T1
SUID.「バビュスの子、シュリア人ペレキュデース」の項。
リュディア人たちの王アリュアッテースの時代、六賢人たち(585/4)と同時代に生まれ、第49オリュムピア紀年(584/1)に亡くなった。……著作を散文で公刊した最初の人物だと報告する人たちがいるが、他の人たちはこれをミーレートス人カドモス(III)に帰する人たちもいる。……彼が著したものは全部で以下の通りである。『7日の休息』あるいは『神との交わり』あるいは『神統記』。『神統記』は神々の誕生と後継を9巻にあらわしたものである。
T2
同、「アテーナイ人ペレキュデース」の項。
シュリア人〔ペレキュデース〕より年長、オルペウスのことを著したという説がある。『地生えの者たち(Aujtovcqonai)』――アッティケー古代史――9巻を書いた。『警句集(ParainevseiV)』を韻文で。ポルピュリオスは、前代の誰をも年長と認めず、彼のみを著作の創始者と考えた。
T3
同、「レロスのペレキュデース」の項。
歴史家。第75オリュムピア紀年(480/77)の少し前に生まれた。『レロスについて』、『イーピゲネイアについて』、『ディオニュソスの祝祭について』その他。
T4
DIOG. LAERT. I 119:
エペソス人アンドローン(IV)の謂うには、シュロス人ペレキュデースに二人いた、一人は天文学者、もうひとりはバビュスの子で神話学者である。……しかしエラトステネース(V)は、〔シュロス人ペレキュデースは〕ひとりだけであり、他はアテーナイ人の系譜学者だという。
T5
STRABON X 5, 8:
シュロス島……ここからバビュスの子ペレキュデースが出た。アテーナイ人〔のペレキュデース〕は、彼よりも年少である。
T6
EUSEB. HIERON. 「ol. 81, 1. 456/5 (ISIDOR. Origg. I 42, 2)」の項:
フェレキュデースは第2に有名な歴史叙述家。
T7
DIONYS. HAL. ARI 13, 1:
往古の著作家たちのうち……アテーナイ人ペレキュデースなる人物は、系譜学者たちの二流の人物にあらず。F 156参照。
T8
CICERO De or. II 53:
2 T 8参照。
F1
a) SCHOL. PINDAR. N IV 81〔46〕:「オイノーナとキュプロスと、そこではテラモーンの裔テウクロスが、故郷から遠く離れて治めているが、アイアスは父祖伝来のサラミスを領している。黒海ではアキッレウスが輝かしい島を持ち、テティスはプティアに君臨し、広い大陸ではネオプトレモスが〔君臨する〕」
どうやら、ピンダロスは、テティデイオンに言及しているらしい。これについてはペレキュデースが第1巻の中で次のように書いている。「次いでペーレウスはプティアに赴き、テティスをその馬に乗せて導き、パルサロスとテティデイオンに住んだ。この〔テティデイオンという〕都市は、テティスにちなんで呼ばれたものである」。 b) TZETZ. Lyk. 175 p.84, 27:
ペーレウスは/ペレキュデースによれば/アクトールの子エウリュトスに〔殺人の血の穢れを〕浄めてもらい、その〔エウリュトスの〕娘アンティゴネーを娶った(=Bibl. III 163)。/しかし彼女が縊死したとき(=Bibl. III 165)/都市が分離した。 c) SCHOL. EURIPID. Andr. 17:「このピュティアとパルサロスの国境の地、かつて海の女神テティスが人目を避け、ペーレウスと二人だけで暮らしていたところ。テッサリアの者たちはここを女神の婚姻にことよせてテティデイオンと呼んでいる」
。 これは歴史に基づいて述べられている。すなわち、ここでペーレウスは彼女と交わり、テティデイオンはアキッレウスの支配下にあった。これはテッサリアの都市であると、ペレキュデースとスゥイダス(III)は謂う。F 60-62参照。
F2
MARCELLIN. Vit. Thukyd. 2-4:
すなわち、(sc. トゥキュディデースは)血筋の点では古くから将軍ミルティアデースと親しく、ミルティアデースの家系は、ゼウスの子アイアコスに親しいのである。……[3]これらのことはディデュモスが証言しており、ペレキュデースが『歴史』第1巻の中で次のように言っていると主張するのである。「アイアスの子ピライアスはアテナイに住んでいた。これから生まれたのがダイクロス。これの子がエピリュコス。これの子がアケストール。これの子がアゲーノール。これの子がウウリオス。これの子がリュケース。これの子がトポーン。これの子がライオス。これの子がアガメストール。これの子がティサンドロス。[これがアテナイの執政のとき。ミルティアデース]これの子がヒッポクレイデース。これが<アテナイで>執政のとき、パンアテーナイア祭が執行された。<これの子がキュプセロス>。これの子がミルティアデースで、ケッロネーソスを建設した」。[4]このことはヘッラーニーコスも表題『アソーポス一族』(4 F 22)という書の中で証言している。F 60を見よ。
F3
a) SCHOL. PINDAR. O III 59:
コローニスはラケレイアに住んでいたと、ペレキュデースが第1巻の中に記録している。アミュロスの泉のあたりである。カラスについても説明されている。また、アポッローンがアルテミスを派遣したこと、あるいは、数多くの女たちを同時に殺害したことも。さらに、アポッローンがイクテュスを殺害し、アスクレーピオスをケイローンに与えた。ボイビアースネッソーニスとも言われたとは、アルキノスが『テッサリア誌』(III)の中で。ボイビアースは、ニンフのひとりボイベーイスにちなんで呼ばれた。
b) SCHOL. EURIP. Alkest. 1:
F 35aは、ここに属する。F 59を見よ。
F4
SCHOL. APOLLO. RHOD. IV 1091:
すなわち、ディクテュス〔「網」の意〕とポリュデクテースと〔の兄弟〕である。〔彼らは〕ペリカストールの娘アンドロトエーと、ポセイドーンとアミュモーネーとの間に生まれた子ナウプリオスの子ダマストールの子ペリステネースとの子であると、ペレキュデースが第1巻の中で。F 10を見よ。
F5
STEPH. BYZ.「ヒュシア」の項。
ボイオーティアの都市……この都市についてはトゥキュディデース第3巻(24, 2)。ヒュリア人たちの植民市。アンティオペーの父ニュクテウスの建設。……アルゴス地方にもヒュシアという村があると、トゥキュディデース(V 83, 2)……アルカディアにも〔ヒュシアという〕都市があると、ペレキュデース第1巻。
F6
SCHOL. ALKMAN F 23, 6 Bgk.:「エウテイケーとアナクターとアレーイオン」
。 ペレキュデースは、第1巻(?)の中で、ヒッポコオーンの裔のアレーイトンのことだと。しかし、τをつけてそういうふうに書いてはならないか、あるいは、アルクマンはアレーイトンのことをアレーイオンと〔書いた〕のだ。
F7
SCHOL. APOLL. RHOD. II 1248:
ペレキュデースは、第2巻の中で、プロメーテウスに送られたワシは、テュポーンと、ポルキュスの娘エキドネーとの子だと謂う。
F8
SCHOL. APOLL. RHOD. I 1212:
ペレキュデースは第2巻のなかでこう謂う。「ダナオスの娘ポリュドーラーと媾合したのが河神ペーネイオス。彼らの間に生まれたのが、ドリュオプス、これにちなんでドリュオプスの裔(DruvopeV)と呼ばれる。彼らはスペルケイオス河のほとりに住んだ」。F 19. 57.を見よ。
F9
同上、同人、同書、I 146:
ペレキュデースは、第2巻のなかで、プレウローンの娘ラオポンテーから、テスティオスに、レーダーとアルタイアが生まれたと謂う。4 F 119を見よ。
F10
同上、同人、同書、IV 1091:
ペレキュデースは第2巻のなかにこう記録している。アクリシオスは、ラケダイモーンの娘エウリュディケーを娶った。男児について神託を請うた彼〔アクリシオス〕に、神はピュートー〔デルポイの古名〕において託宣し、彼に男児は生まれない、娘からは生まれる、しかし、その子によって彼は亡き者にされようといった。そこで彼はアルゴスに引き返し、屋敷の中庭の地下に青銅の婦人部屋を作り、ここにダナエーを乳母とともに押しこみ、ここで彼女を見張った。彼女から子が生まれないようにするためである。しかしゼウスがこの娘子に恋をし、屋根から黄金の〔雨の〕ようになって流れた。彼女は子宮に受け、ゼウスは自分をこの娘子に明らかにして交合した。彼らから生まれたのがペルセウス、これをダナエーと乳母はアクリシオスに隠して育てた。しかしペルセウスが3歳になり、4歳になったとき、〔アクリシオスは〕彼が遊んでいる声を耳にし、従僕たちを介してダナエーを乳母ともども呼びつけ、後者を成敗し、ダナエーの方は子どもといっしょにゼウス・ヘルケイオス〔家の護りのゼウス〕の基なる祭壇の上に引き据え、その子が彼女にどこから生まれたのか彼女をただただ問いつめた。しかし彼女はゼウスからと謂った。彼は聞き入れず、彼女を子どもともども箱の中に押し込め、閉ざして海に投げこんだ。かくして彼らは運ばれて、セリーポスという島にたどり着き、ペリステネースの子ディクテュスが網にかけて彼らを引き上げた。その後、ダナエーは箱を開けるよう懇願した。彼が開け、彼らが何者か知って、屋敷に連れて行き、自分の同族であるかのように養った。これはF 4. F12.に続く。
F11
同上、同人、同書、IV 1515:
ペルセウスは、セリーポスのディクテュスのもとで母とともに過ごし、若者となったとき、ディクテュスの同母の兄弟ポリュデクテースがセリーポスの王となり、ダナエー〔ペルセウスの母〕を見て、彼女に恋をしたが、共寝するすべがなかった。そこできわめてうまく準備して、他の多くの者たちとともに当のペルセウスをも呼んだ。そして、ペルセウスが、祝宴の進物に何を祝ってくれるかと尋ねられたとき、ひとは馬をと謂ったのに、ペルセウスはゴルゴーンの頭をと云った。祝宴が終わった次の日に、他の宴客たちが馬を献上し、ペルセウスも。しかし相手〔ポリュデクテース〕は受けとらず、約束どおり、ゴルゴーンの頭を要求した。しかも、持ってこなければ、おまえの母親はわしのになると謂った。彼〔ペルセウス〕は我が身の災いを嘆き悲しみながら、島の端に行った。するとヘルメースが彼に巡り会い、彼を問いただして、悲嘆の理由を知った。そこで彼〔ヘルメース〕は元気を出せと云って、先ず、ポルクスの娘グライアたち、つまり、ペムプレードー、エニュオー、デイノーのところに案内した。アテーナーは先回りして、彼女たちがお互いにやりとりしていた1眼・1歯を奪っておいた。それと気づいた彼女らは泣き叫び、眼と歯を返してくれるよう嘆願した。というのは、彼女らはその1つを順番に使っていたからである。さてペルセウスは、それは自分が持っていること、そして、ハーデースの兜と翼のついたサンダルと皮袋(kivbisiV)を所持しているニンフたちを自分に教えてくれたら、返してやろうと謂った。彼女たちが彼に告げ、ペルセウスも返してやった。そしてヘルメースとともにニンフたちのところへ行き、懇願して受けとり、翼のついたサンダルを履き、皮袋を肩にかけ、ハーデースの兜を頭にかぶった。かくして、オーケアノスとゴルゴーンたちのところへ飛んで行った、ヘルメースとアテーナーも彼について行ったのだが。かの女たちが眠っているのを〔ペルセウスは〕見つけた。くだんの神々は、顔をそむけて頭を切らなければならない所以を示唆し、メドゥーサを示した。ゴルゴーンたちのうち、彼女のみが死すべき存在だったからである。彼は近づいていって首を切り、皮袋に入れて運び去った。彼女たちが気づいて追いかけたが、彼の姿が見えない。こうしてペルセウスはセリーポスに帰り着き、ポリュデクテースのもとにやってきて、ゴルゴーンの頭を人々に見せるため、民を集めるよう申し入れた。これを見た者は石になることを知っていたからである。ポリュデクテースが群衆を集め、見せるよう彼に命じた。彼は、顔をそむけながら皮袋から取り出し、示した。すると、これを見た者たちは石になった。アテーナーはペルセウスからその頭を受けとり、自分の神楯(aijgivV)のなかに収めた。ヘルメースには皮袋とサンダルと兜を返した。彼〔ヘルメース〕が再びニンフたちに返した。〔この話は〕ペレキュデースが第2巻のなかに。
F12
SCHOL. APOLL. RHOD. IV 1091 (F 10 と F 4が先行する):
続く箇所で、アクリシオスの死についてもこう謂っている。[セリーポスにおいて]、ゴルゴーンの頭のせいで、ポリュデクテースと、彼といっしょにいた者たちが石になった後、ディクテュスをばペルセウスはセリーポスの残りの者たちを王支配することを任せ、みずからは、キュクロープスたち(F 46?)、ダナエー、アンドロメダーをともなって、航行してアルゴスに上陸したが、アルゴスにアクリシオスを見出すことはできなかった。というのは、彼を恐れて〔娘から生まれた子どもに殺されるという神託があった〕、ペラスゴイ族のところラリッサに退いていたからである。彼を捕まえられなかったので、ダナエーとアンドロメダーとキュクロープスたちを〔ダナエーの〕母親エウリュディケーのもとに残して、みずからはラリッサに攻めのぼった。そうして、到着すると、アクリシオスを認め、自分といっしょにアルゴスまでついてくるよう説得した。まさに出発するにあたり、ラリッサで競技が開催された。ペルセウスもその競技に参加し、円盤をとって投げた。これは五種競技ではなく、各自ひとりひとりの競技者が競技したのである。円盤は回転しながらアクリシオスの足の方へ飛び、彼を傷つけた。
F13
a) ATHENAI. XI 474 F(Macrob. s. V 21, .):
カルケーシオン(karchvsion)という酒杯は最も古いことになる、もしも、ペレキュデースが第2巻で、ヘーラクレイア人ヘーロドーロス(31 F 16)も記録しているとおり、ゼウスがアルクメーネーと交わったとき、その交わりの褒美にこれを贈り物として与えたとするなら。 b) SCHOL. MV HOM. Od. XI 1266:
テーレボエース人はアルゴス人たちに向かって出兵し、家畜〔牛群〕をめぐって争っていたエーレクトリュオーンの子どもたちを殺害した。またアムピトリュオーンも、エーレクトリュオーンを心ならずも殺したので、テーバイに亡命した。エーレクトリュオーンの娘アルクメーネーは、自分の兄弟たちのために、テーレボエース人たちに報復するまでは結婚することを拒んだ。そこでアムピトリュオーンがそれを請け合い、彼女をテーバイに連れてきて、テーレボエース人を攻撃するため進撃した。**その夜、アムピトリュオーンの屋敷にゼウスが、アムピトリュオーンの姿で、カルケーシオンを持ってやって来たので、アルクメーネーは、自分のpastovV?だと思って、テーレボエース人たちについて、連中を殺害したかどうかと尋ねた。そこでゼウスは起こったかぎりにことを彼女に言い、最勇者が将兵たちに捕まったと言ったので、彼女は喜んで???。次いでゼウスは彼女と共寝して立ち去り、その同じ夜に、やって来たアムピトリュオーンとも交わった。かくして、アルクメーネーは、ゼウスからはヘーラクレースを、アムピトリュオーンからはイピクレースを生んだという。この歴史はペレキュデースにある。
c) SCHOL. A(B) HOM. IL. XIV 323:
エーレクトリュオーンの娘で、アルカイオスの娘アナクソーとの間に生まれたアルクメーネーに恋をしたのがアムピトリュオーンであった。彼は牛群をめぐっての諍いからエーレクトリュオーンを亡き者にしたので、アルゴス人のもとからテーバイへ亡命した。アルクメーネーも彼と行をともにした。この都市を王支配していた者たちに喜んで迎え入れられ、クレオーンとヘーニオケーの最大の敬意をかちえた。しかしアルクメーネーは、自分の兄弟の殺害者であるテーレボエース人たちが亡き者にされないかぎり、結婚することを拒んだので、アムピトリュオーンは彼らと戦争すべく、ボイオーティア人とロクロイ人、さらにはポーキス人たちをも身方につけ、1年間包囲した。そして、出征からもどって、自分とアルクメーネーとの結婚式を挙行したが、その同じ夜に、ゼウスが彼女に恋して、アムピトリュオーンの姿をとって交わって、息子をつくった。同じ夜に、アムピトリュオーンとも同様に〔交わった〕。こうして、彼女は早くも7ヶ月間の交わりの後、ゼウスからはヘーラクレースを生み、アムピトリュオーンからはイピクレースを〔生んだ〕。
同、324:
言い伝えでは、ゼウスはアルクメーネーと共寝せんとして、3日間、昇ることのないようヘーリオスを説き伏せたという。こうして、3夜ゼウスは彼女と共寝し、trievsperoV〔3連夜でもうけられた〕ヘーラクレースをつくった。この歴史はペレキュデースの作品にある。
F14
SCHOL. PINDAR. J IV 104〔61〕:「彼のため、エレクトラ門から上ったところで、われら市民は宴を設け、祭壇の群に新たな花輪を用意して、八人の青銅武具の死者たちに クレオーンの娘メガラーが彼に生んだ息子たちに 犠牲を焼いて燃えあがらす」
。 メガラーによってもうけたヘラクレースの子どもたちのうち、リュシマコス( F X Ra)が謂うには、ヘーラクレースによってではなく、ある外人たちによって謀殺されたのがと記録している人たちがいるという。しかし、ある人たちは、彼らを殺害したのは王のリュコーンだと謂う。ソークラテース(III)は、彼らはアウゲオスによって謀殺されたと。またその数についてもまちまちである。ディオニュシオスは、『円環』第1巻(15 F 2)の中で、テーリマコスとデーイコオーン〔を挙げる〕。エウリピデース(Her. 970 ff. F 1016)は、彼らに加えて、アリストデーモスを。アルゴス人デイニアス(III)は、テーリマコス、クレオンティアデース、デーイコオーン、デーイオーンを。ペレキュデースは第2巻の中で、アンティマコス、クリュメノス、グレーノス、テーリマコス、クレオンティアデースを〔挙げ〕、彼らがその父親によって火中に投げこまれたと言う。バトーンは『アッティカの歴史』の第2巻(III)の中で、ポリュドーロス、アニケートス、メーキストポノス、パトロクレース、トクソクレイトス、メネブロンテース、ケルシビオスを〔挙げる〕。ヘーロドーロス(31 F 32)は、ヘーラクレースは二度も発狂したと謂う。しかしシカロスに浄めてもらったと、メネクラテース(III)は謂い、彼の子どもたちは8人で、呼ばれたのはヘーラクレースの後裔とではなく ヘーラクレースとはまだ名づけられていなかったから アルカースの後裔とである、と。
F15
a) SCHOL. APOLL. RHOD. II 992 (STEPH. BYZ.「=Akmoniva」の項:「〔アマゾーン女人族は〕ドイアースの平野に住んでいた……。というのも、生まれはアレースと、ニンフのハルモニエーとの娘であったから。この〔ニンフ〕が、アクモーンの森の谷間で共に寝て、軍を好む乙女らをアレースに生んだのだ」
エイレーナイオスはアクモーンの森を明らかにしなかった。しかしこれはテルモドーンの河畔にある。これに言及しているのはペレキュデース第2巻中。
b) 同上、同人、同書、II 373:「ここにドイアースの平野がある。近くにはアマゾーン女人族の3つの都市が」
ドイアーストアクモーンは兄弟。父親が誰かは、伝えられていないと、ペレキュデースが謂っている。
c) 同上、同人、同書、II 990:
〔ハルモニエーは〕水のニンフのハルモニアのこと。彼女とアレースとの娘がアマゾ−ン女人族だとペレキュデースが謂い、アポッローニオスはこれにしたがっている。
F16
a) SCHOL. APOLL. RHOD. IV 1396:「聖なる平野、そこには土地の大蛇ラードーンが昨日までアトラスの庭で黄金のリンゴを見張り、そのまわりにニンフのヘスペリスたちが〔愛らしい歌をうたいながら立ち働いていた〕」
……ペレキュデースが第2巻の中で謂うには、ヘーラーが結婚したとき、ゲーは黄金のリンゴの実を持ち来たって進物とした。そして、ゼウスとテミスとの間に生まれ、エーリダノス河(F 74)のほとりの洞穴に住んでいるニンフたちが、黄金のリンゴはどこに行けば手に入るか〔わからず〕困っているヘーラクレースに、ネーレウスに教えてもらうよう示唆した。そこで彼〔ネーレウス〕を力ずくで捕らえたが、相手は先ず初めに水と火に変身し、次いで元通りの姿になって明かしたと謂う。F 17に続く。
b) 同上、同人、同書、p.523, 31 K.:
ヘーラーを娶ったゼウスに、オーケアノスのほとりにある黄金のリンゴを贈り物としてゲーが献上したと、ペレキュデースが第2巻の中で謂っている。これを見張っていたのが、テュポーンとエキドナとの間に生まれたオピス〔「蛇」の意〕で、100の頭とあらゆる声を持っていた。
c) ERATOSTH. Catast. 3 p.60 Rob.(=HYGIN. Poet. astr. II 3. SCHOL. GERM. p.60, 10 Br.):
すなわちペレキュデースが謂うには、ヘーラーがゼウスに娶られたとき、神々は彼女に贈り物を携えてきたが、ゲーは黄金のリンゴを持ってやって来た。これを見たヘーラーは驚嘆し、神々の園 これはアトラースのところにあったが に植えるよう云った。しかし、リンゴはかの〔アトラース〕の乙女たちにしょっちゅうくすねられるので、巨大な蛇を見張りに任じた。
d) SCHOL. EURIP. Hippol. 742:「ヘスペリスらの」。
ここに黄金のリンゴが蒔かれた。ペレキュデースは、彼女らはゼウスとテミスの娘たちだと謂う。F 73を見よ。
F17
SCHOL. APOLL. RHOD. IV 1396 (F 16a が先行する):
彼〔ヘーラクレース〕は次のようにして黄金のリンゴを取りに行った。タルテーッソスに着いて、リビュエーへと進み、そこで、ポセイドーンの子、乱暴者のアンタイオスを亡き者にし(F 75. 76)、次いで、ネイロス〔ナイル〕河のほとり、メムピスのポセイドーンの子ブーシーリスのもとに到り、これと、その子イーピダマース、伝令官カルベー、そして従卒隊を、ゼウスの祭壇 ここで彼らは外人殺しをしていた のもとで殺した。そしてテーベに到り、山脈を通って、外リビュエーに行き、そこの荒野で、数多くの野獣を射殺した。リビュエーを浄化した後、外にある海へと下り、ヘーリオスから黄金の台杯をもらい、これによって大地と海、またオーケアノスをはるか遠く対岸へと渡った。そしてプロメーテウスの方へと出て行ったところを、彼に目撃され、嘆願するのを憐れんで、その肝臓をむさぼり食うワシ(F 7)を殺した、飛来するところを弓射して。この礼に、プロメーテウスが教えるには、リンゴを取りに行かないよう、アトラースのところに行って、彼に持って来させるよう、そして、アトラースの代わりに、ヘスペリスたちのところからリンゴを持ってくるまで自分が天を支えるようにとのことだった。ヘーラクレースは聞いて、アトラースのところに行き、相手がヘスペリスたちのところからリンゴを三個取って持ってくるよう命じた、褒美のことを詳しく述べたうえで。そこでアトラースは、ヘーラクレースの肩に天を預け、ヘスペリスたちのところに行って、彼女たちからリンゴを受けとり、再びヘーラクレースのところにもどり、リンゴは自分がエウリュステウスのところに持って行くと謂い、天はおまえが自分の代わりに支えていろと命じた。ヘーラクレースは策略で引き受け、アトラースに我が身を投げ出した。というのは、プロメーテウスが彼に言っていたからである、円座を頭上に載せる間、天球を引き受けてくれるよう頼めと教えて。そこで相手がリンゴを地上に置き、天を受けとった。ヘーラクレースはリンゴを取ると、アトラースに礼を言って、ミュケーナイのエウリュステウスのもとに帰り、彼にそれを示した。以上のごとく同じペレキュデースが第2巻のなかに記録している。
F18
a) ATHENAI. XI 470 CD (MACROB. s. V 21, 19):
ペレキュデースは、『歴史』第3巻の中で、オーケアノスのことを先ず述べたあと付言している。「ヘーラクレースは、彼〔オーケアノス〕を射んものと、弓を引きしぼった。が、ヘーリオスがやめろと命じたので、彼は恐れてやめた。ヘーリオスはこの見返りに、彼に金の盃(devpaV)を与えたが、これは、ヘーリオスが沈んだ後、夜の間に、馬車馬ともども彼〔ヘーリオス〕を東へとオーケアノスを渡らせ、[ヘーリオスが]また東から昇るためのもの。その後、ヘーラクレースはこの盃に乗ってエリュテイアへと進んだ。彼が大海に出たとき、オーケアノスが彼を試さんものと姿を現し、盃を大波で揺さぶった。彼〔ヘーラクレース〕が相手に矢を射んとすると、オーケアノスは彼を恐れて、やめろと命じた」。
b) STRABON III 5, 4:
ゲーリュオーンをめぐる出来事はここ〔エリュテイア〕でおこったと神話されているが、ペレキュデースは、エリュテイアをガデイラと言っているらしい。しかし他の人たち(Ephor. bei Plin. IV 120)は、上記の都市と並行した位置にある島のことで、〔この島とガデイラとの間を〕1スタディオンの海峡が隔てる。〔この説を採るのは、この島が〕牧畜に適していると見るからである……」。
F19
SCHOL. APOLL. RHOD. I 1212:
〔sc. ヘーラクレースが〕赴いたのはドリュオピア。メーリス人と同じく盗賊の族民だと、ペレキュデースが第3巻の中で謂っている(vgl. F 8) ……
F20
SCHOL. T HOM. Il. XXIII 296:
ペレキュデースも†第3巻のなかで。「ペロプスの子クレオーニュモスは、建国者アトレウスのクレオーナイに住んでいた。これから生まれたのがアンキセース。これの子がエケポーロスである」。2 F 3を見よ。
F21
SCHOL. APOLL. RHOD. III 1186:「アゲーノールの子カドモス」。
ある人々は、カドモスはアゲーノールの子だと言い、ある人々はポイニクスの子だという。ペレキュデースは、第4巻の中で次のように謂う。「ポセイドーンの子アゲーノールは、ベーロスの娘ダムノーを娶った。彼らから生まれたのが、ポイニクス、アイギュプトスが得たイサイエー、ダナオスが得たメリアである。その後、アゲーノールはネイロス河の娘アルギオペーを得た。彼らから生まれたのがカドモスである」。
F22
a) SCHOL. APOLL. RHOD. III 1179:
カドモスのテーバイへの登場について、リュシマコスは『テーバイの驚異集』(III)の中で、またヘッラーニーコスも『ポローニス家』第1巻(4 F 1)で記録しているところでは、大蛇の牙をアレースの指図で播いた、するとすべて武装した男たちとなった、ウゥダイオス、クトニオス、ペロール、ヒュペレーノール、エキオーンだと記録している。アポッローニオスは、他にも多くの男たちが現れ、しかもお互いに戦闘に及んだと考えている。[ムゥサイオスは]『ティタノグラピア』第3巻(p.228 Ki)の中で言うには、カドモスは、牝牛が彼を案内するがままに出発したのはデルピコスからだと言う。エーリス人ヒッピアスは『諸族の名称』(6 F 1)の中で、ある族民がスパルトイと呼ばれたと。またアトロメートス(VI)も同様に。ペレキュデースは第5巻の中で次のように謂う。「カドモスがテーバイに住んだので、アレースとアテーナイエーは、ヘビの牙の半分を彼に与え、半分をアイエーテースに〔与えた〕。そこでカドモスはすぐにそれを、アレースの言いつけで畑に播いた、すると彼の前に武装した多くの男たちが生え出た。カドモスは恐れて、彼らに石を投げた。彼らは仲間によって投げられたと思って、お互いに戦いあい、5人を除いて殺してしまった。ウゥダイオス、クトニオス、エキオーン、ペロール、ヒュペレーノールである。彼らをカドモスは市民とした」。
b) SCHOL. PINDAR. J VII 13:
ペレキュデースによれば、スパルトイ人〔「播かれた男たち」の意〕には2つの氏族があるという。というのは、アレースとアテーナーは、〔大蛇の〕牙の半分をカドモスに、半分をアイエーテースに与えたというから。
c) [APOLLOD.] Bibl. III 24:
ペレキュデースは謂う。カドモスは、大地から生え出た完全武装した男たちを見て、彼らに向かって石を投げた。すると彼らは、お互いに相手が投げたと考えて、戦闘状態に陥った。そして5人だけが生き残った。エキオーン、ウゥダイオス、クトニオス、ヒュペレーノール、ペロールである。F 88を見よ。
F23
SCHOL. PINDAR. O IX 87a〔57〕:「時経てオリュムポスの主が、オプゥスの娘をエペイオイの地から掠い、マイナロスの峰で心おきなく交わった後、ロクロスのもとへ連れて行った」。
ピンダロスは、プロートゲネイアはゼウスによって掠われてマイナロン山に……連れて行かれた、プロートゲネイアはエーリス人たちの王オプゥスの娘であると謂うが、他の人たちは、プロートゲネイアはピュッラとデウカリオーンとの間の娘だと言うと、ペレキュデースが第5巻の中で謂っている。
F24
SCHOL. T HOMER. Il. XV 336:「義理の母エリオーピスの兄弟を、オイレウスは妻としていた」。
この詩人と同様に、ヘッラーニーコス(4 F 121)も、エリオーペーをアイアースの母親だと謂う。ペレキュデースは、第5巻のなかで、ムナセアスは第7巻のなかで、アルキマケーだと。『ナウパクトス誌』の作者(F 1 Ki)は、彼女は異名同人だと謂う。「末娘をばエリオーペーと名づけたが、父親とアドメートスは、アルキマケーと呼んだ」。
F25
a) SCHOL. APOLL. RHOD. II 1149:「アイエーテースは彼〔プリクソス〕を館に迎え、彼の手に乙女カルキオペーをゆだねた」
ペレキュデースは、第6巻で、彼女はエウエーニアと呼ばれたと謂う。カルキオペーとイオポーッサは彼女の別名である。
b) HESYCH.「イオポ−ッサ」の項。
カルキオペーのことだと、ペレキュデースは謂う。
F26
SCHOL. APOLL. RHOD. I 23:「先ずは初めにオルペウスの名をあげよう」。
ヘーロドーロス(312 F 42)は、オルペウスは二人いたと謂う。ひとりは、アルゴー号の乗組員たちといっしょに船出したという。ペレキュデースは、第6巻の中で、いっしょに船出したのはピラムモーンであって、オルペウスではないと謂う。F 106-110を見よ。
F27
同上、同人、同書、II 181:「対岸のビーテューニアにもやい綱を結びつけた。そこにはアゲーノールの子ピネウスが海辺に住んでいた」。
ピーネウスは、ボスポロスに到るまでのアシアに住む全トラキア人 それはビーテューニア人とパプラゴニア人であった を支配していた。ペレキュデースが第6巻の中で謂うには、……彼の子として生まれたのがマリアンデューノスとテューノスである。そして、テュノスにちなんでテュネーイス〔地方〕、マリアンデューノスにちなんでメリアンデューニア〔地方〕と命名されたと〔人々は〕言う。
F28
同上、同人、同書、II 271:「彼女ら〔ハルピュイアたち〕は、たちまちすべてを食り食って、海の上をはるか遠くへ飛び去った。……しかしボレアースの二人の息子はそのあとを追いかけた。……彼らにゼウスが疲れを知らぬ力を吹きこんだからだ。……彼らははるか遠くプロータイ〔「浮き島」〕の上で追いつき、神々の意志に背いて怪鳥を引き裂いただろう、もし足の速いイリスがそれを見て……ステュクスの水を注いで誓わなかったら。……彼女らがアゲーノールの子ピネウスの館に今後再び近づくことはけっしてないだろうと。……今の世の人々はストロパデース〔「引き返し島」〕と呼ぶ……。ハルピュイアたちとイリスは、それぞれ別の道をとった。彼女〔ハルピュイア〕たちは、ミノース王のクレーターにある隠れがに潜りこんだ」。
アイガイオン海とシケリア海とを通って彼女らを追跡したと、ペレキュデースは第6巻の中で謂っている。
F29
SCHOL. APOLL. RHOD. II 299:
〔ハルピュイアたちは〕クレーテーの洞穴に潜りこんだ。このことはネオプトレモスも謂っている。『ナウパクトス誌』の作者(F 3 Ki)と、ペレキュデースは第6巻のなかで、アルギノン山の峰下にある洞窟に逃れたと謂う。(F 165)
F30
同上、同人、同書、III 411:「口から炎を吐き、青銅の足持つ二頭の牡牛を〔飼っている〕。わしはこれを軛につけ、アレースが捧げた固い四町歩(tetravguon)の畑で追う」。
guovnは「男が1日に耕すことのできる範囲」(Od. XVIII 374)。50ギュオンのことだと、ペレキュデースが第6巻のなかで謂っている。F 22, 112を見よ。
F31
SCHOL. APOLL. RHOD. IV 156:
この箇所と続く箇所で彼〔アポッローニオス〕は謂う メーデイアは、その大蛇崇拝していたので、ユニペルの薬をふりかけて眠らせた。そうして、その獣が眠っている間に、両人は船へと退却した。これはアンティマコスと同調している。ペレキュデースも、第7巻の中で、大蛇はイアソーンによって殺害されたと謂う。
F32
a) 同上、同人、同書、IV 223:
アポッローニオスが〔云うには〕、アイエーテースは、手綱を操るアプシュルトスの馬車ともども、なすすべもなく引き返したという。ミーレートス人ディオニュシオス(32 F 12)が謂うには、アイエーテースは船を拿捕し、貴族たちが並み居る前で、アルゴス人イーピス、すなわちエウリュステウスの兄弟を亡き者にし、みずからも多くの者たちを投げ捨てたという。ペレキュデースが第7巻の中で謂うには、メーデイアは小さなアプシュルトスを寝台から引っさらった、アルゴー号の乗組員たちのところに連れてくるようイアソーンが彼女に云ったからだという。しかし、彼らは追跡されたので、喉を掻き切って、細切れにして、河の中に投げこんだという。『スキュティアーの人々』の中でソポクレース(F 503)〔F 546〕は、アプシュルトスはメーデイアの腹違いの子だと言う。
b) 同上、同人、同書、IV 228:
……ペレキュデースが〔謂うには〕、追われた者たちはアプシュルトスを船上にあがらせ、細切れにして河の中に投げ捨てたという。ソポクレースは『コルキスの人々』(F 319)〔343〕の中で、その子はアイエーテースの館で斬殺されたと謂う。
c) SCHOL. EURIP. Med. 167:「ああ、お父さま、ああ、古里よ、それらを捨てて出てきたわたし。無惨にも、実の弟をこの手にかけて」。
ティマキダースは、アプシュルトスは皆の手にかけられたと彼女は言っていると謂うが、エウリピデースはここでも、また『アイゴス』でも、アプシュルトスの名を明らかにしていない。ペレキュデースはξによって彼の名〔クシュルトス?〕を呼んでいる。ディカイオゲネースは『メーデイア』(p.775 N2)の中で、彼をメタポンティオスの名で呼んでいる。彼が亡き者にされたのはメーデイアによってだとある人々はいい、ある人々はアルゴー号の乗組員たちによってだという。弁論家レオーン(II)は、彼は惨殺されたのではなく、薬物でおだぶつにされたという。
F33
SCHOL. MV HOM. Od XI 287:
ポセイドーンの子ネーレウスは、その名をペーローという娘を持っていた。美しさにおいて際立ったこの娘を、彼は誰にも嫁にやろうとしなかった。ピュラケーから、母親テューローの牝牛たちをイピクロスのもとから誰か追い立てて来る者でないかぎりは。誰しもが尻込みしている中で、アミュンターオーンの子ビアースのみが、それをやってのけることを約束し、兄弟のメラムプゥスに、この仕事をやってのけるよう説き伏せた。しかし、彼〔メラムプゥス〕は、占い師として、1年間捕囚となることを知っていたので、オトリュス〔山〕の方、牝牛たちのもとにたどり着いた。ここにおいて、ピュラカイ人たちや牛飼いたちは、盗もうとした彼を捕まえ、イーピクロスに引き渡した。そこで〔イーピクロス〕は受けとって、彼の面倒をみる二人、男と女の配偶者に見張らせた。男の方はよく彼の面倒をみたが、女の方はよくなかった。さて、1年が終わろうとする少し前になって、メラムプゥスは、天上で虫のようなものたちが、梁をすっかり食い尽くしてしまったと話しているのを聞いた。これを聞いて、世話人たちを呼んで、自分を運び出すよう命じた。女は、寝椅子の足の方を持ち、男は、頭の方を持って。彼らは彼を担いで運び出した。それと時を同じくして、梁も砕け落ち、女に当たって、女を殺した。男の方はピュラコス〔イーピクロスの父〕に報告した。ピュラコスは出来事をイーピクロスに。彼らはメラムプゥスのもとに赴き、彼に何者かと尋ね、彼は、占い師だと謂った。そこで彼らは、イーピクロスに子どもたちが生まれる何か方策を見つけたならと、彼に牝牛たちを与えることを請け合ったうえで、そのことを契りあった。そこでメラムプゥスは、牝牛をゼウスに生け贄にしたうえで、鳥たちすべてに分け前を分配した。鳥たちすべてがやってきたが、1羽のハゲタカだけは来なかった。そこでメラムプゥスはすべての鳥たちに、どうしてイーピクロスに子どもたちが生まれないのか、その次第を知っている者がいるか尋ねた。かの鳥たちは困って、ハゲタカを連れてきた。するとこれ〔ハゲタカ〕は、種を播いても子のない理由を簡単に見つけた。すなわち、ピュラコスは、イーピクロスがまだ幼いとき、これが何か不都合なことをしたのを見て、戦刀〔聖刀〕を持って追いかけたことがある。その後、ピュラコスは〔イーピクロスを〕つかまえて、その戦刀をアクラスの木に突き刺したまま、この木に樹皮が巻きつき、イーピクロスは恐怖からもはや子どもをつくることができないのだという。そういう次第で、ハゲタカは、アクラスの木の中にある戦刀を取り出し、これの錆を削り落として、ブドウ酒に入れて、十日間、イーピクロスに服用させよ、そうすれば、これによって彼に子どもが生まれるであろうと指図した。これを実行して、イーピクロスは跡継ぎ得る力を回復し、ポダルケースという子どもをもうけた。そうして、メラムプゥスに牝牛たちを与えた。これをもらってピュロスに引き返し、ネーレウスにペーローの稼資を与えた。そうして彼女を兄弟ビアースの妻に迎え、これにもペリアルケース、アレートス、アルペシボイアという子どもたちが生まれた。この歴史はペレキュデース第7巻の中にある。F 114を見よ。
同上、SCHOL. EURIP. Alkest. 1:
「アドメートスのもとでアポッローンの賃働きに関して人口に膾炙している歴史が、……死者を生き返らせたからである」:F 35aを見よ。
F34
SCHOL. MV HOM. Od. XI 321:
デーイオネウスの子ケパロスは、エレクテウスの娘プロクリスを娶って、トリコス〔?Qoraievwn〕の地に住んだ。言われているところでは、彼は妻を試そうとして、まだニンフだった彼女を残して、8年間、異郷に暮らした。その後に、身繕いして、他人になりすまし、装身具を持って館に帰り、これを受け取り、自分と共寝するよう、プロクリスを口説いた。プロクリスは、その飾りに色目を使い、ケパロスがすこぶる美しいのを目にして、これと共寝した。すると、ケパロスは自分の身を表し、プロクリスをなじった。けれども、仲直りして狩りに出かけた。彼がそれに没頭していたとき、プロクリスは、彼がほかの女と交わっているのかと猜疑した。そこで家僕を呼びつけ、関知しているかどうかと言った。召使いは謂った ケパロスはある山の頂上を見て、続けさまに「おお、ネペレー〔「雲」〕よ、来たりませ」と言っている。関知していることは、これだけだ、と。プロクリスはこれを聞いて、その山頂に行き、身を隠していた。すると、彼が同じことを言うのを耳にして、彼の方に駈けだしたが、ケパロスは思いがけなく彼女を見たので我を忘れて、ただちに手の槍をプロクリスに投げ、殺した。エレクテウスを招いて、彼女を丁重に埋葬した。この歴史はペレキュデースの第7巻にある。
F35
a) SCHOL. EURIP. Alkest. 1:「ああ、さらばアドメートスの屋敷よ、ここでわたしは神の身でありながら、敢えて日雇い人の貧しい食膳に甘んじてきたのであった。それもつまりはわたしの倅アスクレーピオスの胸に雷の火を撃ち込んで亡き者にされたゼウスのせいであった。これに腹を立てたわたしは、ゼウスの雷火の作り手なるキュクロープスらを殺したが、父神はその罰としてこのわたしに人間に仕えて労役に服せと、有無をいわせず命ぜられた」。
アドメートスのもとでアポッローンの賃働きに関して人口に膾炙している歴史が、これであり、今、エウリピデースはこれを利用している。ヘーシオドス(F 127)もそのように謂い、アスクレーピアデースも『悲劇の物語』(12 F 9)の中で〔そのように謂う〕。しかしペレキュデースは、キュクロープスたちがアポッローンによって亡き者にされたことを否定し、〔亡き者にされたのは〕彼らの息子たちであると謂って、次のように書く。「彼[アドメートス]のもとに行って、アポッローンは、1年間、賃働きをした。ゼウスが命じたからであるが、その所以は、ブロンテース、ステロペース、アルゲースの子どもたちを殺したからである。しかし、これらのものたちをアポッローンが殺したのは、ゼウスを責めていうには、ゼウスはわが子アスクレーピオスを雷霆でピュトーンで殺した、死者を癒して生き返らせたせいで、と」。デルポイ人アナクサンドリデース(III)が謂うには、彼が賃働きしたのは、ピュトーで大蛇を亡き者にしたからだという。リアノスが謂うには、自発的にアドメートスの奴隷になったのであり、それは彼を恋していたからだという。アポッロドーロス(II)が謂うには、アスクレーピオスが雷霆に撃たれたのは、ヒッポリュトスを生き返らせたせいだという。アメレーサゴラス(III)は、〔生き返らせたのは〕グラウコスをだという。パニュアッシス(F 19 Ki)は、テュンダレオスをだという。オルフィック教徒たちは、ヒュメナイオスをだという。ステーシコロス(F 16)は、カパネウスとリュクゥルゴスのせいだという。ペレキュデースは、『歴史』第1巻の中で、デルポイの死者たちを彼が生き返らせたと謂う。ピュラルコス(II)は、ピーネウスの子たち〔プレークシッポスとパンディーオーンの盲目を治してやった〕せいだという。テレサルコス(III)は、オーリオーンのせいだという。キュレーネー人ポリュアルコス(37 F 1)は、プロイトスの娘たちを彼が治療してやり、雷霆に撃たれたと謂う。
b) SCHOL. PINDAR. P III 96:
ペレキュデースによれば、〔アスクレーピオスは〕デルポイで亡くなった者たちを生き返らせたということである。
c) PHILODEM. p. eujsb. 45b p.17 G (vgl. 131 p.52):
アスクレーピオスはゼウスによって殺されたと書いたのは、ヘーシオドス(F 125)とピンダロス(P III 57)、アテーナイ人ペレキュデースとパニュアッシス(F 19 Ki)、アンドローン(10 F 17)、アクーシラーオス(2 F 18)。エウリピデースもそのように言う(Alkest. 3)。「ゼウスがわしの倅を亡き者にされたから」。F 3を見よ。
F36
SCHOL. APOLL.RHOD. I 188:「さらにポセイドーンの息子二人がやってきた。一人はその名も高いミーレートスの都市からやって来たエルギノス、もうひとりはイムブラソスのヘーラーが鎮座するパルテニアからやって来た大力のアンカイオス」。
……ペレキュデースも第7巻のなかで謂う、アンカイオスはカリュドーンの猪に、太腿を衝かれて死んだと。
F37
a) 同上、同人、同書、i 752:
すなわち、オイノマーオスはアレースの子であり、アソーポスの娘ハルピネーの子、あるいは、ダナオスの娘エウリュトエーの子であるが、ヒッポダメイアという娘を持ち、かつ、自分の娘婿によって亡き者にされるという神託を受けていたので、馬車競技で勝利しないかぎりは、娘を嫁に出すことを拒んだ。彼ら〔求婚者たち〕に提起されたのは、出発点がクラデオース河、到着点はイストモス〔地峡〕であった。そして、13人の求婚者たちを〔オイノマーオスは〕亡き者にしたと、ピンダロスは記録する(O I 79)。さて、ペロプスが、ポセイドーンによって彼に与えられた馬たちを率いて、褒賞を求めてやって来たとき、ヒッポダメイアは恋におちいり、口説いたのはミュルティロス ヘルメースの子にして、オイノマーオスの戦車作り兼馭者 で、わが父親が馬車から転落するよう仕組めと。ペロプスと結婚したいと望んだからである。ミュルティロスは、彼女に恋をしており、彼女の愛顧を得たかったので、くさび(轄)を蜜蝋で細工し、走行中に潰れて、ペロプスが彼女との結婚を手に入れられるようにした。ペレキュデースは第7巻の中でこう謂う、彼〔ミュルティロス〕はこしき(輻)にくさび(轄)を差しこまず、そのため車輪が外れて、オイノマーオスは転落死した。オイノマーオスの馬たちは、プシュッラとハルピンナだった。ミュルティロスは、ヘルメースと、ダナオスの娘たちの一人パエトゥーサとの間に生まれた子である。しかしある人々は、クリュメネーの〔子だという〕。またある人たちは、アマゾーン女人族の一人ミュルトーから〔生まれたという〕。
b) SCHOL. SOPH. El. 504:
ペレキュデースは謂う。「ペロプスはこの競技に勝利し、ヒッポダメイアを得て、羽ある馬たちとミュルティロスともども、ペロポンネーソスへと引き返した。しかし、道中、彼〔ミュルティロス〕が彼女を愛するあまり襲いかかったのを〔ペロプスは〕捕まえて、これを海に投げこんだ」。
F38
SCHOL. T HOM. Il. XXIV 617:
ペレキュデースは第7巻の中で。「ニオベーは苦悩のはてにシピュロス〔山〕に帰ったが、その都市が転覆させられ、タンタロスに石がかぶされているのを眼にした。そこで石になるようゼウスに祈った。彼女から涙があふれ、そして熊〔=北〕へと流れるのを眼にした???」。F 121-126を見よ。
F39
SCHOL. APOLL. RHOD. I 102:
ペレキュデースは第8巻の中で謂う。イカリオスの子エラトスは、ダマシクロスの娘エリュメーデーを娶った。その子がタイナロス。これにちなんで、都市と岬と港がタイナロンと呼ばれた。F 127-129を見よ。
F40
SCHOL. EURIP. Or. 11:「この方〔sc. タンタロス〕はペロプスを生んだ」。
クサントスの娘エウリュテミステーから〔生まれた〕。あるいは、アムピダマースの娘クリュティアの〔子である〕と、ペレキュデースが第9巻のなかに記録している。彼が記録しているところでは、**パクトーロスの娘エウリュアナッセーから〔生まれた〕という。
F41
a) SCHOL. APOLL. RHOD. I 740:「そこにはまたアソーポスの娘アンティオペーの二人の息子、アムピオーンとゼートスがいた。まだ塔を持たないテーバイがすぐ近くにあった。……しかしアムピオーンがその後を、黄金の竪琴を高く奏でながら進むと」。
アムピオーンの竪琴には石もみずから聴従したと、アルメニダースも第1巻(III)の中に記録している。この竪琴がアムピオーンに与えられたのは、ムゥサたちによってだと謂う。ディオスコリデース(III)は、アポッローンによってだと。ペレキュデースも第10巻(?)の中ではムゥサたちによってと記録している。
b) SCHOL. MV HOM. Od. XI 264:「アンティオペーに〔会いました〕。アソーポス河神の娘で、この女はおおけなくも、ゼウスの腕に抱きしめられて夜を過ごしたとか。それから生んだ二人の息子が、アムピオーンとゼートスで、彼らが初めて七つの門を持つテーバイの座を築き上げ、城壁をめぐらした」。
近接して数多くの族民が、すなわちプレギュアイ人がいたからである。それらがいなくなってからは、エウリュマコスはテーバイを荒廃させたと、ペレキュデースが第10巻(?)の中で謂う。
c) SCHOL. APOLL. RHOD. I 735:
アンティオペーに二人いた、ひとりはニュクテウスの娘、もうひとりはアソーポスの娘……この娘とゼウスとからアムピオーンとゼートスが生まれた。彼らはまたテーバイに城壁をめぐらせたと、ホメーロスも謂っている(XI 263 f.)。……ペレキュデースはその理由をも伝承し、[カドモスが王のとき]数多くいるプレギュアイ人を用心したからだという。
d) SCHOL. T HOM. Il. XIII 302:
プレギュアイ人についてはペレキュデースも記録している。というのも、テーバイそのものがアムピオーンとゼートスによって城壁をめぐらされた所以は、プレギュアイ人に対する恐れからである。その後、エウリュマコスが王のとき、テーバイは彼らによって攻略され、この都市はカドモスがやってくるまで荒廃していたという。
e) SCHOL. A GEN. II ebd.:
プレギュアイ人はゴルテュンに住み、違法このうえない盗賊の生活を送り、駆け下って周住民に不正を働いていた。テーバイ人は近接して住んでいたので、久しく恐れていた、ゼウスとアンティオペーとの子アムピオーンとゼートスがテーバイに城壁をめぐらせるまでは。というのは、アムピオーンはムゥサたちから与えられた竪琴を持っていた……この者たちが生きている間、プレギュアイ人はテーバイ人に何も手出しできなかった。しかし彼らが亡くなると、王エウリュステウスとともにテーバイを攻略した。しかし、以前にもましてゼウスの意思に反して不正事をはたらいたので、アポッローンによって破滅させられた。この者たちは、アポッローンのデルポイの神殿をさえ放火したのだ。この歴史はペレキュデースの作品にある。F 124-126を見よ。
F42
[APOLLODOR.] Bibl. II 148 (SOPH. Trach. arhum. Tzetz. Lyk. 50 p.37, 5):
アマルテイアはハルモニアの娘であった。彼女は牡牛の角を持っていた。これは、ペレキュデースが言うように、ひとが祈願する食べ物や飲み物をふんだんにもたらすような、そういう力を手にしていたということである。
F43
SCHOL. APOLL. RHOD. I 831:
この海域〔エーゲ海〕はポセイドーンによって名づけられたと謂われる。この神はアイガイオスと言われたと、ペレキュデースが謂っているからである。
F44
SCHOL. APOLL. RHOD. III 467:「ペルセウスの女神様」
彼女のことをゼウスの娘だと謂う人たちがいる。『オルペウス物語』では、デーメーテールの系譜に組み込まれる。「じつにこのとき、デーオー〔デーメーテール〕は立派な父親をもつヘカテーを生みたまえり」。バッキュリデース(F 31 Bl4)は、彼女はニュクスの娘だと謂う……ムゥサイオス(67 B Diels)は、アステリアとゼウスの子だという。ペレキュデースは、パイオーンの子アリスタイオスの子だという。
F45
EUSTATH. HOM. Il. VI 378:
ダエイラが女神を表す語として特殊なことは、発言者(Aelius Dionys. F 100 Schw.)が明らかにしている。ペレキュデースの記録するところでは、ダエイラはステュクスの妹である。
F46
POLLUX X 139:
大動脈(ajorthaiv)〔複数〕のことは、ポセイディッポスの『エピストラトモス』(III 338, 10K)のなかに述べられている。……すなわち、メナンドロスの『ミソギュネー』(III 96, 331 K)の中の「clamuvV〔短い外套〕、kausiva〔マケドニアのフェルト帽〕、lovgch〔槍穂〕、ajorthv、iJmavtia〔外衣〕」は疑わしく、ある人たちはajort:rとも書く、と。しかし、『動物誌』第3巻(513a 20)の中でアリストテレースは、背骨に沿って2本の血管があり、その右の血管がajorthvと呼ばれるという。ペレキュデースの作品では、キュクロープスのひとりである。
F47
SCHOL. APOLL. RHOD. I 1129:「イーダー山のダクテュロイ」
彼らは6人ないし5人と謂われ、右指が男性、左指が女性だという。ペレキュデースは、右指が20人、左指が32人だと言う。魔術師、薬師、鉄の製造者として最初の者たちであり、鍛冶師になったという。母イーデーにちなんで名づけられ、ペレキュデースの謂うところでは、彼らのうち魔術師であるのは左指で、これを解くのは右指だという。4 F 89を見よ。
F48
STRABON X 3, 21:(2 F 20)
ペレキュデースによると、アポッローンとレーティアの間に9人のキュルバースたちが生まれ、彼らはサモトラケー島に住みついた。また、プローテウスの子カベイローとヘーパイストスとの間に3人のカベイロスと3人のニンフ「カベイローの娘たち」が生まれ、どちらに対しても祭事が催されるという。
F49
KYRILL. lex. Cram. An. Par. IV 183, 21:
Qriaqrivkh =ArcivlocoV(F 168)。ゼウスの娘トリアイQriaivにちなんで名づけられたのは、ペレキュデースが記録するところでは、数において三重であるように、3人だからだという。
F50
SCHOL. APOLL. RHOD. II 1231:「ピリュラの島……かつてウゥラノスの御子クロノスが、オリュムポスでティターン族を支配し……ていたころ、レイアーを欺いてピリュラと共寝したところ。しかし女神〔レイアー〕は情事にふける二人を見つけた。彼〔クロノス〕は床から跳び上がり、たてがみをなびかす馬の姿をとって走り去った。オーケアノスの娘〔ピリュラ〕は恥じて、その地の住処を後にペラスゴスの高い山並みへ赴いた。そこで、半分は馬に、後半分は神に似た巨大なケイローンを……生んだ」。
ペレキュデースが謂うには、クロノスは馬に姿を変えて、オーケアノスの娘ピリュラと交わった、だからケイローンは〔半人半馬の〕二相なのだという。スゥイダスは、『テッサリア誌』第1巻(III)の中で、ケイローンはイクシオーンの子、ペイリトゥスの兄弟だと謂う。
F51
a) SCHOL. PINDAR. P II 40b:
イクシオーンを、ある人たちはアンティオーンの系譜に入れると、アイスキュロス(F 89)。ペレキュデースはペイシオーンの〔系譜に〕。一部の人たちは、アレースの〔系譜に〕。ある人たちは、プレギュアースの〔系譜に〕。アスクレーピアデースは、『悲劇の物語』第3巻(12 F 3)の中で、そのように書いている。イクシオーンは占い師でもあったとある人たちはすでに記録していると、ペレキュデース。そして、彼を車輪責めの刑に処した。そして回転と旋回によって彼は引き裂かれて破滅したと謂われる。
b) SCHOL. APOLL. RHOD. III 62:
イクシオーンはプレギュアースの子だと、エウリピデース(F 424)も……。ペレキュデースは、ペイシオーンの〔子〕だと。アイスキュロスは、アンティオーンの〔子〕だと。謂い伝えでは、エーイオネウスの娘ディアーと婚しようとして、数多くの贈り物をする約束をした。それを受け取りにエーイオネウスがやってきたとき、
F52
[APOLLODOR.] Bibl. I 25:
オーリオンをアルテミスはデーロスで殺した。この大地の裔は巨大な身体をしていたと言う。ペレキュデースは、彼はポセイドーンとエウリュアレーとの間に生まれた子だと言う。
F53
同上、同書、I 32:
パニュアシス(F 24 Ki)は、トリプトレモスはエレウシースの子だと言う。すなわち、デーメーテールが彼のところに行ったと謂う。ペレキュデースは、彼はオーケアノスとゲートの間に生まれた子だと謂う。
F54
SCHOL. APOLL. RHOD. II 1210:「カウカソス山の方の、テュパオンの岩でそれを生みました。伝えによれば、神に逞しい腕を振り上げたとき、そこでテュパオンがクロノスの御子ゼウスの雷に打たれ、頭から熱い血をしたたらせました。そして、そのままニュサの山々と平野へ行き、そこで今なおセルボニス湖の水中に横たわっています」。
テュポースは追われてカウカソスに避難したこと、そして、その山を焼かれたので、そこからイタリアに逃れ、そこでピテークゥッサ島が彼に投げつけられたことを、ペレキュデースが『神統紀』の中に記録している。しかし、アポッローニオスの謂うように、シュリア近辺の場所まで放浪したということはない。
F55
同上、同人、同書、I 761 (ET. GEN. 107 Mill.):「そこにはまた、ポイボス・アポッローン、大胆にもヴェールを掴んで彼の母君を引いてゆく巨漢ティテュオスを矢で射あてた。これ〔ティテュオス〕は、尊いエラレーが生み、そして大地が育ててもう一度生んだものだ」。
エラレーはティテュオスの母である。母の死後、大地に育てられたと言われたことは、ホメーロス(Od. XI 576)も記録しているとおりである。「またティテュオスも見ました。世に誉れ高い大地の息子なのですが」。ペレキュデースが謂うには、ゼウスはオルコメノスの娘エラレーと交わり、すでに身ごもっていた彼女を大地の下に押しこんだ、ヘーラーの嫉妬を恐れたのだ。そしてティテュオスは大地にはぐくまれた。だから大地より生まれた者とも呼ばれるのである。
F56
SCHOL. PINDAR. P IV 160b:「さらにまたティテュオスは、アルテミスの無敵のえびらから発せられた速い矢に射殺され、かなう恋を求めるべしという戒めになっている」。
アポッローンとアルテミスのせいで命終したと、ペレキュデースが謂う。
F57
同上、同人、P IX 27b:「勢威広大なヒュプセウスの 彼はそのとき、暴慢なラピテース族の王で、オーケアノスから数えて2代目の英雄であった。……かの「大地」の娘が、かつて、ペーネイオスとの臥所の交わりを楽しんだ後、ピンドスの名高い山ひだの中で彼を生んだ。その彼が腕の白いキュレネーを育てたのである」。
ナイスとペーネイオスとの間の子がヒュプセウスだとペレキュデース。アケサンドロス(III)は、アソーポスの子ピリュラとペーネウスとの間の子がヒュプセウスだと記録する。
F58
SCHOL. APOLL. RHOD. II 498 p.417, 13 K:
キュレーネーについてピンダロスが『ピュティア祝勝歌』(IX)のなかに記録しているところでは、……ペレキュデースやアライトス(III)が謂うところでは、彼女は白鳥に乗って、アポッローンの計略でキュレーネーにやってきたという。……ムナセアス(V)が謂うには、彼女自身の選びによってリュビアにやって来たのであって、アポッローンに導かれたのではないという。アケサンドロスは『キュレーネーについて』という書(III)の中で、エウリュプロスがキュレーネーの王であるときに、アポッローンによってキュレーネーは連れ来られたと記録している。しかしピュラルコス(II)が謂うには、彼女は数多くのライオンを連れてリビュアにやってきたという……。
F59
SORAN. vit. Hippocr. 1 p.449, 1 West:
ヒッポクラテースは、生まれはコース人である……その血筋はヘーラクレースとアスクレーピオスにさかのぼる。前者からは二十代目、後者からは十九代目である。彼の系譜について言及しているのは、エラトステネース(V)とペレキュデースとアポッロドーロス(II)と、タルソス人アレイオスである。(F 3)。
F60
[APOLLODOR.] Bibl. III 158:
アイアコスは、スケイローンの子エンデーイスを娶った。彼女から彼にペーレウスとテラモーンという子どもたちが生まれた。ペレキュデースが謂うには、テラモーンは友であって、ペーレウスの兄弟ではなく、アクタイオーンと、キュクレウスの子グラウケーとの間の子だという。
F61
a) SCHOL. A HOM. Il. XVI 175:「鎧きらめくメネティオスとて、スペルケイオス河神の息子……これを生みしは、ペーレウスの娘、美しきポリュドーレーがスペルケイオスのために……神と契ってもうけたもの、だが表面では、ペリエーレースの子ボーロスの子と呼ばれていた」。
ペレキュデースが、ポリュドーラーはアキッレウスの妹だと謂っているからである。しかしホメーロスでは確かではない。同名だというのがより説得的である……というのは、アキッレウスの同族という証拠を挙げているからである。
b) SCHOL. A(B)T ebd.:
ある者からペーレウスはポリュドーラーを得た。スタピュロスが『テッサリア誌』第3巻(III)の中で謂うところでは、アクトールの娘エウリュディケーから生まれたという。ペレキュデースは、エウリュティオーンの娘アンティゴネーから〔生まれたという〕。他の人たち(スーダT)は、アルクマイオーンの娘ラオダメイアの〔子だという〕。<ゼーノドトス(19 F 5)は、クレオドーレーのことだと謂う。もっとも、ヘーシオドス(F 83)とその他の人たちは、彼女をポリュドーレーと呼んでいるが>。
F62
SCHOL. PINDAR. N III 57〔32〕:「ペーレウス……彼はまた兵も率いず自分ひとりでイオールコスを攻略し、海の女神テティスを苦闘のすえ捕らえもした」
アイギナ人はペーレウスにねんごろだったので、ピンダロスはそう思ったのだろう。というのは、イオールコスを攻略したのは彼ひとりでではなく、イアソーンやテュンダレオースの子ら〔ディオスクゥロイ〕といっしょにであったと、ペレキュデースが記録しているからである。
F63
SCHOL. EURIP. Or. 1654:「また、オレステース、おまえは喉に剣を当てているその女、ヘルミオネーを娶る定めである。これを妻にと思っているネオプトレモスはけっして結婚できないのだ。この男は、父アキッレウスの死の償いをわたしに求めて、デルポイ人の剣に倒れる運命にあるからだ。姉の方は、かねて約束したピュラデースに嫁がせよ」。
オレステースとヘルミオネーとの間の子がティーサメノス〔「復讐者」の意〕である。ピュラデースとエーレクトラーとの子がストロピオスとメドーンである(4 F 155)。MBi ペレキュデースをもとに、エウリピデースはこれを**解した。「ネオプトレモスと彼女とを同棲させ、そうして**を殺害した。彼らから生まれたのがティーサメノスである」。しかしエウリピデースは、今、ネオプトレモスがヘルミオネーを娶ったことを完全に否定している。MiTA。
F64
a) 同上、同人、同書、1655:「ネオプトレモスはけっして結婚できないのだ」
自分に子をもうけられなかったという理由で、彼女を娶らなかったということ。そして、エウリピデースが謂うには、ネオプトレモスがデルポイ人たちによって亡き者にされたのは、デルポイに赴いて、自分の父親の最期について、神に償いを要求したからだという。しかしペレキュデースは、ネオプトレモスが亡き者にされたのは、子どものことで神託を請うたからだと謂って次のように書いている。「それからネオプトレモスは、メネラーオスの娘ヘルミオネーを娶った。そしてデルポイに行き、子どものことで神託を請うた。というのは、彼にはヘルミオネーから生まれなかったからである。そして、託宣所で〔自分が犠牲に捧げた〕肉をデルポイ人たちが〔習慣にしたがって〕奪っているのを見て、その肉を彼らから取り上げ、戦刀で自殺した。そこで彼ら〔デルポイの〕神官たちは、彼を神域の道の下に埋めた」。
b) SCHOL. EURIP. Androm. 1240:「これなるアキッレウスの死んだ息子は、ピュートーの供儀の祭壇までそなたが出向いて葬るがよい」。
デルポイにネオプトレモスが埋葬されたということは、ペレキュデースも記録している。しかし、屍体がピテュアに行って、再びデルポイに送り返されたというのは、嘘である。
F65
SCHOL. A HOM. Il. XXIII 87:「昔まだ幼いわたし〔パトロクレース〕を、メノイティオスがオポエイスから、いまわしい人殺しの科ゆえ、御身らのもとに連れてきてから。それはあのアムピダマースの息子をわたし〔パトロクレース〕が、わきまえなしに殺したおり、思いがけずに、ただ賽のことから立腹して」
これ〔アムピダマースの息子〕はクレイソーニュモスだとペレキュデースが記録している。
F66
SCHOL. EURIP. Phoen. 1116:
すなわちペレキュデースが謂うには、彼〔アルゴス・パノプテース〕は背中に眼を持っているといい、同時に、アルゴスは二人いたことを明らかにしている。そして次のように書いている。「ゼウスの子アルゴスは、オーケアノスの娘ペイトーを娶った。その子がクリアソス。その子がエレウタリオーン。アルゴスにあるエレウタリエーという都市は、彼にちなんでそう呼ばれる。その子がアルゴス。これのためにヘーラーは背中に眼をつけ、夢みることを奪い去り、彼をイーオーの見張り番に任じた。その後、ヘルメースが彼を殺した」。
F67
[APOLLODOR.] Bibl. II 6:
ヘーラーはゼウスにその牝牛を請い受け、彼女の見張り番にアルゴス・パノプテース〔「あらゆるものを見る者」の意〕を配置した。これ〔アルゴス〕をペレキュデースはアレストールの子だと言い、アスクレピアデース(12 F 16)はイーナコスの子、ケルコープス(Hesiod. F 188)はアルゴスと、アソーポスの娘イスメーネーとの間に生まれた子だという。アクーシラーオス(2 F 27)は、彼は大地から生まれた者だと言う。
F68
SCHOL. A HOMER. Il. XVII 116:「アカイイスのアルゴス〔に来た〕。というのはここに、ペルセウスの子ステネロスの気高い奥方のことを存じておいでたからで、愛し子をはや身ごもってから、今しも7月、まだ月足らずなのもかまわず、この世に引き出し、一方、アルクメーネーのお産を延ばした……」
ディデュモスが提起しているところでは、ペレキュデースは、彼女はペロプスの娘アムピビアーのことである、しかしヘーシオドス(F 97)は、<ペロプスの娘ニキッペーのことであると言っているとのことである。**>アムピダマースの娘アンティビアーのことであることは明白である。
F69
a) [APOLLODOR.] Bibl. II 62:
この子〔ヘーラクレース〕が8ヶ月の時、ヘーラーは巨大な2匹の大蛇をその寝床に送りこみ、その幼児を亡き者にしようとした……ペレキュデースが謂うには、アムピトリュオーンは、子どもたちのどちらが彼の子か知りたくて、大蛇をその寝床に投げこんだという。すると、イピクレースの方は逃げ、ヘーラクレースの方は踏みとどまったので、イーピクレースが自分から生まれたのだとわかったという。
b) SCHOL. PINDAR. N I 65:
どちらがゼウスの子か知る試みに、ヘビがアムピトリュオーンによって送りこまれたと謂う人たちがいる。例えばペレキュデースがそうで、すでに1歳になったときだという。そして、イピクレースの方は、言い伝えでは、逃げ、もう一方〔ヘーラクレース〕は寝床にとどまって、どちらのヘビも絞め殺したという。
F70
SCHOL. PINDAR. O VII 60a〔33〕:「レルナの岸を発ち」
レルナは、ある人たちは泉だと言い、ある人たちは潅木帯だという。ここにはヒュドラも潜んでいるという神話がある。ペレキュデースは、都市のことだと謂う。ある人たちは、アルゴスの港町(ejpivneion)で、今はラムペイアと呼ばれるという。
F71
同上、同人、O III 50b〔28〕:「黄金の角の雌鹿を ターユゲターがオルトーシアの聖獣として名を刻み捧げたあの鹿を」
歴史に基づいて、牝で黄金の角の〔鹿〕だと云った。例えば、『テーセウス物語(QhshivV)』を書いた詩人(p.217 Ki)は彼女のことをそのように言っているし、カミロス人ペイサンドロス(F 3 Ki)も、ペレキュデースも。
〔ターユゲターはアトラースの娘(プレイアデスのひとり)。ゼウスに追われたとき、アルテミス(オルトーシア)は彼女をかくすべく、牝鹿に変じた。感謝の徴に彼女は黄金の角の牝鹿を女神に捧げた〕。
F72
SCHOL. APOLL. RHOD. II 1052:
ムナセアス(V)が個人的に謂うところでは、ステュムパーロスという半神と、オルニスの妻との間にステュムパーリデス(StumfalivdeV)が生まれ、これをヘーラクレースが亡き者にしたのは、彼を迎え入れず、かえってモリオネを客遇したからである。 ペレキュデース(3 F 72)の謂うところでは、〔スチュムパリデスとは〕女ではなくして、鳥であり、ヘーラクレースの手で退治されたのは、ガラガラが〔アテーナから〕彼に与えられ、がらがらを鳴らして彼女らを恐れさせたからという。ヘッラーニーコスも同じように主張している(4 F 104)。
F73
SCHOL. HESIOD. Th. 985:「さてエーオースは、ティトーノスに、アイティオプス人たちの王……メムノーンとエーマティオーンの君を生んだ」
彼にちなんでマケドニアはエーマティエーと〔呼ばれる〕。ペレキュデースの謂うところでは、エーマティオーンはヘーラクレースによって亡き者にされたのは、黄金のリンゴを取りに出かけたときだという。
F74
HYGIN. f. 154 p.27, 10 Schm (SCHOL. GERMAN. Arat. 366 p.174 Br):
Phaeton.....fulmine ictus in flumen Padum cecidit. hic amnis a Graecis Eridanus dicitur, quem Pherecydes primus vocavit. F 16を見よ。
〔エーリダノス:ギリシア神話中の伝説的な河。大洋神オーケアノスと*テーテュースの子とされている。未知の極北あるいは西域の河で、北洋に流入し、河口にエーレクトリデスElektrides《琥珀》諸島があると考えられていた。のち、地理の知識が広がるとともに、ローヌ河、主としてポー河と同一視されているが、アルゴナウテースたちの遠征ではさらに北海に通ずるごとくであり、また*へーラクレースは極西の地のヘスペリスの園の所在をこの河の岸でニンフに尋ねているところからみると、この河はむしろドナウ・ラインなどの大河およぴエルべよりローヌ両河に亘るいわゆる琥珀ルートの古い時代の記憶であるらしい。『ギリシア・ローマ神話辞典』〕
F75
SCHOL. PINDAR. P IX 185a[105]:「どんな人たちがリビュアの女性に惹かれ、アンタイオスの髪うるわしい令名高い娘に求婚しようとして、イラサの町へやって来たか」
ヘーラクレースによって打倒されたイラサのアンタイオスは、トリトーニス湖のイラサ族に由来すると、ペレキュデースが謂っている。ピンダロスは……歴史をねじ曲げて、令名高きこの人の先祖アレクシダモスは、アンタイオスの娘の求婚者となったという。彼女の名はアルケーイスだと、カミロス人ペイサンドロス(F 6 Ki)は謂う。他の人たちは、バルケーだという。
F76
ET. GEN. p.249 Mill. (ET. M. 679, 50. SCHOL. TZETZ. Lyk. 663):
パライモーン。ヘーラクレースのこと。彼はアンタイオス、あるいは、アケローオス〔河神〕と相撲をとった(palai:sai)からである。ペレキュデースは言う、彼がアンタイオスと相撲をとって殺した後、その妻イピノエーと情交し、パライモーンが生まれたと。
F77
SCHOL. LUKIAN. Alex. 4 p.180, 28 R:「ケルコープスたちを」
この者たちはボイオーティアで暮らしていたオイカリア族で、シッロス、トリバロスと名を呼ばれ、偽証する粗野な連中であったと、クラティノス『アルキロコスの歌』(I 15, 12 K)やディオティモス(p.213, 2 Ki)……この連中は石になったと、ペレキュデースが謂う。クセナゴラス(II)は、性悪のゆえに猿に変身したと『島嶼について』の中で謂っている。
F78
SCHOL. AB* GEN. I HOM. Il. XIV 255:
ヘーラクレースは、トロイア攻略後漂流し、アイガイオン海に漂着したのは、ヘーラーのたくらみにより、激しい嵐にとらわれたゆえである。そうして、コオース島にメロプスをおろそうとしたが、ポセイドーンの子で、この島の王であるエウリュプロスによって上陸を妨害された。しかし〔彼ヘーラクレース〕は強行し、掠奪者として上陸し、エウリュプロスとその子どもたちを亡き者にし、彼〔エウリュプロス〕の娘カルキオペーと交わってテッサロスを生んだ。この歴史はペレキュデースにある。
F79
a) SCHOL. PLATON. Phaid. 89C:「二人を一度に相手にしては、あのヘーラクレースだってかなわない」
この理由はドゥリス(II)が次のように説明している。 b) SCHOL. A GEN. I II HOM. Il. I 709 (Schol cod Par 2679 Cram. A p III 16, 24):
アクトールと、モロスの娘モリオネーとの間に生まれた子がクテアトスとエウリュトスである。一部の人たちによれば、モリオネーとポセイドーンとの間の〔子どもたちである〕。むしろ、おそらくは、モリオーンたちそのものを戦士と云ったのは、戦闘の際のきたなさ(moluvsiV)に由来する。より若い〔歴史家〕たちが、彼らの母がモリオネーと呼ばれたというのは、間違いである。ホメーロスは、母親に何らの特徴もみていない。この連中〔モリオネ〕は自余の人類と違った自然本性を持っていた。すなわち双生児で、おのおのが2つの頭、4本の手、同数の足を有し、しかも身体は1つであった。それゆえ、戦士として体育競技者として闘いに勝利した。ヘーラクレースも戦ったが、アウゲイアースと共闘する彼らの化現に対して圧倒することかなわず、彼らを待ち伏せして亡き者にし、そうやってエーリスを打倒した。この歴史はペレキュデースにある。
F80
SCHOL. PINDAR. O VII 42b[20]:「彼らみなにかかわる話をわたしはその起こりから、トレポレモスのことから、正しく語りつつ言い広めたいと思う。彼らヘーラクレースの力強き一族である。父方はゼウスの血を引くことを誇りとし、母アステュダメイアの方からは、アミュントールにつながっている」。
ホメーロス(Il. II 658)は、彼女のことをアステュオケーだと謂い、アステュダメイアであることを否定する。ピンダロスは次の文章に出会ったらしい。「アステュダメイアは、力ずくで、ヘーラクレースのために彼を生んだ」。ヘーシオドス(F 109)も、彼女はアステュダメイアのことだと謂う。ペレキュデースは、アステュゲネイアのことだと。ピュラースの娘であった。一部の人たちは、アンティゴネーから彼に生まれた子トレーポレモスの子だという。ここから、彼女はアミュントールの子だとピンダロスは謂う。ヘーシオドスとシモーニデース(F 219)は、オルメノスの子だと。
F81
SCHOL. T HOM. Il. X 266:「これこそ、かつて、エレオーンから、オルメノスの子アミュントールの堅固な館に忍び入って、アウトリュコスが盗んできたもの」。
アミュントールはテッサリアに住んでいたと先述したが、その所以は、ポイニクスが謂っていることによる、「わたしは抜けだし、それから今度は、ヘッラス中を逃げてまわり」。ここからどうして、彼がボイオーティアのエレオーンに住んだと謂えるのか? 答えは容易である。というのは、ポイニクスの>父親と<同名であったのだから。ペレキュデースは、アミュントールはボイオーティア人だと謂っている。というのも、この詩人は、ポイニクスはヘッラスから抜け出したと謂っているのではないから。しかし、ヘッラスのなかでも、ひとはそういうふうにエレオーンの地を語ることができるが。(F 168?)
F82
a) SCHOL. SOPHOKL. Trach. 354:
ペレキュデースは次のように謂う。「この戦いの後、ヘーラクレースは、アルケシラーオスの子メラネウスの子エウリュトスのもと、オイカリアにやってきた この都市は、アルカディアのトゥレーに建設されていた 、そしてその娘を〔息子〕ヒュッロスの妻にと請うた。しかるに彼が与えなかったので、ヘーラクレースはオイカリアを攻略、その息子たちを殺害した。エウリュトスはエウボイアに逃れた」。
b) SCHOL. MV HOM. Od. XXI 22:
イーピトスはエウリュトスの子、生まれはオイカリア人、彼の馬がいなくなったとき、どこかに現れるかと、周辺の都市を尋ねまわった。占い師のポリュイードスは、探索のためにティーリュンスに赴いてはならぬ、災いとなるからと彼に云ったとき、聞き入れずに赴いたと言われる。ヘーラクレースが、一種のたくらみと軍勢を引き連れて嶮しい城壁へと導いて転覆させたのだが、これとその父親に対する告発した所以は、彼がイオレーの結婚という褒賞を払う際に、これを与えず、むしろ侮辱して立ち去らせたからである。しかし言われているところでは、ゼウスは客人殺しに立腹し、ヘルメースに下命して、ヘーラクレースが人殺しの償いを賠償することであった。これをリュディアへ、所の王オムパレーに、3タラントンの値段で与えたという。この歴史はペレキュデースにある。
F83
PHILODEM. p. eujseb. 34b p.7G:「それより先に同じくキローン(?)は」。
半神の投げ槍によって射殺されたとペレキュデースは謂う。
F84
ANTONIN. LIB. met. 33:
アルクメーネー。ペレキュデースが記録している。ヘーラクレースが人間界からいなくなった後、エウリュステウスはその子どもたちを祖国から追放し、自分が王位に就いた。ヘーラクレースの裔たちはテーセウスの子デーモポーンのもとに逃れ、アッティケーの四市(tetravpoliV)に住んだ。エウリュステウスはアテーナイに使者を派遣し、ヘーラクレースの裔たちを追放しなければと、アテーナイ人たちとの戦争を布告した。[2] アテーナイ人たちは戦争を辞さず、エウリュステウスはアッティケーに侵入して陣を布いたが、自分は戦死し、アルゴス人の大衆は撤退した。ヒュッロスおよびその他のヘーラクレースの裔たち、これらとともに亡くなったエウリュステウスの一統は、再びテーバイに居住した。[3] ここにおいてアルクメーネーも老齢になって亡くなり、ヘーラクレースの裔たちは彼女を運び出した。そしてエーレクトラ門のほとりに住んだが、こここそ、ヘーラクレースも†市場に〔住んでいたことがあったところである〕。ゼウスはヘルメースを派遣し、アルクメーネーを隠し、浄福者たちの島に連れて行って、ラダマンテュスの妻にさせるよう命じた。ヘルメースは聴従してアルクメーネーを隠し、彼女の代わりに石を柩の中に納めた。[4] ヘーラクレースの裔たちは、柩を運んでいたが、重いので、下に降ろし、開けてみて、アルクメーネーの代わりに石を見つけ、これを取り出して、杜の中に据えた。こここそ、テーバイに坐すアルクメーネーの英雄廟である。