抜粋 XVI (XVI Scott)
Stobaeus 1, 41, 4, vol. I, p.281 Wachsmuth.

ヘルメースの〔書〕。アムモーン宛て〔文書〕から。

1
 さて、魂は無体の有性であり、体の内にあって、固有の有性性(oujsiovthV)から出て行くことはない。なぜなら、有性にしたがう永遠の動であって、思考にしたがう自動者であるから、何かの内で、何らかの関係で、何らかの目的で、動くことはないからである。というのは、力によって前もってあり、前もってあるものは後から来るものらを必要としないからである。


ところで、あるものの内にあるのは、場所、時間、自然であり、あるものとの関係にあるのは、界面(aJrmoniva)、形相、形であり、何かのためにあるのは身体である。


すなわち、身体のために時間も場所も自然もあるのである。これらが親類的な親しさにしたがってお互いに共通なのは、身体は少なくとも場所を必要とし(場所なくして身体が存立することは無理だから)、自然本性的に変化するが、時間や、自然にしたがう運動なくして変化があることは不可能であり、界面(aJrmoniva)なくして身体の存立はできないからである。


そういう次第で、身体のためにあるのが場所である。すなわち、身体の諸変化を受容して、変化するものが消滅することを放置しないのである。ただ、変化するものは、別のものから別のものへと移行して、状態(e{xiV)を喪失しはするが、合成された身体であることを〔喪失する〕わけではないのである。また、別のものに変化したものは、別のものの状態を得るだけのことである。なぜなら、身体は、身体であって、身体でありつづけるからである。しかし性質は持続しつづけることがない。つまり、身体は状態(diavqesiV)にしたがって変化するのである。


ところで、場所、時間、自然的運動は無体である。


そこで、それらのおのおのは固有の固有性をもっている。つまり、場所の固有性は受容、時間のそれは間(diavsthma)と数、自然のそれは運動、界面(aJrmoniva)のそれは友愛、身体のそれは変化である。また、魂の固有性とは、有性に基づく思考(novhsiV)である。

2008.10.07.


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