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ルゥキアーノスとその作品

みだりに中傷を信じてはならないことについて

Peri; tou: mh; rJa/divwV pisteuvein Diabolh/:
(Calumniae non temere credendum)




[解説]
 この評論は、純粋・単純に弁論的であり、おそらくはルゥキアーノスの生涯の初期に書かれたものである。これが有名な所以は、アペッレースの絵画の活き活きとした描写を含んでおり、その絵画はボッティチェリの「La Calunna」の絵に再び翻訳されているからである。(A. M. Harmon)

 訳出にあたっては、近藤司郎氏の訳を下敷きにさせていただいた。多謝。



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013 t 1
みだりに中傷を信じてはならないことについて

 [1] げに恐るべきものは無知、つまり、人間どもにとって諸悪の元凶。それはあたかも、事実に闇のようなものを注ぎこみ、真理を曖昧にさせ、各人の人生に影さすもののごとくである。実際、われわれはみな影の中にさまよう者たちに似ている。いや、むしろ、盲人たちに等しいことをこうむるのである。あるものにはわけもなく躓き、あるものは、必要もないのに、踏み越え、また、近く足許にあるものは見ず、はるか遠く隔たったものをば恐れて。総じて言えば、各人によって為される事柄に関して、われわれは絶えず多くのことを踏み外しているのである。さればこそ、悲劇詩人(tragw/dodidavskaloV)たちにこれまでドラマの無量の主題を提供してきたのはこういうこと、ラブダコス一族とかペロプス一族や、これらの者たちに近似した事柄であったのだ。というのは、舞台に上る諸々の悪のほとんど大部分が、あたかも何か悲劇的なダイモーンによってのように、無知によって調達されているのを、ひとは見出すことができようから。

 しかしわたしが注目して言っているのは、その他のこともさることながら、とりわけ知己たちや友人たちに対する真実ならざる中傷であって、これのせいで、これまで一族も離反し、都市もすっかり破滅し、父親たちは子どもたちに逆上し、兄弟は兄弟に、子どもたちは両親に、恋する者たちは恋される者たちに逆上した。さらにまた、数多くの友愛が引き裂かれ、諸々の誓いが破棄されたのも、中傷のもつ説得力によってであった。[2] そこで、われわれができるかぎりこれに陥らないようにするために、一種の絵の上のように、言葉によって示したい。中傷とは何か、どこから始まり、どのような働きをするのかを。

 いや、むしろ、エペソスのアペッレースが、その昔、その絵画を先取りしている。というのも、この人もまた、テュロスにおける陰謀に、テオドタスともども関与したとして、プトレマイオスの前に中傷され — アペッレースの方は、いまだかつてテュロスを見たことはなく、テオドタスをも、何者か知りもしなかった、あるいは、フェニキアの政事を任されているプトレマイオスの総督であると聞いた程度であった。そうであるにもかかわらず、競争相手のひとり、名をアンティピロスという者が、〔アペッレースが〕王に重用されていることへの嫉妬と。術知における対抗心から、プトレマイオスの前に彼を密告した。〔企て〕全体を共同しているということ、フェニキアで彼がテオドタスと会食し、食事の間中、彼〔テオドタス〕の耳元で密談していたのを見た者がいるということ、そして最後に、テュロスの離反とペールゥシオンの占領はアペッレースの助言によって起こったことだと明言した。

 [3] プトレマイオスという人は、ほかの点でもまったく正気の人というわけではなく、専制君主的追従の中で育った人であるので、この思いがけない中傷に烈火のごとくなって錯乱したあまりに、ありそうなことを、つまり、中傷者が〔アペッレースの〕競争相手であることも、これほどの裏切り行為をするにしては画家では小者すぎ、しかも、〔アペッレースが〕自分のおかげでよい目を見、同業者の誰とくらべても重用されていることを、何ら思量することなく、いやそればかりか、アペッレースがテュロスへ船出したことがあるかどうかをまったく調べることもなく、いきなり激怒して、王宮を怒声で満たした。恩知らずの、陰謀家の、共謀者のと叫んで。もしも、いっしょに逮捕された者たちの一人が、アンティピロスの醜行に憤慨し、惨めなアペッレースを憫んで、この人は自分たちと何ら共同していないと謂わなかったとしたら、彼は、本人に何も責任がないにしても、首を切られ、テュロスにおける悪事の結果を共にしていたことだろう。

 [4] プトレマイオスはといえば、出来事を大いに恥じて、アペッレースには100タラントンを贈り、アンティピロスの方は、奴隷として彼に引き渡したと言われている。しかしアペッレースは、自分が危機に陥ったことを記憶して、次のような一幅の絵によって中傷に報復したのである。[5] 〔絵の〕右側に、ひとりの男が座っている。ほとんどミダースの〔耳〕と類似した巨大な耳をもっており、まだ遠くから近づいてくる「中傷」に手を差しのべている。彼のそばに二人の女が立っている。「無知」と「猜疑」とわたしには思われる。反対側から近づいて来るのが「中傷」であるが、途方もなく全美な手弱女で、しかもかなり情熱的にして狂的で、まさしく狂気と怒りを表しているごとくで、左手には燃え盛る松明を持ち、もう一方の手にはひとりの若者の髪を掴んで引きずっている。若者は両手を天に差し伸べ、神々を証人に勧請している。嚮導するのは、青ざめた不格好な男で、眼光鋭くぎらぎらし、長患いでやつれてしまった人たちに似ている。とすると、これは「妬み」だと人は想像できよう。そればかりでなく、他にも二人の女が付き添っている。〔「中傷」を〕促し、着せかけ、飾りつけながら。この女たちも、絵の解釈者が解き明かしてくれたところでは、一人は「策謀」であり、もうひとりは「欺瞞」である。その後ろからついてくるのは、ひどく悲嘆にくれて、黒衣の襤褸服をまとった女で、わたしが思うに、これが「後悔」であろう。いずれにしても、涙を流し、恥じらいつつ、後ろをふり返って、近づいて来る「真理」を見やっている。

 このように、アペッレースは、自分の危機を絵画の上に模倣したのである。[6] では、さあ、われわれも、もしよければ、エペソスの画家の術知にならって、中傷に属性を詳述しよう。だがその前に、一種の定義づけで、それ〔中傷〕の輪郭を描いて。そうすれば、われわれにとって絵画はより明白になるだろうから。それでは、中傷とは一種の告発であって、告発される者には気づかれず、一方の側からのみ聞いて反論されずに信じられるものである。これこそが、言葉の主題である。そして、ちょうど喜劇の場合のごとく、役者は3人、中傷する者と中傷される者、その前で中傷が行われるところの者であって、これらの各人において、いかなることが生じるのが尤もなことであるか、考査してゆくことにしよう。

 [7] それでは、第一に、劇の主役を紹介しよう。わたしが言っているのは、中傷の作り手である。ところがしかし、こいつが善き人間でないことは、思うに万人に周知のことである。というのは、善き人は誰ひとりとして隣人にとって諸悪の元凶にはならず、善き人間たちのすることといえば、自分が友たちによく為すことにとって、つまり、他の人たちに不正することで、咎められたり憎まれたりすることを惹き起こすことによってではなく、好意(eh[noia)という評判を受け取ることによってなのだから。

 [8] 第二に、こういう人が、不正で違法であり、不敬虔で、仲間たち(oiJvmenoi)に損をかける人物であることは、容易に知れる。いったい、同意しない人があろうか、万事において平等で、より多くを〔取ら〕ないことが義しさの仕業であるが、不平等と強欲〔より多くを取ること〕が不正のそれである、と。これに反し、その場に居合わせない人たちに対して、ひそかに、中傷を行使する人が、どうして強欲〔より多くを取る者〕でないことがあろうか。聞き手をまるまる我がものとして、つまり、その耳を先に独占して、塞ぎ、第二の言葉〔弁明〕にはこれ〔耳〕を、中傷によって先に満たされているのだがら、完全に不可侵としてこしらえる人が。こういうなのがまさしく不正の極みであり、立法者たちの最善な者たち、例えば、ソロンやドラコンも、そう謂うだろう。彼らは裁判員たちに誓約させたが、〔その内容は〕両者から平等に聴取し、第二の言葉がもう一方のそれと比較されたうえで、より悪いとかより善いとか謂うまでは、平等な好意を訴訟当事者たちに分配する、というものであった。少なくとも、告発に対して弁明を比較調査するまでは、判決は完全に不敬虔にして神法に悖るものとなろうと、彼らは考えたのである。というのも、神々御自身も憤慨なさるとわれわれは云うことができよう。もし、言いたいことを言うことを告発者に特典をもって許し、告発される者に対しては耳を塞いだり、口に沈黙の垣をめぐらせたりしたうえで、第一の言葉に手籠めにされて有罪評決するならば。だから、正義と法習と法廷の誓約のあるところに中傷はないと人は謂えよう。だが、立法者たちは、そういうふうに、判決が義しく、不偏不党に下されることを勧告するが、彼らは信ずるに足らぬと思われる人には、最善の詩人を引用するのが善いとわたしに思われる。彼はこれらについて言葉で非常にうまく表明した、いやむしろ立法者であった。で、彼は謂う —  両者の話を聞かずして、裁決を下すべからず。

 すなわち、思うに、この人も知っていたのだろう。人生に数多の不正事があるなかで、ある人たちが裁きを経ることなく、言葉と無縁に有罪判決されることほど不正なことはないということを。これこそが、何にもまして中傷者が為そうと手がけることなのである。中傷される者を、裁きを経ることなく、聞く者の怒りのもとに服させ、告発の秘密性によって弁明を剥ぎ取って。

 [9] というのも、こうした人間はみな直言せず、怯懦な者であって、何ごとも公にもちだすことなく、あたかも伏兵のように、どこか見えぬところから弓を射るので、対峙することも、対戦することもできず、戦争の行き詰まりと無知の中で破滅することになる。これが、中傷者たちの言うことに健全なものは何もないことの最大の徴である。もしも、ひとが、自分は真実を告発していると自覚しているなら、その人は、思うに、公にも吟味し、矯正し、言葉によって比較調査するであろう。あたかも、正々堂々と勝利できるのに、敵たちに対して待ち伏せや欺瞞を用いる者は、いまだかつていたためしがないように。

 [10] で、こういった人間どもが、はとりわけ王宮の広間においてとか、支配者や権門勢家の友人たちのまわりで令名を得ているのをひとは目にすることができよう。そこに妬みは数多く、猜疑は幾万、追従と中傷の素材はすこぶるおびただしい。より大きな希望のあるところ、そこでは妬みはさらに厄介に、憎悪はさらに危険をはらみ、対抗意識はさらに悪辣となる。しかり、皆がみな、お互いを眼光鋭く、あたかも一騎打ちする者たちのごとく、身体のどこかに裸のような部分が見つけられるかどうか、窺っているのである。そして自分こそは第一人者たらんと望み、隣人や自分より前にいる者を押し退け、かき分け、もしも可能なら、引きずり降ろし、足払いする。ここにおいて、有為の人士はたちまち術もなくひっくり返され、ぶっ飛ばされ、ついには不名誉に押し出される。だが、もう一方の者は、より阿諛追従に長け、こうした悪性(あくしょう)に応じてより説得的な者の法は、好評を博する。要するに、先んずれば人を制す。つまり、ホメロスの〔一節〕を〔人々が〕完全に実証しているのは、まことに、

 エニュアリオスは依怙贔屓なし、殺し手の方が殺されもする(Il. 18.309)

そういう次第で、競い合いは小さなものらをめぐってではないので、お互いに多種多様な道を思いつくのである。その〔道〕の中の最も近道で、最も危険性もあるのが、中傷の〔道〕であって、妬みとか憎悪から善望のある初めをもちはするが、より悲惨で悲劇的な、数多くの災禍に満たされた最後を招来する〔道〕なのである。

 [11] とはいえ、これはひとが受け取るほど小さなことでないのはもちろん、単純なことでもなく、一方に多大な術知、他方に、小さからざる明敏さ、相当細心の配慮を要するものである。なぜなら、中傷は、一種説得的な仕方で行われなければ、それほど害するものではない。また、何よりも強力な真理に打ち勝つものでもないからである。もしも、聞く者たちに対して、多大な惹きつけるもの、説得的なこと、他にも無量のことどもを準備しておかないかぎりは。

 [12] そもそも、中傷されるのは、たいてい最高に尊重される者、それゆえにこそ、彼に取り残された者たちに、嫉妬される者である。というのは、皆がみな、あたかも何か障害物や邪魔物を予見したかのように、その人に弓を向けて狙い撃つ。めいめいが、その先頭を掘り起こし、友愛から取り除きさえすれば、自分が一番になれると想っているからである。同じようなことは運動競技の走者たちにも起こる。すなわち、そこでも、善き走者は、出走の綱が切って落とされるとすぐに、ひたすら前だけをめざして、精神を決勝点に据え、両足に勝利の希望を託しているので、隣の者に何ら悪行することなく、競技者たちに関わりあうような余計なことは何もしない。これに反し、あの悪しき、競技者らしからぬ対戦相手は、速さに由来する希望はあきらめて、悪しき術策に向かい、ありとあらゆる機会をつかまえて唯一考察することはといえば、どのように走者をつかんだり、邪魔したりして、抑えられるかということ。それは、もしそれをしくじれば、けっして勝利することは不可能だからである。これと同様なことが、件の幸福な人々の友愛にも起こるのである。すなわち、先んずる者は、たちまち策謀され守りなしとなり、敵意をいだく者たちの只中につかまって、亡き者にされるが、他方の連中は歓愛され、友と思われる。その所以は、彼らが害しているのは他人だと思われているからである。

 [13] 中傷には信ずるに足るところがある点についても、彼らはこれをたまたま思いつくのではなく、何かを調子外れなことや、あるいはまた相容れないことと結びつけることを恐れる彼らにとって、すべての仕事はその点にある。例えば、中傷される者に帰属する事柄を、より悪しきものへと変化させることで、中傷を説得的でなくはないものとするのである。医者なら、毒薬作り、金持ちなら、僭主、僭主的な者なら、裏切り者、と中傷するというように。

 [14] しかしながら、時には、聞き手がみずから中傷の出発点を暗示することもあり、その人の性格に性悪連中がみずから調子を合わせることで、目的を達する。例えば、相手が嫉妬ぶかいと見れば、「合図してましたぜ」と彼らは謂う、「食事中、あなたの奥方にね。彼女を見やって、溜め息をついてね。ストラトニケーさんも、やつにまんざらでもなさそうだし」。要するに、一種の色恋〔の中傷〕と姦通〔の中傷〕が、彼に対する中傷というわけである。また、詩人的であって、そのことが自慢の者ならば、「ゼウスにかけて、ピロクセノスがあんたの詩をけなして、けちょんけちょんにし、これは,韻を踏んでいないし、出来が悪いと云ってましたよ」。また、敬虔で神を愛する者に向かっては、その友人が無神者で神法に悖る者だと離間させ、神性を拒否し、摂理を否定する者だと〔離間させる〕。聞き手の方は、たちまちウシアブに耳を刺されて、当然ながら怒りに燃えて、友人に背を向ける。精確な吟味を待たないからである。[15] 要するに、彼らがこういった事柄を思いつき、言うのは、それが聞き手を一番よく怒りに誘うことができることを知っているからである。そして、そこにおいて各人が傷つくことを知っているので、そこに矢を放ち、そこに槍を投げ込む。その結果、〔聞き手は〕突然の怒りに錯乱し、もはや真理の調査にたずさわる暇なく、誰かが弁明しようとしても、それを受け容れないのは、聞いたことの意外さに、〔それを〕真実であるという予断にとらわれているからである。

 [16] すなわち、中傷の最も効果的な形相は、聞き手の欲求と反対のそれであって、ディオニューソスという添え名をもつプトレマイオス〔プトレマイオス12世アウレテース(前81-51)。クレオパトラ7世の父親〕の宮廷においても、プラトーン学徒デーメートリオスを、ディオニューソス祭のおりに、水を飲み、他の者たちの中でただひとり女の服を身にまとわなかったと中傷した者がいたことがある。もしも、翌朝召喚されて、衆人環視の中、酒を飲み、薄手の肩掛けをまとって、シンバルを奏し、合唱舞踏しなかったとしたら、王の生を喜ばない者、粗探し(ajntisofisthvV)にして、プトレマイオスの逸楽の競争相手として、亡き者となっていたことだろう。

 [17] また、アレクサンドロスの宮廷では、かつて、何よりも最大の中傷は、何びとであれ、ヘーパイスティオーンを崇拝せず、礼拝もしないと言われる、というものであった。というのは、ヘーパイスティオーンの死後、その恋情から、アレクサンドロスは、故人を神としても扱うこと、これをも自余の業績に加える決心をした。そこで、ただちに諸都市は神殿を建て、神域が設けられ、祭壇と供犠と祝祭が、この新しい神のために催され、万人にとって最大の誓いは「ヘーパイスティオーン〔にかけて〕」ということになった。もしも人あって、行われていることを笑ったり、あまり敬虔であるように見えない場合は、死刑という罰が課せられた。そこで追従者たちは、アレクサンドロスのこの子どもっぽい欲求を捉え、すぐに、ヘーパイスティオーンの夢を説明して、焚きつけ、再燃させた。一種の顕現や癒しを彼に結びつけ、予言の神の名で呼んで。最後には、補佐の神とか、厄除けの神として犠牲を捧げるようになった。アレクサンドロスは聞いて喜び、最後には信じ、自分は神の子であるばかりではなく、神々を作り出すこともできるのだと自慢した。そういう次第で、われわれは想う、アレクサンドロスの友人たちのどれほどの人々が、あの時世に、ヘーパイスティオーンの神性を享受したかを。万人共有の神を敬わないと中傷され、それ故に追放され、王の好意から落ちこぼれた者たちが。[18] 当時、サモス人アガトクレースも、アレクサンドロス麾下の歩兵部隊長〔の一人〕で、彼〔アレクサンドロス〕から重んじられていたが、すんでのところでライオンといっしょに〔檻の中に〕閉じこめられるところであった。ヘーパイスティオーンの墓の傍を通り過ぎるとき、涙を流したと中傷されたのだ。しかし、この人を救ったのはペルディッカスであったと言われている。あらゆる神々にかけて、またヘーパイスティオーンにかけて、まさしく狩猟をしていた自分にこの神がはっきり姿をとって見え、アガトクレースを赦免するようアレクサンドロスに言えと命じられた。なぜなら、彼が落涙したのは、不信者だからではなく、死者のためでもなくして、昔の知己を思いだしたからなのだ、と。

 [19] いずれにしても、追従と中傷がいちばんよく所を得るのは、アレクサンドロスの性情に一致するときである。というのは、ちょうど攻囲の際のように、城壁の高く、切り立った、堅固なところには敵勢は近づかず、守備兵がいないような部分とか、欠陥があるところとか、あるいは低くなったところを察知すると、そこに全力で立ち向かえば、やすやすと侵入し、攻略できるように、そのように中傷する者たちもまた、どこであれ、魂の脆弱なところ、壊れかかったところ、登りやすいところを見つけると、そこに攻撃を仕掛け、攻城機械を導入し、ついには陥落させるのである。対峙する者もなく、攻撃にも気付かぬうちに。次いで、いったん城内に達するや、あらゆるものを焼き払い、叩き切り、殺戮し、放逐する。どうやら、こういったことが、捉えられ、隷属させられた魂の所業らしい。

 [20] 聞き手に対する彼らの機械とは、欺き、虚偽、偽誓、執拗さ、無恥、他にも無量の卑劣行為である。だが、何よりも最大なのが追従であって、これは中傷の同族、いやむしろ姉妹のようなものだ。追従の攻撃に降参しないような、それほど高貴な者、つまり、魂の金剛不壊の城壁はひとつもない。まして、中傷がその土台を掘り返し、奪い去っているときには、なおさらである。[21] 以上は、外部のものらである。内部では、数多の裏切りが競い合って手を差し伸べ、門戸を開き、ありとあらゆる仕方で聞き手の捕獲の手助けに熱中する。第一は、あらゆる人間に自然本性的に具わっているところの新しもの好き(filovkainon)と移り気(aJyivkoron)。次には、意外な噂話に付きもの。というのは、どういうわけか知らないが、われわれは皆、ひそかに耳許で言われる、猜疑に満ちた話を聞くのが好きなのだ。実際、羽根でこすられる人々のように、中傷によって耳をくすぐられることに嬉々としている人々がいるのをわたしは知っている。

 [22] そういうわけで、これら全員が共闘して襲いかかるとき、彼らは力尽くで攻略するのだが、思うに、勝利は難しいどころではない。対抗布陣する者がいないのはもちろん、攻撃を防ぐ者さえなく、聞き手は自発的に自分を引き渡し、中傷される者は策謀を知らないのだから。つまり、夜間に都市が攻略されるように、中傷される者たちは眠っている間に殺害されるのである。

 [23] そして、何にもまして最も嘆かわしいのは、一方〔中傷される者〕は、何が起こっているかを知らぬまま、不都合なことは何ら自覚しないのだから、上機嫌で友人に会いに出かけ、いつもどおりの子とを言い、かつ、為す。あらゆる仕方で、何と惨めな男か、待ち伏せされているとは。他方〔中傷を聞く者〕は、高貴で、自由人的で、直言する気質をもっ人物なら、たちまち怒りを爆発させ、激情をぶちまけるが、しかし最後には弁明を受け容れて、友人に対していたずらに興奮したと悟るのである。[24] これに反し、もっと高貴ではなく、もっと低劣な者の場合は、そばに行って、唇の端に微笑を浮かべるが、憎悪し、ひそかに歯ぎしりをする。そして、詩人が謂うように、怒りを心底にひそめる(Od. 9.316, 17.66ほか)。じつに、わたしが思うに、これより不正なことはなく、これより奴隷的なこともない。唇を噛みながら、ひそかに胆汁を育て、自分の内に閉ざされた憎悪を増大させるとは。心中に思うことと、言うこととが別々の人、陽気で喜劇的な仮面をつけて、何か非常に激情的な、毒に満ちた悲劇を演じる人なんて。

 これを最も多くこうむるのは、誹謗中傷する者が、誹謗中傷される者にとって、昔からの友人だと思われているのに、やはりそうする場合である。というのは、このとき、中傷される者たちや、弁明しようとする者たちの声さえ彼らはもはや聞こうとはしない。それは、告発の信ずるに足る点を、昔からの見かけの友愛を根拠に予断し、最も親しい友人たちの間に、憎しみの数多くの原因が、その他の人たちには気づかれないけれども、偶発するのだということ、このことを思量もしないからである。また、時として、自分が負い目を持っていること、これのせいで、隣人の機先を制して告発する者もいる。そういうふうにして、中傷を逃れようと試みるからである。要するに、敵に対しては、敢えて中傷しようとする者はひとりもいない。告発は、明白な動機を持っているので、それ自体信じられないからである。これに対して、いちばんの友人と思われる者たちに手をつける。聞き手たちに対する好意を見えるようにすることを優先させるからである。かの者たちの益になるためなら、最も親しい者たちをさえ差し控えることはないのだから。

 [25] またこんな人たちもいる。友人たちが自分の前で不正に中傷されていたのを、後になってわかっても、にもかかわず、信じたことに対する羞恥から、もはや彼らを受け容れることも、面と向かって見ることも、敢えてしないという人たちが。あたかも、彼らが何も不正していないと認めることが、を受け入れたり眺めたりすることができないのである,かれらがなにも悪事をしていないと認めることで、自分が不正されているかのように。

 [26] こういう次第で、数多くの害悪で人生が満たされるのは、かくもやすやすと、比較調査もなしに信じられてしまう中傷のせいである。例えば、アンテイアは謂う。

 死んでおしまいなさいませ、おお、プロイトス、それとも、ベレロポンテースをお殺しなさいませ、
 あの男は、嫌がるあたくしに、情を交わすことを迫るのですもの
       (Il. 6.164)

彼女が先に手をつけようとしたけれど、無視されたのだ。そしてすんでのところで(mikrou:)、若者はキマイラとの取っ組み合いで滅ぼされるところであった。淫らな女に(uJpo; mavclou gunaiko;V)策謀されたおかげで、慎みと、客人に対する畏敬という報いを受けて。パイドラーの方は、あの女も同じことで義理の息子を讒訴して、ヒッポリュトスが父親によって呪われた者となるように仕向けた。何も、神々よ、不敬虔なことは何ひとつしでかしていないのに。

 [27] 「然り」と謂う人があろう。「中傷するやつが、時として信じるに足るのは、その他の点では義しく賢明であるように思われているからである、だから、そんな悪行を何ひとつ働かないからこそ、彼には用心すべきだったのだ」と。すると、はたしてアリステイデースよりも義しい人が誰かいるであろうか。いや、あの人も、やはり、テミストクレースと共謀して、いっしょになって民衆を扇動したのは、言い伝えでは、あの人が政治的愛名にくすぐられたせいだという。たしかに、アリステイデースはほかの誰と比べても義しい人だったが、彼もまた人間であって、胆汁を持ち、誰かを愛しもし、憎みもするのだ。[28] また、もしもパラメーデースにまつわる言葉〔話〕が真実とするなら、アカイア人中最も賢明で、その他の面においても最善の人でさえ、明らかに、嫉妬から、血のつながった者や友人に対して、策謀と待ち伏せを企て、同じ危険にむけて船出したのであった。このように、あらゆる人間に内生しているのが、このようなことに関する過ちなのだ。[29] あるいは、ソークラテースのことでひとは何を言いえようをか。不敬虔にして、策謀したとして、アテーナイ人たちの前に不正に中傷された人を。あるいはテミストクレースを、あるいはミルティアデースを。あれほどの勝利の後、ヘッラスに対する裏切りの嫌疑をかけられた人たちを。というのは、このような実例は無数にあり、ほとんど大部分はすでに周知のことであるから。

 [30] それでは、少なくとも理性を有し、徳とか真理とかをもっていると主張する者は、いったい何を為すべきか。それこそ、わたしの思うに、ホメーロスもセイレーンたちについての神話の中で示唆したことである。彼が命ずるのは、耳にしたことのこれらの破滅をもたらす快楽をやり過ごして航行すること、つまり、激情に駆られて予断をいだいている人たちにこれ〔耳〕を軽率におっぴろげるのではなく、言われていることすべてに、厳格な門番として思量を任命し、価値あることは受け容れ、〔耳を〕そばだて、つまらぬことは、閉め出し、押し出すべしということである。というのも、家の門番たちを据えながら、耳や精神は開いたままにしておくというのは、滑稽なことであろうから。[31] だから、こういったことを言いながら近づいて来る者がいれば、事柄そのものを、それ自体において調べるべきであって、話し手の年齢にも、その他の暮らしぶりにも、言説における明敏さにも目をくれて〔調べて〕はならない。なぜなら、人が説得的であればあるほど、ますます入念な調査が必要だからである。だから、他人の判断に、むしろ、告発者の憎悪に、信を置くべきではなく、真理の調査は自分自身に取っておくべきである。中傷者にこそ嫉妬深さを帰し、双方の精神の吟味を公然となし、そうやって、資格検査の済んだ者を憎むなり歓愛するなりすべきである。それをする前に、最初の中傷に動かされてしまった者は、おお、ヘーラクレース、何と子供じみた、低劣な、何にもましてはなはだしき不正であることか。[32] いや、これらあらゆることの元凶は、われわれが初めに謂ったように、無知、つまり、各人の性格がどこか闇の中にあるということである。もし、神々の中のどなたかが、われわれの生活を暴露するなら、中傷は居場所をもたず、処刑坑の中に逃げ去るであろう。事実が真理に照らされるからである。

//END
2011.12.15.

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