ヘルメス選集(CH) II

対話





[底本]
TLG1286
CORPUS HERMETICUM
vel Hermes Trismegistus, vel Hermetica
(A.D. 2?/4)
2 1
1286 002
Dialogus (sine titulo), ed. A.D. Nock and A.-J. Festugière,
Corpus Hermeticum, vol. 1. Paris: Les Belles Lettres, 1946 (repr. 1972):
32-39.
5
(Cod: 1,349: Dialog., Phil., Theol.)




対話〔表題なし(sine titulo)〕

表題欠落(Intercidit titulus)

1
 「運動するものはすべて、おお、アスクレーピオスよ、何かの中で、何かによって、動かされるのではないか」。
 「もちろん」。
 「では、運動するものが、その中で動かされるものの方が大きいのが必然ではないか」。
 「必然です」。
 「しからば、動かすものは動かされるものよりも強いね」。
 「たしかに強いです」。
 「ところで、その中で動かされるものは、運動するものの自然とは反対の自然を有するのが必然ですね」。
 「たしかに」。


 「ところで、<この>宇宙は大きいものだが、体はこれよりも大きいのではないか」。
 「すでに同意されていることです」。
 「密なるものでもあるね。というのは、他の多くの大きな体、むしろ体であるかぎりのすべてのものに満たされているのだから」。
 「そのとおりです」。
 「すると、宇宙は体か」。
 「体です」。
 「また動かされるものでもあるね」。


 「もちろん」。
 「それでは、その中で動かされる場所(tovpoV)はどれくらい大きいか、また、その自然はどのようなものでなければならないか。運行の継続を受け容れることができ、運動するものが狭さのせいで圧迫されて、運動を抑えることがないためには、はるかに大きいのではないか」。
 「何か巨大なものです、おお、トリスメギストスよ」。


 「〔それ(場所)は〕いかなる自然のものか。はたして、反対のものだね、おお、アスクレーピオスよ。体に反対の自然とは、非体である」。
 「すでに同意されていることです」。
 「すると場所(tovpoV)は非体であり、非体は神的なものであるか、あるいは、神であるかだ。ここで神的なものとわたしが言うのは、生成したもののことではなく、不生なるもののことだ。


 さて、神的なものであるなら、本質的なもの(oujsiwdevV)である。しかし、神であるなら、本質さえないものとなる。ただし、次のような仕方でのみ思惟される。すなわち、第一のものである神が思惟されるのは、わたしたちによってであって、ご自身によってではない。なぜなら、思惟されるものは、思惟するものにとって感覚(aijsqhsiV)の対象となる。ところが神はご自身にとって思惟されるものではない。〔神が神を思惟するとすれば、思惟する神は〕思惟されるものとは別のものになるから、ご自身によっては思惟されないからである。


 これに反し、わたしたちにとっては〔神は〕別のものである。故に、これはわたしたちにとって思惟される。ところで、場所(tovpoV)が思惟されるのは、神としてではなく、場所(tovpoV)としてである。しかるに、さらに神としても〔思惟される〕なら、場所(tovpoV)としてではなく、包容する作用力(ejnevrgeia)としてである。ところで、あらゆる運動するものが運動するのは、運動するものの中でではなく、静止しているものの中でである。そして、動かすものは静止しているのであり、ともに動かされることは不可能である」。
 「すると、どのようにして、おお、トリスメギストスよ、こちら側のものらは、動かすものらといっしょに動いているのですか。というのも、あなたは謂うのですから、『惑星諸天球は、恒星天球によって動かされている』と」。
 「それは、おお、アスクレーピオスよ、共なる運動(sugkivnhsiV)ではなく、逆なる運動(ajntikivnhsiV)である。なぜなら、〔両者は〕同様に運動するのではなく、互いに逆だからである。そして、逆運動(ejnantiwsiV)は、運動の支点(ajntevresiV)を静止したものとして有する。


 なぜなら、抵抗力(ajntitupiva)は運行の静止点だからである。こうして、惑星諸天球は、恒星〔天球〕に対して逆向きに運動する、†つまり、互いに逆向きに出会い、逆方向性そのものに従事して、静止点によって動かされるのである†。そのほかの仕方では不可能である。例えば、あなたの観察するあの熊座は、沈むことも昇ることもなく、同一のもののまわりを回転しているが、あれは動いていると思うか、静止していると?」。
 「動いていると、おお、トリスメギストスよ」。
 「いかなる運動か、おお、アスクレーピオスよ」。
 「同一のものらのまわりを回転する〔運動〕です」。
 「同一のものの周回、つまり、同一のものの周りを回る運動は、静止点によって引き留められた〔運動〕である。なぜなら、関わるものは、超えるものを妨げ、†超えるものが妨げられると、関わるものの中に成立し†、こうして逆向きの運行も、逆方向性によって固定されて、一定の状態を保つのである。


 さらに、地上で肉眼に観察される範例をあなたに述べよう。死滅する生き物 — 人間のようなものを言っているのだが — が泳いでいるところを観なさい。すなわち、水が運行しているので、手足の抵抗は、その人間にとって静止となり、水といっしょに流されることがないのだ」。
 「この範例ははっきりしています、おお、トリスメギストスよ」。
 「したがって、すべての運動は静止の内にあり、静止によって動かされているのだ。だから、宇宙と、あらゆる質料的な生き物との運動は、体の外のものらによって生ずることになるのではなく、内のものらによって外のものに生ずることになるのである。〔内のものらとは〕思惟されるものらであって、魂とか霊気とか、あるいは他の何か非体的なもののことである。すなわち、体は入魂の体を動かすことはなく、いわんや、体を、たとえそれが無魂であったとしても、断じて〔動かすことは〕ないのである」。


 「それはどういう意味で言っているのですか、おお、トリスメギストスよ。そうだとすると、樹木や石やその他あらゆる無魂のものら、これを動かしているのは体ではないのですか」。
 「全然違うのだ、おお、アスクレーピオスよ。なぜなら、無魂のものを動かす体の内なるもの、これは体ではなく、荷なうものの〔体〕と荷なわれるものの〔体〕との両方を動かしているのだから。そういう次第で、無魂のものが無魂のものを動かすことはなかろう。だから、〔魂が〕2つの体を一人で運ぶとき、加重負担なのをあなたは観る。そして、運動するものらは何かの中で、何かによって動かされるということも、明らかなのである」。

10
 「では、運動するものらは空虚の中で運動しなければならないのですか、おお、トリスメギストスよ」。
 「口をつつしみなさい、おお、アスクレーピオスよ。存在(uJpavrxiV)のロゴス〔道理〕によって、諸有のひとつとして空虚なものはないのだ。つまり、有は、存在によって満ちていなければ、有であることはできなかったろう。というのは、存在するもの(uJpavrcon)は、空虚になることは決してできないからである」。
 「それでは、空虚なものというようなものはないのですか、おお、トリスメギストスよ、例えば、壺とか、瓦とか、桶とか、その他似たり寄ったりのものらですが」。
 「ああ、何という大それた迷妄であることか、<おお>、アスクレーピオスよ。むしろ満ちたものらであり、詰まったものらであるのに、それが空虚であると考えるのか」。

11
 「どういう意味で言っているのですか、おお、トリスメギストスよ」。
 「空気は体ではないか」。
 「体です」。
 「では、この体は、諸有のすべてを貫き、貫くものとして万物を満たしているのではないか。さらに、体は四つ〔の体〕から混合されて成立してのではないか。それなら、あなたが空虚というものらはすべて空気で詰まっているのである。そして、空気で〔詰まっている〕なら、四つの体によっても〔詰まっている〕のであり、かくして逆のロゴスが現れ出ることになる、つまり、あなたがつまっていると謂うもの、これらはすべて空気について空虚であるということが。それらは、他の諸体によって占められており、空気を受け容れる余地をもたないからである。だから、あなたが空虚であると謂うものら、それは空虚ではなく、空洞と名づけるべきなのだ。なぜなら、存在という点では、空気と霊気で詰まっているのだから」。

12
 「このロゴスは抗弁できません、おお、トリスメギストスよ。それでは、万有がその中で動かされる場所(tovpoV)のことを、わたしたちは何と云えばよかったのですか」。
 「非体とです、おお、アスクレーピオスよ」。
 「それでは、非体とは何ですか」。
 「それは、全体が全体から自らを包みこんでいる理性であって、すべての体から自由であって、迷動せず、受動せず、触れ得ず、自ら自己の内に静止し、万物を包容し、諸有を救済するもので、善、真理、霊気の原型、魂の原型は、光線のようにこれから発するものである」。
 「それでは、神とは何ですか」。
 「これら存在するものらの一つでさえなく、これらのものにとっても、万物にとっても、あらゆる有のおのおの一つにとっても、在ることの原因である。

13
〔彼が〕非有よりほかに見逃したものは何もなく、諸有から生じるものは非有〔複数〕から生じることはない。なぜなら、非有〔複数〕は生成しうる自然ではなく、何ものかに成り得ない自然を有するのであり、逆に諸有は、決して在ることがないという自然を有しないからである」。

14
 †「決して在ることがないというのは、どういうことを謂っているのですか」†
 「つまり、神は理性ではないが、<理性が>在ることの原因はあり、霊気ではないが、霊気が在ることの原因であり、光ではないが、光が在ることの原因である。ここから、神は次の2つの呼び名によって — 帰せられるのは彼にのみであって、他の誰にも帰せられない — で崇拝されなければならない。なぜなら、他のいわゆる神々の中にも、人間どもの中にも、ダイモーンたちの中にも、神ひとりよりほかに、程度の差はあれ、善であることのできるものはいないからである。ただ〔神〕ひとりがそれであり、他の何ものもそれではない。また、他のすべてのものらは、善の自然に包容されない。なぜなら、〔他のすべてのものらは〕体と魂であり、善を包容することのできる場所(tovpoV)をもたないからである。

15
 いったい、善の大きさはどれほどかといえば、体にしろ、非体にしろ、感覚されるものらにしろ、思惟されるものらにしろ、およそありとある有〔複数〕の存在(u{parxiV)に匹敵する。これが善であり、これが神である。だから、他の何かを善と云ってはならない、不敬虔なことだから。あるいは、ひとり善よりほかの何かを神と決して〔云ってはならない〕、これもまた不敬虔なことだから。

16
 そういう次第で、ロゴスのうえでは、善は万人によって言われるのであるが、いったい何であるかは、万人によって理会されていないのである。それゆえ、神もまた万人によって理会されておらず、無知のせいで、神々や、一部の人間どもを、善と名付けるのだが、〔彼らが〕そうで在ることも、そう成ることも、決してできないのである。なぜなら、〔善は〕神から取り上げることができず、分離することもできない、神自身だからである。そういう次第で、他のすべての不死なるものらは、神という名称で敬われている神々なのである。しかし、神は敬われることによってではなく、自然によって善なのである。すなわち、神の自然は一すなわち善であり、両者の種族は一つであって、これからあらゆる種族が生じるのである。というのは、善なるものは、すべてを与え、何ものをも奪わぬからである。だから、神はすべてを与え、何ものをも奪わない。かくして神は善であり、善は神である。

17
 ところで、もうひとつ、父という呼び名があり、これもまた万物の創作にちなんでいる。というのは、作ることは父のすることだから。ゆえに、人生における最大にして最も敬虔な真剣事は、良く知慮する人々にとって子作りなのであり、最大の不幸せにして不敬虔事は、子なくして人間界から立ち去ることであり、この人は、死後、ダイモーンたちに償いをする。その懲罰は以下のとおりである — 子を成さない人の魂は、男とも女とも判別のつかない自然を有した者の身体(これこそヘーリオス神に呪われたもの)の中に〔落としこまれる〕。そういうわけだからこそ、おお、アスクレーピオスよ、子のない人の不幸を喜んではならない逆にその災禍を憐れみなさい、いかなる懲罰が彼を待っているか識っているのだから。これだけのことが、また、このようなことが、言われたとしなさい、おお、アスクレーピオスよ、万物の自然の予備知識が」。

2008.08.23. 訳了。


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