキュレーネーが熱烈にそれを受け容れたのだと謂っている。 (84) Porphyrius De abstinent IV 22 (Xenocrates fr. 98 Heinze): (85) Plutarchus Lycurgus XXIII 2: パレーロンのデーメートリオスが〔謂うには〕、(sc. リュクゥルゴスは)戦争行為にはひとつも手をそめず、平和裡に国制を確立した、という。オリュムピアの平和という着想も、どうやら、温和で平和に親しんでいる人から出たものらしい。とはいえ一部の人たちが謂うには、ヘルミッポスがそう言及しているのだが、リュクゥルゴスが心を傾注したのではなく、イピトス一統と初めから共同したのでもなく、そうではなくてたまたまやって来て見物した:すると後方から人間のようなものの声が聞こえ、彼を叱って、市民たちがこの大祭に参加するよう勧めてもらえないのは驚くべきことだという。振り向いたが発言の主は何処にも見えないので、神の仕業と考え、イピトスのもとに旅をし、この祭がもっと有名・確実なものになるよう整備した、という。 (86) Diogenes Plutarchus Lycurgus V: 彼(sc. リュクウゥルゴス)は先ずデルポイへ出かけた。そうして神に供犠して神託を請い、あの有名な託宣を持って帰って来た。ピュティアは彼に神の友にして人よりも神と呼びかけ、善い法を願っているこの人に、神は他のあらゆる国制をはるかに凌ぐ制度を授けると謂った。これに鼓舞されて、貴族たちを味方につけて事を共にするよう勧め、先ず友たちとひそかに対話し、次いで少しずつ多衆を手な手なずけ、事業に協力させた。時機が到来するや、三十人の第一人者たちに、武装して早朝アゴラに進発するよう命じた、反対派を驚倒させ恐怖させるためである。そのうちの最も著名な二十人をヘルミッポスが書き上げている。リュクゥルゴスの活動すべてに共同し、法習に関する事柄を協力したのは名をアルトミアダースといわれる人であったという。 (87) Athenaeus 555b: というのも、われわれの美しき饗応者がヘルミッポスを賞讃して謂ったのだ、彼が『立法者たちについて』の中で記録している、と、ラケダイモーンで一種の家にあらゆる乙女たちが押しこめられ、未婚の若者たちもいっしょに閉じこめられたとき:それぞれの男はひとりの女を選んで、これを持参金なしの妻とした。それゆえリュサンドロスでさえ、初めの女を捨てて別のもっと美しい女連れて行こうとした時、罰金を払った、と。 (88) Athenaeus 619b: アテーナイでは、カローンダスの法までが酒席で歌われていたと、ヘルミッポスが『立法者たちについて』第6巻の中で謂っている。 (89) Academicorum Philosophorum Index Herculanensis ed. S. Mekler p. 28 col. 1 ff.: (90) Stoicorum Index Herculanensis col. XVI ed. Traversa: 『哲学者から権力者に転身した者たちについて』の中で,ヘルミッポスによって書かれている (91) Athenaeus 162c: (ペルサイオス……)この人はこれら(sc. 食卓歓談集)についていつも精神をめぐらせて信じていたが、ヘルミッポスが謂うには、アンティゴノスからアクロコリントスの守備を任されていたが、酩酊したため、コリントスそのものからさえも追放された、つまりシキュオーンのアラトスに作戦負けしたわけだ、かつて、ゼーノーンに宛てた『対話』の中で、あらゆる場合に賢者こそ、すぐれた将軍たりえようと熱弁をふるったのだが、このすぐれた『ゼノーンの奴隷』は、この一事をもって自分の説の正しさを実証したわけだ。 (92) Stobaeus Eco. III 5, 43: ホメーロスによって美しく発声された〔詩〕の、ヘルミッポスによる編集から。パレーロン人デーメートリオスは、慎みについて(sc. ホメーロスは)こういうことを詩作したと言った (93) Athenaeus 327b: スミュルナ人ヘルミッポスは『ヒッポーナクスについて』の中で、ヒュケーとはイウゥリス〔ベニベラ〕のことだと耳にしている。だがこれは捕りにくい魚だ、と。それゆえピレータスも謂っている:ヒュケーなる魚の最後のものも逃れあえず(fr. 20 Powell Collect. Alexandrina)。 (94) Vita Euripides 5, Scholia in Euripides ed. E. Schwartz I 5, 14: またヘルミッポスも言っているが、シケリアの僭主ディオニュシオスは、エウリピデースの死後、その遺族にタラントンを送って、琴と書き机と筆を手に入れ、これを見て、運んできた者たちに、自分とエウリピデースの名義でムーサたちの神殿に奉納するよう命じた:それ故に非常な客友好きとも呼ばれるが、それは客人たちにとくに愛されたからだ、と彼〔ヘルミッポス〕は謂っている:というのは、アテーナイ人たちに羨望されたからだ、と。 (95) Achilles Vita Arati 5, Commentariorum in Aratum reliquie p. 79 Maass: 『天象』は彼(sc. アラトス)によってあまりにみごとに著されたために、あらゆる人たちががアラトスに凌駕されたほどである(というのも、クニドスのエウドクソスも『天象』を書いたし、マグネーシア人ラーソスも、他にも多くの人たちが)、そう† プトレマイオス王も『特性』で次のように言及している。 (96) Scriptorium atronomicorum Index Vatican's codex 191 fol. 209b med, ed. E. Maass Aratea 121 (cf. Hermes 16, 385): この詩人(sc. アラートス)について著作した人たち。 (97) Scriptorium atronomicorum Index Vatican's codex 381 fol. 163b, ed. E. Maass Aratea 123 (cf. Hermes 16, 388): 極星について著作した人たち。 (98) Schol. Arat. Phaenom. 318 p. 403 Maass: これ(sc. イルカ座)とは、ポセイドーンの栄化のための星座である:というのは、アムピトリーテーが彼〔ポセイドーン〕に恋された時、その婚姻のために働いたからである。しかしヘルミッポスによれば、アポッローンの栄化のためには、クレーシス?をデルポイへ連れて行くためにイルカたちの同意を得たことによる、と。 (101) Schol. Arat. Phaenom. 436 p. 423 Maass: ケンタウロス座は西に、獣帯星座の下にある:そこでヘルミッポスは、これ〔ケンタウロス〕とはケイローンのことであり、野獣座〔狼座〕(442)とは野獣の徴表であり、祭壇座(440)とはペーレウスの結婚の徴だと謂うのである。 (102) Athenaeus 478a: ニコマコス(FGrHist 662)が『アイギュプトス人たちの宴楽について』第1巻の中で謂っている:「 コンデュとはペルシアの酒盃であり、†本来は、占星術師のヘルミッポスが、神々の奇蹟と稔りがそこから大地に生ずるところの宇宙のことである。それゆえこれ〔コンデュ〕から献酒されるのだ」。しかしパンクラテースは、『ボッコレーイス』(FGrHist 625)の中で、 さて彼は、銀のコンデュからネクタルを注ぐと、 (103) Schol. Apollon. Rhod. IV 269: ネイロス〔河〕は昔はトリトーンと、そう呼ばれていた。だが、この地方を王支配したタンタロスの子キュクロープスの子ネイロスにちなんで改名された、そうヘルミッポスは謂っている。 (104) Aelianus De natura animalium VII 40: 聞き及ぶところでは、アイティオピアには、犬を王にいただく部族があり、民はその意向に従い、犬が鼻を鳴らすときにはその心穏やかなるを知り、吠える時は怒れるものと理解する。この話の証人としてアリストクレオーンを引くヘルミッポスが十分に信用できる証言者だと思う人は、信じたらよろしい。わたしはうっかりやり過ごさずに、よい時にこれを思い出した。 2020.03.06. 訳了 |