第1話
ペリカン(pelekan)
ペリカンの第2の自然本性。ダビデは言う。「われは荒れ野のペリカンに同じい」〔詩篇102[101]:6〕。このペリカンは鳥であるが、ヘビはこれの雛たちの残忍な敵である。では、このペリカンはいかなる工夫をするのか。自分のねぐらを高みにうち立て、どこからでもこれをヘビをから防禦できるようにする。そこで悪巧みに長けたヘビはどうするか。風が吹く方向を調べまわり、その方角から自分の毒を雛たちに吹き送る、するとすぐに〔雛たちは〕命終する。さればペリカンがやって来て、自分の子どもたちが死んでいるのを目撃し、雲を調べ、高みへと飛びゆき、羽根で自分の脇腹を突く、すると血が出てくる、この血を雲を通してこれらの〔雛〕たちに降り注ぎ、甦らせるのである。
されば、ペリカンとは主、その子どもたちとはアダムやエウアや、われわれの自然本性と解せる。またそのねぐらは天国、ヘビは離反者たる悪魔と。というのは、悪の源たるヘビは、不従順(parakohv)によって、最初に創造された者たち〔アダムとエウア〕に息を吹き送り、その罪によって〔アダムとエウアは〕死人となったからである。されば、われらの主にして神は、わたしたちに対する愛ゆえに、尊い十字架の上に挙げられ、脇腹を突き刺され、聖霊の雲を通して、わたしたちに永遠の生を授けたもうたのである。
されば、美しくも、自然究理家はペリカンについて言った。
再話 ペリカンについて別の物語
ペリカンという子どもを愛する鳥がいるが、自分の雛たちをヘビがあまりに憎み、そやつのせいで高い場所にまで上って、ペリカンは自分のねぐらをこしらえる、しかしヘビはあらゆる策を弄して、時として彼らのところまで上り、有毒な息吹で彼らを死なせる。するとペリカンがやって来て、彼らを見つけ、自分の嘴で傷つけ、わが身の脇腹を開いて、流れ出る血を当の雛たちに振りかけ、彼らを生き返らせる。
解釈。そのように、叡知賢明なペリカン、主なるわれらのイエースゥス・クリストも、アダムとエゥアを創造し、いわばペリカンが産むように産んで、彼らを中空に、すなわち、天国に据えられたのだが、賢明なヘビが、彼らを憎み、ありとあらゆる策を弄して、覚知(gnwvsiV)の樹に登って巻きつき、そこから自分の毒を、わたしが謂っているのは邪悪なる忠告のことであるが、彼らに吹きかけ、彼らを死に至らせた。しかし、同情するペリカン、主なるわれらのイエースゥス・クリストスがおいでになり、十字架に磔にされ、ご自身の脇腹を槍で開くことにゆだねられ、かくしてそこから芽生えた血で彼らを生き返らせたもうたのである。
註
ペリカンは、何世紀にもわたり、《自己犠牲》と《親の献身的な愛情》の象徴であった。この名声は古典の著述家たちが、この鳥に与えたのではなく、キリスト教の時代に入ってから、『七十人訳聖書』の註釈者たちが、およそ三百年の間に徐々に発展させていったらしい。いくつかの変形(バリエーション)はあるものの、共通した大まかな筋はこうである。ペリカンのひなが、母鳥(あるいはへピ)によって殺されてしまうことが時どきある。三日間の悲しみの後(または、父鳥が三日間の留守のあと巣に帰り)、自分自身を嘴でついばみ、死んだひなにおのれの血をかけて生き返らせる、というものである。『七十人訳聖書』には、「詩篇」の第102篇と「イザヤの書」第34章の中でペリカンに言及しているが、それらは前述の話と関わりがないものである。『オックスフォード英語辞典』によれば、この伝説は明らかにエジプト起源であり、もともとは別の鳥のことをいっているということである〔オットー・ゼールはホッラポロンを挙げるが、ホッラポロンでは典拠と言い難い〕。この物語が扱われている現存する最も古いものは『フィシオログス』と思われる。この話の原型と考えられる筋は次のとおりだ。「へピがその毒を風にのせて鳥の巣へ吹きかけ、ひな鳥をみな殺す。帰巣した母鳥は子が死んでいるのを見ると、雲の中へ飛びあがり、その両の翼で自らの横腹をうちすえる。やがて血が流れだし、その血は雲から流れとなってひな鳥の上にかかる。ひな鳥は蘇生する」(カーリル訳、1927年)。この自分の子供がへピに殺されているのを親が発見するというパターンは、ヒエロニムスやネッカムも述べている。一方、シルヴェスター訳のデュ・パルタス〔『聖週間』〕の中には、その話がこう書かれている。
母鳥は、優しくも、自分の可愛いひなのために、自分の腹を裂き、血を流して、ひなを癒す。そして驚くべき方法で、自分の命を子へと移す。ひなが恐ろしいへピに殺されたのを知ると、母鳥は胸を裂き、自分の命の体液をひなにそそぐのだ。そのおかげで、ひなたちは、ぬくもりを取り戻し、母の死によって新しい命を得るのである。
ここでは、母鳥が自らを引き裂き死ぬ、といわれていることに注意を払わなければならない。この点について触れている先人は一人もいないようだ。バルトロメオ・グランヴィルは、母鳥は血を失い衰弱するが、ひな鳥に餌をもらい体力を取り戻すと、自分をかえりみなかったものを追い出す、と述べている。だが、ひなが父か母のどちらかに殺されるという話の方が一般的である第1部 第4話。それは、エピファニウスの作とされる『フィシオログス』に出てくる。これによると、母鳥が巣の中で子を可愛がりすぎて、翼で抱きパタパタたたいて温めるが、結局はそのひなを殺してしまうというのである。ボーヴェのヴァンサンが典拠としたもう一つの『フィシオログス』では、ひなが成長して親鳥の顔を打つようになり、親鳥が怒って打ち返し子が死ぬ、となっている。こちらの話の方が一般に受けいれられ、エウスタンティオス(『ヘクサメロン』)、アウグスティヌス、イシドルス、ネッカム、グランヴィルなどに引用されたのである。
(P・アンセル・ロビン『中世動物譚』)