抜粋(Excerptum) IV (IV B+III Scott)
Stobaeus 1. 41. 6 a, vol. I, p.264 Wachsmuth.

ヘルメースの〔書〕、タト宛て〔文書〕から。

1
 これらのことは正しく説明してくださいました、おお、父よ、しなしなおあのことどももわたしに教えてください。というのは、たしか、知識と術知とはロゴス的部分(logikovn)の作用(ejnevrgeia)であると謂われました。ところが、今、ロゴスなき生き物は、ロゴス的部分の喪失によってロゴスなきものであり、そう呼ばれてきたと謂われます。明らかに、このロゴスにしたがえば、ロゴスなき生き物は知識に与ることがないのはもちろん、ロゴス的分を喪失しているのですから、術知にも〔与ら〕ないのが必然です」。


 「たしかに必然だ、おお、わが子よ」。
 「それでは、どのように見たらいいのですか、おお、父よ、ロゴスなきものらのあるものが、知識や術知を使うのを。例えば、アリたちは、冬の間、食糧を蓄えますし、空の生き物たちも同様、自分たちの巣をこしらえますし、四足獣たちは、固有の隠れ家を識別します」。


 「それらは、おお、わが子よ、知識によってするのでなく、術知によってするのでなく、自然〔本能〕によってなのだ。なぜなら、知識や術知は、教えられるものなのだから。しかるにこれらロゴスなきものらのひとりとして、何ものをも教えられることはないのだ。自然〔本能〕によって生じることは、一般的には作用によって生じる。これに反し、知識と術知によって〔生じる〕ことどもは、知っている者らに現れるのであって、それは全員にではない。<全員に>生じることどもは、自然〔本能〕の作用によるのである。


例えば、人間どもは上を見る。しかし、あらゆる人間が芸術家であるわけはなく、あらゆる人間が射手であるわけでも、猟師であるわけでも、その他のすべてであるわけでもない。そうではなくて、彼らの或る者たちは、あることを学び、〔そのとき〕知識と術知が作用しているのだ。


 同じ仕方で、アリたちの中に、それをするものらがおり、それをしないものらがいるなら、知識によってまさにそれをし、術によって食糧を集めるとおまえが言うのは美しいであろう。これに反し、全員が自然〔本能〕によって、また自発的に、同じようにそれへと導かれるなら、明らかに、知識によってでないのはもちろん、術知によってさえそれをするのではないのだ。


 すなわち、諸々の作用は、おお、タトよ、それ自体は非体であり、諸身体の内にあり、諸身体を通して作用しているのだ。それゆえに、おお、タトよ、非体であるかぎり、それらは不死でもある、とわたしは謂うのだ。しかし、体なくして作用することは不可能であるから、それらは常に身体の内にあるとわたしは謂うのだ。


なぜなら、何かに対して、あるいは、何かのために生じたものら、つまり、摂理と必然によって起こったことどもが、固有の作用といつか無縁であることは不可能だからである。すなわち、有は常に有るであろう。というのは、それはそのものの身体でも命でもあるのだから。このロゴスには、身体は常に有るということが帰結する。そのゆえにこそ、諸身体にとっての作用そのものは永遠だとわたしは謂うのである。というのは、地上的身体が解消し、これに作用するものらの諸々の場所や諸々の道具として諸身体が存在しなければならず、諸作用が不死であり、不死なるものは常に存在するとするなら、少なくとも、身体制作も作用として常に存在することになる。


 ところで、〔諸作用が〕そなわる場合、まとまって魂に同行するわけではなく、そのいくつかのものらは、人間が誕生すると同時に、ロゴスなき部分にかかわって魂といっしょに作用するが、より清浄な諸作用は、年齢の変化にしたがって、魂のロゴス的部分に協働するのである。


 しかし、諸作用そのものは諸身体に依存している。そうして、神的身体から出て、死すべき〔身体〕の中に入るのが、身体制作する〔作用たち〕そのものであり、そのおのおのは、あるいは身体に関わり、あるいは魂に関わって作用する。とはいえ、身体なくしては、魂そのものと交わることは<ない>。なぜなら、諸作用は常に存在するが、魂は身体の内に常に存在するわけではないからである。というのは、〔魂は〕身体なくしても存在できるが、諸作用は、身体なくしては存在できないからである。

10
これが、おお、わが子よ、聖なるロゴスである。身体は魂なくして合成できないが、それが有ることはできる」。
 「どういう意味でそれを言っておられるのですか、おお、父よ」。
 「こういうふうに理会せよ、おお、タト。魂が身体から離れると、身体だけが存続する。この身体は、存続する間、解消するものとして、そして無形相になるものとして作用されつづける。しかしこれらのことは、身体が作用なしに受動することは不可能である。そういう次第で、魂が離れると、作用そのものが身体に持続するのである。

11
そうすると、不死なる身体と死すべきそれとの違いそのものとは、不死なるものはひとつの質料から合成されているが、他方はそうではない。また、前者は制作するが、後者は受動する(あらゆる作用するものは主宰するが、作用されるものは主宰されるからである)、また前者は、下命するもの、自由なるものとして主宰して導くが、後者は隷従するものとして運ばれる、ということである。

12
 <こうして>、諸作用は有魂の諸身体に作用するばかりか、無魂の〔諸身体〕 — 材木とか石とかその他似たものら — をも、増大させ、実をつけさせ、熟させ、腐敗させ、溶解させ、粉砕し、無魂の身体が受動することのできるかぎりの似た作用をするのである。というのは、作用(ejnevrgeia)と呼ばれているのは、おお、わが子よ、なんであれ生成するものが〔生成する所以の〕当のもののことなのだ。

13
 だから、じつに多くのものらが、いやむしろあらゆるものらが生成しなければならない。というのは、世界(kovsmoV)が諸有の何ひとつをも欠くことは決してなく、常に運行しつつ、自己の内に諸有を孕み、〔諸有が〕その腐敗に見棄てられることは決してないのである。

14
そういう次第で、あらゆる作用は常に不死であり、いかなる種類の身体の内にも存在するところのものであると理会されよ。

15
 さて、諸作用のうち、あるものらは神的身体に属し、腐敗的〔身体〕に属する、また、あるものらは普遍的であり、あるものらは個別的である、また、あるものらは諸々の類に属し、あるものらは部分のそれぞれ一部分に属する。こうして、神的なのは、永遠の身体に働く諸作用である。この〔諸作用〕は、完全な身体に〔働く〕からして、完全でもある。部分的な〔作用〕とは、生き物たちのそれぞれひとつの類を通して〔働く〕ものらである。個別的〔諸作用〕とは、諸有のそれぞれあるものを通して〔働く〕ものらである。

16
 さて、このロゴスは、おお、わが子よ、万物は諸作用の只中にあることを帰結させる。もしも、諸作用が身体の内にあり、世界(kovsmoV)の内に多くの身体が〔あることが〕必然なら、諸作用は諸身体よりも数が多いとわたしは謂う。なぜなら、ひとつの身体の内に、付随する一般的な〔諸作用〕のほかに、時々、1つ、2つ、3つの〔作用〕があるからである。本当に身体的な〔諸作用〕のことを一般的な諸作用とわたしが謂うのは、諸々の知覚や諸々の運動を通して生じる〔作用〕だからである。というのは、これらの諸作用なくして身体は存続不可能だからである。ほかの諸作用が人間どもの魂たちに固有であるのは、術知や知識や生活態度(ejpithdeumata)や実践活動(ejnerghmavta)を通して〔働く〕からである。

17
というのは、諸知覚も諸作用に付随する、いやむしろ、諸知覚は諸作用の実現態だからである。

18
 さて、おお、わが子よ、作用<と知覚の>違いを理会せよ。<作用は>上方から送られる。知覚は身体の内にあり、それ〔身体〕から有性を得、作用を受容して、これ〔作用〕を身体制作者のように、明瞭なものとなす。それゆえ、諸知覚は身体的でもあり死すべきものでもあるとわたしは謂うのだ、身体が存続する間だけ存続して。というのも、諸知覚は身体と共に生じ、共に死滅するからである。

19
しかし、不死なる身体は、それ自体としては知覚を有していない、そのような有性から成り立っていないからである。なぜなら知覚は、悪であれ、善であれ、身体に付け加わったもの、あるいはまた逆に、減じられたもの以外のものの徴表には決してならないからである。これに反し、永遠の身体には、<何かが>付け加えられることも減じられることもない。それゆえ、知覚はそれら〔永遠の身体〕の中には生じないのである」。

20
 「それでは、あらゆる身体の中で知覚は知覚するのですか」。
 「あらゆる〔身体の〕中でだ、おお、わが子よ、諸作用はあらゆる身体に作用している」。
 「無魂の〔身体〕にもですか、おお、父よ」。
 「無魂の〔身体〕にもだ、おお、わが子よ。しかし、諸知覚には違いがある。ロゴス的なものらの〔諸知覚〕は、ロゴスとともに生じるが、ロゴスなきものらの〔諸知覚〕は、身体的であるばかりであり、無魂のものらの〔諸知覚〕は、知覚ではあるが、受動的で、増大と減少のみにしたがって生じる。(受動と知覚は、ひとつの頭頂に依存しているが、同じところに集まるのは、まさに諸作用によってである)。

21
これに反し、有魂の生き物たちには、二つの異なる作用が属し、苦しみと喜びであるが、これが諸知覚と受動に付随する。これらなくして、有魂にして最高にロゴス的な生き物は知覚することができない。それゆえまたこれらの形相[受動の形相]は、生き物たちよりもむしろロゴス的なものらを統制しているのだとわたしは謂うのだ。[諸作用は作用するが、諸知覚は、諸作用を闡明する。]

22
ところで、これら〔苦しみと喜び〕は身体的なものであるので、魂のロゴスなき部分によって扇動され、それゆえ両方とも悪しき〔作用〕だとわたしは謂うのだ。なぜなら、喜ぶことは、快楽を伴う知覚をもたらし、それは受動者にとってただちに多くの諸悪の原因となるからであり、苦しみは、より強い苦難や苦悩をもたらす。それゆえにこそ、両者が悪しき〔作用〕であるのは当然なのである」。

23
 「魂と身体との知覚は同じものなのですか、おお、父よ」。
 「どのように理会しているのか、おお、坊よ、魂の知覚とは。魂は非体であるが、知覚は体ではないのか」。
 「<体>です、おお、父よ、知覚、これは体の内にあるのですね」。
 「身体の内に<非体として>それ〔知覚〕をわたしたちが立てれば、おお、わが子よ、魂に等しいものとしてか、諸作用に〔等しいものとして〕それを表明することになる。なぜなら、それらは非体として身体の内にあるとわたしたちは謂っているのだから。しかるに、先に述べられたことからして、知覚は作用でもなく、魂でもなく、何か他の非体でもない。だから、非体ではあり得ないだろう。非体でないなら、体であろう。なぜなら、諸有のうち、あるものは体であり、あるものは非体でなければならないからである」。

2008.10.12. 訳了。


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