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back.gifクラテース書簡集

犬儒派作品集成

シノーペー人ディオゲネースの書簡集





[解説]
 エピクテートス(4. 1. 29-31, 156)およびユリアノス(7. 212D)は、シノーペーのディオゲネース(前4世紀)によって書かれた書簡に言及し、ディオゲネース・ライエルティオス(6. 80)は、ソーティオン(ca. 200 B.C.)が真作とみなしたディオゲネースの書簡の目録を与えている。彼らが言及する書簡は、テレースとピローンとの間の期間に、大きな影響を及ぼしたpseudepigraphic literatureの一部で、これはディオゲネースに帰せられる。しかしこれらの書簡はもはや伝存していない。ここに収められた51編の書簡は、後世の作品である。

 Boissonadeは、これらの書簡はディオゲネースによって書かれたものではないことを論証し、以来、すべての研究者がこの判断に従っている。Marcksはさらに、これらの歴史的影響を根拠に、書簡31は、前200年の後長い期間が経ってから、書簡19は前28年のわずか後に、書かれたにちがいないことを示した。以来、研究は、個々の書簡の一致、あるいは、書簡が相互に属するらしい類別に関しておもに進められている。

 Capelleは、すべての書簡は同じ作者によって書かれたものではないという粗っぽい証言を提起した最初の人物である。彼が主として挙げたのは、文体、内容、Tendenz〔傾向〕という3つの基準である。例えば、いくつかの書簡は、弁論的文体で書かれているのに、他のものはそうではなく、いくつかは書簡対の挨拶を含むにすぎないのに、いくつかは勧告であり、他は悪罵である。主題に関していえば、いくつかは逸話であるが、他はそうではない。これらの書簡が主題ないし内容の点で似ている場合には、彼は作者の違いを指摘した。例えば、書簡40と29,書簡7と34,書簡6と13。結局、これらが哲学的傾向性の違いないし相互矛盾を裏切るとき、それらは作者の違いを示唆されることになる。例えば、書簡25と39、書簡7と30、書簡45と5。このような基準を使って、Capelleは次のような類別を確認した。
1.書簡8、30、31、33、35-38は、逸話的事柄と非弁論的文体によってお互いに関係し、同じ作者によって書かれたことを示唆している。この同じ作者はまた、書簡3、9-12、(26)、44、47、(34)も書いたかも知れない。書簡31の成立年代としてCapelleはMarcksの主張を認め、このグループの他の書簡の成立年代を前1世紀とした。
2.書簡1、2、4-7は他の作者のもの。
3.書簡13-18、20、(21)、22-25、27、32、41-43、46、48-51は、第3の作者の手に成る。書簡16のみは、ディオゲネス・ライエルティオス(6. 23)に知られているものであり、おそらくは彼の典拠であろう。したがって、このグループの成立年代は、紀元後2世紀の終わり、あるいは、3世紀の初めよりおそくはない。
4.書簡19、28、29、39、40、(43, 45)は、異なった個々人によって、長い期間にわたって書かれた。こうして、書簡19は前28年以後に書かれたというMarcksの判断を再び受け入れて、グループの他の書簡は後4世紀と同じくらいおそくに成立し、例えば書簡39は、おそらく犬儒主義がその人気を失った時代に、プラトン主義の強い影響下に成立した。
いくつかの例外を除いて、これらの書簡は弁論術の練習としてではなく、犬儒派のプロパガンダとして書かれた。

 Kurt von Fritzは、これらの書簡の内容を根拠に作者を決定することの可能性に対して懐疑的で、これらの書簡の形式の方が決定的だと論じた。形式によって彼が理解したのは、ひたすら語るという書簡体形式ではなく、むしろこれらの書簡の他の特徴に注意を向けた。彼は書簡28-40に集中した。これらはその長さにおいて他の書簡と異なり、大部分がまた一致するように見える。Von Fritzは、これらの書簡に強いソークラテース的要素を確認した。書簡31、33、35-39は長い対話を含み、この中でディオゲネースはソークラテース的な質問法を用いるのだが、これはディオゲネス・ライエルティオスの逸話には欠けているものである。言説と文体(皮肉)におけるソークラテース的影響もまた見出せる。これらの書簡は、ディオゲネースをオリュムピアに置く。こうして彼は、さすらう犬儒として登場するのであるが、それはローマ帝政化にわれわれが知るにいたるものである。書簡29は、書簡40に引用されて登場するが、Von Fritzにとってはとりわけ重要である。これはソークラテースに対する強い類似性をもった書簡12を生み、これはソークラテースの書簡小説の内容をなす書簡8、9、12、13の一部をさす。書簡29は、この書簡小説を用いており、ソークラテース書簡という一大コレクション(その目的は、お互いの接触の中にソークラテースを現前させること)を形成しているに違いない。書簡29がこのコレクションに属し得なかったのは、書簡12のソークラテースにあまりに似かよいすぎていたためであり、ソークラテース派にも属さなかったためである。しかし、これがソークラテース的文学と関係を有するという接触は、Von Fritzにとっては後者が前者に対して有する影響のさらなる証拠である。内容的には、書簡39は全書簡中最もソークラテース的である。これは『パイドーン』の短い1節を反響させるているかのようであり、ディオゲネースの犬儒主義と何ら関係しない。このように、書簡29-40の中に人は一種の「娯楽文学(Unterhaltungs-literatur)」を見る。これは通常考えられているより以上に、ソークラテース派の作品と関係している。

 Von Fritzは、書簡28を除く彼のグループのすべての書簡にソークラテース的要素を確認できた。書簡28は、その長さゆえに、グループに含めざるを得なかったものである。彼が『ヘーラクレイトス書簡集』(書簡4、7、9)においてしたように、Jacob Bernaysもまたこの書簡をやはりキリスト教作家、あるいは最もありそうなことはユダヤ教作家に帰し、これとヘーラクレイトス書簡7との並行性に注意を喚起した。Bernaysの見解は論破されたにもかかわらず、Von Fritzはその点について不確かなままとどまり、この書簡の語彙は、書簡45でも繰り返される「東方キリスト者的」雰囲気の中で書かれたことを示している、と主張した。

 テクストの言い伝えを根拠に、これらの書簡をグループ分けする諸々の試みがなされた。かくしてGerckeは、4つのグループ — 書簡1-17、18-29、30-40、41-51 — から成ると推測した。ごく最近、Victor Emeljanowは、一人以上の作者を確認するというテキストの伝統に立ち帰った。作者を確認するために思考洋式とか型とかにしたがってこれらの書簡を分類するという試みに彼は満足せず、しかもVon Fritzの結果を修正して、書簡30-40は、ソークラテース的対話の自覚、ソークラテース的慣用語、後期ヘレニズムの語彙、放浪する伝道者としてのディオゲネースの見解、他の書簡から乖離する用具を示していると結論づける。加えて、書簡1-29は、これを引き離すいくつかの特徴を示し、陳述においてより単純、より短く、説明はより少なく、これ以降の書簡とは異なった特徴を有するとする。

 これらの発見は、テキストの伝統によってEmeljanowのために追認され、少なくとも2つ、あるいは3つの行き詰まりをさらけだす。書簡1-29から成る最初のコレクションが存在した。幾つかの写本が含むのはこれらの書簡のみである。このコレクションの成立年代は、前1世紀、あるいは、それ以前である。ディオゲネス・ライエルティオスが書簡16を引用し、彼が記録する逸話の多くは、これらの書簡の大部分の核を形成するが、意味深長である。第2のコレクションは、書簡30-40から成り、紀元後2世紀あたりに構成された。作者は第1のコレクションを暗記していたが、自身のものを分離して公刊した。第3のコレクションは、書簡41-51から成り、もしかすると伝存したものかもしれない。ある意味で、このコレクションの書簡類は、初期の書簡集に立ち帰っているが、その語調は粗く、これらの書簡集の何らかの逸話の典拠の欠如が、第3のコレクションであることを示している。書簡29と40,書簡7と34とに重複が見られることは、さらにもう一人の作者がいたことを示唆している。

 これらの書簡集は、3人ないし4人の、才能の乏しい弁論家たちの作品とみなされている。彼らは、たいてい、課業としてストア派的なdiatribeの主題を複製ないし発展させることで満足し、このことが彼らに対する無視に導いた。しかしながら、もっとありそうなことは、彼らは犬儒的プロパガンダとして描かれ、その結果、犬儒的modus vivendi〔生活することの仕方〕を正当化することになり、そしておそらくは、われわれがルゥキアーノスのような作者の作品に見出す犬儒派の戯画を補うことになったのであろう。これらの書簡集の価値は、逸話的話材から書簡体文学を創造した仕方のみならず、犬儒主義の発展と多様性の証人、また、他の哲学学派 — とりわけストア派 — との関係の証人となることころにある。

(Abraham J. Malherbe)




[底本]
TLG 1325
DIOGENIS SINOPENSIS EPISTULAE
(Incertum)
Cf. et DioGENES Phil. et Trag. (0334).
1 1
1325 001
Epistulae, ed. R. Hercher, Epistolographi Graeci. Paris: Didot,
1873 (repr. Amsterdam: Hakkert, 1965): 235-258.
(Q: 9,251; Epist.)





書簡集(Epistulae)

1.1."t"
シノーペー人たちに
1.1.1
 諸君はわたしの追放を有罪評決し、わたしは諸君の残留を〔有罪評決した〕。だから、そういうわけで、諸君はシノーペーに住まいし、わたしはアテーナイに〔住まいする〕、つまり、諸君は商人たちといっしょだが、わたしはソローンや、ヘッラスをメーディア人たちから自由にした人たちといっしょにいる、また、諸君はヘーニオコイ人たち〔サルマティア地方の住民〕やアカイア人たち — つまり全ヘッラスに敵対した人間どもを扱っているが、わたしはデルポイ人たちやエーリス人たち — つまり神々までが同市民である人たちを〔扱っている〕。
1.2.1
 いや、この〔評決〕が今でなく、もっと以前、つまり〔わたしの〕父ヒケタスの時代に、諸君によいと思われたら、よかったのに。しかるに今は、わたしが恐れているのはこの一点、祖国のせいで、わたしが節度ある人間だとは信じてもらえないのではないかということである。だから、諸君からわたしが国外追放を受けたということには弁護が可能だ。そしてわたしは、他方のことよりもむしろこれに信を置く。なぜなら、諸君から賞讃されるよりは、中傷されることの方がはるかにましだからである。しかしながら、それでもやはり、わたしの恐れるのはこのこと — 祖国に関する世間共通の言葉が、わたしを害しはしないかということである。しかし、何か他のことへの顧慮は何もない。というのは、1.2.10 わたしたちをこんなふうに遇する諸君といっしょによりは、どこでもほかの場所で住む方がましなのだから。

2.1."t"
アンティステネースに
2.1.1
 わたしはペイライエウスから街に上ってゆこうとしていました。すると、何かの酒宴でぐでんぐでんになり、自分たちの間でもすっかり興奮している若者の一団がわたしに行き合い、わたしが近づくと、「犬からは」と彼らが言いました、「離れていよう」。そこでわたしが、これを耳にしたので、「勇気を出すがいい」といいました、「この犬は、砂糖大根に咬みついたりしないさ」。すると連中は、わたしがこれを言ったので、よたっているのをやめ、頭と頸に巻きつけていた花冠をかなぐり捨て、肩当て(clanivV)をきちんと身にまとって、すっかりおとなしくなって、2.1.10 街までついてきました。わたしが自分に向かってひとりごつ言葉に耳を傾けながら。

3.1."t"
ヒッパルキアに
3.1.1
 わたしは貴女の欲求に驚嘆します。女の身でありながら、貴女は哲学に突進したのですから、そして、わたしたちの学派 — その厳格さゆえに、男たちでさえ驚倒する — の一員になったのですから。しかしながら、始めたことを成就もするよう、真面目でありなさい。しかし、貴女が成就できるとしたら、よろしいか、夫クラテースに後れをとらないこと、そして、哲学者の善行者たるわたしたちに頻繁に手紙を出すことです。というのは、書簡は、数多くのことが、そしてまた居合わす人たちとの対話に劣らぬことが、できるのですから。

4.1."t"
アンティパトロスに
4.1.1
 わたしを非難してはいけない。わたしたちをマケドニアに呼びもどそうとした貴殿に聴従しなかったからといって、また、アテーナイの塩を貴殿のところから来た卓より優先したからといって。なぜなら、わたしたちがこれをしたのは、見下したからではなく、愛名心からでもない。他の人たちなら、おそらく〔愛名心から〕すぐにそうしたであろうが — 王に反対することで、偉大な人だと多衆に思われるためだが — 。そうではなくて、マケドニアの卓に比べ、アテーナイの塩は、わたしたちと同部族だからである。ですから、わたしたちはむしろ有性〔=真理〕を守るために反対したのであって、見下しからではないのです。ですから4.1.10 容赦してください。というのも、わたしたちがもしも羊なら、聴従しなくても容赦したでしょう。それは、羊の食糧と王のそれとが同じではないからです。だから、それぞれのものには、どこであれ可能なところで生きるようにさせなさい、おお、浄福な人よ、なぜなら、それこそが王者的な振る舞いであって、他のことがではないのですから。

5.1."t"
ペルディッカスに
5.1.1
 貴殿がすでに諸々の思い(dovxa)と戦争しているなら — わたしが言うのは、〔思いとは〕トラキア人たちやパイオーニア人たちよりも強力で、貴殿に対してそれら以上に数多くの害を与えるものたちのことですが — 、人間どもの苦を打倒するためにわたしを呼び寄せてください。なぜなら、そういったものとの戦争にわたしは将軍として奉公することもできるからです。しかし、人間を相手の仕事が貴殿にまだ残っており、この戦争を差し迫って感じていないのなら、わたしたちがアテーナイに居座るに任せ、代わりにアレクサンドロスの将兵を呼び寄せてください — あの人もまた、イッリュリア人たちやスキュティア人たちを屈服させるときに、援軍として使った5.1.10 将兵を。

6.1."t"
クラテースに
6.1.1
 貴君がテーバイに去ってから、わたしはペイライエウスから〔街に〕上ろうとしていました。正午、それゆえまた、強烈な渇きがわたしをとらえました。そこでわたしはパノプスの泉に急ぎました。そしてわたしが頭陀袋から水呑を取り出していると、土地を耕していた下僕の一人が走ってやって来て、両手を合わせて窪みをつくり、泉から掬って、そうやって飲み、わたしも、水呑よりも賢明だとわたしに思われたので、彼を美しいことの教師として見習うことを恥じませんでした。
6.2.1
 そこで、わたしは持っていた水呑を投げ捨て、テーバイに帰る一団を見つけたので、この知恵をあなたにも書き送ることにしたのです。美しいことの何ひとつも、あなたを抜きにして知りたいとは望まないからです。

 それゆえ、あなたも、多くの人間どもが暇つぶししている市場に突入するべく試みなさい。なぜなら、こういうふうにしてこそ、他の諸々の知恵も、彼らから部分的に発見することがわたしたちにできるのですから。というのは、多くの自然は、思い(dovxa)のせいで生から追放されているのですが、人間どもの救いのためにわたしたちが引き下ろすものなのですから。

7.1."t"
〔父〕ヒケタスに
7.1.1
 悩まないでください、おお、父よ、わたしが犬と言われ、二つ折りした襤褸外套を身にまとい、肩に頭陀袋をたずさえ、手に杖を持っているからといって。なぜなら、意味があるのは、このようなことで悩むことではなく、むしろ喜ぶことなのですから。あなたの子が、わずかなもので満足しているが、ヘッラス人も非ヘッラス人も万人が隷従している思い(dovxa)から自由な者であるといって。というのは、名称は、諸々の事実と一致しないことに加えて、それがどうであるかを認める(e[ndoxon)徴(suvmbolon)です。というのは、わたしが、地の犬ではなくて、天の犬と言われるのは、わたしが後者に自分を似せているからであって、思い(dovxa)に従って7.1.10 生きるではなく、自然に従って〔生き〕、ゼウスのもとに自由人であって、善を奉納するのはこの方のためであって、隣人のためではないからです。
7.2.1
 さらに着物のことは、ホメーロスも、オデュッセウス — ヘッラス人たちの中で最高の賢者 — が、アテーナーの教訓に従ってイリオンからか家郷に帰るとき身につけていた、それはすこぶる美しく、人間どもの発明物ではなく、神々のそれであると同意されたほどである、と書いています。

してまた身体をつつむには、今までのとは別な、汚い襤褸や
肌衣のひどく汚れて見苦しいまでに、煙の煤がしみついたのの
肩当てには、脚の速い鹿の大きな皮、といっても毛の抜けたのを
掛けてやって、手に一本の杖とみすぼらしい頭陀袋の
7.2.10
とてもおんぼろなのを持たせた、提げ緒には、一本の縄がついていた。
 〔Od. xiii. 434-38〕

ですから元気を出してください、おお、父よ、〔人々が〕わたしたちを呼ぶ名称に、また着物に。前者の犬は神々の庇護のもとにあり、後者は神の発明物なのですから。

8.1."t"
エウグネーシオスに
8.1.1
 わたしはメガラからコリントスに到着して、市場を通り抜けようとして、子どもたちのとある学校の前に立った。しかし、よく朗誦していないので、彼らに教えているのは誰か訊いてみるのがよいとわたしに思われた。すると彼らは答えた、「シケリアの僭主ディオニュシオスです」と。しかしわたしは、連中がわたしをからかって、しかも素直に答えなかったのだと思い、近寄って、とある石段の上に腰をおろした。礼儀正しく彼を待ち受けようとして。というのは、〔彼は〕市場に向かって急いでいると言われたからだ。たしかに、長時間過ぎることはなかった。ディオニュシオスが8.1.10 引き返してきた。そこでわたしは立ち上がって、彼に呼びかけ、付言した。
 「何とよくないことか、ディオニュシオスよ、貴公の教え方は」。
8.2.1
 すると彼は、彼の僭主からの転落と、人生の現在の姿にわたしがいっしょに心を痛めていると思って、こういったことを云った、
 「おお、ディオゲネース、君はわれわれに同苦してよくしてくれる(eu\ poiei:n)」。
 そこでわたしは「よくない」に次の意味をこめておいた。
 「本当に。しかし、ぼくが心を痛めているのは、貴公が僭主の位を剥奪されたからではなく、おお、ディオニュシオス、今や貴公はヘッラスの中に置いて自由の身となって、シケリアでの諸々の悪事から救われて生きながらえているからなんだよ。その悪事たるや、陸でも海でもあまりにつまらぬことをしでかしたので、貴公はその咎で死ななければならない 8.2.10ものなのに」。

9.1."t"
クラテースに
9.1.1
 聞くところによると、貴君は全財産を運び降ろし、祖国に譲渡し、中央に立ち上がって布令たという、「クラテースの子クラテースはクラテースを自由人として解き放てり」と。そこで全町衆はその贈り物に歓喜し、かつ、そういう人間をつくったわれわれに驚嘆し、それゆえ、われわれをアテーナイから呼び寄せようとしたが、貴君はわれわれの判断を知っているので、妨げようとしたという。もちろん、その点では貴君の理性をわたしは賞讃し、財産の引き渡しの点では驚嘆もする 9.1.10。わたしの予想よりも速く、諸々の思い(dovxa)を超越する者となったからです。しかし、早く帰って来たまえ。というのは、その他の事柄のためになお貴君にはいっしょに修練する必要があり、等しい者たちのいないところで時間を過ごすのは安全ではないからだ。

10.1."t"
メートロクレースに
10.1.1
 着物、名称、生き方に関してだけでなく、メートロクレースよ、人間どもに救援物資をねだることにも元気を出せ。恥ずかしいことではないのだから。じっさい王たちや権力者たちは、屈服させられた者たちから金銭を、将兵を、艦船を、食糧をねだり、病人は医者たちから薬を、熱病のそれのみならず震えや疫病の〔薬〕を〔ねだり〕、愛者たちは愛童たちから接吻や抱擁を〔ねだり〕、ヘーラクレースはといえば、常識外れのものたちから強さをさえ受け取ったといいつたえられている。なぜなら、10.1.10 無料ではなく、またより劣悪な交換のためでもなく、万人の救済のためにこそ、ねだることは存在する — 人間どもにねだるのは、自然に従ったものらを、ゼウスの子ヘーラクレースと同じことをするためであり、君自身が受け取るものよりもはるかにすぐれたものを返礼することができるということである。
10.2.1
 それはどういうことか。これを為すのは、あなたにとって真理との闘いではなく、思い(dovxa)との〔闘い〕だということです。これ〔思い〕に対してはあらゆる仕方で闘いなさい。たとえ君を襲うものが何もなくても。なぜなら、このようなものらとの戦争もまた美しい習慣のようなものなのですから。ソークラテースはこう言うのが常でした — 真面目な者たちはねだるのではなくて、取りもどすのだ。なぜなら、あらゆるものは、神々のものでもあるように、自分たちのものなのだから、と。そしてこの結論を導くべく前提されたのは、神々は万物の主であり、友のものは共有である、ところで真面目な人は神の友である。だから、あなたは自分のものをねだることになるだろう。

11.1."t"
クラテースに
11.1.1
 市場に赴いて、そこにある人像にさえパンをねだりなさい。このような修練(melevth)も、きっと、美しいからです。なぜなら、人像よりも非情な人間どもに出くわすであろうから。そして、彼らがあなたよりもむしろ閹人や猥談男たちに施しをしたからとて、驚いてはいけない。なぜなら、各人は自分に近い者を敬うのであって、遠い者を〔敬うの〕ではないのですから。多衆にとって満足な者たちとは、哲学者よりもむしろ閹人たちなのだから。

12.1."t"
同じ人に
12.1.1
 多衆が、幸福へ通じる道が短いと聞くや、幸福視するものへ急行すること、あたかもわれわれが哲学へと〔急行する〕がごとくである。ところが、その道にたどりつき、その困難さを目にするや、脆弱な者たちのように、後ろに引き下がり、次いで、自分たちの甘さをではなく、きっと、わたしたちの無心(ajpavqeia)を非難するのである。だから、こういう連中は、諸々の快楽と共寝することに懸命なままにさせておきなさい。というのは、そういう生き方をする彼らを取り押さえるのは、かれらがわたしたちを中傷する労苦(povnoV)〔単数〕ではなくて、より大きな諸々〔の労苦〕であって、12.1.10 これら〔の労苦〕によって連中があらゆる環境に醜く隷従しているところのものなのです。しかし貴君は、貴君が始めたとおり、修練のうちにとどまり、快楽と等しく、労苦にも対抗しなさい。というのは、どちらとも等しく闘い、先ずもって足枷をかけるのが、わたしたちの生まれつきなのですから。前者〔快楽〕は醜さへと導くがゆえに、後者〔労苦〕は恐怖によって美しいことどもから逸脱させるゆえに。

13.1."t"
アポレークシスに
13.1.1
 頭陀袋を重くするものの多くをわたしは捨てた。皿は、パンの窪で〔代用〕でき、水呑は手で〔代用〕できると教えられたからだ。先生が、「わたしはまだ子どもだった」と云ったことばに恥はない。有用な発明は、歳端のせいで軽視すべきではなく、歓迎すべきだからである。

14.1."t"
アンティパトロスに
14.1.1
 貴殿はわたしの生〔き方〕を、それは労苦多く、困難さゆえに誰によっても行じられることはないからと非難する。しかしわたしがことさらにそれ〔生〕を強化したのは、わたしを模倣する者たちが、快適な生き方を完全にしないことを知るためです。

15.1."t"
アンティパトロスに
15.1.1
 わたしが二つ折りの襤褸外套を着こみ、頭陀袋を結びつけているのは、何ら意想外なことを為しているのではないと、貴殿が言っていると耳にしたが、それらが何ら驚くべきことではないが、それらの各々が、決意(diaqevsiV)から行じられているなら、美しいとわたしは主張する。なぜなら、身体はこの質素さを用いるべきであるのみならず、それ〔身体〕とともに魂もそうである。〔つまり〕公言することは多いが、実行することは何ひとつ満足なものはないというのではなく、生き方に従った言葉(lovgoV)を示すべきである。これこそが、わたしが実行に努め、わたしに証言しようと努めていることなのです。もしかして、わたしが 15.1.10 アテーナイ人たちやコリントス人たちの民衆のことを、悪しき証人と言っていると推測なさるであろうか。わたしは自分自身の魂のことを謂っているのであって、それ〔魂〕は、〔わたしが〕過ちをおかすのを気づかずにはすまさないものなのです。

16.1."t"
アポレークシスに
16.1.1
 貴君に住まいのことを頼みました。そして貴君が引き受けてくれたことに感謝。しかし、蝸牛を見ていて、風除けとなる住まいとして、メートローオン〔神殿〕にある甕を見つけました。だから、引き受けてくれたことはお役御免になったものとして、わたしたちが自然を見つけ出したことを、いっしょに喜んでくれたまえ。

17.1."t"
アンタルキデースに
17.1.1
 聞くところによると、貴君は徳についてわたしたちに宛てて書き、また、その手紙を通して、わたしたちが貴君にいささかなりと意を用いるよう説得するつもりだと、知己たちに公言しているという。しかしながらわたしは、苦悩を消す薬を葡萄酒に投入したというテュンダレオースの娘〔ヘレネーのこと。Od. iv. 221〕を賞讃することはなく(それは葡萄酒とは別に加えられねばならなかったのだから)、まして貴君などさらさらない。〔貴君は〕われわれが居合わせるところでは、何ひとつ真面目さに値することを演示せず、手紙を通してわれわれを説得できると想像しているのだが、これ〔手紙〕というものは、すでに亡き人々の思い出を救うものではあっても、生きてはいるが、居合わせない人たちの徳を 17.1.10 明らかにできるものではないのだから。このことは貴君に書いておかねばならない。魂なき〔文字〕によってわたしたちに話しかけるのではなく、みずから居合わせて〔話しかける〕ようにと。

18.1."t"
アポレークシスに
18.1.1
 哲学者メーノドーロスをば、わたしが貴君に紹介するよう、メガラの若い衆が頼みましたが、滑稽きわまる紹介です。なぜなら、彼が人間だということは、貴君は似像からわかるであろうが、哲学者でもあるかどうかは、生き方と言葉から〔わかること〕だから。というのは、われわれのいう真面目な人とは、自分で自己紹介するものだからね。

19.1."t"
アナクシラオスに
19.1.1
 ピュタゴラスは、自分はパントスの子エウポルボスだったことがあると言っていたが〔DL viii. 4〕、わたしは最近、自分がアガメムノーンだったことを悟った。なぜなら、王笏はわたしの杖だし、肩当ては二つ折りにした襤褸外套だし、楯は変化して革製の頭陀袋になったのだ。わたしに垂れる頭髪がないのは、アガメムノーンは若かったが、老年になって禿頭になったせいだろう。だから、「彼本人が謂った」と言う人に向かっては、こういうことを考えることも言うことも(kai; fronei:n kai; levgein)ふさわしいのだ。

20.1."t"
メレーシッポスに
20.1.1
 アテーナイ人たちの子らが、酔っぱらって、わたしたちに対して殴打に及んだこと、そして、知恵が酔漢の暴力に虐待されるとしたら、恐ろしい目に遭うものだと、貴君が悲しんでいると聞きました。しかし、よく知りなさい、 — ディオゲネースの身体は酔漢たちによって殴られたが、徳は、つまらぬ連中によって飾られるようにも辱められるようにも生まれついてはいないから、辱められなかったということを。事実、ディオゲネースが暴行されたのではなく、アテーナイ人たちの民衆が — そのなかに徳を軽視するのがよいと思った幾人かが含まれるのですが — 悪い目に遭ったのです(kakw:V e[paqen)。じっさい、一人のひとの無知慮によって、民衆全体の愚か者が破滅するのです。不適当なことを企み、20.1.10 平穏であるべきときに出征して。しかし、初めに狂気(ajpovnoia)をくいとめれば、こういう事態に陥ることはないだろう。

21.1."t"
アミュナンドロスに
21.1.1
 生みの親に、生まれたことを感謝する必要はない — 存在するものらは自然によって生まれるのだから — 、また性質(poiovthV)を〔感謝する必要〕もない。なぜなら、諸要素の混合(suvgkrasiV)がその原因だからである。さらには、選択(proaivresiV)とか意図(bouvlhsiV)とかによって為されることにも、いかなる感謝〔の必要性〕もない。なぜなら、生まれることは性愛行動の結果であり、これは快楽のためのものであって、生殖のために行じられているのではないからである。こういった、まやかしの生とは正反対の声を、わたしは無心の預言者として、声を上げて宣明している。しかし、一部の人たちにとって無慈悲にすぎるように見える場合には、自然が真理とともにそれら〔の声〕を確証し、21.1.10 迷妄(tu:foV)に従ってではなく、徳に従って生きる人たちの生もまた〔確証〕するのである。

22.1."t"
アゲーシラオスに
22.1.1
 わたしにとって生きることはあまりに不確かなので、貴君にこの書簡を書き終わるまでも持続するとは信じられないほどだ。だが、頭陀袋はその〔生の〕充分な貯蔵庫であり、信じられる神々が備えてくれるものは、人間どもの考えるよりも大きい。しかし、生の後の死滅というこの一事のみは確実だとわたしは自覚している。わたし自身はこのことを覚知し、小躯のまわりを飛びまわっているむなしい希望を吹きとばし、人間のことを気にかけすぎないよう貴君にも伝えるのだ。

23.1."t"
ラキュデースに
23.1.1
 マケドニア人たちの王がわたしたちに謁見することに熱心だという吉報を貴君はわたしに寄越してくれたが、そのさい、王〔ということば〕にマケドニア人たち〔ということば〕を付け足したやり方は、みごとだった。というのは、わたしたちの行事が王の支配下にないことは、貴君の知るところだから。とはいえ、誰ひとりにも、わたしのやり方を見慣れぬことと見るようにさせてはなりません。もしもアレクサンドロスが生と言説を変えたいと望むなら、彼に言いなさい、 — アテーナイからマケドニアに至るほど、マケドニアからアテーナイに至る道もそれだけ遠いのだと。

24.1."t"
アレクサンドロスに
24.1.1
 貴殿が美而善なる人(kalo;V kajgaqovV)になりたいとお望みなら、貴殿が頭上に戴く襤褸をかなぐり捨てて、われらのところに来られるがよい。しかし、貴殿には決してできない。ヘーパイスティオーン〔アレクサンドロスの腹心にして愛人〕の太腿に支配されているゆえ。

25.1."t"
ヒッポーンに
25.1.1
 死と埋葬について、何を、何時わたしが知るに至ったか、わたしが貴君に書き送るよう貴君は求めた。あたかも、死後のことまでわたしたちから学ばないかぎり、完全な哲学者にはなり得ないかのように。しかしわたしは、徳と自然に従って生きることで充分であり、しかもそれはわれわれ次第なのだと考える。誕生のことは自然に譲歩するように、死後のこともそれ〔自然〕にゆだねられている。なぜなら、それ〔自然〕は誕生させたように、破滅もさせるのだから。だが、わたしがいつも無感覚(ajnaivsqhtoV)であるかのようなことを貴君が心配することはない。とにかく、わたしは、わたしが息を引き取ったら、25.1.10 わたしを汚すように思われる動物を追い出すために、杖を携えることを知っているのだ。

26.1."t"
同じ人に
26.1.1
 生涯を通しての貧しさの初まりをわたしが貴君に授けたことを思い出し、貴君自身もこれを捨てることなく、他者によってこれを取り上げられることないよう努めたまえ。というのは、どうやら、テーバイの人々は、貴君を不幸視して、再び取り囲もうとしているらしいからです。しかし貴君は、襤褸外套をライオンの皮と考え、杖を棍棒、頭陀袋をば、これによって貴君が養われる陸と海と〔考えたまえ〕。そういうふうにしてこそ、ヘーラクレース的な、そしてあらゆる運よりもすぐれた精神(frovnhma)が貴君に沸き起こるだろうからです。ところで、貴君のところにハウチワマメか、あるいはまた干し無花果が有り余っているなら、わたしたちにも送ってくれたまえ。

27.1."t"
アンニケリスに
27.1.1
 ラケダイモーン人たちは、わたしたちに対して、スパルタに足を踏み入れるべからずとの票決をしました。しかしながら、少なくとも貴君は、何ら心配には及ばない。犬儒主義の名称を利用してきたのだから。じっさい、彼らが修練しているように思われていることが、ひとりわたしによってのみ完成されたということを知らぬ人々は哀れである。というのは、生の簡素を、わたしよりもよく修練した者がいるかどうかわたしは知らないし、ディオゲネースがいるところで、恐るべきことどもに対する忍耐を誇れる者が誰かいようか。たしかに彼らに同じことも随伴した — 彼らは男らしさによって市壁なきスパルタに住んでいるように思われながら、魂は守りなきままにこれを諸々の苦に 27.1.10 引き渡したのである。自分たちに対する助けは何ひとつ立てることなく。だから、境を接する者たちには恐ろしげにみえても、自分たちの内なる病によって攻め立てられているのだ。だから、彼らをして徳を追放せしめよ — これによってのみ〔魂が〕強くされることができ、諸々の病から解き放されるところの〔徳〕を。

28.1.1
 犬儒ディオゲネースから、いわゆるヘッラス人諸君に。呪われるがいい! しかしこれ〔呪い〕は、わたしが言わなくても、諸君のものである。というのは、諸君は、見たところは人間であるが、魂においては猿である。どんなふりでもするが、何も知っていないからである。だからこそ、自然が諸君に報復するのだ。というのは、諸君は自分で自分に諸々の法習を考案し、これに由来する最大・最多の傲り(tu:foV)を自分に割り当てるのだ。生まれつき植えつけられた性悪の証人として受け入れて。そして、一度として平和裡にあったことがないのはもちろん、全生涯の間、戦争裡に老いてゆく — 諸悪を行じる悪人として。28.1.10 そして、お互いに妬みあうのだ — 他人が少し上等の外衣や、少し多くの小銭を持っているのを目にしたり、より鋭い言い廻しをする人や、より多く教育を受けた人を目にすると。
28.2.1
 なぜなら、諸君が健全なロゴスによっ判断するものは何もなく、尤もらしさ(eijkovta)、甘言(piqanav)、思いこみ(e[ndoxa)に陥り、諸君はあらゆることを責め苛むが、諸君の先祖も、諸君も、知っていることは何もなく、無知(ajgnoiva)と慎慮のなさ(ajfrosuvnh)のせいで嘲るばかりで、歪められているのだ、何という美しい行為であることか! 諸君を嫌悪するのは犬〔儒〕だけではなく、自然そのものもだ。なぜなら、諸君が好機嫌になることは少なく、結婚する前も、結婚してからも、苦しむことが多い。諸君は、もともと忌まわしく、気むずかしい存在であるくせに、結婚したからである。どれほど数多くの、28.2.10 またどのような人々を、諸君は殺したことか! ある人たちは、戦争で、強欲なゆえに、ある人たちは、いうところの平和裡に、責任を帰せて。
28.3.1
 実際、多くの人たちが十字架に吊され、多くの人たちが処刑吏によって喉を掻き切られ、別の人たちは公的に毒薬を飲んで、またある人たちは拷問にかけられて、ではないか。もちろん、不正であると思われたからではあるが。それなら、どちらをすべきだったのか、おお、薄野呂どもよ、その連中を教育するか、それとも、殺すか。もちろん、われわれにとって必要なのは死体ではない — 犠牲祭の肉として食うつもりなら別であるが — 、しかし善き人たちは絶対に必要である、おお、薄野呂どもよ。読み書きできない連中や無教養な連中に、28.3.10 いわゆる教養である文字を諸君が教育するのは、いつか連中が必要となったときに、諸君の手許にあるためである。しかるに、諸君が不正な連中を教育して、義しい者たちが必要になった場合に利用しないのは、何ゆえなのか? というのは、都市とか陣地をかっぱらいたいときには、諸君が不正な連中をも必要とするのだからね?

28.4.1
 しかし、これはまだ大きなことではない。諸君が美しいことどもを力ずくで実行する場合、すぐれた事柄でさえ掠奪されるのを目にすることができるのであり、そして、おお、薄野呂どもよ、諸君が手をつける連中 — これに諸君は不正しているのであり、しかも、諸君自身がより大きな罰にあたいするのだ。体育場で、また、市場で、いわゆるヘルメース祭とかパンアテーナイア祭が挙行されるとき、諸君は食べ、飲み、酔っ払い、突き刺し〔性交し〕、女々しくなる。それから、諸君は不敬をはたらき、なおも、陰に陽にこれらのことを行う。犬〔儒〕には何ひとつ気にならないが、28.4.10 諸君にはそれらすべてが気にかかるのだ。

28.5.1
 いったい、諸君が犬〔儒〕たちを自然的で真実の生から閉め出すところで、どうすれば、彼らを怒らせないですむのか? 犬〔儒〕であるわたしはロゴスでもって、しかし自然は事実(e[rgon)でもって諸君全員を等しく罰する。というのは、死 — 諸君が恐れるもの — は諸君全員に等しくつきまとっているからである。実際、わたしは目にした — 乞食たちが欠乏ゆえに健康であり、富裕者たちが、不仕合わせな胃と男根の不節制ゆえに病んでいるのを。なぜなら、諸君はこれらを喜び、少しの間快楽によってくすぐられるけれども、28.5.10 〔その快楽は〕大きくて強力な苦痛を見せつけるものなのだ。
28.6.1
 そして、家も、その柱も、諸君に役立つものは何もなく、金や銀づくりの寝椅子の中に横たわってねじられ — それは美しい行いであるが — 、強くなることもできない。悪事を行じる悪人として、野菜とともに善きものらの残り物をむさぼりつくすからである。しかしながら、もし諸君が理性を持っているなら — 酔っぱらっていては、持つことはないが — 、知者ソークラテースとわたしに聴従して、壮年のころから共同の集まりに参集し、慎慮することを学ぶなり、首を吊るなりするがよい。他の仕方では、存命することができないからである。もし 28.6.10 酒宴におけるとおなじように〔存命することを〕拒むならば。飲み過ごし、酔いつぶれて、目眩と旋回に取り憑かれ、他の人に連れられて、自分で救われることができないかぎりは。

28.7.1
 享楽に耽り、善きものら — 諸君はこれの主人だと言うのだが — がどれほど数多くあるかに思いを致している諸君のところに、公共の死刑執行人たち — これを諸君は医者と呼んでいる — がやって来て、何が胃袋に押し入ったのか、これを彼らはその名で言い、処置する。この人たちは、美しい行いだが、手術し、焼灼し、包帯し、身体の内にも外にも薬を処方する。こうして健康になると、諸君はいわゆる医者たちに感謝することもなく、神々に感謝すべきだと謂う。しかしそうでない〔恢復しない〕場合は、医者たちを訴えるのだ。しかし少なくともわたしの手許には、28.7.10 苦しむことよりは好機嫌であること、無知であることよりは知っていることの方が、より多くある。
28.8.1
 それは、知者アンティステネースと面談しつづけたからである。彼は、自分を知っている人たちとのみ分かち合い、余所余所しい人たち — 自然、ロゴス、真理を知らない者ども — を避けた。書簡の中に述べられているように、犬〔儒〕のロゴス〔複数〕を解しない幼稚な獣には、何も気に留めなかったのである。しかし、バルバロイである〔諸君〕には、呪いあれとわたしは言う。諸君がヘッラスらしさを学んで、真のヘッラス人となるまでは。なぜなら、今や、いわゆるバルバロイの方が、現にいる場所においても、生き方においても、はるかに優美である。そして、いわゆるヘッラス人たちが、そのバルバロイを攻めるために28.8.10 出征し、バルバロイの方は、全員が自足しているので、自分たちの〔土地〕を守らねばならないと思っているのだ。だが諸君には、満足のゆくものは何もない。というのも、諸君は栄光好き〔(filovdoxoV)ドクサ好き〕であり、非理性〔ロゴスなきもの(a[logoV)〕であり、役立たずとして〔ajcrhvstwV〕養育された者たちなのだから。

29.1."t"
ディオニュシオスに
29.1.1
 貴殿自身の配慮をするのがよいと貴殿に思われているのだからして、ゼウスにかけて、アリスティッポスやプラトーンには何ら等しくないが、アテーナイにいる家庭教師たちのうち、わたしが雇っている一人を貴殿に送ろう。見抜く力はこのうえなく鋭く、29.1.5 歩みはこのうえなく素速く、苦痛このうえない鞭をたずさえている人物で、彼は、ゼウスにかけて、恐惶や危惧をやめて、昼の日中に休むことなく、朝は早く起きることを貴殿に課する。それら〔恐惶や危惧〕に取り巻かれていると、槍持ちたちとか、市城の安全によって何とかそれら〔恐惶や危惧〕から離反しようと思うのであるが、29.1.10 それら〔恐惶や危惧〕を持ち合わせるのはいつもそれら〔槍持ちたちとか市城の安全〕によってのみであり、そういったものらがより多く、より大きく貴殿に備われば備わるほど、ますますより多くの、より大きな窮状や魂の危惧が貴殿に結果するのだ。

29.2.1
 それゆえ、それらすべてを彼は取り除き、勇気を植えこむことで、柔弱さから離反させるだろう。いったい、自由でない人にどんな益があろう。たしかにこれこそが奴隷状態であって、彼らの生は恐怖にいろどられているのである。だから、貴殿がこれらの交わりを持っている間は、これらの諸悪の何かが貴殿を解放することはないだろう。しかし、袖無しシャツを着た者を貴殿が受け入れれば、その者が貴殿の脇を払い浄め、調理した食事をやめさせ、代わって、自分自身が過ごしているような生き方で貴殿を確立するので、貴殿は救われるだろう、おお、29.2.10 怯懦な者よ。

29.3.1
 ところが今、貴殿が見出しているのは、こういう類の人間ども — できるかぎり貴殿を汚し、堕落させようとする連中である。というのは、何か善いものを貴殿のためにととのえようとするのではなく、どうしたら御馳走にありつけるかを考察し、どんな儲けがあるかを探究するのだから。貴殿の目下の諸悪を何ひとつも取り除くのではなく、財産を取り上げ、家のしきたりまで徹底破壊して。じつに貴殿はかくも鈍感なので、ヘッラスの中心ばかりか、至る所でこう言われていることばさえ耳に入らない。

29.3.10
善き人々から善きことを学ぶだろうが、悪しきことどもと
混ぜ合わせれば、持ち前の理性をさえ失うだろう。
 〔Theognis, El. 1. 35-36〕

29.4.1
 おお、怯懦な者よ、貴殿にとって、父祖伝来の僭主的な生き方よりも重いものは何もなく、貴殿をもっと激しく常時破滅させるものも他にない。いや、そのために貴殿を、いわゆる僭主らしさから、あたかも神聖病からのように離間させてくれる人間を見つけ出すこともできない。なぜなら、狂気となった人間が為すことのすべてを貴殿は為しているのだから。それから離間していさえすれば救われるにもかかわらず。いや、仲間たちは貴殿がどれほどの悪を有しているかも見ず、貴殿自身も感受しない。それほどまでに広汎に、かつはなはだしく、病が貴殿にとりついている。だから、29.4.10 貴殿にとって必要なのは、鞭と主人であって、貴殿を賛嘆し追従する者ではない。少なくともこのような人間によっていったいいかにして益される人がいようか、あるいは、こういう者がいかにして誰かを益し得ようか。馬とか牛のように懲らしめ、と同時に、正気に返らせ、必要なことどもを心がける以外はない。

29.5.1
 しかしながら、少なくとも貴殿はすでに堕落の遠くに至っている。だから、切除、焼灼、薬の使用が必然である。しかるに貴殿は、餓鬼のように、爺婆のようなものや乳母たちを持ち込み、連中は貴殿に謂うのだ、「お取り、坊や、ちょっとでも愛してくれているなら、コップをお満たし。もう少しだけこれをお食べ」。だから、あらゆる男たち女たちが集まって、貴殿に呪いをかけたら、もっと病に益することをすることはできまい。しかし、どうだ。というのは、貴殿は無花果の葉を食むことはけっして好まず、羊のようには季節の果物から離間しないであろう。だから、貴殿には「ご機嫌よう」も「お元気で」もないのだ、おお、最愛の友よ。

30.1."t"
〔父〕ヒケタスに
30.1.1
 わたしはアテーナイにやってきました、父よ、そして、ソークラテースの仲間が幸福について教えていると聞いて、彼のところに赴きました。するとその人物は、このときたまたま、〔幸福に〕通じる2つの道について暇つぶしして、それは2つで、多くはない、一つは短く、もうひとつは長い。各人はどちらか望みの道を歩むことができる、と言っていました。わたしはこれを聞いて、その時は黙っていましたが、次の日、わたしたちが彼のところに再び赴いたとき、2つの道についてわたしたちに演示するよう彼に頼みました、すると彼はいとも快く 30.1.10 椅子から立ち上がって、わたしたちを町に連れて行き、これを通り抜けてまっすぐ市城に〔連れて行きました〕。
30.2.1
 そしてわれわれが近づくと、上に通じる2つの道をわれわれに示しました。一つは短いのを、急峻で難渋なものとして、もうひとつは長いのを、平坦で容易なものとして。というのは同時に、「これら〔の道〕は」と彼は云いました、「市城に通じているが、幸福に至るのも同じようなものだ。諸君は各々好きなのを選ぶがよい、わたしが案内しよう」。このとき、他の者たちは、道の難渋さと急峻さに圧倒されて、降参して、長くて平坦な〔道〕を連れて行くよう彼に頼みました。しかしわたしは、困難事には勝っているので、急峻で難渋な〔道〕を。なぜなら、幸福へと駆り立てられる者は、火とか剣を通ってでも、歩むべきだからです。

30.3.1
 さて、わたしがこの道を選んだので、彼はわたしの外衣と内衣を剥ぎ取って、二つ折りにした襤褸外套をわたしに着せ、わたしの肩に頭陀袋を提げさせ、これにパンと飲み物と水呑と小鉢を入れ、これの外には油壺とストレンギスをぶらさげ、さらにわたしに杖を与えました。そうしてわたしはこれらで飾られましたが、彼に尋ねました。何故わたしに襤褸外套を二つ折りにして着せたのかと。すると彼は謂いました、「夏の暑熱と冬の寒さとの両方にたいして、30.3.10 貴君といっしょに修練できるように」。  「いったいどうして」とわたしは謂いました、「一人だけではそれができないのですか」。

30.4.1
 「できないね」と彼は云いました、「夏は楽な道だが、冬は、人間に耐えられる以上の艱難を」。  「頭陀袋は、何故わたしにまとわせたのですか」。  「どこでも住まいを」と彼は云いました、「持ち運べるように」。  「水呑と小鉢は、何故入れたのですか」。  「貴君は」と彼は云いました、「飲むこともおかずを用いることもしなければならないから。ほかのおかずには」と彼は謂いました、「カルダモンを持っていないのだから」。  「油壺とストレンギスは、何のためにぶらさげたのですか」。  「前者は」と彼は謂いました、「労苦には役立つし、後者は、油やゴミに」。30.4.10
 「杖は何のために」とわたしは謂いました。  「安全のために」と彼は云いました。  「それはどんな」。  「神々がこれを用いる相手は、詩人たちに対してなのだ」。

31.1."t"
パイニュロスに
31.1.1
 競技の後、わたしはオリュムピアにのぼろうとしていたが、次の日、全格闘技の競技者キケルモスが途中でわたしに出くわした。彼はオリュムピア祭の花冠を戴き、彼といっしょに、親しい者たちの大きな一団が家郷へと向かっていた。そこでわたしは、それがわたしに近づいたとき、彼の手をとって、「身を退くのがよい」とわたしは云った、「おお、競技者よ、悲惨さ(talaipwriva)からはな。そして、迷妄(tuvfoV)を止めよ。これはオリュムピアにのぼった君を、両親にとって見知らぬ者として帰らせるものだ。そこで謂ってくれ — いったい何のおかげで、君は威張りかえって」と31.1.10 わたしは謂った、「その花冠を頭に戴き、ナツメヤシを手にたずさえ、これほどの一団を引き連れているのか」。

31.2.1
 すると彼が答えた、「全格闘技でオリュムピアの全員に勝利したおかげですよ」。
 「おお、何と素晴らしいことか」とわたしは謂った、「ゼウスにもその兄弟にも?」。
 「とんでもない」と彼が謂った。
 「それなら、彼らに一人で挑戦して?」
 「ちょっとちがいます」と彼が云った。
 「すると、おそらくは、君は他の人たちと全格闘技の試合をしたのだが、他の人たちというのは、君が籤で当たった相手だね」。
 「そのとおり」。
 「すると、他の者たちによって篩い落とされた相手を、自分が勝利したとどうして君は敢言できるのかね。実際はどうなんだ。オリュムピアで全格闘技をする者たちは、大人だけなのか?」
 「子どもたちもです」と彼が云った。
31.2.10
 「君は、大人なのに、彼らにも勝利したのか」。
 彼は否定した。「ぼくの組じゃないもの」。
 「ではどうか、君は自分の組の者全員に勝利したのだね」。
 「たしかに」。
 「わたしに言ってくれ」とわたしは謂った、「君の組は成人たちの組だったのではないか」。
 「成人たちの」と彼が云った。
 「キケルモスはどんな組で競い合ったのか?」
 「ぼくに言っているのですか? 成人たちの〔組〕です」と彼が云った。
 「すると、はたして、君はキケルモスに勝ったのか?」
 「とんでもない」と彼が云った。

31.3.1
 「それで、君は子どもたちに勝利したのでもなければ、成人全員に勝利したのでもないのに、勝利したと敢言するのかね? 君が持ったのは」とわたしは謂った、「どんな相手なのかね?」
 「大人たちです」と彼が云った。「ヘッラスとアシア出身の有名な人たちです」。
 「はたして、君よりすぐれているのか、それとも、対等なのか、それとも、劣っているのか」。
 「すぐれている人たちです」。
 「すぐれている者たちが君に負かされたと君は言うのかね?」
 「対等な人たちです」と彼が云った。
 「いったいどうして、対等な者たちが負けることができるのか。君より劣った者ではないのに?」
 「劣った人たちです」と彼が云った。
 「すると君は、劣った者たちを打ち負かしたことで威張っているのをやめないのか。31.3.10 それとも、そんなことができるのは君だけであって、31.3.11 普通の人はできないのか? では、どうか。力の点で自分より劣っている人たちに打ち勝てないような人はいない。31.4.1 とにかく、おお、キケルモスよ、これら多くのことどもに訣別せよ、そして、全格闘技においてはもちろん、人間ども — ほど経ずして老齢に達したとき、君はこれらの人たちより劣った者となるであろう — を相手に競い合ってはならぬ。むしろ本当に美しきものらへと至って、堅忍することを学べ — 人間どもによって打倒されではなく、魂によって打倒されて堅忍することを。革紐によってでもなく拳によってでもなく、貧しさによって、不評(ajdoxiva)によって、生まれのわるさによって、国外追放によって〔打倒されて堅忍することを〕。なぜなら、これらを軽蔑することを修練することで、君は浄福に生き、死ぬことに耐えられるだろうから。これに反し、それらを競合するなら、31.4.10 君は悲惨に(talaipwvrwV)生きるだろう」。

 こういったことをわたしが彼に説明したので、かれはナツメヤシを地に投げ捨て、花冠を頭からかなぐり捨てて、道を帰ることができたのであった。

32.1."t"
アリスティッポスに
32.1.1
 わたしは聞き知ったのだが、君はわたしたちを誹謗することで暇つぶしし、わたしの貧しさを、僭主のところで折に触れて非難しているという。いつだったかわたしたちが、泉のほとりで、パンのおかずにキクジシャを洗っているところをつかまえたことがあるといって。しかしわたしはびっくりだ、おお、浄福な人よ、価値ある事柄を賞讃する人たちの貧しさをどうやって君が悪口するのか、それも、ソークラテースの弟子である君が。〔ソークラテースは〕冬も夏もほかの時も同じ襤褸外套をまとい、妻たちに対しては同じ権利(koinovn)を有し、おかずは、菜園からでも台所からでもなく、32.1.10 体育場から運んだ人であったのに。いや、どうやら、シケリア流の宴卓のせいで、君はそのことを忘れてしまっているらしい。

32.2.1
 わたしとしても、貧しさが、何よりもアテーナイにおいては、どれほど価値のあるものなのかを、君に思い出させる気はないし、それ〔貧しさ〕について弁明する気もない(わたしとしても、君にわたし自身の善を分け与えないのは、君が他の人たちに〔分け与えないの〕と同様である。だから、それ〔善〕についてわたしひとり知っているだけで足りるのだから)。しかし、ディオニュシオスとその浄福な交際については、いささか君に思い出させよう。この〔交際〕は君を好機嫌にさせたのだが、高価な、わたしたちの手には決して入らない食事を食したり飲んだりするたびごとに、人間どもが、あるいは鞭打たれ、あるいは串刺しの刑に処され、あるいは石切場に連行されるのを目にし、また、ある者たちからは妻たちが暴行目的に取り上げられ、ある者たちからは子どもたちが〔取り上げられるの〕を、また数多の奴隷たち — たった一人でないのはもちろん僭主本人でもなく、多数の不敬な者たちの多くを、また、無理矢理に飲み、生きながらえて、前進し、黄金の足枷のせいで逃れ出ることができないのを〔君は目にする〕。〔文意がよくわからず〕

32.3.1
 以上のことを、わたしとしては、くだんの非難の代わりに思い出させよう。キクジシャの洗い方は知っているが、ディオニュシオスの扉に奉仕することには無知であるわれわれは、わたしの主張では、ディオニュシオスに勧告し、全シケリアに指図する君たちより、どれくらいすぐれた生き方をしていることか! しかしながら、君が勢いこんでわれわれに対してどれだけのことを言おうと、君は理性を働かせるべきであり、情動とロゴスとが争有と言うことがあってもならない。というのは、ディオニュシオスの〔宮廷〕でのことは、話では美しいが、しかしクロノスの時代の自由と32.3.10filhtioV mazablwroV〔?〕は……〔欠損〕

33.1."t"
パノマコスに
33.1.1
 わたしは劇場に坐って、書面を膠で閉じていました。するとピリッポスの子アレクサンドロスがやって来て、わたしの傍、真正面に立ったので、わたしから太陽〔の光〕を奪うことになった。わたしとしては、もう書面の継ぎ目をほとんど見分けられなくなったので、仰向いてそこに彼がいることを知った。彼もわたしを、わたしが仰向いたので、それと認めて、右手を差し出した。それでわたしも彼に手を差し出し、こういうことを云った。「貴君はほんとうに不敗者だ、若者よ、神々にも等しいことができるのだから。というのは、見よ、33.1.10 月は太陽の真正面にくることで太陽を処理すると謂われるが、貴君もその同じことをしでかしてくれた。ここに入りこんで、わたしの傍に立ったのだから」。

33.2.1
 するとアレクサンドロスが、「ばかにしている」と云った、「おお、ディオゲネースよ」。
 「それはどういう意味で」とわたしは謂った、「あなたはおっしゃっているのか? わたしがこの仕事を中断しているのは、夜のように見えないためだと、あなたに見えるのではありませんか? そして今、あなたと対話しているけれど、それはわたしにとってどうでもよいことを対話しているのです」。
 「どうでもよいことだと」と彼が云った、「王アレクサンドロスはそなたにとって」。
 「けほども」とわたしは謂った。「なぜなら、彼はわたしの関わりのあることと戦争しているのでないし、マケドニア人たちのものや、ラケダイモーン人たち、あるいは何か他の人たち — 33.2.10 そのめいめいが王を必要とする人々 — のものを〔掠奪する〕ように、掠奪しているのでもないのですから」。
 「しかしながら貧しさの点では」と彼が謂った、「わたしはそなたとは異なる」。
 「どんな」とわたしが謂った、「貧しさですか」。
 「そなたの貧しさは」と彼が云った、「あらゆる必要なものをかくのごとくに物乞いする者となっている所以のものだろ」。

33.3.1
 「そうではありません」とわたしは謂った、「貧しさとは、財を持っていないことそのことなのではなく、物乞いすることは悪いことでもなく、〔貧しさとは〕何でも欲しがることです。これはわたしたちの内にあり、力づくで事を行うのですが。それゆえ、わたしの貧しさには、諸々の泉や大地、いやそればかりか、洞穴も山羊皮も援けとなってくれ、これのせいで争いをする人は、陸にも海にも、一人もなく、わたしたちは生まれたまんま、よろしいか、生きてもいるのです。これに反して、あなたがたの立場には、陸も海も援けにはならないのです。
33.4.1
 もちろん、あなたがたはこれらのものは在るがままに<うっちゃって>、天へと駆けのぼってゆく。そして、これらのものを欲求せぬよう、慎慮〔を促進する〕ためにアローエイダイの受難を書き記したホメーロスにさえ聴従しないのです」。

 以上のことをわたしが意気揚々詳説していると、ある大きな羞じらいがアレクサンドロスに入りこみ、同志たちの一人の方をふり返って云った、「じっさい、わたしがアレクサンドロスに生まれなかったら、ディオゲネースになりたかった」。そしてわたしを立たせ、いっしょに遠征しようと頼み、自分といっしょに連れて行こうとしたが、やっとのことで彼はあきらめた。

34.1."t"
オリュムピアスに
34.1.1
 わたしのことで、オリュムピアスよ、知己たちに向かって愚痴をこぼしてくれるな、わたしが襤褸外套を身にまとい、うろつきまわって、人間どもにパンを物乞いするといって。というのは、それは恥ずべきことではなく、自由人たちにとっては、あなたが謂うのとはちがって、怪しげなことでさえなく、むしろ美しく、生と戦っていると思われることに対する武器のようなものでありえるのですから。そしてわたしがこの教えを学んだのは、アンティステネースが最初ではなく、神々や英雄たちや、ヘッラスを知恵へと転向させた人たち — ホメーロスや悲劇作家たちからなのです。34.2.1 この人たちは謂っています — ゼウスの妃ヘーラーは、女司祭に変身して、生のこのような恰好をとったと。「泉のニュムペーたちのために、〔すなわち〕尊い女神たちのため、〔すなわち〕アルゴスのイナコス河の、生命恵む子らのために、施しを集めようとして」〔アイスキュロス断片168〕。また、ヘーラクレースの子テーレポスも、アルゴスにたどりついたときは、われわれの〔恰好〕よりもはるかに劣悪な恰好で登場した。「寒さ対策に乞食の襤褸をこの身にまとい」〔エウリピデス断片697〕。ラーエルテースの子オデュッセウスも、イリオンから家郷へ帰るとき、糞と煤だらけの襤褸を着ていた。34.2.10 はたして、わたしの着物と物乞いが、恥ずべきことだとまだあなたに思われるか、それとも、美しく、王たちにとって驚嘆さるべきことであり、理性を有する万人にとって質素さ(eujtevleia)のために選択されるべきと?

34.3.1
 ところで、テーレポスが生のこの恰好に身を包み隠したのは、健康を得るためだが、オデュッセウスは、おびただしい不正を働いた求婚者たちを殺害するためであった。そしてわたし〔がそうするの〕は、幸福 — テーレポスの善は、そのわずかな分け前にすぎない — を得るためであり、偽りの思念 — これのせいで一人の主人を選ぶことができない — を除去し、諸々の病や、市場にたむろする誣告者たちを逃れ、父なるゼウスのもと、全地上を自由人として、大いなる主人たちの誰一人も恐れることなく、34.3.10 遍歴するためなのである。

 だから、母よ、襤褸外套を身にまとい、頭陀袋をたずさえ、劣悪な連中からパンを乞い求めている、わたしよりすぐれている人たちを示すことで、わたしがあなたを宥められるなら、神々に感謝! しかしそうでなければ、あなたの愚痴は無駄というもの。

35.1."t"
ソーポリスに
35.1.1
 イオーニアのミレートスにやって来て、市場に通りすがり、子どもたちが下手に吟誦しているのを小耳にはさんだ。そこでその教師のところに行って、これに尋ねた。「どうしてキタラを教えないのか」。
 すると彼が答えた、「わたしが学ばなかったから」。
 「それなら」とわたしは謂った、「これは、君が学ばなかったので、教えていないのに、文字は、君が〔意識的には〕学ばなかったのに、教えているというのは、どういうことだ」。

 再び少し進んでいって、体育場に入って行ったところ、野外でまずく球技している者を見て、体育場の番人のところに行って、35.1.10 「いかほどか」とわたしは云った、35.1.11「塗油しているのに球技しない者に課せられる罰金は」。
 すると彼が、「1オボロス」と謂った。
 「あの若者は」と、その人を指さしながら、わたしは謂った、「何らの罰金も彼に強要されないまま悪ふざけしている」。

35.2.1
 そこで、わたし自身も襤褸外套を脱ぎ、ストレンギスを外し、入場して、塗油した。すると、長い時間すぎることなく、その地のしきたりに従って、若者たちのある一人 — すこぶる見てくれのみやびた少年 — が、すぐにわたしに手を差し出した。わたしが相撲を知っているかどうか小手調べしながら。そこでわたしは、一種の謙遜から、さしあたって知らないふりをした。しかしわたしを降参させそうになったので、わたしは定法どおり彼と格闘を始めた。そのうち、どうしたことか、わたしの指し棒(gnwvmwn)が 35.2.10 おっ立った(多衆のために他の名称で云うことをわしは恐れるので)。そしてそういうわけで、その若者は羞恥心からわたしを後に残して立ち去ったが、わたしは立ったまま、自分でせんずりをした。

35.3.1
 ところが、体育場の番人がわたしを見とがめて、やって来て叱りつけた。そこでわたしは彼に向かって、「すると、あんたは、定法どおり演武しているところに居合わせながら、今はわしに文句をつけるのか。もしも、油を塗りたくった者たちがくしゃみをひきおこすものを嗅ぐということが習慣だったら、塗油した者の一人が体育場でくしゃみしても、あんたは怪しからぬこととは思わなかったろう。しかるに今、ひとが美しい〔少年〕と転がりまわって勃起したとして憤慨するのか。それとも、鼻はまったく自然に支配されているが、われわれのこれ〔一物〕は選択〔意志〕に〔支配されている〕と君は思うのか。止めてはいかん」とわたしは謂った、「入場してきた者たちとこんなにいらいらするのは 35.3.10 やめないか。体育場でこんなことが起こらないようにという君に何らかの道理があるなら、君は若者たちを中央から立ち退かせるだろう。いや、君は考えるのか — 君の規則は、勃起的自然に縛めや枷をはめることができるだろうと」。

 こういったことをわたしが言った後、体育場の番人も立ち去って行ってしまった。わたしも襤褸外套と頭陀袋を取り上げて、海の方へと出て行った。

36.1."t"
ティモマコスに
36.1.1
 キュジコスにやって来て、道を通っているとき、とある扉に、「ゼウスの子、うるわしき勝利者ヘーラクレース、ここに住まいす。悪をして入らしむるなかれ」と書きつけられているのをめにした。そこで立ち止まり、読んで、通りがかった人に質問した。「この家に住んでいる人は誰か、どこから〔来たの〕か?」。
 すると相手は、わたしがパンの〔物乞いをする〕ために訊いたのだと思って答えた、「つまらんやつさ、おお、ディオゲネース。さあさあ、ここから行ってしまうがいい」。
 そこでわたしはわたし自身に向かって「しかし、どうやら」と謂った、「これが、いったい何者か、彼が言うことから推して、自身に36.1.10 扉を閉ざしているらしい」。しかし少し進んだとき、同じイアムボス詩を書きつけられた別の扉をわたしは目にした。
36.2.1
 「この〔家〕に」とわたしは謂った、「住んでいるのは誰か?」
 「取税人(telwvnhV)」と彼が云った、「市場に屯するやつだ」。
 「すると、邪悪なやつらの扉だけが」とわたしは謂った、「この書き付けを有するのか、それとも、真面目な者たちの〔扉〕も?」
 「誰のでも」と彼が云った。
 「では何故」とわたしは謂った、「これがあなたがたに益するのなら、都市の扉にこれを書き付けるのではなく、ヘーラクレースさえ入ることのできない家々に〔書き付けるの〕か? それとも、あなたがたは都市が悪い状態にあることは望むが、家々はそうでないのか? それとも、あなたがたを害することができるのは公共の諸悪であって、36.2.10 私的な〔諸悪〕はそうではないのか?」
 「ディオゲネースよ」と彼が云った、「それらについてあなたに答えるすべをわたしは持っていません」。
 「では、何か」とわたしは謂った、「あなたがたキュジコス人が悪だと思うのは?」
 「病気、貧しさ、死、そういったものらを」と彼が謂った。

36.3.1
 「すると、それらが、もしも家の中に入りこんだら、あなたがたを害するが、入りこまなければ、害することはない、とあなたがたは考えるのだね?」
 「たしかに」と彼が謂った。
 「よろしい」とわたしは謂った、「ところでこれらは、人間どもを害するために取り憑くものではないか?」
 「たしかに取り憑くものです」と彼が云った。
 「それでは、はたして」とわたしは謂った、「それらが家々に入りこんだ場合には、あなたがたに取り憑くが、市場に入りこんだ場合、その場合は取り憑かないのか? それとも、市場とか家々で、あなたがたに取り憑かぬよう拒否するものがいるのか?」
 「この点でも」と彼が云った、「あなたに答えるすべをわたしは持ちません」。
 「ではどうか」とわたしは謂った、「これらがあなたがたを害するのは、あなたがたの家々に入りこんだ場合なのか、それとも、あなたがた自身に〔入りこんだ〕場合なのか?」
 「わたしたちの中に〔入りこんだ場合です〕」と彼が云った。

36.4.1
 「それでは」とわたしは云った、「イアムボス詩をあなたがた自身に書きつけることができるのに、あなたがたは扉に書き付けているのか。しかし」とわたしは謂った、「ヘーラクレースは、一人の身であるのに、これほど数多くの家々にいかにして寄寓できるのか? というのは、これこそが、そらくは、都市の愚かさを証明するらしい」。
 「おお、ディオゲネース」と彼は云った、「これよりもっと縁起のよい、どんな書き付けを人はつくれるでしょうか?」
 「いったい」とわたしは謂った、「何が何でも扉に書き付ける必要があるのかね?」
 「たしかに」と彼が云った。
 「学びたまえ」とわたしは云った、「『ペニア〔貧しさの女神〕、ここに住まいす。悪をして入らしむるなかれ』」
 「口をつつしみなさい」と 36.4.10 彼が云った、「あんた、それこそが悪だろ」。
 「あなたにとっては」とわたしは謂った、「悪だ。しかし君はわたしから学んでいないのだよ」。
 「『されど、リンドス人たちの飼牛を彼は喰らへり』。で、貧乏は、神々にかけて、悪なのではありませんか」と彼が云った。
 「何を引き起こすから」とわたしは謂った、「君はそれを悪と言うのか?」
 「飢えを」と彼が云った、「寒さを、軽蔑(katafrovnhsiV)を」。

36.5.1
 「しかしながら、君が謂うそれらの中には、貧乏〔が引き起こすもの〕は何もない。例えば飢えもそうだ。なぜなら、多くのものが大地に生えるが、これによって飢えも養われる。寒さもだ。物言わぬ〔動物〕は、裸だが、寒さを感受することはないのだから」。
 「しかしながら、物言わぬ〔動物〕たちは、自然がそういうふうに」とわたしは謂った、「つくっているのです」。
 「だが、人間どもは、ロゴスがそういうふうにつくっている」とわたしは謂った、「しかしながら、多衆は、弱さ(malakiva)ゆえに、わからないふりをするのだ。しかしながら、ここには援けもある — 動物の毛皮、羊の毛皮、洞穴や 36.5.10 家屋の壁のことだが。さらに、貧乏は決して軽蔑を制作することもない。貢租を制定したアリステイデースは、たしかに貧乏人であったが、軽蔑する者は誰ひとりいないし、ソープロニスコスの子ソークラテースもそうだ。というのは、害するのはそれらではなく、悪行(mocqhriva)なのだからだ。

36.6.1
 では、どうか」とわたしは謂った、「貧乏は、われわれのもとに<住まいする>とき、以上の<ほかに何を>しでかすのか? <選択さるべき>であったのは、あなたがたから他のもっとはなはだしい諸悪を追放するからではないのか?」
 「それはどのような〔諸悪〕ですか?」と彼が云った。
 「妬み(fqovnoV)、憎しみ(mi:soV)、誣告(sukofantiva)、壁破り(toicwruciva)、消化不良(ajpeyiva)、疝痛(strovfoV)、他の諸々の難病。そもそも、あなたがたのもとに住まいするのは貧乏であって、ヘーラクレースではない、と書き付けなさい。というのも、ヘーラクレースが亡き者にすることができるものども — 水蛇たち、牡牛たち、ライオンたち、ケルベロスたち — をあなたがたは恐れることなく、そのうちのいくつかはあなたがた自身さえ狩猟するであろう。これに反し、貧乏が追放するものら、これは恐るべきものらである。36.6.10 貧乏は、あなたがたが自分たちの守護者として養うには、わずかな出費ですむが、ヘーラクレース〔を養うに〕は、多大な出費がかかる」。
 「しかしながら、貧乏は縁起がわるいが」と彼が云った、「ヘーラクレースは縁起がいい」。
 「あなたには」とわたしは謂った、「貧乏が縁起がわるいとするなら、アウゲイアース、トラーキースのディオメーデースにとっては、ヘーラクレースこそが」。

36.7.1
 「あなたはわたしを説得できていません」と彼が云った、「おお、ディオゲネース、貧乏を書き添えるなど。ですから、何か別のことを考察してください。そうすれば、ヘーラクレースを抹消すべしというあなたに聴従しましょう」。
 「わたしの考察は終わっている」とわたしは謂った。「次のロゴスを聞きたまえ」とわたしは云った、「『正義の女神(Dikaiosuvnh)がここに住まいしたもう。悪をして入らしむるなかれ』」。
 「これなら」と彼が謂った、「わたしはあなたに聴従します、が、ヘーラクレースを抹消する気はありません。しかし、わたしは正義をいっしょに書き付けることにします」。
 「ただしいね」とわたしは云った、「それをするのは。書き付けたうえで、オデュッセウスのように、もはや何も恐れることなく眠りたまえ」。

36.7.10
 「そうします」と彼が云った、「あなたにはこのことで、ディオゲネース、今も、いつまでも、感謝します。つまらぬことどもからわたしたちを安全にしてくれたのですから」。

 以上が、キュジコスで、愛するティモマコスよ、わたしたちによって指導されたことだ。

37.1."t"
モニモスに
37.1.1
 君がエペソスを引き上げた後、わたし自身もロドスへ出帆した。ハリア〔太陽〕祭の競演を見物しようと急いだ〔真面目になった〕のだ。で、船を降りて、町へ、客友ラキュデースのもとへのぼっていった。ところが、彼は、わたしが入港したと知って、おそらくたまたま、市場を避けた。わたしの方は、その都市をぶらぶらしたので、どこでも彼と出会えなかったが、彼が都市にいると聞き知って、わたしは神々の饗応を悦んで受け、彼ら〔神々〕のもとで野営した。そしてほとんど3日ないし4日目に、37.1.10 野営地の方へと通じる路上で、彼はわたしに出くわし、声をかけて、饗応を受けてくれるよう頼んだ。

37.2.1
 しかしわたしは、彼がこれだけ経ってからわたしに出会ったことに立腹していなかったので、「恥ずべきなのは」とわたしが謂った、「神々を後にすることだよ。下船した〔わたし〕に君の客遇が閉ざされたとき、わたしを受け入れてくれたのに。しかしながら、この方々は、憤慨することができないのだから — われわれなら、弱さゆえに憤慨するところだが — 、出かけるとしよう。しかしその前に、君によいと思われるなら、のぼっていって体操をしよう。というのは、今日、すぐれた客友たちを置き去りにして、君のところで過ごそうとするなら、身体を等閑にしてよいとは思わないから」。
 「いや、美しく」と彼が謂った、37.2.10 「ディオゲネースよ、あなたは言っています。あなたが神々を無視するよう強いはしません」。

37.3.1
 そこでわたしは野営地にのぼって行き、歩きまわって、それから、ラキュデースの家に下っていった。はたして、この人物の調度は、自然にとって充分足りるもの — これをわれわれは必要としてきたのだが — どころではなく、思い(dovxa)にとって充分すぎるほどのもの — 他の人たちはこれに打ち負かされるのだが — であった。例えば、寝椅子は、すこぶる高価な〔敷布〕が広げられ、向かいに食卓がいくつも据えられ、そのあるものはバリアヌゥス〔?〕製、あるものは楓木製で、上には銀皿がいっぱいで、かてて加えて、召し使いたちが傍にひかえていた。ある者たちはフィンガー・ボールを持し、ある者たちは 37.3.10 他の諸々の容器を持して。これを目にして、「いやはや、わたしが」とわたしは謂った、「君の客遇を受けにやって来たのは、ラキュデースよ、益されるためだが、君ときたら、敵たちが準備するかぎりのものらをわたし相手に準備したのだね。
37.4.1
 だから、命じてくれたまえ — これらは、他所に移すよう、そしてわたしたちの方は、ホメーロスが『イーリアス』の中で英雄たちを寝そべらせたように、寝そべらせるようにな。野牛の皮〔Il. x. 155〕の上か、あるいはラケダイモーン人たちのように、藁の寝床の上にね。そして身体をして、習いおぼえたものの上で寝そべるようにさせたまえ。で、召し使いは一人も、ここで給仕させてはならん。というのは、それには両手で足りるし、実際また、そのためにこそ自然によってわれわれにひっつけられているのだから。しかし、われわれが飲むのに使う水呑は、泥からつくられた薄くて安っぽいのがあればいい、飲み物は湧き水、食べ物はパン、そしておかずは、37.4.10 塩かコショウソウがあればいい。

 以上が、わたしがアンティステネースのもとで教育されて、食べ方・飲み方として学んだことだ。つまらぬこととしてではなく、他の事よりもすぐれたこと、幸福へと通じる途上において見出されることのおおいに可能なこととして。この道こそは、あらゆる財の中で最も価値あるものとみなさるべきである。[堅固で険峻きわまりない場所に、急勾配ででこぼこの一本の道が設置されている〔とみなさるべきである〕。]
37.5.1 そういう次第で、この道を、その厳しさのおかげで、各人は裸となって、やっとのことでのぼることができるのであるが、自身とともに何かものをたずさえ、苦労と諸々の束縛によって重くされた者はもちろん、必然的なものらを何か追い求める者も救われることがない。だから、食べ物は、路傍の牧草とかコショウソウ、飲み物は扱いやすい水にするべきである。<それも>最も気楽に旅する必要がある場面でこそいちばんに〔?〕。[食べるのはコショウソウ、飲むのは水、まとうのは軽い襤褸外套で訓練すべきである。]

 <競技のために脱衣していることを明示しながら>、37.5.10 [他方、ヘルメースは頂に立って、旅立つ者たちを隈無く検査する。何か許されざる旅支度をして家から旅立っていないかと。]37.6.1 しかり、わたしは、アンティステネースのもとで、食べ方・飲み方を修練した後、息を切らして急ぎ、幸福への道に就き、幸福が現に存在するところへとたどりついて、わたしは謂った、『わたしは持ち堪えた、幸福よ、汝のため、大いなる<善>のために、[悪しき]水を飲むこと、コショウソウを食すること、地上で眠ることに』。すると彼女〔幸福〕が返した、『さあさあ、わたしはまさしくそなたに』と彼女が謂った、『これらを富裕さに由来する諸善の惨めさの二倍の快としてあげよう。人間どもは、これ〔富裕さ〕をわたしより尊重して、37.6.10 自分で僭主を育てていることを感知しないのだが』。

 その時からわたしは、このことを幸福が対話しているのを聞いたので、もはやこれらを修練として食したり飲んだりするのではなく、快楽とし、もはや、習慣もこの生活様式でわたしを支配し、これに欠ける者はみな不具なのだ。

37.7.1
 だから、君も、こういった食事をわたしたちに供したまえ。人生における諸事のうち最美なもの、つまり、幸福を模倣して。だが、富裕に関わる事柄は、彼女〔幸福〕への道を誤る連中へ任せたまえ。さあさあ、もしこれが君に」とわたしは謂った、「よいと思われるなら、次のことも知りたまえ」とわたしは云った。「いつもこのような食事でわたしをもてなしてくれたまえ。また、これからは、こういったものらを客人たちに提供したまえ。そして、君は現にいるその人を決して避けるべきではなく、彼らより遅れてくる人たちを探し求めるべきである。それこそが、吟味(ejlevgcoV)のより善いひとつなのだから」。

 以上が、わたしによって、わたしがロドスにいた間に、客友 37.7.10 ラキュデースと語り合われたことである。

38.1."t"
……
38.1.1
 君の方は、諸々の競技が延期された後、立ち去ってオリュムピアに赴き、わたしの方は、並々ならぬ見物好きなので、他の祝祭を見物するため、留まった。で、市場 — そこには他の集まりがあった — で暇つぶしをし、あちらこちらと歩きまわりながら、時には商人たちに、時には吟誦者たちとか哲学者たちとか占い師たちとかに心を向けていた。その時、ある者が、太陽の自然と力について解説し、万人を説き伏せようとしていたので、わたしは中央に進み出て、「何日かかったのか」と謂った、「哲学者よ、38.1.10 天から降りてくるのに」。しかし相手はわたしに答えられなかった。それで、まわりに立っていた人々は、彼を後に残して、離れて行ってしまった。そこで彼は一人取り残されて、天の模像を木箱の中に仕舞い込んだ。

38.2.1
 その後で、わたしは占い師の傍に立ったが、相手は、占い術を発明したアポッローンのよりも大きな花冠を戴いて、〔群衆の〕真ん中に坐っていた。そこでわたしは進み出て、これにも質問した、「君は最善の占い師か、つまらぬやつか、どちらかね」。すると、相手が、最善だと云ったので、杖を差し出すと同時に、「それなら、わしが何をしようとしているか? お前を打とうとしているか、否か、どちらか答えろ」。
 少しの間考えこんでから、「〔打た〕ない」と謂い、わたしは笑いながら彼を打った。まわりに立っていた人々が大声をあげた。
38.2.10
 「どうして」とわたしは謂った、「あなたがたは叫ぶのか? こいつは悪い占い師であることがはっきりしたから、殴られもしたのだ」。

38.3.1
 そして、まわりに立っている人々が、これ〔占い師〕をも後に残して行ってしまうと、市場にいた他の人々も、これを聞いて、輪を解いて、そこからついてきた。そして、しばしば、わたしが堅忍について対話するのを、後ろからついてきながら耳を傾け、しばしば、〔わたしが〕堅忍を実践し、あるいは、そういう生き方をするところに居合わせたのである。このゆえに、ある者たちはわたしに銀子を寄越し、ある者たちは銀子に相当するものを寄越し、多くの者たちは食事にも呼んだが、わたしの方は、節度のある人たちからは、38.3.10 自然を基準に充分なものらを受け取り、つまらぬ連中からは、何ものも受け入れず、また、初めて受け取ってもらったことでわたしに感謝する人たちからは、二度目にも受け取ったが、感謝しない人たちからは、二度と〔受け取らなかった〕。
38.4.1
 さらにまた、わたしにパンを贈りたいと思う人々のその贈り物を精査して、本人が益される人たちからは受け取ったが、その他の人たちからは何ものも受け入れなかった。何ものも先に受け取っていない人から受け取るのは、美しくないと考えるからである。しかし、わたしが食事したのは、誰とでもなく、ただ手当て〔治療〕の必要な人たちとだけであった。しかしそれは、ペルシア人たちの王族を模倣する連中であった。

 実際のところ、あるとき、すこぶる裕福な両親の若者のところに入りこんで、とある客間で寝椅子に横になった。そこは、いたるところ刻銘と黄金で美装されていて、君が唾を吐けるような場所もないほどだった。
38.5.1
 さて、わたしの喉に引っかかるものがあったので、咳払いをして、ぐるりに眼を走らせたが、痰を吐く場所が見当たらなかったので、当の若者に吐いた。すると相手がこのことを非難したので、「それなら」とわたしは謂った、「何某君」と彼の名前を云って、「起こったことで君はわたしを非難するが、君自身は非難しないのかね? 客間の壁や床を飾りたてながら、君自身だけは飾ることなく、唾を吐くにふさわしいところに放置しているのに」。
 「これは」と彼が謂った、「明らかに、わたしたちの無教育(ajpaideusiva)を 38.5.10 言っておられるのでしょう。しかし、二度とこれを云うことはあなたにできないでしょう。断じてあなたに一歩の後れをとらせはしませんから」。

 まさしくその日の翌日から、財産を自分の〔親族〕に分配し、頭陀袋と二つ折りの襤褸外套を採って、わたしに付き従った。以上が、君が立ち去った後、オリュムピアでわたしたちによって為されたことである。

39.1."t"
モニモスに
39.1.1
 君にとって、ここ〔この世〕からの移住(metoikiva)も練習したまえ。君が練習することになるのは、死ぬこと — つまり、まだ生きているうちに、魂が身体から離脱すること — を君が練習する場合だ。これこそ、ソークラテース派の人たちが死とも呼んだものだとわたしに思われる。そして実際、この練習はすこぶる容易である。そこで、哲学し、考究したまえ — 君にとって何がそういうふうでないのか、何が自然に従っているのか、何が法習に従っているのか、を。魂は身体から離脱するのは、それによってのみであって、断じてその他の〔仕方〕においてではなく、〔ひとが〕見るとき、聞くとき、嗅ぐとき、39.1.10 味わうときは、〔魂は〕一つの頂点にしがみついているように、それ〔身体?〕と共在しているのだ。とにかく生起するのは、われわれが死の練習をしなければ、難儀な最期を待ち受けているということである。なぜなら魂は、何人かの幼児を後に残したかのように嘆き悲しむけれど、多くの重荷によって解放されるからである。

 〔NihardとEmeljanowに従って、語句の位置を後ろに変える〕そのとき、途上においても、数多くの苦しみを味わう。39.2.1 なぜなら、どこであろうと連れ行かれ、懸崖であれ、地の裂け目であれ、河川であれにたどりつき、ついには目的地へと連れゆかれるからである。<これに反し、哲学者たちの魂に行き会う場合には>彼らはそれを逃れるのであるが、それは、全体の支配 — これによって、邪悪な人々による支配体制においては、不正事を為すよう多くのことが強制されるのだが — 〔その全体の支配〕が、劣悪なものに譲歩すれば、生きることにおいて数々の過ちをおかすことを認めるからである。これに反し、美しい練習を練習する場合には、人生も快適になり、最期も不快なものではなく、道もきわめて容易となる。なぜなら、出くわすあらゆる〔練習〕が、このような魂を楽な生計へと道案内し、39.2.10 美しい獲物のように受け取って、美しいことどもの下界の裁判官たちのもとに明白に導き、〔魂〕自身も、一人で生きることをも練習してきたかのように、身体を後にすることを不快としないのだ。

39.3.1
 それゆえにこそまた、このような魂たちには冥王の〔館〕において多大な栄誉(timhv)のようなものもあるが、その所以は、まさしく彼らが身体を愛すものではないからである。というのは、dovxaは、身体を愛する魂たちはつまらぬ、不自由な魂であるが、そうでない〔魂〕たちは、善にして、項(うなじ)高き魂であるということであり(あらゆるものらの指導者として、また支配的に指図するものらとして生きるのだから)、それゆえに、義しくて最も容易なことどもだけを選択し、反対のものらは何ひとつも〔選択〕しない、ということである。この〔反対の〕ものらのおかげで、身体は魂が、それら〔反対のものら〕に固着する快楽によって快適であることを強制するのだが、それは、39.3.10 劣悪なものの支配へと通じる魚や何か他の物言わぬ〔動物〕のようなものである。

39.4.1
 君が死を練習するとき、ここ〔この世〕から移住しなければならないとき、随伴するのは、以上の事態である。そして第一に、生は快適である。なぜなら、君は自由人として、つまり支配する者であって、支配されるざる者として生き、短期間のうちに、身体に属するかぎりのものを引き剥がされ、しかも全体の調和へと〔導かれる〕。〔その際〕沈黙によって王支配し、神々が節度ある人間ども — 粗野な生をひかえる者たち — に神々が備えたもうたものを観察してであるが。〔これに反し〕後者には、諸々の掠奪と殺しあいがある — 大事なことでないのはもちろん、神的でもない事柄をめぐって、むしろ些細で卑俗な事柄をめぐって、39.4.10 人間どもを相手にばかりではなく、物言わぬ〔動物〕たちを相手に。なぜなら、より多くを持つこと、食べること、飲むこと、性愛することをめぐるとき、万人はつまらぬもの、物言わぬものたちの仲間となるのだから。

40.1."t"
犬儒ディオゲネースからアレクサンドロス〔大王〕に
40.1.1
 ディオニュシオスをもペルディッカスをもわたしは非難してきましたが、あなたをも〔非難して〕言いましょう — 支配することは人間どもと戦うことだとあなたがたは思っていると。しかし、これは断然異なることです。というのは、一方は無知慮ですが、他方は、人間どもの扱い方を知り、最善のために何事かを為すことだからです。ですから、考察しなさい — あなたが何も知らずに、目下なすべく着手している事柄の代わりに、誰であれ、病人を手当てする医者のように、あなたを目下の多大な、かつ、悪しき思い(dovxa)から解放してくれる人物にあなた自身をゆだねることを。というのは、あなたは誰かに悪をしでかすすべを 40.1.10 捜していなさるが、あなたが望んでも、誰一人にも善くする〔仕合わせにする〕ことはできないのですから。
40.2.1
 なおまた、制覇することと、自分の配下に従えることとは、例えば、極悪の人間どもと連れ立ち、そばに居合わせた者たちをいつも掠奪するというような、そういうことではありません。というのは、それは最善の獣でさえすることではなく、まして狼でさえすることではなく、これら以上に邪悪で、より凶悪な生き物は何もいないのですが、これをあなたは、無学のせいで、すでに凌駕しているようにわたしには思われるのです。というのは、彼ら〔獣たち〕にとっては、邪悪であるということだけで充分なのですが、あなたは、邪悪きわまりないその人間どもに報酬までも与えて、何ひとつ健全なことをなさない特権を授け、40.2.10 あなた自身も彼らに等しいことや、もっと大きなことを為すことに着手しているのですから。

40.3.1
 だから、自己批判しなさい、おお、善き人よ、そして、なおもっとよく我に返りなさい。はたしてあなたは地上のどこにいるのか。そしてこれらの目論見(ta; kataskeuavsmata)と、そのための努力(hJ spoudhv)とが、あなたのためになしえるのは何か。というのは、あなたはもちろん、こういったことをなすに際し、何らかのひとよりもすぐれているとは、思っていない。しかしあなたがどの一人よりもすぐれていないのなら、こういったことに労苦することもない。〔それなのに〕どうしてあなたは思うのか――あなたの身に生ずる事柄が、災禍、諸々の恐怖、諸々の大いなる危難よりほかのものであると。実際のところ、わたしにはわからぬ — いかにすれば、あなたが今よりもなおもっと大きな不仕合わせでいられるのか。というのは、義ならざる人間にして誰が不仕合わせでないことができようか。悪しくかつ 40.3.10 暴力的な者にして誰が、悪をなさず、不善を持たぬことがありえようか。この生き方はあなたにとって何だと思われるか、また、あなたはこういったことをなすことで、特に何をこうむる危険があると。

40.4.1
 しかしそうだとしても、過ちをおかすことが多衆のすることであるからには、彼らにとってとりわけあなたに策謀するだろうとあなたは思うのではないか。だから、あなたはこういう者として有為の士といかに親密であったかを示すことができないであろうが、そういう者たちとは親密にして、少なくともあなた自身が、最大の悪をこうむったこと、今も何ひとつ善をこうむっていないこと、城壁もあなたにとって充分でないことを最初に示すことができる。諸々の悪は容易に跳び越え、忍びこめるからだ。そこで、諸々の病気もするようなことを〔諸悪もするのを〕考察するがよい。すなわち、いかなる熱病も城壁も閉め出せず、傭兵部隊も下痢を〔閉め出〕せず、その結果、40.4.10 お望みなら僭主たちの誰一人としてけっして対処できないさまは、貧窮していると思われている人に〔対処できないの〕と同様である。だから、健康の番人があなたに備えられているのは、無学(ajmaqiva)以外に何か他の理由があろうか。それらがそれ〔無学?〕をできるかぎり守り通し、あなたが最多の諸悪と恐怖の内にあるようにと。
40.5.1
 それとも、人間どもに諸悪が生じるのは、自分たちが何を為すべきかを知らないところ以外の、どこかよそからだとでもあなたは思うのか。だから、あなたもまったく僭主たちの一人だとわたしには思われるのだ。というのは、連中は子どもたち以上の理性も持っていないのだから。だから、やめなさい、おお、善き人よ、そして、あなたにとって何かが善であることを望んでも、何か必要なことを実行できるのはいかにしてかを考察しなさい。しかし、それは、教えられなくては決してできないことだろう。

 そうすると、はたして、アテーナイの裁判官たちの誰彼をわたしがあなたに送るのはどうか。というのは、彼らは不正事について日々これを実行し、40.5.10 自分たちでも、最大だと思い、他の人たちをもそうさせ、何ら悪しきことを持たないし行うこともないのである。さて、「お元気で」とか「ご機嫌よう」と書くことはわたしにふさわしくない。あなたがこのような者になり、そういう種類の人とともに生きるまでは。

41.1."t"
メレーシッポスに
41.1.1
 万人がわれわれに倣って徳に従事することができるとはわたしには思われない所以は、多衆の意図(provqesiV)は価値をこきおろすところにあるからです。例えば、メレースの子がゼウスを人々と神々双方の父であると言っても、栄誉を増すことにはならず、減らすことになるからである。というのは、生みの親が、邪悪さゆえに〔子であることを〕否認している連中を、ゼウスの子どもたちであるとわれわれが信ずるのは、困難だからである。したがって、徳に従って活動すること、これが可能なのは犬儒のみだからである。

42.1."t"
賢女メレシッペーに
42.1.1
 わたしの手が、あなたの到着に先んじて祝婚歌を歌ったが、性愛の満足は胃袋の〔満足〕よりも見出すことはより容易なことを知った。なぜなら、犬儒主義とは、君が知ってのとおり、自然の追究するものである。だから、この選択を非難する人たちがいれば、余計に信を置いて賞讃するのが、わたしなのだ。

43.1."t"
マローネイア人たちに
43.1.1
 〔自分たちの〕都市の呼称を変え、マローネイアに代えて、ヒッパルキア — 今はそう呼ばれている — と呼んでいるのは、あなたがたの行いは正しいのです。というのは、酒商人〔を意味する〕マローンよりは、ヒッパルキア — 女性ではあるが、哲学者である — にちなんで言われるのは、あなたがたにとってまさっているからです。

44.1."t"
メートロクレースに
44.1.1
 慎み(swfrosuvnh)と堅忍(karteriva)とを教えるのは、パンと水と藁の寝床と襤褸外套だけではなく、こう謂わねばならないとするなら、羊飼いの手もそうである。昔牛飼いであったあの人をも知悉するがよい。だから、44.1.5 どこであれ君が突進するところでこれ〔手?〕にも気を遣いたまえ。というのは、それはわれわれの生の配置からうまれるものだから。しかし女たちとの自制なき性交は、多くの暇を必要とするものゆえ、きっぱり訣別したまえ。なぜなら、暇のようなものがないのは、プラトーンによれば、物乞いする乞食だけではなく、幸福への近道を突進する者も44.1.10 そうなのだから。女たちとの性交は、数多くの私人に享受をもたらすが、この行為によって同じく害も彼らに〔もたらされる〕。〔しかし〕君は全体(to; pa:n)から活動の仕方を学んだ人たちから、その仲間となって学ぶだろう。君は退転してはならない。このような生き方のゆえに一部の人々が君を犬と呼ぼうが、何か他の劣悪な〔名で呼ぼうが〕。

45.1."t"
ペルディッカスに
45.1.1
 君がわたしを脅かして書いた内容を恥じたまえ。わたしがエウピュレーにも劣り、黄金と引き換えに自分自身を引き渡したなどという君に、もちろん、わたしは聴従しないのだから。なぜなら、君はこのことを価値ありとみなし、言説でわたしをとらえることを引き受けようとはせず、脅し — 殺してやると、クソムシの脅し! — をかけている。君は知らないのだ — そんなことをしたら、仕返しを受けるだろうということを。なぜなら、わたしたちのことを気にかけている人がおり、そういうことに等しい罰を、不正な行動を仕掛けた者たちに仕返しするのだから。生きている者たちには一度、なくなった者たちには十倍を。これをわたしが 45.1.10 書いたのは、君の脅しを恐れたからではなく、君がわたしがきっかけで何か悪しきことをしでかすことを望まないからだ。

46.1."t"
知者プラトーンに
46.1.1
 貴公は小生の襤褸外套と頭陀袋を唾棄し、小生にとって重荷であり、困難であって、人生に何ら益せず、〔小生が〕善くしていない〔仕合わせでない〕という。たしかに貴公には重荷であり困難である。というのは、貴公が学んだのは、僭主の食卓で度外れに飽食し、羊での胃袋によって — 魂の徳によってではなく — 飾ることだからだ。しかるに小生は、徳によってそれらを行じてきたので、快楽の生へと心変わりすることが、小生にできても、それをしないということより大きなどんな証明を提起できようか。少なくとも小生の人生はどんな人間よりも益すると小生が主張するのは、46.1.10 小生が所持しているものによってのみならず、小生がかくかくの人間であると彼ら〔あらゆる人間〕に見えることによってもなのだから。例えば、かくも自足して質素な者に向かって、いかなる敵が襲ってこようか。こういうものらに満足している者たちが、いかなる王、あるいは、いかなる民衆に向かって戦争を仕掛けるであろうか。とにかくここから帰結することは、魂は諸悪から浄化され、虚栄(kenodoxiva)から解き放たれ、諸々の欲望の無制限を追放しており、これに反して教えられているのは、真実であること、あらゆる虚偽を無視するということである。しかし、もしもこれらのことが貴公を説得しないなら、貴公は快楽への愛を修練し、小生らを、大きなことを思考しない連中としてからかうがいい。

47.1."t"
ゼーノーンに
47.1.1
 結婚すべからず、まして子どもを育てるべからず。われわれの種族は脆弱であるので、結婚と子は、諸々の悩みで人間的な脆弱さの重荷になるからである。じっさい、援助がほしくて(di' ejpikourivan)結婚や子育てにたずさわる者たちは、後になって、それがますます多くの厄介の基になると知って、心変わりする。〔しかし逃れることはできない〕初めからなら、逃れられるのに。これに反し、無心にして、みずからのもので忍耐に充分だと思う者は、結婚や子を生むことを断る。

 しかし〔そうなると〕人生は無人となるだろう。いったいどこから、と君は質問するだろう、継承(diadoxhv)は起こるのかと。

47.1.10 愚かしさ(blakeiva)が人生を後にしてくれさえすればいい。〔その時〕万人は知者となるだろう。しかるに今は、わたしたちに聴従する者だけが、おそらく、いなくなり、あらゆる生は、聴従しないので、子どもをつくるだろう。しかし、人間どもの種族がいなくなっても、はたして嘆き悲しむにあたいするほどのことであろうか。蠅や蜂の誕生がなくなっても、〔嘆き悲しむにあたいしない〕ほどに。それらこそ、存在するものらの自然を観照したことのない者たちの言説である。

48.1."t"
レーソスに
48.1.1
 ラリッサ人プリュニコスは、わたしたちの弟子ですが、「馬の牧草食む」〔Il. II. 287〕アルゴスを見物することを渇望しています。この人物は、哲学者ですから、貴殿から多くのものを要求することはありますまい。

49.1.1
 犬儒からアルゥエケアに。汝自身を知れ(そういうふうにしてこそ、君は善く為す〔仕合わせである〕ことができるのだから)。そして、もしも魂に病のようなもの — 例えば無知慮(ajfrosuvnh) — があれば、これの医者をつかまえよ。〔善い医者と〕思われる者をつかまえて、〔善とは〕別のことを君がすることのないよう神々に祈りながら。そしてそういうふうにすることで時間をつぶすな。なぜなら、葡萄酒は君のために蓄えられているが、君はもちろん〔濾さないかぎりは〕役立てることはないだろう。これを為す人は、わたしにとってのみならず、その他のあらゆるひとたちにとっても、大いに価値ある友である。君に対するこの「お元気で」や「ご機嫌よう」は、書かれた内容に対する無視しないという状況で書かれたものである。

50.1."t"
カルミデースに
50.1.1
 君の弟子エウレーモーンは、可能なかぎり修練された狡知と謎々を、わたしに拡げてみせてくれました。しかしわたしは、徳が尊敬されるのは、中味空っぽだが開けがたい木箱に似ているような、そういったものらによってだという主張を認めず、とりなそうとする人たちに裸で演示するのがふさわしい生き方によってだと主張します。

 とにかく、困難で求道的探究を経て、高貴で知的なエウレーモーンは、母からの相続をめぐって、たった一人の父親と、裸になってではなく、全格闘技を闘い、この知者の争いを、50.1.10 とりなそうとする低俗な人たちの幾人かが、解決した。しかし、いやしくも彼は徳によって育てられたのであるからには、初めから、金銭に対する欲求 — あらゆる悪の原因である — を自分の身に招来するのでないのはもちろん、尊厳措く能わざる哲学によって、あらゆる情動(pavqoV)が取り除くべきであった。これに反して、あなたがた倣ったアテーナイ人たちは、どうやら、自分たち自身を癒すことができなかった事柄において、他の人たちを癒すと公言する人たちに似ているらしい。

51.1."t"
エピメニデースに
51.1.1
 エピメニデースにとって、徳によって耐え忍ぶこと…〔読解不能。原文はsoiassatoidiea〕…胃袋を喜ばせ、あわれな身体を飾りつつ、君は家にとどまれるのであろう。なぜなら、聞くところによれば、君は徳を公言しているのだが、わたしにも事は意想外ではないように見えるのだ。なぜなら、気高くあることは、シモーニデースによれば、困難であるが、公言することは容易であるからだ。

2011.04.17. 訳了。

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