マネトーン断片集(3/5)

アイギュプト史(第2巻)



"t34-56".1
第2巻

"t34-37".1
第12王朝(DUODECIMA DYNASTIA.)

34."t"
アフリカヌスによる
34.1
Syncellus, p. 110. :
 マネトーの第2巻から。
 第12王朝は、ディオスポリスの7人の王たちからなる。
 1. セソンコシス、アムマネメースの子、46年間。
 2. アムマメネース、38年間。彼は自分の宦官たちによって暗殺された。
 3. セソーストリス、48年間。彼は9年間、全アシアを、エウロペーはトラケーまでを配下におさめ、至るところに諸部族征服の記念碑を打ち立てた。
 4. ラカレース、8年間。彼はアルシノイテーに、迷宮を自分の墓として建てた。
 5. アメレース、8年間。
 6. アムメネメース、8年間。
 7. スケミオプリス、彼の妹、4年間。
 合計、160年。

35."t"
エウセビオスによる
35.1
Syncellus, p. 112.:
 マネトーの第2巻から。
 第12王朝は、ディスポリスの7人の王たちからなる。その初代は、セソンコシスで、アムメネメースの子、統治46年間であった。
 2. アムマネメース、38年間。この人物は自分の宦官たちによって暗殺された。
 3. セソーストリス、48年間。この人物は〔背丈〕4ペーキュス、横幅3プラスト2ダクテュロスだったといわれる。この人物は9年間全アシアを手下におさめ、エウローペーもトラケーに至るまで、あらゆるところに諸族民を征服した記念碑 — 標柱には、高貴な男たちと、下賤の女たちを表すために、恥部を刻んだ — を建てた。結局、アイギュプトス人たちにとってはオシリスに次ぐ者とみなされることになった。
 彼の後にラマリス、8年間。この人物はアルセノイテーにラビュリントスを自分の墓としてこしらえた。
 この人物の後継者たちは42年間〔統治した〕、彼らすべての統治期間は245年である。

36."t"
エウセビオスのアルメニア語版
36.1
Eusebius, Chronica I. (Armenian Version), p. 98.:
 マネトーの第2巻から。第12王朝はディオスポリスの7人の王たちからなる。そのうち初代は、セソンコシス、アムメネメースの息子、統治46年間。
 2. アムメネメース、38年間。彼は自分の宦官たちに暗殺された。
 3. セソストリス、48年間。彼の身体は4キュービット、幅は3パルム2フィンガーだったといわれる。9年間、全アシアを、ヨーロッパもトラケまで服従させた。いたるところに各部族を征服した記念碑を建てた。すぐれた民族の間には、標柱に男の秘部を、軟弱な民族の間には、女のそれを、不名誉の印として刻させた。それゆえ、エジプト人たちによってオシリスに次ぐ者として尊敬された。
 彼の後継者はラムパレス、8年間統治した。アルシノイテに彼は多くの部屋をもったラビュリントスを、自分の墓として建てた。
 跡を継ぐ王たちは42年間支配した。
 王朝全体の合計は245年である。

37."t"
エラトステネース
37.1
Syncellus Chronogr.:
 XXXII. テーバイ人たちを32番目に王支配したのは【スタムメネメース、26年間。世界年は3742年。
 XXXIII. テーバイ人たちを33番目に王支配したのは】スタムメネメース2世、23年間。世界年は3768年。
 XXXIV. テーバイ人たちを34番目に王支配したのはシストシケルメース、+Hrakl:V krataiovV、53年間。世界年は3791年。
 XXXV. テーバイ人たちを35番目に王支配したのはマレース、43年間。世界年は3846年。

"t38-40".1
第13王朝(DECIMA TERTIA DYNASTIA.)

38."t"
アフリカヌスによる
38.1
Syncellus, p. 113.:
 第13王朝は、ディオスポリスの60人の王たちからなり、彼らは453年間王支配した。

39."t"
エウセビオスによる
39a
Syncellus, p. 114.:
 第13王朝はディオスポリスの60人の王たちからなり、彼らが王支配した期間は453年間である。
39b
Eusebius, Chronica I. (Armenian Version), p. 99.:
 第13王朝はディオスポリスの60人の王たちからなり、統治期間は453年である。

40."t"
エラトステネース
40.1
Syncellus Chronogr.:
 XXXVI. テーバイ人たちを36番目に王支配したのはシポアス、ヘーパイストスの息子[ヘルメースとも]、5年間。世界年は3889年。
 XXXVII. テーバイ人たちを37番目に王支配したのはプルゥオローまたはネイロス、5年間。世界年は383889年。
 XXXVIII. テーバイ人たちを38番目に王支配したのはアムゥタルタイオス、63年間。世界年は3913年。

"t41a-41b".1
第14王朝(DECIMA QUARTA DYNASTIA.)

"41a"."t"
アフリカヌスによる
"41a".1
Syncellus, p.113.:
 第14王朝は、クソイスの76人の王たちからなり、彼らが王支配したのは184年間。

"41b"."t"
エウセビオスによる
"41b".1
Syncellus, p. 114.:
 第14王朝は、クソイスの76人の王たちからなり、彼らが王支配したのは184年間。

"41c"."t"
エウセビオスのアルメニア版による
"41c".1
Eusebius, Chronica I. (Armenian Version), p.99.: 第14王朝は、クソイスの76人の王たちからなり、彼らが統治したのは484年間。

"t42".1
羊飼いの王朝時代(PASTORUM TEMPORA. DYN. XV_XVII.)〔ヒュクソスの時代(c. 1700-c. 1580 B.C.)〕

42.1
Josephus, contra Apionem, I. 14, § 73-92.:
 (73)わたしはまず、エジプト人のもとにある文書から仕事に入ろう。ただし、それらの文書そのものを〔直接ここに〕引用するわけにはいかない。〔わたしが利用できるものは、マネトーンの中にあるものである〕。マネトーンは、人種的には、エジプト人だが、またギリシア人の教養を身につけた人物でもあった。このことは明らかである。なぜなら、彼は祖国の歴史を、彼自らが言っているように、聖なる書字板から訳出し、ギリシア語をもって書きあらわしているからである。彼は、その中で、ヘーロドトスはその無知ゆえに、エジプト史で多数の誤りを犯したときめつけている。  (74)さて、マネトーン自身、『エジプト史』の第二巻で、わたしたち〔ユダヤ人〕について書いている。わたしは、彼自身を証人として尋問しているものと見なし、彼の言葉をそのままに引用しよう。
 (75)テュティマイオス王の御代のこと。わたしにはその理由はわからないが、神は怒りの息吹きをわたしたちに吹き込まれた。すると、突如として、東の方から素姓の賎しい者たちがあらわれ、不敵にもわたしたちの国に侵入し、その主力は、やすやすと、戦闘をすら交えずに国内を占領してしまった。
 (76)彼らは、国内の主だった人たちを倒すと、次に乱暴にも都市を焼き払い、神々の聖所を破壊し、全土着民を残酷無惨に取り扱って、男たちのある者は虐殺し、女、子どもたちは奴隷として奪い去った。
 (77)そして最後に、一味の中のサリティスと呼ばれる老を王とした。
 王はメソフィスに住みついた。そして上・下エジプトから買物を苛酷に取り立て、また、防備に最も都合のよい場所を選んで守備隊をおいた。とくに王は、将来、アッシリア人が勢力を増して、彼の王国を望んで攻撃してくることを予想し、その東部の国境をかためた。
 (78)王は、セトライテ州の中で、〔ナイル〕川の〔支流にある〕ブパスティスの東に位置し、ある神学上の慣例にしたがい、アゥアリスと呼ばれている都市を発見してそれを再建し、城壁をもって堅固に要塞化し、二十四万もの武装した兵士を前衛としてそこに配置した。
 (79)王は、夏ごとに、ここにやって来た。そして、軍隊に食糧を分配し、給料を払い、異国人を脅迫するために念入りな軍事演習を行なった。
 統治19年にして王は死んだ。(80)ブノーンと名乗った第二代の王が後を継ぎ、44年間統治した。彼の後継者アバクナスは、36年7か月支配した。次のアポーフィスは61年、〔さらに次の〕ヤンナスは50年2か月統治し、(81)最後にアッシスが49年2か月にわたって支配した。
 彼らの間で、最高の支配者となったこれら6人の王たちの野心は、エジプト人を根絶することにあり、それは代ごとに増大した。
 (82)さて、この民族は、〈羊飼いの王たち〉という意味のヒュクソースという名で総称〈ヒュク〉は、宗教用語で王を意味し、〈ソース〉は、日常用語で羊飼い、あるいは羊飼いたちを示し、そしてそれらが合成された結果、〈ヒュクソース〉という語が生まれた。
 彼らは、アラビア人であった、という人もいる。
 (83)【しかしながら、別の写本によれば、〈ヒュク〉という普通名詞は、王たちを意味するのではなく、逆にそれは、羊飼いたちが捕虜であったことを示している。なぜなら、エジプト語の〈ヒュク〉とか、息を出しながら発音する〈ハック〉とかいう語は、明らかに、捕虜たちを意味するからである。】 わたしたちにとっては、この見解の方が、より説得的で、かつ古代の歴史にふさわしいものと思われる。
 (84)さて、マネトーンによれば、今まで述べてきたいわゆる羊飼いたちの王およびその子孫たちは、511年の間、エジプトで支配者の地位にあったという。
 (85)しかし、その後で、テーベとエジプトの他の地方の王たちの反乱が羊飼いたちにたいして起こり、この大戦は長く続いた。(86)ミスフラグムートーシスの治世のときに、(87)羊飼いたちは、〔ついに〕戦いに破れ、その結果彼らは、エジプトの殆ど全土から追放され、一万アルラの面積を占める場所に閉じ込められた。
 その場所の名は、アゥアリスである。羊飼いたちは、自分たちの全財産や略奪物を守るために、その全域を長大で堅固な城壁で囲った。
 (88)ミスフラグムートーシス王の息子、トーモーシスは、この城壁にたいし、48万の兵力を投入し、包囲攻撃を続けて、彼らに降伏をせまった。
 〔しかし、最後になって、トーモーシスは〕包囲を断念したので、協定が〔羊飼いたちと〕結ばれた。そしてその協定により、後者はすべてエジプトから引き上げ、自分たちが安心できる好きな土地へ安全に行けることとなった。(89)この和平のとりきめにしたがって、財産を携え、家族ともども、24万をこえる人びとは、エジプトを後にし、砂漠を越えてシリアに渡った。(90)やがて彼らは、当時、アジアを支配していたアッシリア人の勢力に怯えながらも、現在、ユーダイアと呼ばれている国に、一行のはなはだ多数の人間を定着させるに足るポリスをつくりあげ、それにヒエロソリュマという名を与えた。

 (91)なお、マネトーンは、『エジプト史』の別の巻の中で、羊飼いたちと呼ばれているこの民族は、彼らの聖なる書物の中で、捕虜としても描かれている、と語っている。
 このマネトーンの記述は正しい。
 なぜなら、羊を飼育することは、わたしたちの最も遠い先祖たちにとって、代々受け継がれてきた風習であり、そしてこの遊牧的生活のゆえに、彼らは羊飼いたちと呼ばれてきたのである。(92)しかし、彼らがエジプト人たちの記録の中で捕虜たちと書かれていることも、またゆえなしとしない。というのも、わたしたちの先祖のヨセフは、エジプトの王にたいし、自分は捕虜であると語っており、かつ後になってその王の許しを得て、兄弟たちをエジプトに迎え入れたからである。
 とは言え、これらの事柄については、なお別のところでより詳細に検討することにしたいと思う。〔I+227、本編Fr. 50a に続く〕

"t43-44".1
第15王朝(DYNASTIA DECIMA QUINTA.)

43."t"
アフリカヌスによる
43.1
Syncellus, p. 113.:
 第15王朝は羊飼い〔の王〕たちからなる。
 彼らは6人のポイニキアの異邦の王たちで、メムピスをも攻略し、セトロイテー州にも都市を建設し、ここから出撃してアイギュプトス人たちを手下におさめた。彼らの初代カイテースは19年間王支配し、サイテー州も彼にちなむ。
 2. ブノーン、44年間。
 3. パクナン、61年間。
 4. スタアン、50年間。
 5. アルクレース、49年間。
 6. アポビス、61年間。
 合計、284年。

44."t"
エウセビオスによる
44a
Syncellus, p. 114.:
 第15王朝はディオスポリスの王たちからなり、王支配すること250年であった。
44b
Eusebius, Chronica I. (Armenian Version), p. 99.:
 第15王朝はディオスポリスの王たちからなり、王支配すること250年であった。

"t45-46".1
第16王朝(DECIMA SEXTA DYNASTIA.)

45."t"
アフリカヌスによる
45.1
Syncellus, p. 114.:
 第16王朝は、さらに羊飼いたちの王32人。王支配すること518年であった。

46."t"
エウセビオスによる
46a
Syncellus, p. 114.:
 第16王朝は、テーバイの王たち5人、王支配すること190年。
46b
Eusebius, Chronica I. (Armenian Version), p. 99.:
 第16王朝は、テーバイの王たち5人、王支配すること190年。

"t47-49".1
第17王朝(DECIMA SEPTIMA DYNASTIA.)

47."t"
アフリカヌスによる
47.1
Syncellus, p. 114.:
 第17王朝は、さらに羊飼いの王たち43人と、テーバイ[または]ディオスポリスの43人。
 羊飼いたちとテーバイ人たちが王支配すること、合計151年。
 第17王朝。さらに羊飼いの王たち5人、王支配すること151年。合計、羊飼いの王たち43人、テーバイ人、ディオスポリス人53人。羊飼いたちとテーバイ人とで、合計96人。

48."t"
エウセビオスによる
48a
Syncellus, p. 114.:
 第17王朝は、羊飼いたちの兄弟で、彼らはポイニキアの異邦の王たち、彼らはメムピスをも攻略した。
 彼らの初代はサイテース、王支配すること19年。サイテース州は彼にちなんで呼ばれる。彼らはまたセトロイテーにも都市を建設し、ここから出撃してアイギュプトス人たちを手下におさめた。
 2. ブノーン、40年間。
 [3]. アポーピス、14年間。
 彼の後アルクレース、30年間。
 合計103年。
 彼らの時代にイオーセーフがアイギュプトス人たちの王として示された。
48b
Eusebius, Chronica I. (Armenian Version), p. 99 sq.:
 第17王朝は羊飼いたちからなり、彼らはポイニキア出身の兄弟たちで、異邦の王たちであった。彼らはメムピスを攻略した。
 その初代はサイテス、統治すること19年。サイテ州は彼の名にちなむ。これらの王たちはセトロイテ州に都市を建設し、ここを基点に出発してアイギュプトスを征服した。
 第2代目の王はブノン、40年間。
 次は、アルクレス、30年間。
 アポピス、14年間。
 合計103年。
 ヨセフがエジプトで支配者として現れたのは、彼らの時代である。

"49a".1
Scholia in Platonis Timaeum, 21 E (Hermann).:
 [サイスの(Sai&tikovV)]。マネトーンの『アイギュプトス史』から。第17王朝は羊飼い〔の王〕たちからなる。彼らはポイニキア出身の兄弟たちで、異邦の王たちであった。彼らはまたメムピスをも攻略した。
 その初代はサイテース、王支配すること19年、サイテース州も彼にちなんで呼ばれた。彼らはまたセトロイテー州にも都市を建設し、ここから進発してアイギュプトス人たちを手下におさめた。
 彼らの第2代目はブノーン、40年間。
 第3代目はアルカエース、30年間。
 第4代目はアポーピス、14年間。
 合計、103年。
 また、サイテースは月に12時間を付け加えて、30日間となり、また1年に5日を付け加えて、365日となった。

"49b".1
Syncellus:
 1. 26 シリテース、19年間、マネトーンでは第17王朝の6(7)人の中の初代……19
 2. 27 バイオーン、44年間……44
 3. 28 アパクナス、36年間……36
 4. 29 アポーピス、61年間……61
 5. 30 セトース、50年間……50
 6. 31 ケールトース、29年間……29
 マネトーンによれば44年間。
 7. 32 アセート、20年間……20
----
  259
 この人物は、1年に5日を加えたが、言い伝えでは、365日にすべしとの神託がくだったという。彼以前のアイギュプトスの1年はたった360日だけで測られていたのである。彼の治世下に、小牛が神とされてアピスと呼ばれた。

"t50a-51".1
第18_19王朝

"50a"."t"
ヨセフスによる
"50a".1
Josephus, Contra Apionem, I, 15, 16, §§ 93-105.:
〔Fr. 42 から続く〕
〔15〕
 (93)現在のところ、わたしは、わたしたち〔ユダヤ人〕の古さについての証人としてエジプト人を引き合いに出しているのである。そこでわたしは、年代記に関係のあるマネトーンからの抜粋をしばらく続けよう。彼は以下のように語る。

(94)羊飼いたちの民がエジプトからヒエロソリュマへ出発して以来、彼らをエジプトから追い出したテトモーシスは25年4か月の統治を続けた後亡くなり、彼の息子ケブロ−ンが王国を引き継ぎ13年間支配した。彼の後、アメノーヒスは20年7か月。(95)彼の姉妹のアメセースが21年9か月。彼女の息子のメーフレースが12年9か月。その息子のメーフラムートーシスが25年10か月。その息子のトモーシスが9年8か月。(96)その息子のアメノーヒスが30年10か月。その息子のオーロスが36年5か月。彼の娘のアケンケレースが12年と1か月。彼女の兄弟ラトーティスが9年。(97)彼の息子アケンケレースが12年と5か月。アケンケレース2世が12年3か月。その息子のハルマイスが4年1か月。その息子ラメセースが1年4か月。その息子のハルメセース・ミアムーンが66年2か月。その息子のアメノーヒスが19年6か月。(98)〔そして王国は〕その息子のセトース、あるいはラメセースとも呼ばれた王に引き継がれた。
 〔さて、この最後の〕王は、騎兵隊と船団とから成る軍隊を所有し、自分の兄弟のハルマイスをエジプトの副王とし、同時に、彼にたいし、王冠を戴かないこと、王の子どもたちの母親である王妃を辱かしめないこと、同じく王の妾たちに近づかないことを命じ、それ以外の一切の王としての特権を与えた。(99)こうした後、王自身は、キュプロスおよびフェニキアの遠征に向かい、後さらに、アッシリア人とメディア人の討伐を行なった。王に攻められた国々は、王の軍勢の威力の前に、戦ってのち破れるか戦わずして服するかして、すべて例外なく降伏してしまった。そして、この成功に勇気づけられた王は、いっそう大胆となり、さらに前進を続けて、東方の都市や国々の征服を重ねていった。
 (100)〔一方、王が出発して〕しばらくすると、エジプトに残されたハルマイス〔副王〕は、不謹慎にも、兄弟〔である王〕が与えていった命令を一切無視してしまった。
 彼はまず、王妃を辱かしめ、妾たちを思いのままにし、さらに友人たちに煽動されて王冠を戴き、ついには、兄弟にたいしての反乱に立ち上ったのである。  (101)ところが、エジプトの神官たちの監督官は、セトーシスに一書を送り、兄弟ハルマイスの反乱を含む一切の事件を明らかにした。そこで、セトーシスは、ただちにペールーシオンに引き返し、彼の王国を回復した。(102)そして彼の名にちなんで、この王国はアイグブトスと呼ばれるようになった。

 なお、マネトーンは、このセトースはアイグプトスと呼ばれ、彼の兄弟ハルマイスはダナオスとも呼ばれた、と言っている。
〔16〕
 (103)これがマネトーンの説明である。もし、上述された年数が加算されるならば、羊飼いたちと呼ばれた者、すなわち、わたしたちの先祖がエジプトを立ち去って今のわたしたちの国に定着したのは、ダナオスがアルゴスに来たときより〔ちょうど〕393年前のことであったことが明らかである。しかもなお、アルゴス人は、このダナオスを最古の人と見なしているのである。
 (104)さて、マネトーンは、こうしてエジプト人のもとにある文書にもとづいて、二つの最も重要な事柄について証言しているのである。その第一は、わたしたちはかつて、どこからかエジプトにやって来たものであること、次に、そのわたしたちは、またはるか古代に、すなわちトロイァ一戦争に先立つこと約1千年の昔にそのエジプトから立ち去っているこ ととである。
 (105)なお、マネトーンがそれに追加している文章は、エジプト人のもとにある文書によったものではなく、彼自身も認めているように、作者不詳の神話である。それについては、さらに先に進んでから、詳細な反論を加えて、その話がまた、架空のものであることを示そう。

"50b".1
Syncellus:
 〔未訳〕

51.1
Theophilus, Ad Autolycum, III, 20 (Otto).:
 さて、モーセースは、すでに述べた〔I, 9-10〕とおり、アイギュプトスの地から出ていったイウゥダイオイを道案内したが、それはファラオ〔とよばれる〕王の治下で、その〔ファラオの〕名はテトモーシス(TevqmwsiV)、彼〔マネトーン〕の謂うには、この民の出国後25年4ヶ月間 — マナイトースはこの期間を減じているが — 王支配した人物である。  2. これの後、ケルボーン(Cerbw:n)が13年。
 3. これの後は、アメノーピス(=AmevnwfiV)が20年7ヵ月。
 4. これの後は、彼の妹アメッセー(=Amevssh)が21年1ヵ月。
 5. 彼女の後は、メープレース(MhvfrhV)が12年9ヵ月。
 6. これの後は、メープラムゥトーシス(MhframouvqwsiV)が20年10ヵ月。
 7. さらにこれの後、テュトモーセース(TuqmwvshV)が9年8ヵ月。
 8. さらにこれの後、アメノーピス(=AmevnwfiV)が30年10ヵ月。
 9. 彼の後はオーロス(#WroV)が36年5ヵ月。
 10. この人の娘[アケンクレース(=AkegcrhvV)]が1[2]年[1]ヵ月。
 11. 彼女の後は、[ラトーティス(+Raqw:siV)が9年。
 12. これの後はアケンケーレース(=AkegcrhvV)が12年5ヵ月。
 13. これの後はアケンケーレース(=AkegchvrhV)が12年3ヵ月。
 14. この人の子アルマイス(!Armai&)が、4年1ヵ月。
 15. さらにこれの後、ラメッセース(+RamevsshV)が1年4ヵ月。
 16. さらにその後、ミアムモスの子ラメッセース(+RamevsshV)が66年2ヵ月。
 17. さらにその後、アメノーピス(=AmenwfiV)が19年6ヵ月。
 これの子がセトース(SevqwV)で、これはラメッセースとともに10年、言い伝えでは、多数の軍勢と艦隊の配備を保有したという。

"t52-54".1
第18王朝

52"t".1
アフリカヌスによる
52.1
Syncellus, pp. 115, 130, 133. :
 第18王朝は、ディオスポリスの16人の王たちからなる。
 その初代はアモース、彼の治世下に、わたしたちが証示するように、モーウセースがアイギュプトスから出国した。しかし、目下の票石が促すところでは、彼の治世下にはモーウセースはまだ若かったことにある。
 第18代王朝の第2代目王になったのは、アフリカヌスによればケブロース、13年間である。
 3代目はアメノープティス、24年間。
 4代目はアメンシス、22年間。
 5代目はミサプリス、13年間。
 6代目はミスプラグムゥトーシス、26年間。彼の治世下にデウカリオーン時代の洪水があった。
 合計、ミスプラグムゥトーシスとも呼ばれたアモーシスにいたる支配は、アフリカヌスによれば69年となる。というのは、アモースの年数は〔アフリカヌスは〕全く何も云っていないのである。
 7. トゥトモーシス、9年間。
 8. アメノーピス、31年間。この人物はメムノーンで、しゃべる石〔像〕とみなされている。
 9. オーロス、37年間。
 10. アケッレース、32年間。
 11. ラトース、6年間。
 12. ケブレース、12年間。
 13. アケッレース、12年間。
 14. アルメッセース、5年間。
 15. パメッセース、1年間。
 16. アメノーパト、19年間。
 合計、263年。

53.1
syncellus:
53."2"
エウセビオスによる
53a
Syncellus, pp. 116, 129, 133, 135. :
 第18王朝はディオスポリスの14人の王たちからなる。
 その初代はアモーシス、25年間。
 2. 第2代目ケブローン、13年間。
 3. アムメノーピス、21年間。
 4. ミプレース、12年間。
 5. ミスプラgムゥトーシス、26年間。
 この第18代王朝の初代アモーシスから、ミスプラグムゥトーシスの支配までの合計は、エウセビオスによれば、71年間となり、王たちは5人であって6人ではない。というのは、彼は4代目のアメンセースを見落としたのである。この〔アメンセース〕はアフリカヌスと自余の人たちが言及しており、22年を彼から切り取った。
 6. トゥトモーシス、9年間。
 7. アメノーピス、31年間。この人物はメムノーンとみなされ、またしゃべる石とみなされた。
 8. オーロス、36年間。
 9. アケンケルセース、[12年間。
 アトーリス、9年間。
 ケンケレース、16]年間。
 このころ、モーウセースが、イウゥダイオイ人たちのアイギュプトスからの出発を嚮導した。
 10. アケッレース、8年間。
 11. ケッレース、15年間。
 12. アルマイオスことダナオス、5年間。この後、彼はアイギュプトスから亡命し、兄弟アイギュプトスのもとに庇護を求めてヘッラスへとたどり着き、アルゴスを征服してアルゴス人たちを王支配する。
 13. ラメッセースことアイギュプトス、68年間。
 14. アムメノーピス、40年間。
 合計、348年。
 第18王朝に対して、エウセビオスはアフリカヌスよりも85年を増加させた。

53b
Eusebius, Chronica I. (Armenian Version), p. 99.:
 第18王朝はディオスポリスの14人の王たちからなる。その初代はアモセス、統治25年である。
 2. ケブロン、13年間。
 3. アモピス、21年間。
 4. メムプレス、12年間。
 5. ミスパルムトシス、26年間。
 6. トゥトモシス、9年間。
 7. アメノピス、31年間。この王はメムノンとみなされ、しゃべる石とみなされた。
 8. オルス、28年間。
 9. アケンケレス、……16年間。彼の治世下に、モセスが、ヘブライ人たちのエジプトからの出国の指導者となった。
 10. アケッレス、8年間。
 11. ケッレス、15年間。
 12. アルマイス、ことダナオス、5年間。この時代の終わりに、彼はエジプトから亡命した。兄弟のアエギュプトゥスの庇護を求め、ギリシアに逃れ、アルゴスを占拠した後、アルゴス人たちを支配した。
 13. ラメッセス、アエギュプトゥスとも。68年間。
 14. アメノピス、40年間。
 合計、348年。

"t54".1
第19王朝(DYNASTIA DECIMA NONA.)

54.1
Josephus, Cntra Apionem, I, 26-31, § 227-287.:
〔26〕
 (227)これからしはらくお相手を願う最初の著者は、わたしたちの民族の古さの証人として、すでに一度少し前に利用させていただいた方、すなわち、マネトーンその人である。
 (228)エジプト史をその聖なる文書から訳すと約束したこの著者は、わたしたちの先祖が、エジプトに大挙して侵入しその地の住民たちを征服したことをまずもって語り、次に、わたしたちの先祖が後になってその国から追い払われて、現在のユダヤと呼ばれている地域を占領し、エルサレムを建設して、神殿を造営したことを自ら認めている。
 さて著者は、ここまでは、もろもろの記録にしたがっていた。(229)ところが著者は、ここから先、ユダヤ人たちに関して言われたり語られたりしていることを書き留めておくという口実で、勝手気ままに、とても信じられないような話へと移り、わたしたちの先祖は、多くのエジプト人中のレプラ患者その他の疫病やみで、エジプトの地から追放を宣言された者たちと一緒に生活していたと説明しようとするのである。
 (230)まず彼は、アメノーヒスという王をつくり出す。架空の名前であるから、その治世の年代の確定はさすがに控えている。彼の挙げている他の王については、すべて正確な年代を与えているにもかかわらず、である。そして彼は、すでに一度(羊飼いたち)のエルサレムへの出発は518年前に行われたと言ったことを、殆ど完全に忘れ去ってしまって、二、三の神話をこのアメノーヒス王に結びつける。
 (231)〈羊飼いたち〉がエジプトを出たのは、テトモーシスが王であったときである。そして、それから代々の王が393年の間継承して、セトースとヘルマイオスという二人の兄弟の代に至るまでおよんだ。そして、マネトーンによれば、セトースはアイグプトスと改名し、ヘルマイオスはダナオスと改名したが、セトースはヘルマイオスを追放した後、59年の間王位にあり、ついで彼を継いだ長男のラムプセースは、66年の間王位にあった。
 (232)さてマネトーンは、わたしたちの父祖たちがエジプトを退去して以来のこのようなときの経過をまず認め、次に、アメノーヒスという架空の王を書き込むのである。

 ところでこの王は、彼の語るところによれば、先王の一人のオーロスのように、神々を見ることができる者になりたいと願い、未来のことに関する知恵と予知とに関してこれまた神的な能力をもっていると認められていたパアビオスの息子で、彼と同名のアメノーヒスにその望みを伝えた。
 (233)この同名の者は、もし王がその全国内から、レプラ患者その他の汚れた人たちを一掃するならば、神々を見ることができるであろう、と王に答えた。(234)これを聞いて喜んだ王は、エジプトにいるすべての廃疾者を集めた。その数は、八万もの多数であった。(235)そして彼は、彼らを他のエプト人たちからは全く隔離されて働くことのできるナイル川の東の採石場に送り出した。マネトーンによれば、その中には、レプラに苦しむ何人かの学問のある神官たちも入っていた。
 (236)やがてしかし、この知恵のある予言者アメノーヒスは、このような冒涜を課せられた人たちが発見されたら、神々の怒りが自分と王とにたいし下るであろうという恐怖にとりつかれた。さらに彼は、ある人びとが将来この汚れた人たちの同盟者となり、13年の間エジプトを支配すると予知したのである。
 彼は、これらのことを自分で王に告げる勇気はなかったので、完全な文書に書き残Lて自殺した。王ほ非常に落胆した。
 (237)さて、マネトーンは、次のように書きすすむ。
 採石場の人びとは、長い間、悲惨な生活を続けていたので、王はついに彼らの願いをいれて、かつて〈羊飼いたち〉が住んでいた廃墟の都市アゥアリスを彼らの身を守る住み家として与えることにした。その都市は、神学上の伝統にしたがって、大昔からテュフォーニオスに捧げられている。
 (238)彼らは、そこへ赴くと、今や反乱のために役立つこの場所を得たので、オサルシフォスと呼ばれたへーリオボスの神官たちの一人を彼らの指導者に立て、すべてのことにおいて彼の権威に服することを誓った。
 (239)最初の法律が彼らのために定めたことはこうだった。すなわち、神々を脆拝しないこと、またエジプトにおいて特に敬意を払われている聖なる動物たちから遠ざかったりせず、それらすべてを〔遠慮せずに〕殺して食いつくしてしまうこと、そして誓いを立てて仲間となった者以外の何人とも関係をもたないこと、である。
 (240)そして彼は、このような、またこれに類する、エジプト人の慣習に徹底的に反する多くの法律を制定した後、全員に都市の城壁の修復を行うよう、およびアメノーヒス王との戦いに備えるよう命じた。  (241)ついで彼は、他の神官たちやまた彼のように汚れた人びとと協同で、テトモーシスによってヒエロソリュマと呼ばれている都市に追放されている〈羊飼いたち〉のもとに使節を派遣し、彼自身や彼とともに虐待を受けている他の者たちのようすを説明した後、エジプトにたいする合同の遠征に加わるようにと誘った。
 (242)使節は、彼らをその先祖たちの町アゥアリスにまで案内すること、そしてそれらの多数の人びとのために食糧を十分に用意すること、ついで、時が来れば、ただちに起って彼らのために戦い、そくざに国を降伏させることを約束した。
 (243)羊飼いたちは、この約束を聞いておおいに喜び、二〇万の人たちが全員勇んで一団となって出発し、やがてアゥアリスに到着した。
 一方、エジプト人の王アメノーヒスは、彼らの侵入の報せを聞いて、おおいに狼狽し、パアビオスの子アメノーヒスの予言を思い起こした。
 (244)彼はまず、大勢のエジプト人たちを集め、彼らの間の指導者たちと相談した後、それぞれの神殿で最も崇拝されている聖獣たちを寄せ集め、また各地の神官たちに神々の像をできるだけ安全に隠匿するよう命じた。
 (245)王は、五歳になる彼の子セトース — 祖父ラムプセースの名からラメセースとも名づけられていたが — の養育を彼の友人に託した。
 彼はエジプト人たち — 彼らは最強の兵士で、その数は30万であった — を率いて〔ナイル川を〕渡り敵と対峙したが、自分は神々にたいして戦ってはならないのだと考えて会戦を避け、メンフィスに引き返して来た。
 王は、アビスやそこに集められていたその他の聖獣たちを収容すると、ただちに、全軍および全エジプト人を率いてエチオピアに向けて出発した。なぜなら、エチオピアの王は、彼の支配下にあり、その命令に従う義務があったからである。
 (247)さて、エチオピアの王は、彼を歓迎し、彼に同行した大勢の者たちすべてを保護し、その国の産物で人間の食糧となるものを提供して、その国土から追放されている13年という運命の期間中、彼らが自足できる町々や村々を割りあてた。いや、それどころではない。彼は、アメノーヒス王の家臣たちを守るために、エチオピア軍をエジプトとの国境へ駐留さえさせたのである。
 (248)これがエチオピアにおける情況であった。一方、ソリュマ人は、汚れたエジプト人とともに来襲し、住民たちをひどく冒涜的に取り扱った。その結果、彼らの不信仰をそのとき目撃した人びとにとっては、昔の羊飼いたちの支配が、逆に、黄金の時代のように思われたほどであった。  (249)彼らは、町々や村々を焼いたばかりではない。神殿を襲い、神々の像を打ち壊すだけでは飽きたらず、崇拝されている聖獣たちをローストするため、最も神聖なる場所を日々の台所として使用し、神官や予言者たちに獣たちの屠殺を強制し、その喉を切らせ、その皮を剥ぐことまでやらせたのである。
 (250)伝えられるところによると、彼らに国の制度と法律とを与えた神官は、ヘーリオポリスの生まれで、ヘーリオポリスにある神オシリスにちなんで、オサルシフォスと呼ばれていたが、この民族の仲間に入ったとき、その名は改められ、モーセと呼ばれたそうである。

〔27〕
 (251)エジプト人たちがわたしたちユダヤ人について語っていることは以上である。彼らは、これ以外にも多くのことを語っているが、簡略化のため省略する。
 なおマネトーンは、アメノーヒスが、その後、エチオピアから大軍を率いて進軍し、彼の息子のラムプセースも別の軍隊をもって進軍し、二人はともに(羊飼いたち〉と汚れた人たちにたいして攻撃を加えて打ち破り、彼らの多数を殺した後、敗残の者たちをシリアの国境まで追跡した、とつけ加えている。
 (252)マネトーンが書いたのはこれらのことであり、またこれに類したことであった。
 ところで、このマネトーンが明らかに不誠実であり、また、*でまかせ*や*まやかし*を言っているということを指摘するまえに、後になって他の著者たちへの解答にもなりうると思うので、あらかじめ注意しておきたいことがひとつある。
 というのも、実は彼は、わたしたちにたいし、ただひとつの真実は提供してくれているのである。すなわち、彼は、わたしたちの民族はエジプトに起源をもつものではなく、他のところからエジプトに入って来てそこを占領し、後に至ってそこを立ち去ったものであることを最初から認めているのである。
 (253)ただし、それ以上の事実、つまりエジプト人の不具廃疾者がわたしたちに混じって生活などしていなかったこと、またわたしたちの民を率いたモーセはこれらのエジプト人たちの一人ではなく、さらにもっとまえに遡った世代の人であることなどを、マネトーン自身の言葉によって証明してごらんにいれたい。
〔28〕
 (254)わたしに言わせれば、この作り話の、出発点における前接がそもそも滑稽なのである。
 彼によれば、アメノーヒス王は、神々を見たいと望んだという。ではいったい、それらはどのような神々なのか? もしそれらが彼らの法律で定めている神々を意味するならば — 牡牛、山羊、ワニ、そして犬の面をしたヒヒ — 彼は、すでにそれらを見ている。〔それとも天上界の神々か?〕(255)いったい、どのようにして彼は天上界の神々を見ることができるのであろうか? またなぜ彼はこの願いをもったのであろうか? なるほど、確かに、彼の先王の一人がそれらを見たであろう。しかし、そうすると、彼はその先王から、それら はどのようなものであり、またそれらをどのようにして見たかも、学んだはずである。とすると、〔またここで神々を見る〕新しい方法は、彼にとって必要ではなかったことになる。
 (256)さらにまた、王がこの目的を成就させるために助け求めた占い師は賢者だったという。ではどうして彼に、王の願いが実現不可能なものであることを、予見できなかったのであろうか?
 結局は、王の願いは成就しなかった。
 また、どのような理由で、不具者やレプラ患者がいれは、神々が不可視といぅことになるのか? 神々が怒るのは不信仰にたいしてであって、けっして肉体的欠陥にたいしてではないはずだ。
 (257)また、8万人のレプラ患者やその他の廃疾者が、どのようにしてわずか一日で集められたのであろうか? そしてまた、なぜ王は、占い師の言を無視したのだろうか? 占い師は、彼にたいし、廃疾者たちをエジプトから追放するようにと言った。それにたいして王は、彼らを採石場に留めておいた。これでは、自分の国を清める決意をしたというより、 働く人手を求めている態度である。
 (258)さてマネトーンは、さらに続けて、その占い師が神々の怒りとエジプトの運命を予知したので自殺したということ、また彼が王にその予言を書き残したということを語っている。(259)ではいったい、その占い師は、どうして自分の死を最初から予知しなかったのだろうか? また、なぜ最初に、神々を見たいという王に反対しなかったのであろうか? 自分の生涯で起こりうる不幸を恐れることのほうが、はるかに合理的なことではなかろうか? それとも、大急ぎで自分の生命を断たねばならない、などということよりさらに大きな不幸が彼を襲うとでもいうのであろうか?
 (260)しかしながら、話全体を通じて、最もはかげた点について考えよう。
 王は、これらの予言を知っており、またエジプトの運命にたいして恐れを抱いていたが、エジプトを清めるために追放すべきだと言われていたこれらの廃疾者たちをそのとき国外に追放しなかったのである。いやそれどころか、彼らの願いをいれて、マネトーンによれば、かつて〈羊飼いたち〉が住んでいたアゥアリスと呼ばれる都を彼らに与えたのである。
 (261)さて、マネトーンによれば、彼らはここに集まった後、かつてへーリオポリスの神官であった者の中から一人の指導者を選んだ。そして彼は彼らに、神々を脆拝しないこと、エジプトで崇拝されている獣たちから遠ざかったりせずに、それらすべてを殺して食いつくすこと、そして誓いをたてて仲間となった者以外の何人とも関係をもたないことを命令した。ついで彼は、その仲間たちがこれらの法律に忠実にしたがうよう、誓約にょって拘束 した後、アゥアリスの周囲に城壁を築き、王にたいして戦いを宣告した。
 (262)そしてマネトーンは、この指導者がエルサレムに使者を送り、住民たちに自分たちと同盟を結ぶよううながし、またアゥアリスを彼らに与えることを — なぜなら、それはエルサレムからの応募兵たちにとって先祖伝来の土地であり、また彼らがそこから出陣すれば、ただちに全エジプトの制圧が可能となるからである — 約束した、とつけ加えている。
 (263)さてエジプト人たちは、20万の軍隊をもってやって来たが — とマネトーンは語る — 彼らの王アメノーヒスは神々にたいして戦うべきではないと考え、アビスやその他の聖獣たちのうちのあるものを神官たちに託し、即刻、エチオピアへ向けて逃げ去った。(264)そこでヒエロソリュマ人は国中を荒し、町々を破壊し、神殿を焼き払い、神官たちを虐殺し、そしてありとあらゆる種類の犯罪と蛮行を行なった。  (265)マネトーンによると、彼らの国制をつくり法律を与えた神官は、ヘーリオポリスの生まれで、ヘーリオポリスにある神オシリスにちなんでオサルシフオスと呼ばれていたが、後になってその名前を改め、モーセと自分を呼んだ。
 (266)さて、13年の後 — これは運命づけられた亡命の期間であったが — マネトーンによれは、アメノーヒスは〔再び〕大軍を率いて来襲し、〈羊飼いたち〉と〔その同盟軍の〕汚れた人びとに攻撃を加えて打ち破り、彼らを大量に殺しながら、シリアの国境まで追撃した。
〔29〕
 (267)ところで、ここでもまた著者ほ、でたらめきわまりないことを言っているのであるが、そのことに気づいていない。
 なぜなら、レプラ患者やその他彼らとともにいた大勢の者たちが、占い師の警告にしたがって彼らを虐待した王その他の人びとにたいし、かつては怒りを抱いていたとしても、彼らは採石場を脱出でき、かつ王から町や土地を再び賜わったのであるから、王にたいする感情は完全に和らげられていたにちがいないのである。
 (268)かりに、彼らが王を憎んでいたとしたならば、彼らは王にたいしてのみ陰謀を企てたはずで、多数の人びとの多くの親族の含まれているにちがいない同胞たる国民に宣戦を布告するなどということは、ありそうもないことである。(269)またさらに一歩譲り、彼らがエジプト人たちと戦うことを決意したとしても、彼らが自分たちの神々にあえて戦争をすることはけっしてしなかったであろうし、また彼らがその下で生い育った父祖伝来の慣習に真っ向から対立するような法律は制定しなかったであろう。
 (270)しかしながら、この点でも、わたしたちはマネトーンに感謝しなければならない。というのも、このような法律制定の張本人はエルサレムからの応援者たちではなく、エジプト人自身であり、また〔最初に〕これらのことを思いつき、それを大勢の人びとに宣誓させたのも、とくにエジプト人の神官たちであった、と言ってくれているからでる。
 (271)ところでまた、彼らの反乱に加担して、戦争の危険を分かちあってくれる親戚も友人も一人としていなかったというのに、彼らがこの汚れた人たちをエルサレムに〔使者として〕送り、その地で募兵に成功したなどということも、考えてみれば、実にばかげた話である。(272)どのような同盟が、いや、いかなる関係がそれまで彼らの間にあったというのか? 同盟どころか、彼らは敵同士だったのであり、彼らの慣習も、お互い同士が正反対なのである。
 しかしながら、マネトーンによれば、この人たちは、エジプトを占領するという約束に簡単に耳をかしてしまったのである。かつて自分たちが無理じいに退去させられた国について、何の知識ももたないごとくに、である。
 (273)もちろん、彼らが困窮した状態にあったとか、不幸な運命に陥っていたというのであれば、想像上のことではあるが、彼らが危険を目したということもありうる。ところが実際は、彼らは豊かな町に住んでいて、エジプトにまさる広大な国土からたくさんの生産物を得ていたのである。その同胞すら一人として見棄てぬ者のなかった敵の不具廃疾者を支援して、その命を賭するにたるどのような魅力がそのエジプトにあるというのか? もちろん彼らは、王が逃亡するだろう、などということは全く予見できなかった。(274)いやそれどころか、マネトーン自身は、アメノーヒスの子が30万の兵を率い、彼らを迎え撃つべくペールシオンへ向かって進軍したとも語っているのである。そしてこの進軍については、疑いもなく、その敵も知っていた。さてここから、彼らは、王が決心を変え、逃亡するであろう、などと予測できたとでも言うのか?
 (275)マネトーンによれば、エジプトを征服した後で、エルサレムからの侵入者たちは、数々の恐ろしい罪を犯したという。
 そしてこのような蛮行にたいして、もちろんマネトーンは非難を加えるが、それはまるで彼らがこの人たちをここへ敵として連れて来たのではなかったかのようである。またその実行の継続を誓った土着のエジプト人たちが、彼らが到着するまでにさんざんやったことは度外視して、外来の人びとにょってなされたときにほけしからん、といった風なのである。
 (276)ともあれ、しばらくたってから、アメノーヒスが登場し、戦闘に勝利し、大殺戮戦を演じながら、敵をシリアへと追い返した。どうもエジプトという国は、侵入者にとっては、どこから攻め込んでも簡単に手に入る獲物らしい!
 (277)しかし、それにしても、それまでの征服者たちが、アメノーヒスの生存を知りながら、またそのための彪犬な資材をもちながら、〔エジプト〕エチオピア間の要地を全く要塞化せず、出動さすべき軍隊ももっていなかったとは!
 マネトーンによれば、アメノーヒスは、道々彼らを殺戮しながら、砂漠を渡ってシリアにまでも追撃したという。しかし、軍隊の行進によるこの砂漠越えのむずかしさは、たとえ戦闘がなくてもあまりにも明らかである。
〔30〕
 (278)事情はかくのごとくである。わたしたちは、マネトーンの権威により、わたしたちの民族はエジプトに起源をもつものでないこと、また彼らのうちなんぴとと言えどもわたしたちと混交しなかったということについての証言は得たのである。
 なぜなら、おそらく、レプラ患者その他の多数の病人は、採石場で長期間悲惨な生活をしていたので、そこで死亡していたはずで、それに続く戦闘においては、さらに多数の者が、そして最後の戦闘の敗走においては最も多くの人びとが死亡したはずだからである。
〔31〕
 (279)次にわたしは、モーセに関しても、マネトーンに言っておきたいことが残っている。
 エジプト人たちは、この人物が非凡で神に比すべき者であることを認めている。否、彼らは、彼がレプラのためへーリオポリスを追放された神官たちの一人だったと言う信ずべからざる中傷はしているものの、彼を自分たちの同胞に加えたい希望すらもっている。
 (280)しかし、記録によれば、彼は518年もまえに生存し、わたしたちの父祖たちを、エジプトから、現在わたしたちが住んでいる土地に導いた人であることが立証されている。
 (281)また彼が、レプラのような肉体的障害を全くもっていなかったことも、彼自身の言葉から明らかである。
 事実、彼は、レプラ患者たちが町や村に滞在したり、居住したりすることを禁じ、彼らは破れた衣服を身につけ、他から隔離された生活を営まねばならないと命じたのである。また彼は、彼らの体に触れたり、あるいは一つ屋根の下で生活した者をも、不浄なものと考えた。
 (282)さらにまた彼は、病気が治癒し、その不幸な人が通常の生活に復帰する場合でも、ある種の清めの儀式を命じ — 泉の水でもって身体を清め、髪の毛をすべて切り落す — また聖なる都に入るに先き立っては、多種類の犠牲を捧げよ、と要求しているのである。
 (283)もしモーセが〔オサルシフォスであり〕この災いの犠牲者であったならば、彼と同じ不幸な人びとにたいして、逆に配慮と思いやりとを示すのが当然ではなかったろうか。
 (284)しかも、わたしたちのモーセは、レプラ患者に関してのみこのような律法を制定したのではない。彼は、肉体上に欠損のある老は、たとえそれがどのように小さなものであっても、祭司職に就くことができないと定めている。たとえ祭司職に就いている間といえども、そのような不幸に見舞われれば、その職はとりあげられるのである。
 (285)モーセが〔不具廃疾のオサルシフォスであり、しかも〕こんな法律を制定するほど非常識であったとか、あるいは、そのような不幸のためにオサルシフォスによって連れてこられた者たちが、自分たちの不名誉になったり損になったりする、このような法律をうけいれたなどということは、はたしてありうることであろうか?
 (286)注意すべきことをもう一つ。
 マネトーンによれば、彼は、その名前を改めたということであるが、これほ全く承服しかねる。マネトーンによれば、彼は、オサルシフォスと呼ばれていたという。しかし、これはモーセという名とは何の関係もない。モーセという名は、実は、〈水の中から助けられた人〉を意味する。なぜなら、エジプト人たちは水を〈モーウ〉と呼んでいるからである。
 (287)さて、結論はすでにして明白であると思う。要するにマネトーンは、古代の諸記録にしたがっている限り、事実を歪曲しなかった。しかし、作者不詳の神話を利用する段になると、そこから荒唐無稽な話をつくりあげたり、あるいはわたしたちにたいする憎悪から、偏見だらけのことを言っている連中を信頼してしまうのである。

"t55-56".1
第19王朝(DYNASTIA DECIMA NONA.)

55."t"
アフリカヌスによる
55.1
Syncellus, p. 134.:
 第19王朝は、ディオスポリスの王たち7人からなる。
 1. セトース、51年間。
 2. ラプサケース、61年間。
 3. アムメネプテース、20年間。
 4. ラメッセース、60年間。
 5. アムメネムネース、5年間。
 6. トゥオーリス、ホメーロスではポリュボスと呼ばれる。アルカンドラの夫、この治世に、イリオン〔トロイ〕が攻略された、統治7年間。
 合計、209年間。
 マネトーの第2巻における合計は、96人の王、2121年間である。

56."t"
エウセビオスによる
56a
Syncellus, p. 136.:
 第19王朝はディオスポリスの5人の王たちからなる。
 1. セトース、55年間。
 2. ラムプセース、66年間。
 3. アムメネプティス、40年間。
 4. アムメネメース、26年間。
 5. トゥオーリス、ホメーロスではポリュボス、アルカンドラの夫、彼の治世下にイリオンが攻略された、統治7年間。
 合計、194年間。
 マネトーの第2巻の合計、92人の王たち、統治期間1121(2121)年間。
56b
Eusebiusu, Chronica I, (Armenian Version), p. 102.:
 第19王朝はディオスポリスの5人の王たちからなる。
 1. セトス、55年間。
 2. ラムプセス、66年間。
 3. アメネプティス、8年間。
 4. アムメネメネス、26年間。
 5. トゥオリス、ホメロスには活動的で勇敢なポリュブスと呼ばれている。彼の時代にトロイは攻略された。統治7年間。
 合計、194年。
 マネトーの第2巻における合計は92人の王、統治2121年。


forward.gif『アイギュプトス史』第3巻