抜粋(Excerptum) XIX (XX Scott)
Stobaeus 1. 49. 6, vol. I, p.324 Wachsmuth.

同じ人〔ヘルメース〕の〔書〕。

1
 さて、魂は永遠の可考的有性(nohtikh; oujsiva)であり、思考〔内容〕(novhma)として自分のロゴスを有するものであるが、〔身体と〕交わると、悟性(diavnoia)を界面(aJrmoniva)から引き寄せる、ところが、自然的身体から解放されると、自身が自己にとどまり、自身で自己の可考的世界の内に有るところのものである。そして自己のロゴスを支配し、自己の思考内容(novhma)に等しい運動を、名前に、命にいたる名前に命をもたらすのである。


すなわち、他のものらに、自己〔魂〕の同一性に等しい<あるものを>もたらすこと、これが魂の独自性である。


ところで、命は2つ、運動も2つで、ひとつは、有性によるもの、他は、身体の自然によるものである。そして、前者は類的、<後者は個別的である>。また、有性によるものは自由、後者は必然的である。というのは、あらゆる運動するものは、運動の必然に服するからである。


そこで、<魂を>動かせる運動は、可考的有性(nohth; oujsiva)に対する恋と親和する。なぜなら、魂は非体であり、自然的身体には与らないものだからである。仮に〔魂が〕体を有するとするなら、ロゴをもつことも、思考(novhsiV)を有することもない(あらゆる体は無理性なのだから)、が、有性に与ることで、息する生き物であることを得たのである。


 そして、気息は体に属し、ロゴスは有性に属する。〔後者は〕美の観想者であるのに対し、感性的気息は現象するものらの判定者である。しかし、〔感性的気息は〕諸々の器官としての感性に分割され、そのある部分は気息的視覚、聴覚的気息、嗅覚的〔気息〕、味覚的〔気息〕、触覚的〔気息〕となる。この気息、つまり感性的〔気息〕は、悟性によって生じる類推(ajnavlogon)によって判断するが、さもなければ、表象するにすぎない。


すなわち、万物の受容器官も体に属するが、ロゴスつまり知慮(fronou:n)は有性に属する。したがって、価値あるものらの覚知はロゴスと共在するが、気息と〔共存するの〕は思い(dovxa)である。


すなわち、後者〔気息〕は包摂する世界(kovsmoV)からその作用力(ejnevrgeia)を得、〔魂〕は自己自身から〔その作用力を得る〕のである。

2008.11.03.


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