神代地誌

アテーナイのペレキュデース
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断片集(つづき)

アゲーノールの末裔 カドモスの一族(第4巻・第5巻)

F85
SCHOL. APOLL. RHOD. III 1087:
 デウカリオーンがいかなる女から生まれたか、プロメーテウスには聞かされていなかった。しかし、ほかにもデウカリオーンごおり、これについてはヘッラーニーコス(4 F 114)が記録している。ほかにはまたミノースの子がおり、これについてはペレキュデースが。第4にアバースの子、これについてはアリスティッポスが『アルカディア誌』(III)の中で言及している。

F86
同上、同人、同書、II 178:「アゲーノールの子ピネウスが得た」
 〔ピネウスは〕アゲーノールの子であると、ヘッラーニーコス(4 F 95)。ヘーシオドス(F 31)が謂うところでは、アゲーノールとカッシエペイアとの間に生まれたポイニクスの子だという。さらにアスクレーピアデース(12 F 22)も、アンティマコスも同様である。ペレキュデースも謂う。「アラボスの娘カッシエペイアからポイニクスに生まれたのはキリクス、ピネウス、ドリュクロス、アテュムノスという呼び名の者である。ゼウスから生まれたのは、このアテュムノスである」。F 21を見よ。

F87
[APOLLODOR.] Bibl. III 3:
 彼女〔sc. エウローペー〕探索に出かけたのは、母テーレパッサと、ポセイドーン子、しかしペレキュデースが謂うところではキリクスの子、タソスであった。

F88
SCHOL. EURIP. Phoen. 662:「この怪物〔アレースの泉を守っていた竜〕を、石で倒したのが、浄めの水を求めて河までやって来たカドモス。人殺しのこの怪物の頭に、手力こめて石を投げつけ、倒したのだ」。
 ヘッラーニーコス(4 F 96)は、この大蛇が退治されたのは石でと謂い、ペレキュデースは、両刃剣でと〔謂う〕。F 22を見よ。

F89
[APOLLODOR.] Bibl. III 25:
 〔アレースの泉の竜を退治した罪で、アレースに8年間仕えた〕賃働きの後、アテーナーは彼〔sc. カドモス〕に王位を授け、ゼウスは彼に、アプロディーテーとアレースとの間に生まれた娘ハルモニアーを妻に与えた。またすべての神々が天を後にして、カドメイアで結婚の祝宴に連なり、讃歌を歌った。カドモスが彼女に与えたのは、ペプロスと、ヘーパイストスが巧みを凝らした首飾り — これはヘーパイストスによってカドモスに与えられたと一部の人たちは言うが、ペレキュデースによれば、ゼウスからエウローペーが受け取り、彼女によって〔カドモスに与えられた〕という代物 — であった。

F90
a) PHOT. LEX.「雨を降らすもの」の項(SUID. s. v. ET. M. 775, 3):
 ディオニュソスの添え名だと、クレイデーモス(III)。彼が謂うには、この神が雨を降らせる間、われわれは供儀を捧げるからという。しかしペレキュデースは、セメレーのことを「雨を降らす女」+UavVと言い、ディオニュソスの乳母たちを+UavdeV+UavVの複数形〕という。
b) SCHOL. AD HOM. Il. XVIII 486 p.169, 14(=SCHOL. ARAT. p.389 Maaß):
 ゼウスは太腿から生まれたディオニュソスをドードーナのニンフたちに預けて養育させた。〔そのニンフたちの名は〕アムブロシアー、コローニス、エウドーレー、ディオーネー、パイシュレー、ポリュクソー、パイオーである。この女たちは、ディオニュソスを養育し、彼とともに遍歴して、この神によって発見された葡萄の木を人間どもに恵んでやった。しかし、リュクゥルゴスがディオニュソスを海まで追跡した。ゼウスはかの女たちを憐れんで、星座にした。この歴史はペレキュデースの作品にある。
c) 同上、同書、p.169, 28:
 ペレキュデースは、前述のごとく、+UavdeVをドードーナのニンフたちにして、ディオニュソスの乳母たちだと謂い、ヘーラーを恐れて、ディオニュソスをイーノーに預けたが、その間、リュクゥルゴスも彼女らを追跡したという。
d) HYGIN. astr. poet. II 21(SCHOL. GERM. BP p.75, 1. G p.136, 17. SCHOL. ARAT. an. p.212 M.):
 〔未訳〕
e) SCHOL. ARAT. MARC. ET PAR. 172 p.369, 24 M:
 タレース(1 B 2 Diels)は、彼女ら〔sc. ヒュアデス〕は二人だと云った。ひとりは「北天」、もうひとりは「南天」。エウリピデースは『パエトーン』(F 780)の中で、それは3人だという。アカイオス(F 46)は、4人。ムゥサイオス(67 B 18 Diels)は5人。ヒッピアス(6 F 9)とペレキュデースは7人……ところがエウリーピデースは『エレクテウス』の中で、エレクテウスの娘たちは3人であったけれども、ヒュアデスになったと謂っている。ミュルティロス(III)は、〔彼女たちは〕カドモスの娘たちであったが、(sc. ディオニュソスを育てた。ところで、ディオニュソスは$UhV〕と〔呼ばれた〕)という、前述の理由で、そういうふうに呼ばれたという。例えば、ヘーシオドス(F 180)は彼女たちについて謂う、「カリスたちと同様のニンフたちで、パイシュレー、あるいはまた花冠よろしきコローニス、またクレエイア、愛くるしいパイオー、長い衣を曳くエウドーレー。これをヒュアデスとひとびとは呼ぶ……」。

F91
PHILODEM. p. eujseb. 86, 14 p.36 G:
 しかし、もちろん〔ヘーラーは?〕ヘーラクレースをも、またレートーをも陣痛で、病気にさせたのであった。???とりわけヘーラクレースは狂気に取り憑かれたと、ソポクレース(F 741)とエウリピデース( — 〔『ヘーラクレース』835以下〕)が。またディオニュソスもだと、アカイオスがサテュロス劇『エイリス〔イーリス〕』(F 20)の中で、またペレキュデースも、神々にも**

F92
a) [APOLLODOR.] Bibl. III 69:
 テーバイにテイレシアースという占い師がいた。エウエーレースと、ニンフのカリクローとの子、生まれはスパルトイ人のウゥダイオスの血を引き、目が見えぬ盲人であった。彼が不具になったことと占い術に関して、相異なった話が言われている。[70] すなわち、他の人たちは、彼は神々によって盲目にされた、〔神々が〕人間どもに隠そうとしたことを暴いたからと謂う。ペレキュデースは、彼はアテーナーによって盲目にされたという。というのは、アテーナーに愛されたカリクローは、万事を見透す訓練を**。彼女〔アテーナー〕は両手で彼の両眼を取って不具にした。そこでカリクローは、再び視覚を回復するよう願ったが、そうすることができず、聴覚を清浄にして、鳥たちのあらゆる声を理解できるようにさせ、クラネイアの杖 — これを持っていると、目が見える者たちと同じように歩くことのできる — が彼に与えられるようにしたという。[71] ヘーシオドス(F 162)が謂うには、キュッレーネー〔山中〕でヘビが交尾しているのを眼にして、これを傷つけて男から女になった。〔ゼウスとヘーラとの争い〕……ここから、ヘーラーは彼を盲目にし、ゼウスは彼に占い術〔の能力〕を与えた。
b) SCHOL. T HOM. Od. X 493 p.782, 2 Ddf:「テーバイの盲目の預言者テイレシアースの」。
 ペレキュデースの謂うには、彼が盲目にされたのは、アテーナー — 処女であり、アポッローンによって処女を犯された — が、**で入浴しているところ見たからで、父親エウエーレースに火をつけられそうになって……神の知るところとなって男に変じた。そしてひとりの**になったという。その後〔ゼウスとヘーラーとの争い〕……彼は女の方がより快楽を味わうと云った。そのため、ヘーラーによって盲目にされた。しかしゼウスは占い術の能力を与えた。

F93
SCHOL. SOPHOKL. OT 775:「わたしの父はコリントスのポリュボス、母はドーロスの娘メロペー」
 ペレキュデースは謂う、ポリュボスの妻はメドゥサ、アルペイオス〔河神〕の子オルシロコスの娘だと。ある人たちは、カルコーンの娘アンティオキアだと。

F94
SCHOL. EURIPI. Phoen. 39:「ラーイオスの車の馭者が、あの子〔オイディプゥス〕にこう命じます。「おお、見知らぬ男よ、われらは王の一行なれば、道を譲れ」」。
 この伝令官〔馭者〕はポリュペーテース**MgT — これをペレキュデースはポリュポイテースだと謂うMgTBi。

F95
同上、同人、同書、53:「そして、生みの母を妻にしてしまいました。……わたしは、自分の息子との間に二人の息子を得ました。エテオクレースと、武勇で名高いポリュネイケースです。娘も二人。ひとりは父親がイスメーネーという名を付け、もうひとりの姉の方は、わたしが、アンティゴネーという名を付けました」。
 ペレキュデースは、オイディプゥスの子どもたちと結婚から生まれた娘たちのことを次のように記録している。「オイディプゥスに(彼〔ペレキュデース〕が謂うには)王位とラーイオスの妻、つまり彼の母親イオカステーを与え、彼女から彼にプラストールとラーオニュトスが生まれた。この者たちはミニュアース人たちと〔その王〕エルギーノスのために戦死した**。1年が過ぎての後、オイディプゥスは、ペリパネースの娘エウリュガネイアを娶り、この女から彼にアンティゴネー、[イオカステー]、イスメーネーであり、これを泉のほとりで亡き者にしたのがテューデウスである。彼女にちなんでその泉はイスメーネーと呼ばれる。彼女から彼にできた子どもたちがエテオクレース、ポリュネイケースである。エウリュガネイア亡き後、オイディプゥスはステネロスの娘アステュメドゥサを娶った」。一部の人たちは、エウリュガネイアをイオカステーの妹だと言う。

F96
同上、同人、同書、71:「互いに歩み寄ってこう決めたのです。年下の方、つまりポリュネイケースが、先ず進んでこの国を出て行き、エテオクレースは残ってこの国の支配のしるしの王笏を手にする。そしてこれを1年ごとに立場を交替して繰り返してゆく、と」。
 ……そこで知っておくべきは、ポリュネイケースのアルゴスへの到着は、いかなる点においても、合致しないということである。なぜなら、ペレキュデース(3 F 96)は、ポリュネイケースは力ずくで追放されたと主張している。他方、ヘッラーニーコス(4 F 98)の記録するところでは、彼は申し合わせによって〔王位をエテオクレースに〕譲ったのであり……。

F97
SCHOL. ABT HOM. Il. V 126:
 言い伝えによれば、テーバイ戦の際に、テュデウスはアスタコスの子メラニッポスに負傷させられて激怒したという。アムピアレオースがメラニッポスを殺して、その頭をテュデウスに与えた。すると獣のように、これを割って、怒りのためにその脳みそをむさぼり食った。このときは、アテーナーが彼のために不死を天から運んできていたのだが、嫌悪の念から引き返したという。目撃者は、不死を彼の子にでも恵むよう促したという。ペレキュデースが記録している。(F 122)

アタマースとクレテウスの家系 『アルゴー号の乗組員物語の前史』(第6巻)

F98
SCHOL. PINDAR P IV 288a:〔162〕「継母の不敬虔な攻撃から」。
 すなわち〔sc. プリクソスは〕、彼に恋した継母によって悪行され、謀にかかって亡命した。この女性をピンダロスは『夢』(F 49)のなかでデーモディケー。ヒッピアス(6 F 11)はゴルゴーピス。ソポクレースは『アタマース』(p.131N)の中でネペレーだという。ペレキュデースはテミストーだと。彼はまた謂う、破滅的な結末が来たとき、みずから我が身を殺戮にゆだねようとしたと。

F99
ERATOSTH. Catast. 19(HYGIN. astr. poet. II 20. SCHOL. ARAT. p.221 M. SCHOL. GERM. Arat. p,142B):
 牡羊(krivoV)。プリクソスとヘッレーを運んだもの。不滅なるものであり、母の娘ネペレーによって彼らに与えられた。黄金の皮を有すと、ヘーシオドス(F 51)とペレキュデースが述べている。

F100
SCHOL. APOLL. RHOD. III 1093:「アイアイアーの島の」
 ……毛皮のあるパシスの島に言及していると、ペレキュデースが謂う。

F101
SCHOL. PINDAR. P IV 221c:「近くに住むペレースは、ヒュペレーイスの泉を後にし」。
 ヒュペレイアはペライにある泉。一部の人たちの謂うには、ヒュペレースにちなんでこの泉はその名を得たと、ペレキュデースは謂う。すなわち次のように謂う。「プリクソスの子メラースはエウリュクレイアイを娶った。彼らから生まれたのがヒュペレース。これは、彼にちなんでヒュペレイエーと呼ばれる泉のほとりに住んだ。(F 161.)

F102
SCHOL. PLATON. Hipparch. 229 D:
〔「ところで、この若者は以前は(tevwV)ハルモニディオスとアリストゲイトンとを賢者として賛嘆していたが」〕
 ペレキュデースから、この名前がイオーニアの都市 — わたしの言うのはテオースのことだが — にあるのを発見した。……「以前は(tevwV)」にちなむ。すなわち、アタマースは、彼が謂うには、地方から帰ってくるとき、アレースの乙女が、戯れて石たち(現にテオースにあるもの)集めているのを見つけて、彼女に「何をしているのか?」と尋ねた。彼女は云った、「都市を建設するため、以前はあなたが探していたけど、あたいが見つけたの」。呼び覚まされたことにちなんで、この都市をテオースと名づけた。

F103
a) SCHOL. APOLL. RHOD. I 411:「お聞きください、パガサイに、そしてアイソニスの町に住まう神よ」。
 アイソーニスはメグネーシアの都市、イアソーンの父親〔の名〕にちなむと、ピンダロス(F 273)もペレキュデースも。
b) Steph. Byz.「アイソーン」の項。
 テッサリアの都市。イアソーンの父親アイソーンにちなむ……ペレキュデースもこの都市をアイソーニアと謂う。

F104
a) SCHOL. APOLL. RHOD. I 45:「アイソーンはピュラコスの娘アルキメデーを娶った」
 イアソーンは母親アルキメデーの子であったという点で、ペレキュデースはアポッローニオスと一致している。ヘーロドーロス(31 F 40)は、アウトリュコスの娘ポリュペーメーがイアソーンの母親であったと謂う。アンドローンは『親族の概要』(10 F 5)の中で、〔イアソーンは〕アイソーンと、ラオディコスの娘テオグネーテーとの間の子だと。
b) 同上、同人、同書、I 230:「かくも大勢の者が、アイソーンの子を助けるために集まった。これらの勇士はみな、近隣の人々にミニュアイ〔ミニュアスの裔〕と呼ばれた。とりわけすぐれた数多の勇者がミニュアスの娘たちの血筋を誇ったからだ。かくてアイソーンその人も、ミニュアスの娘クリュメネー〔「名高い女」の意〕から生まれたアルキメデーの息子であった」。
 ステーシコロス(F 54)は、エテオクリュメネーの〔子〕だと謂う。ペレキュデースは、ピュラコスの娘アルキメデーの子だと。
c) SCHOL. MV HOM. Od. XII 69:
 アイソーンとポリュメーラーとの間に生まれたのが、ヘーシオドス(F 18)によれば、イアソーンである。ペレキュデースによれば、アルキメデーから〔生まれた〕という。

『アルゴー号の乗組員物語』(第6巻)

F105
SCHOL. PINDAR. P IV 133a〔75〕 (Tzetz. Lyk. 175 p.80, 25 Sch.):「片方の靴のみを履いた男が」。
 この歴史はペレキュデースにある。「ペリアースはポセイドーンに供儀し」と彼は謂う、「他の市民たちもだが、イエーソーンもいたところで、〔片方の靴のみを履いた男が〕万人の前に現れるだろうと〔ポセイドーンが〕預言した。さて、アナウソル河の近くで鋤で働いていたが、その河を裸足で渡ったが、渡った後、右足に履き物を履いたが、左足に履き忘れた。しかしそのまま食事に出かけた。これを見てペリアースは占いを解釈し、その時は黙っていたが、後になって彼を呼び寄せ、市民のひとりによって殺されるという神託が自分にあったら、どうするかと尋ねた。イアソーンは、金羊毛皮を取りにアイアに派遣し、アイエーテース〔王〕から取って来させればよいと〔答えた〕。これをイアソーンに思いつかせたのは、ヘーラーで、メーデイアがペリアースに災悪をもたらすためである」。

F106
SCHOL. APOLL. RHOD. I 4:
 アポッローニオスは、建造者アルゴスにちなんでアルゴー号と呼ぶ。ペレキュデースは、プリクソスの息子アルゴスにちなんで。

F107
同上、同人、同書、I 105:「ハグニアスの子ティピュスは、テスピアイ人の町シパイを後にした」。
 シパイはボイオーティアの都市、テスピアイ人の市民団はSifaeuvV、テスペイアというテッサリアの都市もある。ペレキュデースは『ポントス誌』でティピュスを記録している。アイスキュロスは『アルゴー号』(F 21)の中で、ティピュスをイピュスと呼んでいる。F 26を見よ。

F108
SCHOL. APOLL. RHOD. I 139:「イドモーンは……アバースの子ではなく、ほかならぬレートーの御子が、アイオロスの名高い裔に加えるために生ませた子だ。そして神みずから、鳥を眺めて占い、火中の贄に印を見て取る預言の術(qeopropiva)を彼に教えた」。

F109
同上、同人、同書、I 645:「そのあいだに勇士らは速い伝令のアイタリデースを船から派遣した。彼らはこの者に伝言と、父親のヘルメースの杖を司どる役目を委ねていた。父親が彼に、すべての事の、不滅の記憶を授けたからだ。彼がアケローンの、ロで語れぬ渦の中へ去った今もなお、魂が忘却に取りつかれることはない。魂はたえず所を交替し、あるときは地下の霊のうちに数えられ、 あるときは陽光のもと、生きる人々のあいだに現われる定めなのだ。だがアイタリデースの話をなぜわたしが長々と語る必要があろうか」。
 哲学者たちの言葉によれば、転生した者は、ヘルメースの計らいによって、何者であったかを知るという。ペレキュデースは謂う、アイタリデースは、ヘルメースから賜物をもらって、彼の魂は、時には冥府に、時には地上のいろいろな場所にあると。言い伝えによれば、このアイタリデースは、ピュタゴラス学徒である云々。

F110
同上、同人、同書、I 45:「またイピクロスはピュラケーに長く残っていなかった。彼はイアソーンの母方の叔父に当たる。アイソーンは彼の姉ピュラコスの娘アルキメーデーを娶ったから」。
 ホメーロスもヘーシオドスもペレキュデースも、イピクロスがアルゴー号の乗組員たちといっしょだったとは言っていない。

F111
a) [APOLLODOR.] Bibl. I 117:
 ここに(sc. ムシアに)ヘーラクレースとポリュペーモスを置き去りにした……[118] ヘーロドーロス(31 F 41)が謂うには、彼はこのとき初めて船出したのではなく、オムパレーで奴隷になっていたという。ペレキュデースは、彼はテッサリアのアペタイに置いてきぼりにされたと言う。アルゴー号が人語をしゃべるので、彼の遅刻を待てなかったと。デーマラトス(42 F 2)は、船出した後、彼をコルキス人に売り渡したと。ディオニュシオス(32 F 6)は、彼はアルゴー号の乗組員たちの案内人でもあったと謂う。
b) SCHOL. APOLL. RHOD. I 1289:
 アポッローニオスが謂うには、ヘーラクレースがキオスに置き去りにされたのは、ヒュラースを捜しに上陸したからであるという。ミテュレーネー人ディオニュシオスが謂うには、この半神は、貴族たちといっしょにコルキスまで航行した……デーマラトスも同様であるという。ヘーロドーロスが謂うには、彼と他の何人かはいっしょに航行しなかったと謂う。ヘーシオドスは『ケーユクスの結婚』(F 154)の中で、彼は水を求めて、マグネーシアの彼の脱落(ajfevsiV)にちなんでアペタイと呼ばれるところに置き去りにされたと謂う。アンティマコスは『リュディア』の中で謂う、ヘーラクレースが追い出されたのは、アルゴー号がこの半神によって倒されたからだと謂う。エピグラム詩作者のホセイディッポスもこれに従っている。ペレキュデースもヘーシオドスに。エポロスは第5巻(II)の中で、彼は故意に、リュディア人たちの王のオムパレーのもとに置き去りにされたのだと謂う。

F112
SCHOL. APOLL. RHOD. III 230:「彼〔ヘーパイストス〕はまた青銅の足の牡牛を作った。これらの牛は青銅の口があり、そこから恐ろしく輝く炎を吐きだした」。
 この牡牛たちは、青銅の足をしており、火を吐き出すと、ペレキュデースが謂う。F 30を見よ。

F113
a) SCHOL. EURIPI. Med. arg. p.137, 10 Schw.:
 ペレキュデースとシモーニデース(F 204)は、メーデイアはイアソーンを茹でなおして、若者にした神殿を造ったと謂う。彼の父親アイソーンについては、『ノストイ』の作者(F 6)が次のように謂う。「たちまちにして、アイソーンを愛すべき若々しい青年にした……」。アイスキュロスは『ディオニューソスの乳母たち』(F 50)の中で、〔メーデイアは〕ディオニューソスの乳母たちをも、その夫たちともども、茹でて若返らせたと記録している。

 〔ノストイ:トロイアに遠征したギリシア軍の将たちの帰国物語。そのなかでも最も有名なのがオデュッセウスの帰国物語たる『オデュッセイア』である〕。

b) SCHOL. RV ARISTOPH. Eq. 1321:
 ちょうどメーデイアが言われているように。つまり、アイスキュロスが記録しているところでは、〔メーデイアは〕ディオニューソスの乳母たちを、その夫たちともども、茹でて若返らせたと。『ノストイ』の作者は、アイソーンもだと……ペレキュデースとシモーニデースは、イアソーンをだという。

その他のアオリスの末裔の家系:サルモネウス、シーシュポス、デイオーン、カリュケー(第6巻・第7巻)

F114
SCHOL. MV HOM. Od. XV 225:
 アミュターオーンの子メラムプゥスは、占い術によって他にも数多くの物凄いことをしたが、次の最も有名な褒美こそは、彼にとって何よりものものであった。すなわち、アルゴス人たちの王プロイトスの娘たちのうち、リュシッペーとイピアナッセーは、若さからくる無思慮ゆえにヘーラーに対して過ちを犯した — というのは、この女神の神殿にやってきて、これを侮辱し、父親の屋敷の方がもっと立派だと言ったのだ――このせいで、気が狂ったのだが、メラムプゥスがやってきて、完全に治してやると請け合った。治療に見合うだけの報酬を得られるならばと。というのは、病気はすでに十年におよび、くつうを、当の乙女たちのみならず、親族にももたらしていたからである。さて、プロイトスがメラムプゥスに約束し、王国の部分と、娘のうち望むひとりを嫁にやるといったので、メラムプゥスはその病気を治してやった、ヘーラーに対する嘆願と供儀によって宥めて。そうして、イピアナッサを嫁にもらった、治療の成果として彼女を稼資に受けとって。この歴史はペレキュデースにある。F 33を見よ。

F115
a) SCHOL. T HOM. Il. XIII 663:「〔パリスは〕青銅を付けた矢を射て放った。さてここに、エウケーノールという者がいた、占い師ポリュエイドスの息子で、富裕にして尊く、コリントスの都に居住していたが……」
 ペレキュデースは次のように系譜づけている。メラムプゥスからマンティオスが生まれ、その子がクレイポス、その子がポリュイードス。その後、「ポリュイードスは」と彼は謂う、「アウゲイアースの子ピューレウスの娘エウリュダメイアを娶った。彼に生まれたのがエウケーノールとクレイトス。これらの者は、エピゴノイとともに、テーバイを攻略した。その後、アガメムノーンとともにトロイアを攻めた。そしてエウケーノールはアレクサンドロスに殺された」。
b) SCHOL. EURIP. Alk. 1:
 「しかしペレキュデースは、キュクロープスたちがアポッローンによって亡き者にされたことを否定し、……死者を癒して生き返らせたせいで、と」F 35aは、ここに属する。

F116
SCHOL. MVQ HOM. Od. XV 223:
 マンティオスと†riou:sanの子ポリュペイデースは、ハイモーンの娘アイクメーを娶り、エレウシスに住み、彼にハルモニデースとテオクリュメノスといった子どもたちが生まれた。〔テオクリュメノスは〕、愛していた人を殺して、ピュロスに逃れた。そこで供儀していたテーレマコスに出会い、[イタケーに行って]自分を助けるよう彼に頼まれた。彼〔テーレマコス〕は人を避けることを恥じて、同い年の相手を憐れんで、自分に連れ立ってこの男をイタケーに連れて行った。彼〔テオクリュメノス〕が父親に関することを云い、真実を語るのをはるかに〔テーレマコスは〕尊敬した。そこでテオクリュメノスもオデュッセウスに関する話が原因で好意をもち、その地で生を終えた。この歴史はペレキュデースにある。

F117
SCHOL. MV HOM. Od. XI 281:「またとりわけ器量のよいクローリスにも会いました、ネーレウスが……妻にと迎えた者、イアソーンの裔アンピーオーンの娘とて、この方はもとミニュアースの一族が依るオルコメノスに王として威権をふるった、それで彼女はピュロスの王の后となって、立派なお子様がたをもうけられた……」。
 ポセイドーンとテューローとの子どもネーレウスは、イオールコス〔市〕の兄弟ペリアースによって追放され、ペロポンネーソスのメセネーにたどり着いた。そして土地の人たちからもらってピュロス市を建設し、イアソーンと、ミニュアースの娘ペルセポネーとの娘の子アムピーオーン〔オルコメノス王〕の娘クローリスを娶り、ピュロス人たちのみならず、ミニュアースのオルコメノスに住む人々をも王支配し、幸福な人となった。この歴史はペレキュデースにある。

F118
SCHOL. A GEN. II HOM. Il. XI 674:
 ポセイドーンの子ネーレウスは、彼に従う人々のなかでも最も乗馬にたけていた。エーリスに馬たちを送り、彼の地でアウゲアースによって開催された競技に出場させた。この馬たちが勝利したので、ねたんだアウゲアースは、これを惨殺したが、馭者たちには何もせず放免した。ネーレウスは知ったが、おとなしくしていた。彼の子どもたちのうち最年少のネストールは、軍勢を集めてエーリスを攻撃し、多くの者たちを殺し、馬たちと、敵の少なからざる戦利品を奪った。この歴史はペレキュデースにある。

F119
SCHOL. AD GEN. II HOM. Il. VI 153:
 ゼウスは、アーソーポス〔河神〕の娘アイギーナをプリウスからオイノーネーへと、コリントスを通過したとき、この誘拐を捜索していたアソーポスに術を持って示し、それが原因で、自分に対するゼウスの怒りをかった。〔ゼウスは〕彼に「死」を送りつけた。しかしシーシュポスはその接近を察知して、強力な縛めで「死」を縛りあげた。このため、人間の誰も死ぬことがなくなったので、ついにアレースが「死」を解放し、これにシーシュポスを引き渡した。しかしシーシュポスは死ぬ前に、妻メロペーに、〔葬礼の〕決まり事をハーデース〔の館〕に送らぬよう言いつけた。しばらくたっても妻がシーシュポスに対する務めを果たさないことを聴いて、ハーデースは妻を叱りにゆくという彼を釈放した。しかしシーシュポスは、コリントスに到着すると、老いが死なせるまで、もはやもとにはもどらなかった。だから、彼が死ぬと、ハーデースは、石を、運ぶ刑を科した。二度と逃げ出さないようにと。この歴史はペレキュデースにある。

F120
SCHOL. MV HOM. Od. XVII 432:
 デーイオーンの娘ピローニスはパルナッソス〔山〕に住み、そこで、アポッローンともヘルメースとも添い寝した。というのは、それほどまでに愛しい美しさを有していたからで、そこ結果、この神々も交わりを持とうと同じように嫉妬したのである。かくして、アポッローンからはピラムモーン、賢い男が生まれ、これは処女たちの合唱舞踏隊を初めて編成したと思われている。ヘルメースからはアウトリュコス。これはパルナッソスに住み、数多の〔宝物〕を隠し蓄えた。すなわち、この術知を父親から受け継ぎ、人間どもが人知れず何かを隠すときや、略奪品の家畜を好きなものに姿を変えるとき、彼は最多の略奪品の主人となったのである。この歴史はペレキュデースにある。

F121
SCHOL. APOLL. RHOD. IV 57:
 エンデュミオーンをば、ヘーシオドス(F 11)は、ゼウスの子アエトリオスとカリュケーとの子だと言い、彼が死滅しそうになったときには、彼に死の宝物があるよう、ゼウスから賜物を受け取ったという。ペイサンドロス(16 F 7)も、アクーシラーオス(2 F 36)も、ペレキュデースもニカンドロスも……(F 6 Schn)、またエポス詩人テオポムポスも。

F122
a) [APOLLODOR.] Bibl. I 76:
 テュデウスは高貴な人物であったが、亡命した。理由は、一部の人たちの言うには、オイネウスの兄弟アルカトオスをだという。『アルクマイオーンの裔』の作者(F 4 Ki)はメラースの子どもたちを、オイネウスに対して策謀したからだという。……ペレキュデースが謂うには、自分の兄弟オレーニアスをだという。アグリオスが彼に償いを要求したので、アルゴスに亡命し、アドラストスのもとに赴き、その人の娘デーイピュレーを娶って、ディオメーデースを生んだ。
b) SCHOL. AB GEN. I HOM. Il. XIV 120:
 というのは、テュデウスはリュコーペウスとアルカトオスを亡き者にしたので、自分の子どもたちを†亡命した。より真実な歴史はこうである。オイネウスの子+テュデウスは、生まれはアイトーロスの出で、自分に従う者たちのなかで、まだ若かったにもかかわらず、最も男らしい人物であったが、父親が老齢のために、アグリオスの子どもたちによって王国から追放されたのを目撃した。まさにこのゆえに従兄弟たちを亡き者にし、これとともに、心ならずも†兄弟まで〔亡き者にしてしまった〕。そこで、アルゴスに亡命し、その地方の王アドラストスのもとで、彼から潔めを受け、彼の娘デーイピュレーをもらった。この歴史はペレキュデースにある。(F 97)

F123
SCHOL. BT HOM. Il. II 212:
 ペレキュデースは、これ(sc. テルシテース)も、カリュド−ンのイノシシ狩りに出陣した者たちの一人だったと謂う。イノシシとの戦い離脱したので、メレアグロスによって崖から突き落とされたという。だから、その身体が不具だったという。彼は、アグリオスと、ポルターオーンの娘ディアーとの間に生まれた子だと〔ペレキュデースは〕謂う。

アソーポスの娘たちとアトラースの娘たち(第7巻・第8巻)?

F124
SCHOL. MV HOM. Od. XIX 518:「ちょうどあのパンダレオスの娘という、萌葱色の歌鶯が……愛し子のイテュロスをしきりに嘆いて啼くものか、無分別から刃で殺した、ゼートス殿との間になした息子を」。
 ニュクテウスの娘アンティオペーとゼウスは交わった。彼女からゼートスとアムピーオーンが生まれた。この者たちは初めテーバイに住み、ゼウスの跡継ぎ・白馬たち(DioV kou:roi leukovpwloi)と呼ばれた。ゼートスは、パンダレオースの娘アエードーンを娶った。彼らから生まれたのがイテュロスとネーイスである。母アエードーンはイテュロスを夜の間に殺した。アムピーオーンの子アラルコメネウスだと思いこんだのである。というのは、前述の人の妻になることを求めたのだが、それは、これ〔妻〕には6人の子どもがいたのに、自分には2人しかいなかったからである。ゼウスはポイネー〔「罰」「復讐」の意〕に彼女を襲わせた。彼女は鳥になることを祈った。そこでゼウスは彼女をウグイス(ajhdwvn)にした。だからイテュロスのことをいつも嘆いていると、ペレキュデースが謂う。

F125
SCHOL. EURIP. Phoen. 1104:「ネーイタイ門に」
 あるいは、アムピオーンとニオベーとの間に生まれたネーイスにちなむ。あるいは、新しい(nevatai)から。ペレキュデースは、ゼートスの娘ネーイスにちなむという。

F126
同上、同人、同書、159:「あの方は、ニオベーの7人の娘を祀った墓の近くに」。
 ペレキュデースが謂うには、彼女は6人の〔息〕子 — アラルコメネウス、ペーレウス、エウドーロス、リュシッポス、クサントス、アルゲイオス — と、6人の娘 — キオネー、クリュティア、メリア、ホーレー(?)、ダミッペー、ペロピア — をもうけたという。4 F 21を見よ。

F127
SCHOL. APOLL. RHOD. I 152:「アパレーウスの子ら、つまりリュンケウスと傲慢なイーダースとが、アーレーネーからやって来た」
 ペレキュデースは、イーダース一統の母親をアレーネーと謂い、その都市は彼女にちなむという。ペイサンドロス(16 F 2)は、〔母親は〕ポリュドーラーだという。テオクリトス(Diosk. 205)は、〔母親は〕ラオコオーサだという。

F128
SCHOL. MV HOM. Od. XV 16:
 オイバロスの子イーカリオスは、オルティロコスの娘ドーロドケーを娶った、あるいは、ペレキュデースによれば、〔娶った相手は〕テレストールの子エウリュピュロスの子アステロディアだという**。(F 39)。

F129
SCHOL. MV HOM. Od. XV 16:
 **ラーエルテースは、ペネローペーについて、彼女にしたがう婦人たちのなかで、美しさにおいても心映えにおいても誰よりもすぐれていると聴いて、彼女をわが子オデュッセウスとの結婚へと導いた。彼女はそれほどの徳を持っていたので、ゼウスの娘ヘレネーもまた徳の美しさの点で秀抜であった。この歴史はピロステパノス(IV)とペレキュデースの作品にある。

F130
PHILODEM. p. eujseb. 92 p.43 G:
 アテーナイ人ペレキュデースは、ヘルメースも〔神々すべての使者であると謂う〕。2 F 9を見よ。

F131
SCHOL. T HOM. Il. XXIV 343「〔ヘルメースは〕杖を執った、それをもって、人間どもの眼を目覚めさせる杖を」。
 この杖は、アドメートスの牛を牧するよう、アポッローンが彼に与えたものだと、ペレキュデースが謂っている。

『ペロプスの娘たち』(第9巻)

F132
SCHOL. HOM. Od. IV 22:「上士エテオーネウス、すなわち、メネラーオスのまめやかにも忠実な介添え役」
 舅メネラーオスの子アレクトールの兄弟(M)……ペレキュデースは次のように記録している。「ペロプスの子アルゲイオスはアミュクラのアミュクラのもとに赴き、アミュクラの娘ヘーゲーサンドラを娶った(MQH)。これから生まれたのがアレクトール。ボエートスもこれの兄弟である。これ〔〕の子がエテオーネウスである」。だから、メネラーオスの同族がエテオーネウスで、〔エテオーネウスは〕その介添え役、アキッレウスとパトロクレースとの関係のごとし(BHQM)。

F133
SCHOL. EURIP. Or. 995:「その日より、館を襲う呪いと、絶えぬ呻き。マイアスの御子により、黄金の毛並みの羊、群に現れ、馬を飼うアトレウスの破滅の先触れとなりし時より」。
 羊に関する物語をめぐって『アルクマイオーン家』(F 6 Ki)を詩作した者に従っていると思われると、円環詩作者のディオニュシオス(15 F 7)が謂っている。ペレキュデースが謂うには、羊がくだされたのは、ヘルメースの怒りによってではなく、アルテミスの〔怒りによってだ〕という。『アルクマイオーン家』を詩作した詩人は、アルテミスに仔羊を献上しようとした羊飼いをアンティオコスと呼んでいる。

 〔エウリュステウスの死後、後継者なく、神託がペロプスの子を王とすべしと告げた。アトレウスは白分の家畜のなかに黄金の仔羊が現われ、アルテミスに自分の羊のなかで一番美しいものをアルテミスに捧げると誓いながら、これ を破り、羊を殺して、皮を箱にしまっておいた。この仔羊は、自分の子ミュルティロスをペロブスが殺したのを憤って、ヘルメースがよこしたものといわれる。(『ギリシア・ローマ神話辞典』)〕

F134
SCHOL. PINDAR. P XI 25b〔16〕:「オレステースを……。彼〔オレステース〕を乳母アルシノエーは、クリュタイメストラの逞しい手がその父を殺したとき、痛ましい策略から救い出した」。
 ピンダロスが独自に謂っているところでは、アルシノエーはオレステースの乳母である。ペレキュデースは、彼女のことをラオダメイアと言い、その彼女の子が、オレステースとみなされて、アイギストスによって亡き者にされたと謂う。オレステースの方は、3歳の時に盗み去られたと、ヘーロドーロスが『ペロプス物語』のなかで(31 F 11)。

F135
a) SCHOL. EURIP. Or. 1645:「オレステースよ、おまえはこの国の境を越えて、一年のめぐる間、パッラシアーの聖地に住まねばならぬ。そこはおまえの流謫にちなんだ名で呼ばれることになろう。アザーニアー人とアルカディア人にオレステイオンと呼ばれて」。
 エウリピデースは、彼は穢れに取り憑かれた者たちと同様、ここで1年の流謫生活を過ごしたと謂う。アスクレーピアデース(12 F 25)は、彼はそこでヘビに咬まれて命終したと記録している。ペレキュデースは、その後もオレステースをエリニュスたちが追跡したという。「彼はアルテミスの神殿に庇護を求め、嘆願者として祭壇のもとに坐した。エリニュスたちが彼に襲いかかって殺そうとしたが、彼女らを押しとどめたのがアルテミスであった。このことから、この都市もオレステースにちなんでオレステイオンと呼ばれる」。オレステイオンはパッラシアから離れていて、アルカディアのこの都市も、オレステースにちなんで呼ばれる。
b) SCHOL. A ebd.:
 パッラシオンのことをある人たちは都市だと謂い、ある人たちは地方だと謂う、ペラスゴスの息子パッラシオスにちなんで名づけられたと。しかしながら、あるのはアルカディアである。しかしながら、オレステイオンはパッラシアからは離れているが、アルカディアにあるこの都市もオレステースにちなんで呼ばれると、ペレキュデースが謂っている。すなわち、オレステースをエリニュスたちが追跡したので — オレステイオンと呼ばれたと。

『トロイア誌』(第9巻?)

F136
a) SCHOL. M EURIP. Hek. 3:「キッセウスの娘ヘカベーの子〔ポリュドーロス〕として生まれた」。
 ペレキュデースは次のように書く。「ラオメドーンの子プリアモスは、〔プリュギア王〕デュマースの娘ヘカベーを娶った。〔デュマースの父は〕エーイオネウス、その〔父は〕プローテウス、[あるいは、サンガリオス河]と水のニンフのエウアゴラーとの間の子」。一部の人たちは、クサントスの娘グラウキッペーを、ヘカベーの実の〔捨て子した〕母だという。ニカンドロス(F 62 Schn)は、エウリピデースに従って、ヘカベーをキッセウスの伴侶だと謂う。
b) SCHOL. T HOM. Il. XVI 718:「アシオスに……。彼は馬を馴らすヘクトールの母方の叔父、ヘカベーのまことの兄弟、デュマースの息子であって、サンガリオスの流れのほとり、プリュギエーの地に住まいしていた」。
 デュマースとニンフのエウトエーとの間の子だと、ペレキュデースが。アテーナイオーン(III)は、キッセウスとテーレクレイアとの間の子という。アシオスが彼女と母を同じくすればだが。
c) TZETZ. Exeg. i. Iliad. p.38, 11 Herm.:
 ラオメードーンとレウキッペーとの間の息子プリアモスは、シュロス人の歴史家ペレキュデースによれば、エーイオネウスの子デュマースと結婚し、数多くの息子たちと、数多くの娘たちをもうけた。

F137
SCHOL. T HOM. Il. XXIV 251:「デーイポボスニヒッポトオスに、誇らかなディーオスを(Di:on ajgauovn)」。
 ペレキュデースは、ディーオスはプリアモスの庶子だと謂う。だから、ajgauovnは形容詞である。
 〔問題の箇所は、「勇ましいアガウオスを」とも読める〕。

F138
SCHOL. LYKOPHR. Al. 100 p.54, 22 Sch:「skarqmw:n ijauvseiV eijnafwvsswna stovlon」。
 われわれがeijnafwvsswnaと書けば、それは、ペレキュデースが謂うように、アレクサンドロスは8艦船を率いて船出したということである。

F139
STRABON X 2, 14:
 パレイス〔市〕もホメーロスではドゥリキオンとは言われず、この点でペレキュデースが謂っているのとは違う。4 F 144を見よ。

F140
SCHOL. LYKOPHR. Al. 570 p.197, 26 Sch.:「〔引用文未訳〕」。
 ディオニューソスの息子スタピュロス〔「葡萄の房」の意〕の娘として生まれたのがロイオーである。これと交わったのがアポッローン。スタピュロスは気がついて、彼女を箱に入れて、海に流した。彼女はエウボイアに漂着し、その地の洞窟のあたりで子供を生んだ。この子を、そのせいで彼女が悲しい目にあった(ajniaqh:nai)ので、アニオスと呼んだ。この子をアポッローンはデーロスに連れて行った。彼〔アニオス〕はドーリッペを娶り、オイノトロポイ〔「葡萄作り」〕、オイノー〔「葡萄」〕、スペルモー〔麦〕、エライス〔「オリーヴ」〕という娘たちをもうけた。ディオニューソスは、彼女らが種を得ることを望んだとき、恵んでやった。ペレキュデースは謂う、「アニオスは、自分のもとにやって来たヘッラス人たちに、9年間、ここにとどまるよう説得した。彼らには、十年間イリオンを攻めることが神々から許された。彼の娘たちによって養われることを彼らに約束した。これは『キュプリア』の作者(F 17 Ki)の作品にもある。カッリマコス(om Schn.)も、アイティオイのアニオスの娘たちに言及している。

F141
SCHOL. T HOM. Il. XIX 53:「アガメムノーンも手傷をこうむった。というのも、激しい合戦の間に、アンテーノールの子コオーンが、青銅の穂先の槍で突いたので」。
 ペレキュデースは**キュノーンだと謂う。この意見に従うのがよりよい。というのは、アンテーノールの子は彼だと言うから。

F142
STRABON XIV 1, 27:
 コロポーン、〔これは〕イオーニアの都市。これ〔市〕の前に「クラロスに坐すアポッローン」の杜。社内にかつては古い神託所があった。伝承によると、預言者カルカースがアムピアラオスの子アムピコロスとともにトロイアから帰還の途中、陸路でここまで来ると、クラロスあたりで自分より力の優れた預言者にめぐり会った。後者はテイレシアスの娘マントーの子モプソスだったが、カルカースは悲しみのあまり死んだ。ヘーシオドス(F 160)はこの神話をほぼ 次のようにまとめた。それによると、カルカースはモプソスに何か次のようなことを持ち出す。「わたしは驚異の念にとらわれている、この野生いちじく樹はまったく小さいのにどれほど多くの実をつけていることか、と。……そしてその時だった、死の眠りはカルカスを覆った」。ベレキュデースが謂うには、カルカースが尋ねたのは胎に子を持つ豚について、「何頭の子を持っているか」を問う、ということだった。そして、相手は「三頭でそのうち一頭は雌の子だ」と云い、この答えが真実だったので悲嘆して死んだ。また、一説では、カルカースが雌豚のことを問い、相手が野生いちじくのことをたずねたが、後者の答えはほんとうだったのに、前者のはそうでなかった。そこで、前者が悲嘆のあまり何らかの神託のままに死んだ。ソポクレースが、『ヘレネーの返還要求』(F 181)のなかで言うところによると、この神託は、自分より力の優れた預言者にめぐり合ったが最後カルカースは死ぬ、というのが定まった運命だ、というものだった。ただし、この作家は力くらべとカルカースの死の舞台を何れもキリキア地方へ移している。(F 108.)

F143
SCHOL. DIONYS. PER. 685:「強者アカイア人たちもまた……サウロマタイを領していた。これは、かつて、クサントス河と、シモエイス河神の子イダイオスからの南風と西風が吹き分けた者ら、〔トロイア〕戦後、王たるアレーテースの裔に従った者らである」。
 アガメムノーンのことを言っている。というのは、ペロプスと、オイノマーオスの娘ヒッポダメイアとの血を引く氏族だからである。オイノマーオスはアレースの子であった。……アスプレードニオイ人たちは、アレースの息子イアルメノスともども、嵐に遭遇して、この地に定住したと、ペレキュデースが。一説には、彼らはミュルミドーン人で、トロイアからアキッレウスとともに漂流し、ここに定住したと謂う。

F144
SCHOL. XH HOM. Od. XII 257:
 スキュッレーによって滅ぼされた者たちとは、ステーシオス、オルメニオス、アンキモス、オルニュトス、シノーポス、アムピノモス。そういうふうにペレキュデースが。

『アッティカ誌』

F145
SCHOL. APOLL. RHOD. I 211:「またボレーアスの息子、ゼーテースとカライスがやってきた。かつて彼らをボレアースのために生んだのは、エレクテウスの娘オーレイテュイア、冬きびしいトラーキアの果てで。はるかこの地へ、エイリッソスのほとりで円舞を舞う乙女をトラキア生まれのボレアースがケクロピアから掠って行った。そして遠く、エルギノス河の流れのほとりサルペードーン岩と呼ばれるあたりへ連れて行くと、暗い雲でまわりを蔽って処女を奪った」。
 トライキアのサルペードーン岩については、ハイモーン山のあたりにあると、ペレキュデースがオーレイテュイアの誘拐に関して記録して謂っている。

F146
SCHOL. SOPHOKL. OK 472:「名工の」
 ダイダロスのことをさしている。ペレキュデースは次のように言う。「エレクテウスの子メーティオーンとイピノエーとの間にダイダロスが生まれた。彼にちなんで民衆はアテーナイ人のことをダイダリダイと呼んだ」。

F147
STEPH. BYZ.「アロペー」の項。
 テッサリアの都市、ケルキュオーンの娘アロペーにちなむ。あるいは、アクトールの娘だと、ピローン(III)……アッティカにもアロペーは2つある……

F148
SCHOL. MV HOM. Od. XI 322:
 アイゲウスの子テーセウスは、当籤して未婚者たちとともにクレーテーに出航した。ミーノータウロスに供せられて亡き者になるためである。しかし彼が到着すると、ミーノースの娘アリアドネーがこれに恋情状態に陥り、織り糸の糸玉を、工匠ダイダロスにもらって与え、彼に〔次のように〕教えた。〔迷宮ラビュリントスに〕入ったら、糸玉の端緒を、扉上部の羽目板に結びつけ、奧室に到着するまで、ほどきながら進み、もしもそれ〔ミーノータウロス〕が眠っているところをつかまえたら、頭の毛を掴み取ってポセイドーンに供儀し、糸玉をたぐりながら、もどってくるようにと。こうしてテーセウスは、アリアドネーを連れて船に乗り込み、これより後は未婚者たちも処女たちも、もはやミーノータウロスに供されることはなくなった。じつにこういうことを実行して、真夜中、出航した。こうして、ディーア島〔ナクソス島〕に碇泊し、浜に上陸して夜を過ごした。すると、アテーナーが彼のそばに立ち、アリアドネーを放置して、アテーナイに赴くよう命じた。そこで簡単に〔船板の〕隙間埋めをしてからそれを実行した。アリアドネーが悲嘆にくれているとき、元気づけるためにアプロディーテーが顕現して彼女に勧告した。すなわち、ディオニューソスの妻となり、高名な者となろうと。こうして、この神〔ディオニューソス〕が顕現し、彼女と交わって、彼女に黄金の冠を贈った、これ〔黄金の冠〕を今度は神々が、ディオニューソスの恵みとして星々の間に〔星座として〕置いた。言い伝えでは、彼女は処女性を放棄したとして、アルテミスによって亡き者にされたという。この歴史はペレキュデースにある。

F149
MACROB. s. I 17, 21:
 〔未訳〕

F150
PLUTARCH. Thes. 19:
 〔テーセウスは〕クレーテーに渡ると、多くの人々が書いたり歌ったりしているように、恋に落ちたアリアドネーから麻糸を受けとり……ミノータウロスを殺し、そしてアリアドネーも若者たちも連れ出して船出した。ところでペレキュデースの謂うところによると、テーセウスはクレーテー人たちの船の船底に穴をあけて追跡を妨げたそうである。

F151
同上、同書、26:
 ピロコロス(III)その他の人たちの言うところによれば、〔テーセウスは〕ヘーラクレースとともにアマゾーン女人族を攻撃した後、黒海に乗り入れ、その褒賞としてアンティオペーを手に入れたという。しかし、ペレキュデースやヘッラーニーコス(4 F 166)やヘーロドトス(31 F 26)を含む多くの人々は、より説得的な説をなして、テーセウスが航海してこのアマゾーン女人族を捕虜にしたのは、ヘーラクレースよりも後の時代のことだと謂っている。彼〔テーセウス〕とともに遠征した人々のうち他の何人もアマゾーン女人族を虜にしたとは伝えていないからである。

F152
SCHOL. PINDAR. N V 89〔49〕:「競技家を鍛えるのは者はアテーナイの出でなければならない」。
 アテーナイでは、角力術はテーセウスの家庭教師ポルバースによって発明されたと謂い伝えられる。しかし一部の人たちは、逆に、テーセウスこそがアテーナーから角力を学んだのであり、ポルバースはテーセウスから〔学んだ〕という。ペレキュデースはテーセウスの馭者であり、これといっしょにアマゾーン女人族をも誘拐したと謂う。

F153
ATHENAI. XIII 557 AB:
 とにかくイストロス(III)〔前3世紀キュレネ出身の歴史家〕は、『アッティカ誌』の第14巻の中で、テーセウスの妻になった女たちの名を列挙しているが、そのうちある者は恋情によって結ばれ[ある者は誘拐によって〔結ばれ〕]、他の者は正式の婚姻によって〔結ばれた〕と謂っている。誘拐によったのは、ヘレネー、アリアドネー、ヒッポリュテー、ケルキュオーンとシニスの娘たち。婚姻の手続きによって彼が結婚したのは、アイアースの母となったメリボイア。ヘーシオドス(F 105)が謂うには、ヒッペー、アイグレーとも〔結婚しており〕、これのせいで、アリアドネーに与えた誓いをも踏み破ったと、ケルコープスが謂っている。ペレキュデースはさらにペレボイアをも付け加えている。ヘレネーとの一件の前に、トロイゼーンからアナクソーを誘拐した。ヒッポリュテーの後には、パイドラーを得た。

F154
POLLUX X 128:
 三叉鋤(qri:nax)、大鎌(drevpanon)、そして、ペレキュデースが名づけたとおり、草刈り鎌(krwvpion)。コドロス注2)について、地方の兵営で、気づかれないように、薪集めのふりをして出て行ったと言い、ある者を草刈り鎌で面白半分に殺害したと謂う。

F155
STRABON XIV 1, 3:
 ペレキュデースの謂うには、この〔イオーニア〕沿岸のうち、ミーレートス、ミュウゥス、ミュカレー半島一帯、エペソスは、以前はカリア族がこれを占め、これに引き続いての沿岸地域は、ポーオカイア、キオス島、サモス島にかけてアンカイオスの支配下にあって、レレゲス族が占めていた。そして両族ともイオーニア人に追われ、カリア地方のうちでも上記以外の残りの地域へ逃れた。イオーニア人の植民活動を指導したのはアンドロクロスで、この植民はアイオリス人のそれより後だった。また、この指導者はアテーナイ人の王コドロスの嫡出子である。この人はエペソスの建設者となった。話によると、イオーニア人の王都がこの都市に決まったのは、そのためにほかならない。今日でもこの一族の出の人々は王の称号とある種の特典を受けている。例えば、競技会での貴賓席、王家一族の印の入った紫衣、王杖に代わる棒、「エレウシスに坐すデーメーテール」の祭事での役がそれである。

『アルカディア誌』

F156
DIONYS. HAL. AR I 13, 1:
 それでは、さぁ、オイノートリア族の因縁についても明示しよう。その際、古の編纂者たちのうち他の人を証人として提起しよう。アテーナイ人ペレキュデース、系譜論者のなかで誰にも劣らぬ人物である。アルカディアの王たちについて彼によって次の説がなされている。「ペラスゴスとデーイアネイラとの間に生まれたのがリュカオーン。この人は水のニンフキュレーネーと結婚し、彼女にちなんで、その山はキュレーネーと呼ばれた」。次いで、これらの者たちから生まれた者たち、および、どこに住んだかを詳述したのち、オイノートロスとペウケティオスとに言及して次のように言う。「そうしてオイノートロスにちなんでイタリアに居住する者たちはオイノートロイと呼ばれ、ペウケティオスにちなんで、イオーニア湾に〔居住する〕者たちはペウケティオイと呼ばれる」。

F157
[APOLLODOR.] Bibl. III 100:
 エウメーロス(F 14 Ki)や他の一部の人たちが言うには、リュカオーンにはカッリストーという娘もいたという。ヘーシオドス(F 181)は、彼女はニンフのひとりだと言う。アシオス(F 9 Ki)は、ニュクテウスの娘だと。ペレキュデースは、ケーテウスの娘だと。

F158
SCHOL. A GEN. II HOM. Il. VII 8(Par. 2679 Cram AP III 10, 23):「このとき二人が斃したのは、ひとりはアレーイトオスの殿の息子で、アルネーに屋敷をかまえる、メネスティオスとて、棍棒を使うアレーイトオスと、牝牛の眼をしたピューロメドゥーサがもうけたもの」。
 ボイオーティア人アレーイトオスは、彼に従った人々のうちの最勇者、アルカディアに渡り — というのは、ボイオーティアとアルカディアの†市民たちの間で山地をめぐる小競り合いがあったため — 、そこで最多の戦利品をかっさらった。彼はアルカディア人たちを大いに軽蔑していたのだが、当時の人々の中で最強者リュクゥルゴスは、待ち伏せし、アレーイトオスの密集隊を動揺させ、彼をも亡き者にし、戦利品と、なおそのうえに自衛用の完全武装と、棍棒とともに取り上げた。この歴史はペレキュデースにある。

 〔アレーイトオスは、アレースに与えられた鉄棒(koruvnh)をふるって闘ったのでコリュネーテースKorunevtehV「棒男」と綽名された。アルカディアのリュクゥルゴスは、棒を振りまわすことのできない狭い道で彼と闘い、槍で突き殺し、その武具を奪った。次の断片を見よ〕。

F159
SCHOL. AT HOM. Il. VII 135:「昔、流れの速いケラドーンのほとりに、ピュロスの勢と、槍にくわしいアルカディア勢とが集まって、戦いあったときのように、ペイアーの市壁のそば、イアルダノスの河をはさんで。さて敵軍には、エレウタリオーンが選士(provmoV)に起った……その両肩にアレーイトオスの殿の鎧を着こんでいた。……その殿をリュコオルゴスが奸計を用いて殺した、けっして力づくではなく、ごく狭い切り通しのところでである」。
 ペアーはエーリスの都市、しかしアルカディアの〔都市だという〕人たちもいる。そのそばをイアルダノス河が流れている。しかしペイアーも海岸にあり、そこではイアルダノス河は目にできない。そこで、よりよいのは、ディデュモス(p.114 Schm)のように、「Fhra:V」〔Fhraiv=Faraivの対格(複数形)〕と表記し、「ダルダノスの流れの両岸」。というのは、ペレキュデースもそのように記録しているからである。

F160
STEPH. BYZ.「ディオペー」の項。
アルカディアの都市だと、ペレキュデースが。

F161
同上、同書、「プリクサ」の項。
 「プリクサは、オリュムピアから11スタディオン隔たったところにある」。ペレキュデースはこれをアルカディアの〔都市〕だと書いている。(F 101?を見よ)

種々の断片

F162
CHOEROBOSC. i. Theodos. Gr. Gr. IV 1 p.237, 30 Hilg:
 bou:Vの対格は、bou:nのように、νにおわるということは、守られなければならない。しかし、まれには、bovaのように、αに終わることがある。アテーナイ人ペレキュデースにはまれに見受けられる。

F163
ET. M. p.150, 55:
 !ArupeV。ペレキュデースは+RuvpeVの代用。言い慣わされていたのは明白である。というのは、アカイア人たちは+RuvpeVと言われたからである。アルファが余分について!ArupeV

F164
HESYCH.「エウリュマース」の項。
 生まれはオーレノス人、誹謗者。そのため〔カリストーをポリュデウケスに讒訴して〕ポリュデウケスによって亡き者にされた。この歴史はペレキュデース〔の作品〕にある。

F165
PHILODEM. p. eujseb. 46 b 1 p.18 G:
 **と書いたのは、……詩作者とアテーナイ人ペレキュデースである。アイスキュロスは……エイビュコスとテレステースも、……ハルピュイアたちはボレアースの子どもたちによって殺されたと。(=F 29?)

F166
同上、同書、2 d 1 p.63 G:
 アテーナイ人ペレキュデースは**。ロドス人シッミアスは、ヘスティアとダミアとは同一人物だという。カルキス誌のプロクセノス(III)は、カルキスとキュミンディス〔夜鷹〕とコムベー(?)とは同一人物だと言う —

F167
PROKLOS Vit. Hom. p.26, 14 Wil:
 ヘッラーニーコス(4 F 5)もダマステース(5 F 11)もペレキュデースも、彼〔ホメーロス〕の血筋をオルペウスにさかのぼらせる。すなわち、ホメーロスの父マイオーンと、ヘーシオドスの〔父〕ディオーンとはアペッリスの〔子〕、その〔父〕メラノーポス、その〔父〕エピプラヂュス、その〔父〕カリペーモス、その〔父〕ピロテルペウス、その〔父〕イドモーニス、その〔父〕エウクレウス、その〔父〕ドーリオーン、その〔父〕がオルペウスである。

F168
SCHOL. A HOM. Il. II 585:「谷間に富むラケダイモーンの国を受領し……あるいはラアース、あるいはオイテュロスのあたりに依る者たち」。
 Oi[tulonはダクテュロス脚〔長短短〕であるようだ。すなわち、この名詞はoiという二重母音ではじまる。しかし、oiは連結語と思われるので、僭主制の町々に入れるのは、この詩人の慣用からみても、歴史からみても、誤りであって、よろしくない。たとえ、ペレキュデースが次のように謂っているにしてもである。「これから生まれたのがアムピアナクス。その子がオイテュロス。スパルテーの都市はこれにちなんで呼ばれた。(F 81?)

F169
SCHOL. A HOM. Il. II 592:「さてまたピュロスや、いとしいアレーネーに依れる人々、またアルペイオス河の渡しなるトリュオーンや、よく築かれたアイピュ(ejuvktiton Aijpuv)」。
 アリスタルコス(II)は鋭アクセントだと。アポッロードーロスも彼に賛同している。ペレキュデースは、ejuvktitonを固有名詞と解し、aijpuvを形容詞〔「高い」の意〕と〔解している〕。

F170
a) SCHOL. HOM. Od. XI 326:
 ペレキュデースは、マイラとゼウスとの間にうまれたのがロクロスだと謂う(gl. M)。

 〔マイラはアルゴス王プロイトスとアンテイアとの娘。マイラはアルテミスにしたがっていたが、ゼウスとの恋によって女神の怒りにふれて射殺された。〕

b) テルサンドロスの子プロイトスと、アムピアラクスの娘アンテイアとの間に娘として生まれたマイラは、美しさこのうえなく際立っていた。しかし処女性を重んじ、アルテミスに従って狩りをしていた。この女性にゼウスが恋し、彼女のところに到って、人知れず犯した。彼女は身ごもり、名をロクロスという子を生んだ。この子はアムピーオーン、ゼートスとともにテーバイを築いた。マイラの方は、もはや狩りについてゆけないので、アルテミスによって射殺されたと言われる。この歴史はペレキュデースにある。(MV Eust)(F 119に続くか?)

F171
SCHOL. PINDAR. J I 79:
 このミニュアースをある人たちはオルコメノスの系譜に入れると、ペレキュデースが。しかし逆にオルコメノスをミニュアースの系譜に入れる人がいる。ある人たちは両者をエテオクレースの系譜に入れる。ディオニュシオス(15 F 14)は、ミニュアースをアレースに帰する。アリストデーモス(III)は、ミニュアースをアレオス(=AleoV)の子とする。ここから、アルゴー号の乗組員たちはミニュアース人と呼称されたと書いている。

F172
STEPH. BYZ.「ドーティオン」の項。
 テッサリアの都市……エラトスの娘ドーティアにちなんで呼ばれた。ペレキュデースはアステリオスと、プティーオスの娘アムピクテュオネーとの子ドーティスにちなむという。しかしアルキノス(III)によれば、ヘッレーンの子ネオーノスの子ドートスにちなむという。ムナセアス(V)は、ペラスゴスの子ドートスにちなむという。

不確かなもの、疑わしいもの偽作

F173
AETIOS IV 1, 86 Cornar:
 〔未訳〕

F174
CLEM. ALEX. STROM. V 8, 44 p.355, 13 St&#288:h:
 じっさい、アイギュプトス人たちの最も賢い人たちのみならず、さらには他の非ヘッラス人たちのうち、愛知と取り組むかぎりの人たちも、象徴的象形を熱望した。[2] 実際、言い伝えでは、スキュティア人の王イダントゥラは、シュリア人ペレキュデースの記録しているところでは、ダレイオスがイストロスを横断するとき、戦争で脅し、文書の代わりに、ネズミ、カエル、小鳥、矢、鋤の符牒をを遣わした。[3] これらにどういう意味があるのかに困ったとき、千人隊長のオロントパタスこれらは原理を表すのだろうと言って、ネズミからは住居を、カエルからは水を、空気を小鳥から、矢から武器を、鋤からは地方を読みとった。[4] しかし、クシポドレースは逆に解釈した。すなわち彼は謂った、「われわれが小鳥たちのように飛び立たず、あるいは、ネズミたちのように地面の下に、あるいはカエルのように水面下に潜りこまなければ、あの者たちの矢弾を逃れられまい。この地の主人ではないからである」。[5] スキュティア人アナカルシスは、言い伝えでは、みずから眠りながら左手で恥部をつかみ、右手で口を押さえて、両方が必要だが、舌を制することは快楽を〔制すること〕よりも偉大であるという謎としたという。〔全体に訳が不正確か?〕

F175
EPIMER. HOM. Cram. AO I 62, 10:
 ajlastw:という語句からゼウス・アラストール〔という言い廻し〕が、何か難しいことをする人々のために。主格はajlavstwpの属格を派生させた。アイスキュロスは『イクシーオーン』(F 92)で「preumenh;V alavstoroV〔「やさしき復讐鬼〕。ペレキュデースも、「ゼウスはヒケシオスとかアラストルと呼ばれた」。

F176
ET. M. 202, 49:
 ボエードロミオーン〔アッティカの第3月。ほぼ9月ころ〕。アテーナイ人たちの間で歴月が述べられるのは、ボエードロミオス・アポッローンが崇拝され、ボエートロミア祭の祝祭が催されるからである。起源は、アテーナイ人たちとエウモルポスおよびエレウシス人たちのとの間に戦争が勃発したとき、親類のよしみでイオーンが味方し、アテーナイ人たちが勝利した。そこで、出征して町を攻撃した援軍にちなんで、供儀も歴月もアポッローン・ボエードロミオスと呼ばれた。そしてボエードロミア祭という祝祭が開催された。ペレキュデースは『地生えの者たち』のなかで、発音記号から、以前はこれが理解不能なことを見出し、転地した。???

F177
PLUTARCH. De fac. i. orb. lun. 24 p.938B:
 ゼウスにかけて、わたしたちは〔次のように〕言うべきではなかろうか。 — アテーナーが、食糧を受けられないアキッレウスに、いくばくかの神酒と神餅をしたたらせたように、そのようにセレネー(アテーナーと言われ、現にそうである)は、男たちを養うのである、日々、彼らに神餅を供して。これは神々が食したものだとペレキュデースは信じたのであるが。

F178
SCHOL. ARISTEID. Panath. p.313, 20 Dind.:
 ディオニューソスは、人間どもに**を与えるという善行を施したと彼〔?〕は謂う。ペレキュデースは、また彼とともにアンティオコス(VI)も〔そう〕明言し、それゆえ、ディオニューソスはゼウスから〔生まれた〕ようにnuvsaV〔「樹」の意〕から流れ出たのでそう呼ばれたという。というのは、nuvsaVとは、彼が謂うには、樹木のことをそう呼んだからである。〔以下2行、わたしの力では訳せず(^^ゞ ei\t' ejpexivasi fusikwvteron twvi lovgwi levgonteV #Isin metwnomavsqai th:n ajpo; th:V peri; th;n qevsin th:V kata; mevson ijsovthtoV`〕。これの兄弟がオシリス、ヘッラス語ではディオニューソスでもあるが、ゼウスから大地へと流れる雨である。†ブロンテースの子ホーロスとは甘き果実のtovna[rion。オーギュゴスとその娘テーベーについて同じことが言われている。つまり、アッティカの土地生え抜きの者たちがアイギュプトスに赴き、初めて彼らにイシスに関する秘祭を創始し、神々もまた、オーギュゴスが彼の地にテーバイという都市を建設した後、それらをそういうふうに名づけた。

F179
同上、同人、同書、p.320, 1(ET. M. 649, 49. TZETZ. Lyk 355):
 神像は、パッラディオンを経て、トロイアーからもたらされたものだと彼は謂う。すなわち、デーモピロスがディオメーデースから奪い取って、この都市に持ち来たったと、リュシアースが『ポリュクラテースに対するソークラテースのための言』(CXIII Th.)の中で。他の多くのパッラディオンについても彼は言っている。土地生え抜きのアラルコメナイにおける〔神像〕や、アテーナイ人たちの間で橋(gevfurai)〔複数形〕と呼ばれる〔神像〕についてもだと、ペレキュデース、アンティオコス(VI)が記録している。ギガンテースたちの戦闘の際に運び降ろされた〔神像たち〕についてもだと、書かれざる書物の中でピュラルコス(II)が謂っている。パッラディオンと呼ばれた所以は、ペレキュデースの言によれば、大地に向かって天から投げ降ろされた神像だからだという。というのは、「ふりまわす(pavllein)」は、彼が謂うには、「投げる(bavllein)」ことを言ったという。

 〔パッラディオン:その所有者たる町を保護する力があると信じられ、トロイアのアテーナー神殿に安置されていたパラス(アテーナー)の古い神像〕。

F180
SCHOL. EURIP. OR. 1233:「〔ピュラデースの発言〕わが父と縁浅からぬアガメムノーン、わが祈りをも聞き給え。御子たちを救い給え」。
 ストロピオスはキュドラゴラの子アナクシビエー、つまり、アガメムノーンの妹を娶ったからである。彼女からピュラデースが生まれたと、ペレキュデース(?)は謂う。あるいは、ストロピオスの父クリソスは、アトレウスの娘、キュドラゴラその人を娶ったからである。

2008.04.22. 訳了。


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