ヘルメス選集(CH) VI

善はひとり神のみの内にあり、他にはどこにもないこと





[底本]
TLG1286
CORPUS HERMETICUM
vel Hermes Trismegistus, vel Hermetica
(A.D. 2?/4)
6 1
1286 006
$Oti ejn movnw/ tw/: qew/: to; ajgaqovn ejstin, ajllacovqi de; oujdamou:,
ed. A.D. Nock and A.-J. Festugière, Corpus Hermeticum,
vol. 1. Paris: Les Belles Lettres, 1946 (repr. 1972): 72-76.
5
(Cod: 768: Phil., Theol.)




善はひとり神のみの内にあり、他にはどこにもないこと

1
 善は、おお、アスクレーピオスよ、ひとり神のみの内でなければ、何ものの内にもない、いやむしろ、善は常に神そのものである。そうであるとすれば、〔善は〕あらゆる運動と生成の基体(oujsiva)でなければならない(これ〔基体〕を欠いたものは何もない)、これ〔基体〕はみずからのまわりに静止せる作用力を有し、不足も過剰もなく、満ち満ちており、供給者(corhgovn)であり、万物の始原にあった。一切を供給する善とわたしが言う時、それは全体であり、永遠に善であるから。
 これ〔善〕は、ひとり神のみにあらずんば、他の何ものにも属しない。というのは、〔神は〕何ものにも不足していないので、それ〔その何ものか〕の獲得を欲望して、悪しき者となることもなく、諸有の何ひとつ彼にとって失われることがないので、これを失って悲しむこともない(悲しみは悪の一部であるから)、また彼よりまさるものは何もないので、その何かによって争いにおちることもない(不正されることも、彼には関係がない)、<またより美しいものは〔何もない〕ので>、それゆえこれを恋することもなく、聴従しないものは〔何もない〕ので、これに怒ることもなく、より知恵あるものは〔何もない〕ので、張り合うこともないであろうから。


 さて、これらの何ひとつ基体(oujsiva)に帰属しないのであれば、ひとり善以外に何が残されていようか。
 このような基体(oujsiva)の内に<他の>何ものもないように、他の何ものの内にも善は見出されないであろう。じっさい、他のものらはすべて万物の内にある — 小さきものらの内にも、大きなものらの内にも、一つずつのものらの内にも、万物よりも大きくかつ最も力ある生き物そのものの内にも。なぜなら、生み出されたものらは受動に満ち、生成そのものが受動の虜だからである。しかし、受動のあるところには、善は決してない。善のあるところには、ひとつとして受動は決してない、なぜなら、昼のあるところには、決して夜はなく、夜のあるところには、決して昼はないからである。ここからして、生成の内に善があることは不可能であって、あるのは、ひとり不生のもののみの内である。
 しかしながら、質料(u{lh)の内には一切のものの分有(metousiva)が与えられているように、善の〔分有〕もまた〔与えられている〕。この仕方で、世界(kovsmoV)は、みずからも万物を制作するという点で、<すなわち>制作の役割において、善である。しかし他のすべての場合には、〔世界(kovsmoV)は〕善ではない。というのも、受動するものであり、動くものであり、受動の制作者だからである。


 他方、人間においては、善は悪と相関的に配列されている。すなわち、極度に悪でないものは、この世では善であり、この世の善は、悪の最小部分である。したがって、この世では善を悪から浄化することは不可能である。この世では善は悪に染まっているからである。悪に染まれば、もはや善にとどまることはない。とどまることができなければ、悪となるのである。じっさい、善はひとり神のみの内にあるか、あるいは、善とは神そのものである。こういう次第で、おお、アスクレーピオスよ、人間の内には善という名辞のみがあるのであって、その働きはどこにもない。不可能だからである。なぜなら、質料的な身体は、〔その働きを〕包容することができないからである — 悪、諸々の労苦、諸々の苦痛、諸欲望、諸々の怒り、諸々の欺瞞、無分別な諸々の思念によって、どこもかしこも緊縛されているからである。そしてあらゆるものの中で最大の悪は、おお、アスクレーピオスよ、これら先に述べられたもののおのおのが、この世の最大の善であると信じこまれていることである、それ以上超えるようもない悪であるのに。大食は、あらゆる悪の供給者であり…〔欠損〕…迷いは、この世における善の不在である。


 わたしとしては、神に感謝している、 — 善の覚知についてであろうと、それは世界(kovsmoV)の中にあることは不可能であると、わたしの理性に伝授してくれたから。というのは、世界(kovsmoV)は悪の充満(plhvrwma)であるが、これに反し、神は善の〔充満〕、あるいは、善が神の〔充満〕であるから…〔欠損〕…美しきものらの卓越性は、彼の基体(oujsiva)にかかわっているからである。ましてやあのかたに属する〔卓越性〕そのものは、さだめし、より清浄に、より純粋にみえるに違いない。そこで、あえて云うべきである、おお、アスクレーピオスよ、神の本質(oujsiva)は、いやしくも本質(oujsiva)を有するとすればだが、美であり、美にして善なるものは、この世界(kovsmoV)の内にある何ものの内にも把握されないのである。なぜなら、肉眼に入ってくるものはすべて幻影であり、影絵のようなものだからである。これに反し、〔肉眼に〕入ってこないもの、とりわけ美と善の〔基体(oujsiva)〕は…〔欠損〕…そして、肉眼では神を見ることができないように、美と善も〔肉眼では見ることが〕できない。なぜなら、それらは神の自己完結的な部分、ひとり彼にのみ固有な〔部分〕、親(みずか)ら〔本来〕の部分、分離できない部分、最も恋される部分であって、あるいはこれを神自身が恋したい、あるいはこれが神を恋いしたうところのものだからである。


 もしもおまえが神を理解することが可能なら、おまえは美にして善を理会することができるであろう — 燦然と輝いているもの、神によって燦然と輝かされているものを。というのは、この美は無比であり、この善は無類である、神自身もまたそうであるように。だから、おまえが神を理会するように、美にして善をも理会せよ。これらのものは、神から分離できないゆえに、他の生き物らと交わり得ないからである。おまえが神について探求するなら、おまえは美についても探求することになるのだ。それ〔美〕へと通じる道はひとつ、覚知(gnwvsiV)を伴った敬虔(eujsevbeia)がそれである。


 ここからして、覚知をもたぬ者ども、敬虔の道を歩まぬ者どもは、人間が美であり善であると敢言する — 善とは何であるか夢にも観ることなく、あらゆる悪にはじめから捕らえられ、悪をば善であると信じ、そういうふうにしてこれ〔悪〕を飽くことなく用い、これを失うことを恐れるばかりか、所持するだけでなくむしろ増やすためにあらゆることを競い合う人間が〔美であり善であると〕。こういったことが人間的善であり美もまたそうであって、おお、アスクレーピオスよ、われわれをこれを逃れることも憎むこともできない。すなわち、何よりも最も悲しむべきは、われわれがそれを必要とし、それらなくしては生きられないということである。

2008.09.04. 訳了。


forward.gifCH VII 神の覚知をもたないことが、人間どもにおける最大の悪であること