第29弁論
[解説]奴隷は、アテナイ社会のあらゆる分野で活躍していた。特に公共奴隷は、市内の警備、貨幣の鋳造と通貨の検査、さらには公文書の記録と保管などの業務に使役されていた。専門の知識を持たない市民が交代で役職に就くという素人政治を理念としたアテナイ民主制においては、その下に在って専門的に実務処理にあたる公共奴隷の存在は、きわめて重要であったといわなければならない。 BC 410年、「四百人」寡頭政権崩壊後、民会は立法委員を選出し、法律の改訂・編纂の事業にとりかかり、この事業は以後、引き続き継続されるに至った。告訴人の言い分によれば、ニコマコスは、立法委員の下で、法の編纂者(anagrapheus) に任命され、例外的に6年間もその任にあった。その間に、BC 404年の「三十人」政権が樹立されたが、政権樹立の過程で、寡頭派に説得され、法の編纂者であることを悪用して、主戦民主派の領袖クレオポンを弾劾裁判にかけて抹殺する策謀に手を貸したという。 告訴事由としては、 1)民主制転覆加担、 2)執務報告未提出、 3)法の改竄、 4)公金費消 など、おどろおどろしく挙げられているが、直接の訴因は、執務報告未提出の容疑であると考えられる。 役人全員に、執務報告が義務づけられるに至ったのは、BC 400年ころとされる。その前年(BC 401)、エレウシスに立てこもっていた「三十人」派の残党が一掃され、ここに、戦後民主制の一画期があったと考えられる。大赦令は生きていたものの、一種の民主派革命が吹き荒れることになる。その一つの現れが、このニコマコス裁判であった。 注目すべきは、ニコマコスは奴隷として裁かれているのではないということである。告訴人の言うことが正しければ、彼は、父の代から、公文書の記録と保管の実務に与かって重きをなし、奴隷身分から解放されたばかりか、異例のフラトリア入籍まで果たしたことになる。そのニコマコスも、裁きの庭を免れることはできなかった。しかし、告訴人の悪意ある発言の中からさえ、異例の出世を遂げたものの、激動するアテナイ政界にあって、自分の身をいかに処すべきかに戸惑ったであろう一人の解放奴隷の姿が、おぼろげながら浮かび上がってくる。 |