似像
ルゥキアーノスとその作品
似像のために
(+Upe;r tw:n Eijkovnwn)
(Pro Imaginibus)
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[解説]
パンテイアは、ルゥキアーノスが彼女の中庸を称讃したことを正しいと認めるが、彼女を過剰に称讃しているとして、作品の修正を求めて突き返す。作品はすでに公刊されており、ルゥキアーノスは、それをしたくても、出来ない。そこで彼は作品の弁護をすることにし、ついでながら、彼女により高い讃辞を捧げる機会とする。
パンテイアが本当に問題にしたということは、確かにありうることである。もしも彼女がそうしなかったとしたなら、そうしたと言うこと、また、その点で彼女を称讃することは、ゆるしがたい侮辱となったことであろう。
対話編はすでに公刊されたという本質的な事実に言及し(c. 14)、これを弁護するために取り得る唯一の方法は、公に撤回することだ(c. 15)とほのめかすという思いつきほど、手際の良い手法は他にない。
(A. M. Harmon)
"t".1
似像のために
1.1
ポリュストラトス
1.1
「わたしはあなたに、おお、リュキノス」とあの女性が謂っている、「著書から、他の点では、わたしへの多大な好意と尊敬を認めます。というのは、好意も持って著すのでないかぎり、ひとはこのように度はずれた称讃をなしえないでようから。しかし、わたしのことは、あなたに知っていただきたいのですが、こうです。ほかでもありません、わたしは追従的な性格の人たちを好まず、そういう人たちは詐欺師であり、自然本性的にけっして自由な人ではないようにわたしに思われます。称讃においてはとりわけ、ひとがわたしを称讃するのに、卑俗な態度や 1.10 度はずれた振る舞いをする場合、わたしは赤くなり、すんでのところで耳をふさぐばかりになり、このことは称讃というよりむしろ嘲弄だとわたしに 2.1 思われるのです。なぜなら、称讃が堪えられるのは、称讃されるてい人が、言われている事柄のひとつひとつが自分にそなわっていると認識できるかぎりにおいて、その限度内なのですから。これを超えたことは、他人事であり、はっきりした追従です」。
「それでも、多くの人たちが」と彼女は謂った、「喜んでいるのをわたしは知っています。人が自分たちを称讃し、自分たちが持っていない事柄を言葉によって結びつける場合にね。例えば、年老いているのに、盛年にあると幸福視したり、不細工であるのに、ニーレウスの美やパオーンの〔美を〕着せかけたりする場合です。というのは、彼らは称讃によって 2.10 自分たちにとって恰好までも変化するし、自分たち自身も、ペリアースが思ったように、再び若返ると 3.1 思っているからです。しかし、いま問題になっているのは、そういうことではありません。というのは、称讃には多大な価値があります。こういった過剰によって、それ〔称讃〕から何か働き(e[rgon)を手に入れることができる場合には。ところが今、等しいことをこうむっているようにわたしに思われるのです」と彼女は謂った、「あたかも、何か不格好なものに、ひとが恰好のいい顔を持って来て付加し、その美しさに、しかも、それは取り外すことができ、出会ったひとによって潰されることも可能なのに、大得意になっている場合のように。このとき、自前の顔(aujtoprovswpoV)がその下に隠されている〔仮面〕のような者であるのが、自前の顔が表れたら、3.10 もっと滑稽でしょう。あるいはまた、ゼウスにかけて、自分は背が低いのに、俳優の履く底厚長靴(kovqornoV)を履いて、同じ平地では丸々1ペーキュスも頭抜けている人たちを相手に、背の高さを争うひとの場合です」。
4.1
つまり、彼女はこういう人のことに言及したのだ。彼女は謂った、4.2 貴顕たちの中のある女性 他の点では美しく、端正であるが、背が低くて、適当な釣り合いからはるかに足らない女性 が、ある詩人から、歌の中で、他の点はもとより、美しくて背が高いと称讃された、と。そして、彼女の背の高さと真っ直ぐなことをポプラに似せた〔譬えた〕。彼女としては、歌に合わせて生長しているかのように、その称讃にいい気持ちになって、手を振っていたという。そこでその詩人は、4.10 称讃されている女性が喜んでいると見て、何度も同じ歌をうたった。そこでついに、居合わせた人たちの一人が、耳に屈み込んで彼に云ったという。「そこまででやめたまえ、おお、君よ、あの女性を立ち上がるまでさせてはならん」。
5.1
また、近いことで、これよりもっと滑稽なのは、セレウコスの妻、ストラトニケーがしたことだ。つまり、彼女は詩人たちに競作を課したという。何人なりと、彼女の髪をよりよく称讃した者にはと、1タラントンの懸賞をかけて。ところが、彼女はまさしく禿げで、自分の髪の毛は少しもなかったのだ。頭がそういうふうであるにもかかわらず、詩人たちはみな、彼女が長患いのせいでそういう状態になったことを知りながら、彼女がごろつきの詩人たちから聞いたのは、5.10 彼女の髪の毛をヒュアキントスだと言い、羊毛の編み髪を編み、まるで何もないのにセロリに似せる〔譬える〕ことだった。
6.1
さて、こういった、自分たちを追従にゆだねるような連中すべてを彼女は嘲笑して、さらにまた付け加えて、称讃においてのみならず、書き物においても、似たようなことで多くの人たちが追従され、誑かされようとする、という。「じっさい彼らは喜ぶのです」と彼女は謂った、「書き手たちのうち、とりわけ、自分たちを恰好よさに似せて〔譬えて〕くれるあの者たちを」。また、術知者たちにいいつけるような人たちもいるという。鼻から何かを取り除けとか、眼をもっと黒く描けとか、6.10 何か他のものを自分たちに付け加えよとか。そうやって、他人の似像、本人には似もしていない似像に、自分たちで花冠を載せていることに気づかないという。
7.1
以上のことを、また、以下のようなことを彼女は言った。この著書の他の点は称讃するが、次の一点は我慢ならない。それは、君が彼女をヘーラーやアプロディーテーという女神たちに似せ〔譬え〕たことだ、と。「なぜなら、わたしを超えている」と彼女は謂う、「むしろ、そういったことは人間の自然本性を超えているからです。わたしとしては、あなたがわたしをペーネロペーやアレーテーやテアノーといった半神女(hJrwivnh)たちと対比するという、ああいうことさえ拒みます。まして、神々の最善の女神たちになど、いうまでもありません。というのも、そのうえさらに、まったく」と彼女は謂う、「神々に関する事柄に対して、7.10 わたしは迷信深く、戦々恐々としているのです。ですから、このような称讃を許すのは、カッシオペイアのようになるのではないかと思われて、怖いのです。しかもあの女性は、ネーレーイスたちに比較しただけで、ヘーラーやアプロディーテーは崇拝していたのですよ」。
8.1
そういう次第で、おお、リュキノス、君がこういう事柄を書き換えるよう彼女は命じたのだ。さもなければ、彼女自身が、自分の意にそまぬのに君が書いてしまったと、女神たちを証人に呼ぼう、しかし君は知っていると〔彼女は〕いう。今君に処理されたように、神々に関することを、ひどく敬虔でないのはもちろん、神法にも悖るように、そのようにこの書がうろついたら、彼女を悩ませるということを。これが自分自身の不敬事であり、過ちであると思われるように思ったのだ。クニドスの〔アプロディーテー〕や庭園の〔アテーナー〕に等しいと言われるままにとどまっていたらね。そして、この書の末尾で、彼女について述べられていところを、8.10 彼女は君に思い出させた。そこで君は謂っている。彼女はつつましく(metriva)虚栄なく(a[tufon)、人間的な程を超えて伸び上がることなく、飛翔は地表近くを行くと。それなのに、こんなことを云う者は、あの女性を天空そのものを超えて、女神たちにもなぞらえるほどまでに昇らせることなのだ。
9.1
しかし彼女は、自分がアレクサンドロスよりも理知的でない( ajcunetwtevra)と君に考えられることも拒む。〔アレクサンドロスは〕建築師が、アトス山全部を変形し、彼に合わせて形造して、山全体が王の似像となり、両手に2つの都市を持つようにする、と請け合ったとき、その大風呂敷の請け負いを許さず、その敢行を自分を超えたものと考えて、人間にはせ説得的ない巨像の建立をやめさせ、アトス山は9.10 その地にそのままにするよう、そして、かくも大いなる山を、小さな身体に類似させるために小さくすることのないよう命じたのであった。で、彼女はアレクサンドロスを、その雅量のゆえに称讃し、この人物は、常に言及され続けるであろう精神の中に、アトス山そのものよりも大きな人像として建っていると言った。なぜなら、かくも意想外な名誉を軽視することは、小さな判断(gnwvmh)に属することではないから、と。
10.1
ところで、彼女自身も、君の造形物や似像〔複数〕の思いつき(ejpivnoia)を称讃するが、類似性は認めないという。というのは、それほどの〔称讃〕に値しないばかりでなく、近くもない、他の女性にも、ただの女であるのだから〔値しない、という〕。したがって、この名誉を君に許し、君の原型や範型を尊敬する。ところが、君はこれらの人間的なものらで彼女を称讃するのはよいが、履き物に足を超えさせてはならない。「わたしに轡までつけてはなりません」と彼女は謂う、「それを履いて歩きまわる 10.10 わたしに」。
11.1
さらに次のことも君に云うよう彼女は云いつけたのだよ。「わたしは耳にします」と彼女は謂った、「多くの人たちがこう言っているのを それが真実かどうかは、あなたがた殿方が知っておいででしょうが 、オリュムピア祭においてさえ、勝者たちは身体より大きい人像を建てることができず、審判団(+Ellanodivkai)が、一人でも真実を踏み越えないよう気づかい、人像の審査も、競技の審判よりも厳密だと。したがって、ご覧なさい」と彼女は謂った、「尺度について虚言するという咎めを 11.10 受けて、そしてそのために、審判団がわたしたちの似像を引っ繰り返すことのないようにしましょう」。
12.1
以上が、あの女性が言ったことだ。で、君は、おお、リュキノス、書を整え直し、そういったことどもを除去するよう考察したまえ。神性に躓くなどといったことのないようにね。じっさい、あの女性はそういったことどもをひどく嫌悪し、読んでいる最中に身震いし、自分に慈悲をたまうよう女神たちに嘆願したほどなのだ。一種女性的な情態になったのは、たしかに赦される。じっさい、真実を云わねばならないとするなら、ぼく自身にも、何かそういうことが思われた。つまり、最初、聞いたときは、何らの誤りも 12.10 書き物に見当たらなかった。しかし、あの女性が指摘したとき、ぼく自身もそれについて類似したことを認識しはじめ、見られたとおりの事柄でわれわれが体験したのに近いような気持ちになったのだ。ひどく近いところから、両眼そのものによってわれわれが何かを考察したときは、何ら正確には判別できないが、適当な距離をとって離れて立って見る場合には、何がよくて何がそうでないか、すべてがはっきりと明らかになるものだ。
13.1
じっさい、人間の女性を、アプロディーテーやヘーラーに似せる〔譬える〕ことは、その女神たちをあからさまに見くびっている以外の何であろう。というのは、こういう事柄においては、小さなものが対比によってより大きくなるように、より大きなものを、より低いものに引きずり降ろして、小さくするようなものなのだから。例えば、背の非常に高い人と、身長のひどく矮小な人とが、いっしょに歩いていて、次に彼らが、一人が他の者より頭抜けることのないよう、同じ高さにならねばならないとき、より小さな者が背伸びして、できるかぎり爪先立ちになれば、そうなるのではなく、むしろ、同じ背丈に見えるようにしようとすれば、あのより大きい者が、かがんで、自分を低く見えさせる。同様に、こういう似像の場合も、人が自分を神に比較すれば、人間がより大きくなるというふうにではなく、神性が不足するものの方に曲げられて、小さくされるのが必然である。というのも、地上的なものらに行き詰まって、天的なものらへと、人が言葉を伸ばせば、このような人が、そうすることで不敬の責めを受けることは 13.20 より少ないであろう。ところが君は、女たちのこれほど多くの美しい〔事例〕を持っていながら、アプロディーテーやヘーラーに彼女を似せる〔譬える〕ことを敢行したのだ、必要もないのに。
14.1
それゆえ、この過剰と妬みの因を取り除きたまえ、おお、リュキノス。なぜなら、そういうことは君の性格に合わないし、〔君の性格は〕とりわけそれらの称讃に乗り気(rJa/vdioV)で達者(provceiroV)だというわけでもないのだから。いやむしろ、今はぼくはわからないのだ、どうして君がいっぺんにむやみに変節をとげ、これまで称讃にはけちだったのに、救いがたいまでになって立ち現れたのか。さあ、君が言葉をすでに広めてしまったとしても、あれ〔改作〕を恥じるなどしてはならない。ペイディアスだって、言い伝えでは、そうしたのだから。14.10 エリス人たちにゼウス〔像〕を建立した時にね。すなわち、彼は扉の背後に立って、14.12 初めて被いを取って労作を披露したとき、批判者たちや称讃者たちが、いかなる点をそうしているのかに耳を傾けたという。すると、ある者は鼻がでかいと批判し、ある者は顔が長すぎると〔批判し〕、各人各様であった。そこで、監修が立ち去ると、ペイディアスはもう一度閉じこもり、大衆によいと思われるよう、その奉納物〔神像〕を改善し、整えたという。というのは、これほどの民衆の助言を、14.20 小さなことだとは考えず、多衆は一人 それがペイディアスであったとしても よりもより以上のこと見ていることができるのが常に必然だと〔考えたのだ〕。
以上が、あの女性からぼくが君にもたらしたことであり、ぼく自身も勧告するところだ。同志であり、好意を持っているのだからね。
14.24
リュキノス
15.1
ポリュストラトスよ、ぼくに気づかれずに、何という雄弁家になっていたことか。とにかく、かくも長い演説、これほどの告発を著書に対してもたらしてくれたおかげで、弁明の希望さえもはや残されていないほどだ。しかしながら、君たちは、とりわけ君は、それを公正に行わなかった。書物に対して、それの代弁者が居合わせないまま、欠席裁判をしたのだから。で、ぼくの思うに、諺にあるとおり、「一人で走る者は勝つ」というのは、最も容易なことだ。だから、何の驚くべきところもない、15.10 われわれが敵の手中に落ちたとしても、〔水時計の〕水が流れ出させられることもなく、弁明の機会も認められないのだから。むしろ、これは何にもまして不穏当なことだ、告発者と裁判員とが同一人物だというのは。
そこで、君はどちらを望むか。判決に満足して、ぼくがおとなしくすることか。あるいは、ヒメラの詩人〔ステーシコロス〕に倣って、再歌(palinw/diva)のようなものを著すことか、それとも、陪審廷(ejfevsimoV divkh)で戦う機会を君たちはわたしに与えてくれるか。
15.17
ポリュストラトス
ゼウスにかけて然り、云うべき義のようなものを君が持っているならね。なぜなら、君が謂うとおり、訴訟相手の中でではなく、友たちの中で弁明を 15.20 することになるのだから。ぼくとしては、この裁きについて君の味方にさえなる用意がある。
15.21
リュキノス
16.1
しかし、次のことは悲しいかな、おお、ポリュストラトス、あの女性が居合わせるところでぼくは弁論をするのじゃない。というのは、もしもそうだったら、はるかにより善いことだったのに。しかるに今は、代理人を持って弁明せざるをえない。しかし、君が彼女からぼくへの報告者になったように、君がぼくのために彼女へのそういう報告者となってくれるなら、ぼくは敢えて骰子を投じよう。16.7
ポリュストラトス
大丈夫だ、おお、リュキノス、そのことならね。弁明のつまらなくはない俳優としてぼくを持っているのだから。16.10 短く云うよう努めてくれるなら、ぼくはよりよく記憶できよう。
16.11
リュキノス
ところが、まったくもって、これほど激しい告発に対しては、長い弁論がぼくには必要だったのだが。それでもやはり、君のために弁明を切りつめることにしよう。それでは、ぼくからも以下のことを彼女に報告してくれたまえ。
16.15
ポリュストラトス
とんでもない、おお、リュキノス、あの女性本人が居合わせるように、言葉を言いたまえ。そうすれば、ぼくが彼女に向かって君を模倣しよう。
16.18
リュキノス
それでは、そういうふうに君に思われるからには、おお、ポリュストラトス、16.20 彼女が居合わせて、君が彼女から報告したかぎりのあのことを、明らかに先に述べたのであり、ぼくたちは第二の言説を始めなければならない。とはいえ ぼくがどんな気持ちになっているか君に向かって云うことをためらわないのだが 、君がぼくに対して事態をどれほど恐るべきものにしたかわからない。だが君が見るとおり、ぼくはもう汗をかき、恐れおののき、彼女を目にしているように思うほどであり、事態はぼくにとって多大な混乱を植えつけたのだ。それでもやはり始めよう。すでに彼女が居合わせるとき、引き下がることはできないのだから。
16.28
ポリュストラトス
またゼウスにかけて、彼女は多大な好意を顔に 16.30 表している。というのは、君が見るとおり、輝き、優しい女性なのだから。だから、元気を出して言葉を言いたまえ。
16.31
リュキノス
17.1
わたしは貴女を、おお、女たちの中で最も善き女(ひと)よ、貴女がおっしゃるとおり、偉大な女性として度を超えるほどまでも称讃しましたが、神性に対する尊敬を大事にしておられる貴女が、この賛美は御自身を超えていると御自身で表明なさったほど、それほどの称讃をわたしがしたとは見えないのです。なぜなら、それは、わたしが貴女について述べたことをほとんどすべてよりも大きいことだからです。したがって容赦あって然るべきです。無知のせいで、わたしに気づかれずに、この似像までもわたしが貴女に書き加えたわけでは場合は別ですが。ですから、これ〔似像〕には、17.10 諸々の称讃を過剰に投げつけたようにではなく、価値に欠けることを述べてしまったようにわたしには思われるのです。とにかく、考えてみてください。わたしが省略したことがどれほどのことか 有為の性格と真っ直ぐな判断の演示にとってどれほど重大なことかを。というのは、神性を片手間で崇拝するのではないかぎりの人たち、この人たちは人間どもに関することにおいても最善者であろうから。ですから、この話を完全に飾りなおし、奉納物を立て直さねばならないとするなら、わたしはこれから何かを取り除くことは敢えてせず、それ〔何か〕をも、現にある労作のいわば頭部のようなもの、王冠として 17.20 付け加えるでしょう。
しかしながら、次のことでは、貴女にまことに深甚の感謝の念をいだいていることをわたしは認めます。というのは、わたしが貴女の性格の中庸(to; mevtrion)を、つまり、現在の栄達の位階が、驕り高ぶりはもとより、たっぷりの傲慢を貴女に植えつけることもないことを称讃したとき、貴女は言葉〔書〕のそういう事柄を責めることで、称讃の真実さを信用できるものとなさいました。というのは、讃辞からそういう点をひったくるのではなく、そういうことを羞じ畏れ、貴女にとって大きすぎると言うことが、中庸で一種庶民的な精神の 17.30 証拠となるのですから。しかし、称讃されることそのことに対して貴女がそういうふうな態度を示されば示されるほど、過度の賞讃にますますあたいすると貴女自身を明らかにされることになり、ほとんどディオゲネースのこ言葉に落着した事態が貴女に生じるのです。ある人が、どうしたらひとは有名になれるかと尋ねたとき、「評判を」と彼は謂いました、「君が軽蔑するなら」。だから、わたし自身も謂うでしょう、ひとがわたしにこう尋ねたら、「誰がいちばん賞讃にあたいするか」、「称讃されることを拒むかぎりの人たちが」と。
18.1
しかし、以上のことは、おそらく、的外れの議論であり、問題から離れているでしょうが、弁明しなければならないのは、次のことです。つまり、クニドスの〔女神〕や、庭園の〔女神〕や、ヘーラーやアテーナーに姿形をこしらえて似せたということです。これらが度はずれており、足を超えていると貴女に思われたのです。まさにこういったことについて述べよう。
むろん、古の言葉にこうある。詩人たちや著作家たちは無答責である、と。まして、わたしの思うに、称讃者たちに至っては、なおさらです。詩に乗って運ばれるのではなく、われわれのように、18.10 地上を、それも徒歩で運ばれる場合にはね。なぜなら、称讃とは自由なものであり、その〔称讃の〕程度は、大きさであれ小ささであれ、決められているわけでもなく、あらゆる機会にそれが唯一見るのは、いかに讃歎するか、称讃されている者をいかに羨ましがられる者として表現するかということのみです。けれども、わたしはこの道を進む気はありません。行き詰まったゆえにそれをなすように貴女にも思われないために。
19.1
だが、次のことをわたしは主張します。われわれには、これらの称賛のことばに次のような衝動があるということです。つまり、称讃する者は、似像も類似も使用しなければならず、その際、ほとんど最大の重要事は、善く似せるということです。ここで「善く」がいちばんよく判別できるのは、ひとが類似したものらに比較する場合でないのはもちろん、劣ったものに対比する場合でもなく、称讃される者を凌駕したものにできるかぎり近づける場合です。
19.10
例えば、ひとが犬を称讃しようとして、それは狐よりも大きいとか、猫よりも〔大きい〕と云ったら、そういうひとは称讃の仕方を知っていると貴女に思われるでしょうか。貴女は否定なさるでしょう。そうですとも、それは狼に等しいと謂ったとしても、やはり、それほど大きく称讃したことにはならないでしょう。いや、称讃の固有性はどこで完成するのでしょうか。犬が、大きさでも強さでも、師子に似ていると言われる場合です。ですから、オーリーオーンの犬を称讃する詩人は、それを「獅子を飼い馴らす(leontodavmaV)」と謂ったのです。
さらにまた、クロトーン出身のミローンとか、19.20 カリュストス出身のグラウコスとか、〔トラキアの〕ポリュダーマースとかを称讃しようとするひとが、彼らの各々が女よりも強いと言ったら、彼は称讃の無知の理由で笑いものになるだろうと貴女は思うのではありませんか。彼は一人の男よりも善い〔=すぐれている〕と言った場合でさえも、やはりそれは称讃を満たしていない。いや、有名な詩人はグラウコスをいかに称讃したのでしょうか、「ポリュデウケースの力でさえ」自分に立ち向かってくる拳をのばせなかった、「アルクメーネーの鉄の子〔ヘーラクレース〕さえも」と謂ったとき。彼をいかなる神々に似せた〔譬えた〕か貴女は目にされるでしょう。むしろ、19.30 あの〔神々〕そのものよりもより善いと表現したのです。そしてグラウコス 19.31 本人も、競技者たちの監督たる神々と比較して称揚された理由で激怒することもなく、かの〔神々〕もまた、グラウコスにしろ、その詩人にしろ、称讃の件で不敬であったとして報復することもなく、むしろ両者は有名になり、ヘッラス人たちに尊敬されたのです。前者、つまりグラウコスは強さゆえに、詩人は、他のことにおいてもですが、とりわけこの歌において。
だから驚いてはなりません。わたし自身が似せることを これこそ称讃する者には必要なのですから 望み、19.40 より高い範型を それは言葉が唆すものですから 用いたとしても。
20.1
さらにまた、阿諛追従にも言及して、貴女も阿諛追従者たちを憎むとおっしゃった点で、わたしは貴女を称讃しますし、それ以外の必要はありません。しかし、貴女のために、称讃者の仕事と阿諛追従者の逸脱との判別と定義をしたい。
さて、阿諛追従者は、自分自身の利益のために称讃するのだから、真実への配慮は少なく、何でも過剰に称讃しなければならないと思い、虚言し、本体により多くの事柄を付け加えて。20.10 その結果、テルシーテースさえ、アキッレウスよりも恰好よしと表明し、ネストールさえ、イーリオン攻めの将兵たちのうちで最も若いと謂うことをためらわないほどである。さらにまた、クロイソスの息子でさえ、メラムプゥスよりも聴力すぐれ、ピーネウスでさえリュンケウスよりも鋭く明視したと誓言するだろう。その虚言で何か利得があるという希望さえあれば。ところが他方は、同じものを称讃しながら、何か虚言したり、まったくそなわっていないものを付け加えることもなく、それに自然本性的にそなわっている善きものらを、すこぶる大きい 20.20 というわけでなくても、受け入れて、増大させ、より大きく表現するものです。そして敢えて云うでしょう。馬を称讃したいときは、われわれが知っている動物の中で自然本性的に軽快、俊足で、
実った麦の穂の尖を駈け、しかも穂を折ることはなかりけり。
〔Il. XX, 227〕
と。さらにまた、「空気の足した馬の駆け足」と謂うことをためらわないでしょう。また、美しく最善にこしらえられた家を称讃する場合なら、彼は云うでしょう
定めし、オリュムポスにましますゼウスの御殿の中の中庭ならば、こんなでしょう。
〔Od. IV, 74〕
ところが阿諛追従者なら、こんな詩句を、豚飼いの掘っ立て小屋に 20.30 ついてさえ云うでしょう。豚飼いから何か手に得られるという望みさえあれば。デーメートリオス・ポリオルケーテース〔城攻めのデーメートリオス(336-283)、マケドニア王〕の阿諛追従者キュナイトスの場合、あらゆることが彼によって阿諛追従に浪費された中で、咳に苦しんでいたデーメートリオスを彼は称讃しました。調べもゆたかに咳払いしたもう、とね。
21.1
阿諛追従者たちは、称讃されている人たちを喜ばせるために、虚言することさえためらわないが、〔真の〕称讃者たちは、現にそなわっている事柄を持ち上げようと努めるということ、これは、彼らのそれぞれの判断基準であるばかりではありません。次の小さくない点によって相違もするのです。つまり、阿諛追従者たちは、自分たちにできるかぎり、過剰を用いるが、〔真の〕称讃者たちの方は、まさにそれらのものにおいても慎慮し、限界の内にとどまるということです。
21.10
以上が、貴女にとって、阿諛追従と真の称讃との、数ある証拠のうちのわずかですが、これによってあなたは、称讃者全員を猜疑するのではなく、判別し、固有の尺度でそれぞれを測定できるでしょう。
22.1
それでは、さあ、よろしければ、わたしによって述べられた事柄に、両方の物差しを当ててください。そうすれば、これに似ているか、あれに似ているか、あなたは学ぶでしょう。というのは、わたしが、ある不格好な女を、クニドスの奉納物に等しいと謂ったのなら、本当に、キュナイトスよりも阿諛追従的だとみなされるでしょう。だが、万人が知っているような、そのような存在であると〔謂ったの〕なら、その敢行はそれほど大きな間隙を有してはいないのです。
23.1
すると、すぐにあなたは謂うでしょう、いやむしろ、すでに述べておられるのですが、「美しさを称讃することはそなたに赦されているとしよう。しかしながら、称讃は非難の余地なきようにしなければならなかった。いや、人間の女にすぎにものを女神たちに似せてはならなかった」。わたしとしては 真実を云うようすでにわたしを先導しておられるから〔云うのですが〕 貴女を、おお、最善の女(ひと)よ、女神たちに似せたのではありません。善き術知者たちの、石や銅や象牙で作られた制作物(dhmiourghvma)に〔似せたにすぎません〕。そして、人間どもによってなされた事柄を、わたしの思うに、人間どもに似せることは 23.10 不敬なことではありません。ペイディアスによって造形されたもの、それがアテーナー女神〔そのもの〕であるとか、プラクシテレースがクニドスに、それほど多年を経ずして作ったもの、それが天上のアプロディーテー女神〔そのもの〕であるとか、貴女が解釈なさるのでないかぎりは。いや、不謹慎なことにならぬよう、神々については次のように思いなすべきでしょう。神々の真実の似姿は、人間的な模倣によっては到達しがたいとわたしとしては理解しています。
24.1
しかしまた、最大限譲歩して〔貴女のおっしゃるとおり〕わたしが貴女をあの〔女神たち〕そのものに似せたとしても、それはわたしの〔故意にした〕ことでないのはもちろん、その道をつけたのは、わたしが最初でもなく、多くの善き詩人たち、とりわけ、貴女の同市民たるホメーロスなのです。彼をわたしの賛同者として今も出廷させましょう。さもなければ、わたしといっしょに彼をも捕らえざるを得ない。
そこで、彼に、というよりは、彼の代わりにむしろ貴女に尋ねましょう というのも、彼によって吟誦されている事柄の最も優美な部分を関心にも暗記しておられるのですから 。あなたには 24.10 あの人は何と思われますか、捕虜女となったブリーセーイスについて、黄金のアプロディーテーにも似た女が、パトロクロスのために嘆いた、と言ったとき〔Il. XIX, 282〕。次いで、少し後の箇所で、アプロディーテーに似ているだけでは不充分であるかのように、
すると云った と彼〔ホメーロス〕は謂っています 女神たちにも似た女が泣きながら。
〔Il. XIX, 286〕
さて、こういうことを〔ホメーロスが〕言っているので、貴女はその人をも憎み、その本を投げ出すのですか、それとも、彼に称讃の自由を与えるのですか。いや、これほど長い期間が与えてきたものを、たとえ貴女が与えなくても、その点で彼を責める人は誰もおらず、彼の似像を 24.20 敢えて鞭打とうとする者もおらず、詩句の各段に水平線で贋物の徴を付けようとする者もいないでしょう。
次に、あの人には、外国の女を、それも泣いている女を、黄金のアプロディーテーに似せることが赦されているのに、わたしはといえば、美しさを、これを聞いている貴女が我慢しないので、云わないために、輝かしくていつも微笑をたたえている(これこそ人間どもが有する神々との等しさ)をもった女性を、神々の似像に比較することができないのでしょうか。
25.1
さらに、アガメムノーンに関してご覧なさい。彼みずから神々はどれほどけちって、似像をいかに比例配分したかを。そうやって、彼〔アガメムノーン〕は、両眼と頭はゼウスに似ていると謂い、腰はアレースに、胸はポセイドーンに〔似ていると謂うのです〕。これほどの神々の似像に合わせて、人間を細切れに分割してね。そのうえさらにまた、ある人を、人間に禍なすアレースに等しいとか、各人を各様に謂うのです。プリアモスの子であるプリュギア人〔パリス〕を神とも見まごうとか〔Il. III, 16〕、ペーレウスの子〔アキッレウス〕をしばしば 25.10 神に等しい〔Il. I, 131〕というふうに。
しかし、女性の諸範型へと、わたしはもう一度戻りましょう。というのは、彼がこう言っているのを、もちろん貴女はお聞きでしょう、
〔ペーネロペーは〕アルテミスに、あるいはアプロディーテーに似て。
〔Od. XVII, 37(XIX, 54)〕
また、
〔ナウシカアーは〕アルテミスが嶺を下るように
〔Od. VI, 102〕
26.1
さらに〔ホメーロスは〕、人間どもそのものを神々に似せるばかりでなく、エウポルボスの髪をカリスたちに似せもする。それも、血に浸された〔髪〕を〔Il. XVII, 51〕。総じて、こういったことどもはあまりに多く、神々の似像によって飾られないような詩の部分はないほどなのです。ですから、あなたはそれらをぬぐい去るか、あるいはまた、等しいことの敢行をわたしたちにようにんするか、いずれかなされよ。このように、似像や類似のことは無答責であるので、ホメーロスは女神たちそのものを 26.10 より劣ったものらによって称讃することさえためらいませんでした。例えば、ヘーラーの眼を牝牛たちのそれに似せ〔譬え〕ました。別のある人〔ピンダロス〕は、アプロディーテーを「菫の眉」と謂いました〔Pindar. Fr. 307〕。いったい、ホメーロスの詩に少しも交わりのないひとでさえ、「薔薇の指した」女性を知らない人がいましょうか。
27.1
それでも、恰好に関する事柄は、ひとが神に似ていると言われても、まだしも穏当〔中庸〕です。しかし、どれほどの人たちが、神々の名称そのものを模倣したでしょうか。ディオニューシオスとか、ヘーパイスティオーンとか、ゼーノーンとか、ポセイドーニオスとか、ヘルメースとか呼ばれる人たちです。また、キュプロス人たちの王エウアゴラスの妻レートー、この女神は、ニオベーをそうしたように、彼女を石にすることができたのに、やはり怒りませんでした。しかしアイギュプトス人たちのことは省略しましょう。彼らこそはまさしく何びとにもまして 27.10 迷信深い人たちでしたが、やはり神々の名前を飽きるほど使用した人たちです。実際、彼らのほとんどたいていの〔名前〕は、天からくだってきたものなのです。
28.1
したがって、称讃に対して戦々恐々の情態になるというようなことは、貴女の務めではありません。というのは、この書物の中で、神性に対して何か過ちが犯されたのなら、貴女は、聞くことに何らかの責任があると考えるのでないかぎり、無答責であって、神々はわたしに報復なさるでしょうが、わたしより前に、ホメーロスや、他の詩人たちに報復なさってからのことです。しかしながら、いまだかつて、哲学者たちの最善のひとでさえ、人間は神の似像であると言ったかどで、報復されたことはないのです。
28.10
貴女に対して云うべきことをまだ数多く持っていますが、ここにいるポリュストラトスのためにやめましょう。さもなければ、述べられた事柄を彼は記憶することもできないでしょう。
28.12
ポリュストラトス
29.1
ぼくはわからないのだ、これ以上それが出来るかどうか、おお、リュキノス。というのは、長々と、それも、〔水時計の〕流れ出さされた水をすっかり超えて、君によって述べられたのだから。とはいえやはり、それを記憶するようやってみよう。そして、君の見るとおり、彼女に対しては耳をふさいで、ぼくはすでに退散させている。何か他の邪魔が入って、それの順序を混乱させ、そのため、観衆からシッシッと野次られるというようなことが、ぼくに起きないようにね。29.7
リュキノス
それは君自身の問題だよ、おお、ポリュストラトス、どうやって最善に演じるかは。ぼくとしては、いったん君に役割を引き渡したからには、今は邪魔せぬよう退くとしよう。けれども、判者たちの投票が触れられるあかつきには、ぼく自身もすぐに出席するとしよう。競技の結果がどのようなものか目にするために。
//END
2011.01.26. 訳了。
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