title.gifBarbaroi!
back.gifディオゲネース書簡集

犬儒派作品集成

エペソス人ヘーラクレイトスの書簡集






[解説]

 エペソスのヘーラクレイトス〔紀元前6世紀〕に帰せられる9通の書簡があるが、一般的にそのすべてが疑わしいとみなされている。厳密にいえば、7通のみがヘーラクレイトスによって書かれたと称され、書簡1と書簡3はヘーラクレイトスと同時代のペルシア大王ダレイオスの手に成るという設定になっている。

 Jacob Bernaysは、最初、これらの書簡に注意を向け、それがみな同一人物の手によって書かれたものではないと主張した。違いは最初の3通に観察され、これらはヘーラクレイトスとヘルモドーロスとペルシア帝国との関係が、弁論の主題として述べられている。書簡1と書簡3は、語調が鋭く異なる。書簡1と書簡2は、ディオゲネス・ライエルティオス(9. 13f.)に編入されており、比較的早期に、おそらく紀元後1世紀に存在したにちがいない。この2通に、未熟な弁論家が書簡3を加えたと考えられる。Bernaysは書簡4、7と書簡9との類似性に、とりわけ不道徳性と伝統的文化との批判に、注目した。これらの特徴は、彼の理論を進展させたが、書簡集の真面目な研究者たちにあまり受け入れられなかったのは、現存の形式の書簡集の作者はユダヤ人だという主張であった。書簡4は、Bernaysによれば、もともとは異教徒の書簡が改竄されたということになる。現存の形式では、成立年代の上限は後1世紀以降。だから書簡4と7は、一人の作者に帰せられ、書簡9は他の作者に帰せられる。書簡9と8との類似性にもかかわらず、彼はこれを後1世紀、才能の乏しい弁論家の手に成るとした。これらの内容から明らかなことは、書簡5と6はひとつの組、書簡4の原本の作者がこれらに責任があったかも知れないということは、不可能ではない。こうしてすべての書簡は、書簡3の例外をのぞいて、1世紀を上限とすることになる。Bernays以降の研究者たちは、この書簡集の成立年代と、いくつかの変更をともなってではあるが、作者は多数という彼の見解を一般に受け入れた。

 Heinemannは、書簡1-3が自余のものらと異なること、それらが一人ないし二人の作者の手に成ることを認めた。書簡5と6はひとつの組、書簡4と7も同様。しかし書簡4、5と6はひとつの組、そして書簡9も同じ手に成り得る。書簡8はいくぶん異なるが、同じ集団である。それゆえ、われわれのコレクションは、Heinemannによれば、少なくとも2つ、おそらくは二人以上の作者に由来する。

 Kirkも書簡1-3は別のグループということに同意し、書簡3は最初の2通の可能な模作とみなす。残りは、個別の性格を示すことに専心するが、それらの相違よりは類似性に強い印象を受ける。それらはおそらくみな同じ弁論学校によって制作された。

 Taranもまた、書簡1と2が同じ作者に由来することに同意するが、書簡3がそうかどうかは不確かである。しかしながら3通がみな同じ学校に由来するとみなし、これらはヘーラクレイトスの伝記的関心、とりわけダレイオスとの関係を示しているとする。書簡4-6と、書簡7-9は異なったグループに由来する。前者はヘーラクレイトスに対するエウテュクレースの告発に関係するが、後者は、立法者としてのヘルモドーロスの活躍にかかわる。しかしながら、どちらのグループも、文体の点で書簡1-3とは区別されうる。しかしその一方で、6通すべてを同じ作者が書いたことは不可能ではないし、同じ学校の違った作者に由来することは大いにありうる。

 この書簡集の最も新しい広汎な研究では、Attridgeも書簡1と2を自余のものから分離する。彼は書簡3、4、7と8 — これはヘルモドーロスの追放を扱う — と、書簡9 — これはその追放の事由を述べる — とをグループ分けし、それゆえ、このコレクションの適切な開始とみなした。彼が指摘したのは、これを含む写本の中で、書簡9がいつも最初に登場するということであった。書簡5と6は異なった上書きを有し、医学に対するヘーラクレイトスの態度を扱っている。しかしながら、それらはいくつかの特徴で対応していない。例えば、敬虔と、祭壇の設置、ヘルモドーロスの追放を扱うグループ内の書簡類への言及において、このことは書簡5と6がそのグループの部分として構成されたか、それと一致するよう書かれたことを示唆している。

 Attridgeの主たる関心は、この書簡集の哲学的、宗教的提携、とりわけ書簡4と7にある。彼が大いに骨折ったのは、これらの書簡集が思想的に犬儒-ストア派のものであって、Bernaysが主張したような、ユダヤ人のものではないということを示すことであった。このことはたしかに忘れ去られてきたとみなされなければならない。Attridgeの仕事の大いなる貢献は、彼の研究のテキスト批判の部分に存する。新しい批判的テキストを確立するに際し、彼は、新たに発見され、重要な意味を有するPGen 271を考察する。このパピルスの成立年代は、校訂者たちによって、古文書学根拠に基づいて、紀元後2世紀あるいはそれ以前とされ、書簡7の長い本文を含んでいる。Attridgeは、書簡のこの形式が原本であるとみなすが、この判断はTaranによっては共有されていない。Taranもまた新しい批判的テキストを公刊した。しかしながら、このパピルスは、さらなる証拠を提示した。つまり、この書簡はその他の書簡の大多数と同じ時期に、つまり1世紀、ローマ帝国の半ばに成立したとされるということである。

(Abraham J. Malherbe)




[底本]
TLG 1411
HERACLITI EPHESII EPISTULAE
(Incertum)
Cf. et HERACLITUS Phil. (0626).
5
Cf. et Pseudo-HERACLITI EPISTULAE (1412).
1 1
1411 001
Epistulae, ed. R. Hercher, Epistolographi Graeci. Paris: Didot,
1873 (repr. Amsterdam: Hakkert, 1965): 280-283, 285-288.
*Epist. 1-3, 5-6, 8-9.
5
(Cod: 1,994: Epist.)

TLG 1412
Pseudo-HERACLITI EPISTULAE
(Incertum)
Cf. et HERACLITUS Phil. (0626).
5
Cf. et HERACLITI EPHESII EPISTULAE (1411).
1 1
1412 001
Epistulae, ed. A.-M. Denis, Fragmenta pseudepigraphorum quae
supersunt Graeca [Pseudepigrapha veteris testamenti Graece 3.
Leiden: Brill, 1970]: 157-160.
5
*Epistula quarta: pp. 157-158.
*Epistula septima: pp. 158-160.
(Cod: 1,176: Epist.)





書簡集(Epistulae)

1.1."t1"
王ダレイオスから、エペソス人の賢者ヘーラクレイトスに。拝啓。
1.1.1
 貴殿は、『自然について』なる書物を著されているが、それは理解するのが難しく、解釈するのも困難な書物です。たしかに、そのなかのいくつかの箇所には、貴殿の言葉に従って解釈するならば、宇宙の全体と、宇宙のなかの現象で最も神的な運動に依存するものとについての考察を可能にするものが含まれているようには思われます。しかしながら、大部分の事柄については判断を保留されていますから、1.1.10 したがって、広範囲にわたって種々の書物に精通している人たちでさえも、貴殿が正しいと信じて書かれている説明には全く困惑しているのです。そこで、ヒュスタスペスの子・王ダレイオスは、貴殿から直接に講義を受けて、ギリシアの教養にあずかりたいと望んでいるわけです。ですから、小生に会われるべく、わが王宮へ至急おでかけいただきたいのです。それというのも、ギリシア人たちは概して、賢者たちに敬意を払っていないために、賢者たちから熱心に聞いたり学んだりするようにと示されている立派な教えを看過しているからなのです。しかし、小生のところでは、貴殿にはあらゆる特権が与えられるでしょうし、また毎日、真剣に立派な意見を述べていただくことで、貴殿の勧告にはそれにふさわしい栄誉ある生活が 1.1.20 待っていることでしょう。(加来彰俊訳)

2.1."t"
ヘーラクレイトスから、父ヒュスタスペスの子・王ダレイオスに。拝復
2.1.1
 この地上にあるかぎりのすべての人間は、真理と公正さ(dikaiopragiva)から遠ざかって、みじめな〔=悪しき〕愚かさゆえに、飽くことを知らぬ貪欲や、名声の渇望へと心を向けているのです。しかし、このわたしは、そのようないかなる邪悪さにも覚えはなく、嫉妬と深く結びついているところの、あらゆるもので満ち足りた状態を避けており、また華々しく見えることも遠ざけていますがゆえに、ペルシアの地へ赴くことはできないでしょう。僅かなものでも、わたしの意にそうものであれば、わたしは満足しているのですから。(加来彰俊訳)

3.1."t"
王ダレイオスから、エペソス人たちへ
3.1.1
 善き人は都市にとって大いなる善である。彼は美しき言説と諸々の法習によって、善き魂をつくる。適時に諸善へと導くからである。しかるに、そなたらはヘルモドーロス — 自分たちよりも善き人であるばかりでなく、全イオーニア人たちよりも善き人である — を、善き魂に醜い責任を着せて、祖国から追放した。そこでもし、そなたらが、主人たる王に戦争を仕掛けることを決議したのなら、準備するがよい(そなたらが抵抗できぬ軍勢を余が派遣するゆえ。というのは、友らを助けないことは大王にとって恥ずべきことだから)。だが、そういったことを何も手がける気がないなら、3.1.10 ヘルモドーロスを帰国させ、彼に父祖伝来の所有権を返還するがよい。あの者に対する好意から、余がいかなる善行をそなたらに施したか — そなたらが納めたよりも少ない貢祖を余は課し、そなたらが所有し来たった土地に加えて多大な地を余は与えた — を思い出して。そなたらは、どうやら、これらのことに感謝をしておらぬらしい。さもなければ、王の友ヘルモドーロスを追放するなどということはなかったであろうから。それゆえ、そなたらがヘルモドーロスを告訴する所以の正義を余の前で述べ立てる者たちを遣わせ。さすれば、かの者が心悪しき者と証明されれば、彼は罰せされようが,そなたらが〔心悪しき者と証明されれ〕ば、より善き心に改心させ、以後、善き人々に対して過ちをおかさぬようさせよう。というのも、これは、3.1.20 そなたらの王にとって、またそなたらにとっても、益することであるから。さらば。

4."t".1
書簡第4:ヘーラクレイトスからヘルモドーロスに
4.1.1
 貴君の境遇に,もうそれ以上は憤慨することなかれ、ヘルモドーロスよ。2年前、神を掠奪したニコポーンの子エウテュクレースは、不敬の罪でわたしを告訴し、知恵に抜きん出た者を無教育によって勝利したのだ。わたしが建てた祭壇に、わたしがわたしの名を刻した、人間の身でありながら自分を神にしたからというのだ。やがて、わたしは不敬者たちの中で不敬者によって裁かれるであろう。どう思うか。彼ら自身が神々について信じている事柄とは正反対のことをわたしが知慮していたら、彼らにはわたしが敬虔な者と思われるのだろうか。実際、彼らが目の見えなくなった視覚で裁くとするなら、見えることを盲目と言うことだろう。いや、おお、無学な者たちよ、神とは何か、先ず、わたしたちに教えよ。そうすれば、不敬と諸君が言っても、信じてもらえよう。
4.2.1
 ところで、神はいずこにおわすのか。諸々の神殿の中に閉じこめられておわすのか。げに敬虔なるは、神を陰の中に建てた人々。人間は、石-人間と言われれば、侮辱と感じるが、神は、この言い廻しで、「岩から生まれたる」と語られるのか。無教育な者どもよ、諸君は知らないのか — 神は手でつくられたものでないのはもちろん、初めから台座を持っているわけでもなく、一定の範囲を持っているわけでもなく、世界全体が彼の神殿であって、動物や植物、星辰に彩られているのだということを。わたしが祭壇に刻んだのは、「エペソス人ヘーラクレース」として、この神を諸君の同市民に加えたのであって、「ヘーラクレイトス」と〔刻んだの〕ではない。しかし、諸君が文字を理解せぬのなら、〔問題は〕諸君の無教育さであって、わたしの不敬ではない。諸君は知恵を学び、洞察したまえ。しかるに、諸君は拒み、わたしもまた無理強いはしない。諸君は自身の諸悪を喜びつつ、4.2.10 無教育とともに老いるがよい。
4.3.1
 ヘーラクレースは人間として生まれたのではなかったか。ホメーロスが虚言しているところでは、彼は客人殺しでさえあった。いったい何が彼を神にしたのか。おのれの美而善(kalokagaqiva)と、これほどの試練を達成した高貴このうえない功業が、である。だからわたしは、おお、諸君、わたし自身も善人なのではないか。諸君に尋ねたのは失敗だった。というのも、諸君が反対のことを答えたとしても、やはりわたしは善人だからである。実際、少なくともわたしによって、数多くの難儀きわまりない試練が乗りこえられ。わたしは諸々の快楽に打ち勝ち、財貨に打ち勝ち、名誉愛に打ち勝った。怯懦を投げ倒し、阿諛追従を投げ倒した。怖れがわたしに反対することなく、酩酊がわたしに反対することなく、苦しみはわたしを怖れ、怒りがわたしを怖れる。これらとわたしは競い合った。そしてわたしは自分で自分に言いつけて花冠を戴いたのであって、エウリュステウスによって〔戴いたの〕ではない。
4.4.1
 知恵を凌辱し、おのれの過ちもおのれの訴えもわれわれに帰せることを諸君はやめないのか。もし、生まれかわって、500年間行きなおすことが諸君にできるなら、諸君はまだ生きているヘーラクレイトスをつかまえられようが、諸君の名前は足跡さえないであろう。わたしは教育のおかげで、諸都市や諸地方と等しい期間生きながらえ、けっして沈黙することはない。たとえエペソス人たちの都市が掠奪され、諸々の祭壇がみな破壊されようと、人間どもの魂はわたしを覚えるための余地を有するであろう。わたし自身もヘーベーを妻としよう、ヘーラクレースの〔妻〕ではないが(彼は自分の〔妻〕といつもいっしょなのだ)、ほかの〔女〕はわたしたちのものであろう。
4.5.1
 徳は娘たちを生む。そしてホメーロスとヘーシオドスに、別々の〔娘〕を与え、善人であるかぎりの者たちは、それぞれ一人ひとりに教育の名声(klevoV)が同棲する。はたして、わたしは敬虔ではないのか、エウテュクレースよ、ひとり神を知っているわたしが。対して貴公は、向こう見ずでも、不敬でもある。〔神が〕在ると想いながら、〔神に〕在らざる者を〔神と〕思っているのだから。もしも、神の祭壇が建てられないなら、神は存在しないのか。神の〔祭壇〕が建てられないなら、神は存在するのか。したがって、石が神々の証人なのか。仕事が、太陽のそれのように、証言すべきである。夜と昼が彼のために証言し、諸々の季節が彼にとっての証人、大地はすべて、実りをもたらす証人、月の周期 — あのかたの仕事 — は、天にある証言である。

5.1."t"
ヘーラクレイトスからアムピダマスに
5.1.1
 わたしたちは、アムピダマスよ、水腫という病を病んでいるゆえ、わたしたちの内なる情態は、おのおののものの力において病気なのである。熱の過剰が熱病であり、冷の過剰が麻痺であり、空気の過剰が息詰まりであり、今はわたしの湿が病なのです。しかし、これらを調和させる魂は、一種神的なものなのです。健康は第一のものであり、最高の医者は魂です。なぜなら、最初の無術(ajtecniva)はそれ〔自然〕に反するものを真似ることはないが、後になって、人間どもは別のものらを模倣して、無知をも知識と呼んだのである。わたしは、世界の自然を知っているとするなら、人間のそれをも知っており、諸々の病を知っており、健康を知っているのである。5.1.10 わたしは自分自身を治癒させ、神をわたしは模倣するだろう。世界の無尺度(ajmetriva)を、太陽に言いつけて、均等化する神を。
5.2.1
 ヘーラクレイトスが病気にとらわれることはなく、病気がヘーラクレイトスの決意にとらわれるのだろう。万物においても、湿が乾き、熱が冷える。わたしの知恵は自然の諸々の道を知っており、病気の終止をも知っている。しかし、身体が先に水浸しなれば、運命づけられた〔情態〕に沈むだろう。しかし、魂は沈むことなく、不死なるものであるから、天上高く飛翔するだろうが、霊圏の住人たちがわたしを歓迎し、わたしはエペソス人たちを告発するだろう。わたしが市民であるのは、人間どものなかにではなく、5.2.10 神々のなかであり、わたしは他の者らの祭壇を築くのではなく、他の者らがわたしのために〔祭壇を築く〕のであり、エウテュクレースが不敬のかどでわたしに脅しをかけるのではなく、わたしがあの者に怒りっぽさのかどで脅しをかけるであろう。
5.3.1
 人々は、ヘーラクレイトスはどうしていつも不機嫌なのかと不審がるが、人間どもはどうしていつも邪悪なのかとは不審がらない。あなたがたが性悪を少し放棄すれば、わたしもすぐに微笑むだろう。それどころか、病中にあっても今少し柔和になったであろう。人間どもに出くわすのではなく、病にひとりで〔出くわす〕のだから。おそらく魂もすでに、この牢獄からの自分の解放を預言されており、身体が揺れている間、父祖の地を垣間見て想起するだろう。〔魂は〕そこから転落して、流転する身体 — この死んだ身体をまとっている。5.3.10 〔この身体は〕粘液、胆汁、体液、血液のうちに、諸々の神経、骨、肉によって強固にされているもので、他の人たちには生きているように思われているのだが。もしも諸々の情動が懲罰を巧みに工夫していなかったら、われわれはもうとうの昔に身体を後にして、それ〔身体〕から脱けだしていたのではなかったか? お元気で。

6.1."t"
同じ人に
6.1.1
 医者どもが、アムピダマスよ、ひどく勢いこんで、わたしの病気〔を診察する〕ために集まってきたのだよ。術知も自然も知らないくせに、いや、ひとつには〔知ることを〕望みもせず、ひとつには〔知っていると〕思って、いずれにしろ彼らは無知であったが。彼らはわたしの胃を、獣皮のように、揉んで柔らかくする以上のことは何もしなかった。さらなる手当をしようとする者たちもいたが、しかしわたしは身を任せず、その前に、病気の説明(lovgoV)を彼らに求めたが、彼らは説明できないのはもちろん、わたしを説き伏せることもできず、わたしが彼らを〔説き伏せた〕のである。「それなら、いかにして」とわたしは謂った、「笛吹きでない者に負けている者が、6.1.10 笛吹きの術知者たりえるのか。わたしがわたし自身を治すか、あるいは、あなたがたが〔治す〕かだ — どうやったら土砂降りから旱魃をつくれるかわたしに教えてくれるならばだが」。
6.2.1
 しかし彼らは、質問を理解もせず、自分の知識に行き詰まって、おとなしくなってしまった。わたしは、他の人たちをも治すのは、彼らではなくて僥倖(tuvch)だと知った。この連中は不敬なのだ、アムピダマスよ、自分たちが所持していない諸術知を持っているふりをし、自分たちの知っていないことを処方して、人間どもを殺すのだから。術知の名のもとに、自然にも術知にも不正して。無知を認めることは醜いことだが、知識を所持していないのに〔持っていると言い張ること〕はもっと醜いことだ。虚言するのは、彼らにとって何か快であるのか、それとも、欺瞞によって 6.2.10 金儲けするためであるのか。物乞いする連中は、より善いものにありつくだろう。少なくとも、憐れまれるだろう。しかし実際は、害しもし、虚言もして、憎まれている。その他の術知は、より簡便であり、すぐさま吟味される。よりすぐれたものらは、吟味もよりされにくい。
6.3.1
 こういった連中が、都市のなかでわたしに気づかれずにきた。連中の中に一人として医師はおらず、みなが欺瞞者であり、くわせものであり、銀子〔をつくる〕術知の狡知を売っている連中だ。この連中が、わたしの叔父ヘーラクレイオドーロスを殺して、報酬を受け取ったのであり、彼らはわたしの病気の説明(lovgoV)を云うことができなかったのはもちろん、土砂降りからどうやって日照りが生じるのかも〔説明できなかった〕。神は世界の中において大いなる身体を治すのだということを彼らは知らない。〔神は〕それら〔身体〕の無尺度を均等化し、砕けたものらを一致させ、6.3.10 脱落したものらを、機先を制して押しつけ、散乱したものらを集め、見苦しいものらを輝かせ、光によっては暗黒を照らし、無制限なものは制限し、形なきものらには形を加え、視覚の知覚なきものらは視覚で満たす。
6.4.1
 〔神は〕あらゆる有性を貫通し、造形し、調和し、解体し、凝固し、溶解させる。乾を湿に溶かし、これを分解する、また、流水を蒸気に、稀薄になった空気を濃縮し、上方にあるものらは、たゆみなく追跡し、下方にあるものらは固定する。以上が、病める世界の処方である。このかたをわたしは自分自身において模倣して、その他のものらにはさよならを言うのだ。

7.1."t"
書簡第7:ヘルモドーロスに
7.1.1
 エペソス人たちが、わたしに対して、無法きわまりない法を導入しようとしていると、わたしは伝え聞いている。〔無法きわまりない〕というのは、法は一〔個〕人に関わるものではなく、〔関わるのは〕判決だ。エペソス人たちがわかっていないのは、裁判官と立法者とは別人であるということである。しかも、これがより善いことであるのは、後者〔立法者〕は、将来行為するであろう見えざる人に対して感情を持たぬということである。これに反し、裁判をする者は裁かれる者を目にし、これ〔裁かれる者〕には感情が結びついている。彼らは知っているのだ、ヘルモドーロスよ、わたしが君といっしょに諸々の法を構築したことを。そして彼らはわたしを追放したがっているが、不正事を決議したといって彼らを吟味するより先ではないだろう。「笑わざる者、および、人間を憎む者は皆、太陽が沈む前に、当市から出て行くべし」 — これが彼らが立法しよとしているものであるが、笑わざる者など誰もいない、ヘルモドーロスよ、ヘーラクレイトス以外には、だから、彼らはわたしを追放することになるのだ。
7.2.1
 おお、人間どもよ、わたしがいつも笑わないのは何故か、諸君は学び知ろうとしないのか。わたしが憎むのは、人間どもはなく、彼らの悪性だ。諸君は次のように法を書きたまえ。「悪性を憎む者のあらば、当市より出て行かしめよ」。そうすれば、最初にわたしが出て行くだろう。わたしは国外追放されるであろう、祖国からではなく、邪悪さから、嬉々として。布令を書き換えたまえ。そこで、もし、エペソス人たちが悪性であると諸君が同意するなら、その時こそわたしは諸君を憎み、もっと義しく、「邪悪さ故にヘーラクレイトスを笑わない者のした者たちは、生より出て行くべし」、むしろ、諸君は銀子の懲罰を受ける方がより多く辛がるのなら、「1万ドラクマの罰金に処すべし」という立法者に、わたしがどうしてならないことがあろうか。これが諸君の国外追放であり、これが諸君の死刑である。

7.3.1
 諸君は、神が与えたもうたものを剥奪してわたしに不正してきたうえ、わたしを不正に国外追放にする。それとも、先ずは諸君をわたしは愛すべきであろうか、わたしの穏和さを根絶してくれたという理由で。そして、諸君は法習と国外追放とで競い合うことをやめないのであろうか。というのは、都市内にとどまっていたら、わたしは諸君から追放されずにすんだのであるか。わたしは誰とともに姦淫し、誰とともに人殺しとなり誰とともに酩酊し、誰とともに堕落すればいいのか。わたしは堕落しない、全人の誰一人に対しても不正しない、この都市内でわたしは一人である。この荒野は諸君が悪性によってつくってきたものだ。諸君の市場はヘーラクレイトスを善き者につくるか。いや、ヘーラクレイトスが諸君を、都市を〔善きものにつくるのだ〕。しかるに諸君はそれを拒む。
7.4.1
 わたしは〔それを〕望み、わたしが他の人たちの法であるのだが、わたしは一人であるので、都市を懲らしめるに充分でない。諸君はわたしがけっして笑わないことを不審がるが、わたしが〔不審なのは〕笑う連中こそだ。不正しながら喜んでいるのだから。義しいことを行わないことに陰気になるべきなのに。わたしに笑う機会を与えよ、平和時に、つまり、舌を武器に法廷に出征することなしに — 財産を詐取し、女たちを堕落させ、友たちを毒殺し、神殿荒らしをし、売春し、不信者と群衆に見られ、太鼓を叩き〔?〕、各人各様の悪に満たされているのに〔舌を武器に法廷に出征するということのない平和時に〕。
7.5.1
 こういうことをする人間どもを目にして、わたしは笑うだろうか、あるいは、衣裳や髭や頭の苦労に無頓着な者らを〔目にして〕、あるいは、毒薬でわが子を襲う女を、あるいは、財産を食いつぶした若年者を、あるいは、妻を寝取られた市民を、あるいは、夜祭のおりに力ずくで処女を奪われた乙女を、まだ妻になっていないのに、すでに妻の受難を受けている遊女を、あるいは、放蕩のために全都市の恋人となった一人身の青年を、あるいは、オリーヴの芳香の腐敗を、あるいは、食事を共にする際に、指で増量する者たちを、あるいは、副食による浪費や、下痢性の胃袋を、あるいは、重要な訴訟を舞台の上で審判される民衆を〔目にして、わたしは笑うだろうか〕。それなのに、徳が邪悪さの劣位に配置されるとき、わたしの愁眉をひらくだろうか。
7.6.1
 それとも、諸君の本当の戦争をわたしは笑うだろうか — 諸君が不正されたことを口実にして、惨めな者どもよ、笛や喇叭という音楽によって、非音楽的な情態に鼓舞せられて、人間から獣となり、流血でみずからを汚すときに、また、鋤や耕筰の鉄が、殺戮や諸々の死にとって義となる道具として用意され、また、諸君によって神が — 戦争の女神アテーナーや、エニューアリオスと呼び名されるアレースが — 侮辱され、また、人間どもが人間どもに対して、密集部隊を布陣して、お互いの殺戮を祈り、血で穢れることなき者たちを脱走兵として不名誉刑に処し、血にどっぷり浸かった者たちを最勇者として名誉をたたえるときに〔わたしは笑うだろうか〕。
7.7.1
 ところが、ライオンたちがお互いに対して武装することはなく、雌馬たちが剣を執ることもなく、鷲が鷲に対して胸鎧をつけているのを諸君が目撃することもあるまい。それは戦いの別の道具を何ひとつ持っておらず、各々にとって四肢が武器でもあるのだ。あるものらには角が武器、あるものらには嘴が、あるものらには翼が、あるものらには速力が、他のものらには大きさが、他のものらには小ささが、あるものらには頑丈さが、あるものらには泳力が、多くのものらには呼吸が〔武器である〕。剣が言葉なき動物をたいてい何も喜ばせないのは、〔動物たちは〕自然の法が守護されているのは自分たちの内であって、人間どもの内にではないことを目にするからである。むしろ違犯の方がより多く、よりすぐれたものらの内には不安定さがあることを〔目にするからである〕。
7.8.1
 それでは、戦争の終わりを諸君のためにはたして祈るべきであるか。あるいは、それによって諸君はわたしの落胆をとどめられるのか。いかにして。自分たちの同じ部族以上には出ず、大地は樹木を伐採され、都市は掠奪され、老人は顔に泥を塗られ、女たちは拐かされ、子どもたちは腕からひったくられ、奥の間は蹂躙され、処女たちは妾にされ、若年者たちは女々しくされ、自由人たちは鉄鎖につながれ、神々の神殿は引き倒され、ダイモーンたちの廟は掘り崩され、戦勝歌は不敬な所業の対象となり、感謝祭は不正の神々に〔捧げられる〕のではないか。
7.9.1
 これらのことをわたしは笑わない。諸君は平和時には言葉で争い、戦争時には鉄〔の武器〕で統治する。剣によって義しさをもぎとる。ヘルモドーロスは、諸法を書いたのに、追放され、ヘーラクレイトスは不敬のかどで追放される。諸々の都市は美而善(kalokagaqiva)が空無にして、不正に依って荒野が群がっている。市壁は人間どもの邪悪の象徴として建ち、諸君の暴力を閉め出し、家々は、違犯に対する別の壁を至る所に巡らせている。内なる者らは敵、いや、市民、外なる者らは敵、いや寄留外国人である。万人が仇敵にして、友はひとりもいない。
7.10.1
 これほどの仇敵たちを目にしながら、わたしは笑うことができようか。諸君は他人の富を自分のものと思いなし、他人の妻を自分の妻と信じ、自由人たちを人足奴隷にし、生き物たちを食いつくし、諸々の法習を踏みにじり、違法を立法化し、諸君に生まれついていないものらすべてを強行する。正義の最高の象徴と思われるものら、つまり諸々の法習は、不正の証拠である。というのは、それらが存在しなければ、諸君は心置きなく邪悪でありえたであろう。しかし今は、たとえほんの小さなものであっても、懲らしめに対する恐怖によって轡をつけられ、あらゆる不正を差し控えているのである。

8.1."t"
同じ人に
8.1.1
 わたしに明かしてくれ、ヘルモドーロスよ、イタリアに出帆すると何時決めたのかを。かの地の神々とダイモーンたちが快く君を受け入れてくれますように。夢に見たのだが、人の住まいする全世界から〔やって来た〕飾り紐〔王冠〕たちが、君の法習たちに近づき、ペルシア人たちの習慣どおり、うつむいて、8.1.6 それら〔法習たち〕にひれ伏しているように思われた。それら〔法習たち〕の方は、すこぶる厳かに坐していた。エペソス人たちは、もはや在世しない君にひれ伏すことであろう — 君の法習たちが万人に指図するとき、それはまた、彼らが強いられてそれら〔法習たち〕を用いるときだが。というのは、神があの者たちから覇権を取り上げ、8.1.10 彼らは自分たちが奴隷にふさわしいと考えることだろうから。
8.2.1
 これはわたしが父親たちからすでに学んだことだ。全アシアは王の所有物であり、エペソス人たちはみな戦利品である。彼らは自由に馴染まず、支配することに馴染まない。今も、どうやら、命令されて聞き従うか、あるいは、聴従しないで、嘆くのであろう。さらに、神々を非難するのが人間どもである。〔神々が〕善きものらで自分たちを富ませてくれないからといって。自分の無知慮の性格は非難せずに。ダイモーンが与えるものを受け取らないのは、めくらのすることである。多々ある事例の中でシビュッラは次のこともすでに告げている、「知者が到来するであろう。イアス〔イオニア〕の地からイタリアに」と。これほど昔に、あのシビュッラは君のことを、ヘルモドーロスよ、知っていたのだし、そのときも君は在世したのだが、エペソス人たちは今も見ることを望まないのだ。神に憑かれた女によって真理が目にした人物を。
8.3.1
 ヘルモドーロスよ、君は知者としてすでに証言されている。しかるに、エペソス人たちは神の証言に反対する。彼らは自分たちの傲り(u{briV)の償いをするだろうし、現に今も償いをしている。悪しき判断(gnwvmh)で自分たちを満たしているからである。神は富を取り上げることによって懲らしめるのではない。いやむしろ、邪悪な者たちにより多く与えたもう。そうやって、彼らは自分たちが過ちをおかす所以のものを所持することで吟味され、過剰に所有することで自分たちの邪さを披露する。貧窮こそが被いである。運がおまえたちを見捨てないようにせよ。邪悪な生き方を叱責してもらえるように。

8.3.10
 連中には別れを告げさせよう。しかし君は、出発の時をわたしに明かしてくれ。何としてでも君に会い、ごく短い他のことともども、法習そのものについても、ごく短く云いたい。

8.4.1
 あらゆる点で口にすべからざることとしてとどめようとおもわなかったら、それをわたしは書いたことであろう。一〔個〕人が一〔個〕人に話す場合のように、沈黙すべきことは何もない。ましてヘーラクレイトスがヘルモドーロスに〔話す〕場合は、いうまでもない。多衆はひび割れた陶器と異ならないから、何ものも保持することができず、冗舌のせいで流失する。アテーナイ人たちは、土地生え抜きのものであるので、人間どもの自然を知っている。大地から生まれたので、壊れた理性を所持している場合があるからである。彼らはそういう人々を、秘儀を介して、秘密を守るために教育した。そうやって、彼らは恐怖によって — 判断(krivsiV)によってではないが — 沈黙し、8.4.10 沈黙を修練することが魂にとってもはや困難ではないのである。

9.1."t"
同じ人に
9.1.1
 いつまで、ヘルモドーロスよ、人間どもは性悪で、もはや各一人が個人的に〔性悪なの〕ではなく、諸都市がすべて共同でも〔性悪〕なのか。エペソス人たちは、人々の中で最善者である君を追放する。何のために。君が自由人たちのために市民権平等を、その子どもたちのために特権の平等を法として書いたことよりほかにあろうか。実際のところ、嫡出者は、善き人と判定されて市民となるのではなく、生まれによって〔市民となるよう〕強いられ、強いられなくても、善き人としてとどまることもしばしばだが、資格審査された者たちが市民権を要求するのは、生き方によって特権の平等を証拠立てることによってである。9.1.10 徳によって登録された者たちの方がどれほどすぐれていることか。
9.2.1
 ラケダイモーン人たちが、他のことともどもこの点でも善き人であるのは、文書によってではなく行状(ajgwghv)によってスパルタ人なりと宣明するからである。スキュティア人であれ、トリバッロス人であれ、パプラゴニア人であれ、国土という名のつくものを何ひとつ持たぬ者であれ、リュクゥルゴス流の厳しい鍛錬に服する者は、ラコーン人であり、その結果、市民となった各人は、自分の中に祖国をたずさえて進み、たとえ柱廊の真ん中に住んでいても、あらゆる都市の悪から亡命しているのだ。犬とか牛がエペソス人であるという意味以外に、9.2.10 エペソス人なるものが存在するということにわたしは納得しない。エペソス人とは、善き人なら、世界の市民のことである。これこそが万人の共通の国土であり、ここにおける法は、書かれたものではなく神であり、為すべからざることにおいて違犯する者が不敬虔な行いをすることになる。いやむしろ違犯することはないであろう、違犯しても気づかないではおかぬとするなら。
9.3.1
 正義のエリニュスたち、つまり諸々の過ちの番人は数が多い。ヘーシオドスが3万人といったのは虚言したのだ。〔3万人では〕少ない。世界の悪に不充分である。邪悪は多い。だが、わたしの同市民は神々、徳を通して神々とともに住して、太陽がどれほど偉大かを知っているが、邪悪は、存在するということも〔知ら〕ない。あるいは、奴隷たちが善き人であることを、エペソス人たちは恥じるのか。尤もなことだ。自分たちが悪しき自由人であって、自由な諸情念に似ているのだから。彼らをして現に在るような人間であることをやめさせよ、そうすれば、彼らは徳の平等によって万人を愛するようになるだろう。9.3.10 諸君はどう思うか、おお、人間どもよ、神が犬はもとより、羊も奴隷としてつくりたもうたのではなく、驢馬も、馬も、騾馬も〔奴隷としてつくりたもうたのでは〕ないなら、人間どもを〔奴隷として〕つくりたもうたのか。
9.4.1
 また、奴隷状態がすぐれた者たちを悪くして〔害して〕いるということ、このことも、諸君の不正の働きであり名前であるとして諸君は恥じないのか。エペソス人たちよりも、オオカミやライオンたちの方がどれほどすぐれていることか。彼らはお互いを人足奴隷に貶めることがないのはもちろん、鷲が鷲を買うこともなく、ライオンがライオンに酌をすることもなく、イヌがイヌを去勢することもない。諸君は、女神の処女性を怖れて、男が祭司の務めをするために、女神のメガビュゾスに対して〔去勢〕するのとは違って。それとも、自然に対して不敬虔でありながら、どうして木像に対しては敬虔でありえるのか。その祭司は初めに男らしさを剥ぎ取られたことで、9.4.10 神々に呪われるためなのか。諸君は女神の放縦(ajkorasiva)をも罪ありとしているのだ、彼女が男に仕えられることを諸君が怖れているとするなら。
9.5.1
 「奴隷をわたしと同席させるな、食事をともにさせないのはもとより」とエペソス人たちは言うが、わたしはもっと義しいことをいおう。善き人をして我と同席せしめ、我とともに食事せしめよ、いやむしろ、我に優先して坐せしめ、優先して尊敬されしめよ。等しくあることは運ではなくして、徳なるが故に、と。諸君に対してヘルモドーロスが働いた不正とは何か。エペソス人たちはみな人間であること、何びとも自然を超えて運を誇るべきでないことを思い起こさせたことにある。奴隷化するのは邪悪のみ、自由化するのは徳のみであるが、人間どもにできることは何もない。9.5.10 他の善き人たちに、諸君が運のおかげで指図できたとしても、諸君自身は欲望のせいで奴隷である。自分自身の主人たちに命令されるのだから。
9.6.1
 ところで、諸君は、おお、人間どもよ、都市の人口減少を怖れるのではないか。それでは、外来の大衆を導入してはどうか、 — 諸君によって拘引され、善き人たちであったのに、脅迫と懲罰と恐怖によって追い払われた人たちが必要なのだから。彼らはすぐれた人たちになるだろう、ヘルモドーロスよ、君の諸法に聴従する彼らは。君は憤慨してはならない。わたしの性格 — これこそ各人のダイモーンである — は預言されている。然り、彼らは聴従することになろう — どんな力も、自然を模倣する人たちのものであろうから。〔?〕
9.7.1
 身体は、魂の奴隷として、魂と同市民であり、理性は自分の召し使いたちと同居していても憤慨せず、大地は、世界の中における最も価値なき〔要素〕であるが、天とともに支配し、天も、所を得た土台を蔑ろにせず、心臓 — この最も神聖なものも、身体における最も劣等な臓器を〔蔑ろに〕しない。いや、神は惜しみなく、万人に等しく、目を働かせ、耳をひらき、味覚、嗅覚、記憶、希望を〔ひらき〕、太陽の光を奴隷たちに対して閉ざすことがない。あらゆる 9.7.10 人間どもを世界の市民として登録しているからである。しかるにエペソス人たちは、自分たちの都市を、世界を超えたもの、普通の人間たちにとってけっしてあたいしないものと思いなしている。政治的に神に反対することで不敬虔となっていないか、直視せよ。諸君は奴隷たちに憎まれることをいつも — 昔、彼らが仕えていたときも、後に、彼らが名誉を奪われたときも — 望んでいるのか。
9.8.1
 それなら、どうして諸君は彼らを自由にするのか、価値なき者らとみなしているのに。それとも、彼らが諸君の諸々の情動に服従するからか。それなら、運のせいで奉仕しているあの者たちに諸君は憤慨するが、性悪のせいで受難している自分たち自身には憤慨しないのか。彼らは気の毒な者たちである、恐怖によって諸々の害悪に堪えている者たちだから、これに反し諸君は忌々しい者たちである、より悪しき事柄を言いつける者たちだから。いつの日か、より残酷な主人に隷従するときがあろうが、今もなお、諸君は奴隷なのである、自分が支配している相手を怖れているのだから。それでは、諸君は何を望むのか。彼らがみな集まって、この都市から出て行き、出て行ったうえで、みずからの都市を建設するとしたら、9.8.10 諸君を呪い、その子どもたちの子どもたちに交通禁止を票決して。諸君は、エペソス人たちよ、自分たちのために、また、未来の子どもたちのために、その〔子どもたち〕から生まれてくる未来の者たちに対して、戦争を養うことになり、ヘルモドーロスよ、エペソス人たちは自分たちの事態を目撃するだろうが、しかし君は、善き人だから、喜ぶがよい。

2011.05.12. 訳了。

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