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ユバ2世 断片集





[マウレタニア]

mauretania.jpg

 マウレタニア(Mauretania)〔ギリシア語表記はマウルウシア"Maurousia"〕は、北アフリカのアムプサガから大西洋に及び、アトラス山脈の西半分を擁する古王国。現在のアルジェリア西部からモロッコ大西洋岸までにあたり、現在の西アフリカの国名モーリタニア(Mauritania)は、この古称に由来する〔が、位置は違う〕。大部分が岩の多い高地で、ヒツジとわずかなブドウ酒を産する。海岸近くとムールーヤー渓谷、ヴォリュビリス(Volubilis)〔現在のモロッコ、メクネスという都市の北20Kmにあった古代都市〕とサラの平野では小麦とオリーヴができる。主要な輸出品は、ブドウ酒、黒檀などの貴重材、ムラサキ貝の染料である。

 向かいのイベリア半島とは早くから交流があり、海賊行為と入植によって、ヨーロッパとアフリカとを結びつけた。民族的には、ベルベル人種のムーア系に属するが、前8-7世紀には、地中海から大西洋岸にかけて、フェニキア人の交易所ができ、混血している。

 前3世紀の終わりころ、ムーア(マウリ)部族民による王国が形成された。この初期の支配者はバガ"Baga"の名で知られ、軍勢4000を擁し(Livy 19_30.1)、同時代のヌミディア王マシニッサ〔238-148 BC.〕と同盟を結んだ。 ボックスBocchus1世は、西ヌミディアがマウレタニアに併合されたことから起こったユグルタ戦争〔ユグルタJugurthaはヌミディア王、?-104 BC.、ローマで殺された〕に重要な役割を演じた。ボックス1世の後継者Mastanesosusの死によって、前49年、マウレタニアは二分され、その東半をボックス2世が、西半を兄弟のボグドBogudが継いだ。しかし、ローマ帝国内のアントニウスとオクタヴィアヌスとの党争に巻きこまれ、アントニウスの側についたボグドは王国を失い〔前38年頃〕、ボックス2世が〔オクタヴィアヌスの庇護のもとに〕両方を統治した〔ボックス2世は前33年没〕。オクタヴィアヌスは、前25年、これをユバ2世に引き渡し、ユバ2世は首都をイオルIol(Caesarea)と、おそらくはヴォリュビリス(Volubiris)に置いた。

 ユバ2世の息子にして後継者であったプトレマイオス〔在位、AD. 23-40。アントニウスとクレオパトラ7世との間に生まれた双子の姉妹「太陽と月」のひとりクレオパトラ・セレネーと、ユバ2世との間に生まれた〕がローマで暗殺されて、内乱状態に陥ったマウレタニアにローマ国家が介入、クラウディウス帝はこの地を二分して、東部のマウレタニア・カエサレンシス"Mauretania Caesarensis"と西部のマウレタニア・ティンギタナ"Mauretania Tingitana"の 2 属州を設けた。

  3 世紀後半から反乱が相次ぎ,帝政後期には属州としての地位が低下して, 西部地域はヒスパニアの行政管区の下に統轄された。





[ユバ2世]Juba II

 〔ラテン語表記は"Juba"ないし"Iuba"、ギリシア語表記は"Iobas"〕

 ヌミディア王ユバ1世の遺子。前46年、ヌミディアがカエサルによって征服され、捕虜としてローマで養育され、オクタウィアヌス (アウグストゥス) の側近となってローマ市民権を獲得。オクタウィアヌス登極後,その北アフリカ平定計画の一環として従来の土着王権に代わってマウレタニア王位に就けられ、ガエトゥリア (ヌミディア南方) をも支配した。前20年頃、アントニウスとクレオパトラ7世との娘クレオパトラ・セレネーを最初の妻とし、二度目はGlaphyraと結婚した。後23年に亡くなったとき、クレオパトラ・セレネーとの間にできたプトレマイオスが跡を継いだ〔が、後40年、ローマで暗殺された〕。

 ユバ2世はまた学識すこぶる深く、ギリシア・ローマ文化導入に努めた。首都はイオルIol、後にローマ風の首都カエサレア(現在のアルジェリアのシェルシェル)として建設し、西のヴォリュビリスにも第2宮殿を持っていたかもしれない。彼の芸術的蒐集は注目にあたいし、「ガエトゥリア紫」の生産を発展させたが、それは彼の染料の発明に負うものであろう。彼は多くの書物をギリシア語で書いた。作品としては、リビア、アラビア、アッシリアに関するもの、ローマ史、言語・演劇・絵画に関する研究、彼が発見し命名したエウポルビアという植物について……。彼はカナリア諸島への探検隊も組織した。これらの書物はすべて伝存せず、プリニウス、プルタルコスにその引用を眼にすることができるにすぎないが、その影響力の大きさを過小評価してはなるまい。




[底本]
TLG 1452
JUBA II Rex Mauretaniae (Hist.)
(1 B.C.-A.D. 1: Mauretanicus)
3 1
1452 003
Fragmenta, ed. K. M[u]ller, FHG 3. Paris: Didot, 1841-1870: 469-484.
frr. 1-91.
5
frr. 22, 25, 26-29, 31, 35, 39, 39a, 40-65, 67, 68, 68a, 91b-d verba Latina solum.
(Q: 6,294: Hist.)

※プリニウスの引用は、中野定雄の訳を利用させていただいた。




"t1-20"
『ローマ史(Romaike Historia)』

"t1-14"
《第1巻》

断片1
Steph. Byz.:

 原住民"Aborigines"とは、イタリア民族だということは、イオバスが『ローマ史』の第1巻の中で。「トロイア戦争までは、古来の"Aborigine"(ラテン語で、「"Aborigines"という名称」の意)をまもり続けたが、ラティノス〔ラティーニー(Latini)族にその名を与えた祖〕が王支配したとき、そういうふうに〔ラティーニー族と〕命名された」。同じことをカラクス(Charax)も〔言っている〕。

断片2
同 :

 ラビニオン(Labinion)は、イタリアの都市、アイネイアスの建設になる。イオバスが第1巻の中で。王の娘の子ラビニアにちなむ。

断片3
同 :

 オースティア(Ostia)は、イタリアの都市。イオバスが『ローマ史』第1巻の中で。「北方からはティベリス河が〔流れくる〕。近くにオースティアという都市がある」。

 〔ラテン語"ostia"は「口」の意。今も同名、ティベレ河の河口である〕

断片4
Plutarchus Roml. c. 14:

 ある人たちの主張では、〔サビーニー族の女たちのうち〕掠奪されたのは30人だけで、この〔30人〕にちなんで部族(phratria)〔民団(クーリア)〕も名づけられたという。しかしウウアレリオス・アンティアス〔ワレリウス・アンティアース(ローマの南の海岸アンティウムの人、前1世紀の歴史家〕は〔掠奪された処女は〕527人と〔言う〕。またイオバス〔ユバ〕は、〔掠奪された〕処女は683人だと。

断片5
同 c. 15:

 タラシオス〔タラシウス〕を……、ヘッラス人たちが〔婚礼のときに〕ヒュメナイオスを〔讃える〕ように、ローマ人たちは婚礼のときに讃える……たいていの人たち――この中にはイオバスも入っているのだが――は、〔このタラシオスを〕仕事好きと毛糸紡ぎへの呼びかけと掛け声とみなし、当時はイタリア語にヘッラス語の名詞がかぶさってできたという。

断片6
同 Rom. c. 17:

 タルペーイオス〔タルペーイウス、ローマ西部の丘カピトーリウムにある城砦の守備隊長〕もローマ人たちによって裏切りの罪に問われて捕らえられたと、スウルピキオス・ガルバ〔スルピウス・ガルバ、後の皇帝ガルバス(在位、68-69)の祖父にあたる歴史家〕が記録していると、イオバスが主張している。

断片7
Plutarch. Numa c. 7:

 第二に、(ヌウマス〔ヌマ〕は)在来のゼウス〔ユピテル〕とアレース〔マルス〕の神官たちに、ロームロス〔ロムルス〕の〔神官たちを〕第三のものとして付け加え、これをPhlamin Kyrinalios〔フラーメン・クィリーナーリス〕と名づけた。前からあった神官たちをも〔ローマ人たちが〕Phlamina〔ピラーメン〕と呼んだのは、頭につけたピロス〔フェルト〕という帽子――一種のピラメナである――に由来すると、記録している。そのころは、ギリシア語の名詞が今よりも多くラテン語に混じっていたからである。例えば、王たちが身につけたラエナは、イオバスの主張では、クライナのことであり、ゼウスの神官に仕える子どもは、両親そろっているものはカミッロスと言われたが、それは、ヘッラス人たちのある人たちが、ヘルメースをも、〔神々への〕役務ということからカッミロスと命名したからだという。

断片8
同 c. 13:

 (サリウス祭の)盾そのものも、その形からアンキュリア〔(lat.)ancilia〕と〔ローマ人たちは〕呼ぶ。というのは、円くはなく、盾のように湾曲もしておらず、曲がりくねった線状の刻みを有し、その角は屈曲し、互いに密になって反転していて、〔盾の〕形を曲線形にしているのである。あるいは、これをつけるのが肘(ankon)だから〔ともいう〕。これはイオバスが、この名称の語源をヘッラス語に求めたがって、述べたことである。

断片9
Athenaeus III〔98b〕:

 この月が(Phebrouarios〔Februarius〕と)呼ばれるのは、マウルウシア王イオバスの主張では、地下の霊に対する恐怖から、その恐れを祓うことに由来するという、この月は、冬の真っ盛りで、当時、住民たちには、何日もの間、潅酒を注ぐという習慣があった。

 〔ローマの古い暦で2月は年末であり、死者の月・浄めの期間であった。"Februarius"は「浄化する(februare)」の派生語とされる〕

断片10
Plutarchus Qu. Rom. c. 24〔269B〕:

 何ゆえ、〔暦の〕月に3つの初め、つまり、固定日(prothesmia hemera)があり、それらの間の日数の間隔が同じでないのか? 昔は、イオバス一派の人たちが記録しているように、役人たちは朔日(kalendas)に民衆を召喚し、第5日のノニス(nonnas)の間に宣告を出し、中日〔eides〕は聖なる日とみなしていたからか?

 〔ローマ暦の1ヶ月の日数の数え方は、月の初日(kalendis, pl.kalendas)と、第五日(nonis, pl.nonas)〔ただし、3・5・7・10月は第7日〕と、中日(idibus, pl.idus)〔第13日。ただし、3・5・7・10月は第15日〕とを目印の日とし、それぞれの何日前になるかによった。例えば、3月を例にとると、
 3月1日 Kalendis Martiis
   2日 6 Nonis
   3日 5 Nonis
   4日 4 Nonis
   5日 3 Nonis
   6日 Pridie
   7日 Nonis
   8日 8 idibus
   9日 7 idibus
   10日 6 idibus
   11日 5 idibus
   12日 4 idibus
   13日 3 idibus
   14日 Pridie
   15日 idibus
   16日 17 Kalendas Apriles
   17日 16 Kalendas
   18日 15 Kalendas
   19日 14 Kalendas
   20日 13 Kalendas
   21日 12 Kalendas
   22日 11 Kalendas
   23日 10 Kalendas
   24日 9 Kalendas
   25日 8 Kalendas
   26日 7 Kalendas
   27日 6 Kalendas
   28日 5 Kalendas
   29日 4 Kalendas
   30日 3 Kalendas
   31日 Pridie (Kalendas Apriles)
 4月1日 Kalendis Aprilibus〕

断片11
同 c. 89:

 何ゆえ、キュリナリア祭〔Quirinalia〕を馬鹿たちの祭りと名づけるのか? あるいは、イオバスの主張するように、この日を、自分の部族(phratoria)〔クーリア〕を知らぬ者たちに割り当てるからか? あるいは、多忙さや出郷や無知によって、残りの者たちと違って、部族〔クーリア〕ごとのプウルニカリア祭〔Fornacalia〕で供儀しなかった者たちが、この日にその祭礼を受けることを赦されるからか?

断片12
同 c. 4:

 何ゆえ、ほかのアルテミス神殿には当然にも鹿の角を釘付けするのに、アベンティン丘のそれには牛の〔角〕を〔釘付けする〕のか? はたして、昔の出来事を思い起こさせるためか? すなわち、言い伝えられるところでは、サビーニー族のアントローン・クリアティウス(Antro Curiatius)に、見栄えといい大きさといい、他に抜きんでたすばらしい雌牛が生まれた。ある占い師が、彼に託宣して、この雌牛をアベンティン丘のアルテミスに犠牲とした者の都市は、最大となり、イタリア全都市を王支配するよう運命づけられているといったので、この人物はローマにおもむき、雌牛を供儀しようとした。ところが、彼の家僕が、ひそかに王のセルウイオス〔Servius〕に占いの言葉を告げたので、彼〔王〕は神官のコルネーリオス〔Cornelius〕に〔告げ〕、コルネーリオスは、アントローンに、供儀の前にテュムブリス河で沐浴するよう言いつけた。それが吉兆を得んとする者たちの決まりだと〔いうのである〕。そこで彼〔アントローン〕が沐浴のために退出した間に、セルウイオスが急いでその雌牛を女神に供儀し、神殿にその角を釘付けしたという。このことはイオバスもバッローン〔Varro〕も記録している。ただし、アントローンという名前をバッローンは書いておらず、このサビーニー人が言いくるめられたのも、彼の主張では、神官コルネーリオスによってではなく、堂守によってだという。

断片13
同 c. 59:

 何ゆえ、ヘーラクレースの祭壇とムウサたちの祭壇とが共同なのか? はたして、イオバスが記録しているように、エウアンドロスの一統に文字を教えたのがヘーラクレースだからなのか? たしかにこの事実は、尊いとみなされている、友たちや同族に教えたのだから。後には、報酬を得て教えるようになったが、最初に読み書きの学校を開いたのは、スポリオス・カルビリオス〔Spurius Carvilius〕で、この人物は、最初に結婚を破棄したというカルビリオスの解放奴隷である。

断片14
同 c. 78:

 何ゆえ、鳥のうちで「左手」と呼ばれるのが吉兆なのか? ……あるいは、むしろ、イオバスの主張するように、日の出の方向に向いた人たちにとっては、左手に北がくるからか? これこそは宇宙の右手であって、上位であると、何人かの人たちが記している。

 〔右手の優位は、ロベール・エルツ以来の社会人類学の関心事である。松永和人『左手のシンボリズム』(九州大学出版会、2001.3.)は、世俗的な生活分野においては右手が優位であるが、呪術・宗教的生活分野においては、左手が優位とされることに注意を促している〕

"t"
《第2巻より》

断片15
Steph. Byz.:

 ノマンティア(Nomantia)とは、イベーリアの都市。イオバスが『ローマ古代誌』の第2巻で。
 〔"Numantia"、スペイン北中部の古都。前134/33年、小スキピオによって包囲攻略された〕

断片16
Steph. Byz.:

 アルバケー(Arbake)とは、ケルティベーリア〔ケルト−イベーリア〕にある都市、イオバスによる。民族はアルバケー人(Arbakaios)。

断片17
Plutarchus Comp. Pelop. c. 1:

 ポリュビオス派の人たちが言うには、マルケッロス〔マルケッルス〕がアンニバス〔ハンニバル〕に勝利したことは一度としてなく、この人物〔ハンニバル〕はスキピオーン〔の時代〕まで不敗のままでありつづけたように思われている、しかしわたしたちは、リビオス、カイサル、ネポース、ヘッラス史家のうちイオバス王に拠って、アンニバス軍にはマルケッロスによって何度かの敗北と潰走が生じたと信ずる。ただし、それは何ら大きな影響力をもたらすものではなく、かの戦闘においてあのリビュア人〔ハンニバル〕には一種の負けたふり〔"pseudoptoma"、レスリング用語で、負けたふりをして反撃に出る戦法〕が行われたらしい。

断片18
Plutarch. Sulla c. 16:

 アルケラオスはそこ〔ムーニュキア〕から撃退されてカイローネイアへと進撃したので、従軍していたカイローネイア人たちは、〔自分たちの〕都市を見殺しにしないようスッラに頼んだ、〔スッラは〕千人指揮官〔トリブーヌス・ミリトゥム〕の一人ガルビニオス〔ガルビニウス〕を、一軍団をつけて派遣し、カイローネイア人たちにも救援を赦した、〔カイローネイア人たちは〕ガルビニオスの先を越すことはできなかった。それほどまでに、彼〔ガルビニオス〕は、救援することにかけて、救援を必要とする者たちよりも善勇の士であり熱心であった。しかしイオバスの主張では、派遣されたのはガルビニオスではなくて、エリキオスだという。いずれにしても、わたし〔プルウタルコス〕たちの都市〔カイローネイア〕はこれほどの危難を免れたのである。

断片19
Plutarch. Sertor. c. 9:

 〔セルトーリウスは〕アスカリスがその兄弟たちといっしょに逃げこんだティンギスを攻囲した。リビュア人たちの記録によれば、ここ〔ティンギス〕にはアンタイオス〔ポセイドーンとガイアの子。巨人でリビアに住み、通過する旅人に相撲を挑み、勝っては殺し、その戦利品で父神の神殿を飾ったヘーラクレースがヘスペリスの林檎を求めに来たおりに、アンタイオスは負けて殺された。〕が葬られているという。そしてセルトーリウスは、大きさからみて非ヘッラス人たちの言を信ぜず、その墓を発掘した。ところが、身の丈60ペーキュスもある遺骸に遭遇し、言い伝えられるところでは、驚倒して、血祭を執り行ったうえでその墓を埋めもどし、彼〔アンタイオス〕に対する尊崇と伝説をさらに広めたという。ティンギス人たちが語る神話によれば、アンタイオスが亡くなった後、妻のティンゲーはヘーラクレースといっしょになり、二人からソパクス(Sophax)が生まれて、この地を王支配し、都市に母の名をつけた。またソパクスの子にディオドーロスが生まれ、彼は、ヘーラクレースによって同地に定住させられたオルビア人たちとミュケーナイ人たちとからなるヘッラス人たちの軍隊を保有していたために、リビュアの諸民族の多くを征服した。もっとも、これらのことは、すべての王たちの中でも最も歴史の研究に力を注いだイオバスの気に入るようにこしらえられたとみてよい。

断片20
Athenaeus VI〔229C〕:

 すなわち、マケドニア人たちの時代までは、食事をする者たちは陶器によって給仕されたと、わたし〔アイミリアヌス〕の〔国の王〕イオバスは主張している。ところが、ローマ人たちはその暮らしぶりがますます贅沢になり、クレオパトラ〔7世〕――アイギュプトスの王国を崩壊させた――が真似をして暮らしぶりを替えたが、名称は変えることができず、銀器や金器を純陶器(keramon auto)〔陶器そのもの〕と呼び、これを食事客たちに引き出物として持たせたせた。これこそ贅沢の極みということになったのである。


"t21a-b"
『アッシュリア誌(Assyriaka)』

《第2巻》

断片"21a"
Tatianus Or. adv. Gr. c. 58:

 ベーローソスは該博このうえない人物ある、この証人になるのはイオバスで、〔イオバスは〕『アッシュリア誌について』を書くさい、ベーローソスから歴史を学んだと主張している。彼の『アッシュリア誌について』は2巻本である。
断片"21b"
Clem. Alex. Str. I, 21:

 〔ユダヤの〕セデキオス〔ゼデキア〕が王位について第12年、ペルシアの覇権の70年前、ナブウコドノソル(Nabouchodonosor)〔新バビロニア帝国のいわゆるネブカデネザル2世。在位、605-562 BC〕がポイニキア〔フェニキア〕人たちとイウウダイオイ〔ユダヤ〕人たちを攻めたと、ベーローッソスが『カルデア史』の中で主張している。イオバスは、『アッシュリア誌について』を書き、歴史をベーローッソスから受けたことを認め、この人物のために真実なことを証言している。
 〔エルサレム陥落は前587年、この時いわゆる「バビロン捕囚」が起こった〕

断片22
Plinius H.N. VIII, 42:

  Equum adamatum a Semiramide usque ad coitum Juba auctor est.


"t23-39"
《第3巻より》

断片23
Plutarch. Par. m. c. 23:

 イリオン〔トロイア〕攻撃の後、ディオメーデースはリビュアに打ち上げられた。そこの王がリュコスで、外国人たちは父神アレースに供儀するというのが習わしであった。しかし娘のカッリッロエーはディオメーデースに恋し、父親を裏切って、その縛めを解いてディオメーデースを救ったやった。ところが彼は、その恩恵を顧みることなく、逃げ去った。彼女は縊れて命終した。イオバス『リュビア誌』第3巻による。

断片24
Athenaeus III〔83B〕:

citrus24.jpg  アイミリアノスの言によれば、マウルウシア人たちの王イオバスは、博識このうえなき人物で、『リュビアについて』という書物の中で、シトロン(kitrion)〔右図。学名"Citrus Medica"の1種〕に言及し、これはリュビア人たちの間では「ヘスペリアの林檎(melon Hesperikon)」と呼ばれると主張しているという。ヘーラクレースもこれをヘッラスに持ちこんだが、その独特の色から黄金の林檎(melon)といわれた〔その林檎〕にちなんでだというのである。

断片25
Plinius XIII, 29〔92〕, マウルウシアに産する"citrus"〔シトロン〕という木材につて(de citris arboribus Mauritaniae):

 また2つの吊りテーブルがユバ王によって競売に付されたが、そのうちの一つは120万セステルティウスで、いまひとつはそれより少し安く売れた。

断片26
Plinius H.N. V, 1〔14-16〕:

 われわれ自身の時代に執政官〔後66年〕であったスエトニウス・パウリヌスは、アトラス山脈を越えてその先そうとうのマイル数の距離を進んだ最初のローマ司令官であった。その山脈の著しい高さについての彼の報告は、すべての他の大家たちのそれと一致しているが、彼はまた次のように述べている。この山脈の麓の諸地域は、種類のわからない木々の稠密で高い森に満たされている。その木々の幹はとても高く、節がなくて光沢を持った材質が特徴である。重苦しい匂いを除いてはイトスギに似た葉をもち、その葉には細かい羽毛のようなけばがあって、技術の助けをかりれば、蚕から得られるような衣料がそれからつくられると。(その報告は続けて言う)その峰は夏でも雪のふき溜まりに被われている、と。彼は10日間の行進によってこの地点に着いた。そしてその先ゲルと呼ばれる河を越え、ところどころ焼けたのかと思われるような岩が突出している黒土の荒れ野を横切って、暑さのために人間が住めなくなった地域に達した。もっとも彼が踏査したのは冬であったが。彼は述べる。そのあたりの森林にはあらゆる種類のゾウやヘビが充満しており、そこにはカナリイ〔犬の人〕族と呼ばれる種族が居住していて、その名称は彼らがイヌと食事をともにし、野獣の肉を分かちあうことからきている、と。
 次の住民はペロルシ族と呼ばれるエティオピア種族であることはよく確かめられている。プトレマイオスの父ユバは両マウレタニアを支配した最初の統治者で、その王者らしい統治よりも学者としての名声によって著名な人だが、アトラス山についてそれと似たような事実を発表し、それに付け加えて、そこには、その発見者である医者の名をとってエウポルビアと呼ばれた植物〔タカトウダイ〕が生育していると述べた。この植物だけを主題とした書物の中で、彼はこの植物のミルク状の液汁について非常にはでな文句で賛歌を作り、それが視力をはっきりさせるに役立ち、ヘビ咬まれや、あらゆる種類の毒に対する解毒剤であると述べている――アトラス山についてはこれでじゅうぶん、いやじゅうぶんすぎるくらいだ。


"t"
『エウポルビアについて(DE EUPHORBIA)』

断片27
Plinius XXV, 38〔77-79〕:

0142a.jpg  [77]われわれの父の時代にもユバ王は一種の植物を発見し、それに彼自身の医師エウポルボスに因んでエウポルビアEuphorbiaという名を与えた〔右図。学名"Euphorbia resinifera"〕。この人は故アウグストゥス帝の命を救った人としてすでに述べた〔19巻123〕ムサの兄弟であった。……[78]この植物についてのユバの論文も現存しており、これがすばらしい証明書になっている。彼はそれをアトラス山で発見した。それは見たところテュルソスの枝のようで、葉はアカンサスのそれに似ている。その力は非常に大きいので、棒で切りこみをつけ、遠方にいてそこから汁を採取する。それをその下に置いた子ヤギの胃でつくった器に受け入れる。それは液でミルクのように滴り落ちるのだが、乾燥し凝固すると、まったく乳香のような外観を呈する。それの採取者たちは視力が強くなるのを感じる。これはヘビに咬まれたときの治療剤として用いられる。咬まれたのが身体のどの部分であっても、頭蓋の天辺に切りこみをつけて、そこへこの薬を挿入する。[79]これを採取するガエトゥリア人はそれにいやな匂いがあるので、混ぜ物としてミルクを加える。だがそれが純粋であるかどうかは火にかけてみるとすぐわかる。混ぜ物をしたものはむかむかする匂いを放つのだ。

断片28
Plinius VI, 36〔201, 203-205〕:

 [201]……またマウレタニア諸島に関する報告もそれに劣らず曖昧である。それらの少数のものはアウトロレス族の海岸の沖合にユバによって発見され、そこに彼がガエトゥリアのプルプラ〔ムラサキ貝〕を使用して染色工場を建てたことだけが確かだとわかっている。……[203]「幸福の島々」についてユバは次のような事実を確かめた。すなわち、それらはプルプラ諸島の南西の方向、海路625マイルの距離にある。それはコースが250マイルの間真西から北寄りに向けてとられ、それから375マイルの間東へ向けてとられるとしてである。それからまず到着する島はオンブリオス島と呼ばれ、その上には建物のあった形跡がないが、山々に囲まれた水溜まりがあり、巨大なウイキョウに似た木があって、それから水が抜き取れる。黒い木は苦い液を、明色の木は飲むに心地よい汁を与える。[204]第二の島はユノニアと呼ばれる。そこにはたったひとつの石でつくられた小神殿がある。……それからカプラリア島、そこには大きなトカゲが群がっている。そしてこれらの島々から見えるところにニングアリア島〔雪の降る島〕があり、これは絶えず雪が降っているのでそう名づけられ、雲に包まれている。[205]そしてその次に巨大なイヌが沢山にいることからカナリア島〔犬の島〕と名づけられている島(その2頭がユバによって持ち帰られた)がある、と。彼はまた次のように述べている。この島には建物の形跡があり、これらの島々はあらゆる種類の果物や鳥類を十分に産するが、カナリア島はまた実のなるヤシ樹と針葉樹に富んでいる。それに加えて大量の蜂蜜を産し、また川にはパピルスが生育し、大ナマズもいる。これらの島々は絶えず海によって打ち上げられる怪物の腐屍で悩まされる、と。

断片29
Plinius V, 10〔51-53〕:

 ナイル河が発する水源地はまだ確かめられていない。それは事実焼けつくような砂漠を恐ろしく長いこと進むのであるが、すべての他の国々が戦争によって発見されたのと違って、非武装の探検家たちによって踏査されたのである。ユバ王が確かめ得たかぎりでは、この河はその水源を大洋に近い下マウレタニアのある山にもち、やがてニリデスと呼ばれる澱んだ湖を形成している。この湖にいる魚はアラベタ、コラキヌス、そしてシルルス〔ナマズ〕である。また彼の説を証明するためにユバによってそこから一匹のワニが運んで来られ、カエサレアのイシス神殿に誓願の捧げ物として奉納され、今日でもそこに展示されている。かつナイル河はマウレタニアにおける法外な降雪降雨に応じて増水することが観察された。この湖を出た後、この河は不毛の砂漠を流れることを潔しとしないで、数日行程の距離を地下に隠れるが、その後マウレタイニア・カエサリエンシス族のマサエシュレス種族の領地にある今ひとつのもっと大きな湖の中に噴出し、そしていわば人間社会を見渡し、同じ動物相をしていることによってその同一性を証明する。再び砂漠の砂の中に沈んで、さらに20日行程の間を隠れ、ついに最も近いエティオピア人のところまで来る。そしてまた人間が近いと気づくと、一つの泉となって躍り出るが、おそらくこれが黒い泉と呼ばれるものだろう。この地点からこの河はアフリカとエティオピアの境界線を形づくり、河岸のすぐ近くには人は住んでいないが、野獣や生物に富み、森林を育成している。そしてこの河がエティオピアの真ん中を流れるところではアスタプスという名をもっているが、これは土地の言葉で「地下の暗がりから湧き出る水」という意味だ。

断片30
Aelian. N. An. IX, 58:

 イオバスの言によれば、彼の父は巨大なリビュア象を所有し、それは遠い祖先の時代から生き残ったものだという。またプトレマイオス・ピラデルポス〔在位283-246〕もエティオピア象を所有し、それもまた長命で、ひとつには人間たちとの共同生活により、ひとつには生まれたときからの調教によって、すこぶる従順で部類のおとなしさだったという。また、セレウコス・ニカノール〔前358頃-281没。セレウコス朝の創始者〕の所有物であるインド象を〔イオバスは〕歌い、しかも、これはアンティオコス〔アンティオコス1世ソーテール、ニカノールの子、在位、前281-261〕一族の治下まで生きながらえたという。

断片31
Plinius H. N. VIII, 5〔14-15〕:

 またユバは(象に)恋慕された香料売りの娘について記録している。こうした事例のすべてにおいて、この動物は愛する者を見るとよろこんで、その不恰好な親愛の身振りをすることにより、また公衆から与えられた枝をとっておいて、それらを愛する者の膝の上にぱらぱら落とすことによってその愛情を示したのである。また記憶を持つ動物は愛情をも持ちうるということはあえて驚くに足らぬことだ。というのは、同じ著者が、ある象が多くの年月経って老年になっても、彼の若かったときの象使いを記憶していたという事例、そしてまた一種正義に対する明察というようなものをもっているという例をも記録しているからだ。すなわちボックス王が罰を加えようと考えた30頭の象を杭に繋ぎ、それと同数の象の群の前にさらしておいて、人々がその群の間に駆けだしていって彼らをけしかけて攻撃させようとしたが、ほかの残忍行為の手助けに奉仕させることはできない相談だとということがわかった。

断片32
Plutarch. De sollert. an. c. 17〔972B〕:

 象たちは賢明にも共同性を示すと、イオバスが主張している。例えば、狩人たちは彼ら〔を狩る〕ために落とし穴を掘って、細い薪や軽い木屑で上を被っておく。こうして、1頭が落ちると、多数の象がいっせいに駆けつけ、残りのものたちは木材を運び、石を投げこんで、こうして落とし穴の空隙を埋め、落ちた象が這い出しやすくするのである。さらにまた〔イオバスが〕記録しているところでは、象たちは、教えられたわけでもないのに、神々に対する祈りもあげるため、海で沐浴し、太陽が昇ると、まるで手のように鼻をさしあげて、鳴き声をあげると。そういうわけで、この動物は神もすこぶる愛したもうと、プトレマイオス・ピロパトール〔プトレマイオス4世。在位、前221-204〕が証言している。すなわち、アンティオコス〔3世?。在位、前223-187〕が制覇して、神(to theion)を華々しく讃えたいと望んで、祝勝の生贄として他にもおびただしいを供儀したが、4頭の象たちをも捧げた。ところが、その夜、その供儀が不吉であるとの理由で、神が怒りをもって彼を脅迫している夢を見たので、多数の宥めの供え物をし、血祭にした象たちの代わりに、4基の青銅の象を奉納したのである。

断片33
Plutarchus 同 c.25〔977E〕:

 象たちが、落とし穴に〔物を〕運んで、土手を築いて落ちた仲間を救出するという話は、友よ、おそろしく異常で、異国ふうではあるが、イオバスの書物にあるこの話は、あたかも勅令によってのごとく、信ずることを命ぜられているのだ。〔この話は〕真実であるからして、陸生動物の最も知的なものの多くは、共同性と賢明さの点で、海棲動物に何ら後れをとらぬことを示しているのだ。

断片"34a"
Philostratus De Vit. Apollon. c. 13:

  イオバス――かつてリビュア族の支配者であった――が主張しているところでは、昔、リビュアの騎兵たちは、ゾウ(そのあるものには、「歯」に刻み込みを入れられた塔を有し、あるものにはなかった)に乗ってお互いに会戦した。夜になって戦いが中断すると、彼の主張では、刻みを入れられたゾウたちは負けて、アトラス山に逃げこんだという。しかし、長さにして400年後、彼は逃げたゾウの1頭をとらえたが、そのゾウには刻み込みの穴があり、時の経過によってもまだすっかりは摩滅していなかったという〔ゾウはそれほど長命なのだ〕。
 このイオバスは、「歯」のことを「角」とみなしている。それは、それがちょうどこめかみにあたるところから生え、他方と研ぎ合わせられることはなく、生え出たままにとどまり、いったん抜け落ちると、歯と違って再び生え替わることはないことによる。
断片"34b"
同 c. 15:

 わたしはイオバスの書中に見出せり、すなわち、狩りにさいして彼ら〔人間と象〕は互いに援けあい、〔象の背から〕転落した者の前に立って防ぎ、これを引き上げると、アロエの汁を傷口に塗布し、医者のように看病するという。  

断片35
Plinius H. N. VIII, 4〔7〕:

 彼ら(象)の持っているもので略奪品として望ましい唯一のものは彼らの武器、それをユバは「角」と呼んでいるが、……ヘロドトスが……「牙」と呼んでいるものである。

断片36
Ex Juba sua hausit etiam Aelian. N. An. VII, 23:

 過去に自分に不正した相手に対して、ライオンは次のような仕方で自衛する。たとえ、その場で相手に報復しないとしても。
  それからずっと、後々思いをはらすまで、おのが胸に怨みをいだきて。〔Il. I_82〕
 このことの証人は、マウルウシア人イオバス〔ユバ1世〕――ローマ人たちの人質になった人〔ユバ2世〕の父親である。かつて、離反したある種族を攻めるため、荒野を馬駆けていたとき、彼の馬副(うまぞえ)役のひとりの若者――生まれもよく、若盛りで、すでに狩り好きとなっていた――が、たまたまライオンが道ばたに現れたので、投槍を放った、目標に命中し、傷つけたが、殺すまでにはいたらなかった。獣は立ち去ったが、進撃を急いでいたので、傷つけた若者も他の者たちも、そのままやり過ごした。ところが、まる1年経って、イオバス〔1世〕はめざした目的をはたし、同じ道を引き返して、ライオンがたまたま傷つけられた同じ場所に来かかった。すると、部隊はおびただしい人数であるにもかかわらず、くだんのライオンが向かってきて、ほかの者たちには見向きもせず、1年前に自分を傷つけた若者を捕まえ、先に述べた期間ずっといだき続けていた怒りを集中させて、若者を見分けて引き裂いた。仕返しをする者が誰ひとりなかった、ライオンの強烈な、恐ろしいほど圧倒的な怒りに恐れをなしたからだ。ほかには、前進が先だったからでもあるが。

断片37
Pollux V, 88:

 されど我は発見せり……象がラッパのような声を発することをイオバスの著作に。

断片38
hesychius:

 "Libyphoiten"〔"Libyphoites"の対格。直訳すると、「リビュア通い」の意〕とは? リビュアに来訪した者のことである。イオバス〔による〕。


"t39-67"
『アラビアについて(DE ARABIA)』
(ET VICINIS REGIONIBUS)〔および、隣接諸地域〕

断片39
Plinius H. N. VI, 96:

 [96]しかしこれらの国々(sc. カルマニア、ペルシス、アラビア)についての詳細な説明に進む前に、オネシクリトスがアレクサンドロスの艦隊を率いて、インドからペルシスの内部へと回航した後に報告し、またつい最近ユバが詳細に述べた事実を示し、それから最近確かめられ現在従われている海路について述べるのが適当である。
 オネシクリトスとネアルコスの航海の記録は、公の停泊地についても、航行距離についても述べていない。そして第一に、アレクサンドロスによって建設され、彼らの出発点であったクシュリネポリスの市の位置についての十分明確な説明も与えられていないし、その市がその河畔にあった河についても示されていない。[97]にもかかわらず、これは述べる価値のある次の箇所箇所について記している。ネアルコスが航海中建設したアルビスの町、航行できるアルビウム河、アルビスに向かい合って70スタディアムのところにある島。この民族の領土にレオンナトゥスがアレクサンドロスの命によって建設したアレクサンドリア、使用できる船着き場のあるアルゲヌス、航行できるトンベルム河、その近くにいるパリラエ族。それから魚食種族、それはある海岸の非常に広い面積を占めていて、海路それをよぎるには30日を要する。「太陽の島」とも「ニンフの寝床」とも呼ばれる島、そこの土壌は赤色で、その上ではすべての動物が例外なく死ぬのだが、その原因は確かめられていない。オリ種族。[98]停泊地を与え金を産するカルマニアの河ヒュクタニス。旅行者に大小熊星座が見え始めるのはここであること、大角星が全然見えない夜があり、見えても終夜は見えないということ、ペルシア王の支配がこの地点まで及んでいること、銅、鉄、砒素、そして赤鉛がここで採掘されていることを書き記した。次にカルマニア岬があり、そこからそれを横切って5マイル行くと、反対側にアラビア種族のマカス族がいる。3つの島があり、そのうち、本土から25マイルのオラクタ島だけが真水の供給があり、人が住んでいる。[99]湾のただ中、ペルシスの海岸の沖に4つの島がある――それらの近くで艦隊は並んで泳いできた長さ20キュービットの海ヘビどもに脅かされた――アラドゥス島、ガウラタエ島、両者ともギュアニ種族が住んでいる。ペルシア湾の中ほどに商船が航行できるヒュペリス河、シティオガヌス河、それを遡ること7日でパサルガダエがある。航行可能のプリュスティムス河、無名の島。グラニス河、これはかなりの船を運ぶが、スシアネを貫流していて、その右岸にアスファルトをつくるデクシモンタニ族が住んでいる。ザロティス河、その河口は、それを熟知している者でなくては航行は難しい。それから2つの小さい島。次に来るのは沼のような浅い水のひろがり、それでもそこはある水路を通って航行できる。エウフラテス河の河口、カラクスの近くにエウラエウス、ティグリス両河によってつくられた湖水、それからティグリス河にによってスサに達する。[100]彼らは三ヶ月の航海の後、そこでアレクサンドロスが祝宴を張っているのを発見した。それは彼がパラタで彼らにわかれてから七ヶ月めであった。これがアレクサンドロスの艦隊が辿った道筋であった。……
 [124]ネアルコスとオネシクリトスは、エウフラテス河は、ペルシア海からバビロンまで412マイルの間航行可能だと報告している。しかしその後の著作者たちは、セレウキアまで440マイルが航行可能であると言い、ユバはバビロンからカラクスまで175マイル半航行できると言う。
断片"39a"
Solin. c. 60:

  Indis omnibus promissa caesaries, non sine fuco caerulei aut crocei coloris. Cultus praecipuus in gemmis/ nullus funerum appa- ratus. Praeterea, ut Iubae et Archelai regum libris editum est, in quantum mores populorum dissonant, habitus quoque discrepantissmus est. Alii lineis, alii laneis peplis vestiuntur/ pars nudi, pars ob- scaena tantum amiculati, plurimi et flexibilibus libris circumdati.

断片40
Plinius VI, 32〔156〕:

 それから深く入り込んだ湾〔アカバ湾〕、その岸にラエニタエ族が住んでいて、その湾に名を与えた。彼らの首都はアグラで、湾の沿岸にはラエアナあるいは他の人々がアエラナと呼ぶ町がある。湾そのものの名がわが国人たちによって「ラエアニの」と、他の人々によって「アエラニの」と書かれたが、アルテミドロスはその名を「アラエニの」と、ユバは「レアニの」とした。カラクスからラエアナまでのアラビアの周囲は4665マイルに及ぶといわれている。もっともユバは、4000マイルよりわずかに少ないと考えている。

断片41
Plinius VI, 33:

 [165]ラエアニ湾〔アカバ湾〕を後にするとアラビア名をアエアスといういまひとつの湾〔スエズ湾〕があり、その沿岸にヘロオンの町がある。以前はまたネリ河とマルカデス河の間にカンビュセスの市があった。これはカンビュセスの軍隊に属していた病弱者が入植させられたところであった。次に来るのはテュロ種族とダネオイ港で、この港から、ナイル河がデルタと呼ばれるところへ流れこむ地点までこの河と紅海の距離である62マイル半の間、船の通う運河を通じようとの計画があった。この計画そのものはエジプトのセソストリス王によっていだかれたものだが、後にペルシア王ダリウス、それからまたプトレマイオス2世によっていだかれ、彼は実際幅100ペス深さ30ペスの溝を「苦い泉」にいたるまでの34マイル半の間を通じたのである。[166]彼は洪水を恐れてそれをさらに延ばすことを思い止まった。というのは、紅海の水位はエジプトの土地より3キュービット高いことが確かめられたからだ。ある人人はその計画のこういう放棄の理由を取り上げず、海から水を引くと、エジプトへの飲用水の唯一の供給源であるナイル河の水を汚す恐れがあったからだと言っている。にもかかわらず、エジプトの海からの旅行は常に陸路により三つのルートがあった。ひとつはペルシウムから砂漠を横切るもので、このルートでは風が足跡をただちに消してしまうので、道を発見する唯一の方法は砂に立てたアシの列について行くことであった。[167]いまひとつのルートはカシウス山の2マイル先に始まって60マイル進んだ後、ペルシウムからの道に合する――この道筋に沿ってアラビア種族のアウタエイ族が住んでいる。そして第三のルートはアギプスム道と呼ばれるものでゲルムから出発し、同じアラビア種族の間を通ってゆく。これは60マイル近いあれた山地である。それに水かい場がない。これらのルートはすべてアルシノエ〔現在のスエズの近く〕に通じているが、この市はプトレミオアス・ピラデルポスによってカランドラ湾岸に建てられ、その妹にちなんで名づけられたのだ。この王は初めて穴居族の国を徹底的に踏査し、アルシノエのそばを流れる河に自分の名を与えたのである。[168]すぐ次にくるのは小さい町アエヌム――これにピロテリアエという名を与える著作者もいる――それからアサリ族、これは穴居族との混血から生じた獰猛なアラビア種族である。次にサピリネとスキュタラの両島、それからアイノスの泉のあるミュオソルモスまで広がっている砂漠、エオス山、イアンベ島、多くの港、ベレニケの町、これはピラデルポスの母にちなんで名づけられたもので、コプトゥスからそこまでの道路についてはすでに述べた。そしてアラビア種族のアウタエイ族とゲバダエイ族。[169]穴居族の国、これは以前ミドエと呼ばれたがミディオエと読んだ人々もあった。「五指山」「細首諸島」と呼ばれるいくつかの島々、ほぼ同じくらいの数のハロネシ諸島、カルダミネ島、トパゾス島、これはその名をあの宝石〔トパーズ=黄玉〕に与えている。多くの島のある一つの湾、そのうちマトレオス諸島と呼ばれる島々は泉を持っているが、エラト諸島と呼ばれる島々には水がない。これらの島々には以前国王によって任命された総督がいた。内陸にはカンダエイ族がおり、これはその地区に特別多く産するヘビを食べることを習慣にしているのでオピオパギ〔「ヘビ食い族」の意〕と呼ばれる。[170]これらのことをきわめて慎重に探求したらしいユバは(彼の著書の写しに誤謬がないとすれば)、その地区にあるベレニケと呼ばれ、「黄金」という異名をもつ、いまひとつの町について、そしてまた地峡にある第三のベレニケについて述べていることを省略した。この第三のベレニケは長く突出している地峡にあり、そのところで紅海の口になっている地峡がたった7マイル半の間隔でアフリカをアラビアから引き離しているというその位置のゆえに珍しい。ここにキュティス島があって、ここでもトパーズを産する。

断片42
同 VI, 34:

 [174]〔アフリカのインド洋岸、アバリトス湾に続いて〕それからディオドルスの島その他無人島、そしてまた本土に沿って広がる砂漠、ガザの町、モシュリテス岬と同名の港、後者は肉桂の輸出港である。これがセソストリス王〔エジプト第12王朝センウスレト3世〕が兵を進めた最遠の地点である。……[175]ユバはモシュリテス岬で大西洋が始まり、北西の風に乗ずればマウレタニア人の王国の海岸をガデスまで航行できると主張する。そして話のこのところで彼の説全部を省略するというわけにはゆかない。彼はインド領〔実際はアフリカ〕にある、ギリシア語で「狭い頭」と呼ばれ、他の人々からは「小さい鎌」と呼ばれる岬からまっすぐに、「焼島」を経て「マリカスの島」までは1500マイル、そこからスカエネイと呼ばれるところまでは、225マイル、そしてさらにそこからサダヌス島までは150マイル、大海までは1875マイルであるとの見解を発表している。[176]すべて他の大家たちは、太陽の熱が紅海を不可能にしており、その上、売るために運ばれてくる品物そのものが、島に住んでいるアラビア種族の掠奪にさらされていて、それらの連中は、一対のふくらました牛皮の上に材木をのせて筏をつくり、  毒矢を用いて海賊をするのでアスキタエ族〔ギリシア語のアスコス「酒の革袋」から〕と呼ばれているという見解をいだいていた。ユバはまた、狩猟が巧みで、異常に敏捷なためジャカル狩族と呼ばれているいくつかの穴居種族について、また海棲動物のように泳ぐことができる魚食族について、それからまた、バンゲニ族、ザンゲナエ族、タリバエ族、サクシナエ族、シレカエぞく、ダレマエ族、そしてドマゼネス族についても語っている。[177]ユバはその上、シエネからメロエにいたるナイル河畔に住んでいる住民はエティオピア種族ではなく、アラビア種族であると、またわれわれのエジプトのついての記述の中で、メンフィスから遠くないと語った「太陽の市」は、アラビア人がその建設者であったのだと述べている。それから先の河畔は、ある大家によってエティオピアからもぎ取られてアフリカにつけられている。(しかし彼らは水のために両岸に住んでいる。)しかしわれわれはこの点については、読者が自分自身の意見をつくるに任せよう。そして両岸の町々を、……報告された順序で列挙しよう。……
[179]ユバの説明はこれ〔ビオンの説明〕と違う。彼の言うところでは、エジプトとエティオピアの間に「大城壁」と呼ばれる城砦都市があり、そのアラビア名はミルシオスである。それからタコンプソン、アラムム、セサモス、ピデ、マムダ、土瀝青の泉の近くにコランビス、アモドタ、プロスダ、パレンタ、マニア、テッサタ、ガレス、ゾトン、グラウコメ、エメウス、ピディボタエ、エンドンダコメタエ、天幕に住む遊牧種族たち、キュスタエペ、小マガダレ、プルミス、ヌプス、ディケリス、パティンガス、ブレウェス、新マグス、エガスマラ、クラムダ、デンナ、カデウス、マテナ、バッタ、アラナ、マクア、スカンモス、ゴラ、そしてこれらの場所の沖合にある島々の上にアバレ、アンドロカリス、セレス、マロス、そしてアゴケスがある。  [180]アフリカ側にあるところとして挙げられているのはタコンプソス(前に述べたものと同名のいまひとつの町であるか、あるいはその郊外でもあるか)、モゴレ、サエア、アエドサ、ペレナリアエ、ピンディス、マガッサ、ブマ、リントゥマ、スピントゥム、シドプト、ゲンソエ、ピンディキトル、アグゴ、オルスム、スアラ、ラウマルム、ウルビム、ムロン(ギリシア語でヒュパトンと呼ばれる町)、パゴアルタス、ザムネス(ここから象が発見されはじめる)、マンブリ、ベレッサ、コエトゥムである。(また以前メロエと向かい合ってエピスと呼ばれる町があったが、ビオンが書く前に破壊されてしまった)。

断片43
Plinius H. N. V, 10〔59〕:

 この河〔ナイル〕はシュエネ〔アスワン〕におけるエティオピア国境で初めてエジプト領に入る。シュエネは周囲1マイルの半島の名で、そこのアラビア側に宿営地があり、沖には4つのピラエ諸島がある。そこはナイル河が2つの水路にわかれ、すでに述べたように、その先端でデルタという島が始まる場所から600マイルある。 この距離はアルテミドロスによるものだが、彼はまたこのデルタには以前250の町があったと述べている。しかしユバはその距離を400マイルとしている。

断片44
同 VI, 31〔138-141〕:

 [138]カラクスの町はペルシア湾の最奥に位置し、そこからアラビア・エウダイモン〔豊かなアラビア〕と呼ばれる地域が突出している。これは、右はティグリス河、左はエウラエウス河の間の両河が合流する地点に人工的につくられた丘の上にあり、その地は幅が2マイルある。元の町はアレクサンドロス大王により、そのとき破壊された王都ドゥリネから連れてこられた移民と、彼の軍隊の、そこに残された病弱者で建設されたものだ。彼はそれがアレクサンドリアと呼ばれるよう、そしてとくにマケドニア人に割り当てた自治区は、彼の生地にちなんでペラエウムと呼ばれるよう命じた。[139]元の町は2つの河によって破壊されたが、その後シリアの第五代の王アンティオコスによって再建され、彼自身の名が与えられた。そして再度それが破壊されたとき、付近のアラビア人の王サグドドナクスの息子スパオシネスによって復興され、彼の名が与えられた〔スパシス・カラクス〕。この王がアンティオキアの太守であったとユバが述べているのは誤っている。スパオシネスは、その町を守るために堤防を築き、それに接する土地の、長さ6マイル、幅はそれよりすこし少ない面積の上に地盛りをした。この町は本来海岸から10スタディアムのところにあって、自身の港をもっていたのだが、ユバが彼の本を出版したときには、50マイルも内陸にあった。[140]現在では、それの海岸からの距離は、アラビアの使節およびそこから来たわれわれ自身の商人の述べるところでは、120マイルあるという。世界のどこにも、河によって運ばれてきた土砂がこんなに遠く、こんなに速く海に侵入したところはない。そしてもっと驚かされることは、海水がこの地点をはるかに越えて寄せる際に、その沈殿物を押し返すということがないことである。  [141]わたしは、カラクスが、世界の地理を取り扱った最近の著作者で、故アウグストゥス陛下によって、同皇帝の長男が、パルティア人、アラビア人に対抗して指揮をとるためアルメニアに進もうとしていた際、それについての十分な記事を書くために、前もって東方へ派遣されたディオニュシオスの生地であることに気がつかなかったわけでもないし、また、わたしの書物の冒頭において、いずれの著述家も自分自身の国を記述するときが最も正確であるように思われるという見解を述べたことを失念したわけでもない。しかしここの節においては、わたしの意図は、ローマ軍と、ユバ王が上述のガイウス・カエサルに捧げた著作で、同じアラビア遠征について記述したものを手引きとするにある。

断片45
同 VI, 32〔149〕:

 それからアスクリアエ島、ノカエティ、ズラジ、ボルゴディの諸族、遊牧民カタレイ族、そしてキュノス河。ユバによれば、その側〔アラビア側〕のその先の航海は、岩礁が多いためまだ探査されていないという。ユバはオマニ族の町バトラサウァウエ、昔の著作者たちがカルマニアの有名な港であると認めたオマナの町、それからまたわが国の商人たちが、今ではペルシア湾で最も人の集まる港だといっているホムナとアッタナについて述べていることを略している。カニス河〔キノス河〕の後ろには、ユバによれば、焼けたように見える山、エピマラニタエ種族、それから魚食人、……。

断片46
同 32, 4〔10〕:

 アウグストゥスの息子ガイウス・カエサルに捧げたアラビアに関する書物の中で、ユバは、そこにはその殻に3ヘミナも入るイガイがいること、長さ600フィート幅360フィートのクジラがアラビアの河に入ったこと、商人たちはその脂を商ったこと、そしてその地区のラクダには、ウシバエがその匂いのため寄りつかないように、どんな魚でもかまわずその脂肪をからだじゅうにこすりつけること、を述べている。

断片47
同 VIII, 13〔35〕:

 エティオピアは、高さが20キュービットもあって、インドのそれに匹敵する象を産する。ただ一つの驚くべきものは、ユバに、彼らにはたてがみがあると信じさせたものをもっていることである。エティオピアで象を飼っている種族はアサカエア人と呼ばれている。こういう話がある。この種族に属する海岸地方では、象が四、五頭ずつ繋がって一種の筏をつくり、頭を持ち上げて帆の役目をさせ、波の上を運ばれていって、よりよいアラビアの牧草地に到達するのだ、と。

断片48
同 XXXI, 15〔18〕:

 ユバはトロゴデュタエ族のところにはインサヌス〔狂気の湖〕という湖があるが、それはその悪い特性からそう名づけられていて、そこには20キュービットほどの長さの白ヘビがいっぱいいて、毎日昼間に3回、夜に3回その水が苦くなり、そしてまた真水に返ると言う。さらに、アラビアには大変な激しさで噴出する泉があって、その中へ持ちこんだものはどんなに重いものでもすべて投げだしてしまうと言っている。

断片49
Plinius VIII, 45〔107〕:

 ユバが述べているところでは、エティオピアではマンティコラも人間の言葉を真似るという。

断片50
同 XII, 34〔67〕:

 〔没薬の木の〕葉はオリーヴに似ているが、もっとしわがあり先端が尖っているという。もっともユバは、それはオルサトゥルムの葉に似ているといっているが。

断片51
同 XII, 31〔56〕:

 ユバ王はその書物を、アウグストゥスの息子で、アラビアの名声で想像力がたきつけられていたガイウス・カエサルに献呈したが、その中で、その木〔乳香樹〕は、幹はよじれ、葉はポントスのカエデに酷似しており、アーモンドのような樹液を出すと述べている。彼は言う。こんなふうに述べられた木はカルマニアやエジプトでも見かけ、エジプトへはプトレマイオスけがそこを統治していたときその権勢によって導入されたものだと。

断片52
同 XII, 〔38〔78〕-〕40〔80〕:

 [78]またアラビアには外国の香料に対する驚くべき需要があって、外国から輸入される。……したがって彼らは、エリュマエイ族〔西イランにいた〕のところからブラトゥス材を取り寄せる。……[79]彼らはまたカルマニアからストブルスの木を輸入して消毒用の燻しに用いる。それはヤシ酒にひたされたのち燃やされる。煙は天井から床へと環流する。それは心地よい匂いがある。しかしそれは頭痛を引き起こす。といっても苦痛であるほどひどいものではないが。[80]それは病人の催眠剤として用いられる。これらの地方の交易のために彼らはカルハエの市を開放した。この市はこれらの地方の市場なのだ。以前は誰でもこのカルハエから20日間の旅であるガッパへ、そしてシリアのパレスティナへ赴いたものである。しかしその後、ユバによれば、彼らは香料交易のために、カラクスへ、そしてパルティア王国へ向かい始めたという。しかしわたし自身の見解では、彼らはそれらの商品をシリアあるいはエジプトへ持ってゆく前にも、ペルシアへ運んで行ったものだ。このことはヘロドトスによって証明される。彼は、アラビア人は1000タレントの香料を1年分の貢物としてきちんとペルシア王に納めていたと記している。

断片53
同 XIII, 7〔34〕:

 またアラビアではヤシは気分が悪くなるほど甘い味があるという。もっともユバは、天幕居住のアラビア人の領地に生育するヤシで、彼らがダブラスと呼んでいるものを、味の点ですべての他の種類よりも愛好すると述べている。

断片54
同 XIII, 9:

 Thebaidis fructus extemplo in cados conditur cum sui ardoris anima: ni ita fiat, cele- riter exspirat: marcescitque non retostus furnis. Ex reliquo genere plebeiae videntur. Syri et Iuba tra- gemata appellant.

断片55
同 XV, 28:

 ユバの述べているところでは、アラビアではアルブツスの木は50キュービットの高さにもなるという。

断片56
同 XII, 52:

  Iuba tradit circa Tro- glodytarum insulas fruticem in alto vocari Isi- dis crinem, corallio similem, sine foliis: praecisum mutato colore in nigrum durescere: quum cadat, frangi. Item, alium qui vocatur charitoblepha- ron, efficacem in amatoriis: spathalia eo facere et monilia feminas: sentire eum se capi, durarique cornus modo, et hebetare aciem ferri. Quodsi fe- fellerint insidiae, in lapidem transfigurari.

断片57
同 XXV, 5〔14〕:

 ユバも、アラビア人である人が、一種の植物によって甦らされたと記録している。

断片58
同 XII, 22〔39〕:

 この木に対する彼ら〔テュロス島民〕の名前は綿の木である。それはまたこの島から10マイル離れたテュロス小島にはもっとたくさん生育している。ユバの言によれば、この灌木のまわりに綿毛が生えていて、それでつくった織物はインドのリンネルより優秀であるという。彼はまた言う。キュナスという名のアラビアの木があって、それから布がつくられるが、その木はヤシの葉に似た葉をもっているという。

断片59
同 XXXIII, 40〔118〕:

 ユバは、辰砂はカルマニアにも産すると報告しているし、ティマゲネスは、エティオピアにもあると言っている。

断片60
同 XXV, 22:

  Sandaracham et ochram Iuba tradit in insula Rubri maris Topazo nasci.

断片61
同 XXXVI, 9:

  In Arabia quoque esse lapidem vitri modo translucidum, quo utuntur pro specularibus, Iuba auctor est.

断片62
同 XXXVII, 9〔24〕:

 ユバは、水晶はアラビアに面する紅海のネクロン〔死人〕と呼ばれる島、およびその近くにあるカンラン石を産する島でも産すると証言している。そこでは、彼によると長さ1キュービットもある水晶がプトレマイオスの士官ピュタゴラスによって掘り出されたという。

断片"63a"
Plinius XXXVII, 18〔69〕:

 キプロスのスマラグドゥスに次いで喜ばれるのはエティオピアのそれである。ユバによれば、それはコプトスから25日行程のところで発見されるもので、明るい緑色をしている。ただし疵もなく一様の色をしているのはめったにない。
断片"63b"
同 〔73〕

 ユバは、クロラ〔緑色〕として知られているスマラグドゥスは、アラビアで家屋を飾る象眼として用いられ、エジプト人がアラバストリテスと呼ぶ石も同様であると言っている。ごく最近のわが国の権威者たちは、タイゲストゥス山で採掘されるものでメディア種に似たラコニア・スマラグドゥスのみでなく、シチリアで発見されるそれについても語っている。

断片64
同 XXXVII, 32〔108〕:

 ユバはトパゾスというのは本土から35マイル離れた紅海にある島であると言っている。彼によると、その島は霧に包まれている。したがって水夫たちはそれを探さなければならないことがよくある。そしてそれがこの石がその名を得た所以である。というのはトログトディテ〔穴居族〕語でトパズィンというのは探すという意味だから、という。ユバは次のように記している。この石は、総督フィロがプトレマイオス2世〔ピラデルポス〕の母ベレニケ王后への贈り物としてそこから持ってきたところ、王がいたくそれを嘆賞したので、その後この王の妻アルシノエのために高さ4キュービットのカンラン石の像がつくられ、そして彼女の名をとってアルシノエウムと名づけられた神殿に奉納された、と。

断片65
同 XXXVII, 35〔114〕:

 インドは……またニリオスを産する。……ユバは、エティオピアでニルス河〔ナイル河〕としてわれわれに知られている河の岸にできるので、そのためこういう名がついているのだと記している。

断片66
Aelian. N. A. XV, 8:

 そもそも、最善なのはインド産(真珠)であり、エリュトライ海〔紅海〕産〔真珠〕である。しかしまた、西の大洋――そこにはブレッタニア〔ブリテン〕島がある――でも見つけられる。ただし、これは見た眼にいくぶん黄金色をしているように思え、くすんだ光と陰りを有している。さらにイオバスの主張では、ボスポロス海峡でも産するが、ブレッタニアのそれよりも小さく、インド産やエリュトライ産のそれには、いかようにも較ぶべくもないという。しかしインドの陸真珠は、固有の自然本性を有しているのではなく、水晶(krystallos)――寒さに凍結したそれ〔氷〕ではなく、掘り出されるそれ――の産物だと言われている。

断片67
Plinius IX, 56〔115〕:

 ユバもこういうことを記している。アラビアには歯の細かい櫛に似ていて、ハリネズミのように剛毛を突き立てて、その肉の部分に雹に似たまぎれもない真珠をもつ貝があると。


"t"
『自然究理(PHYSIOLOGA.)』

断片68
Fulgentius Myth. II, 4:

  Concha etiam marina pingitur (Venus) portari, quod huius generis ani- mal toto corpore simul aperto in coitu misceatur, si- cut Iuba in Physiologis refert.
断片"68a"
Plinius X, 61〔126〕:

 またディオメデスの鳥を見逃すわけにいかない。ユバはそれをカタラクタ(catarracta)と呼び、またそれには歯があり、眼は燃えるような赤色で、そのほかは全部明るい白色であると報告している。

 〔ギリシア語"katarraktes"は"急降下するもの"の意。アリストテレス『動物誌』509a4, 615a28から、オオトウゾクカモメ(Catharacta skua)とされる。Cf. Aristoph. Av. 886。ただし、羽毛は褐色なので、ユバの説明とは合わない。カツオドリのことではないかとも云われる〕

断片69
Geoponic. XV, 2:

 リュビア人たちの王イオバスの主張では、ミツバチたちは木の箱の中でこしらえられねばならないという。

断片70〔欠番〕


"t71-72"
『絵画術と肖像画家たちについて』
"t"
《第2巻》

断片71
Harpocratio 「ポリュグノートス(Polygnotos)」〔前490頃-460頃活動〕の項。

 肖像画家ポリュグノートスについて、生まれはタソス人、アグラオポーンの息子にして弟子、アテーナイの市民権を得たが、それはストア・ポイキレーに無料で絵を描いたためか、あるいは、別の人たちが云うように、テーサウロスやアナケイオーンの壁画を描いたからである。このことは、ほかの人たちも記録しているが、アルテモーンも『肖像画家たちについて』の中で、イオバスも『絵画術について』の中で〔記録している〕。


"t"
《第8巻より》

断片72
Harpocratio:「パッラシオス(Parrasios)」〔前430頃-390活動〕

 パッラシオスが肖像画家だということは、万人に明らかである。イオバスは『肖像画家たちについて』第8巻の中でこの人物に関することを詳述し、彼はエウエーノールの息子にして弟子、生まれはエペソス人だと主張している。


"t73-82"
『演劇史(Theatrike Histria)』
《第4巻より》

断片"73a"
Athenaeus IV(175d):

 さらにまた「三角(trigonon)」と呼ばれる楽器も、イオバスが『演劇史』第4巻の中で主張しているところによれば、シリア人たちの発明品であることは、リュロポイニクス・サムビュケーと呼ばれる楽器と同様であるという。
断片"73b"
Hesychius:

 サムビュケーとは、イオバスが言及しているとおり楽器であるだけでなく、ビトーンが〔言及している〕ように攻囲用の兵器でもある。
断片"73c"
同〔Athenaeus 175e〕:

 すなわち、イオバスが上述の著書の中で主張しているところでは、一本管の笛(monaulos)は、ポーティンクス(photnx)と呼ばれるものと同じく、オシリスの発明品だとアイギュプトス人たちは言っているという。

断片74
Hesych.:

 "Klopeia"とは、舞踏の一種だと、イオバスが『演劇史』第4巻の中で。


"t"
《 第17巻》

断片75
Photius cod. 161:

 イオバス王の『演劇史』第17巻から。

断片76
Schol. Aristoph. Thesmoph. 1175:

 非ヘッラス・ペルシアの舞踏は"oklasma"と呼ばれるが、これについてはイオバスが『演劇史について』の中で長広舌をふるって、セレウコスの問題が解決されるまでにいたっている。というのは、ペルシアの踊りを敷衍して、ゼーノーンに対する問題にまで及ぼしているからである。〔?〕

断片77
Athenaeus IV〔183c〕:

 プサルテーリオン(psalteion)とは、イオバスの主張によれば、キュテラ人アレクサンドロスが、弦の数を増やしたもので、彼はまたエペソス人たちの都市で老後を過ごしたので、自分の術知において最高の知であるこの発明品をアルテミス神殿に奉納したという。また、ユバ王はリュロポイニクスにもエピゴネイオン(epigoneion)にも言及し、後者は今日では直立型の竪琴(psalterion)に改良されているが、利用者の命名はそのままであるという。ところでエピゴノスは、生まれついたのはアムブラキア人だが、市民となったのはシキュオーン人である。このうえなく楽才のあった人物で、撥を使わずに手で弾奏した。

断片78
Proverb. Appendix I, 56:

 "blityri"と"skindapsos"。これらは虚字〔単なる付け足し語〕であり、慣用語である。しかしイオバスは、"skindapsos"とは楽器、"blityri"は腸線〔弦楽器の弦〕に似たもののことだと言う。

断片79
Athenaeus IV〔177〕:

 エリュモス笛のことには、カッリアスが『足枷をはめられた者たち』の中で言及している。しかしユバは、これはプリュギア人たちの発明品である、管の類似から棒笛(skytaleia)とも名づけられると〔言っている〕。キュプロス人たちもこの笛を使っていると、若い方のクラティノスが『テーラメネース』の中で主張している。

断片80
同 IV〔182e〕:

 ユバの主張では、子鹿の脚からこしらえられた笛は、テーバイ人たちの発明品だという。

断片81
同 I〔15a〕:

 "phaininda"と呼ばれたのは、毬遊びする人たちが〔毬を〕当てること(aphesis)に由来する。あるいは、この遊びの発明者が、マウルウシア人イオバスが主張するように、体育教師(paidotribes)パイネスティオスだったからか。だからアンティパネースも、「"phaininda"をしに、パイネスティオスのとこにおまえは行く」。

断片82
Athenaeus XIV〔660d-661d〕:

 『アッティス』第1巻の中でクレイデーモスは、料理人(mageiros)たちが職人としての栄誉をになった階級を形成していることを説明し、たいていの仕事も彼らに影響を受けると云っている。イオバスの主張によれば、アテーニオーンも『サモトラケー人たち』の中で、以下のように料理人を自然究理家として紹介しているというが、それも理由のないことではない。

  A:おぬしはご存じないのか、料理術は何よりも
   総体として、最も多く敬神(eusebeia)にかかわるものだってことを?
 B:それほどのものなんですかい?
 A:さよう、異邦の方よ、
   獣じみた盟約なき生すなわち
   嫌悪すべき共食い(allelophagia)からわれわれを
   解放して、一種の秩序正しさへと導き、
   現在われわれが生きているような生活を課したのですからのう。
 B:どんな仕方で?
 A:心を傾注してくだされ、さすれば、拙者がおぬしに指南して進ぜよう。
   共食いとおびただしい悪があったときに、
   人間という愚者ならざる者が生まれ、
   犠牲獣を供儀せんとて、初めて、その肉を焙りたり。
   しかして、その肉が人間の肉より美味なりしゆえ、
   お互いに噛み合うことはやめ、肥えた家畜をば
   供儀するに焙るようにはなれり。かくて、ひとたび美味の
   体験といったものを持ったゆえ、これが初め〔"arche"、原理の意もある〕となって、
   ますますこの料理術をは発展させたり。
   ここからして今もなお、昔の仕来りを心にとどめ、
   神々のために内臓を火に焙るのである、
   塩は加えずにのう。けだし、まだおらなんだのじゃ
   そういう〔塩の〕用途を見つけだした者は。
   しかし後になって、彼らの気に入ったれば、
   以後は塩も加えるようになった、〔とはいえ〕神事が布告されたときは、
   父祖伝来の仕来りを守っておる、これこそがわれわれ
   皆にとっての救済の初め〔"arche"、原理の意もある〕ゆえにのう、
   そしてさらなる術知愛は、調味によって、
   ますます料理術を発展させておるのじゃ。
 B:こいつぁ、パライパトス〔昔話〕様の再来じゃ。
 A:その後、腸詰めというものを
   時の経過の中で早くも導入した。
   仔山羊をとろ煮にした、蒸し焼きで包んだ、
   ミンスミートで調律した、グレープシロップで拍子をとりつつ、
   隠し味は、魚とも見えぬ魚、
   野菜、高価な薫製魚、挽き割り麦、蜂蜜。
   わしが今申した美味のおかげで、いかに遠く、
   各人はなおも死人を喰らうことから離れ、
   万人が互いに共生することを願い、われわれは
   集まって群れをなし、都市が居住するところとなったのも、
   この、申したとおり、料理術のおかげなのじゃ。
 B:すばらしい、あんたこそ、ご主人の足にぴったりの方!
 A:祭式を創始したはわれわれ料理人、供儀を始めたはわれわれ、
   潅酒を始めたはわれわれ、というのは、神々はとりわけて
   われわれに耳を傾けたもうゆえ、そのわけは、
   美しく生きることにとりわけ直結している事柄、
   これをば見つけだしたゆえに。
 B:敬神のことは打っちゃって、もう話はやめにしてくだされい。
 A:これは、したり!
 B:さぁさ、こちらへ、どうか、わたしといっしょに入ってくだされ、
   そして、中にあるものをとって、準備してくだされ。



"t83"
『エピグラム詩(EPIGRAMMA)』

断片83
Athenaeus VIII〔343e-f〕:

 "opsophagos"〔「おかず食い」の意。おかず(opsos)=魚から、「魚好き」、さらに「美食家」の意に。ギリシア人の魚好きは有名〕であったのは、アルゴスの悲劇作家レオンテウスもそうで、彼はアテニオーンの弟子であったが、もとはマウルウシア人たちの王イオバスの家僕であったとは、アマラントスが『〔演劇用〕天幕(skene)について』の中で主張しているところであるが、〔レオンテウスの〕『高き大門の都(Hypsipyle)』の審判を駄作と下されたとき、イオバスが彼に対して次のようなエピグラム詩を書いたと〔アマラントスが〕主張している。
  悲劇作家レオンテウスのキナラ〔Cynara Scolymus〕食いの習性(ethos)よ、われを
  見つめるなかれ、『高き大門の都(Hypsipyle)』の駄作の心(etor)を見よ。
  かつてわれはバッコスの友たりし者、余人の声もわたしの声ほどには
  黄金に飾られし耳もて愛でたまわざりし。
  されど今は、三脚釜、陶器、乾いた深皿がわれの
  声を奪えり、胃袋に懇ろにせしわれゆえに。


"t84-85"
『類似物(HOMOIOTHETES)』

断片84
Athenaeus IV〔170e〕:

 この「卓飾り(trapezokosmos)」〔給仕〕というのが、「卓作り(trapezopoios)」というのと同じかどうかも、探求しておかなくてはならぬ。というのは、イオバス王は『類似物』の中で、「卓飾り(trapezokosmos)」は、ローマ人たちによって「(ギリシア語表記"strouktor"。ラテン語表記"structor")」と呼ばれるものと同じだと主張し、アレクサンドロスの劇――これには『酒盛り(Potos)』という表題がついている――を引用している。
  明日までに俺は、笛吹女をつかまえにゃならん。
  "trapezopoios"に仕出屋(demiourgos)もつかまえよう。
  そのためにご主人が俺を田舎に差し向けただ。
 "trapezopoios"と呼ばれていたのは、食卓そのほか食事万端をきちんと進行させる役目の者のことだったのだ。


"t"
《第15巻より》

断片85
Hesych.:

 "Karte"とは、ヒマティオンの1種。イオバスの著作『類似物について』第15巻による。


"t86-88"
『堕落した語法について(PERI PHTHORAS LEXEOS)』"t"
《第2巻より》

断片86
Photius et Suidas:

 "Skombrisai"とは、イオバスによる『語法の誤用』の第2巻に登場し、乱暴な遊戯の一種で、足の甲で相手の腹を音が出るぐらい叩くというのを意味する。

断片87
Etym. M:

 ディオニュソス(Dionysos)……ある人たちは、彼がニュッセーの王となったことから、デウニュソス"Deunysos"と〔云う〕。インドイ人たちは王のことを"deunos"と言うと、イオバスが。

断片88
Hesych.

 "Briges"とは、ある人たちはプリュギア人たち(Phryges)のことだと〔云う〕。ある人たちは非ヘッラス人たち(barbaroi)のことだと〔云う〕。またある人たちは文法的破格者たち(soloikistai)のことだと〔云う〕。しかしイオバスは、"Brix"〔"Briges"の単数〕はリュディア人たちによって自由民と言われていることを明らかにしている。


"t89-91b"
典拠不明(SEDIS INCERTAE.)

断片89
Hesych.:

 キュリキアス"Kylikias"とは、個人〔名〕、地〔名〕に由来する。イオバスによる。

断片90
Hesych.

 "Terebinthos"とは、都市(polis)。イオーブ(Iobasi)による。

断片"91a"
Herodian.:

 カノーボス"Κανωβοσ"。この"βοσ"のように、〔語尾が〕2つ以上の音節で終わる場合、語尾から2番目の音節にオーメガ(ω)をとるものは〔他に〕なく、"Κανωβοσ"だけである。例えば、イオバスの書にある非ギリシア語の名詞ナボーモス"ναβωμοσ"〔語義不明〕は、〔語尾は〕ミュー"μ"で書かれているのである。
断片"91b"
Servius ad Verg. Aen. V, 522 [obiicitur]:

  Superius (IV, 549) de his particulis secundum Iubam artigraphum tractavimus.
断片"91c"
Ad lib. IV, 549 Servius ita:

 Ob naturaliter brevis est sicut et RE et AD/ sed plerumque producuntur hac ratione: obicio, reicio, adicio/ i habent vocalem sequentem quae per declinationem potest in consonantem transire/ ut objeci, rejeci. Ergo etiam antequam transeat, interdum fungitur officio consonantis, et praecedentem loangam facit.
断片"91d"
  Priscianus De metris Terent.:

Iuba ideo in secundo et quarto et sexto loco iambos non recepit nisi a brevi incipientes, quia in his locis feriuntur per coniugationem pedestrium metrorum. Et vult extrema pars pedum iambicorum celerior esse quomodo et ipsi iambi.

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