T1
SUID. 「ヘーゲーサンドロスの子ミーレートス人ヘカタイオス」の項。
カムビュセースのあと王位を継いだダレイオスの御代に生まれた。このときミーレートスの王はディオニュシオス(III)で、第65回オリュムピア期(520/16)であった。歴史作家(iJstoriogravfoV) 。ハリカルナッソス人ヘーロドトスは、彼より若かったので、彼に裨益された。また、ヘカタイオスはプロータゴラスの聴講生でもあった。歴史を散文でものにした最初の人で、これに対して説話を〔最初にものにした〕のはペレキュデース(I 3)である。アクーシラーオス(2 T7)の作品は偽作だからである。
T2
同上、「ミーレートス人ヘッラーニーコス」の項。
歴史家(iJstorikoV)。『世界旅行記』と『歴史』の〔著者〕。
T3
STRABON XIV 1, 7:
ミーレートス市において言及にあたいする人士は、……タレース、この人の弟子のアナクシマンドロス、そのまた弟子のアナクシメネース。さらにまた、『歴史』を編纂したヘカタイオス。
T4
HERODOT. II 143:
むかし、史伝作家(logopoiovV)ヘカタイオスがテーバイで自分の系譜を述べ、16代目は神につながる家系であると言った時、ゼウスの祭司たちから受けた扱いを、私もほとんどそのまま体験したのであったが、ただし私は自分の家の系譜などを述べたわけではなかった(F300)。
T5
同上、V 36:
そこで彼〔アリスタゴレース〕は一味の者たちと計画をめぐらし、自分の意見を明らかにするとともに、ヒスティアイオスから届いた指令のことなども同志に語ったのである。[2] そのことごとくが離叛に賛成した中に、ひとり史伝作家のヘカタイオスのみは、ダレイオスの支配下にある民族を一々数え上げ、王の軍事力を評価して、ペルシア王に対して戦いを起こすことの不可であることを主張した。しかし自説の通らぬことを知ると、今度は第二案として海上を制する方策を建てるよう進言した。[3] 彼が説いていうには、自分はミレトスの戦力の弱小であることをよく承知しているので、この計画を実現するためには、自分の見るところでは唯一つの方策しかない。即ちブランキダイの神殿から、リュディアの王クロイソスが奉納した財宝を横領することであり、そうすれば制海権を掌握する望みが多分にあると思う。またそうすれば、自分たちが財宝を自由にすることができるのみならず、敵の掠奪を防ぐことにもなるであろう、と。[4] なお、この財宝は莫大なものであった……ヘカタイオスのこの意見は通らなかったが、やはり離叛することときまった。(500/499?)。
T6
同、V 124:
こうして町々は占領されていったが、……〔アリスタゴレースは〕一味のものを集めて相談し、万一自分たちがミーレートスを追われた場合、落ちゆく先が決まっている方がよい、それでその際自分が一味のものを引率してサルディニアに植民地を開いて移るか、あるいは……エドノイ族〔トラキアの1部族〕の国のミュルキノスへゆくか、そのいずれがよかろうかとアリスタゴレースは訊ねた。[125] このときヘーゲーサンドロスの子で、史伝作家であったヘカタイオスの示した意見は、右の2つの土地のいずれにも移住することに反対で、アリスタゴレースがミーレートスを追われた場合には、レロス島に築城して、ここでしばらく逼塞し、やがてここを基地としてミーレートスに復帰をはかる、というものであった。(495/4)
T7
DIODORO. X 25, 4:
ミーレートス人ヘカタイオスは、イオーニア人たちによって使節として派遣されたとき〔ヘロドトス、第5巻36、125以下参照〕、いかなる理由でアルタペルネースは自分たちに不信なのかを問い質したということ。すると相手が、彼らが戦敗してひどい目に遭った〔前494年、ラデの海戦〕ことに遺恨を残しているのではないかと言ったので、「しからば」と彼は言った、「ひどい目に遭ったことが不信のもとならば、いい目に遭うことが、むろん、諸都市をペルシアに好意的となすであろう」と。アルタペルネースはこの言辞を受け容れて、法習を諸都市に引き渡し、定めの貢祖も力に応じて課した。
T8
AELIAN. VH XIII 20:
アルカディアのマガロポリス人で、名をケルキダスという人は、死に臨んで、意気阻喪している家人たちに向かって、〔自分は〕喜んで生から解放されるのだと言った。というのは、智者ではピュタゴラスと、歴史家ではヘカタイオスと、音楽家ではオリュムポスと、詩人ではホメーロスと出会えるという希望があるからだと。そのうえで、言い伝えでは、息を引き取ったという。
T9
同、HA IX 23:
詩人たちや、昔の神話の編集者――この中には史伝作家ヘカタイオスも含まれる(F 24)。
T10
STRABON VIII 3, 9:
ミーレートス人ヘカタイオス(F 25)……昔の史家(suggrafeu:V)たちは、ありもしないことを数多く言う。神話を記述しているために嘘に慣れ親しんでいるからである。そのせいで、同じ事柄についてもお互いに一致することがない。
T11
a) 同、I 1, 1:
哲学者が扱うべき仕事がもしも何かあるとすれば、地理記述(gewgrafikhv pragmateiva)もそのひとつだとわたしたちは思う。……初めて地誌に手を染めようと決めた人々はまさしく哲学者といってよいような人だった。例えば、ホメーロス、ミレトス人アナクシマンドロス、ヘカタイオスがそれで、最後に挙げた人は、エラトステネース(V)も述べているとおり、これもミレトス市民だった。さらに、デーモクリトス(V)、エウドクソス(V)、ディカイアルコス(IV)、エポロス(II)そのほか何人かの人もいる。そのうえ、これ他の人々の後に出たエラトステネース、ポリュビオス、ポセイドーニオス(II)はいずれも哲学者である。
b) ders. I 1, 11:
そこで、さしあたって、ホメーロスが地理記述を始めた人だという点については、上述した範囲で充分だとしよう。他方、詩人の後に従った人々もあきらかに名高く哲学に親しんでいた。なかでも、詩人以後では最初の二人がその例で、エラトステネースによるとアナクシマンドロスとヘカタイオスを指し、前者はタレースと親しかった上に同じ市の市民、後者はミレトス市民だった。また、前者は初めて地図板を著し、後者は一書を遺し、この書は後者が著した別の著書から推して同じ著者の作だと信じられている。
T12
a) AGATHEM. ge. inf. I 1:
ミーレートス人アナクシマンドロスは、タレースの弟子、人の住まいする地を初めて画板に描いてみた。彼の後ではミーレートス人ヘカタイオスが、探険家であったが、事柄を驚くほど詳しく述べた。それから、レスボス人ヘッラーニーコス(4 T13)は、博識家で、作り物でない歴史を伝承した。次いでシゲイオン人ダマステース(5 T4)は、大部分をヘカタイオスの作品から書き写して『周航記』を書いた。続いて、デーモクリトスとエウドクソスと、他にも何人かが、『世界旅行記』『周航記』という題名の書を著した(F 36)。
b) SCHOL. DION. PERIER. p.428, 7 Muell. (EUSTATH. DION p.208, 14):
むかし、何人かの人たちが、人の住まいする地を画板に描いた。最初はアナクシマンドロス、二番目にミーレートス人ヘカタイオス、三番目にタレースの弟子デーモクリトス、四番目にエウドクソスである。
T13
STRABON VII 3, 6:
アポッロドーロス(II)が『軍船目録について』第2巻の前置きとして述べている諸点はけっして当を得た説とは言えまい。なぜなら、〔この著者は〕エラトステネース(V)の主張に賛同するが、後者の主張によると、ホメーロスをはじめとしてそのほか古代の人々はいずれも、ヘッラス人のことは知っていても、遠い地方の人々のことについてはひどく無知だった。……しかしホメーロスについては驚くほどのこともない。というのも、この〔詩人〕よりさらに後代の作家たちでも数多くの点で正しい知識を欠いたまま驚異談を口にしている。まず、ヘーシオドス(F62R2)は「半犬族」「巨頭族」「小人族」を語り、アルクマイオン(F118)は、足に水かきのある人種を、アイスキュロス(F431)は「犬頭族」「胸に眼のついた人種」「一つ目族」[これは『プロメーテウス』の中で謂われている]そのほか数限りない物語を述べたてる。〔アポッロドーロスは〕以上の〔詩人〕たちに続いて、史家たちの方へ歩み続ける。〔これらの史家たちは〕リパイア山脈、オギュイオン山、ゴルゴ姉妹やヘスペリスたちの住み家を語り、また、テオポムポス(II)ではメロピス地方、ヘカタイオス(III)ではキムメリス市、エウエーメロス(63T5)ではパンカイアの地……F194に続く。
T14
AGATHARCHIDES bei PHOT. Bibl. 250 p.454b30:
人の住まいする全地は4つの部分に区分けされる、わたしが言っているのは、日の出の方〔東〕、日没の方〔西〕、熊座の方〔北〕、南中の方〔南〕だが、このうち西方のことを著したのがリュコス(III)とティマイオス(III)、日の出の方のことはヘカタイオスとバシリス(III)、熊座の方のことはディオパントス(III)とデーメートリオス(V)、そうして、南中の方のこと(普通の真実だと彼は謂う)はわれわれである。
T15
a) ATHENAI. II 70A:
ミーレートス人ヘカタイオスは『アシア周遊記』(F291)の中で、もしこれがこの史家の真作とすればだが――というのは、カッリマコス(IV)はこれをネシオートスの作だと書き記しているから――
b) 同、IX 410E:
ヘカタイオス(F358)か、あるいは『アシア誌』という旅行記の著者も明らかにしているとおり。
c) ARRIAN. anab. V 6, 5:
史伝作家のヘーロドトスとヘカタイオス(F 301)。アイギュプトスの大地に関する著作が、ヘカタイオス以外の誰か他の者の手に成ったものなら話は別だが。
T16
STRABON I 2, 6:
……要するに、散文は、それが技巧を凝らした言論であるかぎり、韻文を真似たものである。すなわち、詩文上の技巧が何よりもまず最初に世に広まり評判になった。次いで、これを模倣しながらも、その際に韻律を解消し、そのほかの詩法を保存したうえで、文章を構成したのがカドモス(III)、ペレキュデース(I 3)、ヘカタイオスの一門だった。それから、さらに後世になるほど作家たちは、この種の詩文の技巧を少しずつ排除しながら、散文をいわば一種の高みから今日の形態へ引き下ろした。同じようにして、喜劇もその構成を悲劇から学びながら、悲劇なみの高みから今日の散文体へ引き下ろされたという人があるかも知れない。
T17
a) DIONYS. HAL. De Thuc. 5:
トゥキュディデースについて書き始めるにあたり、その他の著作家たち、すなわち、先達たちや、彼と同時代に盛期をむかえた人たちについて、少しく云っておきたい。このことから、自分より前代の人たちを無視した所以のこの人の意図や能力が明らかになるであろう。いうまでもなく、ペロポンネーソス戦争以前に、古くからの著作家たちが多く、しかも多くの場所にいた。その中には、サモス人エウゲオーン(III)、プロコンネーソス人デーモクレース(III)、パロス人エウデーモス(VI)、ピュゲレー人デーモクレース(VI)、ミーレートス人ヘカタイオス、アルゴス人アクーシラーオス(I 2)、ラムプサコス人カローン、(III)、そしてカルケードーン人**アメレーサゴラス(III)である。ペロポンネーソス戦争より少しばかり前に生まれて、トゥキュディデースの壮年期まで生きながらえたのは、レスボス人ヘッラーニーコス(I 4)、シゲー人ダマステース(I 5)、キオス人クセノメーデース(III)、リュディア人クサントス(III)、その他多数である。この人たちは、前提の選び方において似たような意図を持ち、能力においてそれほど大きな違いを持たなかった。ある者たちは、ヘッラスの歴史を書き上げ、ある者たちは非ギリシアの〔歴史〕を書き上げたが、それらを相互につなぎ合わせることなく、族民ごと、都市ごとに分けて、相互に別々に出版した。彼らはひとつの同じ目的を守っていた。つまり、土地の者たちによって族民ごと都市ごとに守り通されてきた伝統、神殿の中であれ公文書館の中であれ、保管されてきた文書、こういったものが提供されたとおりに、これに何かを付け加えることも差し引くこともなく、全員の共通の知識となるよう持ち出すという〔目的〕である。これらのなかには、遠い昔から信じられてきた神話のようなものや、現在の人々には馬鹿げたことに思えるどんでん返しを内容とする劇的な話も多く含まれている。同じ性格の表現方法を選ぶかぎりの者たちは、たいていの場合、みな同じ文体levxiVに従事するものだ。〔その文体は〕鮮明で、普通で、純粋で、簡潔で、事柄に合致し、技巧的な粉飾をなにひとつ見せびらかせない。それでいて、彼らの作品に一種の若々しさと優美さが、あるものにはより多く、あるものにはより少なく、広がる。この〔文体〕によって、彼らの書き物はさらに生き延びるのである。しかし、ハリカルナッソス人ヘーロドトスは……事柄の選択を大きく広げ……彼以前の著作家たちによって看過されてきた諸徳を文体に持ちこんだ。
b) 同人、同書、23
ペロポンネーソス戦争以前に生まれて、トゥキュディデースの壮年期まで生き延びた人たちは、当時最も花盛りであったイオーニア方言を採用した者たちも、……古いアッティカ方言を採用した者たちも、たいてい、みな同様の意図を持っていた。というのは、この人たちはみな、わたしの謂ったとおり、はなやかな言い廻しよりも正規の言い廻しに熱心であった。とはいえ、その〔はなやかな言い廻し〕をいわば調味として受け継ぎはしたのだが、彼らはみな等しく単純でぶっきらぼうなものとして文の構成に従事し、言い回した思考の格好をつけるときでさえ、使い古された、一般的な、万人周知の言い方から大きく逸脱することはなかった。かくして、彼ら全員の言い廻しは必然的な徳を有し――というのも、純粋さ、鮮明さ、簡潔さをたっぷりと持ち合わせ、言い方のそれぞれが個性を保つ。これに反し付随的な〔諸徳〕の方は、これによってとくに弁論家の能力が際立つのであるが、みなにそなわっているわけでもなく、極端になることもなく、数は少なく程度も薄い、わたしが言っているのは、崇高さu{yoV、優雅さkallirhmosuvnh、印象深さsemnologiva、高尚さmegaloprevpeiaである。そこにはじつに高揚tovnoVもなく、悲壮bavroVもなく、精神を目覚めさせる情熱もなく、強壮さや競い合う気持ちもない。これらからいわゆる力強さdeinovthVが生まれるのであるが。ただし、ヘーロドトスのみは例外である。
T18
HERMOGEN. p. ijd. II 12 p.411, 12 Rabe:
ミーレートス人ヘカタイオス――この人から最も裨益されたのがヘーロドトスであるが――〔の文体は〕純粋にして鮮明で、いくつかの作品においては度はずれて快適でさえある。
T19
DEMETR. De eloc. 12:
表現法のひとつは回帰的と名づけられるもので、例えば周期的なそれで、イソクラテースの諸弁論や、ゴルギアス、アルキダマスのそれのようなものである。すなわち、全体が周期的に続いていって、ホメーロスの詩が六脚韻で続くのと少しも劣らない。もうひとつは一種分離的表現法と呼ばれるもので、節(kw:lon)の終わりにいたるまでばらばらで、けっして相互に連結することがない、ヘカタイオスのそれや、ヘーロドトスの大部分、また総じて古い表現法はみなそうである。この〔表現法の〕事例。(F 1aに続く)……〔このように〕節は相互に重なり合っているかのようで……周期的表現法とは異なり、相互に助け合ってさえいないかのようである。……[14] それゆえ、簡潔きわまりないこの表現法は、
T20
ANONYM. p. u[y. 27, 1:
さらにまた、登場人物の説明をしながら、著者が、突然、脇に押しやられて、素顔の登場人物に立場を変える場合がある。次のような類が、いわばパトスの激発ejkbolhvといったものである。 「このときヘクトール、大声をあげて、トローイエー勢に号令するよう、/船陣に襲いかかるのだ。血にまみれた獲物などほっておけ。もしまたわしが、船から離れて、別なところにいる男を見つけたら、/即座にそいつに死を見舞ってくれよう」(Il. XV 346ff.)。
もちろん、説明の方は、適切なのを詩人は自身に結びつけているが、情け容赦のない豪語の方は、何の前触れもなく突如、この指揮官の気勢に帰しているのである……[2] それゆえ、この話法の好みの使用も、ヘカタイオスの作品にあるように、複数の登場人物から一人の登場人物への移行を、猶予を与えず、すぐに強要する文章に用いるのが適機となる。(F 30に続く)
T21
HERAKLEIT. 12 B 40 Diels3:
博識は叡智(noovV)を得ることを教えない。さもなければ、へーシオドスやピュタゴラスにも、さらにはまたクセノパネースやヘカタイオスにも教えたはずだから。
T22
PORPHYR. b. EUSEB. PE X 3 p.466B:
ヘーロドトスは第2巻のなかで、ミーレートス人ヘカタイオスの『周航記』から、いかに多くのことをちょっと作り変えて、逐語的に転写したことか(F 324)。T 1. 18.を見よ。
AGATHEM ge. inf. I 1:
T 12aを見よ。
T23
AVIEN. or. mar. 32:
〔未訳〕
ERATOSTHENES-APOLLODOROS:
T 10. 11. 13.
AGATHARCHIDES:
T 14。
F24
CLEM. ALEX. Strom. VI 26, 8 p.443, 4 Stãh.:
例えば、メレーサゴラス注1)(III)を剽窃したのは……ゴルギアス……エウデーモス……そして……ビオーン……アムピロコス、アリストクレース、レアンドリオス、アナクシメネース、ヘッラーニーコス、ヘカタイオス、アンドロティオーン、ピロコロス、またディエウキダス……
F25
a) PLIN. NH I 4「下記諸地域の位置、種族、海、都市……外国の典拠著作家」:
ポリュビオス、ヘカタイオス(F 370)、ヘッラーニーコス、ダマステス、エウドクソス……
b) I 5. 6「……外国の典拠著作家」:
ユバ王、ヘカタイオス、ヘッラーニーコス、ダマステス、ディカイアルコス……
c) I 18「以下の穀物の性質……外国の典拠著作家」:
……タレス、エウドクソス、ピリッポス、カリッポス、ドシテオス、パルメニスコス、メトン、クリトン、オイノピデス、コノン、エウクテモン、ハルパロス、ヘカタイオス、アナクシマンドロス、ソシゲネス、ヒッパルコス、アラトス……