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さて、有性であるのは、ロゴスも考え(novhma)も考量(diavnoia)もそうであるが、考量の上には、思い(dovxa)も知覚(ai[sqhsiV)も営まれる。ロゴスは有性のために発せられ、考えはこれ〔ロゴス〕を通して発せられ、考えは考量と組み合っている。そしてこれらがお互いを通して進むことで、ひとつの形相が生じるのが常であるが、これが魂の〔形相〕である。また、これ〔魂〕の考量の上に営まれるのが思いと知覚である。しかし、これらは同じものの上にとどまることはなく、
2
ここから超過し、不足し、自身とも異なる。より劣ったものが生じるのは、考量から引き離されたときである。これに反し、付き従い聞き従うときは、諸々の学びを通して可考的ロゴスを共有する。
3
また、選択(aiJrei:sqai)ということをわれわれは有する。すなわち、より勝れたものを選択するのはわたしたちのためであり、より劣ったものも同様であって、心ならずもである。というのは、選択は諸悪に関わるので、身体的自然に接近することになり、それゆえまた選択する者にとっては宿命(eiJmarmevnh)が主権者になるからである。
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そういうわけで、われわれの内なる可考的有性は絶対的なもの、つまり、可考的ロゴスであるが、それ〔可考的有性〕自体は常に同質にして同様であるから、それゆえに宿命がこれに接することはない。
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しかるに、〔魂は〕第一の神から〔授けられた〕第一のロゴスをそばに押しやり、自然が生成するものらに配置したロゴスすべてを許容する。〔つまり〕魂はこれらを共有することで、その諸々の宿命を共有することになるのである。生成するものらの自然に与るものではないけれども。
2008.10.09. 訳了。