アッティス
(ΑΤΘΙΣ)
Atthisとは?
「アッティス(Atthis)」とは、後期アレクサンドリアの学界において、アッティカ地方史を内容とするギリシアの歴史書に対して付与されたジャンル名である。この、※1神話的な王クラナオス(Kranaos)の娘に由来する名称〔ストラボン『世界地誌』第9巻1章18〕は、分類上の必要から、おそらくは※2カッリマコス(Callimachos)によって考案されたらしい。しかし、おのおのの作品の著者自身は、先祖記(Protogonia)、アッティカ誌(Attika)、アッティカ書(Attike Symgraphe)などさまざまな表題をつけるか、あるいは表題なしで書いている。
このジャンルが確立されたのは、〔パウサニアスはクレイデーモスによってだというが(X_15_5)〕、じっさいは前5世紀後半、ヘッラーニーコスによってである。前4世紀には、ごく一般的に用いられ、クレイデーモス、アンドロティオーン、パノデーモス、そしてたぶんメランティオスなどの「アッティス作家」を輩出した。前3世紀に著作したデーモーンとピロコロスは、最後・最高のアッティス作家である。アッティス作家の最後の典型はイストロスが挙げられる。
アッティスの構成は年代記風で、神話的時代は伝説的な王名表により、前683/2以降は、紀年のアルコーンにもとづいて表される。後者の場合、紀年のアルコーンの父姓ないし出身区名がつづき、「この人物の年に、かくかくのことが起こった」という形で表される。見出しの範囲内で、史実が年代記風に配列されるが、事件ないし原因と結果との間の関係を示す役には立たない。アッティスの内容は典型的な地方誌で、宗教的儀式や文化の起源、地名の語源、地誌、民族誌、財務や政治的体制の創設など、多岐にわたる。要するに、アッティスは神話的空想と正確な歴史的事実との混交物であり、特に後者は、歴史家自身の時代に密着していた。文体は「単調にして、読者にとって我慢ならない」(Dion. Hal. Ant. Rom. I_8. 3)ものであった。口調は愛国的で、狂信的なところもあった。
アッティスのまじめな研究は、ヴィラモヴィッツがアリストテレースの『アテーナイ人たちの国制』の情報源としてこれを紹介したことに始まる。フェリックス・ジャコビは、アッティスを歴史編修の独立したジャンルに昇格させた。とはいえ、個々のアッティス作家は、自分の政治的イデオロギーを擁護するために書いたという彼の主張は、アテーナイの国制がもっている偏向を説明しようとするひとつの努力であった。最近は、アッティス作品が有する学術的な意味に力点が置かれている。
※1「神話的な王クラナオス(Kranaos)」
半人半蛇であったというアテーナイの初代王ケクロープス(Kekrops)の跡を継いでアッティカの王となった。それにちなんで、アテーナイはクラネー(Kranae)と呼ばれていたが、一人娘アッティス(Atthis)が若く未婚で死んだので、以後、その名が地に与えられ、アッティスの地=アッティケー(Attike)と呼ばれるようになったという。
アッティス〔アクテス・テア、つまり「岩だらけの海岸の女神」〕にはクラナエー〔Kranae 「石の多い女」〕とメナイクメネー〔Menaikmene 「岩の多い岬」〕という姉妹がいたという〔アポロドロス、第3巻14_5〕。とすると、Atthisはアッティカにおける三面相の女神の呼称で、断崖の頂で行われるパルマコスのような祭式に関係していたのかもしれない。
なお、キュベレーの恋人のアッティスは"Attis"で、日本語では表記が同じになってしまうが、原語では綴りが異なる。
※2「カッリマコス(Kallimachos)」〔c. 270 B.C.〕
キュレーネーの人、詩人、学者、文学史上の最重要人物。キュレーネーの建設者バットスの一門(Battiades)〔Epigr. 35〕と自称し、またそう信じられている。祖父は将軍であった〔Epigr. 21〕。彼の盛時はプトレマイオス2世〔285-246 BC〕と、プトレマイオス3世〔246-221 BC〕に及ぶ〔Suda〕。彼が言及しているのは、前279年のケルトの侵入〔Hymn 4. 171ff.; fr. 379〕、プトレマイオス2世の后アルシノエ1世の結婚(c, 275)と離別(270? 268?)、前246/5年のラオデキア戦争などである。
カッリマコスは一生の間におよそ800巻以上を書いたと言われる〔Suda〕。彼の作品は多数の作家によって引用され、膨大な数の引用文として伝存する。
Atthis 作家たち
- ヘッラーニーコス(Hellanicos)〔c.480-395 B.C.〕
レスボスのヘッラーニーコスは、神話作家、民族誌家、歴史編纂者として著名。彼は、ヘカタイオスに始まるイオニア歴史学(historie)の伝統を受け継いだにすぎぬが、ギリシャ歴史学の発展に対する影響力の点では、ヘロドトス、トゥキュディデースに匹敵するといわれる(Gell. NA 15. 23)。すこぶる多作家であったが、現在200編余の断片が伝存するのみである。
五編の神話作品(歴史としての神話の研究)――『Phoronis』『Deukalioneia』『Atlantis』『Asopis』『Troika』――は、彼以後の学問研究に決定的な影響を与えた。すなわち、てんでんばらばらの神話の集積を校合し統合して、ひとつの筋の通った、しかも時間の流れに沿って構成された話にまとめるという、この独創的活動が古典期の伝統全体に与えた影響は、計り知れない。
民族誌(住民や地方の研究)の作品は、もっと広範で、ギリシア世界(テッサリア、ボイオティア、アルカディア、レスボス)から非ギリシア世界(エジプト、キュプロス、スキュティア、ペルシア)に及ぶ。しかしながら、これらの作品があまり影響力をもたなかったのは、ひとつには独創性がなかったこと、ひとつには、ヘロドトスの作品の影響力に圧倒されたためである。
彼の他の関心領域は、世界共通の年代記であった。そこでヘッラーニーコスは、カルネア祭の優勝者の名表や、アルゴスのヘーラ神殿の女神職の在位表などを使用する開拓者となり、ギリシア史の共通の年代基準を確立しようとした。。
後に、彼はアテーナイにおいて自分の総知を結集して、アッティカ地方誌(Atthis)の創出にとりくんだ。ここで年代の基準にしたのが、神話的な王の王位承継順と、紀年のアルコーン表であった。彼のアッティスは〔トゥキュディデースは『アッティカ記(Attike Syngraphe)』と呼んでいる(I_97)〕、2巻本に、ペロポンネソス戦争の終わりまでの全アテーナイ史を含んでいる。その語調はアテーナイの民族的プロパガンダに影響されている。トゥキュディデースはヘッラーニーコスを批判したけれども、ヘッラーニーコスが用いたヘーラ神殿の女神職の在位表を使っている箇所がある〔II. 2_1, IV.133_2〕。
- クレイデーモス(Cleidemos or Cleitodemos)〔fl. 378-340 B.C.〕
専門的な神事解釈者(exegetes)。古代においては、最初のアッティス作家と考えられていた(Paus. 10. 15_5)。彼の著作は『プロトゴニア(Protogonia)』と題された。これは4巻以上はないと考えられ、最初の2巻は神話的時代から前683/2までの期間を含む。他のアッティス作家と同様、民主制的・愛国的傾向を示す。彼の作品はプルタルコスに引用されているのみならず、アリストテレースにも知られていたが、歴史時代に関してはアンドロティオーンの『アッティス』に取って代わられた。
- アンドロティオーン(Androtion)〔c. 410-340 B.C.〕
「四百人」の一人であったアンドロン(Andron)の子で、富裕な為政者にしてアッティス作家。政治に従事(c. 385 B.C.)する前、イソクラテスのもとで学んだ。政治家としての長い経歴は、二度の評議員(bouleutes)、財務官、同盟市戦争期間アモルゴスのアルケシネの総督(358-356 BC)、カリアのマウソロスのもとへの使節(355/4 B.C.)を含む。354/3年、政敵によって違法提案のかどで告発され、その弁論のひとつをデーモステネースが書いた(Dem. 22)。何らかの理由でメガラに亡命中に亡くなった(344/3 B.C. 以後)、その間に『アッティス』8巻を著した。
他のアッティス作家に比して、同時代の事件を扱うことが多く、後半の5巻は404-c. 340 B.C.の期間に言及している。彼の作品はピロコロス『アッティス』のおもな源泉となったのみならず、アリストテレース『アテナイ人の国制』の情報源のひとつである。
- パノデーモス(Phanodemos)
アテナイ人のアッティス作家、歴史家Diyllosの父。前344/3年に評議員であったところから、少なくとも374/3 BC より前に生まれたと考えられる。343/2年に、デーモスへの奉仕に対し花冠を受けている。しかし彼の関心は政治よりも祭礼にあり、とくにオロポスのアムピアラオスの祭礼に熱中した。『アッティス』9巻を書いたが、断片が残るのみである。
- メランティオス(Melanthios)
おそらく、アテナイの神事解釈者(exegetes)。少なくとも2巻以上ある『アッティス』を著したが、地震のことを記した断片が残るのみである。エレウシスの秘儀についても書き、これは3断片が残る。最も興味深いのは、メロスのディアゴラスに言及していることである。盛時は前350年から前270年の間に比定されている。
- デーモーン(Demon)〔fl. c. 300 B.C.〕
少なくとも4巻はあるアッティスの作者。伝存する断片の内容はすべて王制の期間に属し、歴史的というよりもむしろ考古家としての関心を示している。逍遥派の影響を受け、キュレーネーのイストロスに類似する。作品はピロコロスによって批判された。
- ピロコロス(Philochoros)〔c. 340-260 B.C.〕
アテーナイの名門の出で、預言と供御検見役という公的役職を司っていた(前306年、断片67参照)。エジプト王プトレマイオス2世〔前283-246〕を支援したかどで、マケドニア王アンティゴノス・ゴナタス〔在位、前277-239〕に殺害された。
彼の著したという27の書名は、ひたむきな古仏研究家の多様な関心を如実に示している。宗教行為、文学等に関する専門論考を著したが、それらの輝きを奪うほどに偉大なものが年代記風の『アッティス』で、大半の断片はこれに属している。この書では、初期の時期については先学によって詳述されていたものを手短にかつ要領よくまとめており、その節はカッリマコスによって『ヘカレー』に、またイストロスによって利用された。全17巻中11巻はおそらくパレロンのデメトリオスからクレモニデス戦争〔前317頃-267年〕までの半世紀に割り当てられただろう。入念な研究方法(彼が蒐集したアッティカ碑文に注目せよ)と実見による知識が知性およびまじめな文体と一体となって、彼は最後で最高のアッティカ史家であると同時に重要な歴史記述者になった。(ダイアナ・バウダーによる)
- イストロス(Istros)〔c. 250-200 BC〕
おそらくはキュプロスのパポス出身の著述家。アレクサンドリアで、キュレーネーのカッリマコスに学ぶ。ヘルミッポス〔スミュルナのヘルミッポス、前3世紀後期〕の同時代人。さまざまな主題について書いたが、わずかな断片が残るのみ。その大部分はアッティカ誌の集成である。
ヘッラーニーコス 断片集
アッティス/解説