ルゥキアーノスとその作品
長命者たち
(Makrovbioi)
(Macrobii)
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[解説]
この論文(明らかに、特別な機会に急遽編纂された)は、公正に見てルゥキアーノスの作とされ得ない。とはいえ、記録として価値があり、また、諸所に興味深い点がなくもない。(A. M. Harmon)
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『長命者たち』
1.1
[1]いとも輝かしきクインティッルスよ、ある夢の命ずるところにより、『長命者たち』〔というこの書〕をあなたへの贈り物として献呈いたします、以前は、あなたの二番目の子どもにあなたが名づけをなさったときのことですが、この夢を見て、友人たちに物語ったことがございます。しかし、『長命者たち』〔というこの書〕をあなたに献呈するようにと神がわたしにお命じになる所以がわからず、そのときは、あなたがた――あなたご本人とあなたの子どもたちみなと――が、できるかぎり長生きできますようにと神々にお祈りしただけでした、それが、人間という種族全体にとってはもとより、何ものにもまして、わたし自身とわたしの子どもたちにとっても、寄与することだと信じましたゆえ。と申しますのも、わたしにも何か善きことを神は予兆なさったように思えたからです。
[2]しかるに、自分で考察していて思い至ったことがあります、どうやら、神々は、教育に携わっている男〔=自分〕に、その〔教育という〕術知によって成ったこの〔書〕を、あなたに献呈するよう命じておられるらしい、と。そういう次第で、あなたの誕生の日を、これの幸先のよさとみなして、健全な魂、完全無欠な身体のまま、長寿に達したと記録されている人たち〔の書〕を、あなたにお捧げするのです。というのも、この著作によってあなたにいかなる得があるかといえば、益するところはじつに2つです。ひとつは、あなた自身もできるかぎり長生きすることは一種の欲求であり善望だということ、もうひとつは、身体においても魂においても、できるかぎり自分自身に配慮する人たち、この人たちこそ、完全な健康を保って、最も長寿に達したということがわかれば、その手本から教えられるということです。
[3]例えば、アカイア人たちの中で最も知者であるネストールは、3世代の長きにわたって生きながらえたとホメーロスは言うですが、この人〔ネストール〕が魂も身体も最善に鍛えられていたことはわたしたちに周知のところです。さらにまた、占い師テイレシアスは、6世代まで生きながらえたと悲劇は言います。神々に身を捧げた者は、清浄な暮らし方をすることで、最も長生きするということは、納得のゆくことでしょう。
[4]さらにまた、暮らし方によって氏族(genos)全体が長命な〔氏族〕が記録されています、例を挙げれば、アイギュプトス人たちの中のいわゆる神聖文字の書記たちとか、アッシュリア人たちやアラビア人たちの中の神話の語り手たちとか、インドイ人たちの中のいわゆるブラクマナイ族〔バラモン〕――厳しく哲学の研究をしている人たち――とか、さらにまた、いわゆるマゴス族――これは、占いに通じ、神々に身を捧げた氏族で、〔この氏族が帰属するのは〕ペルサイ人たち、パルティア人たち、バクトリア人たち、コーラスミオイ人注73)たち、アレイオイ人たち、サカイ人たち、メーディア人たちのところ、および、その他の非ギリシア人たちのところです――〔彼らマゴスたちが〕強健にして長生きであるのは、マゴスであることによりますが、彼ら自身もすこぶる厳しい暮らし方をしているからです。
[5]同じく、民族(ethnos)全体が最も長命な〔民族〕も〔記録されています〕、例を挙げれば、セーレス人たち注74)は300歳まで生存すると〔歴史研究者たちは〕記録し、〔その長寿の原因を〕ある人たちは気候によってと〔云い〕、ある人たちは風土によってとその長寿の秘訣を付言し、ある人たちは暮らし方によってこそと〔付言しています〕。というのは、この民族はみな飲料は水ばかりだといわれているからです。さらにまたアトース民族は、130歳まで生きると記録され、カルダイオイ民族も100歳以上生きるという話(logos)がありますが、これらの民族は大麦パンを、視力の鋭さを保つ薬として、これを食するのです。とはいえ、彼らにとっては、そういった暮らし方によって、その他の感覚器官も他の人間を凌駕して強壮であると謂われています。
[6]しかしながら、長命な氏族(genos)や民族(ethnos)について、彼らがきわめて長い間生を過ごせる所以として謂われているのは、これをある人たちは土地と気候によってと主張し、ある人たちは暮らし方によってと主張し、ある人たちはその両方によってこそと主張します。しかしわたしは、〔次のように〕述べることによって、容易な希望をあなたに提供するのが義しいでしょう、つまり、いかなる土地であれ、いかなる気候であれ、適切な諸訓練と、健康に最も必要な暮らし方をするなら、その人たちこそ長命者となるのだと。
[7]そこで、この書(logos)の最初の区分を、人々の生活に必要なことに充てましょう、つまり、まず最初に、王位ならびに将軍職にあった者たち(彼らのうちのひとりは、偉大にして最も神的な全権者の幸運が彼を最上の地位にまで導き、おのれの統治する領地に最大の功績を打ちたてたのですが)をあなたに物語りましょう。そういうふうにして、あなたも素質と幸運の点で長命者たち〔とあなたとの〕類似点に注目し、健康な長寿に対するたしかな希望を持つと同時に得ようと熱心に努めることで、そのあなたの暮らし方によって、最も偉大であると同時に最も健康な人生を達成することができるでしょう。
[8]ヌマ・ポムピリウス――ローマの王たちの中で最も幸福で、神々への奉仕に多忙を極めた人――は80歳以上まで生きたと記録されている。また、セルウィウス・テゥッリウス――これまたローマ人たちの王――、この人も80年以上生きたと記録されている。また、タルクイニウス――ローマ人たちの最後の王――は、亡命して、キュメーで暮らしたが、90歳以上まできわめて頑丈に生きたと言われている。
[9]さて、これらはローマ人たちの王ですが、残りの王たちもこれに続けよう、長寿に達した王たちを、そしてその後で、生活の在りように応じてそれぞれの王を。最後には、あなたのために、ローマ人たちのうち最も長寿に達した残りの人たちをも加えて枚挙しましょう、イタリアのほかの地域で最も長生きした人々をも同時に付け加えて。なぜなら、この記録(historia)は、当地の気候を誹謗しようとする人たちに対する語るにあたいする反駁となり、これによって、わたしたちもより有用な希望をいだくことができるようになるからです。つまり、いかなる大地であれ海であれ、その主人(despotes)は、すでに老年にあるとしても、おのれの統治する地に満足することで、最も長寿で平穏な老年に達することができますようにというわたしたちの祈願が成就するであろうという希望を。
[10]さて、タルテーッソス注75)人たちの王アルガントーニオスは、150歳まで生きたと言われると、〔歴史〕物語作家のヘーロドトスと抒情詩作家のアナクレオーンが。しかしこのことは神話だと一部の人たちに思われています。だが、シケリアの僭主アガトクレースは、90歳で命終したとは、デーモカレースとティマイオスが記録しているところです。シュラクウサイ人たちの僭主ヒエローンも、92歳になって、病気で命終しました、王支配したのは70年だとは、カッラティア人デーメートリオスならびに他の人たちが言っているとおりです。また、スキュティア人たちの王アテアスは、ピリッポスと戦ってイストロス河畔で戦死しました、齢90歳以上でした。また、イッリュリア人たちの王バルデュリスは、ピリッポスとの戦闘で馬に乗って闘ったと言われますが、そのとき90歳になっていたといいます。また、オドリュサイ人たちの王テーレースは、テオポムポスの主張によれば、92歳で命終したといいます。
[11]また、ピリッポスの子、独眼のアンティゴノスは、マケドニア人たちを王支配し、プリュギアでセレウコスとリュシマコスと戦い、満身創痍となって、81歳で命終したとは、彼といっしょに出征したヒエローニュモスが主張しているごとくです。さらにまたマケドニア人たちの王リュシマコスも、セレウコスとの戦いで亡くなりましたが、このとき80歳になっていたとは、同じヒエローニュモスが主張しているところです。また、アンティゴノスは、デーメートリオスの息子にして、独眼のアンティゴノスの孫でしたが、この人物は44年間マケドニア人たちを王支配し、80歳まで生きたとは、メーデイオスならびに他の著作者たちの記録しているとおりです。同様にまた、イオラオスの子アンティパトロスも、マケドニア人たちの多数の王たちの太守をつとめましたが、このひとは80歳以上まで存命して、生を終えました。
[12]また、ラゴスの子プトレマイオス注76)――これと同時代の諸王の中でも至福の王――はアイギュプトスを王支配し、84歳まで生きましたが、存命中、命終の2年前に、支配権を息子のプトレマイオス注77)――あだ名をピラデルポス〔きょうだいを愛するもの〕に引き渡しました。〔この息子は〕兄弟の中で父親の王位を受け継いだのですが…〔欠損〕…ピレタイロスが、宦官でありながら、先ず最初にペルガモンの支配権を獲得し、維持しましたが、80歳のときに往生を遂げました。また、ピラデルポス〔きょうだいを愛する者〕とあだ名されたアッタロスは、この人もペルガモン人たちを王支配し、(この人のところにはローマ人たちの将軍スキピオもやってきました)82歳で世〔生〕を去りました。
[13]また、ポントスの王、「建設者(Ktistes)」と呼びならわされていたミトリダテースは、独眼のアンティゴノスを逃れ、ポントスで命終しました、齢84歳であったとは、ヒエローニュモスや他の著作者たちが記録しているとおりです。また、カッパドキア人たちの王アリアラテースは、82歳まで存命と、ヒエローニュモスが記録しています。しかし、おそらく、もっと長く過ごせたはずですが、対ペルディッカス戦で生け捕りにされ、串刺しの刑に処されました。
[14]また、ペルサイ人たちの王、昔のキュロスは、ペルサイ人たちやアッシュリア人たちの年代記作者たちが説明しているところでは(これにはアレクサンドロスの歴史を著したオネーシクリトスも賛同しているように思えますが)、100歳のとき、友たちをひとりずつ訪ね、大部分が自分の息子カムビュセスのせいで破滅させられたのを知り、カムビュセスが「あんたの命令でやったことだ」と主張したので、ひとつには、息子の野蛮さに嫌気がさし、ひとつには、自分が乱心したと自責の念にかられ、意気消沈して生を終えました。
[15]「記憶王(Mnemon)」とあだ名されたアルタクセルクセース注78)――これには弟のキュロスが挙兵しました――は、ペルサイにおいて王支配し、病気で命終したのは、86歳のとき、しかしディオーンの記録では、94歳のとき、であったといいます。ペルサイ人たちの王で、もうひとりのアルタクセルクセースは、カラケーネー人の著作家イシドーロスが自分の父親の時代に王支配したと主張している人ですが、93歳まで生き、兄弟のゴーシトラスの陰謀によって謀殺されました。また、パルティア人たちの王シナトロケースは、すでに80歳になってから、サカウラコス・スキュティア人たちによって復位させてもらって王支配しはじめ、7年間王支配しました。また、アルメニア人たちの王ティグラネース(ルウクウッロスはこれに対して戦争しかけた)は、85歳にして病気で命終しました。
[16]また、カレース人にして、エリュトラ海地方の王ヒュスパウシネースは、85歳でにして病気になって命終しました。また、ヒュスパウシネースの後第3代目〔=2代目〕の王ティライオスは、92歳まで生きて、病気で命終しました。また、ティライオスの後第7代目〔=6代目〕に王となったカラコス人のアルタバゾスは、86歳にしてパルティア人たちに推されて王支配しました。パルテュアイ人たちの王カムナスキレースは、86歳まで存命。
[17]また、マウルウシアイ人たちの王マッシニッサスは、90歳まで生きました。また、神君セバストス〔アウグストゥス〕によって、総督の代わりにボスポロスの王に引き立てられたアサンドロスは、およそ90歳にして、騎馬戦をしても陸戦をしても、誰にも負けぬように見えました。しかし、自分の麾下の将兵が、戦いの前に、スクリボーニオスの味方についたのを見て、食い物を絶って、齢93歳の生を終えました。またゴアイソスは、カラケーネー人イシドーロスの主張では、彼の時代に、香料を産する地オマニア人たちを王支配し、115歳になって、病気で命終したといいます。
以上の王たちが、長命者たちとして、われわれの先人たちが記録するところです。
[18]そこで、哲学者たちも、教育に携わる者たち全員にも、この人たちもいかようにか自分たち自身に配慮した人たちですから、この人たちのうちで記録されている人たちをも列挙してみましょう、まず最初は哲学者たちを。アブデーラ人デーモクリトスは、104歳のときに、食を断って命終しました。また、音楽家クセノピロスは、アリストクセノスの主張では、ピュタゴラスの哲学に傾倒し、105歳をこえるまで、アテーナイで生きたといいます。またソローン、タレース、ピッタコス、この人たちは七賢人と呼ばれた人たちの仲間ですが、おのおの100歳まで生きました。
[19]また、ストア派哲学の創始者ゼーノーンは、〔寿命〕98歳。この人は、言い伝えでは、民会に入ったところ、けつまずいて怪我をしたとき、「どうしてわしを大声で呼ぶのか?」と叫び、家にとって返すと、食を断って生を終えたといいます。また、ゼーノーンの弟子にして後継者のクレアンテース、この人は99歳になった時、唇に腫瘍が出来、餓死せんとしたところ、何人かの友人たちから彼のもとに手紙が届いて、食餌を提供されたので、友人たちの求めるところを実行した上で、再び食を断ってこの世〔生〕を去りました。
[20]また、デクシノスの息子にして、自然学者アルケラオスの弟子のクセノパネースは、91歳まで生きました。また、プラトーンの弟子クセノクラテースは、〔寿命は〕84歳でした。また、新アカデーメイア学園の創始者カルネアデース注79)は、〔寿命〕85歳。クリュシッポスは、81歳。また、セレウコス人――ティグリス出身のストア派哲学者ディオゲネースは、88歳。ポセイドーニオス――シュリアのアパメイア人、しかし法律上はロドス人、哲学者にして同時に歴史著述家――は、84歳。逍遙学派のクリトラオスは、82歳以上。
[21]また、至誠プラトーンは81歳。サンドーンの子アテーノドーロスは、タルソス人のストア派(この人は神君セバストス帝の教師でもあり、そのおかげで、タルソス人たちの都市は貢祖まで軽減されました)は、82歳まで生きて、祖国で命終し、タルソス人たちは毎年、彼を半神として尊敬をはらいました。また、タルソス出身のストア派ネストール、ティベリウスの教師は、92歳。また、グリュッロスの子クセノポーンは、90歳以上まで生きました。
[22]以上が、哲学者たちのうちの有名な人たちです。
著作者たちの中では、クテーシビオスは、104歳で、散歩中に命終したとは、アポッロドーロスが『年代記』の中に記録しています。また、ヒエローニュモスは戦闘中に多大な艱難辛苦と負傷に見舞われ、104歳で命終したと、アガタルキデースが『アシア史』の第9巻の中で言っています。いやそればかりか、この人物に驚嘆しさえしているのです、最期の日まで、性交においてもすべての感覚器官においても、健全さに不足するところは何ひとつなかったと。レスボス人ヘッラニコスは、85歳。シュリア人ペレキュデースも同じく85歳。タウロメニア人ティマイオスは96歳。また、カサンドラ人アリストブウロスは90歳以上まで生きたと言われていますが、84歳のときに歴史を著しはじめたと、自分で著作の初めで言っています。また、リュコルタスの子、メガロポリス人のポリュビオスは、田舎から上京中、馬から落ちて、それがもとで病気になって死亡しました、82歳のときです。また、アミセーノス人のヒュプシクラテースは、多数の学識によって著作者となりましたが、92歳。
[23]弁論家たちの中では、ゴルギアス(一部の人たちは彼をソフィストと呼ぶ)は、108歳。しかし、彼は食を断って、命終しました。言い伝えでは、長寿と、あらゆる感覚器官において健康であることの秘訣を質問されて、他の人たちの宴楽にけっして応じないことによって、と云ったといいます。イソクラテースは96歳になった時、『パネーギュリコス』という弁論を書きました。しかし、100歳に欠けるところ1歳〔99歳〕ぐらいのとき、カイローネイアの戦いでアテーナイ人たちがピリッポスに敗北したと聞いて、悲憤慷慨し、エウリピデースの詩句を引いて自分に言い聞かせました。
その昔、カドモスはシドーンの町を去って。
そうして、ヘッラスは奴隷となろうと言い足して、この世〔生〕を去りました。また、ペルガモンの弁論家アポッロドーロスは、神君セバストス帝の教師となり、タルソスの哲学者アテーノドーロスとともに彼を教育し、アテーノドーロスと同じく、82歳まで存命。また、類なき弁論家ポタモーンは、90歳。
[24]悲劇作家ソポクレースは、葡萄の粒を呑みこんで、窒息死しました、享年95歳。この人は、人生の終期に、乱心の嫌疑でイオポーンという息子に訴えられたとき、裁判官たちに『コローノスのオイディプウス』を朗読し、この劇によって精神が健全であることを示しました。その結果、裁判官たちは彼に驚倒し、くだんの息子を狂気の嫌疑で有罪判決を下しました。
[25]また、喜劇の作者クラティノスは、90に加える7歳〔97歳〕の間生き、人生の終期に、『ピュティネー』を上演し、優勝して、程なく命終しました。さらにまた喜劇家のピレモーンは、クラティノスと同様に97歳まで生きました。彼は寝椅子の上にひとり横たわっていましたが、自分のために用意されていたイチジクを驢馬がむしゃむしゃ喰うのを見て、笑いの発作を起こし、家僕を呼んで、大笑いし続けながら、驢馬に生酒をぐい飲みさせるよう言いつけ、笑いすぎて窒息死しました。さらにまた喜劇の作家エピカルモス本人も、97歳まで生きました。
[26]また、抒情詩の作者アナクレオーンは、85歳まで存命。さらにまた叙情詩作者ステーシコロスも、同じだけ。また、ケオス人シモーニデースは、90歳以上。
[27]文献学者たちの中では、アグラオスの子、キュレーネー人エラトステネース(この人は、文献学者であるのみならず、詩人、哲学者、地理学者と名づける人もいる)、この人は82歳まで存命。
[28]さらにまたラケダイモーン人たちの立法者リュクウルゴスは、85歳まで存命と記録されています。
[29]王たちや教育を受けた人たちで、わたしたちの集めることのできたのは以上です。しかし、ローマ人たちや、イタリアに住んでいる長命者たちの中からも書き上げると約束したからには、それは、神々がよみしたもうなら、至聖のクインティッルスよ、他の書で明らかとすることにしましょう。
//END
2003.10.13.PM. 7:36 訳了
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