ヘルメス選集(CH) XI

理性(ヌゥス)からヘルメースへ





[底本]
TLG1286
CORPUS HERMETICUM
vel Hermes Trismegistus, vel Hermetica
(A.D. 2?/4)
11 1
1286 011
Nou:V pro;V +ErmhV, ed. A.D. Nock and A.-J. Festugière,
Corpus Hermeticum, vol. 1. Paris: Les Belles Lettres, 1946 (repr. 1972):
147-157.
5
(Cod: 2,215: Phil., Theol.)




ヌゥスからヘルメースへ

1
 このロゴスを堅く保ち、おお、トリスメギストス・ヘルメースよ、言われたことを記憶せよ。云うべきことがわたしに思いついたので、わたしはためらいはしない」。
 「万有(to; pa:n)と神について、多くの人たちが多くのことを、それも異なったことを云っているので、わたしは真実を学べませんでしたので、主よ、あなたがわたしにそれについて明確にしてください。わたしはあなたに、しかもひとりあなただけにこれに関する開明を委ねます」。


[時間]
 「聞くがよい、おお、わが子よ、神と万有(to; pa:n)がどうであるかを。
  神、永遠、世界(kovsmoV)、時間、生成。
 神は永遠を制作し、永遠は世界(kovsmoV)を、世界は時間を、時間は生成を〔制作する〕。また、神のいわば有性〔本質〕とは、[善、美、幸福、]知恵(sofiva)。永遠のそれは、自己同一性(tautovthV)。世界のそれは配列。時間のそれは変化。生成のそれは命と死である。また、神の作用力(ejnevrgeia)が理性(nou:V)と魂。永遠のそれが不断性と不死性。世界(kovsmoV)のそれが回帰と逆回帰。時間のそれが増大と減少。生成のそれが質<と量>である。かくして、永遠は神の内に、世界(kovsmoV)は永遠の内に、時間は世界(kovsmoV)の内に、生成は時間の内にある。そうして、永遠は神のまわりに静止しているが、世界(kovsmoV)は永遠の内に動かされ、時間は世界(kovsmoV)の内に完結しており、生成は時間の内に生じる。


 もちろん、万物の源泉は神であるが、永遠は有性、世界(kovsmoV)は質料、永遠は神の力、世界は永遠の業であって、〔世界は〕ある時点で生成されたのではなく、永遠によって常に生成しているものである。ゆえに、世界(kovsmoV)の内にある何であれ、(永遠は不滅であるから)決して滅亡することもなく、消滅することもない。世界(kovsmoV)は永遠によって包みこまれているからである」。
 「では、神の知恵(sofiva)とは何ですか」。
 「善、美、幸、至徳、永遠である。かくして、永遠は質料(u{lh)に不死性と不断性を植えつけて、飾りとするのである」。


 すなわち、それ〔質料〕の生成が永遠に依拠すること、永遠が神に〔依拠する〕ごとくである。というのは、生成と時間は天に関わり、地に関わり、二面的である。〔生成と時間は〕天においては不変、不滅、地においては変化し衰滅するものである。
 さらに、永遠の魂が神、世界(kovsmoV)のそれが永遠、地のそれが天。そうして、神は理性(nou:V)の内にあり、理性(nou:V)は魂の内にあり、魂は質料(u{lh)の内にある。しかも、これらすべては永遠を通して起こる。この全体(to; pa:n)が身体であって、この内にあらゆる諸身体がやどり、魂は理性(nou:V)と神に充満して、内側ではそれ〔(to; pa:n)〕を満たし、外側では〔それを〕くるみこみ、〔そうやって〕万有(to; pa:n)を活かしている、すなわち、外側では巨大で完全なこの生き物たる世界(kovsmoV)を、内側ではありとあらゆる生き物を〔活かし〕、上方なる天では自己同一性によって不断に存続し、下方なる地上では生成に変化をもたらしている〔それが魂である〕。


 さらに、この〔世界〕を結合しているのが永遠であるが、その手段は、必然(ajnavgkh)により、摂理(provnoia)により、自然(fuvsiV)により、何か他にひとが思いつくもの、あるいは思いつくであろうものによってである。すなわち、神は全体に作用を及ぼすのであるが、神の作用とは、超えがたい力であって、人間に属するものらをも神に属するものをもこれに比較できる者はいないであろう。ゆえに、ヘルメースよ、下方にあるものらも上方にあるものらも、神に等しいものがあるなどと決して考えてはならない、真理から脱落するからであり、非相似的で唯一で一なるものに相似するものは何もないからである。また、力の点で他の何かに譲歩すると考えてもならない。いったい誰が、命と不死<と>変化の制作者として、あのかたの後につづくであろうか。また、彼自身は制作する<以外に>何をするのであろうか。というのは、神は無為ではないから、もしもそうなら、万物は無為であったろう。万物は神に満たされているからである。そうではなくて、無為は世界(kovsmoV)の内にも決してなく、他の何ものの内にもない。無為は、制作者のであれ生成物のであれ、空虚な名辞にすぎず、


万象は不断にであれ、また、おのおのの場所の引力にしたがってであれ、生成するのでなければならない。なぜなら、制作者が万象の内に存在するのであるが、何ものかの内に坐しているというのではなく、何ものかのなかで制作しているのでもなく、万象を制作する者だからである。すなわち、作用する力としてあるのであって、生成するものらに対して自己完結しているのではなく、生成するものらは彼によって〔彼の下に〕存在するのである。
 そこで、わたしを介して、おまえの眼下に横たわる世界(kovsmoV)を見よ、また、その美しさを正確に観察(katanoei:n)せよ、その身体は汚れなく、それより過去に遡るものは何もない、しかし、全時間にわたって生気に溢れ、若々しく、むしろもっと生気に満ちている。


 また見よ、眼下に横たわる7つの身体が、永遠の配列によって飾られており、相異なった走路によって永遠を満たしているのを、すべては光で充満しているのに、火はどこにもない。というのは、対立するものらや相違するものらの友愛と配合(suvgkrasiV)が光となったのである、〔光は〕神 — あらゆる善の父祖、あらゆる配列の支配者、7つの世界(kovsmoV)〔天体〕の指導者 — の作用力によって輝いている。また、〔見よ〕月を — それらすべての〔天体の〕先駆け、自然(fuvsiV)の器官、下方なる質量(u{lh)を変化させるものを。また〔見よ〕地を — 万有(to; pa:n)の中心にあり、美しき世界(kovsmoV)の礎として坐し、地上にあるものらの養育者にして保母を。さらにまた観照せよ、不死なる生き物たちの数が、また、死すべきものらの数がどれほどであるかを、不死なるものら死すべきものら両者の真ん中に月が周回しているのを。


 かくして、万象は魂で充満し、万象は動かされている — あるものらは天のまわりを、あるものらは地のまわりを、右にあるものらが左にくることもなく、左にあるものらが右にくることもなく、上にあるものらが下に、下にあるものらが上にくることもない。そうして、これらの万象が生成させられたものであることは、おお、最も愛しいヘルメースよ、もはやわたしから学ぶまでもあるまい。というのも、〔これらは〕身体であり、魂を有し、動かされているからである。そこで、これらがひとつに結集することは、統合するものなしには不可能である。とすると、誰かがそのもの、つまり、完全な一者でなければならない。


 すなわち、諸々の運動は様々で数多くあり、諸々の身体は相似していないけれども、あらゆる身体に対してひとつの速度が配されているからには、2つないしそれ以上の制作者が存在することは不可能である。ひとつの配置が多数の〔制作者〕に守られることはないからである。多数の間には、勝れたものに対する妬みがつきまとう。さらに、あなたに云おう。変化する生き物や死すべきものらの制作者が別のものであったなら、そのものは不死なるものらをも制作したいと熱望したことであろう、あたかも、不死なるものらの〔制作者〕が死すべきものらを〔制作した〕ように。それでは、さぁ、〔制作者が〕二人であり、一人は質料(u{lh)のそれ、一人は魂のそれだとしても、制作の公共奉仕はそのどちらのものに属するであろうか。またもし両者に属するとしても、より多くの部分はどちらのものに属するであろうか。

10
 そこで、次のように理会せよ — 生きているあらゆる身体は、不死なる〔身体〕であれ、死すべき〔身体〕であれ、< ロゴスをもった〔身体〕であれ>、ロゴスなき〔身体〕であれ、質料(u{lh)と魂からなる構造を有している。というのは、生きている身体はすべて有魂であり、これに対し、生きていない〔身体〕は、単独の情態では質料であり、魂も同様に単独の情態では命の原因として制作者の手許にとどまるが、命の完全なる原因は不死なるものらの〔制作者〕である。とすると、〔不死なるものらの制作者が〕死すべき生き物らをも、†死すべきものらとは〔違った〕†他のものらとして〔制作しないことが〕どうしてあろうか。また、不死と不死性を制作するものが、〔これを〕生き物たちに属するものとして制作しないことがどうしてあろうか。

11
 かくして、これらを制作するあるものがいることは明白である。しかも、〔それが〕一者であることは歴然としている。というのも、魂はひとつ、命はひとつ、質料(u{lh)はひとつだからである。では、このものは何ものか。一者たる神以外の他の誰だというのか。有魂の生き物らを制作することは、ひとり神よりほかに、他の誰にこそふさわしいというのか。
 こういう次第で、神は一者である。奇妙奇天烈なことではあるが。たしかに、世界(kovsmoV)は常に有ることにおまえは同意し、太陽はひとつであり、月はひとつであり、神性はひとつである〔ことに同意した〕が、それでは神ご自身をどう位置づけようとするのか。

12
 そういう次第で、〔神〕自身が万象を制作するというのは、†多くの点で奇妙奇天烈なことである†。
 いったい、命、魂、不死、変化を制作することが、神にとって何か大きなことであろうか、おまえはこれほどのことを制作しているというのに。というのも、おまえは見、しゃべり、聞き、嗅ぎ、触れ、散歩し、理会し、呼吸する、しかも、見る者、聞く者、しゃべる者が別々ではなく、触れる者、嗅ぐ者、散歩する者が別々ではなく、理会する者と息をする者とが別々なのではなくて、それらすべてをする者は一者である。しかしながら、あれら〔命、魂、不死、変化〕は神なしには不可能である。なぜなら、おまえがあれらのことをやめたら、もはやおまえは生き物でないのと同様、神がこれらのことをやめたら、口に出して云うのは神法に悖るが、もはや神ではないのである。

13
 もしも、おまえが何も制作しないなら、有ることは不可能だということが証明されるなら、まして神においてをやであろう。かりに〔神が〕制作しないものが何か有るとするなら、口に出して云うのは神法に悖るが、彼は不完全なのである。しかし、彼は無為ではなく、完全であり、したがって万象を制作するのである。
 そこで、しばらくの間、わたしにおまえ自身をゆだねるなら、おお、ヘルメースよ、おまえは容易に理会するであろう — 神の業はひとつであって、その結果、生成するものら、あるいは、かつて生成したものら、あるいは、やがて生成するであろうものらのすべてが生成するということ。これが、おお、最愛の者よ、命である。これが美であり、これが善であり、これが神である。

14
 さらに、業によってもこのことを理会したいとおまえがおもうなら、おまえが子を生もうとするときに何が起こるかを見るがよい。とはいえ、次の点はあのかたと等しくない。すなわち、あのかたは快楽をおぼえない。他に共働者(sunergovV)を有さないからである。すなわち、自働者(aujtourgovV)であり、常に業の内にあり、みずからが彼の制作するもの〔対象〕である。かりに彼から切り離されるなら、万物はもろともに崩壊し、万物は死滅するのが必然である。命がないのだから。だから、万物が生きており、しかも命がひとつである以上、したがって神も一者である。さらにまた、天にあるものらも地にあるものらも、すべてのものらが生きており、しかも万物における命がひとつであるなら、神によって生じたのであり、これ〔命〕もまた神である。結局、万物は神によって生じたのであり、理性(nou:V)と魂の合一(e{nwsiV)が命である。そして死とは、連結されたものらの消滅ではないが、合一の分解ではある。

15
 こういう次第で、神の似像が永遠、永遠のそれが世界(kovsmoV)、世界(kovsmoV)のそれが太陽、太陽のそれが人間である。変化が死であると謂われているが、その所以は、身体が分解し、命が見えぬところに引き下がるからである。このロゴスにより、わが最愛のヘルメースよ、†おまえが聞いているとおり、神々を畏れる者である〔わたしは〕†謂うのだ、 — 世界もまた変化するのだ、その理由は、それ〔世界〕の部分は、日毎に、見えないものなかに生じるのであって、決して分解するのではないからである、と。これこそが世界(kovsmoV)の受動、つまり回転と隠蔽である。そして、回転は†周期†、隠蔽は更新である。

16
 こうして、〔世界は〕あらゆる姿を有するもの(pantovmorfoV)であるが、姿を内蔵するということではなく、みずからがみずからの内で変化するということである。このように、世界(kovsmoV)があらゆる姿を有するもの(pantovmorfoV)として生じたのなら、制作者とは何であろうか。というのは、姿なきもの(a{morfoV)として生じたのではあるまい。では、彼自身もあらゆる姿を有するものであるとすれば、世界(kovsmoV)に似たものであろう。ただし、ひとつの姿を有するものであろうか。その点で世界(kovsmoV)に劣ることになる。では、彼を何であると謂おうか、ロゴスをアポリアに陥ることは回避しよう。なぜなら、神について理会されることにいかなるアポリアもないのだから。つまり、〔彼は〕ひとつの形相(ijdeva)を、もし彼に何らかの形相があればだが、有しており、これ〔形相〕は視覚には映らない、非体だからである。それでいて、諸体を介してあらゆる〔姿(morfhv)〕を示すものである。

17
 非体の形相のようなものが存在するとしても、あなたは驚くに及ばない。というのは、ロゴスのそれ〔形相〕のようなものだからである。また絵画においても、山の峰はたしかにありありと聳えて見えるが、自然本性には平坦で、どこもかしこも同じ高さである。言われていることを理会せよ。それ〔言われていること〕はいささか大胆であるが、より真実である。
 要するに、人間は命なしには生きられないように、神もまた善なしには〔生き〕られない。これが神のいわば命であり、いわば運動である、万物を運動させ、生かしめるということが。

18
 言われている事柄のなかには、特別の思惟を要するものがある。例えば、わたしが言うことを理会せよ。 — 万象は神の内にある。〔しかし〕場所の内に置かれているようにではない(なぜなら、場所は身体でもあり、しかも不動の身体であって、置かれているものらは運動を有しないからである)。というのは、〔万象は〕別の仕方で非体の表象の内にあるからである。万象を包んでいるものを理会し、非体を包み得るものは何もなく、〔非体より〕もっと速いものも、力あるものもないことを理会せよ。それ〔非体〕は万物のなかで包まれ得ないものであり、最も速く、最も力あるものなのである。

19
 また次のように、おまえは自分で理会せよ、そこで、おまえの魂に、インドに行くよう命じよ、そうすれば、おまえの命令よりも速く、〔魂は〕彼処にいるであろう。また、これ〔魂〕に大洋に赴くよう命じよ、そうすれば、またもや同様に彼処にいるであろう、場所から場所へと移動するようにではなく、彼処にいるかのようにである。またこれに天にも飛翔するように命じよ、そうすれば、翼さえ必要としないであろう。いや、これの邪魔をするものは何もないであろう — 太陽の火も、天空(aijqhvr)も、回転も、その他の星辰の身体も。かくて、あらゆる〔天体〕を切り裂いて、最後の身体〔天体〕にまで飛翔するであろう。もしも、それ〔最後の天体〕をも完全に引き裂いて、その外にあるものら(世界の外に何かあればだが)を観たいとおまえが望むなら、それもおまえには許されるだろう。

20
 見よ、どれほどの力、どれほどの速力をおまえが有しているかを。次いで、おまえはこれらの力を有していながら、神はそうではないのであろうか。だから、次の仕方で神を理会せよ、 — 〔神は〕自己の内に万物を、つまり、世界(kovsmoV)、自己、全体を思惟(nohvma)〔複数〕として有しているのだ、と。ところで、自己を神に等しくしないなら、神を理会することはできない。相似物にとって理解可能なのは相似物だからである。あらゆる身体から跳びだして、無限の大きさに見合うまで自己を拡大し、全時間を超越して、永遠(Aijwvn)になれ、そうすれば、おまえは神を理会するであろう。おまえ自身に不可能なことは何もないと想定し、おまえ自身は不死であると考え、そうして、万事 — あらゆる術知、あらゆる知識、あらゆる生き物の性向 — が可能であると理会せよ。また、あらゆる高みよりも高くなり、あらゆる深みよりも低くなれ。制作されたものら — 火、土、乾、湿 — というあらゆる感性を汝自身の内に摂取し、地であれ、海であれ、同時に至るところにあること、いまだ生まれていないこと、胎の中にあること、若者であり、老人であり、死去したこと、死後にあることども、要するに以下のすべてのことども — 時間、場所、事象、質、量を同時に理会するなら、おまえは神を理会することができる。

21
 しかし、おまえの魂を身体に閉じこめ、これ〔魂〕を卑しめて、『わたしは何も理会しない、何をする能力もない。わたしは海を恐れ、天に昇ることができない。わたしは自分が誰であったのかを知らず、誰になろうとするのかを知らない』と云うなら、おまえと神に何のかかわりがあろう。身体を愛し悪者であるかぎり、おまえは美にして善なるものらを何ひとつ理会できない。すなわち、完全な悪とは、神性に対する無覚知である。覚知し、意志し、希望する能力を有することが、善に至る†容易で固有の†平坦な道である。それ〔善、神性、神〕は道行くおまえに至るところで行き会い、至るところで目撃されるのだ、予期せぬ所や時に、目覚めているときにも眠っているときにも、船旅の時、道行くときにも、夜も昼も、しゃべっているときにも沈黙しているときにも。それ〔善、神性、神〕でないものは何もないからである。

22
 次におまえは謂うのか、『神は眼に見えないかたである』と。口をつつしめ。いったい、彼より明瞭なかたが誰かおられるだろうか。〔彼が〕万象を制作した所以は、まさしく、万象を通しておまえが彼を見るためにこそである。万象を通して彼が明らかになること、これが神の善であり、これが彼の徳である。というのは、眼に見えないものは、非体的なものたちのなかにさえ、何ひとつない。理性(nou:V)は理会することのなかに見え、神は制作することのなかに〔見える〕。
 以上が、ここまでおまえに明らかにされたことである、おお、トリスメギストスよ。その他の事柄は同じようにしておまえ自身で理会するがよい、そうすれば、欺かれることはあるまい」。

2008.09.11. 訳了。


forward.gifCH XII 普遍的理性について