"Hieroglyphika"の成立について


Heinz Josef Thissen
DES NILOTEN HORAPOLLON HIEROGLYPHENBUCH
Band I
Herausgeben und Ubersetzt
K. G. Saur Munchen, Leipzig 2001



[I]
 1419年、イタリアの商人にしてギリシア地方旅行家(Griechenlandreisende)のクリストフォーロ・デ・ブオデルモンティ〔Christoforo de' Buondelmonti〕が、アンドロス島で1編の写本を手に入れたが、これがたちまちのうちに、フィチーノ〔Marsiglio Ficino(1433-99)〕をはじめとする〔イタリアの〕学者たちの関心を大いに呼び起こした。問題の書は、”Ωρου Απολλωνοσ Νειλωιου Ιερογλυφικα”、「Niloten Horapollonのヒエログリフ」という表題を持っていた。これは1505年に原典で――イソップ寓話集とともに――出版された。1512年には、Feder Willibald Pirkheimersからラテン語訳がアルブレヒト・デューラーの挿絵付きで現れた。続く100年たらずの間に、優に30の"Hieroglyphika"の刊本、翻訳、再版が公刊された。こうした関連の中で言及にあたいするのは、1548年にJean Mercierによってギリシア語テキストとラテン語訳の刊本、ならびに、1554年にバーゼルでJohann Heroldによる最初のドイツ語訳(もちろんこれは、ギリシア語テキストの不完全なラテン語訳を底本にしている)が出されたことである。

 この写本が人文主義者たちのサークルに熱狂的に迎え入れられたこと、その影響、あの図像学のジャンルの発展に与えた――われわれが"Hieroglyphik"と呼ぶところの――衝撃……、こういったことをこれ以上ここで縷説するには及ばない。そのことはほかの機会にしばしば、しかも詳細に述べられている。そのかわり、本稿のエジプト学の観点から素描しておくべきは、"Hieroglyphika"はいかにして成立し得たのか、そしてエジプト学、それもドイツにおけるこの学問にいかなる役割を果たしたのかということである。


[II]
 ホラッポロンの"Hieroglyphica"の出発点は研究し尽くされている。ギリシア・ローマ時代の「暗号文書(Kryptographie」は、ヒエログリフの図像文字を利用することに限定されていた。ヒエログリフの数は、飛躍的に増加した。〔すなわちその数は〕中・新王国〔時代〕におけるおよそ1000から、プトレマイオス朝・ローマ時代にはおよそ9-10000に達していた。ヒエログリフ文書、すなわち、記念碑文は、もともとはできるかぎり狭い範囲の形成者にのみ通用するもので、神学的エリート層の玩弄物になっていた。こうしたヒエログリフの暗号文書的な利用は新しいことではなかったが、それが今や、それまでには知られなかった徹底性のもとに利用されたのである。アレクサンドロスによるエジプト侵略、これに続く多数のギリシア人たちの移住と、神官エリート層の「高まる自尊欲求(Distinktionsbed[u]rfnis)」〔自分は他の階層の連中とは違うということを自他ともに認めたい欲求〕が、こうした展開を加速させたと考えられる。これによって神官たちが政治的な権勢失墜を代償しようとしたのだという主張を、わたしは確証のあることとはみなさない。なぜなら、もしもそうだとすると、なにゆえ彼らはすでにペルシアが支配していた時代にそのことを始めなかったのか、そして、「政治的な権勢失墜(politischen Machtverlust)」の問題が、最新の時代になってまったく別の仕方で回答されたのはなぜか、ということが疑問となるからである。また、次の点も見過ごしにはできない、つまり、暗号文書について話ができるのは、ただヒエログリフとの関連においてのみだということである。これ以外にも、神官の書いた伝統的な宗教的な字や、土着の伝統のうちに、あるいはまた、隣国の字形を受け継いだ日用的な字があり、その多様性を先に示し始めていたのである。〔しかしながら?〕ヒエログリフは何よりもギリシア人たちの好奇心を喚起したものであった。神官用ないし日用の諸テクストの研究についてわたしたちは全然、ないしあまりよく知っているわけではない。〔しかし〕ヒエログリフが、図像と象徴から成り立った秘密めいた文字として価値を引き上げられることになったのには、ヒエログリフ固有の適合性とは別に、管見では、より多くの要因が重なったのだと思う。エジプトの神官たちの側からは、よく引き合いに出される「自尊欲求(Distinktionsbed[u]rfnis)」が、ギリシア人たちの側からは、好奇心と、神官たちの発言を信じようとする熱心さ、しかしまた無知と、疑念のなさ、あるいは、外国語を学ぶことに対するきわだった無愛想さが〔あった〕。A. Graftonはそれを次のように表現した。「……ギリシア人たちは古代世界のアメリカ人として、外国人の在り方と異国語をもって、ある意味で、うろつきまわったということ、つまり、彼らは外国で自分たちの固有の言葉をただ単に大声でしゃべり散らしたにすぎないという事情が、権威を求める非ギリシア人たちにとっては、ただただ、彼らの産物の価値を高騰させることになったのである。彼らは主張した、ギリシア語で平凡に響いたり不明瞭に響いたりするのは、原本の訳が不適切だからだ、原本は近寄りがたい聖なる言葉によってとらえられているのだから、と」。周知の通り、この具象的で強烈な図像〔ヒエログリフ〕は例外である。必ずしもよく理解していたわけではないが、ギリシア語作家たちの記述や覚え書きのいくつかがあったからである。〔そのギリシア語作家とは〕例えばヘロドトス、カイレモン、ディオドロス、プルタルコス、アレクサンドリアのクレメンス、そして、――ずっと後代、神聖文字も古代エジプト民用文字(Demotisch)ももはや使われなくなった時代に――ポルピュリオスがエジプト文字と言葉について〔記述した〕。彼らによっては、もっと異なった文字についても言及されている。ホラポッロンの"Hieroglyphika"が発生する母胎は、とりわけ二人の注目すべき発言によって特徴づけられる。これはすでにしばしば引用されたものではあるが、説明と読者にとっての便利さに利するようここに引用する。
1.プロティノス〔204-269〕『Enneades』V_8-6:
 [……]エジプトの知者たちは[……]自分の知恵を示すのに、言葉〔言説〕や諸々の前提を順次くぐり抜ける文字を用いることはなく、まして、音声や言表による教義の模倣を用いることもなく、むしろ彼らが用いるのは図像である、彼らは寺院に図像を彫りこむが、その図像のおのおのが、一定の事物の表象になっているのである。そしてこれによって、わたしの思うに、かの上界においては[すなわち、神々の間では]概念的把握(διεξοδον εμφηναι〔通路が現れること〕)はないということ、むしろそれぞれの図像がかしこにおける知恵であり知識にほかならないということを確実ならしめているのである……」。

2.Ammianus Marcellinus〔c. 330-395 AD〕, Res gestae XVII 4, 10:
 「なぜなら、古代エジプト人たちが書くのは、今日のように、人間精神が何を理解し得たかを表す字母の一定の単純な線ではなくして、むしろ名詞や動詞に代えて個々の図像を用いた。それが時として教義の全体さえ意味したのである」。
 プロティノスからまる200年後、Ammianus Marcellinusから100年後、5世紀の終わり、古代エジプトの文字がいかなる形でも使用されなくなったとき、"Hieroglyphika"が成立したのである。


III.
 表題の完全な中身は、「Niloten Horapollonの"Hieroglyphica"――みずからがエジプト語で出版し、ピリッポスがギリシア語に翻訳したところの」である。この言明は、何人かのエジプト学者たちによって熱心に信じられたのであるが、一連の証拠は、それとは反対のことを物語っていた。何よりも先ず、コプト語の作品をギリシア語に翻訳したことを物語るようなギリシア語の原典的テキストは、わたしの知るところ、ひとつも知られていない。翻訳の向きは正反対である。たいていのコプト語テキストは、ギリシア語から翻訳された。換言すれば、ひとりのコプト人が、したがってキリスト教徒のエジプト人が、ヒエログリフに、したがって非キリスト教徒の先行者の文字に、本気になって関わりを持ったとは、あまりありそうにないことである。こういった外面的論拠に、内面的なことが論拠となる。ホラポッロンの"Hieroglyphica"を研究したギリシア語研究者たち――その中にはとりわけHans Herterが挙げられる――が一致して認めたことは、この作品は初めからギリシア語で著された――コプト語から、ましてエジプト語(古代エジプト民用語)から翻訳されたことを推測させる痕跡はなく、逆である。「わたしは」ないし「われわれは」という形で筆者自身がしばしば登場する。自分は自分の作品をエジプト語から訳したと、自分の作品を説明することは、その主張によって彼は価値を引き上げることができた。このいわゆる「さもありそうな翻訳の手管(Kunstgriff der vorget[a]uschten [U]bersetzung)」は、古典期全体を通じてよく知られていたし、愛好もされていた。ホラポッロンという名前の一人の男は"Hieroglyphica"の著者として想定される、この男の作品に、ピリッポスとかいう者がより広範な「ヒエログリフ」を付け加えたということに対して、絶対的なことは何も言えない。われわれはピリッポスについてこれ以上の消息を知らないけれど、ホラポッロンについては具体的にとらえられそうである。


IV.
 他の箇所ですでにわたしの指摘したことだが、新プラトン主義者ダマスキオス〔c. 468-533以後。アカデメイアの最後の学頭〕の作品が、"Hieroglyphika"にいかなる役割を演じたかが、長い間、エジプト学者に認識されたことがなかった。ほぼ526年ころ、ダマスキオスはプロクロス〔410-485。新プラトン学派の最後の一人といわれる〕の弟子イシドロスの伝記を著した。彼〔イシドロス〕は、主としてアレクサンドリアで教えていたが、皇帝ゼノン〔在位、474-491〕の迫害によって、しばらくの間、アテーナイに身を避けなければならなかった人物である。この伝記は、新プラトン主義の、とりわけ5世紀後半における新プラトン主義者の精神的状況の明白な姿を与えてくれるが、しかし、例えば女哲学者ヒュパティア(415没)の生涯と殺害の描写によって、〔この世紀の〕前半にも該当する。スーダ辞書ならびにポティオスの〔著した〕伝記の中に含まれるイシドロス伝の断片は、1913年、R. Asmusによるドイツ語訳、また1967年、C. Zintzenによる現代の要望に応えた刊本の形で出版された。こういった文献の中で、われわれに遭遇したあまたの人々のなかに、文法家ホラポッロンの一族もまた含まれていたのである。彼は4世紀の最後の年にパノポリスのそばのペネビュティスに生まれ、アレクサンドリアで学んだ。彼の二人の息子、アスクレピアデスとヘライスコスとは、5世紀の後半、哲学者として、またイシドロスの師匠としてその地で活動したが、同時代、古代エジプトの宗教とも結びついていると自覚していた点、伝記が印象深く示しているとおりである。アスクレピアデスにはひとりの息子がいた、これは祖父と同じくホラポッロンと呼ばれ、文法家・哲学者として、父と祖父の作品を継承し、それも同じくアレクサンドリアにいた。こちらのホラポッロンは、Achmim州(Gau)ペネビュティス村(Dorfe)の一役人宛の覚え書きの作成者と確実に同一人物である。この覚え書きは、491-493年の間に作成され、後代の複製(=P. Cairo Masp. III 67295)の中に含まれている。このホラポッロンが"Hieroglyphica"の著者でもあるとみなすことは、わたしの考えではあるが、ダマスキオスの情報と、ギリシア語の覚え書きとから、まったく容認できると思う、そしてこれは多くの研究者たちによっても認められているのである。


V.
 西暦紀元5世紀のこのホラポッロンは、ヒエログリフをまだ知っていたのかどうか、また、〔知っていたとすれば〕どれくらいの範囲でか、という問題は、悩ましい問題である、だからこそ、詳しく扱われねばならない。この関連で通常指摘されるのは、最新の日付のあるヒエログリフ・テキスト("Bucheumsstele"?)と、進行するヒエログリフ文字の衰退であり、〔この衰退ぶりは〕ドミティアヌス〔在位、81-96〕からデキウス〔在位、246-251〕に至る期間、エスナ(Esna)にある寺院の銘刻の中に見て取れる。眼前にある実情はこれだけである。われわれは、語彙表、"Onomastika"、ヒエログリフで書かれたり神官や庶民の書いたテキストが保存されている文献を何ひとつ知らないのである。P. Carlsberg VII、つまり、"Sign Papyrus"とか民用語で書かれたP. Saqqara 27といった類のテクストも、手本と目されているが、ホラポッロンが手許に置いていたであろう何らかの手本を発見できるという望みは薄い。現在J. OsingによってTebtunisから巧妙に公刊されている神官パピルスも同様である。したがって、まったくの憶測にとどまるが、ホラポッロンは、一面では時代の先行者、とりわけカイレモン〔アレクサンドリアのカイレモン。若きネロを教えたとされる〕や、その先駆者のアピオン〔盛時は紀元後1世紀ころ〕、マネト〔盛時は前280年ころ。へリオポリスの高僧〕、メンデスのボロス〔前3世紀ころ、カッリマコスの同世代〕を利用し、他面では、――本質的に不確かなものの――一連の「正しい」ヒエログリフを前にしてみると、民用の・(神官用の)・ヒエログリフの単語帳という形で(そのさい、個々の綴り方について(コプト語による)発音上の記載もそこには含まれていたような)「理想的な手本」があった可能性がある。S. Morenzによれば、二つの体系的原理と、それによる二つのソースをひとは確認できる、そのひとつは徴表(Zeichen)にもとづき、もうひとつは事物(Sache)に基づいて、意味さるべき内容が表される。(第2義的な)上書きの形式(τι〔何〕ないしπωσ〔いかにして〕という形をとる)は、テキストの言い回しと合致している。ここから判断するに、二つのソースは大いに区別して用いられているが、個々の部分自体は、ほとんど区別なく分詞の語法によって始まっている。「XY γραφοντεσ〔彼らはXYを書き表すのに〕(異形:XY βουλομενοι γραψαι〔彼らはXYを書き表そうとして〕)Z γραφουσιν〔彼らはZを書く〕(異形:Z ζωγραφουσιν〔Zの図を描く〕)」。〔しかし〕ソースが明瞭に区別しあえるという印象をわたしは持たない。ホラポッロンは、ヒエログリフの意味の説明――J. Assmannが「世界知(Weltwissenn)」と名づけたもの――を付加した。彼が依拠したのはプラトンであり、アリストテレス、キケロ、プルタルコス、アエリアノス、プリニウスであり、同じく第2巻においては、ピリッポスによって付け加えられた部分は、「彼〔プリニウス〕に由来する後期ヘレニズム文化の伝統――『ピュシオロゴス』や、ありとあらゆる他の動物寓話や植物学や鉱物学の伝統、つまり、エジプト文化のみに根ざすのではない伝統に依拠した……」。この「世界知」の添加によって、ヒエログリフは象徴となり、それは象徴的に説明され、そうすることによって、世界を図像でとらえる道が開けたのである。


VI.
champ.jpg  この藪の中を通り抜ける路、すなわち、ヒエログリフの絵解き・解読法を見つけるのは、今日われわれが知っているとおり、長い道のりであったが、1822年、シャンポリヨン〔Champollion, Jean-Francois, 1790-1832。左図〕が初めてこれに終止符を打った。ここで注目にあたいするのは、シャンポリヨンは、ホラポッロンによって書かれたヒエログリフのうち13のヒエログリフを正しいと認め、このことを1824年に出版した彼の"Pr[e]cis du Syst[e]me hi[e]roglyphique"の中で公表したという事実である。これに先立つ数年前、1813年以来の友人であるオリエント学者Saint-Martin宛の手紙が公刊されたが、これによって、シャンポリヨンが"Hieroglyphika"を、ヒエログリフの判読のためにいかに高く評価していたかが明白となる。これと鋭く対立するのが、ドイツのエジプト学界の評価で、われわれの学問の「祖父」の一人であるA. Erman 〔Erman, Adolf, 1854-1937〕の判定によって刻みこまれてしまった。いわく、「ホラポッロンとかいう名前のもとに通用している後期ギリシア語本がいまだにわれわれに保存されているが、この本は、実際のいわゆるヒエログリフの珍しい解釈という以上のものは含まない。この本を著したやつは、疑いもなく、ヒエログリフのいい一覧を所有していたろうが、その中の個々の象形にその意味をギリシア語で付け加えたが、しかし、おのれの解釈の狂気によって理性的な内容を完全に窒息させてしまった」。いくつか例示したあとで、Ermanはその所見を締めくくる。「……ホラッポロンのこの愚かな本は[……]ずっと生き延びてきたが、それは、まさしく、それほどまでに愚劣であったからにほかならない」。同じく、数年後、「……あの本――古代後期の一人の男が、本物の癲狂院的妄想のせいで、個々のヒエログリフの意味を明らかにしようとした本……」。Ermanの最も重要な弟子Hermann Grapow〔1885-1967〕も、次のように判定した。「この本(つまり、"Hieroglyphika")に含まれるのは、およそヒエログリフの解読といったものではなく……、むしろ相当に愚劣な、いずれにしても若干のヒエログリフ図像を……寓意的に説明するという、あべこべの試みである」。これに対して強調すべきは以下の点である。1)ホラポッロンの"Hieroglyphika"は、それでもやはりヒエログリフの広範な描写を提供しており、それはわれわれにとって古典期からギリシア語の中に保たれている。2)彼の作品がヒエログリフの解読に逆の働きかけをしたことは、これの著者にその責めを負わせるべきではない。そのかぎりにおいて、問題となる作業は、エジプト学の観点からホラポッロンの復権を求めることさえ企てることができよう。


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