第4話

ペリカン(pelekan)について


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 美しくもダビデは言う。「われは荒野のペリカンに同じい」〔詩編、第102章6〕。自然窮理家はペリカンについて言った、— きわめて子ども思いである。雛を産み、それが少し大きくなると、〔羽根で〕親鶏の頬を打ちはじめる。すると親鳥は子どもを打ちすえ、死に至らせる。が、少したつとその親鳥は憐れみを感じ、3日間、おのが殺した子どもたちを悼みつづける。そうして三日目には、その母鳥は自分の脇腹を開いて、彼女の血が雛鳥たちの死体にふりかかり、それを生き返らせる。

 そのように主もイザヤ書の中でおっしゃっている。「息子たちを産み、これを高くしたのに、彼ら自身がわたしを貶めた」〔イザヤ、第1章2〕と。あらゆる被造物の造物主がわたしたちをお産みになったが、わたしたちが彼を打ったのである。わたしたちが打ったのはなぜか? 造り主に逆らって、被造物に仕えたからである〔ロマ、第1章25〕。だから、わたしたちの救主は磔柱の上に亡くなって、ご自身の脇腹をお開きになり、救いと永生のための血と水をおそそぎになった〔ヨハネ、第19章34〕。血は、「〔イエスは〕この杯を取って感謝した」〔マタイ、第26章27〕というふうに言われているもの、水は悔い改めの洗礼の水である。

 かく美しく自然窮理家はペリカンについて言った。




 "pelekan"は、『動物誌』第8巻12(597a, 597b29)、第9巻10(614b27)のほか、『異聞集』14、Aelianus, N.A. III, 20 に出ているが、何であるか分からない。Aristophanes, Aves 884 には pelekanti, pelekino と並べられ、前者は pelekasで、Aves 1155 では pelekaein(斧pelekysでけずる)という動詞からもじって、大工にされているからキツツキ類、後者は pelekinos で、Oppianus, Aves II, 7 の記載からペリカン類とされている。以上の三つ pelekan, pelekas, pelekinos がどういう関係にあるのか分からない。Plinius, X, 56とガザは platea(=plateia 平たい嘴?)、Cicero, de Natura Deorum II, 49はplatalea と訳しているが、Plinius, X, 66 ではペリカンは onocrotalus(ロバの鳴声)といわれている。注解者たちはだいたいヘラサギ Platalea leucorodia か、モモイロペリカン Pelecanus onocrotalus またはペリカン Pelecanus crispus をあげている(しかし、アリストテレースはヘラサギを leukerodios と呼んでいることに注意 — 第3章593b2)。ペリカンは現今でも pelakani または sakas と呼ばれている(リンダーマイアー)。Bonitz は 597b29 のものだけをペリカンとし、他の箇所のものはヘラサギとしている。〔第8巻12章(3)の島崎註〕

七十人訳では、ヘブライ語「カーアト」の訳語に充てられている。
 「ヘブライ語のカーアトは、不浄の鳥の中に言及されている(レビ記11:18、申命記14:17)。苦難を嘆く詩人は、おのれを「荒れ野のカーアト」に譬えている(詩篇102:6[7])。エドムにふりかかる運命にあった荒廃の有様は「カーアトとサンカノゴイがその土地を奪い」(イザヤ書34:11)と語られ、ニネベについても同様な言葉がある(ゼファニヤ書2:14)」(『聖書動物大事典』p.344)。
「ペリカンは大きな下嘴の喉袋に入れてきた餌を雛に吐き出すために、下嘴を胸に押しつけるという習性がある……このことから、ペリカンはおのれの血で雛を養うという寓話が生まれたのだとも、十分考えられる。ペリカンの上嘴の、鉤状の赤い先端部も、この空想に一役買っているのではないか」(『聖書動物大事典』p.344)。

 この話の変奏については、第4部 第1話の註を見よ。

 画像は、『健康の園(Ortus sanitatis)』から。